2019年12月27日金曜日

クリスマス・髪・労働

 クリスマスは平穏無事に過した。
 小学3年生のポルガは、サンタクロースの存在を少し疑いはじめた様子があったものの、なんとか今年も切り抜けた。たくさん本を読んで、親も知らないような知識を仕入れている一方で、サンタクロースが寝ている間にプレゼントを枕元に置いていくという荒唐無稽な話を信じることができてしまう、子どもというのは変な生き物だとしみじみと思う。
 クリスマスディナーのあとはケーキだったのだが、今年はなにしろ12月23日が休みではないし、そして24日は火曜日という、クリスマスを祝うにはあまりにも恵まれない日程であり、ケーキ作りにまったく参画することができなかった。もっとも誰が作っても同じといえば同じで、買ってきたスポンジに生クリームと苺をやる、いつものやつである。ただし毎年クリスマスは6号の上に5号を乗せた豪華なものを作っていたが、今年は6号だけにした。なぜか。学習したからである。わが家はこれから約1ヶ月の間に娘の誕生日がふたつ控えていて、年間スケジュールで考えればあまりにもバランスの悪いケーキラッシュに見舞われるのである。クリスマスはつい浮かれ、またなにより苺のショートケーキへの渇望感が強いので、これまで特大のものを作ってきたが、ここで満足いくほどケーキを堪能してしまうと、1月22日のポルガのときにはもう飽き飽きしていたりするので、今年は自制したというわけである。賢くなったことだ。
 ところでクリスマスケーキを前にして、「えーと、ここでなにするんだっけ?」と途方に暮れてしまったのだが、本当にこのときってどんなことをすればいいのだろうか。誕生日みたいに、「ハッピーバースデー」を唄って、ロウソクの火を吹き消し、クラッカーを鳴らす、という一連の流れがなにもない。あぐねた結果、子どもたちに「「あわてんぼうのサンタクロース」でも唄いなさい」と命じ、唄わせた。そうしたら「あわてんぼうのサンタクロース」というのは、物語仕立てのわりと長い歌で、途切れるタイミングがないため子どもたちは5番までしっかり唄った。素直に唄うなあ、と感心しつつ、(クリスマスイブに「あわてんぼうのサンタクロース」ってこれはこれでちょっと間違えている気もするが、じゃあこれはいつ唄うのがふさわしいのかよく分からない歌だな)などと思った。唄っているところは、ファルマンがタブレットで撮影したように見せかけて、操作ミスで撮れていなかった。大失態だと思った。「これも思い出」と本人だけがやけにいっていた。
 それから子どもたちが寝、しばらくして我々が寝つく直前に、今年も我々にサンタクロースが憑依し、抗うことのできない強い力で、音を立てないよう繊細な動作を取らされ、子どもたちのベッドにプレゼントの袋を置かされた。毎年この自分が自分でなくなる瞬間は緊張する。

 夏の帰省のすぐあと、ファルマンに散髪とヘアカラーを頼み、しかしそのとき使用したヘアカラー剤がすごくよくなかったせいで、髪を短くしたことと相俟って頭髪がやけに頼りない感じになって、しばらく哀しみに打ちひしがれながら暮したのだが、その半月後くらいに髪を黒くしたら悲愴感が払拭され、それからは安らかな心で過すことができていた。もとい、できている。それが9月のはじめで、そしてそろそろ12月が終わろうとしているので、4ヶ月間である。4ヶ月間、僕の頭髪は手つかず状態で、ひたすら安寧の時を過している。たぶん11月に入ったあたりからファルマンには散髪を勧められているのだが、「もう俺の散髪は8月に今年の打ち上げ会したから。今年はもうないから」と言い張って、逃げ続けた。逃げ続けた結果、どうやらこのままめでたく年を越せそうだ。
 4ヶ月間伸ばし続けているとなると、もちろんだいぶ長い。結ぼうと思えば結べるほどである。しかしさすがに結んで外には出ていない。ほどほどの長さのを無理やり結んでも仕方ない。結ぶならきちんとポニーテールができるくらいの長さで結びたい。ただし12月に入ってから、横の広がりを抑えるためにヘアピンは使いはじめている。黒いヘアピンなので、誰にも指摘されたことはないけど(そもそも誰も僕のことなんか見ていない)。
 当人としては、年明け後もまだまだ切るつもりはない。ファルマンはそろそろ焦れてきていて、頻りに散髪を持ちかけるのだが、僕は全力で拒むのだった。それで先日とうとう、「ピイガの卒園式までには切ってよ……」という大譲歩の言質を引き出すことに成功した。これにより1月2月も散髪からは免れられそうだし、これから2ヶ月間も伸ばせば、本当にちゃんと長い髪の人になって、「成立」をさせてしまえて、卒園式もそれで突っ走れるのではないかと青写真を描いている。

