2019年12月27日金曜日

クリスマス・髪・労働

 クリスマスは平穏無事に過した。
 小学3年生のポルガは、サンタクロースの存在を少し疑いはじめた様子があったものの、なんとか今年も切り抜けた。たくさん本を読んで、親も知らないような知識を仕入れている一方で、サンタクロースが寝ている間にプレゼントを枕元に置いていくという荒唐無稽な話を信じることができてしまう、子どもというのは変な生き物だとしみじみと思う。
 クリスマスディナーのあとはケーキだったのだが、今年はなにしろ12月23日が休みではないし、そして24日は火曜日という、クリスマスを祝うにはあまりにも恵まれない日程であり、ケーキ作りにまったく参画することができなかった。もっとも誰が作っても同じといえば同じで、買ってきたスポンジに生クリームと苺をやる、いつものやつである。ただし毎年クリスマスは6号の上に5号を乗せた豪華なものを作っていたが、今年は6号だけにした。なぜか。学習したからである。わが家はこれから約1ヶ月の間に娘の誕生日がふたつ控えていて、年間スケジュールで考えればあまりにもバランスの悪いケーキラッシュに見舞われるのである。クリスマスはつい浮かれ、またなにより苺のショートケーキへの渇望感が強いので、これまで特大のものを作ってきたが、ここで満足いくほどケーキを堪能してしまうと、1月22日のポルガのときにはもう飽き飽きしていたりするので、今年は自制したというわけである。賢くなったことだ。
 ところでクリスマスケーキを前にして、「えーと、ここでなにするんだっけ?」と途方に暮れてしまったのだが、本当にこのときってどんなことをすればいいのだろうか。誕生日みたいに、「ハッピーバースデー」を唄って、ロウソクの火を吹き消し、クラッカーを鳴らす、という一連の流れがなにもない。あぐねた結果、子どもたちに「「あわてんぼうのサンタクロース」でも唄いなさい」と命じ、唄わせた。そうしたら「あわてんぼうのサンタクロース」というのは、物語仕立てのわりと長い歌で、途切れるタイミングがないため子どもたちは5番までしっかり唄った。素直に唄うなあ、と感心しつつ、(クリスマスイブに「あわてんぼうのサンタクロース」ってこれはこれでちょっと間違えている気もするが、じゃあこれはいつ唄うのがふさわしいのかよく分からない歌だな)などと思った。唄っているところは、ファルマンがタブレットで撮影したように見せかけて、操作ミスで撮れていなかった。大失態だと思った。「これも思い出」と本人だけがやけにいっていた。
 それから子どもたちが寝、しばらくして我々が寝つく直前に、今年も我々にサンタクロースが憑依し、抗うことのできない強い力で、音を立てないよう繊細な動作を取らされ、子どもたちのベッドにプレゼントの袋を置かされた。毎年この自分が自分でなくなる瞬間は緊張する。

 夏の帰省のすぐあと、ファルマンに散髪とヘアカラーを頼み、しかしそのとき使用したヘアカラー剤がすごくよくなかったせいで、髪を短くしたことと相俟って頭髪がやけに頼りない感じになって、しばらく哀しみに打ちひしがれながら暮したのだが、その半月後くらいに髪を黒くしたら悲愴感が払拭され、それからは安らかな心で過すことができていた。もとい、できている。それが9月のはじめで、そしてそろそろ12月が終わろうとしているので、4ヶ月間である。4ヶ月間、僕の頭髪は手つかず状態で、ひたすら安寧の時を過している。たぶん11月に入ったあたりからファルマンには散髪を勧められているのだが、「もう俺の散髪は8月に今年の打ち上げ会したから。今年はもうないから」と言い張って、逃げ続けた。逃げ続けた結果、どうやらこのままめでたく年を越せそうだ。
 4ヶ月間伸ばし続けているとなると、もちろんだいぶ長い。結ぼうと思えば結べるほどである。しかしさすがに結んで外には出ていない。ほどほどの長さのを無理やり結んでも仕方ない。結ぶならきちんとポニーテールができるくらいの長さで結びたい。ただし12月に入ってから、横の広がりを抑えるためにヘアピンは使いはじめている。黒いヘアピンなので、誰にも指摘されたことはないけど(そもそも誰も僕のことなんか見ていない)。
 当人としては、年明け後もまだまだ切るつもりはない。ファルマンはそろそろ焦れてきていて、頻りに散髪を持ちかけるのだが、僕は全力で拒むのだった。それで先日とうとう、「ピイガの卒園式までには切ってよ……」という大譲歩の言質を引き出すことに成功した。これにより1月2月も散髪からは免れられそうだし、これから2ヶ月間も伸ばせば、本当にちゃんと長い髪の人になって、「成立」をさせてしまえて、卒園式もそれで突っ走れるのではないかと青写真を描いている。

 本日で今年の労働が納まった。今年の労働はなんだかふわっとしていた。プライベートが充実していた、といえば聞こえはいい。しかし実際、去年までは一切なかった、労働後のプールや筋トレなんてものを始めたわけで、家と職場以外にそういう場所を持つことができたのはよかったんじゃないかなあと思っている。来年以降も、職場で急に気さくな人格が発動するはずもなく、淡々と労働の日々は続くのだろうと思う。続くならばなによりだ。とりあえず今年1年の労をねぎらいたい。「労をねぎらう」って、労がふたつ続くのだけど、用法として本当に正しいのだろうか。こんなの検索すればすぐに解決する気もするが、そういうことに限って検索しないんだよな。

2019年12月18日水曜日

遊戯・P線・元年

 先日、ピイガの幼稚園の生活発表会が催され、わざわざ有休を取って見にいった。
 生活発表会とはどんなものかというと、要するにお遊戯会だ。なぜお遊戯会といわないのだろうか。やっぱりあれか、桃色遊戯を連想するからか。しかし発表会の会場のドアには、しっかりと「遊戯室」と記されていた。よく分からない。
 内容は、歌とダンスと劇で、なかなか愉しめた。なぜなら我が子が出ていたからだ。そうでなければもちろんぐだぐだできつい。来賓などといって、保護者でもなんでもない教育関係者みたいなのが紹介され、運動会のときも思ったが、子や孫の出ていないこんなものを見なければいけないのって拷問だろうと思う。僕なら絶対寝る。なぜあいつらは寝ないのか。前日17時間くらい寝てきたんじゃないのか。
 あと園長が嫌な感じだった。僕の教師嫌い、学校嫌いの要素が具現化したような人物で、見たり声を聞いたりするだけで往時の気持ちを思い出し、とてもイライラした。卒園式もこの園長のもとでなされるのが嫌だな、と心の底から思った。その園長が、今回「ワンチーム」という言葉を多用していて、そのことにもとてもうんざりした。これまでラグビーに対して好意的な印象があったから気にしていなかったけど、考えてみたらそれは僕が好きな意味の言葉であるはずがなく、園長のおかげですっかり嫌いな言葉になった。それになにより気づいてしまった。「ワンチーム」って、ただの「チーム一丸」じゃないか。

 「G線上のあなたと私」が終わった。3ヶ月、愉しませてもらった。
 連続ドラマなので当然だが、はじめ婚約破棄されて職も失って、どん底状態だった主人公の波瑠は、話が進むにつれて尻上がりにハッピーになっていき、最後は大勢の仲間に祝福されながら中川大志とくっついて終わった。それはとても幸福なエンディングではあったのだけど、この3ヶ月で別にぜんぜん友達ができたりしていない僕は、なんだか忸怩たる気持ちになった。G線上には中川大志と波瑠がいたわけだけど、P線上には僕以外だれもいないらしい。P線上を動く点Pは、行けども行けども誰もいない、山之辺の過した30億年のような果てしない時空を延々とさまよい続けるのだ。ちなみに「G線上のあなたと私」は、別に友達を作ろうという話ではなく、ラブストーリーなので、これを観て友達ができて羨ましい云々なんて感想を持つ人間は、もうどんな話も素直に愉しめないだろうと思う。

 年賀状の印刷をした。いちど危篤状態になったプリンターは、ファルマンの懸命の看病(クリーニング)によって一命を取り留め、なんとかギリギリのクオリティーで今回の年賀状までは務めを果たすことができたのだった。しかし翌年はいよいよダメだろう。
 あと文面のデザインをしていて思ったが、「令和初の年賀状」ということが、世間的にも言われるわけだが、年賀状的にはそれは「令和2年」なわけで、元号の元年の年賀状というものは絶対に存在しないのだった。今回は生前退位だったのだから、本気で狙えばやれないこともなかったはずだが、しかし元日から新元号というのはやっぱりいろいろ大変か。元年の年賀状を生み出すためだけにするにはリスクが大きすぎる。もっとも、天然で「令和元年」と書いてしまう輩は少なからずいるんだろうと予測する。

2019年12月15日日曜日

プール・ナビ・ショーツ

 一家でプールへ行く。12月である。冬のレジャーの選択肢にプールが入るってすごいと思う。1年前では考えられなかった。もちろん空いていた。空いていたが、12月にプールに来ている人たちというのは、スイミングにちゃんと向き合っている人たちというか、「12月だけどプールに来ている人たち」なわけで、なかなかストイックな雰囲気があった。子連れは我々だけだった。とは言えフリースペースは設置されているのだから、物怖じせず使用した。ポルガは前回からさらに、まあまあ泳げるようになった。ピイガは相変わらず、プール中に響くような大声でしゃべりながら遊んでいた。プールって水が振動を吸収するので声が通らず、僕の話し声はファルマンに「えっ?」と3回聞き返されたりするのだが、ピイガの声はなんであんなに響くのだろうか。ちなみにプールはもちろん温水ながら、それでもやっぱりなかなかに寒く(なんといっても更衣室からプールへの通路が寒い)、泳ぎ終えて着替えたあとも、なるべくしっかりと髪を乾かしたのだが、どうしたって寒かった。やはり微妙に無理があるかな、冬プール。ストイックに運動して体が温まるならまだしも。早く暖かくなってほしい。屋外プールが恋しい。

 島根時代に買った後付のカーナビが、データの更新のできないやつで、表示と実態が食い違う場面が散見されるようになり、そもそももう7年近く使っているので、機械として寿命が近づいてきていて、「新しいのを買わなければいけないかねえ」と話していた。もうかれこれ2年くらい、話していた。そんな折、グーグルのナビ機能が便利らしいという話をファルマンが聞きつけ、初めて行く場所に行くとき、使ってみた。そうしたら本当に便利だった。自車の位置とか、こっちのルートなら何分早いとか、渋滞情報とか、こまごまと世話してくれる。こんなのもうカーナビ買う必要まったくないじゃん、となった(業界が心配になる)。
 しかし渋滞情報まで出るってどういう仕組みだろうと考え、そんな誰もがグーグルのナビを起動させて走っているわけでもあるまい、と思ったのだが、別にナビを起動させなくても、端末の位置情報がオンになっていれば、それの乗った車がスムーズに移動できているか、あるいは滞っているかは、秒単位で情報が集約されるわけだ、と気づいた。すごい世の中だ。とんでもない世の中だ。
 そのことに生理的な恐怖を感じつつも、微妙な心境の変化も起った。これまで僕は、タブレットの位置情報は基本的にオフにして使っていたのだけど、自分が必要なときだけグーグルのナビを利用する一方で、そうでないときには情報の提供を拒絶することは、自分勝手な行為なのではないかと思うようになった。美徳というのだろうか。自治会の持ち回りの掃除当番のような、本気で拒めば免除されなくもないが代わりに大事なものを失う、というような、そんな心の作用がここには存在していると思った。つまり発展した情報化社会は、すなわちグローバルな自治会化ということなのかもしれない。だとしたらずいぶん息の詰まる社会だな。まあ実際そうだけど。

 女の子のショーツの、脇の部分が細いのが好みだ。
 考えてみたら不思議な話だ。女性器とか、尻とか、女の子の股間にはいろいろと見たい部分があって、その中で脇の部分はどんなに細くても、それで見えて嬉しいものというのは特にないのだ。なのに脇の部分は絶対的に細いほうがいい。前にエロ小説の作家がインタビューで、セックスは結局のところ、男性器が女性器に入るだけのことだから、そう変わり映えするものではない、だから差異をつけるためには、どういう男の男性器が、どういう女の女性器に入るか、という部分に凝らなければならない、といっていたが、フロントやバックではなく、脇の部分にこだわりたいというのは、つまりそういうことなのかもしれない。ショーツの神髄は脇。これはショーツ界で20年くらい修行して到達できる境地といわれている(可能性がなくもない)。
 ショーツの脇の細さといえば、思い浮かぶのはビーチバレーのことだ。浅尾美和のおかげで一時期みんな注目したビーチバレー。女子ビーチバレーにはかつて、ユニフォームのビキニのショーツの脇の幅は7センチ以下でなければならない、という規則があったという。「規則」という、ちょっと嫌なイメージのある言葉で、これ以上に幸福な内容を僕はほかに知らない。規則でエロが定められているのだ。エロくないとルール違反なのだ。夢物語だ。あるいは宇佐木学園だ。残念ながら現在はさまざまな事情により撤廃されてしまったらしいが(それはそうだろ、とも思う)、しかしこんな素敵な言い伝えが残っている。「ビーチバレーは、強い選手ほど水着が小さい」。どこか「実るほど頭を垂れる稲穂かな」に通じる、徳を諭すような雰囲気さえ漂う。ビーチバレー協会、あるいは業界の、執念を感じる。とにかく、とにかく女の子に、ほぼ裸同然の姿で、動き回ってほしいのだ。これにより、なかなか成績の出ない選手には、「ちょっと水着が大きいんじゃないか」という指導をすることが可能となる。でも実際、水着が小さければ小さいほど、スポンサーがつきやすくなり、強くなれるのではないかとも思う。もしも僕がスポンサーの立場であれば、細い細いショーツの脇に、小さく小さく企業名を入れたい。小さければ小さいほどいい。宣伝効果はばっちりだと思う。

2019年12月12日木曜日

割烹着・今年の漢字(全体)・今年の漢字(ティーン)

 この時期になると朝晩が寒くなり、パジャマの上になにか羽織る必要があり、この10年ほど1着のユニクロのフリースをずっと着ていたのだけど、なぜか今年それが衣替えでサルベージされず、ファルマンに訊ねたら「そう言えばなかった」と無碍にいわれる。なかったってなんだ、ユニクロのフリースは作物か、芋の類か、と思うが口には出さない。「去年の最後、捨てたんじゃなかったっけ」とファルマンは続けていい、そういわれるとそんな気もしてきた。ここ数年、袖のパイピングのほつれを縫ったりして着ていたのだ。そんな状態だったので、衣替えの際に冬物の箱には他の衣類と一緒に戻してもらえず、捨てたのだったか。もう7、8ヶ月も前のことなので覚えていない。
 ないとなると困る。「来年新しいのを買えばいいよ」と当時は気さくに捨てたのだろうが、案外ユニクロになんかそうそう行かないものだ。それでも寒さにあぐねて、仕方なく近所の激安衣料品店でどてらを買った。どてらというものを着るのは初めてだったので、なんとなくテンションが上がった。たぶんコスプレ的な興奮だと思う。冬と言えばどてらだよ、正しいよ、などとご満悦だった。しかしいざ着てみると、重いし動きにくいし、見た目も「なんかぎょっとする」と不評で、ぜんぜんよくなかった。わずか数日で、押し入れに押し込む結果となってしまった。
 そんな折、ファルマンが割烹着を着る習慣というのを始め、そうですかそうですか、うちの女房は割烹着を着ますか、と和やかに眺めていたのだけど、どてらが失敗に終わって着るものがなくなってしまった僕を見かねて、ファルマンが洗い替えの1着を「これを着れば?」と貸してくれた。そして着てみた。そうしたらこれがすごくよかった。冬仕様の割烹着で、外側は吸水性のある綿素材なのだが、内側にフリースが使われていて、ずいぶんあたたかいのだ。そしてもちろん割烹着なので動きやすい。これだよ、と思った。
 なのでここ数日はなんか割烹着を着て過している。そして割烹着を着たまま、筋トレでダンベルプレスなどしている。我ながら得体の知れない生き物だと思う。

 本日、今年の漢字が発表された。「令」だという。令和だから「令」。まあオリンピックだから「金」になるくらい、忖度もへったくれもなく、良くも悪くも純然たる多数決で決定するものなので、だとしたら「令」ということになるだろう。モザイク部分を、薄目で見てなんとなく見えているようにするような感じで、思考において頭をそんな風にして1年を振り返ればじわっと浮かんでくる漢字、それが今年の1字だ。ちゃんと考えたらダメなのだ。ラジオ番組で、「ラグビーの桜と、桜を見る会で、今年は「桜」じゃないか」と言っていたが、それはちょっと考えすぎのパターン。うまいこと言おうとしたら外れるのだ。だから僕はもう予想することさえしないのだ。
 ちなみに「令」の令和以外の用例として、「避難命令」というのは、まあ災害が多かったから納得してやってもいい。しかし「法令改正」はないと思う。これは憲法改正のことをにおわせたくて(含ませたくて)いっているに違いないが、憲法と法令は似て非なるものであり、「令」という1字でいろいろ包括している風にするのは偽装行為といっていい。漢字一字の重み、意味合いの深さ、みたいなものが企画のテーマとしてあるので、どうしてもそういうことをしがちだが、2010年の「暑」で明らかに「熱」の用法も入れてしまった例など、すればするほど、逆に1字の限界を露呈してしまっている気がする。だからもう観念して、「今年の五七五」くらい、創作させるべきだと思う。そのくらい容量がなければ1年を表すのは無理がある。要するに、川柳だ。

 これも今年の漢字に関連するのだが、数日前にラジオで、小中学生に今年の漢字を訊ねた結果が発表された、という話をしていて、その内容に衝撃を受けた。
 結果は、3位が「令」と「楽」。「令」は全体のものと一緒だが、それと「楽」が並ぶのがいかにもティーンらしいと思う。今年の漢字を訊ねられて、「楽しかったから「楽」!」とてらいもなく答えるティーン。ま、眩しい……。
 2位は「新」。ちなみに全体のほうの2位も「新」だった。全体のほうは、元号が新しくなった、というほぼそれだけの意味だろうが、ティーンの「新」はそれに加え、なにしろあいつらは毎年、新入生だったり新2年、新3年だったり、新部長、新会長だったりするので、生活に「新」が横溢しているのだ。ま、眩しい……。
 しかしなんといっても1位だ。3位に「令」が出てしまっているので、1位は別のものなのだ。なんだったと思いますか。ショックを受けますよ。いいですか。いいますよ。1位は……「恋」だそうだ。もう「カハッ……!」と血を吐くくらいの衝撃。新元号とか、災害とか、ラグビーとか、そんなのぜんぜん関係ないのだ。僕たち、私たちにとって、この1年を漢字1字で表すとしたら、そんなの「恋」っきゃないのだ。だってずっと好きな人のことを考えて生きてたもん! 好きな人のことでいつも頭ん中いっぱいだったもん! もん! もん! 悶々!
 なんだかティーンの凄まじさというものを、まざまざと見せつけられた気がする。ティーンとは、こんなにも凄まじい存在だったか。なるほどこれだからセカイ系の物語というのはティーンに支持されるのか、としみじみと納得した。
 しかしいいなあ、「恋」。「あなたにとって今年の漢字は?」と訊ねられ、「恋」と答える。そんな素敵なことってない。僕もそうしよう。今年のニュースを振り返ってうまいこといおうとするとか、いかにも薄汚い大人のやりそうなことだ。そんなのぜんぜんおもしろくない。この問いかけの正解はいつだって「恋」だったのだ。ただし30代の所帯持ちがいう「恋」は、途端になんだか不穏な空気を纏う。く、悔しい……。

2019年12月3日火曜日

流行語・時代・生まれ変わり

 ユーキャンのほうの流行語大賞が発表になる。大賞は大方の予想通り「ONE TEAM」だった。しかし受賞式にラグビー日本代表の選手たちが現れないのは意外だった。わりとサクサクとバラエティー番組に出ているので、けっこう気軽な人たちなのだと思っていた。賞を受け取ったのはラグビー協会の会長だという、初見のおっさんで、なんかこの形になるまでに各所でいろんな話し合いが持たれたのだろうなあ、と思った。僕がノミネート語発表の際の記事で唱えた、去年の大賞でカーリングの選手たちが登壇したので、2年連続でスポーツチームの面々というのはいかがなものか、という面も考慮されただろうか。されるはずないわな。本当に流行語大賞に選ばれた言葉というのは、ギャグに限らず、1年できれいさっぱり忘れ去られるものだ。もう誰も「そだねー」なんて覚えていないし、さらに言えばカーリングという競技そのものもすっかり忘れただろう。そして1年後には、もうラグビーなんてスポーツは誰の頭の片隅にもなくなっているはずだ。
 それにしても大賞のラグビーがそんなだったし、渋野日向子も現れず、「令和」で菅官房長官が来ることもなく、今年は芸人のギャグはノミネートがそもそもなく、「闇営業」で受賞をしたのは宮迫でも入江でもなくFRIDAYの編集長で、選考委員特別賞というけったいな扱いとなったイチローも来るはずがなく、登壇した面々の中でかろうじていちばん喋れそうなのが練馬のスーパーの社長というのは、なかなかどうしようもない受賞式だと思った。来年は芸人のギャグが流行るといいよね。できればコウテイの「ズィーヤ!」がいいな。

 車に自動ブレーキ機能を付けるのが義務化されるらしい。新しく買う車はもちろんのこと、既存の車にも後付けすることになるらしい。詳しくは知らないけど。
 そのニュースを知って思ったのは、「それまでの時代」と「これからの時代」のことだ。これからの時代、日本で販売されるすべての車に自動ブレーキ機能が付くのだとしたら、わりとすぐに、車はいざというときには自動でブレーキが掛かるもの、という認識になることだろう。そしてそれが普通になった世界で、人々はそれまでの時代の無茶苦茶さに驚愕する。「なんと、かつて車には自動ブレーキ機能がなかったんです!」「ええーー!?」という会話が繰り広げられる。そのため老人の運転する車が事故を起しまくり、ずいぶんな数の人が命を落としたというエピソードを聞いて、「む、昔のやること……」となる。我々はそんな風に、麻酔せずに外科手術が行なわれていた、みたいな時代と、同列に扱われる時代に、これまで生きていたのだ。前に読んだエッセイで、「飛行機に乗客全員分のパラシュートを搭載していないのが信じられない。きっと未来人はそれを知って大いに笑うはずだ」という文があった。これはそれだ。

 ピイガがポルガに、
「脳ってなに?」
 と訊ね(その質問もどういうことだ、という話だが)、それに対してポルガは、
「全てであり、無である」
 と答えたらしい。
 台所に立つファルマンが、そのやりとりを目撃したのだった。
 うちの子はいったいなんの生まれ変わりなのだろうか。

2019年11月29日金曜日

歌集・どうということもない・愛

 Twitterの影響で短歌熱が高まっていて、図書館で短歌関連の本を借りて読んだりしている。短歌関連の本というのは、著者の短歌についての語りの中で、前後1行空きで短歌が次々に引用される、そういうよくあるタイプの本のことだ。その中の歌で、なるほどこれはいいな、と感じるものがあり、作者の名前で検索したら図書館にその人の歌集があったので、それも借りて読んだ。読んだらほとんどおもしろくなかった。あの本で紹介されていた歌しかよくなかった。それ以外は本当にどうでもいい歌ばかりだった。ファルマンに訊ねたら、歌集なんて得てしてそういうものらしい。たぶんひとりの作者による、本当の意味での名歌って、何十年もかけても、10首くらいに収まるんだと思う。でもそれだとあまりにも創作活動として成立しないから、作者も、編集者も、評論家も、読者も、全員が「しょうがない。そういうもんだ」と受け入れ、全体の95%はどうでもいい歌で埋まった歌集を作るしかないのだと思う。ということを、ほぼ初めてくらいに読んだ歌集で感じた。

