2020年2月26日水曜日

オリンピック・カーリング・ヴォルデモード

 コロナ騒ぎが止まらない。サウナでもおっさんたちがコロナの話をしていた。果たしてサウナは濃厚接触的にどうなんだ、という話だが、そこはまあ熱気でウィルスもやられるんじゃないの、よう知らんけども。
 大型イベントは軒並み中止や延期で、とうとう7月のオリンピックの開催可否まで取り沙汰されてきた。最初はTwitterのデマだったのに、なんかここ10日ほどで話がまことしやかなものになってきている感がある。えらいことだ。もう東京オリンピック、本当につらい。シンボルマークのパクリ疑惑とか、新国立競技場のデザイン変更とか、ここまでで既に数多の、どさくさ紛れのひっちゃかめっちゃかがあったというのに、それでもいよいよあと半年でこのうんざり感満載の狂騒ともおさらばだと思っていたら、誰も予想していなかった方向から、リアルに「開催できないかも……」と来た。あんまりだ。あんまりに苦難が多すぎる。野島伸司のドラマか、と思う。それでも開催されれば、「なんだかんだでよかったよかった」となるのだろうが(それはそれでひどい話だが)、これで本当に開催地移転とかになったら、日本はこの7年間くらい、別に出さなくてもよかった恥部をひたすらさらけ出しただけ、ということになる。むなしい。

 大相撲の3月場所が無観客試合になるかも、という話もあり、「笑点」が公開収録中止になったのと同じで、客層が客層なのだから、それはぜひそうしたほうがいいと思うし、この分だと実際そうなる気がするが、それはそれとして、昨日開幕したカーリングの日本ミックスダブルス選手権について、札幌で行なわれているこの大会が無観客試合になった、というのを今朝ニュースでやっていたのだが、それは別にいいだろ、と思った。平日のカーリングの試合である。誰が見るんだ。地球上に7人くらいだろ。観客席カスカス。濃厚接触なし。ああカーリングが憎い。

 コロナ騒ぎで人々がパニック状態となり、もちろんファルマンもパニックになっている。ここ数日で多少は落ち着いた感があるが、10日ほど前あたりはひどかった。昔なら「疫病が流行っているらしいから気を付けよう」でしかなかったものが、現代は情報を得ようと思えば、本当に情報と呼べるものから単なる噂話まで、無尽蔵にいくらでも得ることができてしまうので、頭の中をそれで満杯にしてしまうことが可能で、だから簡単にパニックになるのだと思う。そのうえ閲覧されやすい、リツイートされやすい、すなわち引きのある情報というのは、得てして恐怖心を煽るものであるため、なおさらだ。そしてこの状態になった人と、なっていない人は、完全に別の世界を見ているので、共同生活に齟齬を来す。一方は過敏さを厭い、一方は意識の低さを厭う。だからなにもスムーズに事が運ばなくなる。
 この思いを抱くのは2度目だ。1度目はもちろん東日本大震災の放射能のときである。もっとも放射能とウィルスはぜんぜん違う。放射能に対して人間は(物質は)無力だが、ウィルスはそうではない。健康にしていたら防御効果があるし、もとよりそれ以外に対抗策はない。だから、思いわずらうのが最も悪い。ヴォルデモードという絶対的な悪もおそろしいが、その悪に対するスタンスの違いで対立や排斥をする魔法界もまたおそろしいのである。
 こんな思いを、これからの人生でまだ何度もするのだろうか。そのうち、こういう社会情勢になったときの妻の操縦テクニックも上達するのだろうか。今回、2度目なのにまるで上達していない自分をふがいなく思っている。

