2020年8月26日水曜日

眠り・安心してください・いのちの輝き

 先日金曜ロードショーで「となりのトトロ」をやっていて、もうトトロなんて何度も観ている録画だって持っているため、放送をリアルタイムで観ることはしなかったのだが、自分が子どもの頃、21時から放送が始まるアニメ映画(十中八九ジブリ)を、その日だけはテレビのある居間に布団を敷き、夏だったらクーラーを効かせ、放送を観ながらいつの間にか(どうしたって11時までは起きていられないので)寝入っている、というのをたまにやっていて、それは子ども時代のわりと心地よい記憶として残っているので、娘たちにもそのうちやってやろうかなー、なんてことを思った(もっともポルガは絶対に11時まで起きて観続けるだろう。そしてピイガは寝る)。
 しかしそのまた数日後、今度は「ドラえもん のび太の新・日本誕生」をテレビでやっていて、新のほうはまだ観たことがなかったので、日中だったがこれはみんなで観た。物語の最後にタイムパトロール隊として現れるのが「T・Pぼん」のキャラクターだ、というのは知っていたので、家族にそんな情報を披露しつつ、わくわくしながら観ていた。途中まで。ドラえもんたちが日本に連れてきたヒカリ族を、ギガゾンビがまた攫っていってしまった、みたいなところまでは覚えている。その先の記憶がない。なぜかといえば、寝てしまったからだ。気づけばエンディングテーマとして、今回の放送は新映画のプロモーションなので、そのテーマ曲であるミスチルの曲が流れていた。最後にT・Pぼんのキャラクターが出てくるんだよ、とひけらかしておきながら、当人がそのシーンをぜんぜん見ることができなかった。
 という、そんな出来事を通して気づいたのだけど、僕が大抵の映画の途中で寝てしまうのって、子どもの頃のあの映画の視聴のせいなのではないだろうか。映画を観ながら入眠するしあわせが刷り込まれてしまっていて、映画が流れはじめるともうその段階で体が寝る準備をしだすのかもしれない。そう考えると、あれ自体はいい思い出だが、僕の精神形成にだいぶ厄介な傷跡を残しているといえるかもしれない。子どもにやってやるのはやはりよしておこうと思った。

 先日の模様替えで、居間に僕のパソコンがやってきたわけだが、居間にmyパソコンがあるとエロいものを見るにあたって不便ではないか、という懸念が各方面から上がってきているので、それにお答えしたいと思います。
 案外だいじょうぶです。
 居間にパソコンがあるといっても、廊下から居間に入るためのドアを開けたらディスプレイが丸見え、という位置関係ではない。なので問題ない。安心してください。

 8月も終盤で、体も夏バテ気味で、低調だ。思えば梅雨が明けたのって、7月の本当の終わりごろ、ほぼ8月みたいなタイミングだったので、だとすれば本格的な夏って、まだ1ヶ月ほどしか味わっていないはずなのである。とてもそうとは思えない。もうずっと真夏の中に在る気がする。もしかして時空が歪んでいるんじゃないか。我々は本当はもう何万年も、この新型コロナ禍の夏に居続けているのではないか。どうもそんな気がしてならない。リセットされるたびに記憶はなくなるのだけど、しかし細胞レベルのどこかで蓄積されるものがあって、それがこの濃密に凝縮された異常なうんざり感をもたらしているのではないか。そんなことを思っていたら、このたび決定し発表となった、2025年大阪万博のロゴマークが、まさにそんな感じのイメージだったので、やっぱり、と思った。

