2024年4月28日日曜日

低脂肪理解・逆流疲労・屈託魅力

 世の中から普通の低脂肪乳が駆逐され始めている。前にも書いた。
 僕が欲しいのは、普通の牛乳から脂肪分だけを取り除いた感じのやつで、かつては100円前後で売っていたものである。今はそれより値上がりした。それは受け入れよう。しかし値上げの前からあった流れとして、売り場で200円前後の普通の牛乳の横に置かれる低脂肪乳ポジションに、そういう純然たる低脂肪乳ではなく、脂肪分と一緒にたんぱく質の含有も少なくなり、その代わりに鉄分とかカルシウムとかビタミンDとかが添加されている、よく分からない乳飲料がのさばるようになってきただろう。じわじわと軍門に下るように、あのスーパーも、あのドラッグストアも、という感じで低脂肪乳はそっちの乳飲料へと移り変わり、今ではあの低脂肪乳を置く店のほうがすっかり希少になってしまった。そして、あったとしても牛乳と変わらない値段だったりする。これがまた納得いかない、と思うのだが、なぜ納得いかないと思うのかと言えば、かつては100円前後で売っていたではないか、ということと、脂肪分を抜いているのだから、脂肪分分安くなって然るべきだろう、という発想からなのだけど、でもよく考えてみたら、脂肪分を抜くのって、普通の牛乳にひと手間かけているわけで、実は向こうにしてみたら、ぜんぜん安く売る筋合いはないのかもしれない。そこらへんの錯誤が是正されて、今日の状況があるのかもしれないと思った。
 
 通っているプールには流れるプールがあって、そっちは基本的にレジャー目的で利用されるものであり、混んでいる夏の日でも、人口密度の高い流れるプールを尻目に、俺は人の少ない、ストイックな、ただの25mプールで泳ぐんだよな、というスタンスを基本的にこの何年か続けていたのだけど、先日から、流れるプールを流れと逆向きに歩く、という趣向を始めた。ちなみに公式に認可されている行為である。
 泳ぐという行為は、筋トレになるのかならないのかという問いの答えは、「そんなにならない」というのが正しいようで、それというのは、泳ぎが達者になればなるほど、つまりは水の抵抗をやり過ごすテクニックを身につけるということなので、その結果として負荷を必要とする筋トレからは離れるわけである。
 そのあたりに若干の忸怩たるものを感じ、普通にひとしきり泳いだあと、筋トレ目的としての流れるプール逆歩きをすることにしたのだ。やってみてすぐ、これはいいと思った。水流に逆らって歩くのが脚に効くのはもちろんのこと、腹にも胸にも絶え間なく重たい水がぶつかるので、これはいい刺激になると思った。
 そして2週間ほど、この間に行った5、6度のプールで毎回そんなことをしていたら、体はどうなったかと言えば、なんかもう常にじっとりとした疲労が全身にへばりつくようになって、生きるのが大変になってしまったので、もうやめた。負荷と疲労の塩梅はかくも難しい。

 音楽の定額制サービスを活用している。ようやく活用できるようになった。
 これまでは、好きな歌手、好きな曲(主に懐メロ)を検索して聴くのに使っていた。それは言わば「ゲオに行かなくて済む」だけの使い方で、あまりサービスに毎月定額のお金を払っている意味がなかった。
 近ごろはそうではなく、テレビで流れて、ちょっといいなと思った歌手を検索して、その人の曲を聴くのはもちろんのこと、その歌手のページ(ページとは言わない気もする)の下のほうには、その歌手に似たテイストだったり、あるいはその歌手の曲を聴く人が聴きがちだったりする、別の歌手が羅列され、その歌手からまた別の歌手へ、という感じで、数珠つなぎでどんどん知らなかった歌手の聴いたことのない曲が聴ける。そして聴いているうちに、自分の好きな音楽というのがどんどん分かってくる。これがすごく愉しい。裁縫をしながら、毎日いろいろな曲を流せ、飽きない。QOLが上昇している感じがする。
 ファルマンはこういう使い方はしていない。「ゲオに行かなくて済む」だけだ。でもこれは責められない。ファルマンは音楽に関して、僕よりもこだわりがあるので、どうしたってそうなるだろう。僕は音楽に強いこだわりがない。特別好きな歌手というのもいない。だからできる。特別に感じるものがあるというのは、いまの言葉で言うと「推し」ということになり、それは推すという行為をする自己の矜持にも直結するだろう。最近の、「推し」と言いながらの自己表現みたいな文化を見るにつけ、そう思う。
 音楽にはないけれど、本に関しては、僕にもこの矜持があって、だから本については他人のおすすめしたものには目もくれない。他人が絶賛しているものは逆に拒絶したりする(内容を、ではなく、読むのを)。ビッグデータにおすすめされるがままに、音楽を屈託なく聴く自分を眺めていると、こだわりがないって楽で生きやすいのだな、としみじみと思う。ただしその生きやすさは、人間的な魅力とは往々にして相反するもので、なんのこだわりもない自由な人間とは、一緒にいてもぜんぜん愉しくないだろうとも思う。その点、音楽にも本にも屈託のある妻の、その人間的な魅力と、その生きづらそうさたるや。