2020年2月13日木曜日

映画ハリポタ・よきも・Google

 映画版「ハリーポッター」を、先日最後まで観終えた。観終えた、のだと思う。微妙にあやふやなのは、話の展開がとにかく駆け足だったことと、あと「謎のプリンス」あたりからあまりにも画面が暗かったため、映像を観ているわけではないような気になったからだ。本当に暗かった。もとい、黒かった。黒い画面の中に、少しだけ灰色の部分があって、それが移動することでどうやら人か物が動いているようだと類推する、というような、そんな有様だった。それくらい暗い画面なのだった。ヴォルデモードの復活によって魔法界に暗雲が立ち込め、誰もが絶望感でいっぱいだ、というのは解る。でもその絶望感を、画面の暗さで表すのはどうなのか。小説でいうならこれは、怪談などでおなじみの、なんという名前のフォントかは知らないが、血で書かれたみたいなあれ、あれをしかも赤で記したようなもので、そんな用立てをしたらなんだって怖くなる。たとえば二次元ドリーム文庫だってホラー小説みたいになるだろう。話のイメージでフォントを変えること自体は卑怯でもなんでもないが、やり過ぎると反感が生まれる。「内容で勝負しろよ!」とツッコみたくなる。映画版「ハリーポッター」の暗さはまさにそれだった。暗すぎて、曇りの日の夜空の環境映像でも観ているような気分だった。あと白人の少年(青年)たちがみんなあまりにゴツくなってて引いた。

 カッティングマシンを購入してから、オリジナルTシャツ作りをしている。このブログのちょっと前の記事で、クラTについて書いたが、それももちろんこのあと始まるオリジナルTシャツ製作のことを念頭に書いたものなのだった。
 当該の記事では、実際に製作されたクラTを部外者にも販売してくれないだろうか、という話をしたが、いまの僕ならば、購入せずとも作れる。なにをか。クラTをだ。僕はいま何年何組でもないし、学校祭を控えているわけでもないが、しかしクラTを作る設備はある。あってしまうのだ。だから本気で作ろうかとちょっと考えている。デザインの中に30人あまりのクラスメイトのファーストネームを列挙し、その中に自分の本名もこっそり混ぜるのだ。本当は自分の名前以外は全員女子がいいのだが、それをやると一気にリアリティがなくなるので、男女比は半々にする。ところでお前、36歳なんだから生徒じゃなくて担任ポジションだろう、という意見もあるだろう。クラTを作ったことがないので詳しくは知らないが、たしかにクラTには担任の名前も入っていたりする。鈴木先生の場合、「鈴木組」なんて記されたりするんだよね、よく知らないけど。まあそれも悪くない。それなら生徒の名前は全員女子でもよくなってくるし(夢が膨らむ)。
 そしてそれを実際に作り、実際に着て街に出たとき、ぜんぜん見たことがない知らない若者が、「えー、めっちゃ懐かしい!」「ちょっとなんでクラT普通に着てんの?」などと次々に話しかけてきたら、世にも奇妙な物語みたいだな、と思う(血で書かれたみたいなフォント)。

 Googleで検索して情報を得ることが、同時にgoogleに情報を与えることでもあり、Googleに携わった人生の1コマ1コマが、僕の人生の一部であると同時に、Googleにも保存されて、つまりGoogleにはほんの少しだけ僕が含まれているといえ、それはGoogleを使ったことのあるすべての人類に共通していえることで、これってなにかに似ている、となって記憶をたどれば、それは「火の鳥」の未来編で30億年生きた後、火の鳥の一部になった山之辺の姿なのだった。火の鳥の中には、タマミをはじめとするすべての生命がいて、そのすべてが、ひとつなのだった。これととてもよく似ている。だとすればGoogleとは、宇宙生命(コスモゾーン)なのかもしれない。僕が死んでも、僕はGoogleの中に生き続けるのかもしれない。