 本日で今年の労働が納まった。今年の労働はなんだかふわっとしていた。プライベートが充実していた、といえば聞こえはいい。しかし実際、去年までは一切なかった、労働後のプールや筋トレなんてものを始めたわけで、家と職場以外にそういう場所を持つことができたのはよかったんじゃないかなあと思っている。来年以降も、職場で急に気さくな人格が発動するはずもなく、淡々と労働の日々は続くのだろうと思う。続くならばなによりだ。とりあえず今年1年の労をねぎらいたい。「労をねぎらう」って、労がふたつ続くのだけど、用法として本当に正しいのだろうか。こんなの検索すればすぐに解決する気もするが、そういうことに限って検索しないんだよな。

2019年12月18日水曜日

遊戯・P線・元年

 先日、ピイガの幼稚園の生活発表会が催され、わざわざ有休を取って見にいった。
 生活発表会とはどんなものかというと、要するにお遊戯会だ。なぜお遊戯会といわないのだろうか。やっぱりあれか、桃色遊戯を連想するからか。しかし発表会の会場のドアには、しっかりと「遊戯室」と記されていた。よく分からない。
 内容は、歌とダンスと劇で、なかなか愉しめた。なぜなら我が子が出ていたからだ。そうでなければもちろんぐだぐだできつい。来賓などといって、保護者でもなんでもない教育関係者みたいなのが紹介され、運動会のときも思ったが、子や孫の出ていないこんなものを見なければいけないのって拷問だろうと思う。僕なら絶対寝る。なぜあいつらは寝ないのか。前日17時間くらい寝てきたんじゃないのか。
 あと園長が嫌な感じだった。僕の教師嫌い、学校嫌いの要素が具現化したような人物で、見たり声を聞いたりするだけで往時の気持ちを思い出し、とてもイライラした。卒園式もこの園長のもとでなされるのが嫌だな、と心の底から思った。その園長が、今回「ワンチーム」という言葉を多用していて、そのことにもとてもうんざりした。これまでラグビーに対して好意的な印象があったから気にしていなかったけど、考えてみたらそれは僕が好きな意味の言葉であるはずがなく、園長のおかげですっかり嫌いな言葉になった。それになにより気づいてしまった。「ワンチーム」って、ただの「チーム一丸」じゃないか。

 「G線上のあなたと私」が終わった。3ヶ月、愉しませてもらった。
 連続ドラマなので当然だが、はじめ婚約破棄されて職も失って、どん底状態だった主人公の波瑠は、話が進むにつれて尻上がりにハッピーになっていき、最後は大勢の仲間に祝福されながら中川大志とくっついて終わった。それはとても幸福なエンディングではあったのだけど、この3ヶ月で別にぜんぜん友達ができたりしていない僕は、なんだか忸怩たる気持ちになった。G線上には中川大志と波瑠がいたわけだけど、P線上には僕以外だれもいないらしい。P線上を動く点Pは、行けども行けども誰もいない、山之辺の過した30億年のような果てしない時空を延々とさまよい続けるのだ。ちなみに「G線上のあなたと私」は、別に友達を作ろうという話ではなく、ラブストーリーなので、これを観て友達ができて羨ましい云々なんて感想を持つ人間は、もうどんな話も素直に愉しめないだろうと思う。

