2018年10月26日金曜日

パソコン・給食・漢字

 パソコンがお釈迦になってしまった。
 この10日ほどで兆候が出始めていて、だから心の準備はしていて、そして心の準備だけして、データを外に移すとかの、堅実な準備はなにもしていなくて、でも昨日の夜、いよいよまずそうだぞ、となって、そこで慌ててデスクトップとかに散乱していたデータの類いを外付けのハードディスクに移した。数百メガバイトのデータを移すのに3分くらい掛かったりして、「真田丸」で今にも死にそうになっている秀吉に遺言書を無理やり書かせる場面を思い出した。本当にそんな感じの作業だった。でもなんとかかんとかそれをやり遂げ、遂げたところでとうとうそのあとなにもできなくなり、さらには再起動さえままならなくなった。だから、本当にギリギリセーフだった。敵のアジトで、侵入者を閉じ込めるために落ちてくる壁の、最後の隙間にスライディングで潜り込んだような気持ちだ。ちょっとした兆候が出た段階でしていればそれがいちばん賢かったわけだが、それだとほら、お客さんが退屈しちゃうから。わざとピンチを作るわけですね。これがヒットの法則です。
 というわけでパソコンがない。困った。……困った? 困って……る、んだと思う。でもこうしてブログは書けてしまっていて、つまりインターネットもできているわけで、だから前回までのときほど、この状況に取り乱していない。一刻も早く次のパソコンを買わなければっ! となっていない。それどころか、パソコンって……いる? ……いる、よ、ね? う、うん。いる。いるよ、いるに決まってんじゃん! みたいな、そのくらいのスタンスになっている。時代が変わったものだと思う。
 たぶん、もちろん電気屋で売ってる最新型のパソコンなんて買うつもりないので、だいぶん安い方法で買うことにすると思う。そしてそれでもこれまでのパソコンよりも性能がよかったりするのだ。パソコンのそこが不可解。

 ポルガが学校の給食でどんなものが出たか語ってくるのだけど、そのメニューがやけにおいしそうで、実際おいしいらしく、うらやましく感じている。僕の小学校の給食はおいしくなかった。好き嫌いも多かったのでつらかった……、と書いてから思い至ったが、実は小学校の給食こそが僕に好き嫌いを作ったのかもしれない。最近になり、横浜市および神奈川県の学校給食のひどさが全国ニュースで何度か取り沙汰された。そうなのだ。僕のわがままとかじゃない。本当においしくなかったのだ。ニュースになるほど悲惨だったのだ。焼きそばの麺とか、ネチョネチョでボロボロだった。それを腹に詰めて空腹をしのぐ。それが給食というものだと思っていた。さらに給食の悪禍をあげつらうならば、僕が集団行動を嫌うのもあれが原因なのではないか。「大勢の人間が食べるものを一気に作ろうとすると不味いものができる」という児童期の経験則が、だんだん少年の心の中で育っていって、ついには「全体行動は悪だ、戦争の始まりだ」にまで発展したのではないか。可能性は十分にある。そうか、そういうことだったのか。
 あとすごく単純に、好きだったりする女の子が、餌みたいに不味いものを口に入れているのを見るのは、嫌なものだ。恋心が侮辱されたような気持ちになる。ああ給食憎し。
 娘の学校の給食はおいしいようでなによりだ。まっすぐに育ってほしい。

 去年の自分の日記を漫然と読んでいたら(だって読み物として滅法おもしろいのだ)、去年の「今年の漢字」が「北」だったと書いてあり、もうすっかり忘れていたので、ほお、と思った。「北」は北朝鮮の「北」で、他はほとんどなんの含意もなかったのだけど、北朝鮮は去年よりも今年のほうが動きがあったと言えるし、それに加えて今年は、北海道地震および全道停電という出来事があった。これはもしかして2年連続もあり得るかもしれない。あるいは「災」「害」「台」「風」あたりが関の山だろう。本当にこの企画はつまらない。