 先月の何日だったかに、ファルマンの下の妹が誕生日を迎え、30歳になった。それ自体は別にどうということもない話なのだが、と言うか、いまから言おうとしている話も実にどうということもない話ではあるのだけど、この西暦の下一桁が9の年の、10月某日から、西暦の下一桁が0の年の、1月9日までの、この3ヶ月弱というのは、僕と姉の姉弟、ファルマン家の3姉妹が、みな同じ年代(今回で言うなら30代)に入っている、稀有な期間なのである。姉が1980年代のほぼ幕開け、80年の1月9日に生まれ、三女が80年代のほぼ終幕、89年の10月に生まれているので、こういう現象が起る。だからいまは10年単位で考えたとき、ちょっと特別な3ヶ月の中に我々はいる。ほら、どうということもない話だったろう。それにしても姉は近々40歳なのか。いい歳だな

 「G線上のあなたと私」で、波瑠と中川大志はやっぱり両想いになりつつあるのだが、これまで中川大志が一方的に好意を寄せていたバイオリンの先生が、くじけそうになっているという知らせを受けて、波瑠は中川大志に、「行って慰めてやれ」ということを言う。「そんなことしたら、ふたりがせっかく両想いになりつつあるのに、中川大志と先生の間に男女の感情が芽生えてしまうではないか」と松下由樹は止めるのだが、それに対して波瑠はこう言う。「これは人間愛だから」。それを観ていて、ああそうだな、と思った。このドラマを観ていて、僕にも20歳前後の女の子の友達ができるかもしれないと思ったし、その子たちと僕は愉しく4Pとかするだろうとも思った。今年のco大(cozy ripple名言・流行語大賞)のノミネート語にもなった、『フレンドシップイズカインドオブリビドー』を生んだこの考えは、そうだ、要するに人間愛とも言い換えられる。友情も、性欲も、俺自身も、すべては愛なのだ。愛が、万物の最小の単位で、その量によって友情という姿になったり、性欲という姿になったりするのだ。じゃあ僕は愛の錬金術師になりたい。愛を司りたい。求めるすべての者の心の焚火に愛をくべてやりたい。

2019年11月24日日曜日

今年も感謝・サンタ・チントレ

 かくして今年もcozy ripple名言・流行語大賞とパピロウヌーボが終わる。この本番までの準備、そしてやり終えたあとの虚脱感は、そのまま祭りのそれだな、と思う。地元の祭りとかに参加しない男として生きて死んでいくらしい今生だけど、僕にとってはこれが1年にいちどの収穫祭、豊年祭なんだろう。そういった祭りの本分というのは、恵みを下さった神様への御礼では実はなくて、地域の人々の結束の強化であるはずで、だとすれば僕のこの祭りはその要件を満たしていないような気がするが、僕の個人的な部分内での結束が、年を重ねるごとに強化されているのは間違いないので、これはこれでありだということにしたい。ちなみに個人的な部分内での結束は、強化されれば強化されるほど、他者である地域の人々との結束の強化を阻害することは、言うまでもない。
 個々の内容について言及すると、大賞のほうは記事のデザインがいい感じにできた。1年間の、普段の記事の中でさらっと出てきた言葉が、このセレモニーの日だけはタキシードやドレスで登場、という感じがわりと出せたんじゃないかと思う。あとプレゼンターが宮迫というのもよかった。ユーキャンの流行語大賞の候補語に、何年ぶりかに芸人のギャグがエントリーされなかったという今年、プレゼンターを誰にすればいいのかずいぶん悩み、一時期はイチローにしようと考え、しかしイチローって別にこれという決め台詞があるわけではないので、どうにもおもしろく書けなくて、困った末にファルマンに相談したら、「宮迫にすれば」と即答され、おかげで救われた。
 パピロウヌーボのほうは、ゲストを誰にするか、去年は難産だったのだけど、今年はもう2ヶ月前くらいからMAXで確定していて、スケジュールもしっかり押さえていたわけだが、いざ蓋を開けてみたら、MAXでどう盛り上げたらいいのかさっぱりイメージが浮かばず、だいぶ困った。まあある意味それこそMAXのMAXらしい部分だとも言えるが、MAXって、なんかすごく「ない」のだ。MAXに本当に魅力がないのか、こちらがMAXへの興味がないのか、それは判断がつかないが、なんかMAXは胃下垂の人がろくに栄養を吸収せずに排泄まで行ってしまうがごとく、こちらに引っ掛かりをもたらさない。そのためぜんぜん会話も弾まず、往生した。そんな今回のピンチを救ったのは、ひとえに優香の妊娠だ。プロ角による優香の旦那のちりとてちんイジリは前々からやっていたので、その朝ドラのタイトルと、今年の大賞語である「わからんちんぽこどもとっちめちんぽこ」が交わったのは、本当に奇蹟的な僥倖だった。長年やっていると、こういう「期せずして伏線になってた」的なことが起ったりして愉しい。ちなみに最後に「第一部・完」とあるが、これはもちろんノミネート語にそれがあったために使用しただけで、来年からパピロウヌーボが、パピロウヌーボ2になったり、キャサリン三世になったり、ということはないので安心してほしい。
 やあとにかく終わった。すっきりした。次は1週間後のパピ労感謝の日だな。

 クリスマスまであと1ヶ月ということで、子どもたちにプレゼントの探りを入れている。ピイガはまだ素直に欲しいものを言ってくれるのだが、ポルガはいよいよサンタの存在を疑いはじめたようで、サンタが本当にいるのなら欲しいものを口に出さなくても勝手に分かって、それをくれるはずだ、などと言って口を割らなくなってしまった。なんて面倒臭いんだ。疑いはじめたきっかけは、どうせ小学校のクラスメイトがそういうことを言ってたんだろう、あの授業参観で見た阿呆な男子とかが、と思ったら、なんと読んでいた『ドラえもん』に、「お前まだサンタ信じてんのかよ」みたいな場面があったのだという。なんてこったよ。なにやってんだよ、F。それはやったらダメだろ。『サザエさん』もそれですごく怒られたじゃんかよ。「クリスマスの夜はビデオをセットしとく」などとも言っていて、あまりにも面倒臭いので、もう親が親としてプレゼントを渡すことにしたい、と思う。そしてそれはサンタが本当はいなかったということじゃない。サンタの存在を信じなくなったお前が、サンタを殺したんだよ。

 特に深い意味はないのだが、たまにアマゾンでペニストレーニングの器具なんかを眺めていると、ペニストレーニング器具というのは大抵が、陰茎を挟んだりくぐらせたりして使うもので、特に深い意味はないのだが、その使用感についてレビュー欄を確認してみると、そこには絶対に、世の中に絶対と言えることなんてそうそうないけど、これは絶対のこととして、「小さすぎる!」と文句を言っている人がいる。「こんな輪っかに通せる成人男性はいない」とまで彼らは言う。買って、使って、痛くて、「俺には小さすぎる」と文句を書き込む、これはそこまでがワンセットの、そういう体験を売る商品なのかもしれない。だから往々にしてそれらは小さく作られているのかもしれない。もしもそうでないのだとしたら、じゃあ彼らにペニストレーニングは必要ない。よかったじゃん。

2019年11月15日金曜日

流行語・田舎サウナ・外面

 cozy rippleじゃないほう、でおなじみの、ユーキャンの主催する流行語大賞の候補語が発表された。毎年のことだが、選考時期が被っている。ここ数日の満月を眺めながら、あいつも今頃がんばってんのかな、なんて思いを馳せつつ、僕も目下ピックアップ作業に励んでいる。
 というわけで30語である。
 今年はラグビー関連語が多くなっていて、たぶん大賞も「ONE TEAM」だし、授賞式にはリーチマイケルをはじめとして、何人か代表選手が登場するんだと思う。まあ、よろしいんじゃないでしょうか。しかしこうなってくると去年の「そだねー」でカーリングチームを呼んだのが、今年とのバランス(「2年連続でスポーツチームかよ」という印象)を考えると失敗だったな、と思えてくる。言ってもしょうがないけど。
 「後悔などあろうはずがありません」は、イチローという偉大な選手の引退ということで、どうしてもなんかひとつ入れたかったんだな、と捉えるのは、下級流行語大賞民の浅はかさで、僕のような上級流行語大賞民となると、これはイチロー関連語を入れたかったんじゃない、流行語大賞には必ずひとつ野球関連語を入れなければならないというルールがあるのでそれに従ったまでだ、ということがすぐに分かる。
 あとコメントすべきはなんだろう。「令和」は、そりゃあ人の口に上ったという意味では絶対的だけど、これを流行語とするなら、毎年の西暦だって流行語じゃないか、という気もする。あとは、「タピる」は大賞の同時受賞があり得る気がする。その場合はぜひ木下優樹菜に登壇してほしい。今年のタピオカの顔だから。

 労働終わりに温浴施設に寄り、サウナに入る。サウナって、「サウナづく」とけっこう心が奪われて、サウナ衝動がしばらく高まってしまう。
 今回立ち寄った施設は、とても地域密着の所で、僕はもちろん言うまでもなく部外者なのだが、僕以外の、風呂場からサウナ室に入ってくる人はみんな、中にいる人と「よう」「こんばんは」などと挨拶をしていた。い、田舎くさい……。そしてテレビがない所だったので、おっさんたちはおしゃべりに花を咲かせていた。話の内容は、イノシシが畑を荒らして困る、というもので、しかしもうすぐ猟の解禁日なので、そうなったら罠にかけて仕留めて、肉は食えるし、尻尾を持っていけば害獣駆除の賞金がもらえる、などと語らっていた。田舎くさいと言うか、もう田舎そのものだ。俺はすごい所に住んでいる……、と改めて思った。

 東京オリンピックのマラソンと競歩が、札幌で行なわれることになった。ちょっと前から言っているが、僕はもう東京オリンピックの話題には飽き飽きしていて、ただでさえ「くっだらねえ」「どうでもいい」と思っているところへ、さらにそんな話が出てきたので、いよいよ呆れ果てた。家にお客さんが来るときや、会社に偉い人が来るときなど、普段だらしない日常を一緒に過している家族や社員が、にわかに掃除をしたり態度を改めたりしてその場をやり過そうとすることってあるだろう。あれはあれで、共同体の意識が高まって、そう悪くないものだけど、なんだかオリンピックって、国単位でそういうことをするってことなんだな、と思いはじめた。それが世界の人々なんだかIOCの役員なんだか知らないが、やってくるそれのために、我々は普段だらしなく過しているくせに、そんなことありませんよ、立派にやってますよ、という張りぼての取り繕いをしている。国みたいなスケールでもそれをするんだな、国っていうのも案外せせこましいものなんだな、と今回のオリンピック狂騒を目の当たりにして知った。

2019年11月6日水曜日

松下由樹・中川大志・波瑠

 今期のドラマは、「G線上のあなたと私」を観ている。原作があることを知らなかったので、メインキャストのひとりに松下由樹を起用している点に、なんだか制作陣の気概のようなものを感じ、観てみようと思ったのだった。そうしたらちゃんとおもしろい当たりのドラマだったので、ファルマンと毎週愉しく観ている。話は、19歳の中川大志と、27歳の波瑠と、46歳の松下由樹が、バイオリン教室で一緒の授業を受けることになり、そこから友情が生まれ、それぞれの抱える問題や悩みを経て……、というもの(まだ5話なので経ている最中だ)。
 斯様にメイン3人のふり幅が大きいので、その分だけ多くの世代に訴求する要素があるだろうと思う。とは言え36歳男性の僕は微妙に半端で、この3人の誰に感情移入すればいいのか、という疑問はある。ちなみに大学生の中川大志と無職の波瑠はもちろん独身で、くっつきそうな気配がある。松下由樹は既婚で小学生の娘がいて、姑の介護問題を抱えている。その人間模様を冷静に眺めて、そして、えっ!? となる。えっ、俺、もしかして松下由樹? 松下由樹側の人間? ちょ待てよ!

 大学生の中川大志。同性ということもあり、なんならそこの気持ちに俺はなれるよ、と前週までは思って観ていたのだけど、こないだの土曜日、岡山大学の学園祭に行ったろう。そこでリアルの大学生を目の当たりにしたことによって、ああ、俺はやっぱり理人(中川大志の役名)じゃないんだ、ビジュアル的には中川大志に引けを取らないが、どうしたって大学生とはかけ離れた存在だ、ということを痛感してしまった。
 当日にファルマンとも話していたが、今から7年前、練馬から島根に移住する前の思い出巡りで、日芸の所沢校舎に行った際には、ここまでの隔絶は感じなかった。思えば当時まだポルガは赤ちゃんで、29歳と30歳の我々は、大学生に毛の生えたようなものだった。それが7年ぶりに大学生と向き合ってみたら、印象がまるで変ってしまった。大学生が変ったのではない(ファッションはだいぶ変った感じがあるが)。我々が変ったのだ。どうやら子どもが小学生に上がるあたりに、親にとって大きな通過点があるようだ。通過点というか、強制的なセーブポイントのような、そこを通ったら何かが世間的に認められる代わりに、もうその前の世界には戻れないよ、という、そういうものが。

 流行語大賞のための読み返しをしていたら、このブログの5月の記事に、「10年くらい前に高校生や大学生だった世代は実はそんなに驚異のデジタルネイティブ世代ではない」「さらにその下、いま20歳前後の世代、あいつらは本物」という内容があって、それをきっかけに上のふたつも含めて今回の記事を作成した次第である。だいたい8個下(波瑠)と、そのさらに8個下(中川大志)くらいの世代について、35歳の男が言っているわけで、だいぶ主観が入っているが、今回の学園祭でのリアル大学生目の当たりを経て、たしかになあと改めて思った。つまり世代というものは、15年くらいですっかり別物になるのかもしれない。じゃあ僕はなんとか波瑠の目線であのドラマを観てみようではないかと思う。来週は婚活パーティーでえなりかずきと出逢うようだが。

2019年10月29日火曜日

敗者・プリンタ・妹の夫

 ラグビーワールドカップで、日本代表は南アフリカに負けたのだけど、そうしたらそれ以降、「日本を負かした南アフリカ、絶対に優勝してくれよな!」というムードが生まれはじめていて、とても驚いている。これが僕には、どういう心理なのかさっぱり解らない。なぜ自分たちのチームを負かした憎たらしい相手が、そのあともずっと勝ち続け、いちどもぎゃふんと言わないまま終わるのを望むのか。俺たちでは負かせなかった代わりに、他のどこかのチームが負かして、そいつらが落ち込んでいる姿を見て、そこで初めて自分たちの負けの溜飲が下がる、それが自然な発想ではないのか。違うのか。そうファルマンに言ったら、「なんてさもしい考え方か」と呆れられた。じゃあいったい自分たちを負かした相手を応援する心理とはどういう仕組みなのかと訊ねたら、「相手がそのまま優勝したら、優勝チームに負けたんだからしょうがない、ってなるじゃない」という答えが返ってきて、なんかその考え方もだいぶせせこましくないか、と思った。

 この頃プリンタの調子が悪くなり、どうもいよいよダメらしい。カラーが特に悪く、時期的に年賀状のことが意識されはじめるので、代替わりの検討をしている。
 「USP」で確認したら、購入したのは2013年の4月ということで、6年半使ったことになる。半年間の過酷な蔵人生活のご褒美として買ったのだった。懐かしい。A3の、2段給紙カセットの、縦、横、高さ、すべてが巨大な複合機で、使う時期と使わない時期の波は大きかったが、総合的に見てまあまあ活用したんじゃないかと思う。特に子どもたちの誕生日にオリジナルの絵本などを作っていた時代は、A3である意義もちゃんとあって、本当に巨大なので設置場所には終始苦慮したが、しかしいい買い物だったと思う。
 でも次に買うのはA4でいい。絵本はもう作らないし、もしもなにか冊子のようなものを作りたいと思ったとしても、A4が印刷できればA5の冊子は作れるわけで、ならばそれでいい。小さくなって不便になるのは、実はプリンタよりもスキャナのような気がする。ソーイングの本を見開きでスキャンできるのは便利だった。これまでの複合機もスキャナ部分に異常はないのだが、ただのスキャナとして使うにはあまりにも大きい。これが単機能のスキャナだとするなら、実際にそんなものがあったのかは知らないが、黎明期のスキャナのようだ。上部の10センチだけ外れればいいのに。
 そんなわけでA4複合機を、物色するともなく物色しているが、購入者のレビューを見ると、プリンタというのはどの機種でも必ず「これはクズ。ハズレ」みたいなことを言っている人がいて悩ましい。でもその人たちの気持ちもなんとなく分かる。プリンタって、スムーズに使えないときのストレスが、他のどんな商品よりも強いと思う。なぜだろう。

 日曜日にファルマンの妹一家と中間地で落ち合って遊んだのだが、言い出しっぺはもちろん僕で、その連絡は僕と、妹の夫のLINEで取られたのだった。これまでならば僕からファルマン、ファルマンから妹、という感じで話が進み、姉妹で話をつけ、それぞれの夫たちは妻らに追従する、というパターンだったわけだが、せっかくLINEを交換したのだからと、このたび初めて彼とメッセージのやりとりをした。
 しかしそうしてメッセージのやりとり(2往復)をし、実際に対面して、彼と僕の仲が深まったかと言えば、ぜんぜんそんなことはなく、日曜日の遊んでいる間も、我々の間にほとんど会話はなかった。それぞれ自分以外の家族は女ばかりなので、こうして集えば、自然と男同士でつるむ感じになるのが、普通の情景のような気がするが、どうもそういう感じにならない。これでどちらかが、義父や、あるいは僕の姉の夫のような人間であれば、絶対にそうなっているはずである。妹の夫は、地元を愛し、仲間とフットサルなんかも嗜む、そっち側の人間の素養を十分に兼ね備えた人物のはずなのだが、いざ対面するとどうにもおとなしい。ぜんぜん義理の兄に胸襟を開かない。なぜか。もしかして義理の兄がよほど苦手なタイプだったりするのだろうか。まさかそんな。

2019年10月24日木曜日

賞・カレー・もとい

 もう半月くらい前の話題だが、ノーベル平和賞が発表になった。
 今年こそはパピロウ、(受賞)あるんじゃないか、とまことしやかに囁かれていたので、関係者と一緒にバーで待機していたのだけど、蓋を開けてみたらエチオピアの首相だった。やっぱりかー。そんな気はしていた。国際情勢を鑑みて、多分そうだろうな、というのは発表前から判っていた。判っていたのにみんなを集めたのは、結局のところ、大好きな仲間と一緒に酒を飲みたかっただけなのかもしれない(あいつらも俺の本心は解っていたに違いないけど)。受賞者の発表を受けて、我々はとてもすがすがしい気持ちで、アビィ・アハメドの勇気と愛に向けて乾杯した。
 賞つながりでもうひとつ、その数日後に、今度はベストジーニストが発表になり、ジャニーズのタレントがなんかしらの差配で定められた順番で殿堂入りする一般選出部門のほか、協議会選出部門も併せて発表され、今年の受賞者は出川哲朗、長谷川京子、E-girlsだった。いまさらベストジーニストのどうでもよさ、どうしようもなさについて語っても仕方がないのだが、それにしたってそのメンツはどうなんだ、という気がする。出川に関しては、もう既にピークは過ぎた感はあるがこの2年ほどブレイクしていたので、「出川哲朗がベストジーニストに選ばれた!」という触れ込みが、出川サイド、ベストジーニストサイド、両方にとってプラス、いわゆるwin-winの関係である気もするが、長谷川京子は本当にどうしたことなのか。なぜいま長谷川京子なのか。いま長谷川京子にベストジーニスト賞を与えることは、いまMAXのファンになるのに通じる、悪ふざけ感があるように思える。しかしwikipediaを見たら、「この枠」はなぜか、去年に長谷川潤、おととしに梨花、3年前に押切もえと、なんかしらの法則でも隠されているんじゃないかと勘繰りたくなる「なんとも言えないタイムラグ」で授賞を行なっているので、芸能界と広告代理店の深い闇を感じる。というよりベストジーニストにはそれしか感じない。
 もっともノーベル賞だってもちろん闇だ。闇の筆頭と言ってもいい。文学賞に至ってはレイプ疑惑まで湧出する始末で、やはり人の営みというのは結局のところ睾丸の意向が全てなのだな、と改めて思う。世界人類が平和になりますやうに。

 東須磨小の教師間でのいじめ事件が、ものすごくおもしろい。ラグビーワールドカップや台風被害など、このところ話題が多いために、どうしても扱いが本来の実力よりも小さくなっている感があるが、これは去年あんなに我々のことを愉しませてくれた日大アメフト部の悪質なタックル問題に、勝るとも劣らないおもしろ案件であると思う。教師間でのいじめで不登校(不出勤)というのがまずおもしろく、そして問題発覚を受けて加害者側の教師たちが有給休暇を取っている、というのも痛快である。しかしそれよりなによりよかったのは、やっぱり神戸市教育委員会による、カレー給食中止の決定だ。今回の事件で、激辛カレーを顔にこすりつけるいじめ行為の動画が拡散していることを受けて、教育委員会が話し合って出した結論が、カレー給食の中止。世間はこれに対し、怒ったり呆れたりしているようだが、僕は感動した。ここまで来れば感動するしかないじゃないか。そんな結論、普通は出せない。出ないのが普通だ。でも出たのだ。あまりにもすごい。だとすればこれは一種の奇蹟ではなかろうか。キリストが水をワインにしたように、我々はいま奇蹟を目の当たりにしているのだと思う。冗談じゃなく、これはそのくらいの出来事だと思う。もっと1ヶ月くらいこの話ばかりで盛り上がりたい。悪質なタックル大学に較べてこの事件がいまいちメジャーになりきれないのは、前述の通り話題が渋滞しているということに加えて、キャラクター不足が挙げられる。内田監督とか、被害者学生の父親とか、加害者学生とか、井上コーチとか、あの事件はいちいちキャラクターが立っていた(さすがは我が母校、と胸を張りたい)。だからそこが足りない。実名を暴け、と言いたいのではない。キャラに登場してもらいたいのだ。そして記者会見をするべきだし、その記者会見の司会者はやけに横柄であるべきだと思う。懐かしい……。あの頃、本当に愉しかったな……。

 1ヶ月前になったので、cozy ripple名言・流行語大賞のための読み返し作業を始めた。今年いったいどんなことがあったか、本当にあまりよく覚えていないので、とても新鮮な気持ちで1年前の日記を読み返している。あれは今年のことだったっけ、ずっと練習していたバトントワリングを、僕のこれまでの人生で好印象を抱いた全員を集めて披露し、みんなすごく褒めてくれて、僕は本当にしあわせな気持ちになって、思わず勃起して、なにしろ素っ裸で行なっていたので勃起はすぐにバレて、思わず照れたのは、あれは今年のことだったろうか。もとい、今生のことだったろうか。