 年賀状の印刷をした。いちど危篤状態になったプリンターは、ファルマンの懸命の看病(クリーニング)によって一命を取り留め、なんとかギリギリのクオリティーで今回の年賀状までは務めを果たすことができたのだった。しかし翌年はいよいよダメだろう。
 あと文面のデザインをしていて思ったが、「令和初の年賀状」ということが、世間的にも言われるわけだが、年賀状的にはそれは「令和2年」なわけで、元号の元年の年賀状というものは絶対に存在しないのだった。今回は生前退位だったのだから、本気で狙えばやれないこともなかったはずだが、しかし元日から新元号というのはやっぱりいろいろ大変か。元年の年賀状を生み出すためだけにするにはリスクが大きすぎる。もっとも、天然で「令和元年」と書いてしまう輩は少なからずいるんだろうと予測する。

2019年12月15日日曜日

プール・ナビ・ショーツ

 一家でプールへ行く。12月である。冬のレジャーの選択肢にプールが入るってすごいと思う。1年前では考えられなかった。もちろん空いていた。空いていたが、12月にプールに来ている人たちというのは、スイミングにちゃんと向き合っている人たちというか、「12月だけどプールに来ている人たち」なわけで、なかなかストイックな雰囲気があった。子連れは我々だけだった。とは言えフリースペースは設置されているのだから、物怖じせず使用した。ポルガは前回からさらに、まあまあ泳げるようになった。ピイガは相変わらず、プール中に響くような大声でしゃべりながら遊んでいた。プールって水が振動を吸収するので声が通らず、僕の話し声はファルマンに「えっ?」と3回聞き返されたりするのだが、ピイガの声はなんであんなに響くのだろうか。ちなみにプールはもちろん温水ながら、それでもやっぱりなかなかに寒く(なんといっても更衣室からプールへの通路が寒い)、泳ぎ終えて着替えたあとも、なるべくしっかりと髪を乾かしたのだが、どうしたって寒かった。やはり微妙に無理があるかな、冬プール。ストイックに運動して体が温まるならまだしも。早く暖かくなってほしい。屋外プールが恋しい。

 島根時代に買った後付のカーナビが、データの更新のできないやつで、表示と実態が食い違う場面が散見されるようになり、そもそももう7年近く使っているので、機械として寿命が近づいてきていて、「新しいのを買わなければいけないかねえ」と話していた。もうかれこれ2年くらい、話していた。そんな折、グーグルのナビ機能が便利らしいという話をファルマンが聞きつけ、初めて行く場所に行くとき、使ってみた。そうしたら本当に便利だった。自車の位置とか、こっちのルートなら何分早いとか、渋滞情報とか、こまごまと世話してくれる。こんなのもうカーナビ買う必要まったくないじゃん、となった(業界が心配になる)。
 しかし渋滞情報まで出るってどういう仕組みだろうと考え、そんな誰もがグーグルのナビを起動させて走っているわけでもあるまい、と思ったのだが、別にナビを起動させなくても、端末の位置情報がオンになっていれば、それの乗った車がスムーズに移動できているか、あるいは滞っているかは、秒単位で情報が集約されるわけだ、と気づいた。すごい世の中だ。とんでもない世の中だ。
 そのことに生理的な恐怖を感じつつも、微妙な心境の変化も起った。これまで僕は、タブレットの位置情報は基本的にオフにして使っていたのだけど、自分が必要なときだけグーグルのナビを利用する一方で、そうでないときには情報の提供を拒絶することは、自分勝手な行為なのではないかと思うようになった。美徳というのだろうか。自治会の持ち回りの掃除当番のような、本気で拒めば免除されなくもないが代わりに大事なものを失う、というような、そんな心の作用がここには存在していると思った。つまり発展した情報化社会は、すなわちグローバルな自治会化ということなのかもしれない。だとしたらずいぶん息の詰まる社会だな。まあ実際そうだけど。