2018年10月23日火曜日

帽子・ブログ迷い・99人

 帽子をなくしている。茶色いキャスケット帽である。ある日かぶろうとしたら、家のどこにもなかった。先々週のどこかでなくしたようだが、まるで心当たりがない。なくしたのは平日なので、そうあちこちに立ち寄っているわけではない。自宅か、車か、職場か、帰りに立ち寄るスーパーくらいだ。しかし家も車内も職場も熱心に探したし、スーパーにも電話をかけて訊ねたが、一向に出てこない。そうは言っても家のどこかから不意に出てくるものなんだよな、という思いを未だに持ち続けているのだが、もしも本当に家にないのだとすれば、車から降りるとき、運転の途中で帽子を脱いで、助手席に荷物とともに置いていたものを、掴んだつもりで外に落とした、みたいな可能性がいちばん高いと思う。それでも自宅でも職場でも駐車場所は決まっているのだから、その場に落ちたままになっているはずだろうと思うが、ひとつ想起されるのは、職場の、山の裾野の駐車場には、たまに猪が出没するということだ。あいつが怪しい気がしてきた。そのうちキャスケットを被った猪が目撃されはじめるのではないか。そんなん写真撮って来年の年賀状にするわ。

 図書館で予約していた「SEVENTEEN」の今年の9月号が手に入って、毎年恒例のアンケート企画を、愉しく鑑賞している。鑑賞である。ただ眺めているのではない。味わっているのである。
 それで、発表された数字などについて、またやいのやいの言っていきたいのだけど、ここでひとつ困っていることがある。
 それは、その内容の記事は、どのブログにアップするべきなのか、ということである。
 はじめに思い浮かんだのは「BUNS SEIN!」だったのだが、それをやってしまうと、これまでギリギリのところで守ってきた、僕は別に女子高生を性的な目で見ているのではなくて、文化人類学的な興味で捉えているんだよね的な言い分が、とうとう成り立たなくなる。果たしてこれまで守れていたのか、成り立たせられていたのかは甚だ疑問だが、いよいよ目に見えて崩壊してしまう。なのでよろしくない。しかし「hophophop」に書くには長くなりすぎるし、もういっそ手書きして「BYAPEN」にアップしようかとも思ったが、来年以降のことも考えて、比較しやすいよう数字を打ち込んでおきたい。こうなったらあの大御所「USP」にご登場願うしかあるまいと打診をしたら、「もうこんな老体の出る幕はない。今後は若い者たちだけでやってくれ」と固辞されてしまった。
 そんなわけで熟考の結果、これもまたパピ労の日やcozy ripple流行語大賞と一緒で、毎年恒例の行事みたいなものだよなと考えて、「PAPIROTOIRO2」に白羽の矢が立った。近日記事を作成して公開する予定である。パンツを降ろして待っていてほしい。

 テレビ番組「99人の壁」がおもしろい。それぞれの得意な分野を持った100人がスタジオに集結し、そのうちのひとりが回答者となり、その分野のクイズが出題されて、別にその分野が得意じゃない残りの99人と対決する、という趣向で、99人側のほうは早押し問題で間違えてもそれほどのペナルティもなく、さらには正解した場合は次の回答者になれるというルールのため、すごくアグレッシブにボタンを押してくる。それに99人もいれば、得意分野でなくても、ひょんなことからそれ知ってるわ、みたいなことってけっこうあるのだ。そんなわけでなかなか回答者はゴール(100万円)にたどり着けない。その具合がおもしろい。
 そしてこの番組を観た人間は100%の確率で考えるだろうことを僕も考えた。すなわち、自分だったらどのジャンルで出るかということである。
 こういうとき、ファン気質でない人間はなかなか困る。自分以外のことにそこまで入れ込まないからだ。でも「purope★papiroのブログ」はジャンルとして採用されないだろうから、そうなると「二次元ドリーム文庫と美少女文庫」ということになるかなあ、と思った。そこに関して、なんでも知っているという自負があるわけではないが(特に最近のほうはからっきしだ)、そんじょそこらの99人くらいに対しては向こうを張れるのではないかな、と思う。ただしゴールデンタイムの番組なので、やっぱり採用してもらえないと思う。

2018年10月19日金曜日

テルー・カサノヴァ・さよならの向こう側

 先日カラオケでも唄った「テルーの唄」に、ど嵌まりしている。ここ数日、車中や散歩中、ずっとリピートで聴いている。車中では唄ってもいる。たぶん季節もちょうどいいのだ。夏が終わり、秋が深まってゆくこの季節に、ぴたりと当て嵌まったのだと思う。昼ごはんを外の公園で食べる習慣も数ヶ月ぶりに再開しており、桜の葉は紅くなって落ちはじめ、トンボは跋扈し、セイタカアワダチソウとススキは静かに死闘を繰り広げ、空には高くトンビが舞っている。そして僕は「テルーの唄」を聴くのである。秋だ。紛うことない秋だ。相変わらず友達のいない秋に、「テルーの唄」はそっと寄り添う。人影絶えた野の道を、僕はいつも親鸞とともに歩いているつもりだけど、絶えて物言うこともなく、そんなひとりぼっちの寂しさを、なににたとえればいいのだろうかと思う。
 そして「ゲド戦記」は観ない。そんなに主題歌に嵌まっているならいちどくらい観ればいいだろうに、異様なまでに手が伸びない。なんか暗そうで嫌。