2024年4月17日水曜日

せいちょう・爆裂なもの・あとから気付いてぞっとする話

 桜が散って、朝晩の冷え込みもなくなって、もうすっかり季節は移ろった。とは言え春と秋というのは、夏と冬と違って、純度100%という状態はないと思う。少し前までは冬を引きずった春だったのに、それが終わったと思ったら即座に、夏を彷彿とさせる春になった。濃い色と濃い色に挟まれた、あわいの部分のようだと思う。
 わが家では半月ほど前に衣替えがなされ、トレーナーやカーディガンの段だったものが、Tシャツの段になった。毎年のことながら、衣替えというものは、暑さ寒さへの対応というのはもちろんだけど、半年ほど着続けた服に対するうんざり感からの解放という意味で、ありがたいと思う。半袖のTシャツの清々しさ! と今は感動しているが、ただしこれも半年後には飽き飽きしているのだ。
 ところでそのTシャツに関して、少し驚く出来事が起っている。
 着てみると、小さいのだ。
 何年か前、Tシャツをやけに蒐集した年というのがあって、僕のTシャツラインナップというのは今もだいたいその頃のレガシーでできているのだけど、その当時、傾向としてわりと小さめのものを着ていたこともあり、今年いよいよ「着たらちょっと変」なレベルにまで小さく感じられるようになってしまった。
 太った、という話ではない。体重はほぼ増えていない。そうではなくて、数年間の筋トレおよび水泳によって、いよいよ胸周りが大きくなったのだ。だからそのあたりがパツッとしている。パツパツとまではいかないが、ちょっと強調しすぎだな、という印象を受ける。なによりこれを着て1日過したら、動きづらくて肩が凝りそうだと思う。
 体型がよくなったことは、目指していたことなので嬉しい。しかしTシャツの選択肢はだいぶ減ってしまった。参っぜ! そうか、発育のいい成長期の女子って、こんな気持ちなのか。誇らしいけど、照れ臭い。参っぜ!

 ポルガがよく食べる。たぶん人生でいちばんよく食べる時期なのだろう。
 夕飯時にごはんを大盛で2杯食べたあと、夜食でもう1杯食べたりする。びっくりする。僕なんか、そもそもの1杯が、ポルガの最初の1杯の7割くらいだ。それでもう十分。
 やはりなにが違うって、代謝が違うのだろう。若者は、たくさん食べて、たくさんエネルギーを放出するのだ。それって本当にすばらしいことではないか。そうやって空気中に放出されたエネルギーは、世界そのものを活気づけそうだと思う。
 だとすれば僕は、若者が多い国で暮したい。超高齢化の、人口減少社会はやだ!
 そう考えて、子どもが巣立ったあとの夫婦が小型犬を飼ったりする理屈がようやく解った。身近に、なにかパワフルな、爆裂なものを置きたいのだ。ファルマンの実家の犬は、しつけがぜんぜんできていなくて、あんな厄介なものがいると生活がままならないだろうと思っていたが、あの感じのものが家にいることで救われる心の部分があるのだろうな。

 山陽と山陰を繋ぐ特急電車やくもの、新型車両が走行を開始した。ちなみに開始したのはちょうど、われわれが車で岡山に行った日である。
 新型車両の話になると地元民がすぐ訊ねるのが、「揺れはどうなのか」で、そのくらい中国山地を突き抜けるやくもというのは揺れる乗り物なのであった。やくものことを「はくも」(酔って吐き気を催すから)、さらにはもう少し前に、今回ほど大々的にではなく車両がリニューアルされた際、ゆったりやくも、というコピーが付けられたのだが、それのことを「ぐったりはくも」と呼ぶのが地元民のトレンドであった。
 それでこのたびの新型やくもだが、ちょうど乗ってきた車両がそれだった(6月くらいに全てが新型に切り替わるそうだが、今はまだ混在していて、選択できるわけでもないらしい)という、関西から来た仕事関係の人の話によると、「ぜんぜんちがう」らしい。この人は定期的に来る人であり、そのたびにやくもを利用してきたわけで、話に信憑性がある。
「俺はいつも揺れがいちばん激しいときに小便に行くんだけど、これまでは安定せずに大変だったのが、新型だと難なくできた」
 というエピソードに、へえ、と感心した。どうやら今度こそ、やくもはそこまで揺れなくなったのかもしれない。いちどくらい乗ってみたいものだ、でも地元民がやくもを使うシチュエーションってほとんどないんだよなー、などと思った。
 違和感に気付いたのは帰宅後だ。
 「いつも揺れがいちばん激しいときに小便に行く」ってなんだよ。

