2019年9月25日水曜日

不二子・チョコ・MD

 体重が増えない。春からの肉体改造で、身体は明らかに締まったのだけど、贅肉が落ちたのか筋肉がついたのか、判断に悩むところで、と言うか体重が3キロから4キロ落ちたことを考えれば、前者の要素のほうが大きいように思え、ならばここからは筋肉をつけるほうに励もうと、食べる量を意識的に増やしたりしているのだけど、いっかな増えない。これはなぜかと考えて、僕の「増やした食事量」は、一般男性のそれよりもまだ少ないからなんだろうと思った。一般男性って本当にやけに食べる。大盛りとかおかわりとかする。信じられない。どういう生き物かと思う。僕の増やした食事量の内訳は、夕飯のごはんをちゃんと盛るようにしたことと(それまでは半分くらいにしていた)、勤務中に鈴カステラをつまむようにしたことである。こんな涙ぐましい努力をしているのだから、ちゃんと筋肉がついてほしい。ちなみに167センチ、50キロというのは、峰不二子とまったく同じ数値らしい。ルッパァーン。もっとも向こうのバストは99,9センチらしいけども。

 1月と4月に誕生日がある妻子に対し、9月という僕の誕生日は、個人で苺を手に入れるのは不可能な時期で、そのため手作りの誕生日ケーキは、ほぼ毎年チョコレートのものになる。そしてそれはどうしたって白いクリームに赤い苺が乗っているものよりも地味なので、毎年若干の忸怩たる気持ちを抱いていた。しかし今年は茹だる夏が終わってのチョコレート欲求の高まりと誕生日祝いが、タイミング的にちょうど合致したようで、チョコレートケーキ以外ないような心持ちでそれを迎えられ、引け目を感じることがなかった。チョコで嬉しいと本当に思えた。苺の旬からは遠く離れた誕生日だけど、僕の誕生日というのはチョコレートの旬の時期なのだと見直した。

 グレタ・トゥーンベリさんの演説が話題となっている環境問題。国対国じゃなく、既得権益世代対次の世代という図式が新鮮だ。でも考えてみたらこの問題というのは、そもそもそう対立すべきだったのだ。おじさんとおじさんが議論しても始まらなかった。だっておじさんたちは50年後にはいないのだ。トランプ(73歳)なんてもっと早くいなくなる。よく考えたら怖い。73歳の人は、環境問題なんてマジでどうでもいいだろう。じゃあ最強じゃないか。そんなわけで世界中で若者たちが立ち上がり、デモなんかをしているそうで、若者すげえなあ、と思う。今回の問題の、おっさんvs若者の図式における、35歳~45歳くらいの、この宙ぶらりんな感じ。既得権益の恩恵に与ってない(それどころか搾取されてる)のに、次世代の当事者として積極的に怒るにはまあまあトウが立ってしまっている。なんか、ポジション的にすごくどうしようもない。我々はモーレツでもなければ、デジタルネイティブでもないのだ。とても久しぶりに「MD世代」という言葉を思い出した。ちょうど頭文字的にも具合がいい。無気力ではない・どうでもいいや、が原義だが、モーレツでもなければ・デジタルネイティブでもない、もここに加えよう。

2019年9月19日木曜日

十二・蹴伸び・旅路の果て

 ハリーポッターを読み終えて、次は十二国記だ、でもその前にちょっとエロ小説を補給しておきたい、という感じで推移していた僕の読書なのだけど、実は先週の3連休あたりからひっそりと、いよいよ十二国記に取り掛かりはじめた。そして今は「風の万里 黎明の空」を読んでいる。それのもう上巻が終わるところだ。読みはじめると、なんてったって十二国記なので、ぎらぎら読んでしまい、計画に狂いが生じてしまった。この再読を、そのまま10月に発売される新刊へとなだれ込ませるつもりだったのに、約1ヶ月後のそれよりも、この分だとはるかに早く既刊を読み終えてしまう。もういまさら止まれないのできっと最後まで読んでしまうが、けっきょく間が空く。再読の意味がない(ないことはない)。さらに言えば、新作は全4巻で、1・2巻は10月、3・4巻は11月刊行なのだそうで、だとすれば読むべきは4巻出揃った11月だということになり、ますます間が空く。完全に見誤った。でも再読おもろー。十二国記がグイン・サーガみたいに100巻くらいあればいいのに。

