2018年12月29日土曜日

連休・元号・今年の締め

 仕事が納まり、年末年始の連休が始まる。すごく嬉しい。普段3連休で嬉ションしそうになっていることを思えば、年末年始の大型連休なんて、昇天してもおかしくないと思う。それなのにいま僕がこうして良い姿勢を保ったままキーボードを打てているのは、たぶんスケールが理解できていないということなのだと思う。ありがたさのスケールが把握できていないくせに、心の余裕だけは闇雲に確保してしまっていて、連休1日目の今日は、大したこともせずにのんべんだらりと過してしまった。連休って逆にこうなりがち。まあ今日に関しては、帰省前のエアポケットのような日だから仕方ない面はあるが、帰省から戻ったあとの日々でこんなことにならないよう、しっかりと自覚を持ち、計画を立て、堂々たる嬉ションを実行したいと思う。

 来年は5月1日から元号が変わるわけだけど、今日の新聞に、その新元号の発表は、開始の1ヶ月前にすると決定した、と書いてあった。だとすれば、5月1日の1ヶ月前ということは、それは4月1日ということになるのだろうか。新元号の発表って、平成のときのことはリアルタイムでは覚えていないが、パロディではさんざん目にしてきて、そのためただでさえネタ的なイメージがあるのに、しかもその発表がエイプリルフールとなると、もうすっかり大喜利の様相を呈してくるのではないかと思う。一億総大喜利。欲しがります、笑うまでは。もしも本当に4月1日に発表ということになると、日本中の有象無象が放つネタ回答に紛れて、どれが本当なのか判らないという事態にまで陥りそうな予感がする。なので政府は4月1日発表と言いつつ、3月31日とかにフライング発表し、4月1日用にネタを用意していた国民(お調子者タイプの)を、悔しがらせればいいと思う。

 昨日「仲間内10大ニュース2018」を投稿したことで、ブログの年間行事が無事にすべて終了した。めでたい。年越しを前に、やり切った清々しさがある。10大ニュースでは、去年の記事内の文章を引用したりして、長く続けてきたことの蓄積を、うまく活用することができた(内容も珠玉の出来だった)。ファルマンも言っていたが、とにかく続けることが大事なのだと、今年の年間行事をこなしていて、しみじみと感じた。「cozy ripple流行語大賞」は10周年で、「パピロウヌーボ」内で10年間の流行語を振り返ったし、「パピ労の日報告」では今年も朝青龍がコメントをくれた。そして「干支4コマ」では、最初の寅年からなんとなく入れていた右下の通しナンバーが、今年でとうとう100に到達したのだった。長年をかけて培ってきたものが、いよいよ円熟してきたのを感じる。なにしろログである。溜まってなんぼなのだ。じゃあ続けていれば、またこれからもっと愉しくなるということか。いいなあ。いついつまでも続けようと思う。
 というわけで今年の投稿もこれでおしまい。ご愛読ありがとう。ご投稿ありがとう(俺)。

2018年12月15日土曜日

プリキュア・ヌーボ・はためき

 ファルマンとピイガが幼稚園に登園する前、とても余裕のある朝の準備をしている時間帯に、地方局で過去のプリキュアの再放送というのを毎日しているのだそうで、それでにわかにわが家のプリキュア熱が高まっている。女の子を育て始めてそろそろ8年になるが、ようやくである(ひとり目はドラえもんからハリーポッターへ進んだ)。
 とにかく平日に毎日やるので、進行が早い。観始めたときは「スマイルプリキュア」だったのが、先般終了し、翌日から「ドキドキプリキュア」になった。こういうアニメって、1年を通して観ることによって、子どもはその1年間、ずっとそのプリキュアとともに日々を暮し、そしてともに成長するみたいな、そういう感慨のあるものなのだと思うが、この視聴にはそういうのが一切ない。愉しんではいるが、心が寄り添う感じは一切ない。さらに言えば、本放送では物語中のプリキュアが用いるアイテムのおもちゃなどが流れていたに違いないCMの時間も、地方局なので本当になんのマーケティング的な思慮もない、鈑金工場とか、渋い銘菓とか、そんなものばかりが流れるのだった。
 ところでどうして僕が流れるCMまで知っているかと言えば、にわかなプリキュア熱の高まりは、ファルマンとピイガだけにとどまらず、ポルガや僕にまで派生しているため、録画したものを夜に観たりしているからだ。
 観てみたら、まあなかなかおもしろい。娘とともに観るので、なんとなく感じ入る部分もあるのだと思う。たまにちょっと涙が出そうになり、驚くときがある。

 グータンヌーボが復活するというニュースに驚いた。
 さすがに江角マキコが司会ではないのだけど、タイトルをそのまま用いる、正式な系譜に連なる番組になるようで、ちょっと驚くと同時に感動する部分があった。だって「キャサリン三世」がそうであったように、おんなじような内容の番組を、別のタイトルでやったってよかったのだ。でもやっぱり「グータンヌーボ」が、ネームバリューもあり、人々の心に訴求するものがあると判断されて、そういう結果になったわけである。
 そこに、パピロウヌーボを続けてきた身として、誇らしい思いがある。僕はこの数年間、グータンヌーボの灯が絶えることのないよう、薪をくべ続けてきたのだと、言えないこともないと思う。
 それがようやく大きな燭台に移され、僕は役割を終える……、ということはもちろんない。番組はたぶん2年弱で終わるから、そのあともやっぱり僕は、正式な系譜に連ならない、あの活動を続けていくのだと思う。

 異世界ブームってなんなの、と思う。ラノベで流行るのはいくらでも勝手にやればいいけど、ラノベの流行りは、そのまま美少女文庫や二次元ドリーム文庫へも降りかかってくるので、それで迷惑を被っている。
 異世界とか本当に興味がない。姫とか、半裸のアーマーの女戦士とか、魔王とか、そんなものを性欲の対象にするには、想像の羽で飛び越えなければいけないハードルがあまりにも多くて、億劫だ。そこまではためかせられない。はためかせたくない。
 途轍もなく極端なことを言ってしまうけど、エロ小説の舞台って、永遠に高校だけでいい。高校から出ようとするから、はためく必要が出てくる。もう翼なんて退化してしまっていい。それで校舎を囲む高い塀を飛び越えることができず、一生そこに閉じ込められるんでいい。本当にそう思う。

2018年12月3日月曜日

うさんくさい・きもい・おじんくさい

 cozy rippleじゃないほう、でおなじみの流行語大賞が発表される。
 年間大賞は「そだねー」だそう。なんとも忌々しいことだ。
 他になかったのかよ、と思ってトップテンを見てみると、「(大迫)半端ないって」なんかは大迫選手も中西氏も登壇できないので、そこが都合悪かったのかな、と思ったり、まさか大賞でもないだろうが「スーパーボランティア」も尾畠さんが受賞を辞退したというし(この人は普通に立派な人だと思う)、結局のところ代表者がほいほい出てくれるこれにあげるしかなかったのかな、と思う。
 あとトップテンに「奈良判定」が入って「悪質タックル」が入っていないのはどう考えてもおかしい。「奈良判定」というフレーズもよかったが、どちらが広く長く世間を騒がせたかと言えば、確実に「悪質タックル」だろう。まあこれはおかしいと言うか、僕が思っている以上に、日大というのは力を持っているということだろう。うさんくさ。

 11月は、ファルマンと、母と、姉と、義妹としか、LINEのやりとりをしなかった。
 こんなはずじゃなかった。LINEを始めたらこんなことにはならないはずだった。
 母とは年末年始の帰省についてのやりとりだったし、義妹とは月頭に義妹がこちらに来たときの送迎のやりとりだったので、これらは言わば事務的な交信である。たとえ僕がLINEをやっていなくても、電話で同じ内容のやりとりが繰り広げられただろう。それに対して姉は、姉の息子の通う幼稚園で劇をやるにあたり、衣装の作製を課せられたので、それについての相談をしてきたのだった。これはたぶん僕がLINEを始めていなければ、わざわざ訊ねてこなかっただろうと思う。つまり、姉くらいなのだ。少し長めの棒を振り回して届くようになる距離関係にいたのは、姉だけだったのだ。じゃあなんだ、僕がLINEを始めた意味は、姉弟間のコミュニケーションのためか。きもいわ。

 さんまの季節がそろそろ終わる。今年は豊漁だったこともあり、わりと堪能した。生さんまの塩焼きは、やっぱりしみじみとおいしかった。しかもそこへ新米なのだから、秋という季節はほとほとありがたいものだと、おじんくさいことを思った。
 さんまが終わるのは哀しいが、そのぽっかり空いた心の隙間を、ぼちぼち回転ずしに現れ始めたあん肝軍艦が救ってくれるのだ。ああ、魚のはらわたが好き。大好き。

2018年11月24日土曜日

余韻・欲しいもの・下着

 今年も無事に、cozy ripple名言・流行語大賞とパピロウヌーボを書くことができた。このふたつは、1年ブログを書いてきての、義務でもあり、ご褒美でもあり、労力も達成感も大きい。だから今、とても充実した気持ちになっている。
 大賞のほうは今年で10周年ということで、去年なんの構想もないままに、「来年は10周年ということで特別企画を用意してるよ!」と無意味にぶち上げていて、馬鹿野郎と思った。それで結局、特別企画というほどのことではないが、パピロウヌーボの中に、今年のそれだけではなく、歴代のノミネート語を紛れさせる、ということをやってみた。ひとつひとつにリンクも貼ったので、過去の大賞記事を読み返してみるのも一興だと思う。
 なにしろ10周年。ノミネート語は毎年10~15あるので、100語を軽く超えているのである。puropediaで見返してみたら、懐かしいもの、気恥ずかしいもの、まったく思い出せないものなど、さまざまなフレーズがあって、ちょっとこみ上げてくるものがあった。
 ファルマンはずっと短歌を詠んでいて、1500首を超える歌を読み返すと、恋愛、仕事、結婚、妊娠、出産、子育てなど、ファルマンの人生の場面場面が思い出されるわけだけど、僕にとってはこの「言い回し」としか言いようのないフレーズ群が、それなのかもしれないと思う。

 新しいパソコンと、それなりに関係がこなれてきた。
 物理的に、パソコン台として引き出しケースを買って高さがよくなったというのもあるし、中身的に、お絵描きソフトやプリンター接続の設定などが整ったというのもある。とにかくほとんど不自由なく使えるようになってきた。よかった。
 ところでインターネットのブラウザに関して、ひとつ不思議なことがあって、前のパソコンのそれの、「欲しいもの」フォルダーには、カーソルを合わせれば画面の端から端まで連なるほどに、欲しいもののページが登録されていたのだけど、いちどそれがまっさらになってみると、かつてそこになにが入っていたのか、ほぼ思い出せないのだった。だからもちろん欲しいとも思わない。だってなにが欲しかったのか分からないのだ。結局その程度の欲求でしかないものばかりだったのだ。
 これっていい作戦かもしれない。これから漫然とインターネットをしていく日々の中で、再び「欲しいもの」フォルダはいっぱいになるかもしれない。そうしたらいちどそれをフォルダごと削除してみよう。それでも思い出せたものだけが、本当に欲しいものなのだと思う。
 そういう意味で言えば、かつてのフォルダに、あん肝のレトルトパックが入っていたのはしっかりと覚えている。あん肝は本当に欲しいのだと思う。

 SEVENTEENの下着版があればいいのに、ということに思いを馳せたのだけど、それはやっぱりなかなか難しいだろう、6月7月の水着特集は下着と同じ露出度なのに、なぜ水着ならよくて下着はダメなのかという議題は、もうこれまでにさんざん言葉を尽くしてきたので、そこについてはもうとやかく言わない、と思った。
 だから僕は、STモデルたちに、下着姿を見せろとは言わない。それを求めるのはルール違反。よろしくない。だから服は着ていていい。今までどおり、服を着た姿だけを見せてくれればいい。だけどその横に、その撮影時に身に着けていたのはどんな下着だったのかを、下着だけの写真でいいから、載せてほしいと思う。それで十分に助かる。こちらの目的はそれで果たせるのだ。どうか一考していただけないだろうかと思う。

2018年11月14日水曜日

涼真・気温・内田

 昨日「PAPIROTOIRO2」にSEVENTEEN9月号の報告を書いたのだが、その誌面の中に、竹内涼真の股下が91センチと紹介されていて、忸怩たる思いを抱いた。
 しかし忸怩たる思いを抱いたあと、自分の股下ってそう言えばちゃんと知らない、と思いファルマンに測ってもらった。メジャーを太ももの内側の付け根に当てて、「えーと……、ななじゅう、ごだね。ぐひょひょ」と、妻は75という数字を言ったあと、汚らしく笑ったのだった。「本当か! 本当に75か! 切りのいい数字にしようとしているんじゃないか! 竹内涼真だって90センチでいいところを91センチと言ったんだぞ! 76かもしれないじゃないか! 測り直せ!」と命じて、再びあててもらう。「うん、75。ぐひょひょ」
 でもちょっと待ってほしい。竹内涼真の身長は185センチ。そこから股下の91を引くと、竹内涼真の脚以外の部分は94センチということになる。それに対して僕は、身長が167センチで、股下が75なので、引けば92センチである。つまりこれはどういうことかと言うと、竹内涼真と僕は脚以外の長さはほとんど一緒で、竹内涼真のほうが脚だけ長いということになる。なるじゃないか。待たなくてぜんぜんよかった。なんで待ってもらったんだろう。こんなところに立ち止まってないでとっとと次の段落に行ってほしい。バーカバーカ。
 この残酷な数字の原因として、僕の場合は太ももの内側の付け根にメジャーを当てようとしても、どうしても一物が出張って邪魔をしてしまい、それが股下のスタート位置を大きく(ざっと20センチくらい)下げているのではないか、ということが考えられる。僕がそんなハンデを負っているのに対して、竹内涼真のそれは7ミリくらいなんだと思う。なるほどそれなら股下91センチも納得だ。俺かてこんな一物がなければそんくらい普通にいくっちゅうねん、という話だ。涼真に対しては、そんな風に考えて溜飲を下げるしかない。

 朝の準備中にニュースを眺めるのだが、そこで伝えられる週間予報に、気温の表示がない。なんの意味もない、と思う。平日は一日中屋内にいるため、ぶっちゃけ天気なんて僕はどうでもいいのだ。晴れだろうが雨だろうが関係ないのである。大事なのは気温だ。週末に向けて暖かくなるのか寒くなるのかで、服装の計画とか、体力の振り分けとか、気持ちがぜんぜん違ってくるだろう。天候だけ見ても、冷たい雨もあれば暖かい雨もあるわけで、どうしようもない。気象庁のすることなので、的中させろとは言わない。ただし目安として知りたいのだ。まあ知ろうと思えばウェブでいくらでも知ることができるのだけども。

 流行語大賞のためにこの1年の日記を読み返していたら、5月6月あたり、日大の悪質なタックルの話をものすごくしていた。さらにはピンク色のネクタイを実際に買ったりして、とても愉しそうだった(日の目を見る気配はまるでないが)。
 しかしあんなに愉しかったのに、年末年始のイベント期まで話題の鮮度が持たなくて残念だ、と思っていたら、ここへ来てあの内田前監督が、解雇は不当だと言って、提訴をしたというニュースが舞い込んできた。嬉しい。そうこなくっちゃ、と思う。あれだけ叩かれて、音声データとか証拠もいっぱいあるのに、なおも声を上げるバイタリティー。ここまで来れば逆に素晴らしいと思う。かつて板東英二が脱税をして捕まったとき、「板東英二くらい金が大好きで金に汚い感じの人は、もう脱税してもいいってことにすればいいんじゃないか」と思ったが、今回の内田前監督についても同じことを思う。もういっそのこと、監督に復帰させて、悪質なタックルもしたいだけさせればいい。それで、「うわ、またやったよ(笑)」みたいな感じでみんなで笑えば、みんなでハッピーになれると思う。そして僕は満を持してピンク色のネクタイを巻き、内田監督コントをやるのだ。

2018年11月7日水曜日

野沢・ワイヤレス・流行語

 職場のおじさんが、青い物品について僕に訊ねるときに、「プロぺ君、あれどうしたかな、あのあええやつ」と言ってくる。最初なにを言ってるのか意味が取れなかった。ちょっと考えて、「あええやつ」が「青いやつ」だと理解する。よく理解できたものだと思う。もうこんなのあれじゃん。野沢語じゃん。「べえおはざーどふぇーぶ」じゃん。5年経ってもいまだにこういうことがある。田舎は奥が深い。そして闇が深い。

 秋になり、またバトンを熱心に回し始めた。昼休み、駐車場の隅でひたすら回している。Bluetoothのイヤホンは、本当に買ってよかった。ほら私、バトン回す人じゃないですか。そのとき、タブレットを持ってたり、そこからコードが伸びてたりすると、すごく邪魔なんですよね。その点、ワイヤレスのこれだとノンストレスで練習できるから、とても重宝してます。おすすめです。そんなわけで自由に動き回れるので、それなりに動きながら回している。踊っているわけではないが、歩いたりステップを踏んだりしている。もう友達ができなさ過ぎて、職場で人にどう思われるかとか、まるで気にならなくなった。

 流行語大賞の候補語が発表される。僕がcozy ripple流行語大賞のため、この1年の自分の日記を読み返すという作業をしている乍中に、向こうが候補語を明かしてくる感じ、本当に毎年恒例だ。こうなってくると、いよいよ1年が締まろうとしているのだな、と感じる。
 そんなわけで30語である。
 「そだねー」は、たしかに流行った。流行って、そしてとても苛々した。そもそも僕は、当時の日記にもしっかりと書いているが、カーリングという競技に対して好意を持っていないのだ。そこから発信された「そだねー」は、職場の高齢者たちがよく使い、あの使ったときのドヤ感も含めて、僕を仏頂面にさせた。高齢者が「そだねー」と言うと誰もが微笑んでやると思ったら大間違いだぞ、という警鐘を込めて、どこまでも誘い笑いに乗らなかった。子どもをふたり持ち、30代半ばになっても、そこらへんの気概はまだ失っていない。カーリングからはさらに「もぐもぐタイム」も選出された。30語のうち2語カーリングて。平昌はそこまでカーリングだったろうか。もちろんそんなことはない。スピードスケートやフィギュアもあったではないか。しかしそれらはカーリングに較べてマジなので、雑談とかおやつとか、そんな要素はなかった。これはそういう話だ。
 その点、「(大迫)半端ないって」は本当によかった。流行語とはこうあるべきだな、という流行の仕方だったと思う。やっぱりオリンピックやワールドカップなど、大きな大会ではひとつくらい、これぞというフレーズが欲しいものだ。だからこれは本当によかった。元ネタはもうずっと前なんだけどね、みたいな話はどうでもいい。世間で流行ったのは今年だ。
 スポーツつながりで、毎年必ず入れなければならない野球関連語は、今年は「翔タイム」が選出された。解るような気もするし、苦しいような気もする。ここ10日ほど、「甲斐キャノン」という言葉をとても多く耳にしたのだけど、さすがに間に合わなかったか。「甲斐キャノン」って、なんか語感が愉快で、口にしたい感じがある。「かいきゃのん」とひらがなで書いても素敵である。もう1ヶ月あれば選出されていたかもしれないのに、と悔やまれる。
 あとこれはスポーツつながりなのかどうなのか微妙だが、「悪質タックル」も選ばれた。流行語大賞が、本当になんの軋轢もなく、国民が1年間で多く口に出した言葉に授与されるのだとすれば、大賞は間違いなくこれだと思う。それくらい、みんな悪質なタックルの話が好きで、たくさんしたと思う。ここから始まった日大の一連の報道は、どれも本当におもしろかった。今年はもう特別賞を日本大学に与えてもいいと思う(ちなみにcozy ripple流行語大賞でも日大関連語が2年連続で大賞を受賞しており、今年に関しても有力視されている)。
 エントリーに漏れたところでは、「平成最後の……」って今年はみんな阿呆みたいに言っていたので、それは入っていてもよかったんじゃないかと思う。あとはなんと言ってもアレだろう、というのがあるが、それは今年のパピロウヌーボで扱う予定なので、ここでは言わない。
 大賞の発表は12月初頭。cozy ripple流行語大賞は11月23日。どちらも乞うご期待。

 

2018年11月2日金曜日

パソコン・パソコン・パソコン

 パソコンを買った。ネットで中古のものを選んだ。
 このたび息を引き取ったパソコンは、何年ほど使ったのだったろうと過去の記事を照会したら、「USP」ではなく「KUCHIBASHI DIARY」まで遡った。購入は2010年4月のことで、開店間もない池袋のビックカメラで出会ったらしい。隔世の感がすさまじい。震災前で、ポルガ誕生前で、東京だ。もはや隔世どころではなく、前世のような遠さ。実質は8年半ということになるが、8年半も経てば僕の細胞のほとんどは入れ替わっているのだから、やっぱり前世からの付き合いだと言っていいかもしれない。
 しかし8年半。途中で修理に出したとは言え、あまりパソコンで耳にしない年数であると思う。4度の引っ越し、幾たびもの模様替えを乗り越え、家にいる限りは確実に毎日起動をしての8年半である。よくやってくれた、以外の言葉がない。今回の故障にあたり、修理という発想はさすがに浮かばなかった。今年の茹だる夏に悲鳴を上げることもなく、ピンピンコロリで逝った。とても「当たり」のパソコンだった。

 そのパソコンなのだが、処分のことで悩んでいる。
 データの移行こそ奇跡的になんとかなったのだが、現在はもう起動そのものがままならないので、初期化さえできない。これが困る。だって初期化ができていない今の状態で引き取り業者に渡して、専門家のテクニックによって起動がままなってしまった場合、データとか、ブラウザの履歴とかブックマークとか、相当に恥ずかしいではないか。業者が本気を出せば素人のする初期化なんて関係ないのかもしれないが、それでも精神衛生上、初期化によって救われる部分というのはある。
 ただ性癖とかがバレて恥ずかしいだけなら別にいいのだが、持ち主の運営しているブログが明確すぎていけない。裸を人に見られるとき、どこを隠せばいいかという命題で、胸でも股間でもなく、顔さえ隠せば問題ない、という考えがあるが、この場合、顔が出てしまっている。そこが大いに困る。自意識過剰だとは思うが、なんとなく居心地が悪いではないか。とは言え使わないのにいつまでも家に置いておけるサイズでもない。まったく悩ましい。

 新しいパソコンが届く。わけあってまだネットには接続できていないのだが、そう悪くはなさそうだ。なにより安くって、その安さに見合う不足の覚悟はしていたので、まあこんなものだろう、という印象だ。
 前のパソコンは8年半使ったわけだが、それは新品を、15万円とか、たぶんそれ以上の値段で購ったのである。だとすれば、使い倒しておいてこんなことを言うのも何だけど、日割りで考えたら1年で2万円程度かかっているのだ。そう考えれば、今回手に入れたパソコンは、2、3年使えればぜんぜん御の字だな、と思う。さてどうなることか。

2018年10月26日金曜日

パソコン・給食・漢字

 パソコンがお釈迦になってしまった。
 この10日ほどで兆候が出始めていて、だから心の準備はしていて、そして心の準備だけして、データを外に移すとかの、堅実な準備はなにもしていなくて、でも昨日の夜、いよいよまずそうだぞ、となって、そこで慌ててデスクトップとかに散乱していたデータの類いを外付けのハードディスクに移した。数百メガバイトのデータを移すのに3分くらい掛かったりして、「真田丸」で今にも死にそうになっている秀吉に遺言書を無理やり書かせる場面を思い出した。本当にそんな感じの作業だった。でもなんとかかんとかそれをやり遂げ、遂げたところでとうとうそのあとなにもできなくなり、さらには再起動さえままならなくなった。だから、本当にギリギリセーフだった。敵のアジトで、侵入者を閉じ込めるために落ちてくる壁の、最後の隙間にスライディングで潜り込んだような気持ちだ。ちょっとした兆候が出た段階でしていればそれがいちばん賢かったわけだが、それだとほら、お客さんが退屈しちゃうから。わざとピンチを作るわけですね。これがヒットの法則です。
 というわけでパソコンがない。困った。……困った? 困って……る、んだと思う。でもこうしてブログは書けてしまっていて、つまりインターネットもできているわけで、だから前回までのときほど、この状況に取り乱していない。一刻も早く次のパソコンを買わなければっ! となっていない。それどころか、パソコンって……いる? ……いる、よ、ね? う、うん。いる。いるよ、いるに決まってんじゃん! みたいな、そのくらいのスタンスになっている。時代が変わったものだと思う。
 たぶん、もちろん電気屋で売ってる最新型のパソコンなんて買うつもりないので、だいぶん安い方法で買うことにすると思う。そしてそれでもこれまでのパソコンよりも性能がよかったりするのだ。パソコンのそこが不可解。