 カサノヴァの伝記を読んでいる。カサノヴァはすごい。すごいバカ。性的な方面に関して、本当に「まいっちんぐマチコ先生」レベルのことをひたすらやっている。霊能力者のフリをして、儀式の前の清めのために処女の身体を隅々まで洗うとか、発想が十代男子のそれだと思う。しかもそれが実話だからすごい。もっとも男よりも女の子のほうが実はエロくて、だから女の子はいつだってエッチなことをしたがっている、しかしながらただ無造作に男を誘っていたらただの淫売になってしまうので、女の子は常に男が騙してくれる(エッチなことをしてもいい大義名分を与えてくれる)のを待っている、という説があり、説と言うかそれはまぎれもない真実なのだけど、カサノヴァはそれを最大限に利用したということなのだな、と読んでいて思った。
 あと女性をそこまで籠絡できるということは、要するに人ったらしなわけで、女性のみならず、カサノヴァは行く先々で、すぐに知り合いを作るのだった。そこなんだよな、と思った。友達ができない人間が、ハーレムエンドにたどり着けるはずがないのである。

 賞を受賞した(昔の)歌手が使うやつのように、マイクにリボンとかで装飾を施したものを作りたい、ということを何記事か前に書いた。それから100均などで材料を買い揃えたり、図書館でリボンワークやラッピングのテキストを借りたりして、着々と準備を進めていた。100均では、リボンのみならず、フェルトのポンポンや造花、カラー紐など、あれも使えるんじゃないかこれも使えるんじゃないかと、次々にカゴに入れていき、さらには店も一軒では済まさず、ダイソーやセリア、ミーツなど、いろいろ巡って、最終的に大きな袋いっぱいにまで資材が整ったのだった。
 そして実際に昨晩から練習を始めた。しかしやっぱりなかなか難しい。教材の通りにやったつもりでも、立体感が出ない。これは鍛錬の必要がありそうだ。
 いい具合のものができたら、実際にマイクに取り付けて、画像を「nw」にでもアップしたいと思うが、残念ながらわが家にはマイクがない。以前キーボードを買った際に付属していたものがあったのだが、子どもたちによって破壊されてしまったのだ。それでマイク代わりになるもの、と考えて、すぐに思い浮かんだのは勃起したペニスだった。マイクと勃起したペニスは、思えば円筒の部分がだいぶ似通っている。そうか、それじゃあ勃起したペニスに、作ったリボン飾りを纏わせて、画像をアップすればいいのか。俺のブロガー人生がそこで寂しく終わりを迎え、武道館のステージにそっと萎えたペニスを置いて、去っていくのだな。

2018年10月11日木曜日

癖寝相・けんちん・モテ

 癖寝相なんて言葉は聞いたことがないけれど、そういうのが僕にはある。両手の指を組んで頭の下に置く、というものである。そんな、腹筋運動をするときのような、あるいは20分くらい仮眠を取るような恰好で、ひと晩じゅう寝ていることがある。こうなると当然、起きたときには指も肩も痛い。これには朝からものすごくテンションが下がる。
 ファルマンにこのつらさを訴えたら、夜中にファルマンがふと目を覚ましたとき、僕がこのポーズを取っていたら、直してくれるようになった。「今度からそうしてあげるね」「頼むわマジで」というやりとりなど一切なくそれは開始されたので、最初にされたときはとても驚いた。夜中に、妻にいきなり腕を払われるようにして目を覚ますのである(頭が動かされるのでどうしたって目が覚める)。すぐにはその行動の意味が解らず、てっきり妻がキレているのかと思った。なぜ寝ていて妻がキレるのか、という話だが、それはほら、寝言でつい言っちゃったのかもしれないじゃないですか。あんなこととか、こんなこととか……。