 女の子のショーツの、脇の部分が細いのが好みだ。
 考えてみたら不思議な話だ。女性器とか、尻とか、女の子の股間にはいろいろと見たい部分があって、その中で脇の部分はどんなに細くても、それで見えて嬉しいものというのは特にないのだ。なのに脇の部分は絶対的に細いほうがいい。前にエロ小説の作家がインタビューで、セックスは結局のところ、男性器が女性器に入るだけのことだから、そう変わり映えするものではない、だから差異をつけるためには、どういう男の男性器が、どういう女の女性器に入るか、という部分に凝らなければならない、といっていたが、フロントやバックではなく、脇の部分にこだわりたいというのは、つまりそういうことなのかもしれない。ショーツの神髄は脇。これはショーツ界で20年くらい修行して到達できる境地といわれている(可能性がなくもない)。
 ショーツの脇の細さといえば、思い浮かぶのはビーチバレーのことだ。浅尾美和のおかげで一時期みんな注目したビーチバレー。女子ビーチバレーにはかつて、ユニフォームのビキニのショーツの脇の幅は7センチ以下でなければならない、という規則があったという。「規則」という、ちょっと嫌なイメージのある言葉で、これ以上に幸福な内容を僕はほかに知らない。規則でエロが定められているのだ。エロくないとルール違反なのだ。夢物語だ。あるいは宇佐木学園だ。残念ながら現在はさまざまな事情により撤廃されてしまったらしいが(それはそうだろ、とも思う)、しかしこんな素敵な言い伝えが残っている。「ビーチバレーは、強い選手ほど水着が小さい」。どこか「実るほど頭を垂れる稲穂かな」に通じる、徳を諭すような雰囲気さえ漂う。ビーチバレー協会、あるいは業界の、執念を感じる。とにかく、とにかく女の子に、ほぼ裸同然の姿で、動き回ってほしいのだ。これにより、なかなか成績の出ない選手には、「ちょっと水着が大きいんじゃないか」という指導をすることが可能となる。でも実際、水着が小さければ小さいほど、スポンサーがつきやすくなり、強くなれるのではないかとも思う。もしも僕がスポンサーの立場であれば、細い細いショーツの脇に、小さく小さく企業名を入れたい。小さければ小さいほどいい。宣伝効果はばっちりだと思う。

2019年12月12日木曜日

割烹着・今年の漢字(全体)・今年の漢字(ティーン)

 この時期になると朝晩が寒くなり、パジャマの上になにか羽織る必要があり、この10年ほど1着のユニクロのフリースをずっと着ていたのだけど、なぜか今年それが衣替えでサルベージされず、ファルマンに訊ねたら「そう言えばなかった」と無碍にいわれる。なかったってなんだ、ユニクロのフリースは作物か、芋の類か、と思うが口には出さない。「去年の最後、捨てたんじゃなかったっけ」とファルマンは続けていい、そういわれるとそんな気もしてきた。ここ数年、袖のパイピングのほつれを縫ったりして着ていたのだ。そんな状態だったので、衣替えの際に冬物の箱には他の衣類と一緒に戻してもらえず、捨てたのだったか。もう7、8ヶ月も前のことなので覚えていない。
 ないとなると困る。「来年新しいのを買えばいいよ」と当時は気さくに捨てたのだろうが、案外ユニクロになんかそうそう行かないものだ。それでも寒さにあぐねて、仕方なく近所の激安衣料品店でどてらを買った。どてらというものを着るのは初めてだったので、なんとなくテンションが上がった。たぶんコスプレ的な興奮だと思う。冬と言えばどてらだよ、正しいよ、などとご満悦だった。しかしいざ着てみると、重いし動きにくいし、見た目も「なんかぎょっとする」と不評で、ぜんぜんよくなかった。わずか数日で、押し入れに押し込む結果となってしまった。
 そんな折、ファルマンが割烹着を着る習慣というのを始め、そうですかそうですか、うちの女房は割烹着を着ますか、と和やかに眺めていたのだけど、どてらが失敗に終わって着るものがなくなってしまった僕を見かねて、ファルマンが洗い替えの1着を「これを着れば?」と貸してくれた。そして着てみた。そうしたらこれがすごくよかった。冬仕様の割烹着で、外側は吸水性のある綿素材なのだが、内側にフリースが使われていて、ずいぶんあたたかいのだ。そしてもちろん割烹着なので動きやすい。これだよ、と思った。
 なのでここ数日はなんか割烹着を着て過している。そして割烹着を着たまま、筋トレでダンベルプレスなどしている。我ながら得体の知れない生き物だと思う。

