2018年9月25日火曜日

ぐにゃぐにゃ・バッタとトンボ・すず

 連休はカラオケの他、その翌日には公園へと繰り出した。なんか今年は夏前、やけに実現できなかった公園での弁当も、このたびとうとう叶った。いやはや夏が終わった。
 公園では写真をたくさん撮った。子どもたちの姿はもちろんだが、ファルマンに頼んで、バトンを回しているところを多く撮影してもらった。いい写真があれば、LINEのホーム画面に設定しようという目論見があった。結局タイムラインの誕生日通知のところへは、誰もなんの反応も返してくれず、哀しい思いをしたので、もういっそそこまでのことをすれば、さすがに誰かがなんかしらいじってくれるのではないかと思った。「えっ、バトン回すの?」とか。それだけでいいのだ。
 でも家に帰って撮ってもらった写真を見たら、思った以上に様になっていなくて、ダメだった。このギャグを成立させるためには、その画像はキレッキレに華麗にバトンを回せていなければならないのだ。それなのに、僕は自分が思っている以上に、猫背で、腕も足もぐにゃぐにゃしていた。あーい、よっこらしょ、という感じがあった。また哀しい気持ちになった。
 今後は姿勢や手足のハリに注意してバトンを回したい。向上心の塊か。

 職場での散歩もぼつぼつ再開しはじめている。しかし秋雨なのかなんなのか、雨がちの曇りという天候が続いていて、空気も地面も湿り気が強く、そして季節柄バッタが大量発生しているので、散歩の爽快感というところからは大きく乖離している。若干アマゾン探検感がある。秋口ってこんなもんだったっけかな。じゃあもう早く晩秋になってほしい。
 バッタと同時に、トンボも大量発生中だ。詩歌などで表現されるトンボの情緒という次元からは、はるかにかけ離れた高密度で飛んでいる。ディストピアの空飛ぶ車の渋滞のようだと思う。

 今夏のSEVENTEENを眺めていて、やっぱりいまどきの女の子のファッションは解らない、と思う。今夏の、というのはもちろん水着が目当てだったわけだが、その水着においても、なんかもう意味が解らない。現代の10代のモデルが堂々と着用している最新ファッションは、もしも僕たちの時代に着ていたら、とてつもなくダサい子のレッテルを貼られていただろうと思うものばかりで、頭がくらくらする。浴衣と制服ばかりがかわいくて、普遍的なものというのは尊いのだな、と思った。それは気持ち悪いおっさんであるお前が、若い女の子を記号としてしか見ていないからだ、と言われれば返す言葉はない。でもやっぱりダサい。変。あとオフショルダーという形態全般が嫌い。
 読んでいた号でいちばん印象に残ったのは、STモデルの夏の私服スナップという特集で、まずTシャツという括りで、それぞれがお気に入りのTシャツを着て登場するのだが、広瀬すずのTシャツが無印良品の白い無地のものだった、というところだ。他の子たちがブランドとかデザインとか、いろいろあくせくする中で、広瀬すずは無印良品。この子のこういうところ……!と思った。

2018年9月19日水曜日

バッタ・想ったこと・イブ

 ポルガの学校の課題で、生き物を捕ってきてそれをしばらく飼育する、というサイケデリックなことが行なわれる。当初それへ持っていく生き物として、かたつむりを想定していたようで、実際に近所を探し求めたりしたようだが、この時期にかたつむりは無理があったようで、ぜんぜん見つからなかったらしい。僕にも「もしも見つけたら捕まえて」というお達しがなされたが、僕は家族の中で最も外を出歩かないし、それにたとえかたつむりを見つけたとしても、かたつむりを持つことができないので、どうしようもなかった。もしもこのままなんの生き物も捕まえられなかったら、手ぶらで行って、「顔ダニを持ってきました」と言えばいいのではないかと思った。そんな折に、先日の連休で義父母がやってきて、孫たちと公園に出かけ、かたつむりはやっぱり見つからなかったのだけど、その代わりに巨大なバッタを3匹もゲットしてくれた。義父は素手でそれを掴んだというので、心の底から驚嘆した。僕は虫カゴの中で蠢くそれを見ただけでめまいがしそうになった。秋の昼休み散歩では、僕が歩くたびに周辺のバッタがピョンピョンと無数に飛び立つのを、朗らかな気持ちで眺めるけれど、あれは外での出来事だし、手では触らないし、なによりバッタはバッタでもトノサマバッタだ。トノサマバッタは、虫なのでもちろん気持ち悪いのは気持ち悪いのだが、それでもかすかにキャラクター性がある感じがあり、許容できる部分がある。それに対して義父の捕獲したそれは、トノサマバッタではない、あの流線型の細身のやつ、あれのでっけえやつなのだ。そっちは無理。そっちのバッタの怖さったらない。トノサマバッタが帝国軍人だとしたら、そっちのバッタは改造兵人という感じ。脳から、恐怖心とか痛覚とかが取っ払われて、体の半分がぶっ飛んでも気にせずこちらに向かってきそうな、そんな恐ろしさがある。学校に持っていくまでのひと晩、本当に怖かった。