 豚汁が食べたいと唐突に思い、ファルマンにリクエストをして、昨日の夕飯にそれが出た。それをひと口すすって、こう思う。
 これは豚汁じゃない。けんちん汁だ。
 豚汁とけんちん汁の違いをそれほど意識して生きてきたわけではなく、「豚汁」と出されたら豚汁と思い、「けんちん汁」と出されたらけんちん汁と思って、だいたい済ませてきたけれど、昨日のそれを口に入れた瞬間に、僕の中で明確な定義ができた。
 口に含んだとき、肉を感じたら豚汁。ごぼうを感じたらけんちん汁。
 強烈なごぼうの風味を口いっぱいに感じながら、そんなことを思った。
 それから改めてネットで検索をかけたら、両者の違いは、いろいろな捉え方があるらしいが、けんちん汁は元が精進料理であり、肉は入らないらしい。昨晩のわが家のそれには、いちおう豚肉が入っていた。だからけんちん汁の定義からは外れるようだが、その肉を感じさせないほどごぼうが強かったので、やはり豚汁と呼ぶには抵抗があった。
 たしか松屋だったと思うが、サービスの味噌汁をけんちん汁や豚汁に変更することができて、その調理工程は、タッパーに一食分のけんちん汁の具材というのが用意されていて、そこに味噌汁を入れて温めたらけんちん汁に、そこへさらに肉を入れたら豚汁に、という仕組みだった。だからなにが言いたいのかと言えば、豚汁の肉の存在感は、必ず野菜を凌駕しなければならないということだ。多分けんちん汁変更は+80円、豚汁変更は100円とかだったと思う。

 読んでいた本に、「女は女の気配がある男に惹かれる」という一節があり、そうなんだよ、そこなんだよ、と深く感じ入るところがあった。
 女っ気がない男というのは、つまり女に見向きもされない、魅力がない男なのだから、惹かれないのは当然で、大勢の女がいいという男が、結局いろいろと優れて、魅力を感じるのは当たり前のことではないか、と思われるかもしれない。それはたしかにそうだ。でもそれだと男女が逆でも一緒の理屈になるはずだが、「男は男の気配がある女に惹かれる」なんて話は聞いたことがない。男は往々にして、まだ誰にも踏み荒らされていない処女雪を切望する。そしてここに悲劇の元凶がある。そもそも子作りの役割分担として、女は吟味してひとりの優れた男を選ぶ必要があり、男はとにかくたくさんの相手と子どもを作ろうとする、という差があって、上記の違いというのもそのまんまここの性質から来ているわけだけど、だから結局、トドやゴリラのハーレムのごとく、モテる男はどこまでもモテて、モテない男はひたすらモテず、そして女は滅多なことがない限り抱かれないことはない。そういうことになる。だとすればこの世で最も哀しい存在は、やはりモテない男だということになる。モテない男への救済というものが、まったく無いように、この世はできているのだ。

2018年10月8日月曜日

太極剣・ひめ・スクールランド

 先日の出先で、「どうやら太極剣の教室をしている人たち」というのを目撃したのである。生徒らしい若い細身の男性ふたりを相手に、講師らしい恰幅のいいジイさんが指導をしていた。生徒のひとりがススス、と模造刀を両手で押し出すのを、講師ジイさんは「そうじゃない」という感じでやり直させていた。声が聞こえる距離ではなかったが、コントくらい判りやすく、太極剣の指導風景だった。こうして思い返してみて、ちょっと疑いの気持ちさえ湧いてくるほどだ。だってあまりにも唐突に、僕の眼前に、ショートコント・「太極剣の教室」が展開されたじゃないか。そんなことってあるかよ、と思う。太極拳でも見ないというのに、それを通り越して太極剣と鉢合わせするなんてことが普通あるだろうか。いや、ない。だとすればあれは、運命の出会いというやつだったのではないか。僕はあの集団に駆け寄って、「僕も仲間に入れてください!」と懇願するべきだったのではないか。「──いま思えばあれが運命の分かれ道でしたね」と、後年述懐される場面だったのではないだろうか。しかしなあ、指導のジイさん、けっこう厳しそうだったんだよな。ジャルジャルのコントの「おまはんかいな」くらい、生徒の刀を押し出す動作をいちいち直させていた。しかも僕の場合、太極剣はトワリングバトンの演舞の一助になればいいな、くらいのモチベーションで齧りたいと思っている程度なので、そんな魂胆を明かせば絶対に怒られると思う。