 本日、今年の漢字が発表された。「令」だという。令和だから「令」。まあオリンピックだから「金」になるくらい、忖度もへったくれもなく、良くも悪くも純然たる多数決で決定するものなので、だとしたら「令」ということになるだろう。モザイク部分を、薄目で見てなんとなく見えているようにするような感じで、思考において頭をそんな風にして1年を振り返ればじわっと浮かんでくる漢字、それが今年の1字だ。ちゃんと考えたらダメなのだ。ラジオ番組で、「ラグビーの桜と、桜を見る会で、今年は「桜」じゃないか」と言っていたが、それはちょっと考えすぎのパターン。うまいこと言おうとしたら外れるのだ。だから僕はもう予想することさえしないのだ。
 ちなみに「令」の令和以外の用例として、「避難命令」というのは、まあ災害が多かったから納得してやってもいい。しかし「法令改正」はないと思う。これは憲法改正のことをにおわせたくて(含ませたくて)いっているに違いないが、憲法と法令は似て非なるものであり、「令」という1字でいろいろ包括している風にするのは偽装行為といっていい。漢字一字の重み、意味合いの深さ、みたいなものが企画のテーマとしてあるので、どうしてもそういうことをしがちだが、2010年の「暑」で明らかに「熱」の用法も入れてしまった例など、すればするほど、逆に1字の限界を露呈してしまっている気がする。だからもう観念して、「今年の五七五」くらい、創作させるべきだと思う。そのくらい容量がなければ1年を表すのは無理がある。要するに、川柳だ。

 これも今年の漢字に関連するのだが、数日前にラジオで、小中学生に今年の漢字を訊ねた結果が発表された、という話をしていて、その内容に衝撃を受けた。
 結果は、3位が「令」と「楽」。「令」は全体のものと一緒だが、それと「楽」が並ぶのがいかにもティーンらしいと思う。今年の漢字を訊ねられて、「楽しかったから「楽」!」とてらいもなく答えるティーン。ま、眩しい……。
 2位は「新」。ちなみに全体のほうの2位も「新」だった。全体のほうは、元号が新しくなった、というほぼそれだけの意味だろうが、ティーンの「新」はそれに加え、なにしろあいつらは毎年、新入生だったり新2年、新3年だったり、新部長、新会長だったりするので、生活に「新」が横溢しているのだ。ま、眩しい……。
 しかしなんといっても1位だ。3位に「令」が出てしまっているので、1位は別のものなのだ。なんだったと思いますか。ショックを受けますよ。いいですか。いいますよ。1位は……「恋」だそうだ。もう「カハッ……!」と血を吐くくらいの衝撃。新元号とか、災害とか、ラグビーとか、そんなのぜんぜん関係ないのだ。僕たち、私たちにとって、この1年を漢字1字で表すとしたら、そんなの「恋」っきゃないのだ。だってずっと好きな人のことを考えて生きてたもん! 好きな人のことでいつも頭ん中いっぱいだったもん! もん! もん! 悶々!
 なんだかティーンの凄まじさというものを、まざまざと見せつけられた気がする。ティーンとは、こんなにも凄まじい存在だったか。なるほどこれだからセカイ系の物語というのはティーンに支持されるのか、としみじみと納得した。
 しかしいいなあ、「恋」。「あなたにとって今年の漢字は?」と訊ねられ、「恋」と答える。そんな素敵なことってない。僕もそうしよう。今年のニュースを振り返ってうまいこといおうとするとか、いかにも薄汚い大人のやりそうなことだ。そんなのぜんぜんおもしろくない。この問いかけの正解はいつだって「恋」だったのだ。ただし30代の所帯持ちがいう「恋」は、途端になんだか不穏な空気を纏う。く、悔しい……。