2019年10月16日水曜日

犯罪・季題・アメフト

 慶応アメフト部。部員による合宿中の女風呂盗撮で活動無期限自粛。
 ひどい事件だと思いますよ。はい思います。被害者女性の心の傷。かわいそう。やった奴めっちゃ悪い。最低。許せない。このあたりでもういいですか。そういう観点、もちろんあります。ある上で、女風呂の盗撮という行為(由々しき犯罪ですよ)に対して、どうしても一定の微笑ましさを持ってしまう。駄目なのか。現代は女風呂の盗撮に対して、どこまでも冷酷に断罪しなければならないのか。別に「男子のそういう性欲って仕方ないからね」と、前時代的に、女子の権利を退け、男子を優遇するわけではない。この事件の加害者と被害者の性別が逆でも、僕はまったく同じことを思うだろう。「異性の裸、見たいよね。ベッドで恋人に見せてもらうとか、あるいはAVとかじゃなくて、素の状態の裸っていうものにもまた、格別の興味があるよね」と、理解を示す。もちろん、あくまで「理解を示す」である。許してあげようよ、と言っているのではない。やったことは紛れもない犯罪だ。でも犯人の学生のことを、性根が腐った人間のように扱うのはどうかと思う(もっとも動画を他人に送信して拡散したそうなので、そこのところは純粋に悪い)。この事件で思い出されるのは、稲村亜美による中学生野球大会でのホットパンツ始球式のことだ。性欲は、獣欲だから、どうしても暴走するときがある。それをなるべく暴走しないように努めるのが、獣ではない人間というものだが、しかし暴走してしまったからと言って、いちいちちんこをちょん切るわけにはいかないだろう。男性の性欲を憎むあなたたちは、そんなにちんこをちょん切りたいか。そんなにちんこをちょん切って、一体どうしたいのか。罪を憎んでちんこ憎まず。いや、こんなこと言うと、やっぱり男根至上主義みたいに取られてしまう。違うんだ。いや、そうだけど。

 季節が巡った。ようやくだ。今年は本当に遅かった。巡ったら巡ったで、早くも寒い。ちょうどいい期間が短い。と言うかほぼない。近ごろ本当にそうなってきている。もうこうなってくると、暦とか、それに合わせた季節の捉え方なんてものは、完全に瓦解したと言っていいと思う。10月でも冷房が入る。ススキはセイタカアワダチソウに駆逐される。サンマは獲れない。「ここからは暦の上では秋」とか、「それは秋の季語ではない」とか、とてもくだらない。そんなことに拘泥することは、滅亡した王朝の法律に従うようなものだと思う。もうそんな法律で新王国は動いていないのに。新王国は、学年題で法整備が進んでいるのに。

 慶大アメフト部の事件の報道では、必ずと言っていいほど「去年は日大で悪質なタックル問題があったアメフト部」というフレーズがついて回っていて、なんとも言えない気持ちになる。そもそも意図が判らない。これは日大イジりなのか、それともアメフトイジりなのか。「アメリカンフットボールをやってる奴らにろくな奴はいねえ」ということを言いたいのか、「大学アメフト部の起した事件と言えば、みんな大好き悪質なタックル大学こと日大(笑)」ということを言いたいのか。たぶん両方ともだろう。イジる対象は多ければ多いほど、そのぶん味わいが濃厚になるから。日大としてはとんだとばっちりであり、卒業生としては義憤に駆られる。もちろん嘘だ。むしろそれぞれの事件の内容からすれば、悪質なタックルよりも、女風呂の盗撮のほうに、仲間意識を感じる。僕はアメフトの試合に勝つために悪質なタックルをすることは、未来永劫絶対にないが、女風呂の盗撮は、7回ほど生まれ変わったら1、2度くらいはする気がする。だからなにが言いたいかと言うと、日大は許さなくていいけど、慶大は許してやればいいと思う。

2019年10月4日金曜日

渡鬼・ラグビー・グレタ

 今年も敬老の日にやった「渡る世間は鬼ばかり」のスペシャル。実は3年くらい前から観るようになっていて、毎年けっこう愉しんでいる。今年もビデオに録って観た。倍速で。お年寄り向けに作られているため、異様にゆっくりと、異様に同じ内容のことを喋るので、倍速でもやや遅いくらいなのである。たまに、「CM明けに倍速にするの忘れてた!」と勘違いして早送りボタンを押すと、既に倍速にしているためただの早送りになってしまうという現象が起ったりする。だから普通の放送で観たらかったるくてしょうがないだろうけど、倍速で観る限りはおもしろい。
 ここ数年のメインテーマは、五月(泉ピン子)のリタイア後の生きがい探しとなっており、息子(えなりかずき)の嫁と折合いの悪い五月は孫の世話をすることもできず、幸楽ではたびたび転んでは客にラーメンをぶちまけるので跡を継いだ娘夫婦から「もう働くな」と言われ、居場所のなくなった五月が、あちこちに漂流することで話が進んでいく。今回のスペシャルでは、「友達ってどうやったらできるんだろう……」と、どこかでさんざん聞いたことのあるような苦悩の果てに、スマホデビューしてYoutuberになっていた。ハチャメチャだ。そうしてとても愉快な1時間弱を過した(3時間スペシャルを倍速で観てCMを飛ばすのでたぶんそのくらい)。
 しかしその数日後、ヤフーニュースで橋田壽賀子(御年94歳!)が、泉ピン子とえなりかずきの不仲のことをぶっちゃけている記事を読み、ショックを受けた。不仲と言うか、えなりがピン子のことを一方的に拒否しているそうで、記事内で指摘されているように、たしかにこの3年間のスペシャルにおいて、ピン子とえなりの共演シーンというのはまるでないのである。ピン子は嫁のことなどが心配で、たびたび息子の職場に赴いたりもするのだけど(あまり現代にはない発想のように思える)、えなりはいつも忙しくて不在で、代わりに対応した上司が「お母さん心配しすぎですよ」と諭す、というのが定番の流れになっている。去年のスペシャルでは、えなりの嫁が夫の実家に嫌気を差し過ぎた挙句、金輪際もう縁を切りたい、みたいな申し出をし、最終的には姑と小姑にめっちゃ叱られてピン子に土下座で謝る、という地獄のような一幕があったのだが、そんなドロドロの展開の中でも、言われてみれば五月と眞は同じ場面には登場していなかった。そのことに思い至ったとき、ヒッと寒気を覚えた。フィクションであるドラマの内容がえげつないのに加えて、リアルの撮影現場でも、関係者の胃がしくしく痛むような、そんな悶着があっただなんて。
 いやー、おもしろい、渡鬼。来年の敬老の日が早くも愉しみ。ピン子とえなりが抱き合って和解するシーンがあったら泣いてしまうと思う。

 ラグビーのワールドカップがおもしろい。典型的なにわかのそれである。
 最初は試合を観ていても情趣が分からなかったが、次第に面白味が分かってきた。要するにラグビーという競技は、球をゴールへ持ってゆくためならなんでもしてやろう、というコンセプトのスポーツで、そのなんでもありな感じがおもしろいのだと思った。こっちの持ってゆくのがなんでもありなら、あっちの持ってゆかせないのもなんでもありで、そのぶつかり合いが愉しい。生で見たい。大学生の試合とかならどっかで観られるのかな。こんなに愉しい競技だと早くから知っていたら、僕も学生時代にやっていればよかった。そうしたら胸板は今の倍あっただろうと思うと残念でならない。

 10月に入ったのに暑い。最高気温が30度とかいう。阿呆か。そういうのは9月19日までで、20日からは秋めくというのが決まりだったはずじゃないか。
 ここだけの話なのだけど、俺はどうも数年ほど前から怪しいと思っていたのだけど、どうも地球の気温は全体的に上昇傾向にあるような気がしてならない。だって毎年、目に見えて夏の暑さが質的にも量的にも更新されている。8月でこんなに暑かったら12月はどうなってしまうのか、というジョークがあるけれど、夏の暑さは年々、最高気温にして0.5度、期間にして1週間くらい伸びている気がするので、20年後には最高気温は48度くらいになり、夏は12月までずれ込むと思う。
 このことは多分まだ世界で俺だけしか気づいていない。我々はもう大量絶滅の始まりにいるのに。それなのにみんなが話しているのは、お金のことと、経済発展がいつまでも続くというおとぎ話ばかり。恥ずかしくないんでしょうか!

2019年9月25日水曜日

不二子・チョコ・MD

 体重が増えない。春からの肉体改造で、身体は明らかに締まったのだけど、贅肉が落ちたのか筋肉がついたのか、判断に悩むところで、と言うか体重が3キロから4キロ落ちたことを考えれば、前者の要素のほうが大きいように思え、ならばここからは筋肉をつけるほうに励もうと、食べる量を意識的に増やしたりしているのだけど、いっかな増えない。これはなぜかと考えて、僕の「増やした食事量」は、一般男性のそれよりもまだ少ないからなんだろうと思った。一般男性って本当にやけに食べる。大盛りとかおかわりとかする。信じられない。どういう生き物かと思う。僕の増やした食事量の内訳は、夕飯のごはんをちゃんと盛るようにしたことと(それまでは半分くらいにしていた)、勤務中に鈴カステラをつまむようにしたことである。こんな涙ぐましい努力をしているのだから、ちゃんと筋肉がついてほしい。ちなみに167センチ、50キロというのは、峰不二子とまったく同じ数値らしい。ルッパァーン。もっとも向こうのバストは99,9センチらしいけども。

 1月と4月に誕生日がある妻子に対し、9月という僕の誕生日は、個人で苺を手に入れるのは不可能な時期で、そのため手作りの誕生日ケーキは、ほぼ毎年チョコレートのものになる。そしてそれはどうしたって白いクリームに赤い苺が乗っているものよりも地味なので、毎年若干の忸怩たる気持ちを抱いていた。しかし今年は茹だる夏が終わってのチョコレート欲求の高まりと誕生日祝いが、タイミング的にちょうど合致したようで、チョコレートケーキ以外ないような心持ちでそれを迎えられ、引け目を感じることがなかった。チョコで嬉しいと本当に思えた。苺の旬からは遠く離れた誕生日だけど、僕の誕生日というのはチョコレートの旬の時期なのだと見直した。

 グレタ・トゥーンベリさんの演説が話題となっている環境問題。国対国じゃなく、既得権益世代対次の世代という図式が新鮮だ。でも考えてみたらこの問題というのは、そもそもそう対立すべきだったのだ。おじさんとおじさんが議論しても始まらなかった。だっておじさんたちは50年後にはいないのだ。トランプ(73歳)なんてもっと早くいなくなる。よく考えたら怖い。73歳の人は、環境問題なんてマジでどうでもいいだろう。じゃあ最強じゃないか。そんなわけで世界中で若者たちが立ち上がり、デモなんかをしているそうで、若者すげえなあ、と思う。今回の問題の、おっさんvs若者の図式における、35歳~45歳くらいの、この宙ぶらりんな感じ。既得権益の恩恵に与ってない(それどころか搾取されてる)のに、次世代の当事者として積極的に怒るにはまあまあトウが立ってしまっている。なんか、ポジション的にすごくどうしようもない。我々はモーレツでもなければ、デジタルネイティブでもないのだ。とても久しぶりに「MD世代」という言葉を思い出した。ちょうど頭文字的にも具合がいい。無気力ではない・どうでもいいや、が原義だが、モーレツでもなければ・デジタルネイティブでもない、もここに加えよう。

2019年9月19日木曜日

十二・蹴伸び・旅路の果て

 ハリーポッターを読み終えて、次は十二国記だ、でもその前にちょっとエロ小説を補給しておきたい、という感じで推移していた僕の読書なのだけど、実は先週の3連休あたりからひっそりと、いよいよ十二国記に取り掛かりはじめた。そして今は「風の万里 黎明の空」を読んでいる。それのもう上巻が終わるところだ。読みはじめると、なんてったって十二国記なので、ぎらぎら読んでしまい、計画に狂いが生じてしまった。この再読を、そのまま10月に発売される新刊へとなだれ込ませるつもりだったのに、約1ヶ月後のそれよりも、この分だとはるかに早く既刊を読み終えてしまう。もういまさら止まれないのできっと最後まで読んでしまうが、けっきょく間が空く。再読の意味がない(ないことはない)。さらに言えば、新作は全4巻で、1・2巻は10月、3・4巻は11月刊行なのだそうで、だとすれば読むべきは4巻出揃った11月だということになり、ますます間が空く。完全に見誤った。でも再読おもろー。十二国記がグイン・サーガみたいに100巻くらいあればいいのに。

 夏の屋外プール時期が終わり、浮足立った季節に別れを告げて、1年中やっている、春先から行くようになった、いつもの温水プールに舞い戻っている。ここは通勤ルート内にあるので、なんてったって気軽である。定宿、という感じがする。ちなみに月会員にはなっていない。会員になると、元を取ろうとして、週に2回とか3回とか行くようになり、そうなると疲れが蓄積してあんまり泳げない、という本末転倒な事態になるため、1週間とか10日に1回、泳ぎたい欲求が高まったときに代金を払って思う存分に泳いだほうがいい、と気づいたからだ。それで先日、ちょっと久しぶりに行って、1キロくらい泳いだのだけど、これが思っていたより楽だった。これは肉体疲労が溜まってなかったこともあるが、やっていて気づいたのだけど、夏の間に行っていた50メートルプールと、こちらの25メートルプールだと、同じ1キロを泳いだとしても、前者では50メートルごと、後者では25メートルごとに壁から蹴伸びして進むため、腕を回してバタ足をして、という全身運動の泳ぎをしている長さは、実はだいぶ違うのだ。50メートルプールだと、50メートル中43メートルくらい泳ぐのに対し、25メートルプールの50メートルというのは、実質35メートルしか泳いでいない。そりゃあ楽なわけだ、と思った。

 明日は9月20日。1年早い。去年の「友だち0人・9月20日」からもう1年か。
 1年前に較べて、精神はとても落ち着いている。なにしろ去年はLINEを始めて最初の誕生日だったから、期待値が高かった。「LINE×誕生日=爆発的なお祝い」みたいなイメージがあった。勘違いだった。友だちの絶対数が少ないのに爆発が起るはずがない。起ったのは0の爆発という、哲学のような現象だった。
 今年はそれに加えて、「僕等は瞳を輝かせ、沢山の話をした」が、第一部終了宣言したまま5月から投稿がないことが示すように、これまでメンタル方面にしか向いていなかった自己愛が、折からの肉体改造によってフィジカル方面にも及んだことで、いよいよ自己愛が天井知らずに溢れ返っているため、もう他者なんて僕の世界にぜんぜん必要なくなり、だから誕生日の祝福を求める気持ちなんかも完全に雲散霧消した。雲散霧消してみれば、字の通りで、心は晴れ渡っている。とてもクリアで清々しい気持ちだ。そうか、友達とは、他者とは、雲であり、霧であったのかと、達観する。
 これまでの僕ならば、ここまで前フリをして、最後の一行で、「でもいちおう明日は会社にタブレットの充電器を持って行っとかないとな!」なんてことを書いたりしたのだろうけど、今年は本当に大丈夫。本当にジタバタする気持ちが起きない。誕生日は、僕のもの。愛しい僕を、愛しい僕が祝う、それだけのもの。ようやくたどりついた。

2019年9月10日火曜日

玉・♂♀・黒

 悟空さのドラゴンボールはふたつでも立派な神龍そそり立つだな
という短歌をTwitterで詠んだのだけど(ちなみにTwitter上では「そびえ立つ」だが、あとになって「そそり立つ」を思いついた。Twitterのいちどアップしたものは修正できないのって、潔くていいと思う)、原典の単行本を読んでいたら、最序盤、ブルマに半分騙されながら一緒にドラゴンボール集めの旅に出ることになった悟空が、寝ているブルマの股間に男性器がないことに驚き(悟空はそれまで女を見たことがなかったのである)、「タマがねえ!」と叫び、それを聞いて飛び起きたブルマが、慌てて持っているドラゴンボールを確認し、「ちゃんとあるじゃない」と安堵する、というシーンがあって、ドラゴンボールと金玉を掛けたジョークは、本人がとてつもなく早い段階でやっていたのかよ、と驚いた。驚いたけど、ドラゴンボールの序盤はブルマと亀仙人とウーロンあたりを中心に、ちょいエロ路線がけっこう散見されるので、だとすればそこを掛けないはずもないのだった。そのあと読み進めたら、悟空たちが持っているはずのドラゴンボールが見つからなくて探すピラフ一味の、あの手下の女が、「あの男のマタのあいだにあったりして……」とも言っていた。予想以上に鳥山明は金玉をいじりまくっていた。

 ♂と♀の記号を、長年取り違えていたことに気づいた。いまどきあまり正式な場では使われないもののような気がするので、取り違えていても問題が起らなかった。
 なぜ誤解していたのかと言えば、そもそも僕は♂を、♀と同じように丸が上、矢印が下向きという角度で(なぜか)捉えていて、だからその矢印の部分を、女性器の割れ目を表しているとばかり思っていたのである。そして♀の、プラスみたいな部分は、陰嚢と陰茎を表していると、信じて疑わなかった。それで、なかなか洗練された象形文字だなあと思っていた。まったくの見当違いだし、そもそも逆である。
 逆らしい、ということが分かってからも、別に象形文字でもなんでもない、という知識は同時には入ってこなかったため、それはそれで自分の中で折合いをつけた。♀の、プラス部分は、じゃあ子宮の形なのだな、と思ったし、♂(これの正しい角度もようやく認識した)の、矢印は、言われてみればちんこ以外の何物でもないな、しかしだとしたらなかなか元気のいい角度だな、と思った。
 実際は、♂は火星、♀は金星を表す占星術記号だという。だという、と言ったが、ぜんぜん説明になってないので、右から左に通り抜けてしまうタイプの知識だ。それよりかは、子宮と勃起のほうが理解しやすい。勃起を矢印で表すのは小粋だと思う。

 髪を黒くする。
 夏休みの終わりにやったヘアカラーが、色合いの売り文句につられて、いつもと違うメーカーのものを使ったら、いつものよりもちょっと高かったにも関わらず、どうにも最悪で、色はほとんど変わらなかったし、どちらかと言えばまだらになったし(作業してくれたファルマンによると、とても使いづらかったらしい)、なにより髪が傷んだ。同時に髪を短くしていたこともあり、なんかすっかり頭髪に関して気持ちがしょげて、この1ヶ月ほどを過していた。そんな折に、デジカメで撮った写真をセレクトして現像に出す、1年半にいちどくらいする作業をこのところファルマンが行なっていて、それで選ばれたものを眺めていたら、1年半くらい前の僕は髪が黒くて、そしてそれが、案外いい感じだったのである。それを見ていたら、結局また単なる傷んだ茶髪でしかなくなった今の髪が、急激によろしくないもののように思えてきて、それですぐに黒髪戻しを買って帰った。そしてやってもらった。結果、我ながらすごくよくなった。これまで、髪は短くなるし色もしょぼくれてるしで、頭部にだいぶ悲愴感があったのだが、それが一気に払拭された。パリッとした黒髪になったことで、ボリュームも出た。よかった。ああよかった。もう当分はこれでいこう。黒髪に染めたものはカラーリングできないらしいし。そして1年くらいしたら、めっちゃすごいブリーチをしよう。

2019年9月5日木曜日

ドラゴンボール・石田ゆり子・男根

 なんとなくはじめたドラゴンボール短歌がことのほか愉しいこともあり、やっぱりドラゴンボールの単行本が手元にあるといいな、という機運がにわかに高まり、ネットの古本屋でぽつぽつと集めていくことにした。それで最初の数巻を手に入れて読んだ結果、あることに気づいた。
 それは、鳥山明は「修行=重いものに耐えること」だと思っている節がある、ということだ。既に先のほうの巻を読んでいるので知っているが、悟空はこれから、重たい道着を着たり、重力の強い環境に身を置いたりする。すると、それから解放されたとき、めっちゃ強くなっているという寸法である。それらのエピソードは有名なので覚えていたが、今回はじめのほうを読んだところ、亀仙人による修行においても、重たい亀の甲羅を背負っていた。そして、修行の内容というのはほぼそれだけなのだった。そのまま天下一武道会に出場することになった悟空とクリリンは、「ほとんど修行をつけてもらってないのに……」と不安がるが、やってみたら桁違いに強くなっていたのだった。なぜか。それは重いものに耐えていたからだ。本当にそれだけなのだ。「ギャグマンガ日和」の、強さのインフレをテーマにした漫画で、主人公がどんどん化け物じみた(外見的にも)強さになっていき、その秘訣を訊かれたところ、「飲尿法」と答えるというのがあったが、あれはそのままドラゴンボールだったんだな。鳥山明は重いものを持つトレーニングに、ちょっと幻想を抱きすぎているのではないかと思った。

 石田ゆり子のインスタが炎上した一件にとても感銘を受けた。
 石田ゆり子はインタビューを受ける際、インタビュアーが彼女のインスタグラムで予習をして、その流れに乗った問答をするのが、おもしろみがなくて嫌だ、みたいなことを書いたらしい。それで炎上して、記事を削除した。ここまでならごく普通の出来事(炎上という出来事が普通であるというのは異常である)なのだけど、この一件はここからがよかった。当該記事を削除したものの、釈然としない気持ちを抱えていた石田ゆり子は、新たに自分の考えを主張するための記事を書いたのである。そこには、インタビューは人と人の出会いなので、その場その場で生まれた感情でやりとりをしたいと考えている、みたいなことが書かれていたそうで、そのことは別に、そもそも僕とは無関係なのでどうでもいいのだが、そのあと今回の炎上についても触れ、その中にあった「記者の人がかわいそう」というコメントに対して、石田ゆり子はこう言ったのだ。
 勝手に物語を作りすぎ。
 これがとてもすばらしいと思った。この切れ味。ネット界の、当事者でもなんでもないくせに、「〇〇がかわいそう」という理由でバッシングをする輩を、いったいどう懲らしめればいいのか、ずっと名案が浮かばないでいたけれど、こう言えばよかったのだ。本当にそうだ。これが「おまえ関係ないだろ」とか「余計なお世話だ」では、この場合で言うと、記者が哀しがるのは事実だとして話が進んでしまう。そうではない。哀しがっている記者なんて、別にいやしないのだ。それは彼らの心の中にだけいて、それはつまり哀しがっている記者を生んだのは彼ら自身だ、ということなのだ。
 言ったのが石田ゆり子、というのがまたいい。炎上上等だぜ、みたいなB級タレントが言ったのではない。石田ゆり子が言ったのだ。インターネットの世界に毒されていない(たぶん)石田ゆり子が、まともな頭で、彼らを見てそう思ったのだ。この透き通るようなまっとうさに、心が浄化されるような感動を覚えた。

 実社会でほとんど人と話さず、ましてや雑談などは皆無と言ってよく、それでいてインターネットではこうしてべらべらと、言いたいことを言いたいように言っているため、だんだん一般的な感覚というのがぼやけてくるのだけど、ときに「男根」という表現は、日常生活で普通に使っていいものだったっけ、よくないものだったっけ。「肉棒」はダメ、官能小説の言い回しだ、という感覚はまだ失っていないのだけど、「男根」はどうも怪しいのである。本当に判断がつかない。「男根崇拝」と、民俗学などで用いられたりする気がするので(ちゃんと学んだわけではないが)、けっこう一般的な言葉のような気もするのだけど、その一方で一般的な場面で「男根」と言っている人を見たことはない。くだけた場面では「ちんこ」とか「おちんちん」とか、あるいは『俺と涼花』では「ちんぽこ」とか、そう呼ぶとして、それでは格式張った場面ではどう呼ぶのだったっけと思い出してみると、やっぱりそれは「男根」であったような気もしてきて、「男性器」と「男根」が半々くらいの割合で使われていたんじゃないかな、と思えてくる。実際のところ、どうだったろう。