 姫始めってすごい言葉じゃないか、と唐突に思う。新年最初のセックス、姫始め。これってつまり、妻だったり恋人だったりという、自分の抱く相手のことを姫と称しているわけだろう。だとしたら男尊女卑のイメージが強い日本語にしては、なんだかイタリア的な、色男的な表現ではないかと思ったのだった。しかし語源とかを知ろうと検索してみたら、姫始めは誤用と言うか当て字で、その意味では「秘め始め」という表記が真っ当であるようだ。なるほど、秘め始め。そのまんまだが、たしかにそうである。そして秘め始めが、姫始めになって、それでも意味が通じるあたりに、情趣があると思った。なんなら「姫恥芽」はどうか。さすがにそこまでいくとただ下品だ。

 高校が共学じゃなかったことを僕はこれからも一生後悔して生きていくに違いないのだけど、そんな僕だからこそ思いついたアイディアとして、共学高校をモチーフにしたテーマパークがあればいいのではないかと思った。ディズニーでもなく、映画でもなく、レゴでもなく、ジブリでもなく、共学高校。そこに行けばいつでも共学高校に通っている高校生になれる夢の国、スクールランド。授業、文化祭、体育祭、遠足、合唱コンクール、部活、告白……、パーク内には様々なアトラクションが用意され、当時は叶わなかった体験をやり直すことができる。ちなみに断っておくが、もちろんキャストは全員18歳以上であり、特別コースの料金を支払えば、お気に入りのキャストを指名して、体育倉庫エリアに入ることも可能である。どうしたってこの話は風俗にならざるを得ないのだった。

2018年10月1日月曜日

新米・マイク・背すじ

 10月いっぴである。「いっぴ」って「ついたち」より軽やかで、初日の気分にふさわしい。
 ちょっとやさぐれ気味だった9月を反省し、今日からは前向きに暮そうと決意をした。
 そしてこれは狙ったわけではないのだが、今日の晩ごはんから、わが家のごはんが今年の新米になった。昨日、台風24号が来る前の午前中に、急いでスーパーに買い出しに行ったのである。来る前、と言ったが、実質ほぼ来ていた。屋外駐車場しかない店なので、ずいぶんな雨で往生した。そんな状況で買った10キログラムの米である。
 食べたらやっぱり格別においしい。と言うより、9月の米はおいしくなかった。夏が暑かったのとかも関係あるのだろうか、今シーズンの最後のほうの米は、本当においしくなかった気がする。そこからのギャップもあり、感動するおいしさだった。いい下半期のスタートになったと思う。

 懐かしの歌謡曲的な番組を観ていたら(こういうのが近ごろとても愉しい)、レコード大賞とか、歌の賞レースでめでたく受賞をした歌手のマイクには、リボンとか花とかの飾りがあしらわれていて、あんなんすごくいいじゃないかと思った。
 尾崎紀世彦が「また逢う日まで」を唄うときとかの、マイクのコードの感じがすごく好きで、カラオケでもマイクのコードがあればいいのにということを、これまでもちょっと思ったりしていた(実際は邪魔に違いなく、そのためワイヤレスに進化したのに違いないが)。
 なのでその代替としても、ああいうマイク飾りを自作し、持ち込めばいいのではないかと思った。それだけで「受賞した歌手風」になれる。昂揚感が出ると思う。本当はなんにも受賞していないのだが、した気持ちになって、観客席の母に手を振って、瞳を潤ませることができると思う。
 そしてこれを友達とのカラオケに持っていってごらんなさいよ。超ウケるに違いない。みんな感動して、こいつが俺の友達で本当によかったと思ってくれると思う。
 今度手芸屋に行ったとき、リボンテープとか造花とか買おう。

 バトンを回しているところの写真を撮ってもらったら、自分が思っていた以上に自分が猫背だった、という出来事があり、こりゃいかんと一念発起をして、トレーニングを始めた、はずもなく、マウスをクリックして、背すじ矯正ベルトというものを発注した。これさえ着けていれば、自ずといい姿勢が保てるようになるという、能動的なのだか受動的なのだかよく判らないアイテムである。肩の周りだけをベルト状のもので吊るタイプと、腰から上の背中全体をホールドするタイプの2種類があり、僕は後者を選択した。どうせ薄着の季節には着けないだろうから、それならばがっつりしたもののほうがいいだろうと思った。
 それをいま、装着しながらこのブログを書いている。とてもいい姿勢である。気のせいか、文章も折り目正しい、品行方正なものになっている感じがする。ちんこ、ちんぽ、ちんぽこ。