2018年3月26日月曜日

貴乃花・四次元・スタッフ

 春場所が終わる。結局ひとり横綱の鶴竜がそのまま優勝で、そういう意味ではわりと地味な場所だったと思う。貴公俊の暴力事件にはとても驚き、今場所に貴乃花部屋の力士が問題を起したら絶対に駄目じゃん、と思ったのだけど、結果的にあの事件を反省するという形で、貴乃花は、協会に対して振り上げたまま落とし所をすっかり見失っていた拳を、尻切れとんぼではなく正々堂々と降ろすことができたのだから、あの事件は奇蹟的な次元で、全体にとって良く作用したのではないかと思った。しかも千秋楽に貴ノ岩の勝ち越しが決まるという、ドラマチックな結末。貴乃花という人はやっぱりスターなのだな、と思った。

 ファルマンと子どもたちが、特急やくもで島根に帰る。「特急吐くも」と揶揄されるそれに対し、ファルマンはだいぶ前から「やくもブルー」になっていたのだが、そんな事前の身構えをものともせず、久しぶりに体感するやくもの揺れは想像を上回るものだったらしい。メールにて、「縦とか横とかじゃない。立体的な揺れ。もはや四次元の揺れ」という報告が届いた。四次元の揺れ。四次元に揺れる乗り物って、話が一気にSFめいて、27世紀の金星くらいにたどり着かなければ嘘のように思えるが、どっこい目的地は島根県である。このたび大正時代当時よりも県民人口が少なくなったという、21世紀の島根県である。

 バトン廻しの動画を適当に観ていて目に入ったのだけど、コンタクトスタッフと言うのか、スタッフジャグリングと言うのか、スタッフとは要するに杖のことなのだけど、トワリングバトンよりもだいぶ太くて長い棒を廻すジャンルというものがあるようで、あら、もしかして俺の潜在的な棒クルクル願望って、バトンじゃなくてこっちのことだったんじゃないの、という疑念が少し湧いた。しかしバトンが新体操っぽいのに対して、スタッフというのはなぜかやけに中二っぽくて、ますますハードルが上がる感じがある。バトンをやっている時点でいまさらだが、武器っぽい長い棒を、華麗にクルクル廻そうとするなんて、そんなのラノベとかのキャラクターの発想だと思う。バトンならば追求されたときに通る言い訳が、公園であれの練習をしていたら問答無用に近隣の住民に通報されてパトカーに乗せられるのではないかと思う。

2018年3月23日金曜日

友達仙人・チア部女子・カエサル

 10ウェもブログがあると、気付けばしばらく書いていないブログというのが出てきて、「僕等は瞳を輝かせ沢山の話をした」なんて3月に入ってからいちども書いていない。なぜ書かないのかと言えば、友達論とか架空の友達との交遊話を書かずとも僕の友達欲は満たされているから、それゆえに書かないのであり、こう言うとまるで本物の友達ができてROUND1とかに行きまくっているように聞こえるかもしれないが、もちろんそんなはずはなくて、時期的なものなのかなんなのか、いま僕はやけに友達欲が減退しているのだった。減退して、友達胃袋が小さくなっているものだから、霞を喰って生きる仙人のように、空気中に漂っている微粒子のような友達成分だけでお腹いっぱいになってしまう。飢餓感がない。だから友達に関してなんにも書くことがないのだった。もしかしたら、とうとう達観したのかもしれない。禁友達に成功したのかもしれない。

 バトンを回すのが引き続き愉しいのだけど、ここへ来て深刻な問題が浮上した。自分で鏡を見てもうっすら感じていたが、ファルマンに指摘までされて、いよいよ確信へと変わった。
 腕が太くなっている。なんか、ちょっとちゃんとした腕になっている。
 どうしよう。これから薄着の季節。これは僕にとってぜんぜんいいことじゃない。ガンジーを敬愛する僕は、非暴力の象徴として腕力の放棄をモットーにして生きてきた(といま決めた)というのに、腕に筋肉の気配が出てしまった。こんなんじゃ、森の動物が心を開いてくれねえよ……。筋肉のついた原因は、闘争とは真逆の、むしろ闘争を制止するための平和活動と言ってもいいのに、なんと皮肉なことだろうか。平和を愛し続けるためには強くあらねばならないという、スイス的なディレンマを抱えてしまった感がある。
 バトンは回したいが腕はもうこれ以上太くなりたくない。
 まるでチアリーディング部の少女のような悩みに苛まれている。

