2021年6月15日火曜日

マスク・ボタンホール・車

 先日、結局は大事に至らなかったのだけど、喉が掠れる感じがあり、それは子どもたちが例のごとくどこかから持ち帰った風邪を、例のごとく順繰りにこなした直後のことだったので、ああやっぱり避けきれなかったか、と暗い気持ちになりながら、マスクをして眠ることにした。しかしマスクを着けて寝ようとしても、寝て肉体が本能に支配されると、どうせすぐにマスクは取ってしまうのだよな、と思った。思いながら寝た。そして数時間後に起きたところ、口元にマスクがそのままの形で残っていたので驚いた。ああ、もう体が、本能が、マスクのことを異物として捉えなくなったのだ、と思った。人類の、何十何百何千年の蓄積ともいうけれど、案外その一方で、1年くらいでがらりと変わることもいっぱいあると思った。

 ファルマンにブラウスを3着作り、基本的には軽快に作業を行なったのだが、最後に気の重い工程があって、それはボタンホール作りである。ボタンホール縫いは家庭用ミシンを使わねばならず、しかもそのミシンが、機能的にもともと頼りないのに加え、近ごろは寿命的な息切れも感じさせはじめてると来ては、スムーズに済むはずがなく、案の定おおいに難航した。特に困難なのは、襟とカフスの、生地が厚い部分の縫いだ。途中で糸が切れたり、送り歯が止まったり、何度も失敗を繰り返す。そして何度も失敗すると、生地がだんだん力なくなってくるので、ますますくしゃくしゃになりやすくなるし、なにより仕上がりに影響してくる。とにかく嫌で嫌でしょうがないのだった。それで苦労しながら、ああ、もっとボタンホールを縫うのが得意なミシンが欲しい、と心の底から思う。そこで検索してみたところ、そういうことを謳っているミシンは、普通のものよりちょっと高くて、7万円くらいしていた。7万……、ボタンホールのために7万……、と逡巡する。それにしたって失敗が続く。縫える気配がない。もう嫌だ。ほどくのに時間ばっかり掛かる。かといって7万のミシンをポンとは買えない。どうしよう、どうしよう、と悩んだ結果、もういっそのことこれでいいじゃねえか、とひらめく。すなわち、最後に開ける予定の穴の印の周りを、工業用ミシンで5周くらい縫うのである。毎周、少しずつずらして、太いステッチになるような感じで、穴を開ける部分を囲う。そんでもって穴を開ける。なんでえ、これでよかったんじゃんか、と思った。工業用ミシンでならば、正確に印を囲んで縫うことができるのだ。これで十分に、ボタンホールとしての要件は満たす。どうも「ボタンホール縫い」という言葉に縛られ過ぎていたようだ。縫製が終わったあと、家庭用ミシンを引っ張り出してきて、にっちもさっちもいかないボタンホール縫いをするという作業がなくなったことで、服作りに挑む気持ちがとても軽くなった。とても嬉しい。

 ファルマンがとうとう免許を取るということで、5月の終わりごろに、車の購入の手続きをした。車がなければどこにもいけないこの地域で、ファルマンが行動をするために免許を取ったわけで、車がもう1台なければどうしようもない。なので買うほかない。これまでのMRワゴンを主にファルマン用とし、主に僕用として新しい車を買うことにした。そしてどうせ買うならば、やっぱり軽というわけにはいかず、普通車、それも実家の近くに住んでいるということを思えば、いざというときにもう少し多く人が乗れる車のほうがいいのではないか、などと考え、かといってワゴン車ほど大仰なものはさすがに嫌なので、まあ現代においてこのあたりの希望を持つ輩というのは、ほぼ二択、ホンダのフリードか、トヨタのシエンタのどちらかを選ぶことになるわけで、どちらにも試乗した結果、わが家は前者を選んだ。「ちょうどいい」のやつ。かつてCMに東出昌大が出ていたやつ。納車はまだなのだが、試乗した感想として、軽自動車の世界の、愛嬌などの尺度とはまるで異なる、どこまでも実用的な車で、完全に語彙が喪失してしまっているが、これは「車」だなー、ということを思った。この「車」さを前にしたら、軽自動車ってあれ、もしかしたら本当は車じゃないんじゃないかと思えてくるほど、実に「車」だった。僕はこれから、やっと「車」に乗るのかもしれない。車って、そうか、車なんだな、と新しい車観が啓けた。納車が愉しみ。

2021年6月14日月曜日

みょうが・インスタ・直角二等辺三角形

 先日、今日のメニューは天ざるうどんだな、と心に決めてスーパーに行った際、ふと目に入ったみょうがを、なんとなくカゴに入れた。これまでいちども口に入れたことがなく、味の予想もつかなかったのだけど、絶賛する人は絶賛しているし、なんとなくだけど俺もそろそろみょうがの年齢になったのではないか、と思ったのだ。
 それで薄切りにして、青ねぎやしょうがとともにつゆに浸し、麵を啜ってみたところ、ファルマンと目を見合わせ、互いに目を丸くするほどに、それは衝撃的に絶妙な味で、ねぎと、青じそと、しょうがの、いい部分だけをひとつの肉体の中に内包させたかのような、マッドサイエンティストが生み出した悪魔のごとき食物だと思った。こんな、人類にとって都合のいい食べ物が、この世にあるのかよ、と震撼した。もうみょうがなしでは冷麺を食べられない体になってしまった気がする。
 それくらいおいしかったのだけど、とはいえ、これまで俺はどうしてみょうがを食べずに生きてきたのか、という後悔はまるでない。これまではみょうがを必要としない人生で、これからはみょうがを必要とする人生という、ただそれだけのことだからだ。この考え方は、みょうがが教えてくれたが、みょうが以外の事柄にも応用できると思う。みょうが人生訓。人生に大事なことはすべてみょうがが教えてくれた。

