2018年8月31日金曜日

診療終了・スイカ・大人

 なんと歯医者の治療が終わる。最初に行ったとき、「どこが悪いとかじゃなくて全体的に悪い」くらいに悪し様に言われたので、いったい何ヶ月コースなのかと暗澹たる気持ちになったのだけど、親知らずを抜いて、ひどくなっている虫歯をふたつ処理して、そして全体の歯石を取って、このたび終了したのだった。すばらしい早さ。前に行っていたところ(僕以外の家族はまだ行っている)は、歯石取りだけで何回も診療を費やした。乗り換えて本当によかった。ここなら半年後の定期検診もサボらずに行こうという気になるというものだ。
 ただし診療室から出る最後の最後に、「たぶん近いうちに右下の親知らずが痛くなるよ」という呪いの言葉をかけられた。歯の右下エリアなんて、これまでの記憶の限り、まったく痛みの訴えをしてこなかった優良エリアだと認識していたので、そんなまさかと思った。それで家に帰って口の中を見てみたら、歯医者じゃなくても、僕が大きい口を開けて笑った場面で、一緒に笑い合った友達が見つけて指摘できるくらい可視的な感じで、歯茎から顔を出しかけている歯が最奥にあった。しかもそれはあろうことか、下から上ではなく、ちょっと斜めというか横と言うか、これってあんまりタチの良くない生え方のやつなんじゃねえの、という出方をしていた。それを目にすると同時に、わが家の歯抜き婆の、「上はええんじゃ、つらいのは下なんじゃ……」という言葉も思い出し、顔に縦線が入った。さくらももこのエッセイに、歯医者で笑気ガスを吸う話があったな。

 職場の昼休みに、誰が持ってきたのかスイカが振る舞われ、カットされたものをひとつもらって食べた。その場では特に何も思わず、スイカだなあと思って食べたのだけど、午後からの呼気が、人体の機構なのか、たまに胃の中の空気が口までせり上がってくるときというのがって、カレーを食べたあとはそのたびにカレーのことを思い出すあれだけど、それが今回の場合はスイカで、そしてそのスイカのにおいというのが、自分が思っている以上に嫌だった。これまでスイカには嫌悪感を抱かずに生きてきて、わが家の子どもたちはスイカを毛嫌いして食べないので、スイカを食べないなんて信じられない! と思っていたのだけれど、ここに来てスイカと自分の関係性を見つめ直したくなった。そのことをファルマンに話したら、「子どもたちがスイカを嫌うのはムカつくけど、でも前々から、どうしてあなたはスイカが大丈夫なんだろうとは思っていた」と言われ、冷静に考えてみたら、そう言えばどうして俺はウリ科の野菜を喜んで食べていたんだ……?と、どんどん謎が深まっていった。僕はもうスイカくらいしか冷たくて甘い食べものがなかった世代じゃないのに、どうしてあんなにスイカ=嬉しい!みたいなイメージが醸成されていたのか。さらに疑問なのが、そのイメージに誘導されて、子どもを喜ばせるためにスイカを買って帰ったのに、なぜわが子はそれを拒んだのか。なぜお前らは、パパが今の今までかかっていた催眠術にかからないんだ。パラダイムか。もうお前らはスイカパラダイム外の人類なのだな。

 夏の出雲で、次女の持ってきたスーパーファミコンミニを借りて遊ぶということをした。その前に買い物に出て、「ほろよい」とポテトチップスまで用意する周到さで、どっぷりとゲームを堪能する気まんまんだったのだが、いざしてみたらそれほど心が盛り上がらなかった。テレビゲーム、それもスーパーファミコンと来たら、ちょうどドンピシャで熱中する年頃だったので、吐くほどおもしろい、という強い印象があったのだが、ドンキーコングもストリートファイターⅡも、プレイする僕の心はとても淡々としていた。当時と同じ場所に来ていて、懐かしさは感じるのだが、でもここにはもう友達は誰もいないし、僕だって小学校高学年じゃない。ただ緯度と経度が同じ場所に来ただけ、みたいな、そんなうすらさびしい気持ちになった。今回のミニには入っていなかったが、大人になってから桃鉄をする機会というのが何度かあって、始める前はものすごい多幸感があったのだけど、いざ始めてみたら、そのときもやはり淡々としていた。あれっ?となった。でも本当はあれっ?でもなんでもないのだ。だって僕は大人になってしまったんだもの。大人は、コントローラーを持って、画面上で展開されることに、そこまで入れ込めない。ゲーム世界に飛び込めない。その世界の入り口よりも、僕の体が大きくなってしまったから。この思いは今年、カードキャプターさくらに対しても抱いた。今年は少年時代の僕との訣別の年なのか。でも体が大きくなった分、ちんこも大きくなったから、悪くないと思う。ちんこによって大人は肯定される。

2018年8月28日火曜日

電動・脱ぎ・虫

 電動歯ブラシがやってきて、使い始めた。最初は戸惑い、歯磨き粉を盛大に洗面台の鏡に散らした。翌日からでも職場に持っていく心積もりがあったが、もう少し練習をしてからがよさそうだ。
 それにしても震えている。1分間に35000回である。数えたわけではなく、アマゾンの商品紹介の欄にそう書いてあった。歯医者に「安物でも手よりいいよ」と言われたことをファルマンに話したら、「負けないし」と言って小刻みに歯ブラシを震わしてみせたが、あれはたぶん1分間に80回くらいだと思う。つまり1分間ごとに34920回の差がつくということだ。その圧倒的な数字が嬉しい。マウントして得られる幸せなんて嬉しいか。もちろん嬉しい。ファルマンが手動で僕の1分間の震動を歯に与えようと思ったら、437分半かかるのだ。7時間と17分半かかるのだ。それがこれなら1分。選ばれし民になったような心持ちだ。なんて汚い心持ちか。