 夏の屋外プール時期が終わり、浮足立った季節に別れを告げて、1年中やっている、春先から行くようになった、いつもの温水プールに舞い戻っている。ここは通勤ルート内にあるので、なんてったって気軽である。定宿、という感じがする。ちなみに月会員にはなっていない。会員になると、元を取ろうとして、週に2回とか3回とか行くようになり、そうなると疲れが蓄積してあんまり泳げない、という本末転倒な事態になるため、1週間とか10日に1回、泳ぎたい欲求が高まったときに代金を払って思う存分に泳いだほうがいい、と気づいたからだ。それで先日、ちょっと久しぶりに行って、1キロくらい泳いだのだけど、これが思っていたより楽だった。これは肉体疲労が溜まってなかったこともあるが、やっていて気づいたのだけど、夏の間に行っていた50メートルプールと、こちらの25メートルプールだと、同じ1キロを泳いだとしても、前者では50メートルごと、後者では25メートルごとに壁から蹴伸びして進むため、腕を回してバタ足をして、という全身運動の泳ぎをしている長さは、実はだいぶ違うのだ。50メートルプールだと、50メートル中43メートルくらい泳ぐのに対し、25メートルプールの50メートルというのは、実質35メートルしか泳いでいない。そりゃあ楽なわけだ、と思った。

 明日は9月20日。1年早い。去年の「友だち0人・9月20日」からもう1年か。
 1年前に較べて、精神はとても落ち着いている。なにしろ去年はLINEを始めて最初の誕生日だったから、期待値が高かった。「LINE×誕生日=爆発的なお祝い」みたいなイメージがあった。勘違いだった。友だちの絶対数が少ないのに爆発が起るはずがない。起ったのは0の爆発という、哲学のような現象だった。
 今年はそれに加えて、「僕等は瞳を輝かせ、沢山の話をした」が、第一部終了宣言したまま5月から投稿がないことが示すように、これまでメンタル方面にしか向いていなかった自己愛が、折からの肉体改造によってフィジカル方面にも及んだことで、いよいよ自己愛が天井知らずに溢れ返っているため、もう他者なんて僕の世界にぜんぜん必要なくなり、だから誕生日の祝福を求める気持ちなんかも完全に雲散霧消した。雲散霧消してみれば、字の通りで、心は晴れ渡っている。とてもクリアで清々しい気持ちだ。そうか、友達とは、他者とは、雲であり、霧であったのかと、達観する。
 これまでの僕ならば、ここまで前フリをして、最後の一行で、「でもいちおう明日は会社にタブレットの充電器を持って行っとかないとな!」なんてことを書いたりしたのだろうけど、今年は本当に大丈夫。本当にジタバタする気持ちが起きない。誕生日は、僕のもの。愛しい僕を、愛しい僕が祝う、それだけのもの。ようやくたどりついた。

2019年9月10日火曜日

玉・♂♀・黒

 悟空さのドラゴンボールはふたつでも立派な神龍そそり立つだな
という短歌をTwitterで詠んだのだけど(ちなみにTwitter上では「そびえ立つ」だが、あとになって「そそり立つ」を思いついた。Twitterのいちどアップしたものは修正できないのって、潔くていいと思う)、原典の単行本を読んでいたら、最序盤、ブルマに半分騙されながら一緒にドラゴンボール集めの旅に出ることになった悟空が、寝ているブルマの股間に男性器がないことに驚き(悟空はそれまで女を見たことがなかったのである)、「タマがねえ!」と叫び、それを聞いて飛び起きたブルマが、慌てて持っているドラゴンボールを確認し、「ちゃんとあるじゃない」と安堵する、というシーンがあって、ドラゴンボールと金玉を掛けたジョークは、本人がとてつもなく早い段階でやっていたのかよ、と驚いた。驚いたけど、ドラゴンボールの序盤はブルマと亀仙人とウーロンあたりを中心に、ちょいエロ路線がけっこう散見されるので、だとすればそこを掛けないはずもないのだった。そのあと読み進めたら、悟空たちが持っているはずのドラゴンボールが見つからなくて探すピラフ一味の、あの手下の女が、「あの男のマタのあいだにあったりして……」とも言っていた。予想以上に鳥山明は金玉をいじりまくっていた。