 ヒットくんオリジナル生地で作ったトートバッグが、本当にたくさん売れてほしいので、販促活動の一環として、インスタグラムを始めようと思い、アカウントを取得した。しかし取得したものの、記事はまだひとつもアップしていない。なにをどうアップしていいのか、さっぱり分からないのだ。思えばTwitterに関しては、始める前から一応の予備知識はあった。別に誰かのTwitterを熱心に読んでいたわけではないが、それでもインターネットをしていたらTwitterの画面というのは自然と目に入ってくる。そのため、ああいうものだな、ああいう文脈のものだな、というのが判っていた。しかしインスタグラムにはそれがまるでない。これまで、目に入ってきたことがない。「インスタグラムで話題」というウェブ記事は頻繁に目にするものの、インスタグラムのページそのものは見たことがなかった。本当にセンサーに引っ掛からなかったのだと思う。
 アカウントを取得すると、まず「おすすめ」として、芸能人とかのアカウントが列挙され、それらをボタンひとつでフォローできる。もちろんするはずもない。芸能人に限らず、僕は別に人の情報なんか欲しくないのだ。僕はただ、自分の作ったトートバッグの販促活動がしたいのだ。しかしSNSにおいて、情報というのは決して一方通行には進行しない。動脈と静脈のように、循環することによってようやく巡るようになっている。フォローしない、つながらない人間の放つ情報は、本当に誰の目にも届かない。本当にだ。なぜならそこには光がないからだ。光がなければ物は見えない。光とはすなわちつながりの関係性だ。世の中はいま、そういうことになっている。ブログ→Twitter→インスタグラムと、どうもこの順番に、その度合は濃くなるように思う。インスタグラムを始めて、誰のこともフォローしていない僕はいわば、「どろろ」の最初の状態のようなもので、ここから仮にいろいろな人をフォローして、つながりを持っていけば、手や足が手に入り、人間らしくなっていくことができるという、どうもそんなような世界観のようだ。厳しいな。
 スマホで「インスタグラムの愉しみ方」などで検索をかけ、出てきたページを必死で読んだりするが(やっていることがあまりにもおっさんらしい悲哀に満ちている)、読めば読むほど、いったいなにがおもしろいのかさっぱり解らず、途方に暮れる。画像と、短文と、ハッシュタグで、だからなんなんだ。他人のそれが、なんなんだ。もうおととしになるか、タピオカドリンクの写真を撮って、インスタにアップして、飲まずに捨てる輩が多くて社会問題になったりしていたが、実際にインスタグラムのアカウントを取得したことで、ますますこの話が奇異に思えてきた。タ、タピオカドリンクの写真……? いったいそれになんの価値が……?
 こんなに情趣が解らないのに、とにかく物を売りたくてとりあえずアカウントを取得してみるだなんて、まるで中小企業の役員のようだと思う。「なんか、あれだろ、若者は、ほら、エスエス……? エスエヌ……? なんかそういうので、すごく話題になるんだろ? あれやってみろよ。まずそういう行動をしてみることなんだよ」みたいな。完全にそれ。

 トートバッグのマチは5センチなのだけど、マチを縫う前のアイロンというのが、微妙に面倒臭い。片側にズレると不格好な三角になり、出来上がりのバッグの形も歪んでしまうので、けっこう気を遣う。最初に作った3枚(すぐに完売してしまった)は、それでもいちいちものさしを置いて、微調整してアイロンを当てたのだけど、今後さらに量産していくにあたり、どうすれば効率化できるか考え、ゲージを作ることにした。アイロンに耐える素材で、欲しい大きさの三角形を作り、それを布にピッタリ当てることで、一発で求める形の三角形を作り出すという寸法だ。
 それで、どういうゲージになるかということを頭の中で考え、下の辺の長さが5センチの、二等辺直角三角形ということだよな、と思う。そこまでは考えられた。でもそこから先がさっぱり解らない。一辺が5センチだとして、同じ長さとなる残りの二辺の長さはなにか。そして三角形の高さはなにか。まさかこの年になって、生活の中でこんな三平方の定理的な、サインコサインタンジェント的なことで頭を悩ますとは思ってなかった。
 考えても分からないので、試験問題ではない特権で、方眼紙に5センチの直線を引き、目的の直角二等辺三角形を切り出す。その形さえ手に入ればそれ以外の情報は別にいらないのだが、いちおう測ったところ、残りの二辺の長さは3.5センチとなり、そして高さは2.5センチだった。こうして測ってから気づいたが、5センチの下辺を合わせてこの三角形をふたつくっつけたら、対角線が5センチとなる正四角形になるわけで、そう考えたら高さが2.5センチなのは自明の理だった。さらにいえば、その正四角形の1辺の長さは3.5センチなので、面積は12.25平方センチとなり、これって対角線の5センチを2倍にした数字の半分だけど、そういう法則でもあるのかしら、と思って検索したら、「四角形の面積は対角線の二乗÷2」なのだそうで、大正解だった。僕は十代の頃、戦争がひどくて学校に通えなかったから、こういうことをまるで学ぶことができなかったのだけど、こうして自分で必要に迫られて考えると、とてもおもしろいもんなんだな、と思った。