2019年8月29日木曜日

内輪・かわいや・命綱なし

 オリンピックの話題にいよいよ飽きた、ということを「おこめとおふろ」に書いたが、あの世界のどの部分にクサクサしているのかと言えば、代表選考の大会などでいい結果を出した選手たちが口にする、周囲の人たちへの感謝の言葉だ。あれがすごくつまらない。それはいまどき、設備とか指導とか、大勢のプロフェッショナルに面倒を見てもらわなければ、選手個人の才能だけでは頂点に至ることは難しいんだろうと思う。でも我々はそんな部分にまで思いを馳せようとは思わない。この選手すげえ、までが精一杯だ。この選手を支えた周りの人たちすげえ、なんて思う心の余分はどこにもない。だから優勝のインタビューなどでは、選手は世間一般の人々と一対一で向き合い、そこへ向けたことしか言わないでほしい。サポートしてくれた人たちへの言葉は、優勝報告のパーティーとかでしてほしい。あれは本来そういう内輪の場で言うべきことだろう。内輪ウケする話を聞かされても、外部の一般人はぜんぜんおもしろくない。どんどん冷める。そして完全に冷めきった状態にあるのが今の僕だ。もはや来年開催されるのは五輪ではない、内輪ではないかとさえ思えてきた。うまい。

 Twitter、はじめてみたらそれなりに愉しい。Twitterの何が嫌って、自分のページのはずなのに人のツイートがおんなじように並んでぐちゃぐちゃするのが嫌だよ、と思っていたが、あれってフォローとかリツイートとか、なんかそういうことをしないと別にそうはならないのだと、やってみてはじめて知った。それならいい。
 それにしてもパピロウがTwitter。思えばタブレットを持ってLINEもはじめたし、やる前さんざん唾棄しておきながら、僕はなんだかんだでやりはじめるんじゃないか。かわいいな。受け入れるまでに時間がかかるだけで、つまり流行に敏くないだけで、世間に遅れてやりはじめるんじゃないかよ。本当にかわいいな。

 先週末は、会社の上司が地元の祭りに参加し、同僚がフェスに繰り出し、妻が映画を観にいっていて、僕の狭い人間関係の中でちょうどそんなことが重なったので、思うところがあった。僕は祭りに参加しないし、フェスに繰り出さないし、映画も観にいかない。そもそも「興味・関心のあるイベント」というものが、この世にまるでないのだ。
 いいのか、とさすがにちょっと思った。もしかして僕は、とてつもなく無気力な、つまらない人間なのではないだろうか。誰かのファンということもないし、他人と喜びを共有したい気持ちもない。果たして大丈夫なのか。
 思わず不安になってファルマンに相談したら、「あなたは自分で自分を盛り上げられるんだからそれでいいんだ。他の人はそれができないから外の世界に頼るのだ」と諭され、なんとなく納得した。続けて「それはすごいことだよ」と褒められもしたのだけど、じゃあもしもどこかで自分自身がポキリと折れてしまったらば、僕はどこにも掴まることができず、そのまま奈落の底まで落ちるほかないのか、とも思った。

2019年8月21日水曜日

ハリーポッター読破・LINE・悖鬼

 ハリーポッターの死の秘宝を読み終える。上下を。つまり全7巻をとうとう読み切ったのだった。やあ読んだ。読んだな。6月中旬から読みはじめたので、2ヶ月。期せずしてまるまる夏である。2019年の夏は、ハリーポッターの夏だった(あと筋トレ)。実を言うと俺は1巻の時点で、ハリーはヴォルデモートを倒す、と予想していたので、それが見事に的中して嬉しい(ついでに言えばルフィは海賊王になると予想している)。最後のほうはどうしたってガーッと読む感じになり、もちろんおもしろいから読んでいるのだが、その一方で短い平日の夜の大部をハリーポッターに奪われることに対し、「はよ済ませたい」という思いも湧いた。マグルは身勝手で不自由なものだ。
 ハリーポッターが終わったら次は十二国記だ、ということを前に書いたが、上記の思いがあるため、ちょっとシリーズものに飛び込むことに身構える気持ちがあり、実際予定よりも早くハリーが読み終わったこともあり、今から十二国記を読み返すと最新刊の刊行に対してちょっと早すぎる気もするので、少し間を置くことにする。間を置いて、それではどうするかと言えば、とてもシンプルな気持ちで、エロ小説を読みたい。実はハリーの後半からその思いが高まっていた。この2ヶ月、エロじゃない小説を読み過ぎた。片寄ってしまった。バランスを取らないといけない。エロい小説を読みたい。女の子がすぐにおっぱいでちんこを挟んでくれる文章が読みたい。しみじみと。

 夏の帰省で、義父とLINEの登録をした。
 僕が向こうに行った日の夜、前夜に大山で行なった花火が少し残っているという話になり、それが手持ち花火ではなく噴き上げるあのタイプのやつだというので、じゃあ俺が両端にその花火を置いてバトンを回すからその写真を撮ってくれ、そしてそれをLINEの背景画像にするから、という提案をし、夕間暮れの土手で妻の実家の面々に写真や動画を撮ってもらうというくだりをして、その際に撮ったものを送ってもらうために、交換する(せざるを得ない)状況になって、した。ちなみにLINEの背景画像は、次女の撮影した写真を採用し、変更した。火花が舞い散る中、半笑いでバトンを回している写真で、期待以上にバカらしい仕上がりになったので嬉しい。
 それはそれとして、やっぱり令和になって以降(さらに言えば今年度に入って以降)、親類以外の相手とは未だいちどもLINEのやりとりがないのだった。もう季節は巡ろうとしている。たぶんこのまま秋になり、冬がやってくる。冬が来る前にもういちど。

 Twitterをはじめる。
 すごくさらっと告白してみた。
 違う。そうじゃない。パピロウもとうとうSNSに日和ったか、とかじゃない。別にそういうんじゃない。Twitterを使って、人間関係における金言を囁いたり、時勢に関する鋭い考察を投げかけたり、差別やハラスメントについての意識の高さを誇示したりするためにはじめたんじゃない。
 先日「andp」でドラゴンボール短歌というのをやって、これが自分でとても気に入って、でももちろん「andp」に投稿した短歌なんて誰も見るはずがなくて、そしてそれが無性にむなしくなり(ここにパピロウの加齢を感じる。かつてならそんな思いは抱かなかった)、Twitterなら、ハッシュタグで「短歌」とか付けたら、少なくとも誰かが読むんじゃないかと考え、それがちょうど夏休みの終わりごろだったので、夏休みの成果としてなにかひとつ新しい試みをこさえるのはいいことじゃないかと言い訳もつけて、はじめてしまったのだった。
 というわけでこちらです。
 ペンネームは「ぼっき」と読む。
 ドラゴンボール短歌以外にも、過去に読んだり作ったりした短歌や俳句、もちろん新作も含めてだが、完全にそういった短詩のみを、ぽつぽつ上げていこうと思っている。
 ファルマンのアドバイスから、2年5ヶ月を要した。

2019年8月18日日曜日

夏休みの終わり・夏休みの終わり・夏休みの終わり

 ひとり暮し期間中に2度行った、夜に屋外プールで泳げるプールに、家族を連れて行った。金曜日のことだったか。夜プールという非日常感を家族にも味わわせるのが目的で、それはそれで叶ったのだけど、実はプールと言わず、夜に行動するということが子どもたちにとっては新鮮だったようで、道中の商店の看板に電飾が灯っているのを見て驚いたりしていた。箱入り娘たちだな。夜プールは相変わらず愉しかった。しかし台風明けで、水温も気温もそこまで高まっていなく、ちょっと肌寒かった。それで20分ほどそちらで遊んだあとは、年中やってる屋内のほうへ移動した。そちらは水温が、ぬるい風呂くらいに高められていたので、快適に遊ぶことができた。今年はよくプールに行く。

 ファルマンに散髪とヘアカラーをしてもらう。髪はずいぶん伸び、もさもさになっていた。主に側頭部らへんの量を減らしたほうがいいんだろうということは解っていたが、それをファルマンに頼むと、もれなく量だけでなく長さもバッサリいかれるので、それが嫌で頼めず、結果として横にも縦にももさもさした状態が醸成されるのだった。それでもやっぱり限度を超えて、頼まないわけにはいかなくなり、「量をね! 量をだよ!」としつこく確認するのだが、「わかった。ああわかった。わかってる」と鷹揚に頷くファルマンが、そう言いながら髪をけっこう短くすることは目に見えていたので、その哀しみを少しでも埋めるために、一緒にヘアカラーをして、少しでも愉しい気持ちに自分にもたらそうとするのだった。実際、また髪の内側は黒くなってきていた。前回ピンク色の液剤を使って、しかしちっともピンク色にならなかったので、今回は純粋にクリーム系の明るい色にした。だいぶ明るい色を選択したため、仕上がりに期待していたのだが、外側と内側の不均一は解消されたものの、色合いはぜんぜん愉しいものにならず、残念だった。結局あれか。ヘアカラーをどんなにしても、もともとの髪の色を抜かなければ、色味は茶色か、せいぜいベージュくらいにしかならないのだな。しかしなあ、ブリーチはさすがに髪および頭皮を傷つけそうで抵抗があるのだよな。ヘアカラーとブリーチのダメージの違いはよく知らないけれども。次以降、どうしたものかな。

 夏休みが終わろうとしていて、絶対に行くつもりだった海に台風で行けなくて、そして筋トレのモチベーションがゆるやかに低下している。夏の海で見事なシックスパックを披露、というのがひとつの道標だったので、それを通過してしまった今、どこを目指して進めばいいのか分からなくなってしまった。実際、海に行けてたらそれはシックスパックだったのか、と言われればそんなことはなく、そういう意味ではゴールは遠いのだが、ちょうど時期的にも、筋トレ本にもさんざん書いてあった、いわゆる中だるみのところであり、はじめてからここまでの数ヶ月は、贅肉が落ちて筋肉の影が徐々に見えはじめる愉しさがあったが、もう締まるべき部分は締まってしまい、これから先はとても微かに筋肉が増えていくという変化しかなく、そして薄着の季節も終わっていくわけで、なんか情熱の低下がひたひたと近寄ってきているのを感じる。まずい。筋肉がローンのように、まず実体を手にすることができて、それを差し押さえられないために月々せっせと分割払い(地道な筋トレ)していく、ということができればいいのに。

2019年8月12日月曜日

十二国記・コンドーム・箒

 なんと不死鳥の騎士団の下巻を昨晩に読み終えた。700ページくらいあるのに、やけに早く読んだものだ。いよいよハマったね、とファルマンがいたら言われそうだが、ここまで読んでハマってなかったら悲劇だろうと思う。不死鳥の騎士団は、上巻が特に陰鬱で、人間関係のぎすぎす感に辟易したが、下巻の最後にそれが一気に晴れてよかった。巻が進むにつれて登場人物がどんどん増えてきたが、続けて読んでいるばっかりに、理解がなんとかなっている。これが1年ごとの新刊であったなら絶対に無理だ。
 ハリーポッターも残すところ上下巻がふたつの計4冊で、これならあと1ヶ月くらいで読み終えられそうだ。よかった。ハリーポッターを読み終えたら、十二国記の再読を始めなければならない。今年の10月にとうとう刊行される新作のため、準備をしておかないといけないのだ。この分だとちょうどいい感じの流れになりそう。

 上の文を書いたのが8月10日のこと。その翌日、一気に次の謎のプリンスの上巻を読む。加速がすごいじゃないか。いま完全にハリーポッターの文体に呼応している。他の小説をぜんぜん読んでいないが、たぶん「ハリーポッターじゃない文体」に馴染むのに時間がかかると思う。ヴォルデモートの脅威がじわじわと近寄ってくる一方で、16、7歳になったハリーたちの色恋沙汰が生々しくて(めっちゃキスする)、魔法使いたちのセックスや避妊法について思いを馳せずにはおれなかった。たぶん魔法使いたちは「マグルはこんなものを着けるのか!」と、コンドームのことを嗤うのだと思う。なんかいい魔法があるんだろうね。

 そして夏休みに入った今日、ひとり、ずっと家にいて(事前にいろいろ悩んだ結果、本当にどこへも出掛けないという選択に至った)、謎のプリンスの下巻を読みきる。つまり謎のプリンスは2日で読んだことになる。ヴォルデモートの復活は影を落としているものの、不死鳥の騎士団の頃よりは、通常の学園生活が営まれていた。それで思ったが、クィデッチって果たして必要だろうか。なんか登場人物たちはやけにクィデッチに入れ込むが、読んでいる側からするといまいち乗り切れない。魔法使いは箒で飛ぶ、というのがとにかくやりたかったのかな、と思う。あと上巻からそのにおいがプンプンしていたけれど、やっぱり死んだかー、と思った。
 さて残すはいよいよ死の秘宝の上下巻のみ。物語はいったいどうなるのか。ハリーはヴォルデモートを倒すのか? そりゃ倒すだろう。

2019年8月6日火曜日

世知辛魔法界・はたらくくるま・お盆の予定

 ハリーポッターの、不死鳥の騎士団の上巻を読み終える。前の巻を7月24日に読み終えたそうなので、日数がかかった。仕方ないだろう。なんか暗いんだもの。魔法界、すごく殺伐としていて、開戦前夜の自由がだんだん失われてゆく感じが、生々しすぎてするする読めない。敵はヴォルデモート(敵国)のはずなのに、国民にとって脅威なのは統制を強める軍部のほう、みたいな居心地の悪さを感じる。本来は味方であるべき存在が緊急時に牙を剥いてくると、それがいちおう味方であり、敵に対するように戦えない分だけ、余計にタチが悪いという。そして宿題が多い。ハリーたちも5年生になり、卒業後の就職を見据えた試験のための勉強が厳しさを増しているのだった。そんな、そんな不死鳥の騎士団の上巻の内容だった。暗すぎるだろう。1年生のときの、お前すげえやつだったんだよと手放しで称賛され、おもしろいお菓子をたくさん食べて、箒で飛んでみたら才能がすごくて、敵と戦って勝って、結果ハリーのおかげでグリフィンドールが優勝、みたいなハッピーストーリーはどこへ行ったんだ。あのときの華やぎはどこへ行ってしまったんだ。就職に有利な試験て。俺の思ってた魔法界と違う。下巻ではある程度なにかが改善するだろうか。まさかこれからの5冊、ずっとこんな感じなのか。そりゃあ最後はヴォルデモートに勝つんだろうが、それまではずっと暗いのか。つれえな。ハグリットが帰ってきたくらいの引きじゃあなかなかすぐに下巻に取り掛かれない。

 トラックでナンバープレートの横に、「危」というマークを着けたものがたまに走っている。これはけっこうよく見る。それよりも少しレアなものとして、「毒」というマークのトラック(タンク車)もいる。これと事故を起したらいったいどんなことになるんだろう、とちょっと緊張するやつだ。それぞれ積み荷や用途によって、表示が法律で決まっているんだろうと思う。僕はこれまでこの2種類しか、こういうものは見たことがないけれど、世の中にはもっとヤバい車がいて、もっとヤバい表示があるのではないかと思った。生息数の多さからして、「危」<「毒」というヤバさレベルになっていると思うので、「毒」よりもさらに上位のヤバさの車には、いったいどんな一文字が表示されるのか。信号待ちのとき、どんな表示の車が前後に来たら嫌か。「危」「毒」と来て、「病」は嫌だな、と思う。でもそれは救急車のことだ。さらに言えば「死」なんて本当に嫌だな、と思ったが、それは霊柩車である。いろんな車があるんだね。

 まだ1週間もあとのことなのではっきりしないが、どうもお盆のあたり、天候が悪いようじゃないか。いま南の海に台風が3つもできていて、それらがここから1週間、大いにお盆の日本列島を引っ掻き回すようだ。困る。今年のお盆の島根帰省では、例の外泊を断ったことにより、ひとり海水浴&温泉を実行する予定でいたのだが、それがままならないかもしれない。さらに言えば、その次の日にはなんと広島スタジアムへ巨人戦を観に行くという大イベントがあるのだが、それもままならないかもしれない。なんてこったよ……、と思うと同時に、友達と遊ぶ予定を立てたときにはわくわくしていたのに直前になると億劫で仕方なくなってくる例のパターン(久しく味わってない感情だが)で、まあ、それならそれで、いいか、とも思っている。さあどうなることやら。

2019年8月1日木曜日

ディープインパクト・8月・バナナ

 ディープインパクトが死んだ。競馬にはぜんぜん興味がないので、競走馬としてのそれの死に感慨は一切ない。それでも読むともなく記事を読んだら、早い死亡の原因は種付けのさせ過ぎだというので、俄然そこから情報に対して前のめりになった。
 なんでも年間200頭以上の牝を相手に、この10年以上ずっと種付けをしまくっていたそうで、それで頸椎を骨折し、安楽死という結果になったらしい。馬でもヒトでもセックスをあまりにしすぎると死ぬんだろうとは思っていたが、実際どうして死ぬのかまではきちんと考えたことがなかった。腹上死と考えれば心臓発作とかだろう、と漠然と思っていた。しかし今回の場合は首の骨折。それに関しては馬とヒトでだいぶ体の仕組みが違うだろう、馬の首はほら、長いじゃないか、とも思うが、その一方で、セックスをしすぎて首を骨折って、変な生々しさがある。セックスのしすぎはな、ここに来るんだ。そういって首のあたりに手のひらを這わすおっさんの姿が思い浮かぶ。おっさんのニヤけた口の端から黄色い歯が覗く。誰なんだこのおっさん。
 それにしたって年間200頭以上。それが10年以上。前にも書いたが、僕の将来の夢は、死後ちんことか性欲とかの神様的な存在に奉られることなのだけど、ディープインパクトを押しのけて僕がそのポジションに就くには、いったいどれほどディープなインパクトを遺さなければならないのかと、くらくらする思いだ。数では勝てない。首がもたない。雁首がもたない。

 今年も8月がやってきた。まぶしい、まぶしすぎる8月。今年は7月が、最後の1週間ほどを除いて、長引いた梅雨のせいでくすんだものだったため、9月にはもちろん持たせようもない、『夏!』が、8月というこのひと月に集約せざるを得ず、溜めこんだ精子というか、あるいは船乗りが停泊した港町での一夜で見事に子を成すみたいに、ピンポイントに凝縮され、そのまぶしさたるや、いよいよとんでもないことになっている。たぶんこの8月のまぶしさというのは、もはや可視光線のラインを越えて、紫外線やら赤外線やら、とにかくいろいろどばどば出ている。だからもうヒトにはそれが視認できず、自覚もないまま全身に降り注ぐそれを受け止めるしかない。だから朦朧とする。立っているだけで必死、という状態になる。でもそれでこそ夏だと思う。ハイに愉しみたい。

 バナナ熱が落ち着いた。この3ヶ月くらいは、バナナが常に家にないと不安という、チェーンバナナーどころではないバナナジャンキー状態になっていたが、ここへ来て急に、そんなバナナばっかり食べてもしょうがないだろう、お腹に入れるならもっとたんぱく質とかあるやつにしろよ、というスタンスになった。もちろん真夏だということも大いに影響している。すぐぐじょぐじょに黒くなるし、食べたあとの皮もなかなか臭気を放つ。バナナは南国の食べ物のはずだが、なぜ夏向きではないのだろう。輸入前提なのか。そんな作物ってあるか。
 ところで冒頭の「バナナ熱」という言葉は、なんか実際にありそうな病名だと思う。実際バナナの間では伝染病が流行っていて、将来バナナが採れなくなるかも、みたいな話を聞いたことがある。それをバナナ熱と呼ぶのかどうかは知らない。あるいはやはり、勃起のことをバナナ熱と呼ぶのもありなのではないかとも思う。俺のバナナ熱、このままじゃ治まりそうもねえから、熱を吸い取ってくれよ……。イケメンが言ったらかっこいいんじゃないでしょうか。

2019年7月26日金曜日

ヴォルデ復活・ベンチ・息子

  炎のゴブレットの下巻を読み終えた。おととい。なので5日で読んだことになる。ペースがだんだん上がってきているな。横に読了者がいるので、こういうことをいうと、「わかるわかる、そこらへんからグイグイいっちゃうよねー」みたいな感じになるのが嫌だ。
 僕は刊行当時に途中まで読んで、脱落した手合いであり、どこまで読んだのかが定かではなかったが、たぶんアズカバンまでは読んでいて、ここから読んでなかったんだと思う。アズカバンだって大概その内容を忘れていたけど、この巻からはいよいよいちど読んだ感触がなかった。全7巻の、しかも4巻目からは上下巻になるシリーズで、3巻目までを読んだだけで、これまでよく「読んだ感」を抱いていたものだと思う。それは実質的にぜんぜん読んでいない。だって復活してないじゃないか。この巻でいよいよ復活してしまったので、この物語はここから本格的に始まるのだと思う。俺は始まる前に読むのをやめていたのだな、と10年以上の時を経て知った。

 先日ニトリでダイニングテーブル用のベンチを物色した、ということを書いたが、あのあとすぐ、それがなくてはならないもののように(それさえあれば子どもたちはとても行儀よく食事を取ってくれるに違いないと)夫婦そろって思うようになり、ネットでテーブル幅に合ったものを探し、2脚購入したのだった。それでわが家はふたたび、居間の座卓からダイニングのテーブルで食事をする家庭になった。子どもの行儀は、座卓よりかは多少改善された、のでは、ない、かな、と思う。座卓時代がマジでクソだったから、それに較べれば、という話ではあるけれど。
 それでわが家にベンチがやってきて、そして僕はいま肉体改造に取り組んでいて、ジムとか通っちゃってるわけで、じゃあもうそんなのあれだよね、ダンベル買うしかないじゃんね、ということで、誕生日プレゼントのフラゲとして、当世話題のダンベルを買った。ダンベル何キロ持てる? という問いに答えるとするならば、こんなんじゃあきっとすぐに追加のプレートを買うはめになるだろうと思った左右それぞれ10キロのダンベルが、重すぎたのでまずは3キロ減らして7キロ。7キロでベンチプレスしている。とてもいい。しながら思う。これもうジム行く必要ねえわ。

 分娩の際に生死の境をさまよい、それでもなんとか持ちこたえて産声をあげた女の赤ん坊に対して、親が「生きてくれているだけでいい、息をしてくれているだけでいい」という思いを込めて、息をする子、息子と名付けたとしたら、その子が将来結婚して、男の子を産んだ場合、息子の息子となるわけで、ちょっとおもしろいのではないかと思った。あるいは夫が妻を紹介する際に、「妻の息子です」と述べるのもおもしろい(これは叙述トリックに使えるかもしれない)。さらに言えば、ちんこのことを息子と呼ぶ習慣が一部にあるので、夜の生活においては「い、息子がっ……! む、息子をっ……!」という局面も出てくると思う。

2019年7月23日火曜日

くず・水癒着・ハローグッバイ

 吉本興業の話が大盛り上がりで、しかし僕自身は別に当事者でもなんでもないので、意見もなければ思うところもない。ただニヤニヤと眺めている。
 ただし直接的な当事者ではないが、10日ほど前にカラオケに行った際、くずを唄わなかったことにようやく思い至り、そのことは悔しく思っている。許せないことがあっても、テレビのニュースに怒っても、やりきれない心のモヤモヤも、全部ひっくるめて力にすればいい。なんて沁み入る歌詞なんだ。ぐっさんは予言者か。ああ、本当に後悔だ。
 かろうじて救いがあるとすれば、僕ではなくファルマンだが、「ああエキセントリック少年ボウイ」を唄ったことだ。ちょっと松本人志が話の主役みたいになってきてるところがあるし、ちょうどよかったかもしれない。まあ加藤浩次にとって松本が敵か味方か、微妙なところだけれども。あの写真ばらまかれたら終わりや。こちらの歌詞も沁み入る。