2024年4月11日木曜日

ファルマン41・僕と電車・ぶりんばんばん

 ファルマンが41歳になったことについて、改めて書いておく。
 日々「おもひでぶぉろろぉぉん」をやっていることもあり、あの23歳だったファルマン(ちなみに当時の呼び方は「恋人」である。恋人という呼び方!)が41歳ということに、衝撃を受ける。しかしどうしたって去年の、自分がまだ30代なのにファルマンだけ先に40代になったときほどの昂揚感はない。よく見れば41という数字には、40にはないジトっとした奥行きみたいなものがある気がするのだけど、それは顕微鏡とまでは言わないが、ルーペを使わないと視認できない程度だと思う。残念だ。あのスカッとした喜びは9年後を待つしかないのか。
 ブログを書かなくなったファルマンが近ごろどうしているのか、関係者として報告しておく。ファルマンは日々、子どものことを中心にいろいろなことを心配し、またさまざまな事柄を面倒臭がり、そしてテレビドラマに癒されながら、とりあえず健康そうに生きている。なによりだと思う。41歳という輝かしい1年を、溌溂とした猛ダッシュで大笑いしながら駆け抜けてほしい。

 先日岡山に行ったことを契機に、電車のことに思いを馳せた。ポルガがかつての最寄駅から岡山駅に行ったり、またこの日は岡山と山陰を結ぶ特急列車「やくも」の新型車両の運転開始日であったりと、なにぶん普段の生活が電車とは本当に縁遠いので、実際のところ自分は利用していないのだけど、最近の暮しの中では最も電車に近づいた日だと言えた。
 しばらく乗っていないせいか(去年の3月の帰省以来乗っていない)、僕の電車処女膜は完全に再生してしまっていて、生娘のようにいたずらに拒否する気持ちが湧いている。拒否というか、怖いのである。なにが怖いって、自分が運転していないのに進む車窓の景色が怖い。それでも完全に知らない土地の風景であれば、ディスプレイを眺める感じで無でいられるだろうが、それが地元の知っている場所であった場合、自分の意志とは関係なく勝手に進んでいることや、普段との視界の高さの違いなどから、自分の世界が、そっくりの異世界のように思えてしまって、それが怖ろしいと思う。
 なんと、なんと田舎者の発想だろうか。書いていて自分で驚いた。もはやここまで来た。毎朝満員の田園都市線で渋谷まで行き、井の頭線に乗り換えていた高校生が、とうとうこの地平までやってきた。いまでは女房子供持ち、この先どこまでゆくのやら。

 春休みということで3月末から先週まで、またファルマンの上の妹とその娘たちが実家に来ていた。1月、2月、3月、4月と、今年はここまで毎月会っている。
 ファルマンと子どもたちは、こちらももちろん春休みで暇なので、日々実家へ出向き、姉妹なり従姉妹なりと、それぞれたっぷりと交歓していた。
 僕も2度ほど顔を合わせたが、ぼちぼち満2歳となる次女は、やはり心を開いてくれることはなかった。しかし拒むは拒むのだが、完全に無碍だった長女と異なり、次女の拒み方は「あらら、人見知り時期だからしょうがないね」とほほえましい気持ちになるような、血の通った感じがあり、拒まれた側としてもあまり悲壮感は湧かないのだった。
 それでもなんとか気を引こうと奮闘し、上の妹にアドバイスを求めたら、「Creepy Nutsの『Bling‐Bang‐Bang‐Born』で踊ったりするよ」という答えが返ってきたので、それを聞いて僕はどうしたかと言えば、なんの迷いもなく「ぶりんばんばん……」と唄いながら、あの腕を左右に揺らす振り付けをしてみせたので、我ながらびっくりした。おっさん、親戚の小さい子に受け入れてもらいたくて、そんなことしちゃうのかよ! と。パピロウ変わったな! 俺の知ってるパピロウは、そんなのプライドが邪魔して絶対にしなかったよ! と。
 でも2歳児、少しだけニコッとして、一緒にちょっと腕を振ってくれたので、よかったです。もう乳幼児のそういうのが享受できれば、それでいいのです。