 ポルガが学校の給食でどんなものが出たか語ってくるのだけど、そのメニューがやけにおいしそうで、実際おいしいらしく、うらやましく感じている。僕の小学校の給食はおいしくなかった。好き嫌いも多かったのでつらかった……、と書いてから思い至ったが、実は小学校の給食こそが僕に好き嫌いを作ったのかもしれない。最近になり、横浜市および神奈川県の学校給食のひどさが全国ニュースで何度か取り沙汰された。そうなのだ。僕のわがままとかじゃない。本当においしくなかったのだ。ニュースになるほど悲惨だったのだ。焼きそばの麺とか、ネチョネチョでボロボロだった。それを腹に詰めて空腹をしのぐ。それが給食というものだと思っていた。さらに給食の悪禍をあげつらうならば、僕が集団行動を嫌うのもあれが原因なのではないか。「大勢の人間が食べるものを一気に作ろうとすると不味いものができる」という児童期の経験則が、だんだん少年の心の中で育っていって、ついには「全体行動は悪だ、戦争の始まりだ」にまで発展したのではないか。可能性は十分にある。そうか、そういうことだったのか。
 あとすごく単純に、好きだったりする女の子が、餌みたいに不味いものを口に入れているのを見るのは、嫌なものだ。恋心が侮辱されたような気持ちになる。ああ給食憎し。
 娘の学校の給食はおいしいようでなによりだ。まっすぐに育ってほしい。

 去年の自分の日記を漫然と読んでいたら(だって読み物として滅法おもしろいのだ)、去年の「今年の漢字」が「北」だったと書いてあり、もうすっかり忘れていたので、ほお、と思った。「北」は北朝鮮の「北」で、他はほとんどなんの含意もなかったのだけど、北朝鮮は去年よりも今年のほうが動きがあったと言えるし、それに加えて今年は、北海道地震および全道停電という出来事があった。これはもしかして2年連続もあり得るかもしれない。あるいは「災」「害」「台」「風」あたりが関の山だろう。本当にこの企画はつまらない。

2018年10月23日火曜日

帽子・ブログ迷い・99人

 帽子をなくしている。茶色いキャスケット帽である。ある日かぶろうとしたら、家のどこにもなかった。先々週のどこかでなくしたようだが、まるで心当たりがない。なくしたのは平日なので、そうあちこちに立ち寄っているわけではない。自宅か、車か、職場か、帰りに立ち寄るスーパーくらいだ。しかし家も車内も職場も熱心に探したし、スーパーにも電話をかけて訊ねたが、一向に出てこない。そうは言っても家のどこかから不意に出てくるものなんだよな、という思いを未だに持ち続けているのだが、もしも本当に家にないのだとすれば、車から降りるとき、運転の途中で帽子を脱いで、助手席に荷物とともに置いていたものを、掴んだつもりで外に落とした、みたいな可能性がいちばん高いと思う。それでも自宅でも職場でも駐車場所は決まっているのだから、その場に落ちたままになっているはずだろうと思うが、ひとつ想起されるのは、職場の、山の裾野の駐車場には、たまに猪が出没するということだ。あいつが怪しい気がしてきた。そのうちキャスケットを被った猪が目撃されはじめるのではないか。そんなん写真撮って来年の年賀状にするわ。

 図書館で予約していた「SEVENTEEN」の今年の9月号が手に入って、毎年恒例のアンケート企画を、愉しく鑑賞している。鑑賞である。ただ眺めているのではない。味わっているのである。
 それで、発表された数字などについて、またやいのやいの言っていきたいのだけど、ここでひとつ困っていることがある。
 それは、その内容の記事は、どのブログにアップするべきなのか、ということである。
 はじめに思い浮かんだのは「BUNS SEIN!」だったのだが、それをやってしまうと、これまでギリギリのところで守ってきた、僕は別に女子高生を性的な目で見ているのではなくて、文化人類学的な興味で捉えているんだよね的な言い分が、とうとう成り立たなくなる。果たしてこれまで守れていたのか、成り立たせられていたのかは甚だ疑問だが、いよいよ目に見えて崩壊してしまう。なのでよろしくない。しかし「hophophop」に書くには長くなりすぎるし、もういっそ手書きして「BYAPEN」にアップしようかとも思ったが、来年以降のことも考えて、比較しやすいよう数字を打ち込んでおきたい。こうなったらあの大御所「USP」にご登場願うしかあるまいと打診をしたら、「もうこんな老体の出る幕はない。今後は若い者たちだけでやってくれ」と固辞されてしまった。
 そんなわけで熟考の結果、これもまたパピ労の日やcozy ripple流行語大賞と一緒で、毎年恒例の行事みたいなものだよなと考えて、「PAPIROTOIRO2」に白羽の矢が立った。近日記事を作成して公開する予定である。パンツを降ろして待っていてほしい。

 テレビ番組「99人の壁」がおもしろい。それぞれの得意な分野を持った100人がスタジオに集結し、そのうちのひとりが回答者となり、その分野のクイズが出題されて、別にその分野が得意じゃない残りの99人と対決する、という趣向で、99人側のほうは早押し問題で間違えてもそれほどのペナルティもなく、さらには正解した場合は次の回答者になれるというルールのため、すごくアグレッシブにボタンを押してくる。それに99人もいれば、得意分野でなくても、ひょんなことからそれ知ってるわ、みたいなことってけっこうあるのだ。そんなわけでなかなか回答者はゴール(100万円)にたどり着けない。その具合がおもしろい。
 そしてこの番組を観た人間は100%の確率で考えるだろうことを僕も考えた。すなわち、自分だったらどのジャンルで出るかということである。
 こういうとき、ファン気質でない人間はなかなか困る。自分以外のことにそこまで入れ込まないからだ。でも「purope★papiroのブログ」はジャンルとして採用されないだろうから、そうなると「二次元ドリーム文庫と美少女文庫」ということになるかなあ、と思った。そこに関して、なんでも知っているという自負があるわけではないが(特に最近のほうはからっきしだ)、そんじょそこらの99人くらいに対しては向こうを張れるのではないかな、と思う。ただしゴールデンタイムの番組なので、やっぱり採用してもらえないと思う。

2018年10月19日金曜日

テルー・カサノヴァ・さよならの向こう側

 先日カラオケでも唄った「テルーの唄」に、ど嵌まりしている。ここ数日、車中や散歩中、ずっとリピートで聴いている。車中では唄ってもいる。たぶん季節もちょうどいいのだ。夏が終わり、秋が深まってゆくこの季節に、ぴたりと当て嵌まったのだと思う。昼ごはんを外の公園で食べる習慣も数ヶ月ぶりに再開しており、桜の葉は紅くなって落ちはじめ、トンボは跋扈し、セイタカアワダチソウとススキは静かに死闘を繰り広げ、空には高くトンビが舞っている。そして僕は「テルーの唄」を聴くのである。秋だ。紛うことない秋だ。相変わらず友達のいない秋に、「テルーの唄」はそっと寄り添う。人影絶えた野の道を、僕はいつも親鸞とともに歩いているつもりだけど、絶えて物言うこともなく、そんなひとりぼっちの寂しさを、なににたとえればいいのだろうかと思う。
 そして「ゲド戦記」は観ない。そんなに主題歌に嵌まっているならいちどくらい観ればいいだろうに、異様なまでに手が伸びない。なんか暗そうで嫌。

 カサノヴァの伝記を読んでいる。カサノヴァはすごい。すごいバカ。性的な方面に関して、本当に「まいっちんぐマチコ先生」レベルのことをひたすらやっている。霊能力者のフリをして、儀式の前の清めのために処女の身体を隅々まで洗うとか、発想が十代男子のそれだと思う。しかもそれが実話だからすごい。もっとも男よりも女の子のほうが実はエロくて、だから女の子はいつだってエッチなことをしたがっている、しかしながらただ無造作に男を誘っていたらただの淫売になってしまうので、女の子は常に男が騙してくれる(エッチなことをしてもいい大義名分を与えてくれる)のを待っている、という説があり、説と言うかそれはまぎれもない真実なのだけど、カサノヴァはそれを最大限に利用したということなのだな、と読んでいて思った。
 あと女性をそこまで籠絡できるということは、要するに人ったらしなわけで、女性のみならず、カサノヴァは行く先々で、すぐに知り合いを作るのだった。そこなんだよな、と思った。友達ができない人間が、ハーレムエンドにたどり着けるはずがないのである。

 賞を受賞した(昔の)歌手が使うやつのように、マイクにリボンとかで装飾を施したものを作りたい、ということを何記事か前に書いた。それから100均などで材料を買い揃えたり、図書館でリボンワークやラッピングのテキストを借りたりして、着々と準備を進めていた。100均では、リボンのみならず、フェルトのポンポンや造花、カラー紐など、あれも使えるんじゃないかこれも使えるんじゃないかと、次々にカゴに入れていき、さらには店も一軒では済まさず、ダイソーやセリア、ミーツなど、いろいろ巡って、最終的に大きな袋いっぱいにまで資材が整ったのだった。
 そして実際に昨晩から練習を始めた。しかしやっぱりなかなか難しい。教材の通りにやったつもりでも、立体感が出ない。これは鍛錬の必要がありそうだ。
 いい具合のものができたら、実際にマイクに取り付けて、画像を「nw」にでもアップしたいと思うが、残念ながらわが家にはマイクがない。以前キーボードを買った際に付属していたものがあったのだが、子どもたちによって破壊されてしまったのだ。それでマイク代わりになるもの、と考えて、すぐに思い浮かんだのは勃起したペニスだった。マイクと勃起したペニスは、思えば円筒の部分がだいぶ似通っている。そうか、それじゃあ勃起したペニスに、作ったリボン飾りを纏わせて、画像をアップすればいいのか。俺のブロガー人生がそこで寂しく終わりを迎え、武道館のステージにそっと萎えたペニスを置いて、去っていくのだな。

2018年10月11日木曜日

癖寝相・けんちん・モテ

 癖寝相なんて言葉は聞いたことがないけれど、そういうのが僕にはある。両手の指を組んで頭の下に置く、というものである。そんな、腹筋運動をするときのような、あるいは20分くらい仮眠を取るような恰好で、ひと晩じゅう寝ていることがある。こうなると当然、起きたときには指も肩も痛い。これには朝からものすごくテンションが下がる。
 ファルマンにこのつらさを訴えたら、夜中にファルマンがふと目を覚ましたとき、僕がこのポーズを取っていたら、直してくれるようになった。「今度からそうしてあげるね」「頼むわマジで」というやりとりなど一切なくそれは開始されたので、最初にされたときはとても驚いた。夜中に、妻にいきなり腕を払われるようにして目を覚ますのである(頭が動かされるのでどうしたって目が覚める)。すぐにはその行動の意味が解らず、てっきり妻がキレているのかと思った。なぜ寝ていて妻がキレるのか、という話だが、それはほら、寝言でつい言っちゃったのかもしれないじゃないですか。あんなこととか、こんなこととか……。

 豚汁が食べたいと唐突に思い、ファルマンにリクエストをして、昨日の夕飯にそれが出た。それをひと口すすって、こう思う。
 これは豚汁じゃない。けんちん汁だ。
 豚汁とけんちん汁の違いをそれほど意識して生きてきたわけではなく、「豚汁」と出されたら豚汁と思い、「けんちん汁」と出されたらけんちん汁と思って、だいたい済ませてきたけれど、昨日のそれを口に入れた瞬間に、僕の中で明確な定義ができた。
 口に含んだとき、肉を感じたら豚汁。ごぼうを感じたらけんちん汁。
 強烈なごぼうの風味を口いっぱいに感じながら、そんなことを思った。
 それから改めてネットで検索をかけたら、両者の違いは、いろいろな捉え方があるらしいが、けんちん汁は元が精進料理であり、肉は入らないらしい。昨晩のわが家のそれには、いちおう豚肉が入っていた。だからけんちん汁の定義からは外れるようだが、その肉を感じさせないほどごぼうが強かったので、やはり豚汁と呼ぶには抵抗があった。
 たしか松屋だったと思うが、サービスの味噌汁をけんちん汁や豚汁に変更することができて、その調理工程は、タッパーに一食分のけんちん汁の具材というのが用意されていて、そこに味噌汁を入れて温めたらけんちん汁に、そこへさらに肉を入れたら豚汁に、という仕組みだった。だからなにが言いたいのかと言えば、豚汁の肉の存在感は、必ず野菜を凌駕しなければならないということだ。多分けんちん汁変更は+80円、豚汁変更は100円とかだったと思う。

 読んでいた本に、「女は女の気配がある男に惹かれる」という一節があり、そうなんだよ、そこなんだよ、と深く感じ入るところがあった。
 女っ気がない男というのは、つまり女に見向きもされない、魅力がない男なのだから、惹かれないのは当然で、大勢の女がいいという男が、結局いろいろと優れて、魅力を感じるのは当たり前のことではないか、と思われるかもしれない。それはたしかにそうだ。でもそれだと男女が逆でも一緒の理屈になるはずだが、「男は男の気配がある女に惹かれる」なんて話は聞いたことがない。男は往々にして、まだ誰にも踏み荒らされていない処女雪を切望する。そしてここに悲劇の元凶がある。そもそも子作りの役割分担として、女は吟味してひとりの優れた男を選ぶ必要があり、男はとにかくたくさんの相手と子どもを作ろうとする、という差があって、上記の違いというのもそのまんまここの性質から来ているわけだけど、だから結局、トドやゴリラのハーレムのごとく、モテる男はどこまでもモテて、モテない男はひたすらモテず、そして女は滅多なことがない限り抱かれないことはない。そういうことになる。だとすればこの世で最も哀しい存在は、やはりモテない男だということになる。モテない男への救済というものが、まったく無いように、この世はできているのだ。

2018年10月8日月曜日

太極剣・ひめ・スクールランド

 先日の出先で、「どうやら太極剣の教室をしている人たち」というのを目撃したのである。生徒らしい若い細身の男性ふたりを相手に、講師らしい恰幅のいいジイさんが指導をしていた。生徒のひとりがススス、と模造刀を両手で押し出すのを、講師ジイさんは「そうじゃない」という感じでやり直させていた。声が聞こえる距離ではなかったが、コントくらい判りやすく、太極剣の指導風景だった。こうして思い返してみて、ちょっと疑いの気持ちさえ湧いてくるほどだ。だってあまりにも唐突に、僕の眼前に、ショートコント・「太極剣の教室」が展開されたじゃないか。そんなことってあるかよ、と思う。太極拳でも見ないというのに、それを通り越して太極剣と鉢合わせするなんてことが普通あるだろうか。いや、ない。だとすればあれは、運命の出会いというやつだったのではないか。僕はあの集団に駆け寄って、「僕も仲間に入れてください!」と懇願するべきだったのではないか。「──いま思えばあれが運命の分かれ道でしたね」と、後年述懐される場面だったのではないだろうか。しかしなあ、指導のジイさん、けっこう厳しそうだったんだよな。ジャルジャルのコントの「おまはんかいな」くらい、生徒の刀を押し出す動作をいちいち直させていた。しかも僕の場合、太極剣はトワリングバトンの演舞の一助になればいいな、くらいのモチベーションで齧りたいと思っている程度なので、そんな魂胆を明かせば絶対に怒られると思う。

 姫始めってすごい言葉じゃないか、と唐突に思う。新年最初のセックス、姫始め。これってつまり、妻だったり恋人だったりという、自分の抱く相手のことを姫と称しているわけだろう。だとしたら男尊女卑のイメージが強い日本語にしては、なんだかイタリア的な、色男的な表現ではないかと思ったのだった。しかし語源とかを知ろうと検索してみたら、姫始めは誤用と言うか当て字で、その意味では「秘め始め」という表記が真っ当であるようだ。なるほど、秘め始め。そのまんまだが、たしかにそうである。そして秘め始めが、姫始めになって、それでも意味が通じるあたりに、情趣があると思った。なんなら「姫恥芽」はどうか。さすがにそこまでいくとただ下品だ。

 高校が共学じゃなかったことを僕はこれからも一生後悔して生きていくに違いないのだけど、そんな僕だからこそ思いついたアイディアとして、共学高校をモチーフにしたテーマパークがあればいいのではないかと思った。ディズニーでもなく、映画でもなく、レゴでもなく、ジブリでもなく、共学高校。そこに行けばいつでも共学高校に通っている高校生になれる夢の国、スクールランド。授業、文化祭、体育祭、遠足、合唱コンクール、部活、告白……、パーク内には様々なアトラクションが用意され、当時は叶わなかった体験をやり直すことができる。ちなみに断っておくが、もちろんキャストは全員18歳以上であり、特別コースの料金を支払えば、お気に入りのキャストを指名して、体育倉庫エリアに入ることも可能である。どうしたってこの話は風俗にならざるを得ないのだった。

2018年10月1日月曜日

新米・マイク・背すじ

 10月いっぴである。「いっぴ」って「ついたち」より軽やかで、初日の気分にふさわしい。
 ちょっとやさぐれ気味だった9月を反省し、今日からは前向きに暮そうと決意をした。
 そしてこれは狙ったわけではないのだが、今日の晩ごはんから、わが家のごはんが今年の新米になった。昨日、台風24号が来る前の午前中に、急いでスーパーに買い出しに行ったのである。来る前、と言ったが、実質ほぼ来ていた。屋外駐車場しかない店なので、ずいぶんな雨で往生した。そんな状況で買った10キログラムの米である。
 食べたらやっぱり格別においしい。と言うより、9月の米はおいしくなかった。夏が暑かったのとかも関係あるのだろうか、今シーズンの最後のほうの米は、本当においしくなかった気がする。そこからのギャップもあり、感動するおいしさだった。いい下半期のスタートになったと思う。

 懐かしの歌謡曲的な番組を観ていたら(こういうのが近ごろとても愉しい)、レコード大賞とか、歌の賞レースでめでたく受賞をした歌手のマイクには、リボンとか花とかの飾りがあしらわれていて、あんなんすごくいいじゃないかと思った。
 尾崎紀世彦が「また逢う日まで」を唄うときとかの、マイクのコードの感じがすごく好きで、カラオケでもマイクのコードがあればいいのにということを、これまでもちょっと思ったりしていた(実際は邪魔に違いなく、そのためワイヤレスに進化したのに違いないが)。
 なのでその代替としても、ああいうマイク飾りを自作し、持ち込めばいいのではないかと思った。それだけで「受賞した歌手風」になれる。昂揚感が出ると思う。本当はなんにも受賞していないのだが、した気持ちになって、観客席の母に手を振って、瞳を潤ませることができると思う。
 そしてこれを友達とのカラオケに持っていってごらんなさいよ。超ウケるに違いない。みんな感動して、こいつが俺の友達で本当によかったと思ってくれると思う。
 今度手芸屋に行ったとき、リボンテープとか造花とか買おう。

 バトンを回しているところの写真を撮ってもらったら、自分が思っていた以上に自分が猫背だった、という出来事があり、こりゃいかんと一念発起をして、トレーニングを始めた、はずもなく、マウスをクリックして、背すじ矯正ベルトというものを発注した。これさえ着けていれば、自ずといい姿勢が保てるようになるという、能動的なのだか受動的なのだかよく判らないアイテムである。肩の周りだけをベルト状のもので吊るタイプと、腰から上の背中全体をホールドするタイプの2種類があり、僕は後者を選択した。どうせ薄着の季節には着けないだろうから、それならばがっつりしたもののほうがいいだろうと思った。
 それをいま、装着しながらこのブログを書いている。とてもいい姿勢である。気のせいか、文章も折り目正しい、品行方正なものになっている感じがする。ちんこ、ちんぽ、ちんぽこ。

2018年9月25日火曜日

ぐにゃぐにゃ・バッタとトンボ・すず

 連休はカラオケの他、その翌日には公園へと繰り出した。なんか今年は夏前、やけに実現できなかった公園での弁当も、このたびとうとう叶った。いやはや夏が終わった。
 公園では写真をたくさん撮った。子どもたちの姿はもちろんだが、ファルマンに頼んで、バトンを回しているところを多く撮影してもらった。いい写真があれば、LINEのホーム画面に設定しようという目論見があった。結局タイムラインの誕生日通知のところへは、誰もなんの反応も返してくれず、哀しい思いをしたので、もういっそそこまでのことをすれば、さすがに誰かがなんかしらいじってくれるのではないかと思った。「えっ、バトン回すの?」とか。それだけでいいのだ。
 でも家に帰って撮ってもらった写真を見たら、思った以上に様になっていなくて、ダメだった。このギャグを成立させるためには、その画像はキレッキレに華麗にバトンを回せていなければならないのだ。それなのに、僕は自分が思っている以上に、猫背で、腕も足もぐにゃぐにゃしていた。あーい、よっこらしょ、という感じがあった。また哀しい気持ちになった。
 今後は姿勢や手足のハリに注意してバトンを回したい。向上心の塊か。

 職場での散歩もぼつぼつ再開しはじめている。しかし秋雨なのかなんなのか、雨がちの曇りという天候が続いていて、空気も地面も湿り気が強く、そして季節柄バッタが大量発生しているので、散歩の爽快感というところからは大きく乖離している。若干アマゾン探検感がある。秋口ってこんなもんだったっけかな。じゃあもう早く晩秋になってほしい。
 バッタと同時に、トンボも大量発生中だ。詩歌などで表現されるトンボの情緒という次元からは、はるかにかけ離れた高密度で飛んでいる。ディストピアの空飛ぶ車の渋滞のようだと思う。

 今夏のSEVENTEENを眺めていて、やっぱりいまどきの女の子のファッションは解らない、と思う。今夏の、というのはもちろん水着が目当てだったわけだが、その水着においても、なんかもう意味が解らない。現代の10代のモデルが堂々と着用している最新ファッションは、もしも僕たちの時代に着ていたら、とてつもなくダサい子のレッテルを貼られていただろうと思うものばかりで、頭がくらくらする。浴衣と制服ばかりがかわいくて、普遍的なものというのは尊いのだな、と思った。それは気持ち悪いおっさんであるお前が、若い女の子を記号としてしか見ていないからだ、と言われれば返す言葉はない。でもやっぱりダサい。変。あとオフショルダーという形態全般が嫌い。
 読んでいた号でいちばん印象に残ったのは、STモデルの夏の私服スナップという特集で、まずTシャツという括りで、それぞれがお気に入りのTシャツを着て登場するのだが、広瀬すずのTシャツが無印良品の白い無地のものだった、というところだ。他の子たちがブランドとかデザインとか、いろいろあくせくする中で、広瀬すずは無印良品。この子のこういうところ……!と思った。

2018年9月19日水曜日

バッタ・想ったこと・イブ

 ポルガの学校の課題で、生き物を捕ってきてそれをしばらく飼育する、というサイケデリックなことが行なわれる。当初それへ持っていく生き物として、かたつむりを想定していたようで、実際に近所を探し求めたりしたようだが、この時期にかたつむりは無理があったようで、ぜんぜん見つからなかったらしい。僕にも「もしも見つけたら捕まえて」というお達しがなされたが、僕は家族の中で最も外を出歩かないし、それにたとえかたつむりを見つけたとしても、かたつむりを持つことができないので、どうしようもなかった。もしもこのままなんの生き物も捕まえられなかったら、手ぶらで行って、「顔ダニを持ってきました」と言えばいいのではないかと思った。そんな折に、先日の連休で義父母がやってきて、孫たちと公園に出かけ、かたつむりはやっぱり見つからなかったのだけど、その代わりに巨大なバッタを3匹もゲットしてくれた。義父は素手でそれを掴んだというので、心の底から驚嘆した。僕は虫カゴの中で蠢くそれを見ただけでめまいがしそうになった。秋の昼休み散歩では、僕が歩くたびに周辺のバッタがピョンピョンと無数に飛び立つのを、朗らかな気持ちで眺めるけれど、あれは外での出来事だし、手では触らないし、なによりバッタはバッタでもトノサマバッタだ。トノサマバッタは、虫なのでもちろん気持ち悪いのは気持ち悪いのだが、それでもかすかにキャラクター性がある感じがあり、許容できる部分がある。それに対して義父の捕獲したそれは、トノサマバッタではない、あの流線型の細身のやつ、あれのでっけえやつなのだ。そっちは無理。そっちのバッタの怖さったらない。トノサマバッタが帝国軍人だとしたら、そっちのバッタは改造兵人という感じ。脳から、恐怖心とか痛覚とかが取っ払われて、体の半分がぶっ飛んでも気にせずこちらに向かってきそうな、そんな恐ろしさがある。学校に持っていくまでのひと晩、本当に怖かった。

 勃起するという意味での「たつ」を、「勃つ」と書いたり、あるいは「起つ」と書いたりするの、もうやめようと思った。「立つ」でいい。「堕ちる」も基本的に「落ちる」でいいと思うし、「赦す」は「許す」でいいし、「還る」も「帰る」でいい。それらって、結局のところ中二病的な気持ちから使いたがっていたけれど、そろそろ俺もいい歳だし恥ずかしいんじゃないかな、と思った。
 でもこの種の訓読み漢字の使い分けって、その国語的まっとうさと中二病的衒学趣味の線引きが難しいと思う。「分かる」「判る」「解る」は国語的まっとうさのほうであるのに対し、「見える」「視える」には中二病臭が若干漂う。そして自分で言っておきながら、「国語的まっとうさ」という言葉に、反権力の精神が刺激される部分もある。「作る」「造る」「創る」の使い分けは、国語的まっとうさの部類にどうやら入るらしいが、さてどうかな、という気がする。実はそれってちょっと中二なんじゃないの、と思う。なんだかんだですべて「作る」でいいんじゃないか。
 前に読んだ本で、熟語は仕方ないとして、日本語には基本的に漢字を使わない、というスタンスの著者が書いたものがあって、その人に言わせれば「つくる」に漢字を使うことがそもそも異様だ、ということになり、「料理をつくってたべた」とか、「勉強にはげもうとおもう」などとするのが正しい、ということになるらしい。しかしこれはひらがなが多くてさすがに読みづらかった。
 だからその中間として、使える部分はなるべく使うが、細かい使い分けは基本的にしないという、そんな立場がいちばんいいのではないかな、と想った。

 明日は9月20日。毎年恒例の行事として、零時ちょうどのハッピーバースデーメッセージのことを憂えておきたい。今年は特にほら、タブレットを持ちはじめて、LINEなんか始めちゃったから、いよいよマジであり得る。あり得ると言うか、ないと逆に不自然だと思う。だってタイムラインに表示されるし。表示されるように設定したし。もうそれってあれじゃんね。「祝って!」じゃんね。そうですよ。祝ってほしいんですよ。でも零時にそれを見てすぐにメッセージっていうのは困るよ。寝てっから。平日だから。ほら、平日は零時になる前に寝るから。横で子どもも寝てるし。着信音で起されるのはマジ勘弁! いや、タブレットは寝室に持ち込まないし、そもそもLINEのメッセージが届いても音なんか出ない設定なんだけど、うん、そうだね、だからまあ、いいよ! オッケーだよ! 送りたいときに送っていいよ! 明日、俺、何度も何度もLINEを起動して、何度も何度も嘆息して、鼻くそを噴出して美川憲一ごっこするよ!