 ♂と♀の記号を、長年取り違えていたことに気づいた。いまどきあまり正式な場では使われないもののような気がするので、取り違えていても問題が起らなかった。
 なぜ誤解していたのかと言えば、そもそも僕は♂を、♀と同じように丸が上、矢印が下向きという角度で(なぜか)捉えていて、だからその矢印の部分を、女性器の割れ目を表しているとばかり思っていたのである。そして♀の、プラスみたいな部分は、陰嚢と陰茎を表していると、信じて疑わなかった。それで、なかなか洗練された象形文字だなあと思っていた。まったくの見当違いだし、そもそも逆である。
 逆らしい、ということが分かってからも、別に象形文字でもなんでもない、という知識は同時には入ってこなかったため、それはそれで自分の中で折合いをつけた。♀の、プラス部分は、じゃあ子宮の形なのだな、と思ったし、♂(これの正しい角度もようやく認識した)の、矢印は、言われてみればちんこ以外の何物でもないな、しかしだとしたらなかなか元気のいい角度だな、と思った。
 実際は、♂は火星、♀は金星を表す占星術記号だという。だという、と言ったが、ぜんぜん説明になってないので、右から左に通り抜けてしまうタイプの知識だ。それよりかは、子宮と勃起のほうが理解しやすい。勃起を矢印で表すのは小粋だと思う。

 髪を黒くする。
 夏休みの終わりにやったヘアカラーが、色合いの売り文句につられて、いつもと違うメーカーのものを使ったら、いつものよりもちょっと高かったにも関わらず、どうにも最悪で、色はほとんど変わらなかったし、どちらかと言えばまだらになったし(作業してくれたファルマンによると、とても使いづらかったらしい)、なにより髪が傷んだ。同時に髪を短くしていたこともあり、なんかすっかり頭髪に関して気持ちがしょげて、この1ヶ月ほどを過していた。そんな折に、デジカメで撮った写真をセレクトして現像に出す、1年半にいちどくらいする作業をこのところファルマンが行なっていて、それで選ばれたものを眺めていたら、1年半くらい前の僕は髪が黒くて、そしてそれが、案外いい感じだったのである。それを見ていたら、結局また単なる傷んだ茶髪でしかなくなった今の髪が、急激によろしくないもののように思えてきて、それですぐに黒髪戻しを買って帰った。そしてやってもらった。結果、我ながらすごくよくなった。これまで、髪は短くなるし色もしょぼくれてるしで、頭部にだいぶ悲愴感があったのだが、それが一気に払拭された。パリッとした黒髪になったことで、ボリュームも出た。よかった。ああよかった。もう当分はこれでいこう。黒髪に染めたものはカラーリングできないらしいし。そして1年くらいしたら、めっちゃすごいブリーチをしよう。