 相変わらずちょくちょくプールで泳いでいる。ちょっと前に、どうも最近は泳ぐのがスムーズじゃない、贅肉が落ちて筋肉質になったからだろうか、みたいなことを書いたが、あれからその原因ははっきりした。当時はちょっと泳ぎすぎていた。週に3日とか泳いでいたのだ。それはちょっと泳ぎすぎ。週に3日も泳いでリフレッシュもなにもあったもんじゃない。最近は5、6日にいちどくらいのペースにしていて、これだといい具合に泳げる。
 ただしいい具合に泳げると言っても、別にスイスイと泳げるわけではなくて、隣のレーンに、元水泳部とかなんだろう、泳ぎに覚えのある人が泳いでいたりすると、そういう人の「進みっぷり」には、膝から崩れ落ちそうになる。たくさん買い物をするとゴールド会員になるみたいに、水中で長く暮していると、水側がなんかしらの特典をくれて、ひとかきでグイーンと進めるような、そんな仕組みになっているんじゃないだろうか。そんな風に思えるほど、泳ぎがうまい人の泳ぎってすごい。めっちゃ早く腕を動かしてるとかなら納得がいくのだけど、そうじゃなくて、ひとつの動きですごく進むのだ。ずるい。絶対に水との癒着関係がある。

 先日フィットネスの駐車場から建物へと歩いていたら、僕の少し前を歩いていたおじいさんが、向こうからやってきた、知り合いなのだろうおじいさんに向かって、「こんにちは!」と言い、そうしたら向こうのおじいさんはそれに対して、おじいさんAは今やってきてこれから建物に入って活動するところだからその挨拶になるのだけど、おじいさんBはもう利用し終わって帰るところだったものだから、「さようなら!」と答える、という場面があり、その見事なまでの「ハローグッバイ」に、ひとり感動した。ビートルズとナイツを思い出した。

2019年7月19日金曜日

体内年齢・外泊・ほのごぶ

 体組成計の項目に「体内年齢」というのがあって、「基礎代謝量」や「筋肉量」などは、そもそもその数値に対して思い入れがないので、向こうから「お前これね」と差し出されたものを「はあ、そうですか」と受け入れるだけなのだけど、「体内年齢」に関しては、なんてったって実年齢という確固たる指針があるため、それに対して低いか高いかがとても大事になってくる。
 ちなみにこのところの僕のそれは、実年齢と同じ「35」である。それがずっと続いている。5月初頭の測りはじめの頃は「33」とか「34」だったのが、なぜか上がった。なぜだよ、と思いちょっと検索をかけたら、こういう機械の体内年齢は、水分量や基礎代謝量なんかを元に算出しているそうで、「その元に算出しているのです」と言われたら、やはり「はあ、そうですか」と受け入れざるを得ないのだけど、そもそもお前のはじき出してる水分量や基礎代謝量にどれほどの根拠があるのか、5秒ほど足の裏を乗せただけで、2500円くらいだったお前という機械が、どれほどの正確な検知をするというのか、とも思う。本当に話がそもそも過ぎて、じゃあもうそいつの言う体内年齢に一喜一憂しなきゃいいじゃないか、という話ではあるのだけど。
 だって5月初頭に較べて、贅肉は明らかに落ち、筋肉は明らかに付き、身体は明らかに軽くなっている。若返ってなきゃおかしいはずだ。項目の説明欄に、「理想の体内年齢は実年齢の3分の2です」とある。3分の2ということは、24ということになる。いや、24とは言わん。別に24歳のとき今より身体が溌溂としていた自覚もないが、3ヶ月程度の肉体改造でそこまでの数字を求めているわけではない。でもせめてちょっと減ってこいよと。31くらいになってろよと。そう思う。
 この体内年齢に対する悶々の、唯一の救いと言えば、ファルマンのそれが「37」であるという点だ。実年齢より上。俺もギリギリだが、ここの1、2歳差は大きい。

 夏休みの島根帰省の際、去年のキャンプに引き続いて(なぜ引き続くのか)、今年も外泊の計画が組まれているらしい、ということを前にちらっと書いた。そして僕はそれに絶対に不参加の姿勢だ、と。気づけばもう1ヶ月後のことなので、話はわりと具体的になってきたようで、日取りや参加者も決定した。もちろん僕は不参加の意思を貫いた。僕が参加しないことについて、僕がそう指示したわけではないが、ファルマンが「パピロウは仕事関係の都合で島根に来るのが遅くなってしまう」という虚偽の説明をしてくれたらしい。義父は、仕事関係なら納得する、仕事関係以外なら納得しない、というタイプの人なので、不参加するためにはそんな嘘をつくしかなかったのである。「億劫でつらいだけだから不参加です。みなさんもよせばいいと思います」ではダメなのである。父と夫の間に挟まれ、ファルマンには面倒をかけた。その面倒も含めて、なぜこんなことを企画するのかよ、としみじみと思う。「私、親に嘘とかつかないでここまで来たのに」とファルマンは眉をひそめていた。そのフレーズは一般的に、彼氏との内緒の外泊の際に使われるものであり、夫が実家の面々との外泊を拒む際に使われるものではあまりないと思う。

 ハリーポッターの4巻の上巻を読み終える。6日か。連休でわりと読み進めたということもあるし、なにより今これしか読んでいないので、だんだん文体とかリズムとかに慣れてきたということもあるだろう。
 なにしろ上下巻の上巻なので、感想もなにもないのだが、薄々予感はしていたものの、炎のゴブレットからハリーの名前が出てきたときは、ハリーやべえな、と思った。ハリーポッターともなると、書いてない、入れてない紙が、炎のゴブレットから出てくる。ルール違反なので「おいおいおい」とみんなブーイングを浴びせ、それに対して「ちがうんだ、僕は入れてないんだ! 僕を殺したい誰かが勝手に入れたんだ!」とハリーは弁明するのだけど、自分で入れるより誰かに勝手に入れられるほうが、よほどハリーの特別感が強調されるのではないかとも思った。俺も立候補してないのに圧倒的得票数で参議院議員に選ばれないかな。

2019年7月14日日曜日

アズカバンの発育・一緒にお風呂・令和初

 映画版ハリーポッター、アズカバンの囚人を観る。読むほうは、かつてここまではたしかに読んでいた(でも内容はほぼ忘れていた)が、映画に関してはそれよりももっと早い段階で脱落したため、初めてだと思う。それで映画をこれまで2作目までしか観ていなかったので、僕の中のハリーポッター像は、主に1作目、それと2作目を少しだけ、くらいのイメージで完成していた。その感じで頭に思い浮かべ、読んでいた。だから映画3作目のラドクリフたちがもうけっこうゴツくなっているのに驚き、体のラインが出るパーカーを着たエマワトソンに乳房のふくらみがあるのに驚いた。そうだったのか……。映画の感想としては、原作を読んだ人特有の、ああ原作のあの部分はしょっちゃいます?的な、俺は読んでるから話の流れが理解できるけど駆け足過ぎて未読の人はつらいんじゃない?的な、いやらしいことばかりを感じた。結局そういう人は映画を観たりしなければいいんだと思う。そうする。そして僕のハリーは最終巻まで少年でい続け、ハーマイオニーの乳房はほんの少ししか膨らまないんだ……。

 娘たちと一緒にお風呂に入るのをやめた。
 向うから「もうよす」と言われたわけでは決してなく、特にポルガなんか、こちらから言わなければいつまでも気にせず入りそうな恐ろしさがあるが、僕のほうでなんかもう居心地が悪くなり、よすことにしたのだった。本人たちに向かって宣言したわけではないが、もうこの1ヶ月くらいは既に一緒に入っていない。僕がプールやジムのあと、シャワーやら浴場やらで風呂を済ませて帰るようになったというのもきっかけになった。
 異性の親と子どもがお風呂に一緒に入らなくなるのって、子どもが多感な時期に入っていろいろなことを意識するようになって拒む、というのが一般的なパターンで、普通の大人はその部分への意識が一切ないから、いきなり子どもから拒絶を伝えられてショックを受けたりするのだと思うが、その論でいくと、僕はやっぱりだいぶ意識をしているということになるのだと思う。僕は女の子の女の子らしい発育のことを神聖化しているところがあるので、自分の娘にそれが顕れ、目の当りにしてしまうのが、嫌なんだと思う。その点に関しては、一生ベールに包んだまま、幻想を抱いていたいのだ。自分以外女の家で育ち、自分以外女の家庭を持って、なおも。

 令和になって以来、妻・母・姉を除く誰からも1通もLINEのメッセージが届かない、ということを何十日か前に書いたが、それから今日時点で、いまだにその状態は継続している。ちなみに妻・母・姉と並べると、まるで後半のふたりとも頻繁に連絡を取り合っているかのようだが、もちろんそんなことはなく、両者ともGWの帰省の際に事務的な連絡をしただけのことで、だから実質的には妻としかしていない。妻としかしないなんて、なんと貞節な夫だろうか。結果論的に極度の愛妻家みたいなことになっている。
 令和になって75日ほどが既に経過している。「令和初メッセージ」への思いは、この期間が長くなればなるほど、いやが上にも高まっていく。いつか届いた暁には、「あなたのそれが、令和になって僕に初めて届いたメッセージだったんだよ!」と相手に伝えてやりたい。即座にブロックされることだろうと思う。

2019年7月8日月曜日

バナナまもる・40キロ台・交際記念日

 大好きなバナナを携帯するために、「バナナまもるくん」という商品を購入した。バナナの形をしたプラスチックのケースで、これに入れることでバナナが鞄の中で圧迫されず、黒くならない。さらには半密閉状態にすることでシュガースポットとかの熟成にもいい効果があるとされるが、そっちはまあそんなに重視していない。バナナはどっちにしろおいしいから。
 しかしこのバナナまもるくん、製品の性質上、一般的なバナナよりもふた回りくらい大きいサイズに仕上がっているため、わりと大きい。僕は毎日ちょっとしたボストンバッグくらいの鞄で出勤しているので問題ないが、普通の鞄だとかなりのスペースを取るだろう。しかも持ち運んだバナナを食べたあとは、ただのバナナ型の空っぽのケースになるので、僕のようにバナナ愛が強い人間でないと、けっこう持て余すアイテムではないかと思う。
 持て余すと言えば、3本ほどで1袋になっているような、1本1本が巨大なバナナだと、バナナまもるくんのキャパオーバーとなり、入れることができない。巨大なバナナというのはわりと本当に巨大なので、それにも対応するケースとなったら、なんかもうそれはそれだけでちょっとしたポーチくらいになってしまうのだと思う。というわけでそういうバナナを買ってしまったときは、仕方がないので裸で持っていく。
 バナナまもるくん持ちとしては、バナナまもるくんの容積に対応したサイズのバナナを買えよ、という話なのだが、どうしても大きいサイズのバナナを選んでしまう癖が抜けない。このさもしさは、食欲の発露でもあるが、同時にやはり性欲もだいぶ作用していると思う。(この大きさはまもるくんに入らねえだろうな)と思いながら買って、家で試してやっぱり入らなくて、(ああ、やはりまもるくんに入らない威容であることだ)と満足する。規格外に大きすぎて拒まれる感じ、悪い気がしない。逆に小ぶりのバナナしか売ってなくて(5本とか6本で1袋)、仕方なくそういうのを買って帰り、バナナまもるくんに入れたときのスカスカ具合は本当に哀しい。プライドがズタズタにされる。

 肉体改造とか言って、酒をやめ、なので晩酌で麺類とか食べるのもやめ、チョコレートもやめ、おせんべいもやめ、飴もやめ、ごはんの量も減らし、そしてプールとかジムとかやっていたら、当然の帰結として痩せた。体組成計を買ったのが5月の頭で、それからほぼ毎日計測しているのだが、この2ヶ月で4キロちかく痩せて、先日とうとう体重が50キロを切ってしまった。53、52、と来て、51キロになったときに、こうなったら50キロを切りたいな、とは思ったが、実際に切って40キロ台になってみたらちょっと引いた。身長の伸びが止まってから、いまがいちばん体重が少ないのではないだろうか。本来の目的は筋肥大だったのが、体重とか体脂肪って数字で目標を立てやすいので、なんかそっちにだいぶ熱がいってしまっていた。もうシェイプアップはいい。ここからはきちんと筋肥大に集中していこうと思う。

 7月8日ということで、ファルマンとの交際開始記念日である。16周年である。去年が、交際15周年と結婚10周年(8月8日)だったので、今年はぜんぜん節目じゃない。なのですさまじくピンと来ない。16年といったらずいぶんな年月だが、夫婦生活も10年を超えてくると、それはもう短距離走でも中距離走でもない、長距離走の領域に突入するようで、銀婚とか金婚とかの、スケールの大きな世界で捉えたらまだまだ序盤という気もしてきて、これからしばらくの人生ではこのふたつの記念日について、そんなぼんやりした気持ちを抱き続けるのだろうと思う。いいことだと思う。ぼんやり平穏に流れ、続く暮しがいちばんだ。

2019年7月3日水曜日

カウントダウン・ハリポタ・7月

 ラグビーのワールドカップが今年、日本で開催されるということは前から知っていて、しかしラグビーというものを観る習慣がないので、それほど関心を持たずにいたのだが、その開催日というのがあろうことか9月20日で、それに向けてあちこちでカウントダウンがなされていることを知って、俄然それへの愛着が湧いた。ちなみに開催まで今日の時点であと79日らしいが、もしかしてだけど、もしかしてだけど、ラグビーワールドカップにかこつけてホントは俺の誕生日を祝える日を心待ちにしてるんじゃないの。そういうことだろ。

 ハリーポッター第2巻、秘密の部屋を読み終える。1巻を読み終えたのが6月23日なので、1巻もそうだったが、また10日もかかった。実にゆったりと読むことだ。
 毎年刊行されていた当時、中盤で脱落するまでは読んだので、この2巻なんかは確実に読んでいるのだが、内容はさっぱり覚えていなかった。最後のほう、わりと印象的な「そうだったのかよ!」みたいなことが判明するのだが、それもすっかり忘れていた。やー、まさかリドルがねえ……。
 それにしても魔法界というのは、魔法省などもあってだいぶ規模の大きな世界であるように見えて、どうも人間関係が狭い範囲でぎすぎすしている感じもあり、実際のスケールがよく分からない。実はすごく小さいコミュニティの話なんじゃないか。ヴォルデモートもさ、もう自分の出身校のことなんか忘れろよ。田舎のおっさんじゃないんだから。

 そんなわけで今年も7月に突入した。
 使っているカレンダーは2ヶ月にいちどめくるタイプのもので、だからおととい5・6月のところから1枚めくって、7・8月の面にしたのだけど、毎年のことながら7・8月というものの放つエネルギッシュさに、なんだかくらくらした。7・8月って、他の5組に較べて桁違いに輝いている(逆にいちばん輝いていない組は5・6月だと思う)。ちびまる子ちゃんでいう、大野くんと杉山くんのようなイメージだ。だから学生時代に大野くんと杉山くんのポジションにいた人間は、7・8月のきらめきを素直に享受できるのだろうけど、そうでない人間は、そうでないのに強制的にそこへ身を置くことになるわけで、結果このような、こうしちゃいられないような、期待感を大きく上回る焦燥感に襲われるのだと思う。夏が好きな人間は、人生の早い段階でバージンを喪失できた人間である場合が多い、という研究結果もある。知らないけど多分そうなので研究結果があることにした。夏を翳りなく喜べる人間になりたかった人生でした。

2019年6月27日木曜日

低気圧・ハリー・ちんぽこ

 日中やけにイライラ、モヤモヤ、クヨクヨと、柄にもないマイナスの感情に苛まれたのだけど、さすがに経験則があるので理屈がわかっていた。
 これは低気圧のせい。
 だから本格的にその懊悩に心を浸してしまうことはなく、陥りそうになったらすぐに「これは低気圧のせい」と自分に言い聞かせ、深入りはせずに済んだ。そして労働の帰りにプールに寄ってたくさん泳いだら気分がリフレッシュした。よかった。
 そのあと家に帰ったら、家族も押し並べてかったるそうにしていた。低気圧すごい。
 そしてこの低気圧禍で想起されるのが、大阪で今週末に行なわれるG20である。カーラジオでは関西の放送局がかかるので、最近では毎日その話題ばかりで、なんだかそこそこ臨場感を持って開催を待ち受けているのだが(会場のインテックス大阪にも行ったことがあるし)、よりにもよってこの低気圧である。
 この本来とても陽気な僕でさえダウナーになってしまう過酷な気圧の中で、アメリカとか中国とかと、貿易摩擦のことなどを話し合うのである。ただでさえ気が重かったのに、さらに脳が圧縮されるような不快感まで付与される。考えただけで気が重い。
 ろくな結論は出ないと思う。

 ハリーポッターは2巻の中盤。読むペースで察せられると思うが、まだそこまで入れ込んでいない。けれどそれなりに愉しく読んでいる。巻の冒頭で、ダーズリー家で契約相手を接待する場面があり、この商談が成功するとダーズリーの会社には相当な利益があるようで、ハリーに絶対に邪魔をするな、出てくるな、と命じるのだが、なんか屋敷しもべとかいうのがハリーに会いにやってきて、そいつのせいで話し合いがめちゃくちゃになる、という場面があり、ダーズリー家は本当にかわいそうだと思った。ダーズリー家も、ダーズリーが社長を務める会社の社員もかわいそう。ハリーは最終的にはちゃんとダーズリー家へ、育ててもらった恩を返すのだろうか。
 こういう話をすると、全巻を読み終えているファルマンが「ああ、それは、まあ、言っちゃうとね、うん、うふふ」とニヤニヤするのでいやらしい。

 唐突に始めたブログクロス連載小説「俺と涼花」がおもしろい。とても愉しみながら書いている。
 この中で先日、「わからんちんぽこどもとっちめちんぽこ」というフレーズを出した。これが書いた翌日以降もずっと頭に残り、労働中も心の中でずっと「わからんちんぽこどもとっちめちんぽこ……」と考えてばかりいた。帰宅したらファルマンも同じ状態になっていたようで、僕がそれを口に出すたびに、最近この人のここまでの笑顔は見たことがない、というほどの爆笑をするのだった。
 「うわのそら」のファルマンさんは、「わからんちんぽこどもとっちめちんぽこ」で腹の底から馬鹿笑いするんですよ。騙されちゃいけませんよ。

2019年6月18日火曜日

ハリーポッター・バケモノ・飴師匠

 数ヶ月前にファルマンとポルガの中で強烈なハリーポッターブームが起り、そのとき僕は、刊行中だった当時に4巻とか5巻くらいまでは読んで、でも次のが出る前に話とかキャラクターとか忘れるから、後半で話がややこしくなってくることもあり、入れ込めずにフェードアウトしたという、こういう人すごく多いんだろう的な、読んだとも言えるし読んでないとも言える、そういう立場だったので、ふたりのブームに対しても、やはり原作に対するスタンスと同じくらい、入れ込めずにいた。
 そんな僕だったのだけど、このたびとうとう、さしあたって読む本がないこともあり、いっそのことハリーポッター読んだろうやないか、と発起した。発起するにあたり、家族のふたりや、さらには世間のハリポタ好きとか、USJとか、映画とか、そういう要素をすべて頭の中から消して、ハリーポッターに対する期待も嫌悪も一切ない状態で読もう、と思った。僕はなにしろ、この本が好き! とか、この話の大ファン! みたいなことをのたまう人間が大嫌いなのだ。だからそういう人が多そうな本は絶対に読みたくないのである。それなのにハリーポッターを読むことにしたのである。なので本当に、4000年後くらいの未来人が、失われた文明の図書館で見つけたくらいのまっさらな気持ちで読んでいる。いまハグリッドがハリーを迎えに来たところ。ダーズリーはハリーを嫌っておきながら、どうしてあんなにハリーを手放すのを嫌がるのだろう。

 幼稚園の母親たちのグループLINEで、園の行事に関する分かりにくかった部分を、ひとりの母親が園に確認をして、その詳細を伝達してくれた、ということがあったそうで、それに対してグループのメンバーである他の母親たちが、みな次々に「ありがとうございます」という要旨のスタンプを貼っていく、という流れがあったという。その様を見てファルマンも、正体はバケモノながら、必死に隠そうと人間社会でがんばっているので、流れに乗ってスタンプを貼ったのだ。
 ブラックジャックのピノコの。
 そうしたら、実際にその画面を見せてもらったのだが、おもしろいようにそこでその流れが止まったのだった。誰ひとりとして足並みを乱す者もなく、ピタッと。
 かわいそう、とさすがに思った。
 たしかに他の母親たちの貼るスタンプは今風の、カナヘイ風の、うさぎとか猫とかの当たり障りのないものばかりで、その中にいきなり現れた手塚治虫は一同を唖然とさせたことだろう。しかしだからと言って、そこまで明白に流れを止めるなんて、みんなちょっとファルマンいじりが優秀すぎるんじゃないだろうか。いいぞもっとやれ。

 今日、職場でおばさんから、「ちょっと痩せた?」と言われ、欣喜雀躍した。
 やっと言われた。この数ヶ月の摂生と運動によって体が引き締まったことは、鏡を見たって体組成計のデータ(毎日計っている)を見たって明らかなのだが、しかし人から言われる喜びというのは、それらとは較べ物にならないものがある。本当に嬉しい。思わず前のめりになって、いま運動とかして体を鍛えているのだ、ということを語った。痩せるのは本来の目的ではないのだが、とは言え摂生しているので副産物として痩せちゃった形なんだよね、と普段びっくりするくらい喋らないのに、朗々と語った。それくらいテンションが上がった。
 ちなみにそれに気づいたおばさんというのは、前から話にちょくちょく登場している飴師匠その人であり、この数ヶ月間においても飴師匠はもちろん通常運転で僕にちょいちょい飴をくれていたのだが、「あざーす」と受け取りながら、それらはすべて引き出しにしまい込んでいるのだった。糖質やGI値のことを気にして飴師匠の飴は舐めなくなった僕だけど、さすがは飴師匠、僕にとびっきりの甘い喜びを与えてくれました、というお話でした。

2019年6月13日木曜日

リモコン・筋肉・夏の予定

 日馬富士を家に招待する夢を見た。どういう所以でそういうことになったのかは知らない。僕がタニマチという設定だったのだろうか。そう言えばなんとなく大きな家に住んでいた気がする。なんてったって日馬富士と言えば横綱なので、僕は大いに張り切り、存分にもてなした。なんの起承転結もない、ただそれだけの夢だった。
 起きてからその夢のことを思い出して、夢の中の僕は日馬富士について、貴ノ岩とのカラオケのリモコン事件のことをぜんぜん気にしていなかったな、と思った。と言うか横綱として彼のことを見ていたし、僕の歓待に「こいつキレさすとやべえ」みたいな陰りは一切なかった。つまり今日の夢は、あの事件が起る前という設定だったわけだ。
 だとすればこれは未来に起ることを先に見てしまう予知夢の、世にも珍しい、そしてなんの利点もない逆バージョンだということになり、これを「なにむ」と呼ぶのか知らないので、僕が勝手に名付けてしまおうと思う。これを安馬夢といいます。