2018年9月16日日曜日

におい・リス・能

 アマゾンのレビュー欄で、すぐににおいのことを言う輩というのがいる。おもちゃから文房具、アクセサリーから電化製品からまで、そんなもののにおいなんてわざわざ嗅ぐ? と思うものまで、とにかくにおいのことを言及する。そりゃあ他所から来たものなのだから、箱から出したらそれなりに異質なにおいがするだろうよ、と思って、気にせずその商品を発注すると、別ににおいなんてぜんぜんしなくて、あいつらの嗅覚どうなっとんねん、となったりする。
 そういうことが、アマゾンで物を買うようになって数年、ずっと続いていた。そんな折に買った、先日の電動歯ブラシである。1分で35000回の振動を謳い、レビューのコメントも上々で、喜び勇んで購入した。これが、まあまあにおう。専用のケースに入れてあるわけだけど、開けるたびにわりと化学的なにおいがする。なぜだ、と思う。だってレビュー、これに関しては、においについて誰もなんの言及もしてなかったじゃないか。なぜだ。なぜ口に入れて使うものに限って、お前たちは誰もにおいのことを言わない。スニーカーのにおいなんてどうでもいいのだ。どうした、お前らの鼻はくるぶしにでもついているのか。

 娘たちのショーツをユニクロで買ったのだけど、3枚組で、そのうちの1枚がリスの柄だった。
 女の子のショーツにリスをプリントするなんてウィットに富んでるなあ、と思い、ファルマンに店内でそう言ったら睨まれた。僕が悪いのだろうか。女の子が栗柄のハンカチを持ってたとか、財布がリス柄だとか、それくらいのことで反応してるわけではない。ショーツなのだ。ショーツがリス柄なのだ。反応したって致し方ないくらいに近いじゃないかよ、と思う。

 夏に僕が下の義妹とLINEを交換したとき、それは僕にとっての14人目で、義妹にとっての314人目だった、という話があるが、このエピソードがファルマン(細かい数字のことなど気にしない大人物)の中でざっくりと記憶されたようで、「妹のLINEの友達の数は300人」という認識になっていた。それはいちばんダメな数字の捉え方。僕と妹のLINEの友達の数の差が300人だったわけで、たしかに、たしかに314人ともなると、人から「LINEの友達は何人?」と訊ねられたときに、「300人くらい」と答えても不自然ではないけれど、でもそれじゃあ314人の人にとって端数でしかない人数しか総計でLINEの友達がいない僕は、もう存在そのものが誤差の範囲みたいなことになるじゃないか。なんだそれは。僕は幽玄の存在か。能でも舞えというのか。あ、LINEのプロフィール画像を能面にしようかな……。そうしたら友達増えるかな……。

2018年9月8日土曜日

フロイト・平成・石ころ

 しばらくバトンを回していない。昼休みなど、回したいなー、とは思うのだが、なんとなく手が伸びない。誕生日のプレゼントにブルートゥースのイヤフォンをもらう心積もりがあって、まだ持っていないのに、もう手に入ったあとの気持ちになっているため、ワイヤレスじゃないイヤフォンのコードをタブレットから伸ばしてバトンを回すのってちょっと不便なんだよね、と、すでにその「ちょっと不便」を許容できなくなっている。人間はどんどん堕落するな。
 そんな回さないバトンだが、毎日やはり携えて出勤している。回す回さないじゃなくて、これは俺の基本的な持ち物だから、という気持ちで携えている。しかしここ数日のことなのだが、中国地方は雨がちの天候で、駐車場から会社まで、傘を手に持つ必要があった(しかし考えてみたら数日間でいちども差さなかった)。するとなんとなく、バトンはまあいいか、という気持ちになり、バトンは車内に置きっ放し、という現象が起った。これには我ながら、そうなのか、と思った。要するにあれだ、フロイトのやつだ。僕は長い棒を持って歩きたいのだ。そういうことだったのだ。しかし不思議じゃないか。長い棒なら、いつだって1本、立派な物を携えているはずなのに。
 よく言ったな、立派って。その度胸が少なくとも立派だわ。

 有名人の死去や天災が多く、世紀末ならぬ元号末らしい感じがあるけれど、そんなそれやこれやによって、みんな今ちょっと、「平成の終わりを感じさせる」って口にするのが前のめりになっている感があると思う。僕だけだろうか。吉澤ひとみの飲酒ひき逃げ事件には驚いたが、それに関しても「平成の終わりを感じさせるなあ」という思いを抱いた自分の心の動きにはもっと驚いた。僕にとっての平成とは一体なんだったのか。
 近ごろ職場で掛かっている有線は、30代向けのヒット曲みたいなチャンネルになっていて、そこではモーニング娘。とB'zとミスチルがやけに高頻度で流れるのだった。30代ヒッツってそうだろう、と言われたら、まあたしかにそうかも、と答えるほかないような、微妙な気持ち。

 ガラケーを家に忘れて出勤する。なんの問題も起らない。ファルマンとの連絡も、近ごろはほぼLINEなのである。あまりにも問題がないので、さすがにちょっと「あれ?」みたいな気持ちになった。ガラケー機能のついてるあの目覚まし時計、……あれ? あれって、うん、必要……? だよ、ね? と、一瞬ちょっとフワッとなってしまった。どうしたんだろ、貧血なのかな。
 それで昼にファルマンにLINEで、
「携帯忘れたわー。鳴り響いてうるさいでしょ、ごめんね」
 とメッセージを送った。
 それに対する受け答えがこう。
「石ころのよう」
 着信音や通話音で、あんなにも世界をうるさくした携帯電話が、今はもう石ころみたいになっただなんて、なんだかラピュタのような話だな、と思った。ラピュタは本当にあったんだ。しかも僕のガラケーの待ち受け画面と来たら、ファルマンの描いた巨木の絵なのだ。シータ!

2018年8月31日金曜日

診療終了・スイカ・大人

 なんと歯医者の治療が終わる。最初に行ったとき、「どこが悪いとかじゃなくて全体的に悪い」くらいに悪し様に言われたので、いったい何ヶ月コースなのかと暗澹たる気持ちになったのだけど、親知らずを抜いて、ひどくなっている虫歯をふたつ処理して、そして全体の歯石を取って、このたび終了したのだった。すばらしい早さ。前に行っていたところ(僕以外の家族はまだ行っている)は、歯石取りだけで何回も診療を費やした。乗り換えて本当によかった。ここなら半年後の定期検診もサボらずに行こうという気になるというものだ。
 ただし診療室から出る最後の最後に、「たぶん近いうちに右下の親知らずが痛くなるよ」という呪いの言葉をかけられた。歯の右下エリアなんて、これまでの記憶の限り、まったく痛みの訴えをしてこなかった優良エリアだと認識していたので、そんなまさかと思った。それで家に帰って口の中を見てみたら、歯医者じゃなくても、僕が大きい口を開けて笑った場面で、一緒に笑い合った友達が見つけて指摘できるくらい可視的な感じで、歯茎から顔を出しかけている歯が最奥にあった。しかもそれはあろうことか、下から上ではなく、ちょっと斜めというか横と言うか、これってあんまりタチの良くない生え方のやつなんじゃねえの、という出方をしていた。それを目にすると同時に、わが家の歯抜き婆の、「上はええんじゃ、つらいのは下なんじゃ……」という言葉も思い出し、顔に縦線が入った。さくらももこのエッセイに、歯医者で笑気ガスを吸う話があったな。

 職場の昼休みに、誰が持ってきたのかスイカが振る舞われ、カットされたものをひとつもらって食べた。その場では特に何も思わず、スイカだなあと思って食べたのだけど、午後からの呼気が、人体の機構なのか、たまに胃の中の空気が口までせり上がってくるときというのがって、カレーを食べたあとはそのたびにカレーのことを思い出すあれだけど、それが今回の場合はスイカで、そしてそのスイカのにおいというのが、自分が思っている以上に嫌だった。これまでスイカには嫌悪感を抱かずに生きてきて、わが家の子どもたちはスイカを毛嫌いして食べないので、スイカを食べないなんて信じられない! と思っていたのだけれど、ここに来てスイカと自分の関係性を見つめ直したくなった。そのことをファルマンに話したら、「子どもたちがスイカを嫌うのはムカつくけど、でも前々から、どうしてあなたはスイカが大丈夫なんだろうとは思っていた」と言われ、冷静に考えてみたら、そう言えばどうして俺はウリ科の野菜を喜んで食べていたんだ……?と、どんどん謎が深まっていった。僕はもうスイカくらいしか冷たくて甘い食べものがなかった世代じゃないのに、どうしてあんなにスイカ=嬉しい!みたいなイメージが醸成されていたのか。さらに疑問なのが、そのイメージに誘導されて、子どもを喜ばせるためにスイカを買って帰ったのに、なぜわが子はそれを拒んだのか。なぜお前らは、パパが今の今までかかっていた催眠術にかからないんだ。パラダイムか。もうお前らはスイカパラダイム外の人類なのだな。

 夏の出雲で、次女の持ってきたスーパーファミコンミニを借りて遊ぶということをした。その前に買い物に出て、「ほろよい」とポテトチップスまで用意する周到さで、どっぷりとゲームを堪能する気まんまんだったのだが、いざしてみたらそれほど心が盛り上がらなかった。テレビゲーム、それもスーパーファミコンと来たら、ちょうどドンピシャで熱中する年頃だったので、吐くほどおもしろい、という強い印象があったのだが、ドンキーコングもストリートファイターⅡも、プレイする僕の心はとても淡々としていた。当時と同じ場所に来ていて、懐かしさは感じるのだが、でもここにはもう友達は誰もいないし、僕だって小学校高学年じゃない。ただ緯度と経度が同じ場所に来ただけ、みたいな、そんなうすらさびしい気持ちになった。今回のミニには入っていなかったが、大人になってから桃鉄をする機会というのが何度かあって、始める前はものすごい多幸感があったのだけど、いざ始めてみたら、そのときもやはり淡々としていた。あれっ?となった。でも本当はあれっ?でもなんでもないのだ。だって僕は大人になってしまったんだもの。大人は、コントローラーを持って、画面上で展開されることに、そこまで入れ込めない。ゲーム世界に飛び込めない。その世界の入り口よりも、僕の体が大きくなってしまったから。この思いは今年、カードキャプターさくらに対しても抱いた。今年は少年時代の僕との訣別の年なのか。でも体が大きくなった分、ちんこも大きくなったから、悪くないと思う。ちんこによって大人は肯定される。

2018年8月28日火曜日

電動・脱ぎ・虫

 電動歯ブラシがやってきて、使い始めた。最初は戸惑い、歯磨き粉を盛大に洗面台の鏡に散らした。翌日からでも職場に持っていく心積もりがあったが、もう少し練習をしてからがよさそうだ。
 それにしても震えている。1分間に35000回である。数えたわけではなく、アマゾンの商品紹介の欄にそう書いてあった。歯医者に「安物でも手よりいいよ」と言われたことをファルマンに話したら、「負けないし」と言って小刻みに歯ブラシを震わしてみせたが、あれはたぶん1分間に80回くらいだと思う。つまり1分間ごとに34920回の差がつくということだ。その圧倒的な数字が嬉しい。マウントして得られる幸せなんて嬉しいか。もちろん嬉しい。ファルマンが手動で僕の1分間の震動を歯に与えようと思ったら、437分半かかるのだ。7時間と17分半かかるのだ。それがこれなら1分。選ばれし民になったような心持ちだ。なんて汚い心持ちか。

 中国人の女の子たちの間で、TikTokで服を脱ぐのが流行っている、という噂を聞きつける。聞きつけるもなにも、YouTubeのやつが密告してきた。旦那好みの話題ですぜ、とトップページに並べてきたのだ。それで知るところになった。僕好みの話題だった。
 15秒の服を脱ぐ動画は、音楽に合わせて、トップスを次々に脱いでいくのだが、もちろんそこまで脱ぐわけではない。はおりものを脱いで、ブラウスを脱いで、Tシャツを脱いで、せいぜいがキャミソール姿までだ。そしてそれ以上を脱ごうとすると、周囲の友達や彼氏らしき人物が制止する、というのが定番の流れらしい。オリジナリティの欠如と言ってしまえばそれまでだが、誰かが最初にやった名作が模倣されて一種のソフトとなって、誰でも参加できるようになるのが、TikTokのいい所だと思う。つまりこれはパラパラの現代版なのだな、と思う。
 それにしたって「服を脱ぐ」である。すばらしいと思う。規制されるような過激なものではない、というところがいい。ある種の動画サイトのように、過激さばかりで競うようになり、エロ目的の気持ち悪い人種が集うような不健全空間になるのではなく、女の子がキャミソール程度の薄着になっていくという、そのかわいさ。ほのエロさ。そうそう、そこだったんだよ! と膝を打った。ブームが日本にも上陸し、大盛り上がりになればいいと思う。

 職場にゴキブリが出て、誰かしらが退治をした。それで、家にゴキブリが出たらどうしてるか、という話になって、各人がそれぞれのスタンスを話す中で、僕が「妻は田舎者のくせに虫が駄目で、仕方なく都会出身の僕がスプレーで処理している」と言ったら、周囲の人間は岡山県育ちの田舎者ばかりで反感を買った。「田舎の人間だって別に虫とそんなに触れ合うわけではない」と怒られた。たしかに理性的に考えればその通りなのだ。田んぼにサギがいるとか、道路でタヌキが轢かれて死んでるとかは、田舎ならではの風景だと言えるけれど、虫に関して言えば、もっと小規模なスケールで発生するものなので、田舎の中の人工空間にはあまりいないし、都会の中の自然空間にはわんさかいる。だから実は虫への耐性と出身地はそんなに関係ない(北海道にゴキブリはいない、みたいなパターンはある)。理性的に考えればその通りなのだが、しかし理性的ではなくイメージでふわっと、都会出身の僕が考えるところとしては、田舎者は虫とちょっと心くらい通わせられるはずじゃないのか、と思うのだ。なんか虫のおかげで救われた的なエピソードのひとつやふたつ、田舎育ちのお前らは持ってるんだろう、などと思う。だから虫が苦手と言われると、ちょっと釈然としない気持ちになるのだった。我ながらひどい心性だと思う。

2018年8月21日火曜日

林・マウス・薄着

 甲子園が終わる。大して試合は観なかったが、夏の中心、お盆のあたりに甲子園をやってるというのはやっぱりいいな、と思った。きっと日本人の放つ熱量で言えば、サッカーワールドカップよりも大きいと思う。それは真夏だから、というのではなくて。
 大会の中で僕がいちばん印象に残ったのは、済美対星稜の試合で、星稜が逆転満塁サヨナラホームランを打たれて敗退したあと、宿舎に戻って最後のミーティングをしていたときの一幕だ。選手である高校生たちが涙を流しながら悔しがっているところへ、監督が優しく語りかける。
「誰ひとり悪くない、今日。
 負けたら監督のせいです。
 よう頑張ってくれた。
 こういう終わり方も、またお前たちにとっては、大きな経験や。
 今日の日を忘れることなくね、次に生かしてほしい。
 ……一曲唄っていいかな?」
 テレビを観ていて、「えーーー!」となった。
 そして実際に監督の林さんは唄うのである。ちょっと掠れた涙声のアカペラで。ぜんぜん聴いたことのない曲を(歌詞で検索して、かりゆし58の「オワリはじまり」という曲だと知った)。
 この流れがとてもよかった。高校の野球部監督としてそれっぽいことを言った(ネタフリ)あと、唐突に唄い出す。本来の歌詞の「燃えるような恋をしたかい」を「野球をしたかい」に替えているのもよかった。これで応用の幅がグッと広げられた。そこさえ替えれば、このよくできた流れは、どのジャンルにも使えるのだ。やりたい。やりたくて仕方ない。いつできるだろう。やっぱり悪質なタックルのときと一緒で、ラウワンに行ったときくらいしか浮かばない。ラウワンに行ったらしなければならないことが多すぎる。

 実は先日のキャンプで、タブレットで使っていたマウスをなくした。コテージ内で使っていたのだが、翌朝の荷造りの際にどんなに探しても見つからなくなってしまった。出発前に丹念にコテージ内を調べたが見つからず、帰宅してからも荷物を精査したが出てこなかった。哀しい。
 買って、繋いで、カーソルが現れた瞬間に、「やっべ! 便利! パソコン!」と欣喜雀躍したが、その分だけ、なくなったときのショックが大きかった。世の人々は、タブレットよりも小さいスマホで、マウスもなく、どうして操作ができるのだろう。タッチする瞬間だけ、指先が細く変形するのではないか。スマホから発せられる怪光線(現代科学では感知できない)によって、そんな変異が起っているのではないか。本気でそう思う。みんな器用なのか。ビーズ細工とか得意なんじゃないか。僕は自分のことが器用だと思っていたが、どうも違ったらしい。
 そんなわけで、仕方なく同型のものをもういちど買うことにした。ない時代にはもう戻れないのだった。世の人々はまだ大半が「ない時代」の中に在る。嘆かわしいことだ。

 夏だというのに、薄着の若い女の子との邂逅があまりにもない。こうもあまりにも実物を見ないと、伝説上の生き物化してくる感がある。写真がなくて、そもそもまだ未開の地が多かった時代、ゾウやキリンといった、遠い国から伝言ゲームで伝えられる動物と、村の誰かが確かに見たと言う河童や天狗というのは、ほとんど区別がなかったと言われるが、僕にとって夏で薄着の若い女の子もほとんどそんな感じだ。これは実際にいるほう、と思っていたら、なんのことはない架空のやつだった、ということになりかねない。それくらい見ていない。
 もっとも厳密な意味で言えば、僕の思い描く「夏の薄着の若い女の子」は、2018年の日本の夏には本当にいないのだ。最近の若い女の子は、僕が決して思い描かない、感性の違うファッションを身に纏っている。ショッピングモールとかで目にするあれはノーカンなのだ。
 だから34歳、平成最後の夏、僕は薄着の若い女の子を見ていない。きっと見ずに終わる。
(追記:ファルマンがこの記事を読んで、「あなたの思う薄着ってどんなの?」と訊いてきたので、「ワンピース的な……」と答えたら、「結局ジブリってことね」と言われた)

2018年8月17日金曜日

抜歯・悪タク大・ラウワン

 親知らずを抜く。さっき抜いてきた。
 親知らずを抜くことになっていた今日の歯医者の予約に合わせて、くだんの左上の親知らずは、実はキャンプあたりからジムジムと最後のあがきを開始し、当日の今日なんかは、痛み止めがまるで効かないほどに大暴れしていた。思わず監督契約年最後の年にやけにいい成績を残して辞めさせにくくする野村克也を連想したが、考えてみたら親知らずは別に活躍をしたわけではない。むしろメガンテ的なタチの悪さだった。
 抜歯というのが初めての経験で、抜歯抜歯と言うけれど、硬いものを噛み砕けるほどしっかりと根付いている歯というものを、一体どうやって抜くというのか、と疑問だったが、そこらへんの接続を融解させる魔法の薬があるわけではなく、なんか物理的にやっていたようだった。もちろん麻酔を十分に効かせていたため、いまいちどんな処置がなされたのか把握できていない。しかし嵌まっているものを引っこ抜くのだとしたら、力の強弱や角度など、作業者のテクニックというのがけっこう物を言うのではないかと思う。その点、今回掛かっている歯科医院の医者は、わりと優れているのではないだろうか。生え方もあるのだろうが、10分ほどでグソッと抜けた。血まみれのそれを、一瞬だけ「ほら」と見せられた。長年連れ添い、生まれた場所ゆえの不運で不良化し、僕を悩ませ、そしてとうとう排除されるに至った、かつて僕の一部だったもの。痛みの元凶が取り除かれた清々しさとともに、若干の切なさも抱いた。医者は「でかい」と言った。そうか、大きかったのか、お前。
 それから軽く縫合をして、今日の治療は終わった。帰りの車中で、「早めに服んだほうがいいですよ」と言われた痛み止めを服んだ。そのおかげか、麻酔はもう切れたんだろうが、痛みはいまのところない。あまり探らないけれど、血の塊のような存在は感じる。僕はさっき歯を抜いて、いま歯茎には穴が開いているのだ。なんだか信じられない。未経験だが、破瓜ってこんな気持ちか。

 いろいろなニュースに埋もれてしまって、そこまで話題に上らなかったけれど、またしても日大の、チアリーディング部のパワハラの話はおもしろかった。「悪質なタックル」や「奈良判定」などのパワーワードがなかったので、そこが弱いけれど、この出来事の最もおもしろい点は、パワハラを受けた学生が相談をした学内の部署の長が、あのアメフト部の内田監督だった、という所だと思う。よく物語などで、虐げられている主人公が、命からがら助けを求めた先には、実は既に敵の手が回っていて、善人顔で保護したフリをしつつ、こっそりと敵の大将に密告している、みたいな展開があるけれど、これってなんかそれに似た絶望感がある。もうこの町、いや、この国、いや違った、あの大学に、清廉な部分なんてどこにも残ってないんだ。逃げる場所なんてないんだ。

 若者のツイッターを眺めていたら、ROUND1のことをラウワンと言っていて、ああこういう所だ、と思った。ラウワンにいちども行ったことがない僕は、ラウワンのことに言及する際、これまで毎回きちんと、ROUND1と表記していた。日本語入力のROUND1ではなく、ちゃんとアルファベット入力のROUND1と。そこがもうダメだ。いかにも童貞のやることだ。ラウワンにちょいちょい行く人は、ラウワンのことをROUND1などと言わないのだ。ラウワンと言うのだ。勉強になった。なので僕もこれからはラウワンと呼ぶ。これでまた少しラウワンで遊ぶ日が近づいたと思う。あるいはROUND1のことをラウワンと呼ぶ僕は、もう既にラウワンで遊んだことが何度かあり得てくると思う。「何度かあり得てくる」ってなんだろう。

2018年8月16日木曜日

300・筋力・いたずら

 今回の帰省で、次女夫婦と三女と、LINEを登録する。しかし僕がタブレットを持ったことは、キャンプなどを通して認識しているはずなのに、向こうからLINEの登録をせがんでこないのはなぜだろうと思った。仕方なくこちらから、画面にQRコードを表示させ、提示してやった。シャイなのか。自分とお義兄さんでは釣り合わないとでも思ったか。そんなことを気にする必要なんてない。たしかに釣り合うか釣り合わないかで言えば釣り合わない。三女と交換した際、「ちなみに君は登録している友達は何人なの」と訊ねたら、「314人」という答えが返ってきて、それに対して僕は交換前(次女夫婦とは既に交換して)14人だったので、そこにはちょうど300人の開きがあった。300人以上が登録されている三女のガバガバLINEと、一個のラグビーチームほどの僕の純潔LINEでは、登録すること、されることの価値がまるで違うのは言うまでもない。でもそんなことに引け目は感じなくたっていい。僕は広い心で受け入れてやる。かくして友達15人。また親戚か。