 やるやる詐欺化していたランニングを、とうとう決行した。したが、やっぱりまだまだ夜は寒くて、往生した。ランニングという行為にあたり、寒いというのはそれほど問題にされない傾向があると思う。マラソンランナーは真冬でも短パンランニングで走っている。なぜか。走っていれば体が温まるからだ。僕ももちろんそう考え、玄関を出た瞬間に「寒……っ!」となったけど、ギリギリのところで踵を返さず、けなげな精神力でもって外へと繰り出した。そうして走り出したのだけど、すぐに予想だにしない事態が発生したのだった。それではここでクエスチョンです。寒い中走りはじめたカエサルを襲ったアクシデントとは、いったいなんだったでしょうか。ドゥルドゥルドゥルドゥルドゥー! 間違えた。カエサルじゃなくてパピロウだった。それでは正解の発表です。パピロウを襲った事態、それは「体が温まる前に息が上がってしまった」でした。こんなことってあるんだな、とわりとびっくりした。

2018年3月19日月曜日

桜格言・バトントランス・ねっとりソープ

 今年は冬があれだけ寒かったから桜が咲くのも遅かろうな、と思ったら、もうあちこちで咲き始めているらしい。そしてそのニュースの際に言っていたが、「桜は冬が寒かった年ほど咲くのが早いと言われている」のだそうだ。根拠についてはよく知らないが、実際に今年はそうなっている。そしてこの「桜は冬が寒かった年ほど咲くのが早い」って、とても格言っぽいと思った。系譜として、「夜は明ける前がいちばん暗い」とか、「より高く跳ぶにはより深く身を屈めなければならない」とか、「しあわせの扉はせまい だからしゃがんで通るのね」なんかに連なる。だからさ、このブログを読んでくれてるすべてのみんな、絶対にあきらめちゃダメだかんな!

 気温の上昇とともにバトン熱が再び高まっていて、冬の間ほとんどファッションで持ってるだけだったそれを、昼休みの間ひたすら回している。先日公園で回していたところを、ファルマンが半笑いで動画で撮ってくれて(真意は不明)、それを見たら自分は自分が思っていた以上にバトンを華麗に回していて、自信と弾みがついたのだった。さらには最近になり、イヤフォンで音楽を聴きながら回すということをしていて、雑音が入らないのとリズムを意識できるのとで、すごく愉しくなった。曲は、ビートルズの「Ob-La-Di, Ob-La-Da」を、もともと好きなのもあるけれど、バトンを回すリズムに合っている気がして、リピートで流している。だからいつかステージに立つ際も、使用楽曲はそれでいくだろうと思う。「Ob-La-Di, Ob-La-Da」をリピートで流し、ひたすらバトンを回していると、一種のトランス状態みたいになって興奮してくる。そして午後、腕だっるだる。

 冬の間は保湿目的でニベアのボディーソープを使っていたのだけど、保湿性の分かりやすい証明ということなのか、液剤がとてもねっとりしていて、普通のボディーソープならばノズルの3センチ先くらいで、押し出した液剤をスポンジで受け止めるものだけど、これはまるで前に飛ばず、真下にネトーッと落下するのだった。だから最初に押したときはそのすべてを受け止め損ない、垂れ流した。なんかその、成分が濃厚だと液が重くて飛ばない感じ、すごくなにかを想起させるものがあり、毎回複雑な思いに浸りながら、その白い液体で体を擦っていた。冬の終わりと同時にこのたびそれをちょうど使い終わり、保湿は謳いつつもそこまでではないものに買い替えた。そうしたらちゃんと前に跳ぶようになり、なんとなく男性として安心する部分があった。

2018年3月14日水曜日

気象庁・親鸞・ブロガー

 週間の天気予報がいつも当たらない。明日の予報でさえ当たらないのだから週間予報が当たるはずがない。それは解る。別に週間予報をキパッと的中させろとは言わない。しかし今週がまさにそうなのだが、月曜日の時点で『平日はいい天気で気温が上がり、土曜日から雨』と言っていた予報が、実際にはもう明日の木曜日の予報に雨マークが灯っている。いつもこうなのだ。週間予報は、いつも実際の天候の変動よりもスローペースの予報を出すのだ。直近になってくるといつも2日分くらい予報していた天候が前倒しになる。本当にいつもだ。だからこれは「週間予報は難しいのです」という話にはならない。予想はできている。いや、予想もなにも、気象庁は衛星を飛ばして雲の流れを見ているのだから、雨雲が来るかどうかくらいのことは判って当然なのだけど、せっかくのその衛星画像からの、動きの読みがやっぱり下手糞だ。権威に弱い人は、気象庁だとか気象予報士だとかの肩書だけで、一般人には想像の及ばない苦悩がおありになるのだろう、などと思うのだろうが、僕はそんなの一切認めない。週間予報の6日後の天気は実際には4日後にやってくる。気象庁はいつまでもそのバグを直さない。無能である。気象庁が親の仇のように憎い。