 ストイックな生活を3ヶ月ほど続けて、ようやくお腹にうっすらと、筋肉の形のようなものが(調子のいいときは)(おぼろげに)見え(ないこともなくなっ)てきた。切ないほどにとても微かな兆しなのだが、それでも嬉しい。もっとも筋肉はもうちょっと甘い設定でついてもいいのではないかと思う。
 筋トレは腹を中心に、背中と胸と、あと少し嫌だけど太ももあたりもやっている。脚に筋肉がつくと代謝がよくなると本にあったので。でも腕のことは一切やってない。腕がムキッとなっているのは趣味じゃないから。だから腕はこれまでと同じで、ほむほむしている。最近パピロウ筋トレとかし始めて、ウチらの好きなパピロウとなんかちがう……と戸惑っている人は、だから腕を見て安心してほしい。ほむほむしてるから。
 先日ポルガが体育で体力測定をしたそうで、その際の左手の握力の記録が9キロだったという。左手の握力がひと桁って、僕の中学時代の記録と一緒だ。これはDNAだな。

 夏休みには島根に行って、日本海で泳ぐという目論見がある。夏にも、帰省にも、本当にそれしか求めていない。それさえできればいい、と考えていた。それだのにどうやら今年の夏も、義両親を中心に、さすがにキャンプではないが、みんなでの外泊の予定がいつの間にか立ち上がっているそうで、これはやばい、と思った。この話は、この段階ではっきりした態度を取っておかないと、あれよあれよと勝手に組み込まれていくタイプのやつ。たぶんまた3人は長めに帰省し、僕だけ頭かお尻の2泊3日ほどをともに過すという形になるのだと思うが、2泊3日しかないのに外泊なんて、とてもじゃないけどしてられない。目的が違うし、なによりとても疲れるのだ。たぶん泳ぐどころの気分じゃなくなる。したくもない外泊で海水浴ができなかったら目も当てられない。だからこの段階で態度を曖昧にせず、きっぱり断ることした。僕は不参加と。残念だけどと。それは僕が行く前か、僕が帰ったあとの期間に、愉しくやればいい。あとはこの主張が通るかどうかだ。

2019年5月31日金曜日

腕時計紛失・ピエロ・酒

 腕時計をなくす。ちょいちょい物をなくすことだ。
 これまで着けていた腕時計は、スラップウォッチという、シリコン製のバンドに、懐中時計のようなものを嵌め込んで使うもので、これがまるごとどこかへ行ってしまったわけではなくて、ある日職場に着いて時間を確認しようと思って見たら、くぼみに嵌まっているはずの時計部分だけがなかった。なにかのはずみでそこだけ外れて落ちたらしい。すぐに駐車場まで、地面をつぶさに眺めながら戻り、車内も確認したのだが、見つからない。じゃあ家かな、と思うが家にもない。プールやスーパーでも訊ねたが届いていない。どうもこのまま出てこなさそうな雰囲気だ。
 左手の腕時計がなくなると、本田圭佑よろしく、なんとなく左右でバランスを取るために着けていた、右手のただのシリコンバンド(世界のさまざまな問題について意識が高くてほっとけないので、何色も持っていて日によって着ける色を変えていた)も自ずと外す流れになった。
 そうして両手ともになんにも巻かずに外の世界に飛び出し、労働なんかしてみると、ちょうど季節もあるのか、これが意外なほど身軽で快適で、あれ?となった。早いうちに新しい腕時計を調達しなければと思っていたけれど、ちょっと待って、腕時計……いる?という疑問が湧いてしまった。
 いやいるだろう、大人としているだろう、ケータイとかで時間を確認するのは大人として様にならないだろう、という矜持がある一方で、でもお前のこれまでの時計、別に大人が着けるにふさわしいものじゃなかったじゃん、というもっともな反論も去来する。
 腕時計、着けていてもぜんぜん見ないとかではなかったので、ないことに微妙な不便さはある。でも微かだな、という気もする。これから夏で、汗ばんだり、日焼けしたりの問題もあるので、そんなことを思うと、あんまりネットショッピングの触手が動かない。どうしようもない不便さが発生しない限り、あえて買わんでもいいかな、と思いはじめた。

 先日公園に遊びに行った際にバトンを回していて、しかしただ突っ立ってバトンを回し続けても発展性がなく、去年はこの問題を解決するためにダンスや太極剣の本を読んだりして、残念ながらそれらはあまり僕のバトンライフの質の向上には寄与しなかったが、それでもステップを踏むことの必要性というのは切実に感じているため、その公園でのバトン回しの際も、回しながらちょっと跳ねたり動いたりなんかしていたのである。
 するとそれを目にしたファルマンが、指をさして嗤ったのだった。
「なにそのうごき(嗤)」
 芽を摘むとはこういうことか、という見事なまでの摘みっぷり。さすがこういうところは長女だ。言われた瞬間、それまで躍動していたバトンはさながら心電図のように静止し、僕はそっとバトン入れの中にバトンをしまった。哀しかった。
 これは先日の話で、なぜ今ごろその話をしたかと言えば、昨晩またファルマンが、そのときの僕の動きのことを揶揄してきたからである。こう言われた。
「おどけきれないピエロみたいだった(嗤)」
 へこむとはこういうことか、というくらい、見事にへこんだ。おどけきれないピエロ。僕のあまりのへこみっぷりに、ファルマンは慌ててフォローしはじめたが、完全に手遅れだった。ファルマンは「バトンを回してるときのステップがだよ、それだけだよ」と言うのだが、でも僕自身に感じ入る部分が大いにあり、おどけきれないピエロ、それは僕の心性そのものだな、たしかに僕はおどけきれないピエロだな、とうじうじした。

 5月が終わる。やけに長かった。あの帰省が今月のことだとは信じられない。
 相変わらず酒はほとんど飲んでいない。飲みたい気持ちもそう湧かない。暑くなってもぜんぜんビールを欲したりしない。見限ったものへの僕のあまりの淡白さに、ファルマンからは人としての情を疑われるほどだ。でも先日、スーパーでカップの天ぷらそばを見かけて、ああこれと日本酒をやったらしあわせだろうなあ、と少し誘惑に駆られた。こうしていちど断ってみて、フラットな立場で天秤にかけた結果、僕はアルコールの中で、ビールでもなく、ハイボールでもなく、日本酒がいちばん好きだったのだな、と分かった。なのでたまには飲もうと思う。たまになんだから、いいやつを小瓶で買ったりしよう。

2019年5月25日土曜日

バナナ・腕力・世代

 バナナが好きだ。やけに好きだ。朝バナナダイエットなどの目的でバナナを摂取している、とかではなく、普通に味が好きなのだ。好物を訊かれたら、その日の体調によっては餃子ではなくバナナと答えてしまうかもしれない。そのくらい好きだ。なので家にはほぼいつもバナナがある。残り2本くらいになると次のを買う。バナナは基本的に途切れず家にある。僕はそこそこ重度のチェーンバナナーと言ってもいいかもしれない。ちなみに僕以外の家族は滅多なことがない限り食べない。テーブルの上のバナナのことを、食べ物として見ていない節がある。不思議だ。あんなにおいしいのに。
 そしてこの話の流れで言うのもなんだが、バナナってやっぱりちんこを連想しやすい形状をしていて、そこがまた僕は愛しい。お店でひと袋いくらのバナナを選ぶとき、なるべく大きなものを求める理由は、ただたくさん食べたいからだけでなく、やっぱりそっちの要素も入っているだろうと思う。20センチにも迫ろうかという立派なバナナを買うとき、なんとなく男として誇らしい気持ちになる(逆に若い女の子は買いづらかろう)。
 そんな大好きバナナについて、先日ある雑誌を眺めていたら、バナナの成分が前立腺肥大の抑制に効果があることが発見された、という話が紹介されていて、血糖値でもなく血圧でもなく前立腺に効果を発揮するところに、バナナの律義さがあると思った。さらにはその成分名というと、ここまで来るともはや確信犯ではないかという気もするが、「バナチン」だそうなので、そのことに思いを馳せるとますますバナナ愛は募る。

 筋トレを続けているのだが、筋肉がつかない。あんなにせっせとやってるのにおかしいじゃないか、と感じていたが、実はぜんぜんおかしなことではないらしい。筋肉は2ヶ月程度では目に見えてついたりしないのだそうだ。でも筋肉が見た目的に変化なくても、毎晩ビールを飲んだり頻繁にカップ麺を食べたりしなくなったのだから、それなりに身体は締まったろう、という話なのだが、なんだかそれも変化に乏しい。あんな生活をしていても僕は不思議と太らずいたわけで、そのぶん摂生を始めても効果を得にくいのだった。
 先日、そうは言っても力を使うようになったのだし、と思い、ファルマンに久々に腕相撲対決を申し込んだ。これまではとにかく歯が立たない感じだったけど、ちょっとは俺の上腕二頭筋も永い眠りから目を覚ましはじめたのではないか、と。それで手のひらを組んでみたら、腕相撲って力を入れはじめる前、この手を組んだ瞬間に、勝てる勝てないってすぐ判りますよね。あ、絶対に勝てない、これ絶対にすごい力が出る人の腕、というのがすぐ判る。もちろん負けた。往時と今とで、負け方になんの変化もなかった。「え、力入れてるの?」とまた言われた。怖い。俺の弱さも怖いが、妻の割れてる力こぶが怖い。肩にちっちゃいジープのせてんのかよ。

 小学校高学年から中学時代にかけてウィンドウズ95やポケベルやPHSが普及してきた世代である我々に対して、10年くらい前、「これからの若者は物心ついたときから当り前にそれらがあった脅威のデジタルネイティブ世代だ」という話があったけど、そこがちょうどゆとり教育と重なったせいなのかなんなのか、10年くらい前に高校生とか大学生だった世代って、蓋を開けてみたらそれほど脅威の感じはなかったと思う。たぶん唱えるほうに、「脅威のデジタルネイティブ世代」というフレーズを言いたい前のめり感があったのだと思う。物心ついたときからデジタル機器があったと言ったって所詮それはガラケーだったり、ネットの主流文化もブログだったりしたわけで、まだ彼らは我々(昭和世代ということになるか)と地続きだった。真の「脅威のデジタルネイティブ世代」は、そのさらに下の世代なのだと思う。いま20歳前後以下の世代。あいつらは本物だ。もはや人類の質が違う気がする。IT革命前と後の人類で、うっすら種族が違う気さえする。「夜明け前」のような分断がここにはあるのではないかと思う。

2019年4月27日土曜日

ストイック・パンツ・茶魔

 いい体になるために摂生をしている。夜に麺類を食べていないし、週末の晩酌もビールや日本酒ではなく、チューハイやハイボールにしている。さらには菓子類もほとんど口にしていない。
 そんな暮しで愉しいか、と以前の僕なら言ったと思う。お酒と甘いものを抜いて、なんのために生きているのか。そんな抜け殻のように生きて幸せか、と。
 もちろん愉しいのである。この精神状態になってみて思うのは、上記の行動は、結果的に「摂生」と呼ばれるものになっているというだけで、かつての晩酌を毎晩していた自分と、今のいい体を作ろうと励んでいる自分、その行動理由はどちらも喜びを得るために他ならない。お酒を飲んで幸せか、やってくるいい体のことを思って幸せか、ただその違いがあるだけで、幸福希求の表現が変わっただけの話なのだ。
 そしてこれは僕のこの、晩酌と筋トレを例にした場面にしか通用しない理屈ではなくて、精神(および動物の本能)とは、常に自己の利を求めて動く、きわめて物理的なものだと思っているので、だからアスリートとか修行僧とかって、よくストイックという言葉で褒めそやされるけれど、実はぜんぜんそんなことなくて、彼らなりの快楽物質の発生しやすい方向に身を振った結果がああなっているだけなんだと思う。

 ボクサーパンツには前開きタイプと前閉じタイプがある。前閉じは単なる短パンであるのに対し、前開きはちんこの所で右からの布と左からの布が重なるようになって穴を塞いでいる形で、だからそこからちんこを出すことができるのが特徴である。
 そして僕は断然、前開き派なのだった。前閉じ派の気が知れなかった。前閉じなんてどう考えたって不便だろう。あんなものなんのために生産されるのだと思っていた。せっかく気に入ったデザインのものを見つけても、前閉じタイプだから買わない、なんてことがこれまで何度もあった。
 そんなある日である。排尿のために小便器の前に立ち、ズボンのチャックを下げ、そこから手を突っ込んでちんこを出してハッとした。
 俺、前開きの穴、使ってない!
 チャックを下げたあと、突っ込んだ手はボクサーパンツのウェストゴムを掴み、それを下げて陰嚢ごとまろび出していた。僕はそういうスタイルなのだった。なんか、てっきりあの構造を活用しているような気がして、前開き派を堂々と標榜していたのだけど、実は別にぜんぜん使っていなかったのだった。新発見だった。
 これによりパンツ選びの選択肢が広がった。

 「おぼっちゃまくん」の主人公が使うギャグと言うか、独特の言い回しのことを茶魔語というのだけど、その中に「ともだちんこ」というのがあって、この前ふとそのことを思い出して、「ともだちとちんこって、俺の二大テーマがどっちも入ってるじゃないか!」と衝撃を受けた。友達とちんこについて、本当にこれまでいろいろ考えてきたけれど、それって結局は「ともだちんこ!」という一発の叫びに集約されるのかもしれないな、と思った。すばらしい言葉だ。ちなみに英訳バージョンでは、「friendshipenis」だという。フレンドシッペニス。すばらしい。すばらしいなあ。

2019年4月25日木曜日

離陸・和製・IH

 数日前、国内のどこかの空港で飛行機が離陸を失敗した、というのがニュースになっていた。最初ヤフーニュースの見出しで見たとき、すわ墜落かと思ったのだけど、失敗したのは離陸のほうだった。ちょっと意外だった。
 もう久しく飛行機に乗っていないが(練馬から島根に移住する際に乗ったのが最後だと思う)、乗った時の記憶を掘り起してみると、飛行機に乗ったときの恐怖や絶望感というのは、飛行機が浮かんだ瞬間に発生するのだ。その瞬間、やってしまった、と思う。飛行機が絶望感の乗り物だと、その前の搭乗で思い知ったはずなのに、俺はまたやってしまった、また浮かんでしまった、浮かんでしまった以上、もう俺の生殺与奪は機長次第だ、そしてこの飛行機の機長はドイツかどこかで起ったあの事件のように頭がおかしい奴だし、さらに言えばこの機体に関してはなぜか整備士もぜんぜん整備をサボった。だからもうおしまいだ。浮かんでしまったらおしまいだ。そうなる。
 離陸失敗はそれの回避に他ならない。僕がこの飛行機に乗っていたら、たぶんガッツポーズをしていると思う。そして航空会社がくれる陸路の交通費をホクホクしながら頂く。

 和製英語の話ってきな臭い。「普通に英語だと思って日本人が使っているこの言葉、実は和製英語で、外国人に向かって使ってもぜんぜん伝わりません!」というのが、和製英語話のお決まりのパターンなのだけど、さらによく聞いてみたら、「その表現はアメリカ英語では〇〇、イギリス英語では××といいます」なんてことを言う。それが納得いかない。そこで既に分かれているのなら、我々の和製英語だって表現のひとつとして認められたっていいではないか。言っておくが、別にどうしても認めてほしいわけではない。ただ和製英語話のときの、「ブー! それは和製英語! 嘘のダサいやつです!」みたいな空気に対し、激しい義憤を覚えるのである。それを言う奴が大抵帰国子女だ、というのも怒りを増幅させるポイントだ。ちなみにフライドポテトは和製英語で、アメリカ英語ではフレンチポテト、イギリス英語ではチップスだそう。うるせえよ。ケンタッキーフライドチキンがあるんだから、油で揚げたポテトはフライドポテトでいいじゃねえか。なに言ってんだ。

 教本をたくさん読み、プールに週に3、4回のペースで通って、そして思った。
 まあこのあたりが俺の水泳の才能の限界だろうな。
 これ以上はもう伸びていかない。伸びしろがない。才能がある人たちはひゅんひゅん飛び越えるだろう壁に、突き当たってしまった。それをあるとき痛切に感じた。
 それでファルマンに、
「どうやら俺は、インターハイとかには行けない人間のようだよ……」
 と打ち明けた。
 するとファルマンは、「い、いいんじゃない。別に」と言った。

2019年4月17日水曜日

にー・ちょっと・いろぼけ

 週末に行なった部屋の模様替えの際、ファルマンが物と物の間に指を挟んでしまい、激痛に襲われるという一幕があった。物理的に痛かったのに加えて、そのあとも痺れのような症状が続き、これはだいぶタチの悪い感じだぞ、と嘆いていた。具体的に言うと、「痛いにー」「変だにー」と唱えていた。その晩のことである。ファルマンが子どもたちと風呂に入り、体温が高まってさらに掻き立てられた患部の痛みを憂えていたところ、ピイガが「いたいのはどこ?」と訊ねてきた。それでファルマンが指を見せて「ここだにー」と伝えると、ピイガは迷いなくその指を思い切り引っ張ったという。ファルマンを襲う再びの激痛。なんてことをするんだ、ともちろんその場で窘めたそうである。しかし風呂から上がって、事の顛末を僕に向かって話したあと、ファルマンがポツリとこう言った。
「そこから痛みが全くなくなったにー」
 そんなピイガのミラクルの話。ファルマンの方言のせいで内容が入ってこない。

 先日ふと、ザ・たっちの「ちょっと! ちょっとちょっと!」というギャグは、実はすごく秀逸なのではないかと思った。ダチョウ倶楽部の「聞いてないよぉ」(流行語大賞銀賞)にも匹敵する力を持っている気がする。とにかく日常生活で使いやすいのがいい。もっと流行ればよかった。どうしてあまり流行らなかったのだろうかと思い返して、具体的にどのあたりの年代になるのかは定かではないが、あの頃はテツandトモとか、小島よしおとか、なんかそこらへんのギャグがわりと渋滞していたからではないかと思った。贅沢な時代だ。いま初めてこのギャグがお披露目されたのなら、たぶん流行ったと思う。今はもう出涸らしなので難しいだろう。残念な話だ。僕はこのギャグを再発見したので、流行など気にせず日常で使っていきたい。いっそのことこのブログのタイトルも、「ちょっと! ちょっとちょっと!」の言い方で言うことにしようかとさえ思う。

 子どもふたりが1月生まれで、なので5月あたりに妊娠が発覚していたのだけど、それはさらに原因を遡れば、こういう話になる。
 4月の俺は発情期。
 ホンマやな、ホンマにその巡りでワイは生きとんのやな、と思った4月上旬だった。
 頭の中が常に桃色遊戯で、ブログもサボり気味になるほどに色ぼけていた。下旬に入り、それがやっと少し治まったように思う。よかった。発情が治まったのもよかったが、しかしそれはそれとして、ちゃんと発情が起ったのも30代半ばの男性として安心した。

2019年4月9日火曜日

健康診断結果・神様・ガラケー愛

 健康診断の結果が出る。心待ちにしていた。だって3月、ほぼ酒を飲まなかった。そんな生活を25日も続けて、診断を受けたのだ。それはもう途轍もなくいい結果が出るだろうと期待していた。いや確信していた。それで大きい封筒を開けたら、中から「紹介状在中」という小さな封筒が出てきたので衝撃を受けた。今年の僕には入っていないはずだったやつ。今年も入っていた。いらない。いらないはずだったのに。
 表を確認すると、引っ掛かったのはもちろん肝機能だった。引っ掛かるのはそれ自体が嫌だけど、なんかしらに引っ掛からなければならないのだとしたら、なじみのある肝機能がいい。肝機能なら、原因が明白だから。ちなみに今年のGTPは106。正常は~50。去年は134。去年より良くなっていると言えば聞こえはいいが、いまいち効果が足りない。もっと落ちていてしかるべきだ。106は身の回りの酒飲みたちが武勇伝のように語る数値からすれば屁のようなものだが、それでも満足がいかない。さらに言えば、同じく肝機能のチェック項目であるASTやALTももちろん基準値を超えているのだが、それらの数値は去年とまるで変わっていない。変わっていないってなんだよ。3月も普通に飲んでいた去年と、3月ほぼ飲まなかった今年で、変わっていないっておかしいだろう。じゃあ飲むよ、って話になってくる。飲まない分だけ損じゃないか。こんなことがあっていいのか。
 それでこの結果を踏まえ、今後どうするか。酒をまた毎日飲むようにする、ということにはさすがにならない。もう気持ち的にも必要なくなったし。飲むにしたって週末だけだ。そしてオルニチンのサプリとか摂ってやろうと思う。1ヶ月で足りないなら1年だ。来年こそ基準値まで落す。もうトサカに来た。肝機能やってやんよ。1年そうやって努めて、そして来年それでもまだ紹介状が封入されていたら、そのときは大病院に行って精密検査をしてもらおうと思います。

 職場の有線で「トイレの神様」(植村花菜)が流れて、流れるたびになんとも言えない気持ちになるのだけど、流行った当時はただもう純粋に「へっ」としか思っていなかったこの曲が、年月が経ち、もう世間の熱がすっかり冷めたところで、ようやくおもしろく思えてきた。逆にいま「トイレの神様」を持ち出してきたらウケんじゃね、と思う。
 この曲はかつてとても流行ったことで、メロディだったり歌詞の内容だったりを、けっこうみんなが知っている。ここがいい。だから替え歌にして、カラオケで10分超、朗々と唄ったらば、それはけっこうなエンターテインメントになるのではないかと思った。
 それでどんな替え歌にすればいいかと考えた。テーマはもちろん性的なことで決まりだったのだけど、全寮制の中高一貫女子校を舞台にしたり、美術部のヌードデッサンのモデルが勃起してしまって構図が崩れる物語で考えたり、いろいろ思案した末に、シンプルにいちばんおもしろいのは、「トイレ」の部分だけを「チンポ」に替えることではないかという結論に至った。チンポにはそれはそれはきれいな女神さまがいるんやで。

 携帯電話がいよいよおかしなことになってきた。故障ではない。立ち位置の意味不明さの話である。スマホに対する嫌悪感から、ガラケーを保ちつつタブレットを持つようになったのがちょうど1年ほど前のことである。単純にスマホにしてしまわないところに、一種の矜持を持っていた。俺は蒙昧にスマホ窟に没落してしまわないのだぞ、と。
 しかし1年経って、タブレットでネットをしたり音楽を聴いたり文章を書いたり、わりと便利に使う横で、ガラケーの使わなさと来たらどうだ。それまでガラケーで行なわれていた家族内のやり取りもLINEでできるようになってしまったら、ガラケーは本当に鳴動しなくなった。あ、朝にだけ鳴動する。本当にその機能だけ生きている。それ以外ない。
 この状況になってみて思うことは、「ガラケーの矜持ってなんだよ」ということだ。スマホに対する嫌悪感が、僕のガラケーへの思いを無駄に掻き立ててしまっていたようで、別に僕にはガラケーに誇りを持つ義理なんてないのだった。スマホが嫌いなことと、ガラケーを愛することはイコールではない。別にガラケーに愛なんてなかった。
 だから、なんかもう、本当にタブレットだけでいい気がしてきた。