2019年9月5日木曜日

ドラゴンボール・石田ゆり子・男根

 なんとなくはじめたドラゴンボール短歌がことのほか愉しいこともあり、やっぱりドラゴンボールの単行本が手元にあるといいな、という機運がにわかに高まり、ネットの古本屋でぽつぽつと集めていくことにした。それで最初の数巻を手に入れて読んだ結果、あることに気づいた。
 それは、鳥山明は「修行=重いものに耐えること」だと思っている節がある、ということだ。既に先のほうの巻を読んでいるので知っているが、悟空はこれから、重たい道着を着たり、重力の強い環境に身を置いたりする。すると、それから解放されたとき、めっちゃ強くなっているという寸法である。それらのエピソードは有名なので覚えていたが、今回はじめのほうを読んだところ、亀仙人による修行においても、重たい亀の甲羅を背負っていた。そして、修行の内容というのはほぼそれだけなのだった。そのまま天下一武道会に出場することになった悟空とクリリンは、「ほとんど修行をつけてもらってないのに……」と不安がるが、やってみたら桁違いに強くなっていたのだった。なぜか。それは重いものに耐えていたからだ。本当にそれだけなのだ。「ギャグマンガ日和」の、強さのインフレをテーマにした漫画で、主人公がどんどん化け物じみた(外見的にも)強さになっていき、その秘訣を訊かれたところ、「飲尿法」と答えるというのがあったが、あれはそのままドラゴンボールだったんだな。鳥山明は重いものを持つトレーニングに、ちょっと幻想を抱きすぎているのではないかと思った。

 石田ゆり子のインスタが炎上した一件にとても感銘を受けた。
 石田ゆり子はインタビューを受ける際、インタビュアーが彼女のインスタグラムで予習をして、その流れに乗った問答をするのが、おもしろみがなくて嫌だ、みたいなことを書いたらしい。それで炎上して、記事を削除した。ここまでならごく普通の出来事(炎上という出来事が普通であるというのは異常である)なのだけど、この一件はここからがよかった。当該記事を削除したものの、釈然としない気持ちを抱えていた石田ゆり子は、新たに自分の考えを主張するための記事を書いたのである。そこには、インタビューは人と人の出会いなので、その場その場で生まれた感情でやりとりをしたいと考えている、みたいなことが書かれていたそうで、そのことは別に、そもそも僕とは無関係なのでどうでもいいのだが、そのあと今回の炎上についても触れ、その中にあった「記者の人がかわいそう」というコメントに対して、石田ゆり子はこう言ったのだ。
 勝手に物語を作りすぎ。
 これがとてもすばらしいと思った。この切れ味。ネット界の、当事者でもなんでもないくせに、「〇〇がかわいそう」という理由でバッシングをする輩を、いったいどう懲らしめればいいのか、ずっと名案が浮かばないでいたけれど、こう言えばよかったのだ。本当にそうだ。これが「おまえ関係ないだろ」とか「余計なお世話だ」では、この場合で言うと、記者が哀しがるのは事実だとして話が進んでしまう。そうではない。哀しがっている記者なんて、別にいやしないのだ。それは彼らの心の中にだけいて、それはつまり哀しがっている記者を生んだのは彼ら自身だ、ということなのだ。
 言ったのが石田ゆり子、というのがまたいい。炎上上等だぜ、みたいなB級タレントが言ったのではない。石田ゆり子が言ったのだ。インターネットの世界に毒されていない(たぶん)石田ゆり子が、まともな頭で、彼らを見てそう思ったのだ。この透き通るようなまっとうさに、心が浄化されるような感動を覚えた。

 実社会でほとんど人と話さず、ましてや雑談などは皆無と言ってよく、それでいてインターネットではこうしてべらべらと、言いたいことを言いたいように言っているため、だんだん一般的な感覚というのがぼやけてくるのだけど、ときに「男根」という表現は、日常生活で普通に使っていいものだったっけ、よくないものだったっけ。「肉棒」はダメ、官能小説の言い回しだ、という感覚はまだ失っていないのだけど、「男根」はどうも怪しいのである。本当に判断がつかない。「男根崇拝」と、民俗学などで用いられたりする気がするので(ちゃんと学んだわけではないが)、けっこう一般的な言葉のような気もするのだけど、その一方で一般的な場面で「男根」と言っている人を見たことはない。くだけた場面では「ちんこ」とか「おちんちん」とか、あるいは『俺と涼花』では「ちんぽこ」とか、そう呼ぶとして、それでは格式張った場面ではどう呼ぶのだったっけと思い出してみると、やっぱりそれは「男根」であったような気もしてきて、「男性器」と「男根」が半々くらいの割合で使われていたんじゃないかな、と思えてくる。実際のところ、どうだったろう。