2020年8月19日水曜日

暑さ・筋トレ・表情

 暑すぎるだろう。今年は新型コロナのせいで話題がぼやけてしまっているけど、コロナなんかに気を取られている場合ではない。いまはひたすら暑さについて思いを馳せるべきだ。暑さにばかり囚われるとどんないいことがあるのか、といわれたら別にないのだが、なんていうんだろう、この状況で暑さ以外のことを気にするということは、すぐ隣にマイクロビキニの女がやってきたのにぜんぜん胸の谷間に目をやることもなく教科書を読み続けるみたいな、そんな行為ではないかと思う。ちょっと違うかもしれない。
 夏の暑さは、数字の上でも明確にこの10年20年の高まりが現れているが、それと同時にこの10年20年というのは、ひたすらに老いてきた年月でもあり(人生のほとんどは老いることだと喝破した)、ただでさえ体がしんどくなってくるところへ、暑さのパワーまでもが高まるのだから、もはや今後の人生において夏が逆に楽になるという目は一切ない。体のしんどさと、夏の暑さは、比例関係にあるわけではないが、今後も間違いなくひたすら両者とも高まってゆく。関係性はないけど両者とも高まっていくなんて、まるで相互オナニーする男と女のようだ。だいぶ違うかもしれない。

 筋トレをしようしようと思いつつ、なかなかままならない。朝おきた瞬間からわりと体がだるかったりするのに、なぜそこから筋トレの実行へとたどり着けよう。それでいて摂取のほうも、食欲がわかなくて量が減っているので、盛夏というのはもう、どうしようもない。筋肉は分解される。体重は減る。そういうものなのだと割り切るしかない。
 思えば、筋トレへと人をいざなうコピーとして、「夏までに理想のカラダ!」みたいなものがよく見られる。つまり1年単位で考えたとき、「理想のカラダ!」というのは7月1日あたりの状態で、そこからの真夏の2ヶ月間で、できあがった「理想のカラダ!」は滅びの美学のごとく崩壊してゆき、暑さがやわらいだ頃にふたたび筋トレに励めるようになって、そしてまた約10ヶ月後に迎える夏に向けてひたすら研鑽を重ねる、という周期になっているのかもしれない。だとすれば夏の肉体とは、リオのカーニバルみたいな、その日のためにその日以外の1年をがんばって生きるみたいな、そういうものなのかもしれない。そのわりに、別に夏だからといって肉体を披露するような機会はなかった。もっとも、そもそもそれほどの仕上がりでもなかった。なるべく破壊を食い止めたい。

 相変わらず友達がいなくて、その友達がいないということについては、3週間くらい前にやけに哀しくなった数日間があったのだけど、ここ数ヶ月においてそのときだけであり、概ね気にならない日々が送れている。そんなわけで、職場での会話というものさえなくなって、ひたすらファルマンとばかりしゃべる、逆にいえばファルマン以外としゃべらない日々というのが数十日間続いた今、なんとなく思うこととして、伴侶との会話って、相手がどういう声を出すか、どういう内容のことを話すか、といった点において、チューニングがきわめて高いレベルで合っているため、互いにコミュニケーションを取るのがめちゃくちゃ楽で、その楽さは、苦痛だったり不快だったりする雑多な会話の中の止まり木としてはとてもいいものに違いないのだけど、なにぶん我々はほぼその止まり木にしか身を置いていないために、これってきっと長く続けたら、天敵がいないものだからのほほんと暮していたオーストラリアの生きものが、開拓者の連れてきた犬や猫によって駆逐されたような、そんなことになるのではないかという懸念がある。あとメンタル以外にも、表情筋を使わないでいると顔の肉が支えられなくなって衰えて見えるという話を耳にして以来、フィジカル面のそちらの恐怖も抱き始めた。最近はそれの防止のために、なんでもないときに意識的に顔をクシャーッとさせて、顔の筋肉を動かすようにしている。しかし実際に他人としゃべっていた時代でも、そこまで表情豊かな動きはしていなかったはずで、ともすればもう現役当時を超えているかもしれない。他人とぜんぜんしゃべらないのに表情豊かだなんて、人間関係という荒波の丘サーファーのようだと思う。