 勃起するという意味での「たつ」を、「勃つ」と書いたり、あるいは「起つ」と書いたりするの、もうやめようと思った。「立つ」でいい。「堕ちる」も基本的に「落ちる」でいいと思うし、「赦す」は「許す」でいいし、「還る」も「帰る」でいい。それらって、結局のところ中二病的な気持ちから使いたがっていたけれど、そろそろ俺もいい歳だし恥ずかしいんじゃないかな、と思った。
 でもこの種の訓読み漢字の使い分けって、その国語的まっとうさと中二病的衒学趣味の線引きが難しいと思う。「分かる」「判る」「解る」は国語的まっとうさのほうであるのに対し、「見える」「視える」には中二病臭が若干漂う。そして自分で言っておきながら、「国語的まっとうさ」という言葉に、反権力の精神が刺激される部分もある。「作る」「造る」「創る」の使い分けは、国語的まっとうさの部類にどうやら入るらしいが、さてどうかな、という気がする。実はそれってちょっと中二なんじゃないの、と思う。なんだかんだですべて「作る」でいいんじゃないか。
 前に読んだ本で、熟語は仕方ないとして、日本語には基本的に漢字を使わない、というスタンスの著者が書いたものがあって、その人に言わせれば「つくる」に漢字を使うことがそもそも異様だ、ということになり、「料理をつくってたべた」とか、「勉強にはげもうとおもう」などとするのが正しい、ということになるらしい。しかしこれはひらがなが多くてさすがに読みづらかった。
 だからその中間として、使える部分はなるべく使うが、細かい使い分けは基本的にしないという、そんな立場がいちばんいいのではないかな、と想った。

 明日は9月20日。毎年恒例の行事として、零時ちょうどのハッピーバースデーメッセージのことを憂えておきたい。今年は特にほら、タブレットを持ちはじめて、LINEなんか始めちゃったから、いよいよマジであり得る。あり得ると言うか、ないと逆に不自然だと思う。だってタイムラインに表示されるし。表示されるように設定したし。もうそれってあれじゃんね。「祝って!」じゃんね。そうですよ。祝ってほしいんですよ。でも零時にそれを見てすぐにメッセージっていうのは困るよ。寝てっから。平日だから。ほら、平日は零時になる前に寝るから。横で子どもも寝てるし。着信音で起されるのはマジ勘弁! いや、タブレットは寝室に持ち込まないし、そもそもLINEのメッセージが届いても音なんか出ない設定なんだけど、うん、そうだね、だからまあ、いいよ! オッケーだよ! 送りたいときに送っていいよ! 明日、俺、何度も何度もLINEを起動して、何度も何度も嘆息して、鼻くそを噴出して美川憲一ごっこするよ!

2018年9月16日日曜日

におい・リス・能

 アマゾンのレビュー欄で、すぐににおいのことを言う輩というのがいる。おもちゃから文房具、アクセサリーから電化製品からまで、そんなもののにおいなんてわざわざ嗅ぐ? と思うものまで、とにかくにおいのことを言及する。そりゃあ他所から来たものなのだから、箱から出したらそれなりに異質なにおいがするだろうよ、と思って、気にせずその商品を発注すると、別ににおいなんてぜんぜんしなくて、あいつらの嗅覚どうなっとんねん、となったりする。
 そういうことが、アマゾンで物を買うようになって数年、ずっと続いていた。そんな折に買った、先日の電動歯ブラシである。1分で35000回の振動を謳い、レビューのコメントも上々で、喜び勇んで購入した。これが、まあまあにおう。専用のケースに入れてあるわけだけど、開けるたびにわりと化学的なにおいがする。なぜだ、と思う。だってレビュー、これに関しては、においについて誰もなんの言及もしてなかったじゃないか。なぜだ。なぜ口に入れて使うものに限って、お前たちは誰もにおいのことを言わない。スニーカーのにおいなんてどうでもいいのだ。どうした、お前らの鼻はくるぶしにでもついているのか。