2019年4月2日火曜日

新元号決定・山陰洗礼・あらすじ短歌の発見

 新元号が発表される。令和。ほほー、と思った。
 平易で読みやすくてMTSH以外で、といろいろ条件がある中で、国民があれだけ予想をしていたのに、それを見事にかいくぐったやつをババーンと出すのって、さぞ気持ちよかっただろうな、と思った。安永? 安久? ちげーよ! なに時代だよ! 応仁の乱かよ! センスが古いんだよ愚民どもめ! これだよ! ババーン、という。
 そうなのだ、令和って字面も音も、なんかシュッとしている感ある。垢抜けてる。もうイメージが湧く。明治大正昭和平成、令和。令和の未来感と来たらどうだ。そしていま未来感のある令和もきっと数十年後には、未来感がちゃんとなくなっていて、次の元号が次の時代らしい未来感のある言葉になるんだろうと思う。さすがは国語の重鎮が考えるだけあり、大したもんだと思った。
 ちなみに最終候補は令和を含めて6案あったとのことで、選ばれなかった5案がどんなものだったのかは、秘匿されるはずが、ずいぶんおしゃべりな政府関係者がいるようで早くもすべて明かされてしまったのだけど(我慢できなさすぎだろう)、それは「英弘(えいこう)」「久化(きゅうか」「広至(こうし)」「万和(ばんな)」「万保(ばんぽ)」だったという。こうして見ると令和の圧勝じゃねえか、と思うが、それは令和になった世界の僕が見るからかもしれなくて、パラレルワールドの「万和」に決まった僕が見れば、万和以外あり得ねえ、と感じるのかもしれない。もっとも皇太子の顔だけで考えると「広至」がなんとなくしっくり来るような気はした。それと最後の「万保」は、ドラクエ5のゲレゲレ的な感じがあると思った。どうしても「んぽ」に反応してしまう小学生男子が僕の中に巣食っている。こいつは平成が終わって令和になっても、ずっと僕の中に生き続けるんだろうと思う。って言うかそれが俺の本体だからね。

 おとといに日帰りで妻子を島根まで迎えに行って帰ってきたら、その夜から急に体調を崩し、いまはすっかり風邪のような状態になっている。それまで独り暮しのもんだから調子に乗って連日のようにプールに行ったりして、とても体調がよかったのに、本当にガクンと悪くなった。ただでさえ新年度寒波などと言って気温が下がっていたのに、それに加えて一段寒い地方に行ったものだから、もう体がついていけなかった。さらには黄砂とか、実家の犬の毛とか、喉を痛め鼻を苦しめる外敵がいっぺんに襲いかかってきた。ふだん温室の岡山でのほほんと暮している人間が、過酷すぎる山陰の環境に晒されて、滞在時間わずか半日にして、これほどのダメージを負った。おそろしい。あまりにもおそろし過ぎる、山陰。逆に言うと山陰で暮している人間のエネルギーすごい。なんかたぶん、鬱屈とした、濃厚な、なんかカルマ的なやつだ。おそろしい。

 先日「andp」に、あらすじ短歌というものを投稿した。これがすごくよかった。別に誰かから褒められたとかではなく、もちろん僕自身が思ったことなのだけど、すごい発見だと思う。短歌とか俳句とか、小説のようにきちんと設定や前後関係を語れるわけではない表現って、それが原因で題材が限られて、小説で言うなら私小説、すなわち作者本人の人生でしか創作ができないとされてきたけれど、ああやって短歌の前に散文であらすじを記しておけば、どんなテーマでも題材にすることができるのだ。できたんだ。みんなできないと思ってただろ。できるんだよ。前置きで説明しちゃえばよかったんだよ。逆に、作者の人生をきちんと知っていなければその短詩に込められた感情が汲み取れない、なんてもののほうが、考えてみたらよほど不健全だったのだ。
 エロ動画って、再生すればとりあえず男と女がまぐわっていて、それがどういう関係のふたりで、どういう経緯でそうなったのかなんていう説明はほとんどなされない。でも男と女がまぐわっているのを見ればとりあえず興奮する。それと一緒だと思う。詩情とか、背景とか、そういうのはどうでもいいのだ。そんな部分の表現をせっせとする必要はない。描きたい部分を描きたいように描けるように、最短で至ればそれでいいのだ(バカボンフィニッシュ)。

2019年3月27日水曜日

静寂・デスブログ・水泳

 健康診断はつつがなく終了した。と言っても詳しい結果はもちろん後日なので、当日の時点でつつがなくなかったら問題である。唯一ちょっと懸念があるとすれば、聴力検査で、いちど目はぜんぜん音が聴こえなくて、係の人に「おや?」という感じをされてしまった。僕も聴力検査でそんな風になると思っていなかったので、「おやおや?」と思った。それでもやり直したらなんとか聴こえたので事なきを得た。最初はヘッドホンの着け方が悪かったのかもしれない。あるいは本当に耳が悪くなったという可能性ももちろんある。その原因について考えたところ、すぐに子どもたちの顔が思い浮かんだ。思えばこの健診の前は4日間、連休で子どもたちと過したのだ。さらにはカラオケにも行った。耳はちょうどずいぶんダメージを受けていたのではないか。
 そんな疑念を渦巻かせつつ、今の僕は静寂の中にいる。春休みに入った子どもとファルマンは、今日から島根に里帰りなのである。というわけでここから数日の独り暮し。寂しい男やもめ。帰宅すると、静かで、部屋がきれいで、寂しくって辛抱たまらん。

 健康診断を終えたあと、少しだけチューハイを飲んだが、ビールはまだ飲んでいない。やっぱり情熱がだいぶ下がった。飲まなくても大丈夫感がすごい。
 思い返せば僕は今年の1月に、「僕等は瞳を輝かせ、沢山の話をした」に、「ビールは友達」という文章を書いた。ビールは僕のことを労い、優しくしてくれる。だからビールは僕の友達だ、という内容だった。
 あんな文章を書いたからではないか、と思った。ビールを友達としてしまったから、僕とビールの間には距離が生まれる結果になったのではないか。僕という人間と、友達という存在は、どうしたって離別していく運命なのではないか。万有引力の逆バージョンのような、謎の力がここには存在するのではないか。
 第1弾がビールだった「〇〇は友達」シリーズは、これから「ブログ」とか「ちんこ」とかでも書こうと思っていた。でも上記のデスブログ的な恐怖から書くのをやめた。そのかわり、「人の悪意」や「人の哀しむ顔」を友達と言えば、僕の人生からそれらは遠のくのではないかと思う。でもそんな文章、書いたら頭おかしいと思う。

 プールは4月も月会員を継続することにした。労働帰りのエクササイズの充実感、いちど知ってしまったらそうそうやめられない。
 それに週に3回くらいせっせと泳いでいるだけあって、ひと月でかなり泳げるようになってきた。はじめは小刻みにプールから上がって、ベンチでしばらく休んだりしながら、騙し騙し300メートルから400メートルほどを泳いでいたものが、今ではぶっ通しでその倍くらいの距離を泳いでいる。そして息も全然あがらない。
 肺活量とかが鍛えられたのもあるだろうし、なによりこのところめっちゃ本を読んでいるのだ。クロールの泳法の本。もう10冊くらい読んだ。どうすれば楽に長い距離を泳げるのか、作者や出版年によって、書かれている内容はもちろん微妙に異なっていて、そのときどきで直前に読んだ本の泳法を試している。いろいろ意識しすぎて泳ぎ方がぎこちなくなっているきらいもあるけれど、採用できる部分は採用している。どの本を読んでいても共通しているのは、どれだけ水の抵抗を減らせるかが鍵だ、という点だ。水中の運動は、水の抵抗があるからこそ地上の運動よりも効果的だが、しかし大事なのはその抵抗をどれだけ受けずに運動できるかなのである。ここにスイミングの情趣がある。泳ぐ習慣のないあなた方にはまるで理解できない情趣でしょうけれども。

2019年3月13日水曜日

Vネック・ファスナー・ボトルカバー

 Vネックの意味が分からない。どうして世の中にVネックなんてものがあるのだろう。出す必要なんてないだろう、首の下のあの部分。ぜんぶ丸襟でいいだろう。
 百歩譲って、ワイシャツとかポロシャツを着た際の肌着としてのVネックは許す。それらの第1ボタンを開けたときのVのスペースに丸襟の肌着が覗けていたらちょっとダサい。それは解る。だからそのときだけVネックの肌着は有用だ。でもそのときだけだ。
 去年やおととしあたりから、VネックのTシャツというのがちょっと流行っている。あれが本当に嫌なのだ。着るのが嫌なのではない。それ以前の問題で、世の中にあんなものが生み出されるのが嫌だ。アパレル業界がVネックのTシャツに費やすエネルギーの分、丸襟のTシャツがこの世から減るのである。せっかくいいデザインだと思っても、Vネックだから買えないという悲劇は、もう金輪際この世で起らないでほしい。
 そもそもVネックに勝算なんてないだろうと思う。ただ丸襟にちょっと飽きて、それでなんとなく肌着のそれを外に持ってきただけだと思う。そんな志のなさを感じる。早く気付いてほしい。Vネックは肌着なんだってことに。

 洋式便座に向かって立ちションすると飛び散る、という話があるだろう。まあそれは事実なので、なるべく座って行なったほうがいいとされる。ファルマンにも言われる。家族で男は僕ひとりなので、我が家に立ちションの市民権は一切ない。
 それで意識を高くして、小便だけのときも必ず座って行なっているかと言われると、まあしたりしなかったりというのが正直なところである。夜、パジャマ姿ならば座ってするのもやぶさかではないが、日中は立って済ませてしまうことが多い。なぜか。ベルトを外すのが面倒くさいからだ。立ってする場合ファスナーを降ろしてちんこを取り出せば済むところを、座ってしようとすると、ベルトを外してちゃんとズボンを脱がなければならない(そして事後はもちろん再び穿いてベルトも締めなければならない)。パジャマのときと較べて、この労力の差が大きすぎるのだ。それでなかなか座りションが徹底できない。
 でもこの悩ましさにこそ、発明の種が隠されているのではないかと思う。とにかく面倒なのはベルトなのだ。パジャマならば座るのだから。だからベルトのズボンでも、ベルトを外さず、便座に座ってファスナーを開ければ、ちゃんと小便が便器に入っていくような、そんな仕組みがあればいいのだと思う。そんなデザインのズボンを考えればいい。
 それで少し考えて、ファスナーがちんこの前面だけじゃなく、その向こう側、蟻の門渡り、いわゆるプィーボコクスィヅィアスマッスルの部分まで延長してあれば、座ってそこを開けて(あるいは開けてから座って)、ちんこの先端が真下の便座の中にちゃんと向くように姿勢を調整すれば、ベルトを外すことなく座って排尿できるのではないかと思った。
 そして次の瞬間、これは乳児が着る、股ぐりがスナップボタンになっているサロペットだったり、あるいは中国の子どもが穿くという、尻周りが丸ごと開放されている穴あきパンツの発想だな、と思った。いや、そんなかわいいもんじゃない。面倒くさがりのおっさんが想起したのだ、だとすればこれは介護服の範疇に入れるべきかもしれない。
 観念して、面倒くさがらずベルトを外そうと思います。

 100均に最近、とてもシンプルなプラスチックのボトルが売られているだろう。本当に単なる筒で、筒の大きさのままの蓋がついていて、洗いやすいやつ。もちろん魔法瓶でもなんでもないのだが、日常でそこまでヒエヒエアツアツは求めないので、常温の麦茶を入れて仕事に持っていって、日がなチビチビ飲むという、あのボトルである。
 基本的に500ミリリットルなのだが、先日350ミリリットルの、太さはそのままで少し丈の短いものを目にし、こんなサイズのも持っとけば要所で便利なんじゃないか、と思って買った。併せて布製のカバーも買う。カバーは350ミリリットルのそれ専用のものではなく、それなりに伸縮性のある生地で作られていて、350のボトルにも500のボトルにもどっちにも対応する、というものだった。
 それで今日、350ミリリットルのそれを持って出たのだけど、カバーを被せてみたら、どっちにも対応と言いつつ、やっぱり丈の短い350ミリリットルボトルだと、生地が少し余り気味で、なんか筒の丈が短くてカバーがダブついているというその様に、男子として、やけに切ない気持ちにさせられたのだった。買い物に失敗した。俺は800ミリリットルくらいのボトルを買うべき男だのにね。

2019年3月7日木曜日

社交界・画像・特定外来生物

 新しくしたLINEアイコン(キュアミルキー)の評判がとても悪い。ファルマンが「気持ち悪い! 事案だよ!」などと喚くのは想像通りだったけど、滅多に連絡が来ない姉から、「そのアイコンはやめな」ととても冷徹に忠告されたのはダメージが大きかった。姉って「世間そのもの」みたいな人間なので、言うことに説得力があるのだ。その点ファルマンはほら、アレだから。ファルマンがなんか言っても、特殊な意見だなあくらいにしか思わなくて響かないのだけど、姉は何事に関しても世間から決して大きくズレない、羅針盤のような人間なので、姉に窘められるということは世間的に間違っていることを意味する。それでも別のことなら世間とのズレなんか気にしなかったりもするのだが、LINEというのはどこまでも世間のツールなので、その道の達人の意見は聞いておいたほうがいい。社交界には社交界のルールがあるのだ。おで、山から出てきたばっかで、里のことはよくわがんねっけど。というわけでキュアミルキーのアイコンは2日でやめることにした。すごく気に入っていたのに。あーあ、社交界は息が詰まるな!

 というわけで新しいアイコンはなににしようかと考えている。あんまりコロコロ変えたくないので、もう失敗したくない。しかしなににすればいいのかさっぱりわからない。ちんことキュアミルキー、どっちもダメなんだとしたら(ちんこに関しては自力でダメなことに気づけた)、いったいなにをアイコンにしたらいいのか。
 まず思い浮かんだのはポチャッコである。サンリオの犬のキャラクター。別にぜんぜん好きじゃないのだけど、マイメロやキキララのように狙い過ぎてなく、また逆にけろけろけろっぴとかハンギョドンのように外し過ぎてもない、ポチャッコというのが絶妙なのではないか、これが世間でいちばん受け入れられる度合なのではないかと思った。
 次に、もういっそペリーヌの画像にしてはどうかと考えた。プリキュアをやめてペリーヌの流れ、ファルマンにしかウケないのだけど、ファルマンにウケたらそれでいいや、という気もする。それから世界名作劇場の流れで、マルコとかネロとかロミオとか、いろいろ画像を見たが、どれもいまいちしっくり来ない。
 それから、アイコンにちんこはダメだけど、ちんこに特徴のあるサルならどうだろうと発想し、ボノボやカニクイザルの画像を検索する。しかしサルの顔写真って、なんかやっぱり嫌だな、友達のアイコンがサルだったらやだな、と思ってやめた。
 ああ悩ましい。こんなことなら朝青龍から変えなければよかった。

 それからも悩み続け、でもこんなことにそう時間を割いてもいられないので、もうこれでいいやと決定した。それで結局なんの画像にしたか。
 群生するオオキンケイギクの写真である。
 花て。

2019年3月5日火曜日

プリキュア・ペリーヌ・プリキュア

 地方局による毎朝の放送により、ピイガが去年の暮れからプリキュアに嵌まり、しかしそんなタイミングでの覚醒だったので、もう話の終盤だった本放送中の最新作「HUGっと! プリキュア」には途中参加できず、先月より始まった「スター☆トゥインクルプリキュア」から、ピイガ(わが家の)のきちんとリアルタイムで観るプリキュアの歴史が始まった。
 そしてリアルタイムで観てみたら、プリキュアって本当にすごい。なにがすごいって、マーケティングがすごい。ものすごい商売の仕組みが出来上がっている。お店に行けばもう「スター☆トゥインクルプリキュア」のものだらけ。それを見るたびに「ほしい!」と言うピイガ。まずい。我々は「キラやば」な世界に突入してしまったらしい。スーパーに行くたびにいろいろ見つけ、とても面倒臭い。極めつけはなんてったっておもちゃだ。プリキュアに変身するためのおもちゃ。スターカラーペンダントですって。5000円とかですって。もちろん「ほしい!」。これまでほぼ無菌状態で、オセアニアの有袋類のごとくのどかに生きてきたので、それらが海の向こうからやってきた伝染病や犬によってあっという間に絶滅の危機に瀕したように、うちの娘はコマーシャルへの耐性が途轍もなく低いのだった。非常にまずい。キラやばだ。

 毎日1話放送で、CMはプリキュアとは一切関係ない、旅館とか銘菓とかのものが流れていた、地方局の例の放送は、観はじめた「スマイルプリキュア!」から「ドキドキ!プリキュア」へと進み、それが先々週くらいに終わったあと、次は「ハピネスチャージプリキュア!」かと一家で愉しみにしていたら、たぶん最近のほうの作品になるにしたがって放映権料が高いとか、そんなような事情に違いないが、ここでいちどプリキュアの流れがぶった切られて、それで翌日からなにが始まったかと言えば、「ペリーヌ物語」なのだった。
 「ペリーヌ物語」は1978年に放送された、世界名作劇場の流れの作品で、エクトール・アンリ・マロの「家なき娘」を原作とした、とても味わい深く、とても地味で、とても貧乏臭い話である。もちろん魔法少女に変身なんてしない。父親が死んで、母親と懸命に生きようとするが母親も死んで、孤児になったペリーヌも栄養失調で死にかけたりするらしい。つ、つらい……。
 なにより、これまでのプリキュアからの落差である。なんだか地方局の編成担当者の強烈なメッセージを感じる。ペリーヌはパンがなくて死にそうなのに、スターカラーペンダント(プラスチック製、約5000円)を欲しがるなんて現代の子はおかしくないだろうか。担当者はそういうことを言いたいのかもしれない。僕もまったくもって同感だ。
 毎朝その時間にテレビを観るのが慣習になっていたため、ファルマンとピイガは「ペリーヌ物語」を観ているらしい。当然ピイガは白けた反応のようだが、ファルマンはやけに嵌まっていて、ペリーヌ母娘のモノマネをすごいしてくる。俺の妻、1978年放送の「ペリーヌ物語」のモノマネを、なんかすごいしてくる。どうしてしまったんだ。

 それはそれとして「スター☆トゥインクルプリキュア」の話に戻るのだが、これに出てくるキュアミルキーが非常にかわいい。2話の変身シーンを観た瞬間から、心を奪われた。なんか「スター☆トゥインクルプリキュア」は、昨今のラノベ発信とかの得体の知れないアニメについていけず、すっかりアニメ離れした僕のような親世代にも、すごく訴求する要素が詰め込まれていて、とてもいいのだった。ずいぶん久しぶりにアニメのキャラクターを純粋にかわいいと思った。天にあまねくミルキーウェイ! キュアミルキーですよ。今年のプリキュアは変身の際、歌を唄うのが斬新でいい。
 思わずLINEのプロフィール画像を、朝青龍からキュアミルキーに替えてしまった。母親とか、職場の人とかもいるのに、やってしまった。でもこんなとき娘がいるといい。ほら、娘がさ、プリキュア好きだから。まあピイガが好きなのはキュアセレーネなんだけども。

2019年2月28日木曜日

前夜・カレーハードル・新元号

 あまりブログを書かなかった2月が終わる。なぜ書かなかったか。特に理由はない。なんとか2ケタには乗ったのでまあよしとしよう。
 3月は休肝月にする、という宣言をした。とんでもない宣言をぶち上げたものだと思う。3月までまだあと数日ある、3月の俺と関係のない俺だから言えた。今の俺なら言えない。今日の俺は、明日から酒が飲めない俺なのだ。とんでもないことだ。さっき労働の帰りにスーパーに寄って、棚を見て回ったのだが、おいしそうだなと思うものがあっても、(ビールを飲まない俺がこんなものを食べていったいどうするんだ……)と手が伸びなかった。3月はずっとそんな風に、伏し目がちに生きていくんだと思う。ビールのない世界の果てをきっと僕は目にする。

 ファルマンのカレー好きが加速しているのだけど、その好きの加速というのが、カレー好きが高じてオリジナルの調合をしてこだわりのカレーを作るとかじゃなくて、そういう頂きを目指す方向でなく、カレーならばどんなカレーでもアリだ、という、裾野を広げるほうの加速なのだった。そっちか、と思う。例えばコーヒーがすごく好きな人というのは、缶コーヒーを受け入れない。嗜好というものは得てしてそのように尖鋭化してゆくものだと思っていた。そうじゃないパターンもあるということを伴侶のおかげで初めて知った。そして裾野が広がるほうに加速した結果、ファルマンはこの頃とても広い心でカレーを作るようになった。だって汁にカレールウが溶けていれば本人としてはもうオッケーなのだ。そのハードルの低さ。僕が(このカレーはちょっとどうなんだろう……)と思うカレーを、おいしいおいしいと食べる。「カレーにいいカレーも悪いカレーもない」のだと言う。この現象が、いいことなのか悪いことなのか、ずっと判断がつかないでいる。

 職場の女の子で、新元号が始まる5月1日に婚姻届を提出する予定だという子がいて、まあせっかく結婚するんならそういうエピソードが付加される日に出したほうがお得な気分だよね、と2008年8月8日に提出した身として感じ入る部分がある。ちなみに新元号は3、40年にいちどのペースで訪れるが、080808というゾロ目は100年にいちどしか訪れないので、レア度で言えば我々夫婦のほうが勝っている。だからこっちのほうが偉い。ひれ伏してほしい。
 それでいつもの新元号を当てていこう企画なのだけど、イニシャルKが来るんじゃないかという予感もあるので、いっそこういうのはどうかと思った。
 結婚。
 これなら職場の女の子がすごく便利だろうと思う。

2019年2月25日月曜日

ゾルフーザ・プロテイン・パーテーション

 ポルガがインフルエンザに罹る。春の到来を感じる今日この頃、今年は我が家はインフルエンザ禍を免れたなと安心していたら、しっかり2年連続で罹ったのだった。話を聞くと小学校の両隣の子がインフルエンザで学校を休んでいるという。両隣をインフルエンザで挟まれたなら、もはやオセロのルールに従うよりほかない。
 発症が土曜の深夜、日曜の明け方だったので、朝になって、市の持ち回りの休日診療をしている医院を調べ、連れてゆく。ちょうど割と家の近くの医院で助かった。タミフルでもリレンザでもなく、ゾルフーザというものを処方される。インフルエンザの特効薬って、家庭用ゲーム機くらいのペースで刷新されているような気がする。それにしてもゾルフーザってドラクエのラスボスっぽい。
 そしてさすがは新薬、1日経って、熱はすっかり下がり、元気になって逆に困っている。今のところ僕を含めて感染の兆候はない。このまま鎮火してほしい。

 3月の終わりごろの健康診断が予告され、対策を練っている。そのときだけ節制して数字を良くしたって意味なんかないという理屈で、これまでは別になにもしてこなかったのだけど、今年からは違う。なんかそのときばかりの数字でも、なるべく良くしたい気になった。そこに35歳という年齢のリアルさがあるのだと思う。
 数字を良くするとはどういうことかと言えば、それはもちろんγ‐GTPのことである。体重なんかは大した問題ではないのだ。とにかく僕の健康診断は、いつもγ‐GTPばかりが足を引っ張るのだ。それを健常な数値にしたい。
 というわけで3月は禁酒したろうかな、などと思う。休肝日ならぬ休肝月じゃい、などと豪胆なことを思う。なぜそんなことを思えるかと言えば、今がまだ3月ではないからだ。酒を飲むことを許されている2月だからだ。3月の俺かわいそ(笑)。
 3月はプールの月間フリーパスを買う心積もりもあり、ちょっと3月の僕は人間が変わるかもしれない。ブログにも、プロテインの話しか書かなくなるかもしれない。その場合は許してプロテイン。3月はこんなプロテインジョークが次々繰り出される予定。

 夫婦の部屋の模様替えをした。
 前回の家全体の模様替えによって、僕とファルマンのパソコンデスクが初めて横並びになった、ということを書いたが、これがやってみたらあまりよくなかったのだった。した直後から僕は「パーテーションを立てたい」などと言っていて、実際にちょっとしたボードを立てたりしていたのだが、それでもやっぱりどうもダメだった。居心地がよくなかったの僕だけじゃなく、ファルマンもまた「なんか落ち着かない」と言っていた。あとファルマンの椅子というのが、大社長が座るような図体のでかい物であり、これまでの配置は、ドア、ファルマンのデスク、僕のデスクという並びだったので、僕が僕のデスクに行くにあたり、ファルマンのその椅子がいちいち邪魔なのだった。そんなわけで不満が募り、再調整と相成った。
 新しい配置では、互いのデスクの背面を突き合わせる形、つまりわざわざ回り込まなければ相手のディスプレイは見られない形になり、ふたりで「ああこれがいい」と安息した。僕はファルマンと違っていかがわしいサイトとかを見るわけではないのだけど、それでもやっぱり、お花畑とか小動物とかの画像って、ひとりの世界で眺めたいものであり、今回の模様替えによって、これで安心していつでも自由に勃起したりできるな、とほっとしている。

2019年2月21日木曜日

二の腕・猪・新元号

 プールは週に1回ないし2回行くくらいの感じで、今後も緩やかに続いていきそうな気配がしている。いい習慣だと思う。泳ぐ距離は、毎回ちょっとずつ増やすよう心掛けていて、前回は550メートル泳いだ。毎回50メートルずつ伸ばすとしたら、50回を経たとき、僕は3000メートルくらい泳いでいる計算になる。そう考えると気持ち悪い。スポーツはマゾヒズムだと言われるが、だんだん大きな刺激でないと満足できなくなってくる感じは、まさにその通りだと思う。ほどほどのところでストップしよう。
 初めてひとりで行って、ちゃんと泳いだ翌日は、さぞや筋肉痛になるかと思ったら、そうでもなかった。ただし二の腕に少し来た。泳法はクロールなのだが、負荷は二の腕に来るのか、とちょっと意外な気がした。しかし二の腕はなあ、できればなあ、あまり筋肉をつけたくないのだよな。ただでさえバトンで否が応でも鍛えられてしまうのに、さらに水泳でもとなると、そんなのもう、筋肉おばけじゃんかよ! 参っぜ!