2019年12月3日火曜日

流行語・時代・生まれ変わり

 ユーキャンのほうの流行語大賞が発表になる。大賞は大方の予想通り「ONE TEAM」だった。しかし受賞式にラグビー日本代表の選手たちが現れないのは意外だった。わりとサクサクとバラエティー番組に出ているので、けっこう気軽な人たちなのだと思っていた。賞を受け取ったのはラグビー協会の会長だという、初見のおっさんで、なんかこの形になるまでに各所でいろんな話し合いが持たれたのだろうなあ、と思った。僕がノミネート語発表の際の記事で唱えた、去年の大賞でカーリングの選手たちが登壇したので、2年連続でスポーツチームの面々というのはいかがなものか、という面も考慮されただろうか。されるはずないわな。本当に流行語大賞に選ばれた言葉というのは、ギャグに限らず、1年できれいさっぱり忘れ去られるものだ。もう誰も「そだねー」なんて覚えていないし、さらに言えばカーリングという競技そのものもすっかり忘れただろう。そして1年後には、もうラグビーなんてスポーツは誰の頭の片隅にもなくなっているはずだ。
 それにしても大賞のラグビーがそんなだったし、渋野日向子も現れず、「令和」で菅官房長官が来ることもなく、今年は芸人のギャグはノミネートがそもそもなく、「闇営業」で受賞をしたのは宮迫でも入江でもなくFRIDAYの編集長で、選考委員特別賞というけったいな扱いとなったイチローも来るはずがなく、登壇した面々の中でかろうじていちばん喋れそうなのが練馬のスーパーの社長というのは、なかなかどうしようもない受賞式だと思った。来年は芸人のギャグが流行るといいよね。できればコウテイの「ズィーヤ!」がいいな。

 車に自動ブレーキ機能を付けるのが義務化されるらしい。新しく買う車はもちろんのこと、既存の車にも後付けすることになるらしい。詳しくは知らないけど。
 そのニュースを知って思ったのは、「それまでの時代」と「これからの時代」のことだ。これからの時代、日本で販売されるすべての車に自動ブレーキ機能が付くのだとしたら、わりとすぐに、車はいざというときには自動でブレーキが掛かるもの、という認識になることだろう。そしてそれが普通になった世界で、人々はそれまでの時代の無茶苦茶さに驚愕する。「なんと、かつて車には自動ブレーキ機能がなかったんです!」「ええーー!?」という会話が繰り広げられる。そのため老人の運転する車が事故を起しまくり、ずいぶんな数の人が命を落としたというエピソードを聞いて、「む、昔のやること……」となる。我々はそんな風に、麻酔せずに外科手術が行なわれていた、みたいな時代と、同列に扱われる時代に、これまで生きていたのだ。前に読んだエッセイで、「飛行機に乗客全員分のパラシュートを搭載していないのが信じられない。きっと未来人はそれを知って大いに笑うはずだ」という文があった。これはそれだ。

 ピイガがポルガに、
「脳ってなに?」
 と訊ね(その質問もどういうことだ、という話だが)、それに対してポルガは、
「全てであり、無である」
 と答えたらしい。
 台所に立つファルマンが、そのやりとりを目撃したのだった。
 うちの子はいったいなんの生まれ変わりなのだろうか。