 娘たちのショーツをユニクロで買ったのだけど、3枚組で、そのうちの1枚がリスの柄だった。
 女の子のショーツにリスをプリントするなんてウィットに富んでるなあ、と思い、ファルマンに店内でそう言ったら睨まれた。僕が悪いのだろうか。女の子が栗柄のハンカチを持ってたとか、財布がリス柄だとか、それくらいのことで反応してるわけではない。ショーツなのだ。ショーツがリス柄なのだ。反応したって致し方ないくらいに近いじゃないかよ、と思う。

 夏に僕が下の義妹とLINEを交換したとき、それは僕にとっての14人目で、義妹にとっての314人目だった、という話があるが、このエピソードがファルマン(細かい数字のことなど気にしない大人物)の中でざっくりと記憶されたようで、「妹のLINEの友達の数は300人」という認識になっていた。それはいちばんダメな数字の捉え方。僕と妹のLINEの友達の数の差が300人だったわけで、たしかに、たしかに314人ともなると、人から「LINEの友達は何人?」と訊ねられたときに、「300人くらい」と答えても不自然ではないけれど、でもそれじゃあ314人の人にとって端数でしかない人数しか総計でLINEの友達がいない僕は、もう存在そのものが誤差の範囲みたいなことになるじゃないか。なんだそれは。僕は幽玄の存在か。能でも舞えというのか。あ、LINEのプロフィール画像を能面にしようかな……。そうしたら友達増えるかな……。

2018年9月8日土曜日

フロイト・平成・石ころ

 しばらくバトンを回していない。昼休みなど、回したいなー、とは思うのだが、なんとなく手が伸びない。誕生日のプレゼントにブルートゥースのイヤフォンをもらう心積もりがあって、まだ持っていないのに、もう手に入ったあとの気持ちになっているため、ワイヤレスじゃないイヤフォンのコードをタブレットから伸ばしてバトンを回すのってちょっと不便なんだよね、と、すでにその「ちょっと不便」を許容できなくなっている。人間はどんどん堕落するな。
 そんな回さないバトンだが、毎日やはり携えて出勤している。回す回さないじゃなくて、これは俺の基本的な持ち物だから、という気持ちで携えている。しかしここ数日のことなのだが、中国地方は雨がちの天候で、駐車場から会社まで、傘を手に持つ必要があった(しかし考えてみたら数日間でいちども差さなかった)。するとなんとなく、バトンはまあいいか、という気持ちになり、バトンは車内に置きっ放し、という現象が起った。これには我ながら、そうなのか、と思った。要するにあれだ、フロイトのやつだ。僕は長い棒を持って歩きたいのだ。そういうことだったのだ。しかし不思議じゃないか。長い棒なら、いつだって1本、立派な物を携えているはずなのに。
 よく言ったな、立派って。その度胸が少なくとも立派だわ。

 有名人の死去や天災が多く、世紀末ならぬ元号末らしい感じがあるけれど、そんなそれやこれやによって、みんな今ちょっと、「平成の終わりを感じさせる」って口にするのが前のめりになっている感があると思う。僕だけだろうか。吉澤ひとみの飲酒ひき逃げ事件には驚いたが、それに関しても「平成の終わりを感じさせるなあ」という思いを抱いた自分の心の動きにはもっと驚いた。僕にとっての平成とは一体なんだったのか。
 近ごろ職場で掛かっている有線は、30代向けのヒット曲みたいなチャンネルになっていて、そこではモーニング娘。とB'zとミスチルがやけに高頻度で流れるのだった。30代ヒッツってそうだろう、と言われたら、まあたしかにそうかも、と答えるほかないような、微妙な気持ち。

 ガラケーを家に忘れて出勤する。なんの問題も起らない。ファルマンとの連絡も、近ごろはほぼLINEなのである。あまりにも問題がないので、さすがにちょっと「あれ?」みたいな気持ちになった。ガラケー機能のついてるあの目覚まし時計、……あれ? あれって、うん、必要……? だよ、ね? と、一瞬ちょっとフワッとなってしまった。どうしたんだろ、貧血なのかな。
 それで昼にファルマンにLINEで、
「携帯忘れたわー。鳴り響いてうるさいでしょ、ごめんね」
 とメッセージを送った。
 それに対する受け答えがこう。
「石ころのよう」
 着信音や通話音で、あんなにも世界をうるさくした携帯電話が、今はもう石ころみたいになっただなんて、なんだかラピュタのような話だな、と思った。ラピュタは本当にあったんだ。しかも僕のガラケーの待ち受け画面と来たら、ファルマンの描いた巨木の絵なのだ。シータ!