2020年2月4日火曜日

乗り物・顕微鏡・ブラトップ

 ポルガに「いまいちばん乗りたい乗り物はなに?」と訊ねられ、悩む。乗りたい乗り物……、あまり考えたことがないテーマだ。飛行機、新幹線、船、バイク、どれも別に乗りたくない。目的地にもよるけれど、その移動手段にこだわりはない。なので本当に思い浮かばない。それで仕方なく、「ポルガは?」と訊き返したら、「タイムマシン!」という答えが返ってきて、えー、となった。乗り物としてのタイムマシン、ちょっと答えとしてずるくないか。ポルガのそれは間違いなくドラえもんのイメージでいっているわけだが、同じくドラえもんの中に、タイムベルトという道具も出てくる。これは機体に乗らない、ベルトタイプのタイムマシンである。タイムマシンに乗りたい、という願望は、要するに時間旅行がしたいという願望であり、ならばタイムベルトでもことは済む。その事実が証明するように、乗りたい乗り物という問いにタイムマシンと答えるのは、なんとなく真摯ではないと思う。その次に、横でこの会話を聞いていたピイガが、「ピイガはブランコ!」といってくる。バカでかわいい。バカでかわいいが、その答えも果たしてどうなのか。ブランコは、たしかに乗るけれど、乗り物ではなく、遊具だろう。これもまた質問に対する正面からの答えになっていない。挙げ句の果てには、「ちなみにお母さんはベッドだって」とポルガが告げてくる。ベッド! こいつがいちばん阿呆だ! と震撼する。あまりにひどい答え。乗り物という括りのお題に対してベッドという答えもえげつないし、そもそも生命体として、いちばん乗りたい乗り物を寝具と答えるその気概がよくない。膝から崩れ落ちそうになった。俺だけ真面目に、飛行機とか船とかに思いを馳せたのに、俺以外の家族3人とも、ぜんぜんまともに答えねえじゃんかよ……。こんなことならば9歳の娘からのその問いかけに、「女!」と即答すればよかった。

 ポルガの誕生日に顕微鏡をプレゼントした。別に勉学に役立つものでなければ与えない、などといったわけではなく、本人のリクエストである。それで繊維を見たり、葉っぱを見たり、さらには公園の池からちょっと水を掬ってきて見たり、先日からいろいろしている。しかし750倍までできるという触れ込みの製品なのだが、なかなか高倍率で焦点を合わすのは難しく、四苦八苦している。池の水は、藻の生えているあたり、いかにも微生物がたくさんいそうな所のものを採取したので、低倍率で見たとき、たしかになにか動いているものはいたっぽいのだが、高倍率ではてんで捉えることができず、そのため顕微鏡を覗いて、動き回る小さな生き物の姿を見て「うおおっ!」となる感動はまだちゃんと味わえずにいる。
 もちろん、これを味わうための最善策は初めから分かっているのだ。細かい無数のものが蠢いていることは確実(ウェブで検索したところ、400倍程度で、頭と尻尾のあの形がちゃんと確認できる模様)で、感動もいろんな意味でもれなく付いてくる。ちなみに顕微鏡を発明したレーウェンフックは、すなわち人類で初めてこれの姿をちゃんと見た人間だといわれているらしい。プレパラー射すれば、簡単にこの願いは叶う。プレパラー射……。
 しかし娘にやったプレゼントの顕微鏡でそれを見るというのも、ちょっと気が引けるというか、もちろん娘に見せるわけにもいかないし、ジレンマだな、と思っている。

 居間にいつもファルマンの肌着が干してあって、よくぶつかったりするので、そういえばなんでこれはいつもこうして1枚だけ干されているのか、と訊ねたら、「これは下着だからだ」という答えが返ってきた。そういわれて見てみたら、なるほどただのいわゆるババシャツではなくて、胸の部分にカップが入っている、ユニクロのブラトップというやつだ。これでブラジャー要らず、という例のやつ。ブラジャー要らずなので、つまりブラジャー代わりであり、そのため下着である、という論理であるらしい。だからショーツ類(それはそれで子どもらのものも含めて小型のパラソルハンガーに吊るして室内に干している)と同じく外には出せないのだ、と。その論理そのものを否定するつもりはないが、それはあくまで着用する女性側の考え方で、女性が下着類を外に干さない理由であるところの、他者(主に男)の目からすれば、ユニクロのブラトップは、ぜんぜんブラジャーの代替にはなっていない。ブラジャーで得られる情趣を、われわれはブラトップからはひとつも受け取らない。どんなに好色な下着泥棒でもブラトップは盗らない。ブラトップというのはそういう存在だと思う。だからお前、安心して外にお干しよ、と諭して以降、わが家で歩いていてブラトップにぶつかることはなくなった。めでたしめでたし。