2020年8月6日木曜日

精子・Poison・枕詞

 精子は進むときドリルのように回転している、ということがこのほど明らかになったという。これまでは蛇みたいな、鰻みたいな、ああいう動きだと信じられてきて、僕もてっきりそうだと思っていたが、実際は回りながら進んでいるらしい。この永きにわたる勘違いには、精子の擬人化というか、擬生命化というのが要因としておそらくあって、我々はどうしても精子の姿を見て、「頭」や「尻尾」というふうに捉えてしまう。だからその動きに、形状の似た蛇や鰻のそれをイメージしてしまう。でも実はそれは間違いで、あれらは回転するのだ。上も下もなく、三半規管もない、どこまでも機能性だけのものなので、生きものにおいては考えられないような回転しながらの移動が可能なのだ。そして擬生命化に端を発する、精子に対するその間違った捉え方は、男尊女卑にも自ずと通じていたことだろう。顕微鏡が発明される前までは、精子は小さい人の形をしていると信じられていたそうだが、実際はそうじゃなくて頭と尻尾だけのおたまじゃくしみたいなやつだったんですよ、となったところで、実はそんなに違わない。だって結局のところそれは、「女の腹は畑」という考え方に繋がるからだ。生命の根源は男が持っていて、女は、それをどの場所で育てるかの違いでしかない、という考え方。知らず知らずのうちに当り前だと思い込んでしまっていた精子の擬生命化には、そんな傲慢さが根底にあった。反省しなければいけないと思う。
 あと、精子は実は回転していたらしい、ということを、記事を読んでファルマンに向かって話したところ、「私はそれ知ってたよ」と即答してきたのだが、これはいったいどう捉えたらいいのだろう。精子の回転、いつ見たのか。いつ感じたのか。

 お盆を前にして、GoToトラベルキャンペーンだの、自粛だの、ひっちゃかめっちゃかである。なにかと振り回され、うんざりする。そんなとき、世代的にどうしても思い浮かぶのが、「言いたいことも言えないこんな世の中じゃPoison」でおなじみの、反町隆史の「Poison」である。たぶん我々は、どうしようもない厄介な局面に身を置いたときには、死ぬまでこの歌のことを思い出すんだろうと思う。そう考えると偉大な歌だ。ファルマンとふたりで語り合っているときは、もはや一節を唄ったり「Poison」というタイトルを口に出したりする必要はない。「マジで反町だ」といっている。「反町」=「言いたいことも言えないこんな世の中じゃPoison」なのだ。でも最近は、「マジで反町だ」「反町だねー」のやりとりのあと、「Ah Forever Your Love~」と唄うのが流行りだ。あ、そっちなんだ? というボケ。てっきり新型コロナ対策に対する鬱憤で「Poison」なのかと思ったら、実はビーチボーイズ」のそっちのほうだったんだ、めっちゃ声低いやつだ、という。そこまででワンセット。夫婦の内輪受けの一連の流れ。

 最近突如として始めたのだが、Twitterの勃鬼の短歌で、「オリジナル枕詞」というのをハッシュタグを付けてやっている。あの枕詞という、なんの意味もない、音数を合わすだけの言葉って、思い返すだに、「あってもなくても別にいいけど、俺たちが学ぶ必要はねえだろう」という感じなのだが(まあそんなこといったら文系の勉強のほとんどがそうなってしまうのだけど)、自分で好き勝手にやる分には愉しいのではないかと思った。学年題俳句よりはだいぶ小規模なオリジナル性なのだけど、気軽にできていい。ここ10日ほどの短歌はもっぱらこの趣向でやっている。
 ここまで「乳重の→梅雨」「常濡れの→放課後」「抜きすさぶ→ナイトプール」「夢縫いの→陰嚢」「めめぬめる→女湯」「双子獅子→金玉」「ちんまんの→セックス」「花襞の→プリーツスカート」「爛転ぶ(らんまろぶ)→ビキニ」「べろつばき→フェラチオ」「天を突く→勃起」「てるつよし→亀頭」というのが出ている。すごく愉しい。なにしろ、法則性とか意味とか、特に考える必要がないのだ。雰囲気だけで勝手にやっていいのだ。こんなに楽な短歌技法はない。古典の時代の奴らも、さぞや半笑いで「たらちねのー」とかやっていたんだろうと思う。
 これが100個くらい溜まったら、一覧表でも作ろうと思う。そしてパピロウ期末試験にここ出るからなー。夢縫いの陰嚢だからなー。ちゃんと覚えとけよー。