 近ごろ自覚症状が出るほどに、筋力が落ちている。特に背筋だ。背筋が落ちたせいで、自然と猫背になってしまっている。加齢で筋力が落ちての猫背って、本当に救いがない。元から猫背というのとは違う、本格的なダメさがある。このまま放置していたら、背が丸まった分、腹が圧迫され、圧迫された腹部は贅肉を前に押し出し、そうして中年太りが出来上がるのだ。中年太りは、代謝からも骨格からも要因が襲い掛かってくるのだと知った。なぜ加齢はそんなにも我々の腹を突き出したがるのか。どういう狙いがあるのか。向こうに確たるメリットがあるとは思えず、それゆえにタチが悪いと思う。なんとなく遊び感覚で責められるのが、いちばん絶望感がある。
 流れを食い止めるために、筋トレを試みることにした。腹筋は最近になってあの、仰向けに寝た姿勢から上半身を起き上がらせるあれよりも、肘で腕立て伏せの姿勢のままキープするやつのほうがよほど効果的だ、なんてことが言われ出したので、背筋にもそういうのがあるんじゃないのかと検索したら、意外となかった。それで仕方なく、ちゃんといたわってやらないとちんこが痛くなる、あのうつ伏せで上半身を反らせるあれをやった。何年ぶりか、というくらいに久しぶりにやった。そうしたら上半身が、自分でもびっくりするくらい持ち上がらなくて仰天した。精いっぱい頑張っても、ほんの一瞬、6センチくらいしか上がらないのだ。あまりにも上げられなすぎだろう、とさすがに自分でも思った。あまりに上がらないので、そもそもトレーニングにあまりならない。筋力がなさすぎて、筋肉を刺激するための負荷が与えられないのである。なんという現象だろうか。春先にランニングを目論んだとき、外に出たら風が冷たく、しかし走っているうちに体があったまるだろうと思っていたら、体があったまるよりも先に息が上がってしまい、体をあたためられなかった、ということがあった。どちらも世の中的に珍しい現象であるだろうに、「僕のトレーニング」という狭い分野で立て続けに事例が報告されて、こんなの奇蹟的だ、と専門家も舌を巻いている。

 ひとり暮しの最後のあたり、突如として自宅のブルーレイレコーダーが、なにもボタンを押していないのに勝手にディスクトレイを開示してくる、という出来事が起った。何度電源をオフにしてもひとりでにオンになり、吐き出してきて、こちらが閉じる操作をしたら引っ込むものの、またすぐに出してくるし、仕方なく無視していたらそのうちあきらめて引っ込め、しかしやがてまた出してくるという、その繰り返しだった。仕事に出ていた日中、エアコンが入ることもないので、暑さにやられたのだろうとそのときは思い、そのうち自然と直ればいいなあとあまり深く考えずにいた。そして実際、帰省から戻ってきたら、その現象は収まっていて、一件落着したのだけど、いまになって振り返ってみたら、夏場のひとり暮しのときに起ったその現象って、怖がろうと思えばもっとどこまでも怖がれた。電源をオフにしても勝手にオンになるくだりなんて、なんかしらの意思、いたずら心のようなものが感じ取れる(ちょうどその前に「平成狸合戦ぽんぽこ」を僕は観ていた)。でもそのときその恐怖にどっぷり浸ってしまったら本当にドツボに嵌まっていたと思うので、無意識の自助作用として、あまり深刻視しないようにしていたんだと思う。よくできている。

2018年8月8日水曜日

裏口・10年・ぽんぽこ

 太田光が裏口入学だった、という報道に驚く。真偽のほどはよく知らないけれど、なにが衝撃って、裏口入学のスケールだ。裏口入学と言えば、いま騒がれている文部科学省の大物の息子と東京医科大のやつ、ああいうのはスケールがきちんとしていて納得できるのだけど、この話の場合、いや、だって、日芸だぜ? となる。悪質なタックル大学夢見がち学部だぜ? この異様さを例えるならば、死ぬ前の最後の晩餐のリクエストを訊ねたら、超高級料理でもなく、逆に「白米」みたいな素朴なやつでもなく、「すかいらーく」という答えが帰ってきたような、なんかそんな気持ち。えっ、えっ、なんで? といちばん戸惑うパターン。
 なんだか今年はこういう系のニュースがおもしろいな。悪質なタックル大学と違って直接の関係はないが(悪質なタックルとも実際は関係ないのだが)、日本アマチュアボクシング協会の話ももちろんおもしろい。この一件では、「奈良判定」というフレーズがとてもいい。悪質なタックルにしろ、奈良判定にしろ、やっぱり秀逸なフレーズがひとつあると強いな、と思う。年末の例の賞への期待もいや増す。
 ちなみに記事を読んだわけではないが、太田光の自力での合格なんて怪しい、という趣旨でのエピソードとして、太田光は割り算さえできなかった、という話があるらしいが、日芸の学科試験は国語と英語だけだろう。それとも太田の時代は違ったのだろうか。

 婚姻届を出したのは2008年の8月8日なので、今日で結婚10周年なのだった。
 10年。ずいぶんな月日である。10年になってくると、夫婦としての格がちょっと変わってくる感じがある。そうそう生半可なもんじゃねえぞ、という雰囲気が出てくる。
 そんな記念すべき10周年なのだが、ファルマンは子どもたちとともに島根に帰省中なので、見事に離ればなれなのだった。この予定を組んだとき、10周年の日に離ればなれになるということはもちろんその場で判明したのだけど、結婚10周年というのは、それによって予定を変更するほどのパワーはないのだった。一緒にいたところで、きっと特段どうということもしないのだ。でもなんかしらの行動はしなければ、と考えて、まず間違いなくケーキを買って食べていたろうと思う。しかしケーキは先月の交際開始15周年にも食べた。だからこれでむしろよかったかもしれない。
 あの夏の練馬から10年。あの夏は冷夏だったんだよな、たしか。そのことひとつ取っても隔世の感がある。

 ひとりの夜、娘らのワンピースを縫いながら、観たいテレビもなかったので、「平成たぬき合戦ぽんぽこ」を観た。けっこう久しぶりに観た感想として、もっとスカッとおもしろい娯楽作品と思っていたのが、実は全編を通して悲壮感があり、逆に、こんなにも哀しいストーリーを、娯楽作品と勘違いさせるほどに、巧みに可笑しく作っていたのか、と思った。圧倒的な力によって、生きる場所も食べものも、無慈悲にどんどん奪われていくあの話は、哀しく描こうと思えばいくらでも哀しくできるだろう。それを、主人公を狸にしたり、声優に噺家をたくさん使ったりすることで、一見愉快なものにしているのだ。その愉快さが、こうして気付くと、また逆に哀しかったりもして、やっぱり高畑勲っつうのもすげえんだな、といまさらながらに強く思った。

2018年8月4日土曜日

体力・かい・べい

 毎日が暑い。仕事中はエアコンの入った場所にいるのだが、エアコンの性能が今年の暑さに追い付かず、常に微妙に暑い。よく効いた冷房が「答え」だとしたら、職場のあれは「ヒント」だと思う。たしかにそれによって乗り越えられるようになるのだが、完全に楽をさせてはくれない。教育的だと思う。数年前のように、凍えるように寒くなって自律神経が崩れるとかはなさそうでいいが、体力は日々じわじわと削られている感じがある。
 それで、どうしても体がしんどくなり、先週あたりから、睡眠時間を1時間増やした。これまで6時間目安だったところを、7時間目安にした。そうしたら劇的と言ってもいいほどに効果があった。6時間だった睡眠を7時間にすると、活動時間はたしかに1時間減るのだけど、起きているときの活力において、トータルで1時間以上の効果が出てくる気がする。35歳になんなんとする年齢で、ようやくそのことに気付いた。この論でいけば、23時間くらい寝て、1時間だけ活動すれば、僕はとてつもない力を発揮できるかもしれない。1時間でなにができるだろう。食事と射精くらいか。23時間寝ての射精はよく飛ぶかもしれない。

 したかいがあった、というときの「かい」って、これまでまったく疑問を持たずに「甲斐」と表記していたのだけど、甲斐って武田信玄のそれであって、言葉の意味とぜんぜん違うではないかと気がついた。おそらく当て字が一般化したんだろうと思う。
 それで広辞苑を開いて「かい」を見てみたら、漢字表記に【詮・甲斐】とあった。「詮」は「詮ない話だ」などというときの「詮」で、こちらはこちらで、意味だけ似ていて字が当てられたようだが、漢字の音としてはぜんぜん違って、これも違和感がある。そもそも現代において「したかいがなかった」を「した詮がなかった」と書いて「かい」と読む発想はない。
 じゃあもうひらがなが穏当か、となるわけだが、「かい」ってひらがなだと、「したのかい?」みたいな意味での「かい」と混同する(本当に意味を履き違えるわけではないが、ここで少し足踏みしてしまう)ので、それもやっぱりよくない。
 というわけで国語に関してなんの権力も持っていない僕が、新しい表記を考えることにした。思えばかつても、「さいちゅう」と「さなか」を区別するために、後者に「乍中」という表記を僕は与えた。僕はもちろんこれを普通に使っているけれど、僕の文章を僕以外の人間が目にする機会は少ないために、何年経ってもまったく浸透していかない。でも別にいい。だって世間に向けて提案しようとしているのではない。自分の文章のために考えるのだから。
 というわけで今回「かい」には、「果以」の字を与えようと思う。書き下せば、果て以て、ということである。こちらの行為による結果、みたいな意味になり、意味的にも音的にもいい線いっていると思う。いい言葉ができた。考えた果以があった。

 ファルマンが米津玄師を覚えられない。最初など「べいづげんすい」と言っていた。おかんっぽい! と思った。数年ごとに新しくなり、併せて横文字のネーミングも新しくなるテレビゲーム機を、もう開き直ってすべて「ピコピコ」と呼ぶことにしたおかんのようだ。最近やっと元帥ではなく玄師だ、ということは覚えることができたようだが、米を「べい」と読んでしまう呪縛はどうしても解けないらしく、「あの歌手の名前は?」と訊ねると、「べいっ! べい……つ? づ? べいづげんすい?」などと言う。あ、やっぱり元帥も未だに言うわ。もううちのおかん、米津玄師のインプットは無理らしい。それならもういっそピコピコって呼んだらいいんじゃないか。

2018年7月24日火曜日

老師・畦道・ハードル

 図書館で太極剣(拳との兼ね合いから「たいきょくつるぎ」と発音するらしい)の教本を借りてきて、ここ数日読んでいるのだけど、言っていることが難解と言うか、独自の世界観すぎて、理解がぜんぜん追いつかない。こっちはバトン回し演舞のステップの一助になれば、という軽薄な目的で本を開いているというのに、そんな僕に向かって、こんなことを言ってくるのだ。

 『剣術において最も重きをおくのは身法であり、「左顧右盻」だけではなく、「前瞻後瞄」や「俯仰翻側」でさえも用いないものはない。いったい何をもって「立身中正」というのであろうか? 剣術における中正は立身の基本であるが、ここでいう中正の意味を理解してはじめて「奇正相生」の道理を理解でき、「俯仰翻側」の妙味を把握することができる。』

 ほら、なにを言っているのかまるで解らないだろう。こういうの読んでいると、僕の頭の中にゴー☆ジャスが現れて、「わけわかんねえだろう!」と僕の代わりに言ってくれる。杉村に続き、ふたりめの「わからない」キャラである。しかしまるで解らないのだが、実際に道場に出向いて、月謝を払い、門下生になって、道着姿の髭の老人にこれを言われたら、たぶん「はいっ!」といい返事をするのだろうな、するしかないよな、とも思う。
 でもそんな風に、あまりにも言っていることがちんぷんかんぷんで、逆におもしろくなってきたので、投げ出さずに読んでいる。もとい文字を目で追っている。
 そんなおかしな読書姿勢なのだが、それでもたまに感じ入る部分もある。
 剣での対決の心構えについての文章で、「蓄而後発」というキーワードの解説として、相手の出方を探りながら自分の出方を見極めることを指して、著者はこう言う。

 『進は進であるが、退も進である。』

 シンワシンデアルガタイモシンデアル! かっこいい! 思わず、老師! と言いたくなる。進は進であるが、退も進である。このフレーズの要旨は後半部の『退も進である』であり、前半部は本当にそのまんまのことをわざわざ言っているのだが、でもこれがあるからいいのだ。ただ『退も進である』だけだと弱い。当たり前のことを言うことによってそのあとの逆説の効果を上げるという高等テクニック。さすが老師だ。近ごろ僕が実生活で他人から教えられたこととして、さいきんちょっと痩せたという職場の上司のダイエットの心得『寝る前に菓子パンを食べるとよくない』というのがあるが、それと較べてのこちらの含蓄と来たらどうだ。相手がザコすぎるというのもあるが、老師の尊さがいっそう際立つ。僕も前のめりで使っていきたい。ちょっとした相談事で、すかさず使いたい。含蓄が半端ないわりに、汎用性も意外と高いと思う。
 それで、えーと、僕はなんのためにこの本を読んでいるのだったっけ。

 通勤の道程に、車道の両端がだいぶ先まで田んぼ、というエリアがあり、転居してきてすぐの頃のその風景(特に帰宅時の夕景)を目にしての衝撃たるや激しいものがあり(とは言え東京から直接来たわけではないので多少の耐性はあったと言える)、今ではだいぶ落ち着いたけれど、それでもやっぱりときどきハッと息を飲んだりすることもある。そんなエリアの一角で今年の春先、ショベルカーが田んぼの中に入り込んで、なんかしらの作業をしている場面を目撃した。これにはとてもショックを受けた。とうとうこのエリアにも開発の波が押し寄せたのか、造成した土地にはマンションか建売住宅が作られ、この風景はもうすぐ見られなくなるのか、と気を落とした。そうして気を落としたきり、すっかりこの出来事のことを忘れていたのだけど、つい先日、ふと思い出して、そう言えば別になんにも建ってないな、あれはなんの作業だったのかな、とショベルカーが作業をしていた場所に目をやった。そうしたら、田んぼと田んぼの間に、畦道ができていた。それまではたぶんなかった畦道。でも田んぼの一区画が大きすぎて不便だったんだろう、田んぼの持ち主はこの春、畦道を作ることにしたのだ。あれはそういう工事だったのだ。畦道って作ろうと思ったらショベルカーで作るんだなー、とひとつ勉強になった。

 これからおもしろい話をします。
 という話し始めをしたら絶対にいけない、ということは十分理解した上で、それでもやっぱりこの話はその導入で始めたい。だって本当にあまりにもおもしろいのだ。
 ここにも書いた話だが、先日僕は耳栓を買ったじゃないですか。その耳栓をファルマンが、「どんな感じか着けさせて」と言ってきて、だから貸してあげたんですよ。それでファルマンが両耳の穴にそれを嵌めたらですね、その瞬間にファルマン、屁をこいたんですよ。
 最高におもしろくないですか。だって耳の穴に栓を突っ込んだら、屁が出たんですよ。お前は昭和のロボットか。原材料は竹とかのやつか。どんな単純システムやねん。っていう話で。
 この出来事があった翌日、仕事をしながら何度か思い出し笑いをした。たぶん死ぬ直前の走馬灯でも甦る類の思い出だと思う。この人と結婚してよかった、としみじみと思った。

2018年7月22日日曜日

断酒・耳栓・興醒め

 柄にもなく、酒を飲まずにいた。この場合の柄というのは、人柄というのもあるし、もちろん季節柄というのもある。だってビールが美味しい季節じゃあないか。毎日35℃超え。1日の最後にビールを飲まなきゃやってらんない。そんな時候だというのに、今週は酒を飲まずにいたのである。なぜか。3連休明けの、火曜日から始まる1週間に調子が狂い、なんとなく気だるさを感じた瞬間に、「今日は休肝日にしようかなあ……」と呟いたら、ファルマンがここぞとばかりに喰いついてきて、休肝日と言わずあなたはもうちょっと酒を飲まないべきだ、気だるいのは肝臓がアルコールの処理で疲れ果てているからだ、と矢継ぎ早に責め立てられ、気付けば「酒は週末だけ」というルールができあがっていたのである。火曜日水曜日あたりは「そ、そんなことが許されるのか……? お、俺の身体に?」と戸惑いが隠せなかったが、木曜日金曜日には「まあそんなものかもしれないな」という気持ちになっていた。そうして肝臓を数日間休ませて、劇的に体が楽になったとか、明らかに顔色が良くなった、ということがあればよかったのだが、もちろんそんなことはない。思えば毎日のアルコールで肝臓が疲れているから気だるいのだ、というのは詭弁で、連日35℃超えなのだから誰もが気だるいのは当然なのである。なんか暑さのドサクサで騙されたような気がしてきた。
 とは言え晩酌をしないことで、毎夜1時間弱の時間が生まれたし、晩酌のときに僕はわりと麺類を食べたりしていたので、もちろん腹周り的にもいいに違いない。ともすれば来週も続けようと思う。週末は飲むけど。張り切って飲むけど。

 先日「おこめとおふろ」にちらっと書いた耳栓を、本当に買った。1500円ほどする、ちゃんとしたやつである。本当に、子どもが家で哀しくなるほどうるさくて、鼓膜が、鼓膜なのに悲鳴を上げるので、買わざるを得なくなった。それで届いたものを着けて暮している。もちろん聴覚を完全に遮断するわけではなくて、あらゆる音を少しトーンダウンさせる感じである。装着時はまだちょっと違和感があるのだけど、そのうち慣れるだろうと思う。それで家ではもちろんのこと、仕事中でもたまに着けている。仕事場も機械の音やエアコンの音が恒常的にうるさいので、必要だと思った。しかしそういう音から耳がガードできる一方で、人から話しかけられたときに聞き取れなかったらどうしようという不安感が常につきまとうので、けっこう気を張ってしまい、これでは耳が疲れるか神経が疲れるかの違いだな、とも思った。そしてこう書いていて思ったが、耳の疲れだの神経の疲れだのと、どうにかして疲れの正体を突きとめ、それをなんとかしようとしたところで、ひとつ目の話題と結論が被るが、どうしたって暑さで絶対的に全身がヘロヘロなのだから、なんかもうどうしようもないな、という気もする。暑さでもうこの2ヶ月はどうしたってどうしようもないのに、アルコールを断ったり、耳栓を買ったりする俺、愛しい。生きるのにまじめ。

 そんな大変に暑い真夏に開催される予定のキャンプについてなのだが、僕がしおりを作ると言ったら、ポルガも「ポルガもつくる」と張り切りはじめ、しかししおりというものがどういうものかあまり理解していなかったため、とにかく来たるべきキャンプへの思いの丈をぶちまける内容の誌面を延々と紡ぎ、なんか最終的にそれは50ページ近くになっていた。最後のほうはページ数を増やすための手抜きがひどいのだが、前半部はなかなかにおもしろく、そのうちスキャンして公開しようと思っている。そして我々がそういうことをしているということが、ファルマン経由で耳に入り、キャンプの企画者である義父もなにかが触発されたらしく、エクセルで今回のキャンプの概容についてまとめたものを送ってきた。これはいかにも人生の途中でパソコンに遭遇したおっさんが作ったエクセルファイルだなあ、という垢抜けない感じのもので、たぶんふたつあるコテージの部屋割を提案することが当初の目的だったのだろうが、それだけだとエクセルにする意味がないと感じたのか、バーベキューで用意する食材の分量であるとか、今回のキャンプに掛かる費用であるとか(それはあなたが黙って払えばいいのだから知らせる必要がない)、そういうものまで記載されていた。僕はそれをファルマンのパソコンの画面で見て、そのときはもう自分のキャンプのしおりを作り終えていたこともあり、「……なんか、人がこうして張り切ってるのを見ると、すごく醒めるね」と呟いた。なんか、やけに白けた気持ちになったのである。そうしたらファルマンが、「そんなこと言ったら私はそれを、夫からも娘からも父からもされてるんだからね」と言った。本当だ。つらたんじゃん。

2018年7月18日水曜日

耳すまスタンプ・親知らず・宮崎

 びっくりした。LINEに「耳をすませば」スタンプが登場した。こわい。だって別にいま、「耳をすませば」、世間的にぜんぜんブームじゃない。僕の中でしかブームじゃないのだ。
 僕の中のブームと言えば、先日、LINEの画面を「耳をすませば」にしたことについて、以前に職場でLINEを交換した人に、「どうして「耳をすませば」に?」と問われて、しかしあんなツッコまれ待ちみたいなことをしておきながら、この問いかけに対する軽妙な回答というのを、不覚にも僕はまったく用意していなかったので、現実に人と相対しているとき特有のキョドり方をしたのち、「み、「耳をすませば」に、ハマってるから……」と、なんにもおもしろくない返答をした、ということがあった(「ああ……」と言われた)。
 そんな哀しい出来事もありつつ、このタイミングで降って湧いたような「耳をすませば」スタンプである。瓢箪から駒とはこのことだ。アプリを入れるにあたっていろんな情報を吸い取られる仕組みでもって、ピンポイントで気を回されたんじゃないかという疑念さえ生じる。だって本当に、あまりにもあまりにもなタイミングではないか。本当にこわい。
 ちなみにスタンプの種類としては、「いいよ」や「オッケー」、「ありがとう」みたいな、いわゆる汎用性の高い素材に加え、聖司による「大好きだ!」、「オレと結婚してくれないか」など、使う場面が限られ過ぎるものなどもあり、まあまあおもしろい。先日、俺が勝手に考える「耳をすませば」スタンプということで挙げた中では、「コンクリートロードはやめたほうがいいと思うよ」「おーい答えてよ」「やな奴やな奴やな奴!」「ちがう、お前なんかじゃない!」、そして杉村の「お前(のこと)が好きなんだ!」が合致した。まあまあの正解率だと思う。
 そう言えばあの記事を投稿してから思い至ったのだが、上の実際にスタンプにもなった「おーい答えてよ」と同じ用法になるとは思うのだが、聖司の「コンクリートロードはやめたほうがいいと思うよ」に対して放つ雫の「読んだなー!」も、既読になったのに返信を寄越さない場面で使えるんじゃないかなー、と思っていた。それはスタンプになっていない。あと雫の母による件の「それって今やらなくきゃいけないことなの」も不採用だったが、父による「勉強よりも大切なことなのかい?」というのは採用されていた。雫の父は他にも「自分の信じるとおりやってごらん」や「戦士の休息だな」(これはいいと思った)も採用されていて、スタンプ制作者の贔屓を感じる。母親は台詞なしで、雫の成績低下について頭を悩ませるイラストだけがスタンプになっているのだが、それなら「勉強よりも……」ではなく「それって今……」を採用すればよかったんじゃないかと思います。
 そしてなによりいちばん大事な部分だが、杉村の「わっかんねーよ!」(本当は「わかんないよ」)はスタンプになっていなかった。杉村は前述の「お前が好きなんだ」と、「いいよ」だけ。杉村の「いいよ」ってどこだよと検索したら、「原田、あのことだけど俺の方から断っとく。ごめんな」「ううん。私こそごめんね」「いいよ」というやりとりが見つかった。……そ、そこ!? 杉村の、そこ!? なんで? これは大いに納得がいかない。
 でもまあとにかくスタンプになったことはめでたい。初めてスタンプを買いたいと思った。でもなんかラインポイントみたいなことを言ってきて、意味がわからない。困ってファルマンに相談したら、ファルマンが買ってプレゼントしてくれた。やったね! オレと結婚してくれないか。

 先日の親知らずの話をここに書いた夜から、痛みがピタッと止まったのだった。
 歯のこういうところが気色悪い。それまで調子に乗って痛みを主張していたけれど、いざ宿主が、お前そんなに痛むのなら抜いちゃうぞ、という姿勢を見せると、途端におとなしくなる。抜かれたくなくておとなしくできるのならはじめからそうしろよ、と思う。それでどうなんだ。お前はもう大丈夫なのか。痛まないのか。ええ。ええ。痛みません。痛みませんとも。パピロウさまの体調が悪かったり、生活がバタバタしていたり、そういうときまで決して痛みません。お前のそういうところだ。