 帰宅途中、猪を目撃した。
 去年の暮れあたりから微妙に猪の話題が多い気がする。嫌だな。アーバンなブログのはずなのだが、猪がやけに生活にまとわりついてくる。おかしいな。
 家に帰るべく車を走らせていたら、交差点の脇の茂みから猪の親子3頭が現れたのだった。そして僕の車の3台前を、交差点の横断歩道などもちろんまるで気にすることなく、左から右へ悠々と横切っていった。悠々と歩く猪に対して人間の運転する車ができることなどなにもなくて、交差点はしばし「猪ストップ」状態になった。猪が車道を渡り切ったところでストップは解除され、再び走り出した。道を渡った猪たちは、そのまま反対側の茂みの中に消えるのかと思いきや、普通に歩道を歩きはじめたのでびっくりした。それで車道を走る僕と、歩道を歩く猪親子は、反対車線を挟みながらも、15メートルほど並んで進む形となり、まあまあ近い距離から、まじまじとその姿を見つめることとなった。だって猪である。動物である。ペットじゃない野生動物だ。猪の体重はだいたい人間と同じくらいだという。その体躯を抱えながら、親子で、野生で生きているのだ。なんか感動する。子どもたちは、ウリ坊というほど小さくはなくて、人間で言ったら小学校高学年から中学生くらいだろうと思う。そろそろ親の手伝いもできる年頃だ。親子で仲良く、いつまでも達者で暮してほしい。歩道を普通に歩いている姿を見て、怒って突進とかしてこないのであれば動物ともぜんぜん共存できそうだな、などと思った。錯覚だけど。

 新元号を当てにいこう企画。2回目。
 回輪。
 かいりん。イニシャルのKが来るのではないかという読みがあり、それでカ行の漢字を多く見ているのだが、その中で「回」っていいなあと思った。平易だし、意味も深いし。たぶん実際には選ばれないのだけど。輪のほうには特に意味はない。だから本当は「回回」(かいかい)でもいいと思う。あるいは深い「回」の概念の教えという意味で、「回教」(かいきょう)もありだ。ありだけどそれはイスラム教という意味だ。

2019年2月7日木曜日

プール・指示・新元号

 労働後プール2回目。前回350メートルだったので、それを超えようと、400メートル泳ぐ。最後は息も絶え絶えだった。その400メートルも、もちろんぶっ通しで泳いでいるわけではなく、休み休みやっているのだが、こじ開けるかのように僕がなんとか400メートルに達するまでの間、ずっと一定のペースで泳ぎ続けているおっさんというのがいて、すごいもんだと思った。でも続けていればきっと僕もあの境地に至れるに違いない。飽きずに精進しようと思う。
 脱衣所では、教室を終えた小学生らとタイミングが一緒になり、小学生男子はやっぱりちんこの話をしていた。教室で毎週おんなじメンツで水着の脱ぎ着ををしているだろうに、それでもやっぱりちんこの話をするのだな。それはそうだな、と思った。僕もできることなら一晩中ちんこの話ばかりをしたい。仲間に入れてもらおうかな。

 去年大騒ぎした、日大アメフト部の悪質なタックルの件、警察が捜査をした結果、監督とコーチの指示は立証できず、刑事責任は問われないこととなった。そうなんだ、と思った。あんな、ほとんど自白みたいな音声データがあっても、指示は立証できないということになるのか、と驚いた。じゃあもういったいどれほどのあからさまさがあれば刑事責任に問われるのだろうと思う。痴漢とか、被害者女性が訴えたらほぼ100%有罪にされる、という話がある(という話が世間で盛んに取り沙汰された結果、痴漢を訴える女性はヒステリックで自意識過剰な狂言だ、という風潮が逆に蔓延してきた感もあるが)。その逮捕のガバガバさと、今回のアメフト部の捜査の厳密さの違いは、なんだか腑に落ちないものがある。部を支配していた監督およびコーチが、学生に悪質なタックルを強要する空気を作り出していたことは、これはもう確実で、集団を支配する人間が作り出す空気というものは、戦争を例に持ち出すまでもなく、だいぶ絶対的な拘束力を持つ。具体的な指示がなかったとしても、その空気を作り出すことが、もう犯罪に片足を突っ込んでいると言えるんじゃないかと思う。というより、思いたい。空気的な強要は指示ではないので刑事責任はない、ということになると、忸怩たる思いを抱えながらも逃げられない人間(今回のタックルをした学生のような)が、救われなくなる。いや、でも集団の構成員が勝手に暴走するパターンもやっぱりあるので、その線引きが難しいのか。しかしなあ、今回の件はなあ、絶対に指示してるからなあ。ねえ。

 エイプリルフールに発表されるという新元号を、これからどんどん予想していこうと思う。平易な二文字の漢字、というルールがあるので、数を撃てば案外的中するのではないかと思う。パピトラダムスとしての能力も高まっていることだし。
 というわけで今日の予想。
 永広。
 えいこう。なんかそれっぽい。このくらいのテンションで挙げていこうと思う。

2019年2月5日火曜日

こころ・プール・ブログ

 「心」という字は心臓の象形だとされるけれど、その篆文字を見るとあまりにもちんこっぽくてどうも怪しい、ということを以前に書いた。いつ書いたかと確認したら、2014年6月のことだった。それから心はちんこから来ているというパピ川静学説に則り、心を用いた漢字でエロいものランキングを開催するに至ったのだが、そのときに見逃していた大物を、このたび漢検準1級の勉強中に発見した。当時にこの漢字の存在にたどりついていれば、いろいろ話は早かったことだろうに、と忸怩たる思いを抱いた。
 それは「蕊」である。雌蕊、雄蕊の「しべ」。
 草冠の部に分類されているため、当時は気付けなかった。気付いていれば、「心」が心臓なんかじゃないことはその瞬間にスパーンと結論が出ていた。だっておしべとめしべに心臓は関係ない。それはどこまでも性器のことだろう。感情のない、心臓のない、植物の、剥き出しの性器を示す言葉の漢字に「心」×3。じゃあもう絶対じゃん。絶対に「心」はちんこじゃん。1ちんこじゃ足りなくて、3つ重ねるほどのちんこじゃん。本当にいったい誰なんだよ、「心」が心臓だって言った奴は。逆にそいつの唱える根拠を聞きたい。

 労働後の水泳を本当に実行した。労働後に施設に行ってエクササイズを行なうなんて、まるで意識が高い人のようだと思う。そうです。わたすが意識高い人です。
 プールでは、なにしろひとりなので、泳ぐ以外にすることがない。ひとりカラオケはひたすら自分が唄っていなければならないというのと同じで、ストイックに泳ぎ続けなければならないのだった。ファルマンに、「晩ごはんの時間までには帰ってこい」と言われていて、そんなのぜんぜん時間がないじゃないかよ! と泳ぐ前には思ったのだけど、25メートルプールをひとしきり泳いで、息がゼエゼエになって、時間を見たら入館して15分くらいしか経っていなかった。まだ晩ごはんは下拵えの時間だった。でもプールはスイーツの食べ放題みたいに、1分いくらとかのシステムではなく、15分でも2時間でも同じ料金なので、さすがに悔しくてもう少し粘った。ベンチでの休憩を挟みつつ、悲鳴をあげる体に鞭打って、そのあとも何度か泳いだ。結果として、合計350メートルほど泳ぐ。ファルマンに伝えたら「すごい」と言われたが、たぶん世間的にはそれほどすごくない。でも初回だ。ここから僕はどんどんたくさん泳げるようになっていくのだと思う。
 そんなわけでなかなかよい労働後スイミングだった。習慣にしようと思う。それにしても通勤途中にあるこの施設、あまりにも気づくのが遅かった。これまでの5年間で既にこの習慣ができていれば、たぶんその世界の僕は今こうして悠長にブログなんて書いてないと思う。屈強になりすぎていて、キーボードなんて打てないと思う。逆に言えば、このブログも長くてあと5年の命だ。そのうち屈強になりすぎて、指がキーボードのサイズを超えると思う。そのくらい屈強になることを見越している。

 おもしろいブログが読みたい。せっかくタブレットを持って、合間時間でインターネットができるようになったのに、見るものがなんにもない。本当になんにもない。ラインのやりとりがないのは言うまでもないし、近ごろタブレットでしていることと言えば、ヤフーのトップページで気になった記事を読むことと、「USP」を読むことくらいだ。そうなのだ。読むものがなさすぎて、おもしろいブログとして、僕は「USP」を読んで暮しているのだ。「USP」はおもしろい。すばらしいブログだ。しかし残念なことに、「USP」は過去のブログである。やっぱり人の日記を盗み見するのなら、リアルタイムの、同じ日々を生きる人のものがいい。それでここ数日、おもしろいブログを求めてウェブ上をさまよったりしたのだけど、これがぜんぜん見つからない。これまでそういうことをまるでしてこなかったため、たぶん探す能力がめっぽう低いということもあり、本当に見つからない。ゲームとか、株式とか、スピリチュアルとか、そういうんじゃなくて、読み物として普通におもしろい、日記のようなブログがいい。しかもそれが1個あればいいんじゃなくて、自分もできていないので毎日更新しろとは言わないが、それでも定期的に更新があるとして、だとしてもどうしたって読むペースと書くペースでは差があるので、そういう心地よく読めるブログが、20個は欲しい。1個も見つからないのに、20個も欲しいのだ。でもこれは案外すんなり叶う気もする。ひとついいブログが見つかれば、そのブロガーがお気に入りのブログを20個リンクしている可能性があるからだ。そんなことを期待している。でも探すのが本当に下手。探されるのも下手。こうしてブログは広がってゆかない。

2019年1月28日月曜日

干支切手・野生・照ノ富士

 今年のお年玉付き年賀はがきの当選番号が発表されて、切手シートが3枚当たる。末等の切手シートは100枚中3枚の確率で、もちろん我が家には4人の総計で100枚も届かない(せいぜい25枚くらいだ)ので、そう考えれば少しだけ強運だと言える。とは言え切手シートではあるのだけど。
 ところでその切手シートについて、まだ引き換え前なのだけど、ものすごい情報を仕入れてしまった。それは、「今年の切手シートのデザインは猪じゃなくて猫」だということだ。ネットで画像を見たら本当だった。切手部分には2枚とも思いっきり招き猫が描かれていた。
 また出てしまった。発動してしまった。つい出ちゃう。加齢とともに確実に能力が高まってる。あるいは制御する機能が衰え始めている。パピトラダムスの大予言、予言蛇口のコックが緩み気味。チョポチョポ漏れ気味。
 まあ昨今の猫ブームと、猪の魅力のなさを考えれば、当然の帰結だとも言える。僕も実際どこまでも理屈で考えてあの漫画を描いた。
 ちなみに切手シートの切手部分に干支が描かれないことは珍しいことなのかどうかウェブ上で確かめたところ、前回そういうことがあったのは、昭和50年、1975年の卯年で、そのときは「桂離宮の水仙の釘隠し」がデザインされていた。生まれる前のことなので分からないが、たぶんそのとき日本は空前の桂離宮の水仙の釘隠しブームだったのだろう。
 というわけで、干支が切手にならなかったのは44年ぶりということになる。そしてこのタイミングは、明らかに猪が狙い撃ちされたと考えていい。亥年の人間の猪への愛着のなさを見透かされて、実行されたに違いないのだ。これを去年の犬のときにやってみたらどうだ。全国の偽善的な愛犬家たちが、それはもうキャンキャンキャンキャン大騒ぎしただろうことは火を見るより明らかだ。犬好き、猫好きのそういうところ! そういうところが嫌い! 猪に愛着を持たない亥年の人間として、干支の座なんか猫にくれてやろうと思っていたけれど、現実世界の猫好きの人間が喜ぶことを想像したら途端に嫌になってきた。エートゥー離脱問題で情勢を引っ掻き回す、俺はボリス・ジョンソン。

 週末、がくんと体調を崩していた。子どもが週の半ばに崩したので、それを見事に引き取った形である。体温もずいぶん高いところまでいって、これはこれは、という感じになった。平日まっとうに働いて週末に体調を崩すなんて、俺は社会人の鑑ではなかろうかと思った。
 それで、発症したのが土曜の夜だったので、とりあえず豪快に寝た。翌朝はまだ具合が悪かった。午後から近所の診療所で日曜診察をしているらしいという情報をファルマンが仕入れてくれたので、それまで再びひたすらに眠った。午後になり、ファルマンが「予約だけ先に入れてくる」と言って家を出ていき、少しして「第4日曜はやってへん……」と帰ってきた。もっと遠くの、市内の病院が持ち回りで行なう感じの休日診療ならあるけど、と提案されるが、あまりにも億劫すぎたし、なによりその時点でいくらか体が楽になっていたので、行かないことにした。そしてそれからも寝た。俺はいざとなるとこんなに寝ることができるのだな、と我ながら感心するほどに寝た。
 結果として体温は下がり、なんか具合も嘘のように良くなった。本当にただ寝るだけで治した。俺は野生動物か、と思った。あまりにもすっきりと治ったので、月曜日は休もうかとか、午前中に病院に行こうかなどと考えていたのが、雲散霧消してしまい、平常通り出勤した。俺の野生動物でありながら社会人の鑑でもあるという二面性。

 いろんなことがあった大相撲初場所は玉鷲が優勝だった。玉鷲の優勝! ということに関して特に感慨はない。その優勝について、「モンゴル勢7人目」というフレーズが使われ、しかしその歴代の6人のことを誰も教えてくれないので、自分で思い出すことにした。まず朝青龍。そして白鵬。日馬富士と鶴竜。あと旭天鵬の優勝はちょっと感動したので覚えている。これで5人。そして玉鷲が7人目。ろ、6人目誰やねん……、となった。でもネットで検索しても誰もモンゴル人優勝力士全7人を紹介してくれていない。仕方ないのでウィキペディアで歴代の優勝力士を見て確かめた。その結果、判明した。ああ、そうかそうか! とアハ体験のようなものが発生した。あー、すっきりした。そして答えは書いてやんねえのだった。

2019年1月16日水曜日

干支・参列・繁華街

 干支4コマが完了する。去年の12話、今年の12話、合計24話の戌亥編であった。
 1月に干支4コマが終わっているなんていつぶりだろうと確認したら、2015年の未以来、実に4年ぶりのことだった。それ以降は押し並べて12月や11月までずれ込んでいる。つまり僕はこの3年間、それぞれの1年間のほぼずっと「干支4コマやらなきゃなあ」を頭の片隅に置いて暮していたのだ。なんという無駄な葛藤であることか。今年は違う。僕はその葛藤が頭にない11ヶ月半をこれから過すのだ。素晴らしい!
 ちなみに4コマの内容について、ファルマンが理解してくれなかったので、ここに補足を記しておく。犬の口から「干支の交代」を告げられた猪および読者の頭の中には、まず猫が思い浮かぶはずである。しかし蓋を開けてみれば犬の相方として現れたのは猫ではなくアリクイで、猪は驚愕する。だがそれは実は羊の強制睡眠によって見させられた夢であり、猪は干支の交代含めて夢だったのかと喜ぶ。ところが壇上を見てみれば、そこには当初の発想通りの猫がいて、つまり5話までは現実、6話からが夢だったのであり、猪から猫への干支の交代はなんの問題もなく遂行され、それに思い至った猪は打ちひしがれ、うなだれる、というのが話の流れである。なにが解りづらいのかさっぱり判らない。ファルマンは11話4コマ目の、「……猫や」というセリフに、「えっ、これどういう意味?」と言っていた。もしかしたら読解力が皆無なのかもしれない。
 ちなみに猪から猫への干支の交代は、漫画内のネタではなく、今後の人生で本気で目論みたいと思っている。猪年の人間として、心底からそれが猫年であればいいと思うのだ。猫がものすごく好きなわけではないけれど、猪よりはだいぶ好きだ。猪デザインのものを持つ気持ちにはならないが、猫デザインなら「干支やねん」と堂々と選ぶことができる。作中で犬にも語らせたが、犬・猫・鼠の並び的にも気が利いているし、「今年は猫年!」ということになれば経済も猪よりは活性化すると思う。だから猪年は猫年になればいい。ダウンタウンのふたりが兎年で、同じ兎年の人に出くわすと、「ウサギ団ぴょーん!」というギャグをするのが、なんだか羨ましいと感じていたが、猪では到底望めないそんな戯れも、猫ならば可能になってくると思う。だから本当に交代すればいい。その機運が高まっていけばいい。

 ファルマンの祖母の通夜や葬儀に参列した。
 参列と言ったが、あまり列は成さなかった。2日とも、親族控室で自分の所の子どもふたりと、ファルマンの妹の娘(ピイガよりひとつ下)の面倒を見ていて、ほとんど式には参加しなかった。もちろん喪服を着込んでいったわけだが、僕はトレーナーにエプロンの、保父スタイルでもよかったんじゃないかと思う。
 ファルマンの母親は3きょうだいの真ん中であり、姉の子ふたり、弟の子ひとりという、ファルマンにとっていとこにあたる人たちがいて、この人たちとは僕は今回が初対面だった。年齢はとても順当で、姉の子ふたり(姉と弟)はどちらも年上だし、弟の子ひとり(男性)は年下なのだが、なんだが全員やけに貫禄があった。35歳のファルマンを中心に、全員30代ではあるのだが、なんか30代って、上(40代)にもう行ってしまおうと思えば行けるし、下(20代)に縋りつきたいと思えば縋れるしで、生きるスタンスによってすごく極端になるものだな、と思った。

 通夜に際して、やくもに乗って大荷物(何人分かの喪服)でやってくる三女を岡山駅まで迎えに行くという役目を、自分から買って出た。家で集中してなにかできる状況ではなく手持無沙汰だったし、荷物持ちという大義名分で、滅多にできない「ひとり繁華街ぶらぶら」ができるではないかと色めき立ったのである。そんなわけで、三女が乗ってくるというやくもの到着時刻の、2時間あまりも前に岡山に繰り出した。世間は3連休の最終日だったので、岡山駅はとても賑わっていて、気持ちが盛り上がった。盛り上がったのだが、盛り上がったところで、特にすることがなくて、「あれ?」となる。そう言えば俺は岡山に、繁華街に出てきて、ひとりの気軽さで、そしてなにがしたいんだっけ? と途方に暮れる。結局手芸屋に行って布を買い、ドン・キホーテでチョコレートと調味料を買い、本屋で漫画を買って、あとはベンチでその漫画を読んで過した。「あれ?」と思った。なんか繁華街で時間を過すのがすっかり下手になっているぞ、と思った。でも次の瞬間、そう言えば高校大学の頃だって、僕はブックオフとか本屋とか東急ハンズを延々とぶらぶらしていただけで、それが上手だった時代なんてそもそもなかったではないかと気が付いた。繁華街に来ても結局こうなるだけなのだが、それでも定期的にそのことを忘れ、繁華街を愉しみたい願望が募り、アクションを起してしまう。そしてなんか落ち込む。

2019年1月11日金曜日

ぬるま湯・冷蔵庫・穴埋編

 年末年始のぬるま湯で精神が相当に緩んでいたようで、新年1週目はやけにつらかった。へ、平日とは、このようなものであったか……! と衝撃を受けた。これまで数年間続けてきた感覚を9日程度で忘れるものかね、と思うかもしれないが、僕はわりと忘れるのである。感覚だけでなく、仕事内容も実際けっこう忘れていた。でも呆れないでほしい。会社までの道を覚えていて無事に出勤できたことを褒めてほしい。ぬるま湯に浸り続けていたい。生きているだけで称賛してほしい。

 新春セールで冷蔵庫を購入した。
 これまでの冷蔵庫は、結婚の前後くらいに買ったもので、だからもう10年くらい使っていて、冷えなくなったわけではないのだけど、水が漏れ出るようになっていて、寒い時期はまだ少なめなのだけど、やはり夏場は冷蔵庫的にも無理がたたるのか、床に敷いた新聞紙を毎日のように換えなければならないほどで、いい加減うんざりしていた。この分ではいつ本格的な故障が起ってもおかしくなく、そしてそれは無理がたたる夏場の可能性が高く、そうなったときの悲劇たるや、想像するだにおぞましいものがある(しかもきっと冷凍食品や肉を買い溜めした日とかに限って壊れるのだ)。そのため1年半くらい前からずっと冷蔵庫購入の臨戦態勢を取っていて、条件さえ整えばいつでも買うつもりがあった。そしてそのタイミングが、今般の新春セールでとうとう訪れたのである。amazon。だいぶ安かった。壊れかけとは言え、完全には壊れていない冷蔵庫を買い替えるのである。相当なお買い得感がなければクリックしない。今回はそれがあった。ゆるぎない「買い」だった。かくして冷蔵庫は、数日後に搬入と搬出の予定となっている。
 そしてその「注文を確定する」ボタンをクリックすると同時に、うっすらと予想されていた事態ではあるのだけど、もはやそれは「注文を確定する」ボタンではなくて、「古い冷蔵庫の不調を直す」ボタンだったのではないかと思われるほどに、ピタッと水漏れが止まる。水漏れなど、夏場も含めていちども犯したことなどなかったような顔だ。長く家にあり、住人の会話をずっと聞いていた電化製品の、こういうところ。

 物語なり、音楽なり、なんかしらのものを作り上げて、しかしいいタイトルが浮かばないとする。そんなときはタイトルを「火の鳥」にすればいいんだと思う。物語の場合、作中に火の鳥はもちろん、あらゆる鳥も登場しないパターンもあるだろう。そんなときだって堂々と「火の鳥」にしてしまえばいい。そしたらなんかほら、その物語を通しての登場人物の精神の昇華みたいな、なんかそんな風な部分のことを、読者が勝手に想像して、「ああ火の鳥な」と感じてくれるに違いない。「火の鳥」にはそんな効果がある。