 親鸞の言葉に、「ひとりで悲しいときはふたりいると思え。ふたりで悲しいときは三人いると思え。そのもうひとりは親鸞である」というのがあって、なにしろ本人が現代語で書いたわけではないので、言い回しはいろいろ別バージョンもあるんだろうが、「そのもうひとりは親鸞である」というのがとにかくかっこいいと思う。劇団ひとりの紹介していたテクニックで、名前を名乗るとき、ファーストネームを言ってからフルネームを言う、というのがあって、つまり劇団ひとりの場合「省吾、川島省吾」となり、これはなるほどちょっとかっこいいのだが、なんかそれと親鸞のこれは似ている気がする。僕は将来、菅原道真が学問の神様になったように、セックス的な快楽分野の神様的な存在になりたいという夢を持っていて、だとすれば「ひとりでしているときはふたりでしていると思え。ふたりでしているときは三人でしていると思え。そのもうひとりはパピロウ、プロペ★パピロウである」という言葉を遺したい。

 3月11日の日記を僕もファルマンも書いたのだけど、毎年この日の日記に関しては互いに「これ、大丈夫だよね?」と確認し合う。絶望的なまでに人に読まれていない我々の日記だけど、それでもそんな風になる。トラウマがあるからだ。とは言え別に本当に誰かから苦言を呈されたみたいな実害があったわけではない。この「実害があったわけではない」というのがまた、関東在住のくせに震災に精神的ショックを受けすぎる輩に対しての、「エア被災」という当時の流行語に通じるものがあり、しょっぱい気持ちになる。斯様に、実害があったわけではないけれど、当時のあの閉鎖的と言うか、揚げ足の取り合戦と言うか、あの感じは本当に嫌だった。そのときの気持ちが3月11日にはよみがえって、それでセンシティブになる。今年の震災関連の話でも、「5年で区切りみたいになってしまったのは本当に残念」なんてことが言われて、それはまったくもってそうなのだろうけど、しかしそうは言っても5というのは十進法において節となる数字なのだから、4年目や6年目よりも、「5年の月日が経ったのです……」、と声高に言いたくなるのは仕方のないことであり、なんかその感じまでをとやかく言わないでほしいと思った。別に誰も「風化しようぜ!」とは言ってないではないか。優しさ合戦、と言うと言葉があまりにも悪意的で、それこそ怒られそうだけど、思いやりの細やかさを出し過ぎると、光が強ければ影も濃くなるの理屈で、そんな思いやりにはぜんぜん思いが至らなかった人が糾弾される流れになりがちで、それはとても居心地が悪い。その居心地の悪さは、本当に当時の、絆、絆と拘束具でしかないものを褒めまくっていたあの空気そのままで、とてもうんざりする。あのブロガーたちはもう当時のことをなかったことにしてしまっているのかもしれないが、原発がああなって、節電節電と言われたあの春から初夏にかけて、ブロガーの一部は「節電のために長文を書かない」などという主張をした。あれは本当に気持ちが悪かった。太平洋戦争の際、戦争を礼賛し人々の戦意を高揚させる文章を書いた小説家は、戦後にその過ちを悔いた。「節電のために長文を書かない」は、それに通じる過ちだと思う。僕はもちろんそんなこと書かなかったけれど、ブロガーの端くれとして、当時のブロガーのその振る舞いのことを恥じる気持ちがある。3月11日に関して、ブロガーとしてこのことをどうしても書いておきたかった。

2018年3月9日金曜日

咳・蒼井優・落語

 夫婦で咳をしている。インフルエンザB型禍が我が家から過ぎ去り、すっかり平和になったかと思いきや、目下しつこい咳に苛まれているのだった。咳というのはいちど始まると本当にしつこい。しかもそれ自体が不快で嫌なのに、社会的にも弊害がある。クシャミの、あっけらかんとしたコメディチックな印象と較べて、咳には眉をしかめたくなる不穏さがある。咳が始まってから、職場ではもちろんマスクをしているが、それで完全に許されているとは思っていない。僕だったらはっきり言ってあまりこんな奴には近寄りたくない。マスク着けてるからって感染しないとはぜんぜん限らない。1週間以上もダラダラと続いているので、「もう我々は一生このままなんじゃないだろうかグホグホ」とファルマンが嘆き、「だとしたらそんな夫婦には絶対にもう友達はできないグホグホ……」と僕が絶望すると、「安心して。咳とか関係なくできないからグホグホ」とファルマンが慰めた。もう悲壮感が多重の層のようになって、じっと手を見ることさえできない。