 ポルガの小学校からの便りで、学校の全職員のプロフィール紹介みたいのがあり、最初は別に興味がなかったのだけど、なんとなく漫然と眺めるにつれ、だんだんおもしろくなっていった。質問項目は、マイブームと、好きな有名人と、好きな言葉で、こんな無難な項目でも、50人以上の人間が回答すると、けっこうそれぞれの個性が出るのだなと思った。自分だったらどう答えるか、というのも考えて、好きな有名人で悩んだ。ファルマンは定番の稲葉浩志で、こういうときファンの相手がいると便利だなと思った。悩んでいたらファルマンが「小沢健二は?」と言ってきて、ファルマンによる、僕は小沢健二が好き、というイメージは本当にいつまでもしつこい、とうんざりした。当時はとても好きだったし、今もまあ好きだけど、でも別にそういうんじゃない。そもそも好きな有名人というのを訊かれて歌手を答えるほど音楽好きではない。じゃあ誰か、ということを考えて、まあ僕だったらこの回答欄には宮崎駿と書き込んでおくかな、と思った。小学校のお便りに宮崎駿。これだけでなんとなく不穏さがあるが、駿というところを間違えて勤と書いたらもう校長に呼び出される。

2018年7月16日月曜日

剣・歯・命

 バトントワリングを「見られるもの」にするための動きとして、最初にどうかと思ったストリートダンスがちょっと無理そうだとなり、じゃあ太極拳はどうかと睨んでいる、ということを前に書いた。それで太極拳の教本を選んでいたら、太極拳の中の一ジャンルとして太極扇というものを知り、これは片手で扇を持って太極拳をするというものらしいが、太極拳の時点でだいぶ怪しかったが、こうなってくるともう完全に拳法ではなく演舞であり、扇の所をバトンに変えればそのままバトントワリングに応用できるのではないかと思った。それで教本を借りて練習しようとしたが、やっぱり本だと太極拳のあの間合いというのは理解しづらく、こんなときこそ現代文明に頼ろうとユーチューブで検索をする。すると太極拳も太極扇も出たが、同時に太極剣というのも出てきて、これは剣を持ってやるバージョンの太極拳とのことで、こうなってくるともういよいよ形状がバトンに近似してきたので、扇よりもさらに応用しやすいのではないかと色めきたった。そうして僕が盛り上がる様を横で見ていたファルマンが、「じゃあもう剣を持てばいいじゃん」と言った。

 歯がいよいよかもしれない。だいぶ前から懸念している左上の親知らずが、とうとう予断を許さない状況になってきている。これまでもたまに疼くことがあって、でもそれはスペースのない所に無理やり顔を出そうとする親知らずが歯茎を圧迫するからに過ぎず、だからその発作の時期を過ぎたらケロリと楽になることは分かっているので、痛み止めを服んでやり過していた。
 でも今回のこれはもう違う感じがある。その無理やり出ようと顔だけ出している状態(たぶん)の親知らずが、そんな半人前の状態でありながら、一丁前に虫歯になっているような気がするのだ。これまで何度かやり過した圧迫の痛みとは別種の痛みが、そこからは発せられているような気がしてならないのだ。なんてことだろう。身の程知らずもいいところだ。お前が虫歯菌を養えるような立場か。そういうのはひとり立ちしてから考えればいいだろう。そう怒鳴りつけてやりたい。
 でもいくら向こうの貞節をなじったところで、できてしまったものは仕方ない。このままでは日常に支障を来すので、来週中にでも歯医者に連絡を入れようと思う。気が重い。そりゃあ重いよ。だって親知らずの治療ということは、つまり抜歯ということだろう。上の歯は下の歯に較べていくらか楽、という話は聞くが、それにしたって抜歯は抜歯だ。想像すると涙が出る。痛みとか、血とか、そういう関係のことに、幸福なことだが本当に耐性がないのだ。だから本当につらい。
 犯罪みたいに、逃げて逃げて、最後まで逃げ切ったら、時効になればいいのに。逃げても痛みが強く長くなるだけ、というのが絶望的につらい。

 「耳をすませば」とかについて考えていると、もうすぐ35歳になる今でも、高校が共学じゃなかったことに絶望をする。「耳をすませば」は中学生で、中学校は僕も地元の公立だったので共学だったわけで、「耳をすませば」で絶望感を抱くのは本当はお門違いなのだが、なんかもうそんな冷静な見境などつけられなくなっていて、制服を着た男女が一緒の教室で授業を受けている風景に対して、条件反射的に絶望感を抱く仕様に脳が委縮してきているのだと思う。
 そんな絶望感に苛まれたとき、さいきん僕はこのように考えることにしている。
「男女共学の高校に通った人は、もう二度と人間に生まれ変わることはないのよ」
 僕の中の火の鳥が、そう言って僕のことを慰めてくれる。男女共学の高校に通った男は、もうそれが最後の人間としての命で、あとは虫ケラとかにしかなれない。それに対して男子校だった僕は、まだいつか男女共学の高校に通う人間としての命の機会を有している。
 そう考えることで必死に溜飲を下げている。僕の中の火の鳥はどこまでも僕に優しい。

2018年7月12日木曜日

プロフ・ハート・メモ

 これまでLINEのホーム画像が手塚治虫の写真で、プロフィール画像が火の鳥だったのだけど、昨日ふと思い至って変更した。ホーム画面を、雫と杉村が神社で話している場面、プロフィール画像を杉村のアップにしたのだった。先日、耳をすませばのスタンプがあればいいのに、ということを書いたが、こうしたことで、要するに僕が耳をすませばスタンプでしたかったことは実現できるのではないかと思った。僕自身はLINEのやりとりの画面に杉村は現れないのだけど、向こう側ではすべての発言が杉村が頬を赤らめて叫んでる風に見えているはずなので、そんなん僕だったらおもしろいから、特に用件もないのにずっとその人とだべっちゃう、と思う。あとステータスメッセージはもちろん「わっかんねーよ!」である。基本的に杉村は「わからない」。すべてわかってる風だった火の鳥から、一気にキャラを変えてきた。発言内容も自ずと変化してくると思う。
 この変更をファルマンは褒め称え、「私も耳をすませばにしようかな」と言ってきたので、「いいじゃん。ホーム画面を一緒にして、君は雫にすればいいじゃん」と言ったのだけど、言ってから夫婦で杉村と雫じゃダメだろ、と気がついた。しかし僕は聖司にするつもりはないので、ならばファルマンには夕子になってもらうしかない。夕子……。僕が杉村で妻が夕子というセットで捉えれば、まあもちろん大いに痛々しいのだけど、意味はとりあえず解るとして、共通の知人ではない、たとえば子どもの幼稚園や小学校の母親たちは、ファルマンの唐突な夕子に対してどう思うか。数あるジブリキャラの中で、夕子!? ……でもあの人ならさもありなんよね。そうね、さもありなんよね。ヒソヒソ、ヒソヒソ……。ちなみにファルマンのプロフィール画像は、ジブリじゃない原作のほうの魔女宅です。夕子とそれ、果たしてどっちがセーフなのか。わっかんねーよ!

 TikTokの話をしたい。お前どうした。TikTokに対してなんでそんなに入れ込んでいるんだ。自分でもわからない。もうさすがにしつこいので杉村調では言わないが、よくわからない。なんかあのネタ合戦的なところに、生来のなにかが刺激され、こうしちゃいられない気持ちにさせられるのかもしれない。それと同時に主に映っているのが女子高生なものだから、その合わせ技で、そのまま寝技に持ち込みたいのかもしれない。
 演出なのだろうと思うが、女子高生のムービーで、撮影者が友達に向かってスマホを向けて勝手に撮影をスタートし、あのパンチするやつとか、いろんなハートを指で作るやつとか、「め組のひと」とかのメロディを流し、カメラを向けられたほうは0.5秒くらいびっくりしたあと、それぞれのメロディのお決まりの振り付けをする、というのがよくあり、あれがなんだかとても羨ましい。友達が多い子の、急にTikTokの撮影をスタートされちゃって、でもそれに対応しちゃう、その情景からにじみ出る、その子の幸多からん日々が羨ましいのだと思う。
 友達ってなんだろうということを常日頃から考え続けているけれど、友達っていうのは、勝手にスマホを向けてTikTokの撮影をしちゃう人のことなんじゃないかな、と思った。だから僕もいつか起るだろうその瞬間に対応できるよう、女子高生たちのムービーを観て、日々練習に励んでいる。あの「しあわせはいつも続かない」みたいな歌詞のハートを作るやつ、もう急に撮影がスタートしても大丈夫だ。かわいくできる。いつでも来い。どす来い。

 かつてタブレットを持っていなかった時代、ガラケーのメモ欄に思いついたことをメモしていたのだけど、やはりタブレット導入以降はそれをめっきりしなくなった。いまはもっぱら、タブレットバッグのポケットに入れたメモ帳と、ペン差しに差したボールペンで、書きつけています。

2018年7月7日土曜日

JK・茶髪・四半世紀

 LINEの友達の数が増えないし、既存の友達ともまるでやりとりがない。
 既存の友達と言ったが、それはLINE側が多様な関係性を忖度せず、十把一絡げに「友達」と、こちらの心の琴線を刺激する言い回しを用いてくるからで、実際に「友達」と言える人間は、登録されているメンツの中にもちろんひとりもおらず、おらんのだからやりとりが生まれるはずもない。おらんのに、そのおらん相手とやりとりをしていたら、もう人として最終的な段階に来ていると思うので、それよりは救いがあるのではないかと思う。
 ところで先日ふと、僕が女子校の教師であったならば、LINEがむちゃくちゃ愉しいんだろうなあ……、ということを思った。娘をふたり持つ父親がなにをふと思っているのか。本当は生徒とLINE交換なんてしたらいけないんだけど、ひとりちょっと不安定な生徒がいて、その子がいざという時にいつでも俺に連絡を入れられれば、と思いLINEを交換したら、そこから他の生徒たちも「えー、ずるい」とか「ウチも先生とLINEしたいし」などと言って交換することになり(「学年主任には内緒だぞ」)、それからというもの、生徒たちからのLINEのメッセージが引きも切らず、しかも既読スルーとかしたらJKはめっちゃキレるものだから必ずなんかしらの返信をせねばならず、ホントにもう、参るんだよ……、とジモ友との飲み会で愚痴を吐きたい。そしてそんな愚痴を吐いている間にも生徒たちからのメッセージは鳴り止むことがない……。
 だけど僕は女子校の教師ではないし、JKからメッセージが送られすぎるという愚痴を吐く相手のジモ友もいない。兄のエースも死んだ。じゃあ僕には一体なにがあるというのか。
「仲間がいるよ!」
 だからいないんだってば。

 ファルマンに髪を染めてもらう。「USP」で確認したら、去年の9月13日に「気が済んだ宣言」をして、髪を黒くしていた。だから10ヶ月ぶりということになる。
 染めてもらうという表現だったのは、今回はブリーチから始めるわけではなく、むしろその真逆で、ちょっと白髪が目に付くようになったから、それを染めるのが目的だったからだ。ちなみに白髪に関しては、子どもの頃からあったし、20歳前後の頃など現在よりもよほど多かったので、僕の中では禿げと明確に区別され、老いとは直結しないので、ショックがない。だからそれを染めるためという理由も、少なからずただの大義名分であり、実際は「気が済んだ」の「気が済んだ」からだとも言える。ブログが収束と拡散を繰り返すように、髪のある間はこんなことを繰り返すんだろう。
 カラーリング剤はいちばん明るい栗色系のものを選んだが、なにしろ黒髪からのスタートなので、パッケージの写真ほどは明るくならなかった。もちろんそれは想定済みで、ほどほどの茶色になった。気に入っている。今回は前回のように、躍起になって明るくするつもりはない。

 ファルマンが前回の記事でTikTokの存在を知り、「いやでもこういうのって昔からあったよ」と言う。こういうときに自分たちの口から出る「昔」が、そろそろ本当に四半世紀ほど前の話になったりするので、言葉に重みが出てきた感がある。そしてファルマンはこう続ける。「結局クラスの目立つ子たちは、使い捨てカメラとかで休み時間にこんなことやってたもん。もちろん私はやらないほうだったけど。だから(現代の)これも、やってるのは一部の子で、大抵の子はやってないんだよ」。うん、まあそれはそうなんだろうな、と思う。僕はもう高校生をユーチューブでしか見られない立場になってしまい、そしてユーチューブにアップされた動画に映っている高校生というのはそっち側の高校生ばかりなので、現代の高校生ってみんなこうなのかと思いがちだけど、実際はもちろんそんなことはない。実際TikTokの教室で撮影された動画なんかを眺めていると、映っている子たちの後ろのほうに、休み時間なのにノートに向かっている生徒とかが映り込んでいたりする。ああいうのだって当然いるのだ。数年前、東京を離れるとき、出身大学である悪質なタックル大学のキャンパスに行って、現役の大学生を眺め、「時代が進んで、細かいアイテムは変わっているのかもしれないけど、オシャレな子のオシャレ感と、オシャレじゃない子のオシャレじゃない感は、結局まるで変わっていない」と感じたことがあったが、それと同じなのだ。ああ、それにしても本当に、妻の口からサラリと放たれる、使い捨てカメラという言葉よ……。近ごろ若者の間で使い捨てカメラがひそかなブーム、「スマホのカメラと違って現像するまでどんな写真になるか分からないのがいい」、という話は本当なのだろうか。そんな「よさ」、ないだろ。撮った写真がその場で確認できる喜びに、我々世代はこれから死ぬまで浸り続ける所存だぞ。そんな「よさ」、どこにもないだろ。不便だろ。

2018年7月4日水曜日

一過・妖精・僕杉

 おとといあたりから気持ちが沈んでいて、自分に友達がいない哀しみなどを中心に、やけに落ち込んでいたのだけど、今日の昼、台風一過の空の下、久しぶりに散歩をしたら、一気に気持ちが晴れた。歩きながら、そう言えばピイガがちょっと体調が悪そうで、幼稚園を休むかもしれないと言っていたな、と思い出し、ファルマンに電話を掛けたら、ピイガは普通に登園して普通に帰ってきていた(ちょうど午前で終わりの日だったからよかった)。ついでにその電話で、気持ちが晴れたことを伝えたら、「それって低気圧が原因だったんじゃない?」と言われ、それまでなぜかその考えがまるで思い浮かばなかったのだけど、落ち込んだタイミングも回復したタイミングも、まさにそれしか考えられず、なるほど、なーんだ、となった。我々は、脳を通してしか世界が見られないから仕方ないことではあるけれど、その時々でとても深刻な苦悩を抱えているつもりになっても、結局は気圧のせいで脳がちょっと物理的にどうにかなっているだけだったりする。そう考えたら逆に、脳さえハッピーなら世界中がハッピーなわけで、そういうクスリがあればいいのになあ……。

 TikTokというジャンルを知り、なんだか衝撃を受けた。これまでも次々出てくる若者文化に対して、それなりに衝撃を受けながら生きてきたけれど、なんかもう僕と若者文化との乖離は来るところまで来たな、とこれを知って感じた。女子高生が中心になってやっているから、まあその関係でその存在を知ることになったのだけど、ただでさえ得体の知れない存在であった女子高生というもの(なにしろ僕は男子校出身であり、振り返ってみれば生身の女子高生とはあまり縁のない半生を送ってきたのである。そのせいかいつまでも火が燻ぶり続けるように女子高生を追い求め、結果的に女子高生成分が濃密な半生を送ってきたような錯覚さえ抱いていたが、よく考えてみたらやっぱり女子高生と現実に絡んだことはほぼない!)が、今回のTikTokによって本当に遠いものになった。伝説を信じて森を探求した結果、草むらの一角に妖精たちの遊び場を発見したが、その妖精たちの遊びと言えば、葉っぱを指で叩いてケラケラ笑うみたいな、なんか本当にもう、君たちは一体それのなにが愉しいの? その遊びの情趣はなんなの? おじさんに教えてよ! と思わずいいたくなるほど退屈、みたいな、そんな感じ。もはや女子高生は妖精的な存在になった。

 ヒップホップダンスの教本を借りた、ということを前に書いた。それで練習に励んでいるかと言えばそんなことはなく、ただステップを説明する連続写真を眺めているだけで、ぜんぜん体は動かしていない。しょうがないじゃないか。仕事を終えて帰って、子どもたちも寝ついた夜半に、ヒップホップダンスを練習できるか。できないだろ。そんなわけで、これもバトンと同じで、昼休みに会社で練習したらいいのではないかとファルマンに相談したら、「それはやめとけ。ヒップホップダンスはやばい」みたいなことを言われて、なぜバトンはよくてヒップホップダンスはダメなんだ、わっかんねーよ! とまた僕の中の杉村が発動した。世の中、僕の中の杉村なことだらけだ(わからないことだらけの意)。もっともヒップホップダンスに対して、ヒップホップダンスじゃないんじゃないか? という猜疑心を抱きつつもある。バトンと組み合わせて芸になるかどうかというレベルの話ではなく、僕にこの、中学生くらいの少年少女が、飛ぶがごとく踊っているこれは、ぜってえできねえんじゃねえかと、ちょっとべらんめえ口調になってしまうほどに、感じているのだった。そんなわけで次なるターゲットの教本を図書館で予約する。次は太極拳だ!

2018年6月29日金曜日

耳すま・読書・穏当

 「僕等は瞳を輝かせ、沢山の話をした」で、「僕の中の杉村」というフレーズを生み出した。世の中で当たり前とされることがなぜか自分だけうまく理解できない(したくない)ときに、「耳をすませば」の杉村の、あの神社での、雫への告白に繋がる、夕子の乙女心の機微が理解できないときのセリフ、「わっかんねーよ!」を思い出し、自分の中の杉村が発動した場面で用いる。
 要するにこれは、別に誰としているというわけでもないが、僕の心の中で捺されるLINEスタンプのようなものだな、と思った。それなのでLINEで「耳をすませば」のスタンプを検索したのだが、残念ながらなかった。なんでないねん! と思った。「わっかんねーよ!」以外にも、「耳をすませば」はスタンプにできるフレーズがいくらでもあるというのに! もしもあったら、初めてLINEスタンプというものを購ってやってもいいと思ったのに!
 というわけで、別にジブリの社員でもなんでもないのだが、もしも「耳をすませば」のLINEスタンプの製作を担当することになったら、という想定のもと、基本的な数であるらしい24スタンプのフレーズを選んでみた。
 1、「粗忽」(雫)
 2、「今日はいいことありそう」(雫)
 3、「好きな人いる?」(夕子)
 4、「ひでえなあ」(杉村)
 5、「さて、どうしてでしょう」(聖司)
 6、「コンクリートロードはやめたほうがいいと思うよ」(聖司)
 7、「やな奴やな奴やな奴!」(雫)
 8、「彼氏?」(雫)
 9、「バカ!」(姉)
 10、「おーい、答えてよ」(雫)
 11、「あーあ。せっかく物語が始まりそうだったのに」(雫)
 12、「そうか、お嬢さんはドワーフを知っている人なんだね」(おじいさん)
 13、「お前の弁当、ずいぶんでかいのな」(聖司)
 14、「ちがう、お前なんかじゃない!」(雫)
 15、「ギリギリだぞ!」(杉村)
 16、「聞いて聞いて!」(杉村)
 17、「なによ、完璧に無視してくれちゃって!」(雫)
 18、「よろしい」(雫)
 19、「ほんとは自信ないんだ」(雫)
 20、「ちょっといいかな」(杉村)
 21、「なにその顔?」(雫)
 22、「この意味、わかるでしょう」(雫)
 23、「わっかんねーよ!」(杉村)
 24、「あんたのことが好きなのよ!」(雫)
 25、「そんな、俺、困るよ!」(杉村)
 26、「だって俺、俺、お前のことが好きなんだ!」(杉村)
 27、「えっ。や、やだ……、こんなとき冗談言わないで」(雫)
 28、「冗談じゃないよ。ずっと前から、お前のことが好きだったんだ」(杉村)
 29、「だめだよ、私は……、だってそんな」(雫)
 30、「俺のこと嫌いか? 付き合ってる奴がいるのか?」(杉村)
 31、「付き合ってるひとなんかいないよ」(雫)
 32、「でも……、ごめん!」(雫)
 33、「待てよ! はっきり言え」(杉村)
 34、「だって、ずっと友達だったから」(雫)
 35、「好きだけど、好きとかそういうんじゃ……」(雫)
 36、「ごめん、うまく言えない……」(雫)
 37、「ただの友達か? これからもか?」(杉村)
 38、「そうか……」(杉村)

 杉村のことが好きすぎて、映画の前半部で大幅に24を超過してしまった。まあこれ以降はそんなに杉村は出てこないので、このあとの名台詞と言えば、雫の母による「それって今すぐやらなきゃいけないのことなの?」くらいのものなので、なんとかなるだろう。

 読書熱がとても下がっていて、特に一般小説に関しては、読む意味がまったく分からない次元に突入していて、だから適当な新書なんかを読んでいたりするのだけど、こうなってみて初めて解ったこととして、これまでの人生で小説を読んでいて、「なに読んでるの?」と人から訊ねられ、特に読書が好きでもないだろうその相手に、「○○だよ」と小説のタイトルを答えたら、「ふーん」という気のない反応が返ってきて、どないやねん、と憤慨する、ということがたびたびあったけれど、あの質問というのは、本=実用書というイメージの下になされたものだったのだ。まさかフィクションなんか読むはずがない、そんなものは国語の教科書に載ってるやつであり、あるいはテレビドラマになる前の段階のやつであり、そういうんじゃなくて、本というのは、確固たる目的を持って、「人前であがらなくなる方法」とか、「お腹が凹む」とか、「お金がみるみる貯まる」とか、そういう情報がまとまったものだろう、だから、お前は今どんなことに興味があってどんな情報を求めているのか知りたくて本のタイトルを訊ねたのに、小説ってお前、なんだ、小説ってなんだ、目的はなんだ、目的なんてない? なんで目的もなく本なんか読むんだ、不審人物かお前は、という、そのくらいの齟齬が、僕のこれまでの人生の、あのやりとりの中には毎回あったのだ。それまで在った立場から離れてみて、やっとそのことが解った。

 トランプ大統領のサインを練習していることを、職場でこそっと人に打ち明ける。「へ、へぇー」という、ちょっと困ったげな反応をされた。「ですからなにかアメリカ大統領のサインが必要なときは言ってください。調印してあげます」と続けて言ったら、「うん。考えとく。どうかなあ、なにかあるかなあ」と、またちょっと困ったげな反応をされた。いい人だな。大人として穏当な対応と言うべきか。僕だったら面倒くさくてキレていると思う。

2018年6月26日火曜日

重機出動・ヒップホップ・阿久

 模様替えをしたあと、くしゃみが止まらなくなる。ハウスダストによるアレルギー性鼻炎の発症なのだった。その様子を見かねたファルマンが、僕の机周りの大々的な掃除をしてくれる。ファルマンの、あの本腰を入れた、集中モードのやつである。住民のSOSに対し、わが家でいちばんパワーのある重機が出動した形。家に帰って机を見て、感動した。僕が7ヶ月くらいかけて辿り着けたらいいなと思っていた状態に、1日でなっていた。ここからここまで全部いらないなー、と(思うだけ)思っていたものが、見事になくなっていた。ありがたい。こんなに机周りがきれいだと、パソコンで作成する文章もおのずと変わってくると思う。ああ花がきれいだし人々が愛しい。俺ってもともとそういうことを言いがちなタイプの人。

 ただクルクル回しているだけのバトントワリングを、人が見るに足る、エンターテインメントにするにはどうしたらいいか。それはやっぱり動きがあればいいのだろう。じゃあ動きとはなにか、ということを考えて、それはステップである、という結論に至った。なにしろ腕および上半身ではバトンを回すことをしているのだから、自由に動かせるのは足だけだ。つまり足さえいい具合に動いていれば、バトン演舞は成立するのである。というわけでダンスのステップが載っている本を図書館で求めた。しかしただダンスのステップと言うと、社交ダンス的なものばかりが出てきてしまった。そうじゃない。友達が欲しいし社交はしたいが、そのために僕は社交ダンスではなく、バトントワリングの演舞をする道を選んだのだ。社交ダンスの本に混じり、ポツポツと、ヒップホップダンスの入門本みたいなものが見つかった。ダンスが学校の教程になるとかで、小学生中学生向けのそういう本が何冊か出版されているのだった。それを借りた。中を見てみたら、ダボッとした服を着た小学生たちが、ジャカジャカした音が紙のページから聴こえてくるかのようなダンスを踊っていた。最初ちょっと頭がクラクラしたが、ステップはたくさん紹介されていたので、こちらの目的に合致しているのだと思う。なのでこれで練習しようと思う。ダボッとした服の小学生の写真を見ながら、がんばって練習しようと思う。これが僕の社交性ダンスなのだと思う。

 合唱曲のCDを聴いていたら、すごくいい歌があって、感動した。タイトルを「未知という名の船に乗り」という。メロディもいいが、なにしろ歌詞がいい。「未知という名の船に乗り希望という名の地図を見て夢という名のコンパスで未来を訪ねる冒険者」「未知という名の船に乗り勇気という名の帆を張って愛という名の舵を取り僕等はこぎ出す冒険者」である。なんだこれ、すごいじゃないか。なんだこの歌、と色めきたった。家に帰って検索したら、作詞が阿久悠で作曲が小林亜星だった。いい曲だと思ったら阿久悠、ということが、これまでの人生でもう30回くらいあった気がする。さすがだなあ。勇気という名の帆を張って愛という名の舵を取るんだぜ。たまらないな。