2024年4月2日火曜日

腰・ブラジャー・進学祝い

 腰を痛める。数日前の風呂上り、タオルの入っているいちばん下の引き出しを開けようと屈んだところで、ヌドゥンッという感じの味わったことのない違和感が腰を襲い、そこで動きが静止した。ぎっくり腰のエピソードとして伝え聞くような、その姿勢のまま一切動けなくなった、というほどのことはなく、最悪の結果は(今のところ)免れているが、それでもまだ腰は不穏な空気を放ち続けている。まるで反社のようだと思う。俺のこと軽い扱いしたらどうなるか分かってんだろうな、あぁ? と凄まれ続けているようなストレスがある。
 体に不調を来したとき、明確な原因など特定できる場合のほうが少ないのに、執拗なまでに「これが悪かったのかもしれない」「あれのせいかもしれない」と可能性を探るという性癖を持つファルマンは、「この春先の、寒さとして認識しづらい微妙な寒さに対する油断のせいだよ」などと言ってきたのだけど、春先のそれには毎年接していて、それなのにこれまでいちどたりともこんなことはなかったのだから、そうなるともう答えはひとつしかないと思う。目を逸らすなよ、と。
 そう思う一方で、春休みの娘を連れて実家に日参するファルマンは、すぐさま僕のこの腰痛のことも実家の面々に伝えたそうで、そのことに対して僕は、「やめろよ! いつまでも若々しいパピロウでありたかったのに!」と抗議をしたのだった。しかし僕のその抗議に対し、「別にあなた、いままでもそんなキャラじゃなかったよ」と冷静に諭され、何重かにショックだった。
 腰の不穏な痛み、つらい。じわじわじわ、と人生のテンションを下げてくる。

 「おもひでぶぉろろぉぉん」で、相変わらずまだ23歳時点の日記を読み返しているのだが、当時の僕はしばしば女子高生のブラジャーの話をしていて、時代性を感じる。
 たぶん17年前に較べて、世の中のブラジャーの売り上げというものは大幅に落ちたことだろうと思う。なぜか。
 それはブラトップができたからだ。
 17年前にはまだブラトップはこの世になかった。いつから出たのかと検索したところ、この1年後の2008年なのだった。エポックメイキング!
 ブラトップの登場によって、ブラジャーは一気に遠い存在になった。
 しかしなったらなったで、僕としてはなんの問題もない。どうも僕は、当時からそこまでブラジャーというアイテムには熱情を持っていなかった様子がある。ブラトップがブラジャーに取って代わったことに、苦言を呈したことはこれまでいちどもない気がする。
 おっぱいに関しては人並みに好きだという自覚があり、それを守るための女の子特有のアイテムと考えれば、ブラジャーに関してもパッションがあるべきだという気がするのに、なぜかそうではない。どっちでもいい、さらに乱暴に言えば、どうでもいいと感じている。
 ショーツと異なり、ブラジャーにしろブラトップにしろ、その中身以上に見目好いものというのが、存在し得ないからかもしれない。引き出しの、ショーツの段には興奮できるけれど、ブラジャーの段は開けてすぐに閉めると思う。もしも女の子の部屋に忍び込んだとしたら、と仮定して。

 姉の長女、姪がこの春から高校に進学する。姪が高校生て、という気もするが、なにぶん娘が中学生なので、実はその「月日の流れ早すぎるよ!」の感慨は、ただの定型句である。本当は淡々と、そうか、とだけ思っている。
 中高一貫の学校に通っていて、さらには制服もない学校なので、高校進学という感じはきわめて乏しいのだけど、それでも一応は進学なので、親戚としてなんかしらのお祝いを贈るべきだろうという話になっている。
 3月からなっているのだが、これがなにも思い浮かばないので困っている。横浜で生きる高校1年生の姪が、いったいどんなものが欲しいのか、見当もつかないのである。本人が欲しいものではなく、そんなものは世代の違う者が分かるはずないので、大人として、人生の先輩として、これから若者が必要となるであろうものを与えてやればいいのだ、とも思うのだが、そちらもまたなにも思い浮かばない。さらには姪の父の顔の広さのことを思うと、その考え方から思いつく大抵のものは、あの大集団の誰かしらからもう既に贈られているのではないか、それも情報強者特有の、知る人ぞ知る気の利いた逸品を、などと考えると、友達がいない田舎在住の叔父は、いよいよ手も足も出なくなる。
 もはや開き直って、相手のパーソナリティのことなど一切考慮せず、こちらの趣味を貫くしかないか。だとすれば、どうしたってこの叔父夫婦は、本くらいしか選択肢がなくなるわけだが、でも本って! とさすがに思う。本ってもう、叔父夫婦もほぼ読まないではないか。あんな現代にそぐわないものもらっても、迷惑なだけだろう。姪の家には本の収納場所(本棚といいます)などないだろうし。
 さあどうしよう。もう4月や。