 蒼井優のアカデミー賞でのスピーチが感動的、という話があって、別にそれほど感動的ではないと思うけど、通り一遍のことを言うよりはもちろんいいと思った。そして「これから新学期はじまりますけど、学校がつらい方、新しい生活どうしようと思っている方がいたら、ぜひ映画界に来ていただきたいなと思います。映画界ってよくないですか? 私ほんとに好きなんです。みなさんと一緒に映画を盛り上げていけたらなと思います」という文面の、映画という部分、これは蒼井優が映画女優だから映画であるだけのことで、実は人それぞれに、なにに置き換えてもいいのだと思った。
「ブログってよくないですか? 私ほんとに好きなんです」
「エロ小説ってよくないですか? 私ほんとに好きなんです」
「AV業界ってよくないですか? 私ほんとに好きなんです」
 近日中に僕になにか受賞の機会があれば絶対にやるのだけど、なにかないだろうか。

 昨日「PAPIROTOIRO2」に投稿した「嘴亭萌え狼らくご「水下着」」は、実はここ数日で書いたものではなくて、もう2年くらいも前に、創作落語の懸賞に応募して、箸にも棒にも掛からなかったものである。あまりにも箸にも棒にも掛からなかったので(わりと自信があったというのに!)、いつか別の懸賞にまた応募してやろうと思い、ハードディスクで眠らせていたが、いつか別の賞ってなんやねん! と、途轍もなく長いノリツッコミを昨日ようやく炸裂させて、ペッペッペーとアップした。アップするにあたり読み返してみて、やっぱりおもしろいと思った。でもそれは僕が、僕のおもしろいと思うものを書いたから、当然の話であり、そしてただそれだけのことなのだと思った。

2018年3月3日土曜日

ランニング・淫夢・ブログ

 ランニングシューズを買う。買ってしまう。これでもう後戻りできなくなった。走るっきゃなくなった。いや、果たしてそうだろうか。出雲在住時、近所に温水プール施設があり、時間もあったので、これは水泳を趣味にして健康体になるっきゃないだろう、余分な肉はなくて細身なんだけど筋肉はあるという、それになるっきゃないだろうと、スポーツ用の、太ももにピチッと張りつくタイプのまあまあ本格的な水着(もといスイムウェア)を買ったことがあったが、しかし1回だけそれを着けて行ったあとは、やけに白けて、いちども実行しなかった。過去にそういう前例があるので、ランニングシューズを買ったところで、「走るっきゃなくなった」は言い過ぎたと思う。いや走るよ。走るけどね。

 淫夢を見る。僕はプールサイドに裸で寝そべっていて、そこへ水着姿の女の子たちが寄ってくると、そのうちのふたりの女の子が僕のペニスを奪い合うように舐めはじめるのだった。34歳という年輪をまったく感じさせない、ミドルティーンが見てもぜんぜんおかしくない、実にオーソドックスな淫夢なのだった。それだけのことならば別にこうして文章にして伝えようとは思わないのだけど、目を覚ましてから改めて夢の情景を振り返ってみて、あれはおもしろかったなあと思ったこととして、夢の中の僕のペニスは、なんか戸愚呂弟の100%ような威容をしていた。長いとか太いとかじゃなく、戸愚呂弟の100%みたいなことになっていたのだった。深層心理だなあ、と思った。

 昨日から始めた「THE WIND TALKING ABOUT SOMETHING」というブログがあるのだが、これはこれまで自分(およびファルマン)が作成したブログ記事から一部分を抽出し、細かい改行や空白行や拡大文字などの加工を施して、「なんか言ってる風」にする、という画期的な試みなのだけど、実際に投稿された記事を見たファルマンが一言、「こういうブログはもういくらでもあるよ」。そして「ほら」とページを開いて見せてくれる。本当だった。もうみんな普通にそのテクニックを使ってブログを作成しているのだった。中には文章の配置をすべて中央揃えにしている猛者までいて、いまどきゴリゴリのポエムでもなかなかそんなの見ないだろ、と思った。あと空白行のスケールも、僕はどうしたって1行を開けるのがやっとなのだが、彼らは5行10行を平気で開けていた。すごい。いったいどういう精神で記事を作成しているのだろう。文章を綴るにあたり、頭の中に原稿用紙のイメージは浮かばないのだろうか。浮かばないんだろうな。そしてブログというジャンルにおいては、彼らのほうがむしろ正解に近いんだろうな、とも思った。そんなわけですっかり出鼻を挫かれた感がある新ブログなのだが、でも開設したからにはそれなりに運営していこうと思う。