2018年6月22日金曜日

さみしさ・心地よさ・哀しさ

 夏至が来てしまった。日の長さのことをとても愛している僕にとって、夏至は1年で最もテンションの上がる日、かと思いきやそんなことはなくて、基本的にプラス思考の僕なのだけど、この件に関してだけは強烈なマイナス思考で、夏至のひと月くらい前からもう、夏至が来てしまう哀しみに浸っている。だからもう夏至当日なんかは、逆に哀しみのピークみたいなところがある。今日を限りに、これからどれほど陽射しが強かろうと、それはもう褪せた陽射しであり、ぼろぼろと崩れていく廃王宮のようなさみしさがある。
 さみしさと言えば、キャンプソングのCDに「山賊の歌」が入っていて聴いていたら、その1番の歌詞で、「雨が降れば 小川ができ 風が吹けば 山ができる ヤッホ ヤホホホ」のあと、「さみしい ところ」と続き、これでも十分に寂寥感があるのだが、僕はそれを「さみしい心」だと聴き間違えたので、本当に悲壮かつ寂寞とした山賊の心象風景の歌なのかと思った。たしかに山賊に身を窶すまでには、幼少期から起因するような、それはそれはつらい来歴があったに違いない。勇猛さや乱暴さは山賊の虚勢であり、その内側にはぽっかりと大きな穴が開いている。それを埋めるために略奪や襲撃を繰り返すけれど、彼の心の間隙を塞いでくれるのは金銭や財宝ではないのだ。深い。しかしなぜそんな重いテーマの歌をキャンプで唄わなければいけないのか。盛り上がるのか。
 話が逸れた。夏至の話だ。夏至は日の長さのピークであり、そして哀しみのピークだと言った。しかしピークを過ぎた日の長さは切ないが、哀しみもまたピークを超えたならば、これから徐々に日が短くなるにつれて、僕の哀しみは軽減されていくことになる。そう考えたら、僕は逆に日の短いのが好きなんじゃないだろうか。そんなはずないのだが、理屈的にはそういうことになる。不思議だ。化かされていたのは俺たちだったんじゃないか。

 父の日のプレゼントという名目で、マウスをもらう。タブレット用である。尖端がボールペン並みに細いタッチペンとマウスとで悩んだのだが、いろいろ考えてマウスにした。と言うか、タブレットってマウス使えるんだ、ということを最近知ったのだった。先日ふと目にしたムックで、タブレットにキーボードとマウスを接続して使っている写真を目にして、「えっ」となり、試しにパソコンで使っているマウスを挿してみたら、タブレットの画面にあの矢印のカーソルが出現したのでとても驚いた。お前の中にカーソルという制度と言うか概念があったのか、とタブレットの意外な一面を見た気がした。それで、マウスが使えるのならば、やっぱり指よりも断然マウスがいいのである。スマホよりも画面が大きいタブレットではあるが、それでもうまく目当てのポイントが押せない。どうしたって僕が2メートル30センチある大男で、指が太いという原因もあるのだが、なかなかにストレスが溜まっていた。あと文字をコピーしたいときのドラッグとかそういうのを長押しでするのも趣味じゃなかった。それがマウスならば、クリックして引っ張るだけである。ああ慣れてる。ああ心地よい。さすがに右クリックはできないのだけど(できりゃいいのに!)、それでも指でやるよりははるかに快適に操作ができる。というわけでマウスを手に入れることにした。マイクロUSBのポートはもうキーボード用で塞がっているので、マウスはブルートゥースというタイプのやつにした。届いたものを接続してみて、その快適さにうっとりした。マウスとキーボードという合わせ技によって、僕はもうほとんどタブレットの画面を触らなくて済むようになる。当たり前だ。パソコンのディスプレイなんか触るもんじゃない。阿呆か。これでやっとゴリラ類から卒業することができた。ただひとつ問題として、マウスの接続は頭になかったため、タブレットバッグにマウスが入らないというのがあるが、これもミニポーチの中にマウスを入れてそれをタブに引っ掛けることで解決した。ミニポーチはパンダの顔になってるやつで、中身はマウス! そんでもってこれは手作りのタブレットバッグ! この大きいのはキーボード! 折りたたみとかじゃない、打つとちゃんとカタカタ音がするマジのキーボード! こっち? こっちは手作りのバトン入れ! 中身はトワリングバトン!

 ドナルド・トランプのサインはだんだん上手くなってきているのだが、僕のトランプのサインの腕前が上達するのに反比例して、米朝首脳会談のときの世間の盛り上がりが鎮まってきている。サッカーのワールドカップが始まったこともあり、国際情勢のニュースはさっぱり鳴りを潜めている。あの日、共同声明に両者のサインが記されたとき、たしかに世間は湧き上がり、僕も興奮のあまりトランプのサインの練習を始めたわけだが、今はもうトランプのサインの筆致なんて誰も覚えていない気がする。哀しい。日大のピンクのネクタイも、トランプのサインも、出番が来ないまま萎れるばかりだ。なぜこうも出番が来ないのか。なぜこうも、「ネタ」を披露する相手が僕にはいないのか。哀しい。哀しくてやりきれない。

2018年6月19日火曜日

800円・キャンプ・光

 タブレット生活が始まってしばらく経ち、最初の熱意もほどほどに落ち着いて、いい距離感になった。依存することもなく、うまい具合に日常に組み込んだ感じがある。やっぱり専用のバッグを作ったのはよかった。これでリュックとかに適当に入れて過していたら、関係性もなんとなくだらしない感じになっていると思う。
 そしてタブレットが軌道に乗って思うのは、ガラケーのことだ。なんかしらの矜持により、スマホではなくガラケーとタブレットというスタイルを取ることにして、まだ持ち続けているガラケー。これはこれから一体どうなっていくのだろう。もう最近はアラームくらいにしか使っていない。Eメールの契約さえ止めてしまったが、それでも月々800円くらいは払っている。僕はアラームに800円を支払っているのだろうか。月々800円契約のアラームならば、もっといい具合に起してもらえないものだろうか。しかし果たしていい具合に起すとはどういうことだろう。パンツの中に入れておいて、時間が来たらバイブするようにすればいいのだろうか。なるほどタブレットやスマホはパンツの中には入らないだろう。それが折り畳みのガラケーならば、なんとかなる。そうか、それが800円の価値か。やらんけども。

 このところにわかにフォークソングに嵌まったり、先日のカラオケで「キャンプでホイ」を唄ったりしたのには、実は確固たる理由がある。
 夏にキャンプをするからだ。
 今年は横浜帰省が夏ではなくGWになったため、自動的にお盆あたりの帰省は島根ということになり、そこからは本当にオートメーションで、両親、わが家、上の妹一家、下の妹というフルメンバーでのキャンプの予定が組まれていたのだった。
 キャンプと言えば、ファルマンの両親は元ワンダーフォーゲル部であり、これまでも冗談とも本気ともつかない感じで誘いを受けていたのだった。そしてそれをいつも律儀にお断りしていたのだが、なんか今回は間隙を縫うかのように、しれっと計画が立っていた。意向を訊ねたら断られるから、いっそ訊ねなければいい、ということを喝破したのかもしれない。
 そして決まったら決まったで、意外とそれほどの抵抗感も湧かなかった。もちろんキャンプと言っても、布のテントで寝るようなそういうんじゃなく、電気、水道、ガスはもちろんのこと、たぶんワイファイだってあるような、バンガロー的な施設で泊まるようなので、それならそこまで拒むほどのこともない、というのもある。それどころか、非日常体験として、にわかに愉しみにさえなってきた。そんなわけでの、フォークソングだったり「キャンプでホイ」だったりしたわけである。
 さらにはいま、誰に頼まれたというわけでもないのだが、勝手に「キャンプのしおり」の製作も始めている。「マイムマイム」の踊り方を中心に、僕が思うキャンプの心得(したことがないので知らない)を記し、人数分印刷し、冊子の形にして、各人に配るつもりである。はしゃいでんのか。

 「部長、それセクハラです」という訴えに対して、「いいや、これはセクハラなんかじゃない。ちょっとしたレイプなのだよ」と答えれば、逆に許されるんじゃないか、どこらへんに許される要素があるのかと言えば、自分のしでかしたあやまちを小さく言おうとせず、逆に大きく言うあたりに、とても分厚い靄の中に一閃だけ覗く光のように、一縷の望みがあるのではないかという気がする。たぶん気のせいだと思う。

2018年6月13日水曜日

戦後・首脳・監督

 近所を歩いていたら、公共の施設の壁に、昔の街の写真が展示されていて、なにしろ5年ほど前に移り住んだペーペーなので、「懐かしー」みたいのはなかったのだけど、それなりに興味深く眺めた。しかし現在から半世紀前くらいまでの写真が並んでいたのだが、そうして見たとき、その中にあった1985年の写真というのが、もう明らかに戦後、とは言わないまでも、高度経済成長とかのほうの括りに入っていて、なんだか衝撃的だった。1983年に生まれて、戦後の面影も高度経済成長も、まるで無縁の、現代そのものを生きてきた気がしていたけれど、気が付けば若者からはそっちのグループに括られかねない年代になってしまっていたのか。戦後と言えば、僕はたしか小学生くらいのときに、母に向かって、「ママの子どものときは戦後だったんでしょ?」と無邪気に訊ね、「失礼な!」と憤慨されたことがある。1945年は昭和20年。母が生まれたのは29年。母が10歳の頃には、もう戦後20年くらいだったわけで、実際に戦後の雰囲気はもうなかったのかもしれないが、30年あとの世代から見れば、「いや、それ戦後でしょ(笑)」みたいな感覚がある。しかしその(笑)は天に向かって唾を吐く行為に他ならず、それとまったく同じ現象が、いま自分にも起ろうとしている。展示されていた1985年の写真は、色褪せ、ぼやけ、そしてこの街がかつて特にそうだったんだろうが、背景に高い建物がひとつもなかった。焼け野原か、と思った。

 米朝首脳会談がなされる。すごいことだと思う。ちょっと興奮している。具体的な数字がないとか、そういうことを言う人々がいる。よく言うな、と思う。批判するのは簡単、という言葉をこんなにしみじみと噛み締めたことはない。米朝の首脳が初めて対面したのだ。もうそれだけでいいじゃないか。会ったことが大成果だろう。初めて会った席で「いついつまでにこれやれよな」などと言うほうがおかしい。「会えてよかった。これからよろしくやっていこうぜ」という感じの共同声明は、だからとてもよかったと思う。もしかすると世界はこのまま平和になるんじゃないかという希望さえ抱いた。それを浅はかだと批判するのはやっぱり簡単なのだけど、これまで対面することなんて考えられなかった両国の首脳が握手するのを見て、人類がいい方向に進んでいることを信じたとして、なぜ批判される筋合いがあるのかと思う。
 なんかトランプいいわー。パワフルさがいい。活気があるじゃないか。ああいう人は貴重だ。なるほどアメリカ大統領あたり、なっとけばいい。波及効果でいろんな所が盛り上がる。
 大統領令も発動しまくりで、政治的にそれがどうなのか、ということはもちろん知らない。けれどひとつだけ思うこととして、今回の共同声明の調印でもそうだったが、トランプのサインかっこいい。なんかすごくギザギザしている。すっかり気に入ったので、昨晩は会談のニュースを眺めながら、繰り返しトランプのサインの練習をしていた。その結果、なかなか上手になった。よく見ればただの筆記体表記ではあるのだけど、Dで始まり、pで終わる氏名を、本当に尖がらせてギザギザに書く。その感じがかっこいい。あともう少し練習を積めば、代筆を務めることも可能だと思う。今後アメリカ大統領の調印が必要な場面があれば、気さくに声を掛けてもらいたい。

 日大の話題が本当に過去の物になった。こうして世間は出来事を忘れ去り、内田という人もしれっと日大の中で生き残り続けるのだろうと思う。それは別にいい。悔しいのは、悪質なタックルコントをやり逃したことである。あの週、あの瞬間にそれができていれば、絶対にウケたに違いないのだ。ピンクのネクタイまで準備して、頭の中で何度もシミュレーションしては、自分で笑いそうになったほどの傑作コントだったのだ。それが日の目を見ることなく終わった。哀しい。そして申し訳ない。ちゃんとこの世に生み出してやることができなかった。これは僕の責任だ。僕の人間関係の乏しさがすべて悪い。反省したい。その反省の会見をこそピンクのネクタイで臨みたい。無理か。これは無理か。さすがに笑いに繋がらないか。もう内田監督と関係ないしな。ああ、悔しい。僕のイメージだと、年末の東急ハンズには、ピンクのネクタイと白髪のカツラの、内田監督なりきりセットが並ぶ予定だったのに。僕がそこまで育てるつもりだったのに。

2018年6月9日土曜日

CD・指輪・車内

 バトンを回すときにイヤフォンで聴く曲というのを模索している。いま音楽を聴く基準の大部がそこに行っていると言ってもいい。音楽には2種類ある。バトントワリング映えするものとしないものだ。そしてその曲はそのまま、いつ誰に披露するとも知れない、僕によるバトントワリングの演舞において使用するBGMになるのである。
 最近のヒット曲として、「世界の愛唱歌」的なCDに収録されていた、中国と、スイスと、ルーマニアの合唱曲というのがある。僕のバトントワリングの演舞を観る(はめになった)人たちは、そんなに上手いわけではない30代中盤の男性のバトントワリングを観るという、もうそれだけで十分に不条理な気持ちになるだろうところへ、さらによく判らない言語の、聴いたことのない合唱曲が被さってくると、それはもう眩暈がするほどの幻惑効果があるのではないか、観客の皆さまに無駄な時間を過させるせめてもの罪滅ぼしとして、頭がふわふわしてちょっとしたトリップ効果くらい享受させられればいいと、そんな風に思うのだった。
 さらにはそのあと「世界のフォークダンス」的なCDを手に入れて聴いたら、それもまたよかった。フォークダンスのなにがいいって、フォークダンスは絶対に集団で接するものであるという、その感じがいい。iPodに取り込んで、僕はひたすらひとりでイヤフォンで聴くわけだけど、それがフォークダンスだと、ひとりで聴いているんだけどひとりじゃないというか、30億年前のひとつまえの地球文明のときにはいたたくさんの友達たちとこの曲で一緒にたくさん踊ったよな、みたいな、そんな気持ちになる。それですべてが懐かしくなって、自分の宇宙生命(コスモゾーン)の一部になりたくなる。そんな幸福感をもたらしてくれる。だからバトントワリングの演舞のBGMにもいいんじゃないかと思うが、せっかくフォークダンスソングを流して、誰かがそれを観てくれるのなら、その誰かたちとフォークダンスを踊ったほうがよほどいいとも思う。

 ファルマンとお揃いの指輪を買う。8月で結婚10周年だから、という理由ではなかったのだけど、ちょうどいいからそういうことにしてしまってもいいような気もする。
 結婚するときに結婚指輪を買って、僕はそれ以来ずっと着けていて、先日ちょっと外そうとしたら皮膚と癒着していて取れなかったくらいなのだけど、ファルマンは買ったときからちょっと緩めだったのが、出産を経てますます指が細くなったとかで、とても日常で着けられないほどにブカブカになってしまい、ずっと仕舞いこんでいた。だから僕だけが妻を失った後も貞節を守る寡夫のようになり、ファルマンは独身貴族を決め込んで夜な夜な盛り場へと繰り出すという、そのような図式になってしまっていた。それが今回やっと是正された。ただし僕はこの10年間左手の薬指に着け続けた指輪を外したり移動したりする気はさらさらないので、新しい指輪は右手の薬指に着け、ファルマンは着けられない結婚指輪の代わりとして左手の薬指に着けるので、やっぱり統一感がない。ともすれば僕には左手の薬指の指輪とお揃いの物を着けている妻がいて、その一方で右手の薬指のそれで示唆されるように恋人の存在があり、その恋人すなわち愛人は、その愛執により正妻の座を夢見て左手の薬指にそれを着けているという、そういう図式にも取れる。
 ちなみに新しい指輪は蛇のデザインで、頭からしっぽまでがそのまま輪になり、指に巻きついているような形になっている。頭としっぽは繋がっておらず、力を込めればいかようにも輪の大きさを変えることができる。だから商品はワンサイズで、それぞれが指の太さに合わせて調整したのだった。
 なぜ急に蛇なのかということだが、ちょっと前に読んでいた本で、「向かい干支」というのを知り、猪の我々のそれが蛇だったからである。蛇でよかった。蛇は十二支の中でもデザイン性が高く、特に指輪なんて蛇のいちばんの得意ジャンルであると思う。これが逆であったら、向かい干支の猪には手を伸ばさず、素直に干支の蛇のグッズでなんとかしようと思っただろう。かっこいい猪デザインというのはちょっと無理がある。だとすればこの猪⇔蛇の向かい合わせラインというのは、基本的に猪→蛇の一方通行であると思う。いつも貰ってばかりで悪いね。

 もう取り立てて言うほどでもなくなったが、また出張に行っていた。目的地はいつも同じなので、ずいぶん慣れた。もっとも移動時間でタブレットにキーボードを繋いで文書を作成するという当初の目論見は、いざ新幹線の座席で、隣に知らない人がいると、なかなか恥ずかしくてできたものではなく、結局そのため読書が中心になっている。今回は持っていった一般小説がひどくつまらなく(「三国志」は持っていかなかった)、しかも目測を誤って滞在中にすべて読み終えてしまい、帰り道でひどく往生した。ファルマンに相談したら、「電子書籍にしたら」と、尤もな進言をされた。そうか、電子書籍は何冊でも移動先に持っていけるのか。便利だな、それ。
 帰りの新幹線では、東京駅で崎陽軒のシウマイ弁当とビールを購い、食べた。前回の出張の際、新横浜から乗り込んできた隣の乗客がそれをして、心の底から羨ましく地団駄を踏むほどだったので、そのリベンジである。そしたらシウマイ弁当、マジでよかった。実はこれまでほとんど食べたことがなかったのだが(あざみ野駅でも売っているというのに)、あんなにいいものだとは思わなかった。俺の買ったこれだけ当たりのやつだったんじゃないの、というくらい多幸感あふれる弁当だった。特にあのタケノコ煮。あれあんなに入れてくれたら、ビールのあと日本酒も十分に行けてしまうじゃないか。こんどはちゃんとそこまで準備しよう。帰宅時にはもうベロベロになってしまうかもしれない。あと、あんずはいらない。ちょっと齧ったが、ぜんぜん意味が解らなかった。

2018年5月30日水曜日

ネクタイ・輪っか・チンポイ

 予想はしていたが、週が明けてやっぱり悪質なタックル問題のほとぼりが冷めている。連盟の処分が決まったとか、そういう問題じゃないだろう。みんなもっと熱意を持ってこの事件について語り合うべきだと思う。僕は別にインターネット特有の、例の正義感から、日大のあの監督はもっと反省するべきだ、とか、あいつが完膚なきまでに痛い目に遭うところを我々の目に焼き付けさせるべきだ、とか、そういうことを主張しているのではない。そんな嗜虐的正義感ほど気持ち悪いものはない。そうではなくて、みんなまだこのコントに飽きないでほしい、という、ただその願いだけなのである。この、衝撃映像から始まって、激おこの監督、激おこの父親、ピンクネクタイで相手の名前を間違える監督、好青年の加害者学生、30歳に見えない(年下!)コーチ、ブチギレ司会者、そしていちばん意味不明だった学長の会見……。日替わりで見せ場があった今回のコントのことを、みんなそんなにあっさりと思い出なんかにしないでほしい。だって僕は買ったのだ。ピンクのネクタイ買ったのだ。本当に買ったのだ。悪質なタックルの謝罪コントをするためだけに買ったのだ。週が明けただけでこんなに風化してしまったら、とても忘年会まで持たないじゃないか。ひどい。

 やっぱり友達がいない。たまに意識が朦朧としたときとか、自分にはたくさんの友達がいるような勘違いをすることがあるけれど、落ち着いて見てみたらやっぱり友達がいない。LINEにふたりの人間を新たに登録した日、「友達は質より量」とまでほざいたのに、それから全く量が増える様子はないし、もちろんそのふたりともほぼやりとりしていない。
 保健だか公民だか、なんの教科書に載っていたのだったか忘れたが、子どもが成長するにつれて、はじめは親やきょうだいだけだった人間関係が、ひとつ大きな輪っかで親戚、もうひとつ大きな輪っかで近所の人、もうひとつ大きな輪っかで幼稚園や小学校の友達、という風に、人間関係の範囲がどんどん広がっていく図、というのがあった。あの図で言えば、今の僕には赤子とほぼ同一の、いちばん小さな、家族の輪っかしかないと言っていい。あの図について説明を受けたとき、「だんだん広がる」とは言われたが、「やがてしぼむ」なんてことは教わらなかった。子どもの成長に伴う話だったので、身長などの体の発育と連想しやすく、だからしぼむという発想はまるでなかった。でも考えてみたら、身長だってある程度の年齢になれば縮まるわけで、なんかもう老年期の身長のそれと同じ現象が、僕の人間関係には起っているのかもしれない。

 昼休みのバトンの練習が愉しい。愉し過ぎて筋肉痛になったりしている。最近イヤフォンで流しているのはルーマニア民謡で、ノリがなんとなくいいというのもあるが、いつか人に向かって披露するとき、誰も知らないルーマニア民謡で俺がバトンを華麗に回したらそれだけで愉しいだろうな、という思いからやっている。僕のバトンの練習には、そのくらい打算的な、友達相手にこれをやったらどうなるか、という思いが実はある。あるから余計に切ない。
 それでルーマニア民謡についてネットで情報を検索したら、ルーマニアではバグパイプのことを「cimpoi」(チンポイ)と言うのだそうで、ル、ルーマニア! とちょっと感動した。テンポの速いチンポイに合わせて踊るルーマニアのフォークダンスは動きがアクティブで、じゃあ俺がルーマニア民謡でバトンの演技をしたあとは、みんなでチンポイのフォークダンスを踊ればいいじゃないか、と思った。チンポーイ! 間違えた、バンザーイ!

