2018年4月21日土曜日

ポルガ・東京・ピイガ

 ポルガに、「どうしてパパとおかあさんはスマホじゃなくてタブレットなの?」と訊かれる。世間の大人は大抵スマホなのに、うちの両親はふたりしてガラケーにタブレット。どうして? となるのも無理はない。どうしてってそれはお前、お前の両親はふたりとも、生きるのがちょっと下手だからだよ。お前はそんなふたりの愛の結晶なんだよ。「ポルガはぜったいに小さいのがいい! だって進化してる感じがするもん!」そうか。それを面と向かって我々に言ってしまうお前もまた、たぶん生きづらい人生を送るんだと思うよ。ざまー見ろ!

 先日の出張で、新幹線の東京駅に降り立ったのだった。いつもは新横浜で降りるわけで、そこから先の都内エリアは新鮮だった。もっとも品川は、車内からホームを眺めて思い出したが、何度か利用していた。だってかつては練馬在住だったんだもの。陸路で島根に行く際は、そこから新幹線に乗っていたはずだ。そんなに記憶に残っていないけど。しかし新幹線の東京駅というのは完全に初めてだったと思う。乗り換えの十数分、駅構内を歩いただけだけど、やっぱり東京駅というのはすごいのだなあ、と思った。乗降客で言えば新宿とか渋谷のほうが多いのかもしれないが、東北とか北陸とか関西とか、目的地のスケールが大きい。ここから日本のどこへでも行けるんだ……、さすが首都……、と感動した。あと品川から東京までの車窓の風景は、やっぱり開発に次ぐ開発という感じで、未来都市みたいな込み入った区画に、おためごかしのような公園があり、そこでは都会の子どもたちがすさまじい人口密度で遊んでいて、おらがとこと世界がぜんぜんちがう……、と思った。東京って、自分が住んでいるときはそのすさまじさにピンと来ないし、離れるとすさまじすぎて受け付けられなくなるしで、ちょうどいい距離感が掴めない。きっと永遠に掴めない。

 ピイガの女子力がすごい。前々から、これはなかなかのものなんじゃないか、とは思っていたが、幼稚園に入ったことでそれがさらに強調され、痛感した。入園式後の登園初日に、クラスの男の子のひとりを虜にしたようで、その男の子は一日、ピイガからひとときも離れなかったという。マジか。上の子があまりにもそういう女子らしさと無縁なので、ふたり目にして初めてのことで、驚く。たとえば朝、僕が出勤するとき、ポルガは居間で朝ごはんを食べ続けるのだけど、ピイガは玄関まで来て頬にキスをしてくれるのである。もちろん嬉しいのだが、僕ももういい大人なので、女子のこういう行為が、相手を愛しく思う気持ちというよりは、女の子が自分をより愛らしい存在にするためにしている、ということが理解できている。しかし幼稚園の彼も含めて、これからピイガと出会う数々の男子は、まだそんなこと解らないだろう。こわい。末おそろしい。

2018年4月14日土曜日

数値・端末・記憶

 職場で行なった健康診断の結果が届く。いつもの通り、γ-GTPだけが引っ掛かる。もうこれは仕方ないことで、高地で暮す人々の心肺機能は鍛えられて発達するみたいな感じで、常態として高い数値をキープするのならば、肝臓の機能もだんだんそれに対応してくるんじゃないの、などと思う。それでもなんとなく安心する材料が欲しくて、この人なら間違いない、という上司に、同じ項目の数値を訊ねたら、僕の2倍もあったので、うん、やっぱりまだまだ大丈夫、と一気に霧が晴れた。

 タブレット持つ計画が一気に進み、もう発注してしまった。結局ネットで発注したわけだけど、日中にお店にも実際に行った。しかし僕が求めているような用途の、SIMフリーの端末というのを店では売っていないということで、すごすごと退散したのだった。1年ほど前だったか、ファルマンが購入した際はそんなことはなかったはずなのだが、情勢が変わったのらしい。こういう業界の情勢はどうしてこうも目まぐるしく変わるのだろう。そもそも、僕がスマホをいちども待たないまま、世の中はアイフォン10なんてことを言っている。速すぎないか。なんなら僕はアイフォン1からのスタートでもいい。それが2円くらいで手に入るのならそれでもいい気がする。そしてそれを使って僕は思うのだ。これは画期的な製品だぞ、と。

 子どもたちがドラえもんに嵌まっていて、義母がWOWWOWを録画してくれた大長編のDVDをよく観ている。それで今日、「アニマル惑星」を僕も一緒に観た。とても懐かしく、おもしろかった。思えば僕にとってのドラえもん大長編の黄金時代と言えば、第9作である「日本誕生」(89年公開)から第12作の「雲の王国」(92年公開)のあたりであり、だからすごく思い入れがあるのだった。あの頃はとにかくドラえもんの絵ばかり描いていたような気がする。「ドラビアンナイト」の、ターバンを被ったドラえもんの絵とか、すごく描いた記憶がある。懐かしい。あれから作者も、声優も、すごく死んだり、なんなり、した。急にそんなことを言った。実際、そこから四半世紀ほども経ったのだ。四半世紀と言えばそれなりの年月である。22世紀からやってきたという設定のドラえもんだったが、四半世紀先では、作者や声優が、死んだり、なんなり、したのだった。それは当り前のことなのだけど、なんとなく切なさがある。