2018年5月24日木曜日

コント大学・ニラ玉・三国志

 どれだけ書くの、そんなに時事ネタに触れるブログだったの、という話だが、やっぱり悪質なタックルの話題がおもしろい。おもしろくて仕方ないのだ。乳房が胸一杯になるくらいおもしろい。悪質なタックル大学とか、乳房が胸一杯大学とか、日本大学とか、呼び名はいろいろあるけれど、今回の件でやっと、それが自分の母校であると堂々と言うことができるようになった気がする。こんなにおもしろい大学、他にあるかよ。誇りに思うよ。ジョイナスだよ。
 この一件のおもしろいポイントとして、まず「悪質なタックルの映像があまりにも明確に悪質でおもしろい」というのがあり、さらには「整列中に潰すのを念押ししている場面をしっかりと撮られている」、「そのあとオフレコで内田監督が思いっきり白状している音声データがある」、「被害者選手の父親が議員とかやっている人でぜんぜん泣き寝入りしない」、「最初の謝罪のときネクタイがピンク色」、「謝る相手の学校の名前を言い間違える」、「加害者選手の会見がすごく立派」、「それに対して大学や監督があまりにもどうしようもない」、「会見の司会者がキレる」など、挙げればキリがない。これはもう、隙がないと評していいレベル。このポイントを押さえてコントをすれば、とびきりおもしろい寸劇が誰にでもできる。やりたい。あと、なぜ反則のあとすぐに選手を交代させなかったのかという問いに対して、監督は「見てなかったし、気付いたときにはあれよあれよと次のプレーになっていた」と答えたのだけど、このフレーズもかなりおもしろいと思う。見てなかったし、気付いたときにはあれよあれよ、となっていることって、たしかに日常の中でけっこうある。この共感の感じは、俳句に通じるものがある。でもちょっと長いので、前半は略して、「MNKTあれよあれよ」、とすればいいと思う。あれよあれよのパートは愉しいから言う。

 晩ごはんのメニューにニラ玉が出て、ニラ玉ってやけによく食べる気がするなあと思ったのだけど、なぜか分かった。ニラ玉は、そのままの材料でニラ玉スープにもなるからだ。あの、おかずとしてのニラ入り玉子焼のニラ玉と、ニラと玉子の中華スープ。もちろん同時に出てくることはないが、今日はこっちで、今日はそっちで、という感じで出てくる。だから材料は同一なのに、普通のおかずの倍の働きをする。さながらニラ玉は献立界の大谷翔平だな! というお話でした。

 出張のたびに適当な本を選ぶのが面倒なので、長いシリーズ物を読めばいいじゃないかと考え、北方謙三の「三国志」(全13巻)を読み始めたのだけど、いま2巻までを読み終えたところで、「これは、おもし……ろい、のか?」という感じである。中だるみとか、後半グダグダとか、そういうのは予想していたが、2巻を読み終えてもこんなに自分と物語が噛み合ってこないとは思わなかった。
 これは僕があまりにも三国志のことを知らな過ぎるのがいけないのではないか、と考えた。本当に、諸葛孔明と曹操くらいしか登場人物を知らない。話の流れも、中国が3つに分かれたんだよなあ、くらいにしか知らない。本当に驚くほどこれまで触れずに生きてきたのだ。そこでダイジェスト版とか、「まんがでわかる中国の歴史 三国志の時代」とかを読んで、基礎知識を得ることにした。それでいちおう三国志の内容を押さえた結果として、再び「これは、おもし……ろい、のか?」状態に陥っている。なんかみんなわりと病死するし、話の山場がどこなのかよく分からない。
 でも「三国志」はもう8巻くらいまで既に買ってしまっているので、読まないわけにはいかない。不安な気持ちを抱えたまま、読み進めることにする。

2018年5月23日水曜日

悪質・清しい・バトン熱

 悪質なタックル問題が世間を賑わせ続けている。心から愛する我が母校の対応のひどさが本当にあんまりで、なんだかどんどん愉しくなってきた。こうなったらもう堕ちるところまで堕ちればいいと思う。僕はこれから出身校を訊かれたら、「悪質なタックル大学芸術学部です」と答えようかと思っている。「悪質なタックル」ってとにかく言いたい。あと、いつかなんかしらの行為によって謝罪するとき用に、ピンク色のネクタイを買っておかなければならないな、とも考えている。
 日芸生は今回のことで大体そんなことしか感じていないと思う。

 なんの縁もゆかりもない小学校の校歌の歌詞を眺めていたら(なんでだよ)、その中に「清しい」という表現があり、なんだそれは、となった。意味は解る。「清々しい」だ。しかしこれまでそんな表現は見たことがなかった。実際、広辞苑を確認したら載っていなかった。ウェブの辞書には項目としてあったけれど、ウェブの辞書になんて「そこに載っていたら正式な日本語だ」という権威はまるでないので、なんのあてにもならない。たぶん今回の場合、本来なら「清々しい」としたかったところを、曲の音数に合わせるために「清しい」にしたんだろうと思う。
 それは別にいい。怒らない。怒らないどころか、逆に「清々しい」ってなんだよ、とさえ思えてきた。考えてみたらなんで2回、「すがすが」って言わなけりゃならないのか。って言うか「すがすが」ってなんだよ。「すがすが」だけこうして抜き出すと、やけに間抜けな字面で音で、本当になんでこんな言葉を口に出さなけりゃならないのか、と思えてくる。それに対して「清しい」の清しさったらどうだ。清々しいよりもはるかに清しいではないか。これまでさんざん世界の清々しいところを表してきた清々しいという言葉だったが、実は自分自身に、もっと清々しくなれる要素が隠されていた、という皮肉。紺屋の白袴。往々にしてそういうものかもしれない。
 こんなときは断捨離。「清々しさ」から、「々」を捨てる。だって実はぜんぜんいらなかった。なんの役にも立っていない、むしろ邪魔でさえあったのに、なんとなく捨てられずにずっととってしまっていた。それを今回とうとう捨てた「清しさ」さん、生まれ変わった現在の心境はいかがですか。「はい。清々しました」。だーかーらー!

 日曜日のバトンのステージを見て以降、またバトン熱が高まっている。こう言うとまるで熱が低下気味だったようだが、別にそんなことはなく、日々励んでいたのだけど、またさらに改めて、ということである。そして当日にも書いたように、これまでバトンを頭上に飛ばす練習なんかをしていたのだけど、反省して、今はまたひたすらバトンを回す基礎練習に戻っている。これが愉しい。バトンを飛ばすのって、演技として見たとき、それをしなければ観客が納得しないだろう、という感じがあるが、やっている側としては案外つまらないんじゃないかと思う。それに対してひたすらバトンを回すの、チョー愉しい。マジで愉しい。クルクルクルクルクルクル、と回し続けていると、だんだんトリップ状態みたいになってきて、愉悦の境地に至りそうになる。今日なんか昼休み終了5分前のベルに気付かず、そのあとも回し続けてしまい、危ないところだった。手首が柔らかくなりたい。

2018年5月20日日曜日

日大・友達袋・CCさくら

 会社で「日大が話題になっとるやーん」と嘲られる。アメフトのタックルの件である。たしかにひどい話である。競技のことは詳しく知らないのでなんとも言いようがないが、発覚後の態度の悪さがとにかくひどい。このSNS全盛のウェブ社会において、いまどきこんなに評判を気にしない、悪い体制を隠そうとしない団体があるかよ、と衝撃を受けた。
 それはそれとして、日大のことで僕をいじられても困る。日本大学という巨大な組織の、中心と言ったらどこらへんのことになるのか、さっぱり分からないけれど、芸術学部がそこから外れていることだけは断言できる。あまりこういうことを言うと、芸術という分類の性質ゆえに、鼻にかけている感じがどうしたって出てしまい、もちろんその種の特権意識みたいなものがまったくないわけではないのだが、かと言って在籍した4年間によって芸術への造詣が一般人をはるかに凌駕するレベルに到達したかと言えばそんなこともまるでなく、しかし曲がりなりにも高い授業料を払って修了したからには対外的には一目置かれたって罰は当たらないじゃないかという思いもあり、そのあたりはなかなかに複雑な心模様なのだけど、とにもかくにも言いたいのは、日芸生には日本大学という組織への帰属意識がほとんどない、ということなのである。僕は出身地を訊かれても、よく言われるように「神奈川県」ではなく「横浜」と答えるし、なんかその手の鼻につく感じには筋金が入っている。
 それなので、日本大学いじりをされて、とても驚いた。日本大学出身者として扱われていたのか、というショックみたいなものも正直少しあった。それでちょっと頭に来たので、母校名物の悪質なタックルを喰らわせてやろうかと思ってしまった。日大出身者はみんなあれ出来るんだよ。

 LINEの友達がふたり増える。職場の、それなりに話す同僚に、「LINEの友達って何人いるの? 俺6人なんだけど。そのうち3人は仕事の人で、もう3人は妻と母と姉なんだけど」と話しかけたら、「え、じゃあ交換する?」と相手が言ってくれ、QRコードを読み取る画面の出し方が分からなかったからその操作もしてもらって、登録した。やったぜ。しかし登録したらしたで、職場の同僚と改めて話すことなんてなにもないものだなあと気付いたり、と言うかLINEってチャットみたいな感じだから、家族とか、あるいは仕事上の事務的な連絡とか以外では、1対1で語り合うのってちょっと重くない? などと思ったりして、まだなにも発言していない。登録してもらっておいてなんの挨拶もしないという状態が果たして正しいのかどうかも解らない。解らないことだらけだ。山から降りて初めて舞踏会に出たような気持ちだ。誰か俺をひとりの立派なレディーに仕立て上げろよ。
 でも、そんなヘロヘロの友達状態の僕だけど、そんな僕だからこそ説得力がある気がしないでもないこととして、友達って質より量なのだ。本当にそう。量より質とか言う奴は絶対に負け惜しみだと思う。3人くらいしか友達と呼べる人間ができない、負け犬の遠吠えなのだと思う。本当に、ひとりも友達がいない僕が、どこまでも透き通った瞳で世の中を見つめて、そしてこう主張したい。友達は質より量。大事なのは量だ。食べものなら量より質だってことはある。なぜなら胃袋の大きさには限りがあるから。友達はそうじゃない。友達袋は四次元ポケット。いくらでも入る。だからたくさん入っていたほうがいいに決まってる。ピンチのとき、パニックになって、あれでもない、これでもない、となかなか目当てのものが出てこない、そんなくらいに中身がいっぱい詰まっていればいい。

 始まったときにはとてもワクワクしていた「カードキャプターさくら クリアカード編」なのだけど、最近は視聴が追いつかず、ハードディスクに毎週自動で録画されるのがどんどん溜まって、ファルマンから顰蹙を買いはじめている。
 なぜ視聴が追いつかないのかと言えば、視聴の触手がなかなか伸びないからで、心が躍っていれば、ファルマンにとっての「おっさんずラブ」のように、この人これが終わったら脱け殻みたいになるんじゃねえかな、と不安になるくらい、がっついて観るのだけど、残念ながら今の僕にとって「カードキャプターさくら クリアカード編」はそうではないのだった。
 ここに、このアニメに対してとにかく付き纏う、時代の流れ、現実世界の自分の加齢をまたしても痛烈に感じる。アニメは、さくらが小学6年生から中学1年生になったことと、携帯電話がスマートフォンになったこと以外、作品としての本質はほとんど変わっていない。だから、それがきちんと愉しめなくなったということは、僕のほうが変わったということになる。
 20年近く経っているのだから当たり前だ、変わっていないほうが不健全だ、というのはもっともだが、どうしても寂しさがある。劇画オバQのような寂しさ。そうか、パピロウはもう大人になっちゃったんだな……。もう李くんの桃まんくらいでしか愉しめなくなっちゃったんだな……。

2018年5月15日火曜日

荷物・オオキンケイギク・撮影

 職場に持っていく毎日の荷物がやたら多い。自分でもたまにびっくりするほどだ。
 まずメインのバッグがある。これがまずわりと大きい。ベジバッグというやつで、そもそも市場で野菜をたくさん買って持って帰るためのバッグだという。だから搭載量はかなりある。ここに財布やら、飲み物やら、身だしなみグッズやら、本やら、眼鏡ケースやら、おやつやら、なんだかんだでパンパンに物を入れている。これだけでずいぶん重い。近ごろ半袖になったら、持ち手を引っ掛けていた肘の内側が内出血を起すようになった。それほど重い。
 加えて、お弁当を入れるためのミニバッグを持つ。これは弁当箱がぴったり入るサイズなので、大きくはない。しかしお弁当は毎日のことなので、これも必ず持たなければいけない。食後に飲むお茶用に、マグカップも毎日ここに入れて持ち運んでいる。
 そこへ、手作りのバトンバッグも必ず携える。携えていきながらいちども回さない日というのも少なくないのだが、もはや精神安定のためにこれも必ず持っていないといけない。朝、玄関先で、ファルマンはたまに「ご武運を」と言って低頭しながらこれを捧げてくる。武士と妻コントである。しかし中身はトワリングバトンである。先日ここに煮玉子のキーホルダーを付けたのだけど、これがまたやけに重たいキーホルダーなのだ。付属のボールチェーンが駄目になるくらい重くて、仕方なく家にあったもっと丈夫なボールチェーンに付け換えた。なぜか外すという発想はなかった。
 ちょっと前まではここまでだったのだけど、先月からタブレットを持ちはじめ、タブレットにはキーボードもセットで必要になってくるため、その一式専用のバッグを持つことになった。タブレットを購入するにあたりちょっと相談したりした会社の人に、「それで結局タブレットは買ったの」と問われ、「買いましたよ、ほら」とそのバッグからタブレットを取り出したら、「なんなの、その大きいバッグ」と追及され、「これにはキーボードが入っているのです」と続けてキーボードを取り出してみせたら爆笑された。ギャグの一種と思われたのかもしれない。
 そんなわけで、いまそんな4つのバッグを持って、日々出勤している。これが合計で、すごく嵩張るしすごく重たい。歩く距離が、車から自分の仕事場までの100メートルくらいだからなんとかなっているが、公共交通機関での出勤だったら考えられない体積と重量である。疲れの溜まった週末など、たった100メートルでもつらくなるときがあるので、少し減らしたい気持ちはあるのだが、ためつすがめつして見ても、なにひとつとして省けるものがないのだった。男性の同僚には、水筒と財布しか持ってこない人なんかもいて(昼ごはんは宅配弁当)、驚嘆する。

 オオキンケイギクが咲き始めている。やっぱりうっとりするほどきれいだ。好きな黄色、好きな形。これの存在だけで、この時期は自然と愉快な気持ちになる。
 そしてオオキンケイギクをウェブで検索したら出てくる、特定外来生物だの駆除だのという言葉にうんざりする。なんでこんなに毛嫌いされているのか読んだら、別に毒があるとかそういう話では一切なく、繁殖力が強くて在来種を追いやってしまうからだという。その程度の話なのだ。それを「特定外来生物に指定!」などと言うものだから、国が戦争を始めたら一億総火の玉とかすぐに叫び出しそうな輩が、「駆除しなければ!」となる。本当にばからしいと思う。

 ファルマンが「おっさんずラブ」にど嵌まりしている。僕もそれなりにおもしろく観てはいるのだけど、横にいる人があまりにも入れ込んでいると、引いてしまう。本当に、あらゆる日常会話が、ツーステップくらいですべて「おっさんずラブ」につながるので、どうせ結論が「おっさんずラブ」ならば会話などする必要がないのではないか、とさえ思えてくる。
 そんな「おっさんずラブ」の先週の放送では、とてもタイムリーに中川駅を出てすぐの歩道橋で撮影をしていた。昔からあそこはよくドラマの撮影に使われるのである。それが今回は、妻のど嵌まりしているドラマで、しかも僕は実際にそこを数日前に思い出散歩したばかり、ということがあったので、わりとインパクトが強かった。別に林遣都を目撃したわけではないのだが、ファルマンは大いに発憤していた。「昔からよくドラマの撮影に使われるんだよ」の部分が、怒りの琴線に触れたのかもしれない。いやでも、ほら、島根もちょっと前にやってたじゃん、エグザイルがたたら場に行ってなんかする映画。出演していた橋爪功の息子が覚醒剤で捕まったせいですぐに上映中止になったやつ。あれやってたじゃん。すげえじゃん! フゥー!

2018年5月11日金曜日

エロ本・縁・キーボード

 帰省初日の出来事なのだけど、一家の荷物を、滞在中あてがわれている部屋にとりあえず置いて、「おこめとおふろ」に書いたように、僕とファルマンは電器屋へと出掛けたのである。その間、子どもたちはすっかり慣れたもので、母や叔父に見守られながら、Wiifitなどして過ごしていたらしい。Wiifitというのが悲劇の引き金だった。無駄にジョギングなどするものだから、長袖を着ていたピイガは汗だくになったという。それで母は、かわいそうだから半袖に着替えさせてやろうと思い、部屋に置かれたキャリーケースの中を探った。しかしそのキャリーケースは、帰省のあとそのまま出張へ行く僕の荷物専用のものであり、探せど探せど子どもの服は入っていない。入っているのは、34歳の息子の衣類と、そして数冊のエロ小説だけなのだった。そうなのだ。エロ小説なのだ。出張で、移動時間も長いので、それはエロ小説の1冊や2冊、2冊や3冊は、荷物の中に入れてくるに決まってるじゃないか。そんなこと言ったってしょうがないじゃないか(えなり)。子どもたちの服は実はファルマンの背負っていたリュックに入っていたのだけど、なんとなくそちらの開帳は遠慮したらしく、キャリーケースの中に息子の衣類とエロ小説しか見つけられなかった母はそこで見切りをつけ、たまたま家にあった、姉の娘の服を着せていた。もちろんちょっと大きかったのだけど、はじめからそうすればよかったじゃないか。もちろん面と向かってエロ小説のことを言及されたわけではないのだが、しかし事の次第を考えれば、母がそれを目にしたことはほぼ間違いない。まさか実家を出て、家庭を持ち、34歳にもなって、オカンとエロ本のこういった出来事に遭遇するとは思っていなかった。帰省初日にして大いにへこんだ。ファルマンに話したらすげー爆笑された。

 帰省初日の晩ごはんの際、義兄と話をしていて、義兄はやけに僕に対してそういうことを言うのだけど、今回もまた、「パピロウはもっと自分をアピールして創作活動をしていくべきだ」という内容のことを言われる。義兄が僕の作ったなにを見て、そこまで忸怩たる思いを抱いてくれているのかよく解らないが、ありがたい話ではある。「こういうのって人と人との縁なんだから」とも言われる。もちろんそんなことは解っちゃいるのだ。だがそこの部分が壊滅的にできないから、なにも広がっていかずにここまで来ているのではないか。「もうパピロウがやらないなら俺が動くよ」とさえ義兄は言ったが、果たして義兄は僕の作ったものをなにか持っていただろうか。ヒットくんとクチバシの絵でも描いて送ったら、数ヶ月後くらいにサンリオのキャラクターになっていたりするのだろうか。義兄ならやってくれるかもしれない。あの友達クーポンを体現して生きているような義兄ならば、この世でできないことなどなにもないような気がする。友達クーポンを使ったことがなさすぎて、未だ見ぬそれに対して無敵のようなイメージを持っている。

 タブレットを携えての帰省および出張は、とてもよかった。ホテルで帰省の日記を書くこともできたし、LINEで家族と映像通話をすることもできた。かく言うこの記事だって、帰りの新幹線で書いている。簡易テーブルにスタンド台を置き、タブレットをセットして、膝の上でキーボードを打っている。やっぱりキーボードも買ってよかった。ファルマンとのLINEでも、すごく快適に文言が打てて、けれど向こうは画面上のキーを打っているので、やがて「手が疲れたからもう勘弁してくれ」と拒まれてしまった。妻が「もう勘弁」と音を上げて、夫はまだまだ元気だなんて、まるでキーボードってバイアグラのようだな、などと思った。あと写真やビデオも便利。普通にきれいだし。中川駅で降りての思い出散歩や、出張先の街並みなんかを、すごく気軽に撮影した。そして撮影しながら、「ああ俺はいま、タブレットで風景を撮影しただけで、ちょっとなんかしたような気になってるな……」と思った。この自覚だけは失わぬよう、自らを戒めていかなければならないと思う。

2018年5月2日水曜日

ややこし・セクハラ・人間ごっこ

 「増長」と「助長」と「冗長」がまぎらわしい。まず「増長」と「助長」は、意味がまぎらわしい。正しい用法を辞典で調べるということをひとまずしないで話を進めるが、どちらの「長」も「調子に乗る」みたいな意味だと捉えている。それを「増す」か「助ける」かの違いだ、ということだ。だから「増長」は自動詞的で、「助長」は他動詞的だ。Aが調子に乗っているとして、「Aは増長している」とも言えるし、「Aは助長させられている」という風に言うこともできる。それでややこしい。同じ現象に対して使えて、自動か他動かの部分だけをちょっと変えれば代替可能だから困る。それに、完全に自動で増長することなんてそうそうなくて、大抵の場合は周囲による助長が原因だろうと思う。そう考えれば増長を使える場面なんてなくなるような気もするし、しかしその一方で、周囲による助長の結果こそが増長なのだ、だから逆にすべては増長に帰結するのだ、という気もする。そういうことを迷って、咄嗟のときにどちらを出せばいいのかあぐねたとき、意味は別に似ていないが、増長と助長、ふたつのちょうど中間で、音的にまぎらわしい「冗長」までもが脳裏をよぎりはじめ、困る。日常の困りごとランキングの、これが78547位。

 労働をしていたら、60代のおじさん社員が後ろからやってきて、「やってるねえ」みたいな感じで背中に手を置かれ、怖気が立った。たぶん60オーバーのおじさん的には普通のことで、ましてや男同士だし、反応するほうがおかしいのかもしれないが、思わずのけぞり、すぐに体を前に流して、手の平から分離した。自分でもびっくりするほどの拒否反応が咄嗟に出た。そして思った。セクハラって本当に嫌なものだ。別に今回のこれをセクハラというつもりはないけれど、実体験を通して、世間で騒がれているセクハラというものが、どれほど嫌なものかということがよく解った。だって僕がこれまで一生懸命に生きてきたのは、あのおじさんに背中を触られるためじゃないもの。だからあんなことは絶対に他人にやってはならない。人生全体を侮辱されたような気がした。そして思った。セクハピなんてない。なんだセクハピって。阿呆か。神経を疑うわ。

 ファルマンが母の日のプレゼントで思案している。島根のほうの母の話なので、三姉妹で協議しているらしいが、妹たちの意見により話が花方面に傾きそうだという。親ってもう大抵の物は持っているので、いろいろ考えた結果、まあ花を贈っとけばええわ、となりがちなものだ。これに対してファルマンは、「なんで花なんか贈ろうって思うんだろう。花って、臭いし、腐るし、世話しなくちゃいけないしで、なんにもいいことないじゃない」と文句を言っていて(もちろん妹たちに言うわけではない)、ああさすがポルガの母親だなあと思った。えっ、じゃあ花のどこがいいって言うの、と問われたら、それはまあ僕だって別に明確な答えは持っていないのだけれど、でもそれにしたってあんた、花は尊んどけばいいじゃない。「花=素敵」と心に書き込んで決定事項にしておけば、たぶんその分だけ生きやすいわけじゃない。俺たちそうやってちょっとずつ世の中のことインプットしてなんとかこなしていこうよ。早く人間になりたい。

2018年4月21日土曜日

ポルガ・東京・ピイガ

 ポルガに、「どうしてパパとおかあさんはスマホじゃなくてタブレットなの?」と訊かれる。世間の大人は大抵スマホなのに、うちの両親はふたりしてガラケーにタブレット。どうして? となるのも無理はない。どうしてってそれはお前、お前の両親はふたりとも、生きるのがちょっと下手だからだよ。お前はそんなふたりの愛の結晶なんだよ。「ポルガはぜったいに小さいのがいい! だって進化してる感じがするもん!」そうか。それを面と向かって我々に言ってしまうお前もまた、たぶん生きづらい人生を送るんだと思うよ。ざまー見ろ!

 先日の出張で、新幹線の東京駅に降り立ったのだった。いつもは新横浜で降りるわけで、そこから先の都内エリアは新鮮だった。もっとも品川は、車内からホームを眺めて思い出したが、何度か利用していた。だってかつては練馬在住だったんだもの。陸路で島根に行く際は、そこから新幹線に乗っていたはずだ。そんなに記憶に残っていないけど。しかし新幹線の東京駅というのは完全に初めてだったと思う。乗り換えの十数分、駅構内を歩いただけだけど、やっぱり東京駅というのはすごいのだなあ、と思った。乗降客で言えば新宿とか渋谷のほうが多いのかもしれないが、東北とか北陸とか関西とか、目的地のスケールが大きい。ここから日本のどこへでも行けるんだ……、さすが首都……、と感動した。あと品川から東京までの車窓の風景は、やっぱり開発に次ぐ開発という感じで、未来都市みたいな込み入った区画に、おためごかしのような公園があり、そこでは都会の子どもたちがすさまじい人口密度で遊んでいて、おらがとこと世界がぜんぜんちがう……、と思った。東京って、自分が住んでいるときはそのすさまじさにピンと来ないし、離れるとすさまじすぎて受け付けられなくなるしで、ちょうどいい距離感が掴めない。きっと永遠に掴めない。

 ピイガの女子力がすごい。前々から、これはなかなかのものなんじゃないか、とは思っていたが、幼稚園に入ったことでそれがさらに強調され、痛感した。入園式後の登園初日に、クラスの男の子のひとりを虜にしたようで、その男の子は一日、ピイガからひとときも離れなかったという。マジか。上の子があまりにもそういう女子らしさと無縁なので、ふたり目にして初めてのことで、驚く。たとえば朝、僕が出勤するとき、ポルガは居間で朝ごはんを食べ続けるのだけど、ピイガは玄関まで来て頬にキスをしてくれるのである。もちろん嬉しいのだが、僕ももういい大人なので、女子のこういう行為が、相手を愛しく思う気持ちというよりは、女の子が自分をより愛らしい存在にするためにしている、ということが理解できている。しかし幼稚園の彼も含めて、これからピイガと出会う数々の男子は、まだそんなこと解らないだろう。こわい。末おそろしい。

2018年4月14日土曜日

数値・端末・記憶

 職場で行なった健康診断の結果が届く。いつもの通り、γ-GTPだけが引っ掛かる。もうこれは仕方ないことで、高地で暮す人々の心肺機能は鍛えられて発達するみたいな感じで、常態として高い数値をキープするのならば、肝臓の機能もだんだんそれに対応してくるんじゃないの、などと思う。それでもなんとなく安心する材料が欲しくて、この人なら間違いない、という上司に、同じ項目の数値を訊ねたら、僕の2倍もあったので、うん、やっぱりまだまだ大丈夫、と一気に霧が晴れた。

 タブレット持つ計画が一気に進み、もう発注してしまった。結局ネットで発注したわけだけど、日中にお店にも実際に行った。しかし僕が求めているような用途の、SIMフリーの端末というのを店では売っていないということで、すごすごと退散したのだった。1年ほど前だったか、ファルマンが購入した際はそんなことはなかったはずなのだが、情勢が変わったのらしい。こういう業界の情勢はどうしてこうも目まぐるしく変わるのだろう。そもそも、僕がスマホをいちども待たないまま、世の中はアイフォン10なんてことを言っている。速すぎないか。なんなら僕はアイフォン1からのスタートでもいい。それが2円くらいで手に入るのならそれでもいい気がする。そしてそれを使って僕は思うのだ。これは画期的な製品だぞ、と。

 子どもたちがドラえもんに嵌まっていて、義母がWOWWOWを録画してくれた大長編のDVDをよく観ている。それで今日、「アニマル惑星」を僕も一緒に観た。とても懐かしく、おもしろかった。思えば僕にとってのドラえもん大長編の黄金時代と言えば、第9作である「日本誕生」(89年公開)から第12作の「雲の王国」(92年公開)のあたりであり、だからすごく思い入れがあるのだった。あの頃はとにかくドラえもんの絵ばかり描いていたような気がする。「ドラビアンナイト」の、ターバンを被ったドラえもんの絵とか、すごく描いた記憶がある。懐かしい。あれから作者も、声優も、すごく死んだり、なんなり、した。急にそんなことを言った。実際、そこから四半世紀ほども経ったのだ。四半世紀と言えばそれなりの年月である。22世紀からやってきたという設定のドラえもんだったが、四半世紀先では、作者や声優が、死んだり、なんなり、したのだった。それは当り前のことなのだけど、なんとなく切なさがある。

2018年3月26日月曜日

貴乃花・四次元・スタッフ

 春場所が終わる。結局ひとり横綱の鶴竜がそのまま優勝で、そういう意味ではわりと地味な場所だったと思う。貴公俊の暴力事件にはとても驚き、今場所に貴乃花部屋の力士が問題を起したら絶対に駄目じゃん、と思ったのだけど、結果的にあの事件を反省するという形で、貴乃花は、協会に対して振り上げたまま落とし所をすっかり見失っていた拳を、尻切れとんぼではなく正々堂々と降ろすことができたのだから、あの事件は奇蹟的な次元で、全体にとって良く作用したのではないかと思った。しかも千秋楽に貴ノ岩の勝ち越しが決まるという、ドラマチックな結末。貴乃花という人はやっぱりスターなのだな、と思った。

 ファルマンと子どもたちが、特急やくもで島根に帰る。「特急吐くも」と揶揄されるそれに対し、ファルマンはだいぶ前から「やくもブルー」になっていたのだが、そんな事前の身構えをものともせず、久しぶりに体感するやくもの揺れは想像を上回るものだったらしい。メールにて、「縦とか横とかじゃない。立体的な揺れ。もはや四次元の揺れ」という報告が届いた。四次元の揺れ。四次元に揺れる乗り物って、話が一気にSFめいて、27世紀の金星くらいにたどり着かなければ嘘のように思えるが、どっこい目的地は島根県である。このたび大正時代当時よりも県民人口が少なくなったという、21世紀の島根県である。

 バトン廻しの動画を適当に観ていて目に入ったのだけど、コンタクトスタッフと言うのか、スタッフジャグリングと言うのか、スタッフとは要するに杖のことなのだけど、トワリングバトンよりもだいぶ太くて長い棒を廻すジャンルというものがあるようで、あら、もしかして俺の潜在的な棒クルクル願望って、バトンじゃなくてこっちのことだったんじゃないの、という疑念が少し湧いた。しかしバトンが新体操っぽいのに対して、スタッフというのはなぜかやけに中二っぽくて、ますますハードルが上がる感じがある。バトンをやっている時点でいまさらだが、武器っぽい長い棒を、華麗にクルクル廻そうとするなんて、そんなのラノベとかのキャラクターの発想だと思う。バトンならば追求されたときに通る言い訳が、公園であれの練習をしていたら問答無用に近隣の住民に通報されてパトカーに乗せられるのではないかと思う。

2018年3月23日金曜日

友達仙人・チア部女子・カエサル

 10ウェもブログがあると、気付けばしばらく書いていないブログというのが出てきて、「僕等は瞳を輝かせ沢山の話をした」なんて3月に入ってからいちども書いていない。なぜ書かないのかと言えば、友達論とか架空の友達との交遊話を書かずとも僕の友達欲は満たされているから、それゆえに書かないのであり、こう言うとまるで本物の友達ができてROUND1とかに行きまくっているように聞こえるかもしれないが、もちろんそんなはずはなくて、時期的なものなのかなんなのか、いま僕はやけに友達欲が減退しているのだった。減退して、友達胃袋が小さくなっているものだから、霞を喰って生きる仙人のように、空気中に漂っている微粒子のような友達成分だけでお腹いっぱいになってしまう。飢餓感がない。だから友達に関してなんにも書くことがないのだった。もしかしたら、とうとう達観したのかもしれない。禁友達に成功したのかもしれない。

 バトンを回すのが引き続き愉しいのだけど、ここへ来て深刻な問題が浮上した。自分で鏡を見てもうっすら感じていたが、ファルマンに指摘までされて、いよいよ確信へと変わった。
 腕が太くなっている。なんか、ちょっとちゃんとした腕になっている。
 どうしよう。これから薄着の季節。これは僕にとってぜんぜんいいことじゃない。ガンジーを敬愛する僕は、非暴力の象徴として腕力の放棄をモットーにして生きてきた(といま決めた)というのに、腕に筋肉の気配が出てしまった。こんなんじゃ、森の動物が心を開いてくれねえよ……。筋肉のついた原因は、闘争とは真逆の、むしろ闘争を制止するための平和活動と言ってもいいのに、なんと皮肉なことだろうか。平和を愛し続けるためには強くあらねばならないという、スイス的なディレンマを抱えてしまった感がある。
 バトンは回したいが腕はもうこれ以上太くなりたくない。
 まるでチアリーディング部の少女のような悩みに苛まれている。

 やるやる詐欺化していたランニングを、とうとう決行した。したが、やっぱりまだまだ夜は寒くて、往生した。ランニングという行為にあたり、寒いというのはそれほど問題にされない傾向があると思う。マラソンランナーは真冬でも短パンランニングで走っている。なぜか。走っていれば体が温まるからだ。僕ももちろんそう考え、玄関を出た瞬間に「寒……っ!」となったけど、ギリギリのところで踵を返さず、けなげな精神力でもって外へと繰り出した。そうして走り出したのだけど、すぐに予想だにしない事態が発生したのだった。それではここでクエスチョンです。寒い中走りはじめたカエサルを襲ったアクシデントとは、いったいなんだったでしょうか。ドゥルドゥルドゥルドゥルドゥー! 間違えた。カエサルじゃなくてパピロウだった。それでは正解の発表です。パピロウを襲った事態、それは「体が温まる前に息が上がってしまった」でした。こんなことってあるんだな、とわりとびっくりした。

2018年3月19日月曜日

桜格言・バトントランス・ねっとりソープ

 今年は冬があれだけ寒かったから桜が咲くのも遅かろうな、と思ったら、もうあちこちで咲き始めているらしい。そしてそのニュースの際に言っていたが、「桜は冬が寒かった年ほど咲くのが早いと言われている」のだそうだ。根拠についてはよく知らないが、実際に今年はそうなっている。そしてこの「桜は冬が寒かった年ほど咲くのが早い」って、とても格言っぽいと思った。系譜として、「夜は明ける前がいちばん暗い」とか、「より高く跳ぶにはより深く身を屈めなければならない」とか、「しあわせの扉はせまい だからしゃがんで通るのね」なんかに連なる。だからさ、このブログを読んでくれてるすべてのみんな、絶対にあきらめちゃダメだかんな!

 気温の上昇とともにバトン熱が再び高まっていて、冬の間ほとんどファッションで持ってるだけだったそれを、昼休みの間ひたすら回している。先日公園で回していたところを、ファルマンが半笑いで動画で撮ってくれて(真意は不明)、それを見たら自分は自分が思っていた以上にバトンを華麗に回していて、自信と弾みがついたのだった。さらには最近になり、イヤフォンで音楽を聴きながら回すということをしていて、雑音が入らないのとリズムを意識できるのとで、すごく愉しくなった。曲は、ビートルズの「Ob-La-Di, Ob-La-Da」を、もともと好きなのもあるけれど、バトンを回すリズムに合っている気がして、リピートで流している。だからいつかステージに立つ際も、使用楽曲はそれでいくだろうと思う。「Ob-La-Di, Ob-La-Da」をリピートで流し、ひたすらバトンを回していると、一種のトランス状態みたいになって興奮してくる。そして午後、腕だっるだる。

 冬の間は保湿目的でニベアのボディーソープを使っていたのだけど、保湿性の分かりやすい証明ということなのか、液剤がとてもねっとりしていて、普通のボディーソープならばノズルの3センチ先くらいで、押し出した液剤をスポンジで受け止めるものだけど、これはまるで前に飛ばず、真下にネトーッと落下するのだった。だから最初に押したときはそのすべてを受け止め損ない、垂れ流した。なんかその、成分が濃厚だと液が重くて飛ばない感じ、すごくなにかを想起させるものがあり、毎回複雑な思いに浸りながら、その白い液体で体を擦っていた。冬の終わりと同時にこのたびそれをちょうど使い終わり、保湿は謳いつつもそこまでではないものに買い替えた。そうしたらちゃんと前に跳ぶようになり、なんとなく男性として安心する部分があった。

2018年3月14日水曜日

気象庁・親鸞・ブロガー

 週間の天気予報がいつも当たらない。明日の予報でさえ当たらないのだから週間予報が当たるはずがない。それは解る。別に週間予報をキパッと的中させろとは言わない。しかし今週がまさにそうなのだが、月曜日の時点で『平日はいい天気で気温が上がり、土曜日から雨』と言っていた予報が、実際にはもう明日の木曜日の予報に雨マークが灯っている。いつもこうなのだ。週間予報は、いつも実際の天候の変動よりもスローペースの予報を出すのだ。直近になってくるといつも2日分くらい予報していた天候が前倒しになる。本当にいつもだ。だからこれは「週間予報は難しいのです」という話にはならない。予想はできている。いや、予想もなにも、気象庁は衛星を飛ばして雲の流れを見ているのだから、雨雲が来るかどうかくらいのことは判って当然なのだけど、せっかくのその衛星画像からの、動きの読みがやっぱり下手糞だ。権威に弱い人は、気象庁だとか気象予報士だとかの肩書だけで、一般人には想像の及ばない苦悩がおありになるのだろう、などと思うのだろうが、僕はそんなの一切認めない。週間予報の6日後の天気は実際には4日後にやってくる。気象庁はいつまでもそのバグを直さない。無能である。気象庁が親の仇のように憎い。

 親鸞の言葉に、「ひとりで悲しいときはふたりいると思え。ふたりで悲しいときは三人いると思え。そのもうひとりは親鸞である」というのがあって、なにしろ本人が現代語で書いたわけではないので、言い回しはいろいろ別バージョンもあるんだろうが、「そのもうひとりは親鸞である」というのがとにかくかっこいいと思う。劇団ひとりの紹介していたテクニックで、名前を名乗るとき、ファーストネームを言ってからフルネームを言う、というのがあって、つまり劇団ひとりの場合「省吾、川島省吾」となり、これはなるほどちょっとかっこいいのだが、なんかそれと親鸞のこれは似ている気がする。僕は将来、菅原道真が学問の神様になったように、セックス的な快楽分野の神様的な存在になりたいという夢を持っていて、だとすれば「ひとりでしているときはふたりでしていると思え。ふたりでしているときは三人でしていると思え。そのもうひとりはパピロウ、プロペ★パピロウである」という言葉を遺したい。

 3月11日の日記を僕もファルマンも書いたのだけど、毎年この日の日記に関しては互いに「これ、大丈夫だよね?」と確認し合う。絶望的なまでに人に読まれていない我々の日記だけど、それでもそんな風になる。トラウマがあるからだ。とは言え別に本当に誰かから苦言を呈されたみたいな実害があったわけではない。この「実害があったわけではない」というのがまた、関東在住のくせに震災に精神的ショックを受けすぎる輩に対しての、「エア被災」という当時の流行語に通じるものがあり、しょっぱい気持ちになる。斯様に、実害があったわけではないけれど、当時のあの閉鎖的と言うか、揚げ足の取り合戦と言うか、あの感じは本当に嫌だった。そのときの気持ちが3月11日にはよみがえって、それでセンシティブになる。今年の震災関連の話でも、「5年で区切りみたいになってしまったのは本当に残念」なんてことが言われて、それはまったくもってそうなのだろうけど、しかしそうは言っても5というのは十進法において節となる数字なのだから、4年目や6年目よりも、「5年の月日が経ったのです……」、と声高に言いたくなるのは仕方のないことであり、なんかその感じまでをとやかく言わないでほしいと思った。別に誰も「風化しようぜ!」とは言ってないではないか。優しさ合戦、と言うと言葉があまりにも悪意的で、それこそ怒られそうだけど、思いやりの細やかさを出し過ぎると、光が強ければ影も濃くなるの理屈で、そんな思いやりにはぜんぜん思いが至らなかった人が糾弾される流れになりがちで、それはとても居心地が悪い。その居心地の悪さは、本当に当時の、絆、絆と拘束具でしかないものを褒めまくっていたあの空気そのままで、とてもうんざりする。あのブロガーたちはもう当時のことをなかったことにしてしまっているのかもしれないが、原発がああなって、節電節電と言われたあの春から初夏にかけて、ブロガーの一部は「節電のために長文を書かない」などという主張をした。あれは本当に気持ちが悪かった。太平洋戦争の際、戦争を礼賛し人々の戦意を高揚させる文章を書いた小説家は、戦後にその過ちを悔いた。「節電のために長文を書かない」は、それに通じる過ちだと思う。僕はもちろんそんなこと書かなかったけれど、ブロガーの端くれとして、当時のブロガーのその振る舞いのことを恥じる気持ちがある。3月11日に関して、ブロガーとしてこのことをどうしても書いておきたかった。

2018年3月9日金曜日

咳・蒼井優・落語

 夫婦で咳をしている。インフルエンザB型禍が我が家から過ぎ去り、すっかり平和になったかと思いきや、目下しつこい咳に苛まれているのだった。咳というのはいちど始まると本当にしつこい。しかもそれ自体が不快で嫌なのに、社会的にも弊害がある。クシャミの、あっけらかんとしたコメディチックな印象と較べて、咳には眉をしかめたくなる不穏さがある。咳が始まってから、職場ではもちろんマスクをしているが、それで完全に許されているとは思っていない。僕だったらはっきり言ってあまりこんな奴には近寄りたくない。マスク着けてるからって感染しないとはぜんぜん限らない。1週間以上もダラダラと続いているので、「もう我々は一生このままなんじゃないだろうかグホグホ」とファルマンが嘆き、「だとしたらそんな夫婦には絶対にもう友達はできないグホグホ……」と僕が絶望すると、「安心して。咳とか関係なくできないからグホグホ」とファルマンが慰めた。もう悲壮感が多重の層のようになって、じっと手を見ることさえできない。

 蒼井優のアカデミー賞でのスピーチが感動的、という話があって、別にそれほど感動的ではないと思うけど、通り一遍のことを言うよりはもちろんいいと思った。そして「これから新学期はじまりますけど、学校がつらい方、新しい生活どうしようと思っている方がいたら、ぜひ映画界に来ていただきたいなと思います。映画界ってよくないですか? 私ほんとに好きなんです。みなさんと一緒に映画を盛り上げていけたらなと思います」という文面の、映画という部分、これは蒼井優が映画女優だから映画であるだけのことで、実は人それぞれに、なにに置き換えてもいいのだと思った。
「ブログってよくないですか? 私ほんとに好きなんです」
「エロ小説ってよくないですか? 私ほんとに好きなんです」
「AV業界ってよくないですか? 私ほんとに好きなんです」
 近日中に僕になにか受賞の機会があれば絶対にやるのだけど、なにかないだろうか。

 昨日「PAPIROTOIRO2」に投稿した「嘴亭萌え狼らくご「水下着」」は、実はここ数日で書いたものではなくて、もう2年くらいも前に、創作落語の懸賞に応募して、箸にも棒にも掛からなかったものである。あまりにも箸にも棒にも掛からなかったので(わりと自信があったというのに!)、いつか別の懸賞にまた応募してやろうと思い、ハードディスクで眠らせていたが、いつか別の賞ってなんやねん! と、途轍もなく長いノリツッコミを昨日ようやく炸裂させて、ペッペッペーとアップした。アップするにあたり読み返してみて、やっぱりおもしろいと思った。でもそれは僕が、僕のおもしろいと思うものを書いたから、当然の話であり、そしてただそれだけのことなのだと思った。

2018年3月3日土曜日

ランニング・淫夢・ブログ

 ランニングシューズを買う。買ってしまう。これでもう後戻りできなくなった。走るっきゃなくなった。いや、果たしてそうだろうか。出雲在住時、近所に温水プール施設があり、時間もあったので、これは水泳を趣味にして健康体になるっきゃないだろう、余分な肉はなくて細身なんだけど筋肉はあるという、それになるっきゃないだろうと、スポーツ用の、太ももにピチッと張りつくタイプのまあまあ本格的な水着(もといスイムウェア)を買ったことがあったが、しかし1回だけそれを着けて行ったあとは、やけに白けて、いちども実行しなかった。過去にそういう前例があるので、ランニングシューズを買ったところで、「走るっきゃなくなった」は言い過ぎたと思う。いや走るよ。走るけどね。

 淫夢を見る。僕はプールサイドに裸で寝そべっていて、そこへ水着姿の女の子たちが寄ってくると、そのうちのふたりの女の子が僕のペニスを奪い合うように舐めはじめるのだった。34歳という年輪をまったく感じさせない、ミドルティーンが見てもぜんぜんおかしくない、実にオーソドックスな淫夢なのだった。それだけのことならば別にこうして文章にして伝えようとは思わないのだけど、目を覚ましてから改めて夢の情景を振り返ってみて、あれはおもしろかったなあと思ったこととして、夢の中の僕のペニスは、なんか戸愚呂弟の100%ような威容をしていた。長いとか太いとかじゃなく、戸愚呂弟の100%みたいなことになっていたのだった。深層心理だなあ、と思った。

 昨日から始めた「THE WIND TALKING ABOUT SOMETHING」というブログがあるのだが、これはこれまで自分(およびファルマン)が作成したブログ記事から一部分を抽出し、細かい改行や空白行や拡大文字などの加工を施して、「なんか言ってる風」にする、という画期的な試みなのだけど、実際に投稿された記事を見たファルマンが一言、「こういうブログはもういくらでもあるよ」。そして「ほら」とページを開いて見せてくれる。本当だった。もうみんな普通にそのテクニックを使ってブログを作成しているのだった。中には文章の配置をすべて中央揃えにしている猛者までいて、いまどきゴリゴリのポエムでもなかなかそんなの見ないだろ、と思った。あと空白行のスケールも、僕はどうしたって1行を開けるのがやっとなのだが、彼らは5行10行を平気で開けていた。すごい。いったいどういう精神で記事を作成しているのだろう。文章を綴るにあたり、頭の中に原稿用紙のイメージは浮かばないのだろうか。浮かばないんだろうな。そしてブログというジャンルにおいては、彼らのほうがむしろ正解に近いんだろうな、とも思った。そんなわけですっかり出鼻を挫かれた感がある新ブログなのだが、でも開設したからにはそれなりに運営していこうと思う。

2018年2月28日水曜日

うなだれる・インスタやってない・うすらさみしい

 2月が終わる。今晩、約2週間ぶりに家族とともに食卓を囲んだ。こう書くとまるでこの期間とても忙しく立ち回っていた人のようだが、普通に夕方に家に帰って、同じ時間に晩ごはんを食べていた。ただし僕だけが居間でなく、作業部屋の自分のパソコンデスクで、キーボードをどけて食べていた。僕以外の家族が順繰りにインフルエンザB型に罹ったので、隔離策が取られていたのだった。その甲斐もあり、僕はなんとか感染を免れ、わが家のインフルエンザ禍は終息したようである。
 子どもとの食事は、上のも下のも行儀が悪く、そして両者ともに頑固でへそ曲がりのため、それはもう苛々させられるのだけど、しかし2週間ぶりともなれば郷愁のほうが勝ち、またこうして平和に健康で食卓を囲むことができる幸せ……、となるはずだったのだが、案外そんなこともなく、2週間のブランクをあっという間に埋める圧倒的な才能の前には、うなだれるほかなかった。

 早く最高気温が15度くらいにならないかな、と思っていたら、案外すんなりとやってきた。これからどんどん気温が上がり、日が長くなるわけで、あんまりそういうのを意識したことなかったけど、このあたりが1年でいちばん好きな時期かもしれない。桜のつぼみにまだ目立った変化はない。外でお弁当を食べるのはもうちょっと待つ必要がある。
 たまに期限を切らしてしまった食パンを、散歩の際に池のカモやハトにやるのだけど、帽子やコートで覚えられたのか、パンを持っていない日でも池に近付くとカモが寄ってくるようになり、気まずい。気まずすぎて引き返したりする。はじめ善意のつもりだった行為が、やがて束縛のようになってくるという、よくあるパターン。パンをやる日、カモとハトが殺到する様は壮観なので、インスタにアップしときます(グロ注意!)。

 すごく好きな人と付き合うと、その最高地点から減点法でどんどん魅力が目減りしてしまうけど、そんなに好きじゃない人と付き合ったら、ゼロからのスタートで加点だけされていくから、案外そのほうが結果的にはよかったりするよ、みたいな言い回しを読んだ。
 それを読んで、僕は他人に対して、ゼロ(あるいはマイナス)からのスタートで、そこからさらに減点法を採用しているなあと思った。道理で。道理でこんなにうすらさみしいわけだ。

2018年2月23日金曜日

ライナス・パラレル・ワンガリ

 相変わらず職場にバトンを持っていっている。それで日々昼休みに練習に勤しんでいるかと言えば、実はそんなことはなく、滅多にやらない。たぶん2週間にいちどくらい、15分くらいだけしか回していない(だから特に上達もしていない)。それだのに毎日必ずバトンを持って出勤しているのは、もはやライナスの毛布的な意味合いなのかもしれない。ないと不安でしょうがないということはないが、自分の中でさまにならない気持ちがする。そしてそれはやっぱり、DNA的な部分から来る、武器を誇示する男性的な発想なのかもしれない。紺色の市松模様の手作りの袋の、その中身はバトンだけど。刀の代わりにバトンを背負うバトン侍。ちょっと画期的なのではないか。え? 既に似たようなのがあった? ギター? そっかー……。残念!

 盛り上がっているピョンチャンオリンピックなのだけど、それなりにいろいろな競技を眺めていて改めて感じたこととして、カーリングが圧倒的につまらない。思えば初めてこの競技を知った十数年前から、ずっと忸怩たる思いを抱き続けている気がする。カーリングがどれほどつまらないのかと言えば、他人の見た夢の話くらいつまらない。もしかしたら本当に他人の見た夢なのではないかとさえ思う。もちろん世の中に他につまらないものはたくさんあるので、カーリングがこの世からなくなればいい、などとは言わない。あったっていい。しかしオリンピックの競技ではなければいいと思う。一体なにがどうなって、この世界ではカーリングがオリンピック競技になったのか。おそらくパラレルワールドの大抵の宇宙においては、カーリングはオリンピック競技ではないと思う。俺のとこの宇宙ではカーリングがオリンピック競技だぜ、と別のパラレルワールドの住人に話したら、「マジかよ、どんなおとぼけ宇宙だよ(笑)」「じゃあお前んとこの宇宙では麻雀もオリンピック競技なのかよ(笑)」などと爆笑されることだろうと思う。そしてそいつらはふたりとも抜けた陰毛を編んで作った眼帯を左目に着けている。そんなパラレルワールドが大半を占める。

 「もとい」という言い回しがある。言い間違えを即座に改めるときに使う言葉。「屁、もといウンコしたい」とか「目糞、もとい目やにが付いてるよ」という風に使う(用例が小学生)。辞書を開いたところ、もともとは「元へ」という号令から来ているらしいのだが、ぜんぜんそんな気がしない。そんな感触ではなくこれまで接していたので、急に軍隊用語だと言われても違和感がある。イメージ的には、やまとことばとか、あるいは漢語の書き下しとか、なんかそんな感じがあった。それはそれとして、なぜ急に「もとい」のことを確認したかと言えば、この「もとい」という言い回しは、文法とかまったく関係なく、言い換えたい言葉のあとに自由にぶっ込むことができるので、とても便利だ、というレベルを超えて、もはや言語を有するすべての人類が、使おうと思えば使えるのではないかと思ったのである。そうして捉えてみると、「もとい」というちょっと不思議な音が、どこかフランス語のように聴こえてくるのだった。いけるんじゃないか。ワンガリのMOTTAINAIに続くのは、パピロウのMOTOIかもしれない。あの世で待ってろ、ワンガリ!