 中国人の女の子たちの間で、TikTokで服を脱ぐのが流行っている、という噂を聞きつける。聞きつけるもなにも、YouTubeのやつが密告してきた。旦那好みの話題ですぜ、とトップページに並べてきたのだ。それで知るところになった。僕好みの話題だった。
 15秒の服を脱ぐ動画は、音楽に合わせて、トップスを次々に脱いでいくのだが、もちろんそこまで脱ぐわけではない。はおりものを脱いで、ブラウスを脱いで、Tシャツを脱いで、せいぜいがキャミソール姿までだ。そしてそれ以上を脱ごうとすると、周囲の友達や彼氏らしき人物が制止する、というのが定番の流れらしい。オリジナリティの欠如と言ってしまえばそれまでだが、誰かが最初にやった名作が模倣されて一種のソフトとなって、誰でも参加できるようになるのが、TikTokのいい所だと思う。つまりこれはパラパラの現代版なのだな、と思う。
 それにしたって「服を脱ぐ」である。すばらしいと思う。規制されるような過激なものではない、というところがいい。ある種の動画サイトのように、過激さばかりで競うようになり、エロ目的の気持ち悪い人種が集うような不健全空間になるのではなく、女の子がキャミソール程度の薄着になっていくという、そのかわいさ。ほのエロさ。そうそう、そこだったんだよ! と膝を打った。ブームが日本にも上陸し、大盛り上がりになればいいと思う。

 職場にゴキブリが出て、誰かしらが退治をした。それで、家にゴキブリが出たらどうしてるか、という話になって、各人がそれぞれのスタンスを話す中で、僕が「妻は田舎者のくせに虫が駄目で、仕方なく都会出身の僕がスプレーで処理している」と言ったら、周囲の人間は岡山県育ちの田舎者ばかりで反感を買った。「田舎の人間だって別に虫とそんなに触れ合うわけではない」と怒られた。たしかに理性的に考えればその通りなのだ。田んぼにサギがいるとか、道路でタヌキが轢かれて死んでるとかは、田舎ならではの風景だと言えるけれど、虫に関して言えば、もっと小規模なスケールで発生するものなので、田舎の中の人工空間にはあまりいないし、都会の中の自然空間にはわんさかいる。だから実は虫への耐性と出身地はそんなに関係ない(北海道にゴキブリはいない、みたいなパターンはある)。理性的に考えればその通りなのだが、しかし理性的ではなくイメージでふわっと、都会出身の僕が考えるところとしては、田舎者は虫とちょっと心くらい通わせられるはずじゃないのか、と思うのだ。なんか虫のおかげで救われた的なエピソードのひとつやふたつ、田舎育ちのお前らは持ってるんだろう、などと思う。だから虫が苦手と言われると、ちょっと釈然としない気持ちになるのだった。我ながらひどい心性だと思う。

2018年8月21日火曜日

林・マウス・薄着

 甲子園が終わる。大して試合は観なかったが、夏の中心、お盆のあたりに甲子園をやってるというのはやっぱりいいな、と思った。きっと日本人の放つ熱量で言えば、サッカーワールドカップよりも大きいと思う。それは真夏だから、というのではなくて。
 大会の中で僕がいちばん印象に残ったのは、済美対星稜の試合で、星稜が逆転満塁サヨナラホームランを打たれて敗退したあと、宿舎に戻って最後のミーティングをしていたときの一幕だ。選手である高校生たちが涙を流しながら悔しがっているところへ、監督が優しく語りかける。
「誰ひとり悪くない、今日。
 負けたら監督のせいです。
 よう頑張ってくれた。
 こういう終わり方も、またお前たちにとっては、大きな経験や。
 今日の日を忘れることなくね、次に生かしてほしい。
 ……一曲唄っていいかな?」
 テレビを観ていて、「えーーー!」となった。
 そして実際に監督の林さんは唄うのである。ちょっと掠れた涙声のアカペラで。ぜんぜん聴いたことのない曲を(歌詞で検索して、かりゆし58の「オワリはじまり」という曲だと知った)。
 この流れがとてもよかった。高校の野球部監督としてそれっぽいことを言った(ネタフリ)あと、唐突に唄い出す。本来の歌詞の「燃えるような恋をしたかい」を「野球をしたかい」に替えているのもよかった。これで応用の幅がグッと広げられた。そこさえ替えれば、このよくできた流れは、どのジャンルにも使えるのだ。やりたい。やりたくて仕方ない。いつできるだろう。やっぱり悪質なタックルのときと一緒で、ラウワンに行ったときくらいしか浮かばない。ラウワンに行ったらしなければならないことが多すぎる。

 実は先日のキャンプで、タブレットで使っていたマウスをなくした。コテージ内で使っていたのだが、翌朝の荷造りの際にどんなに探しても見つからなくなってしまった。出発前に丹念にコテージ内を調べたが見つからず、帰宅してからも荷物を精査したが出てこなかった。哀しい。
 買って、繋いで、カーソルが現れた瞬間に、「やっべ! 便利! パソコン!」と欣喜雀躍したが、その分だけ、なくなったときのショックが大きかった。世の人々は、タブレットよりも小さいスマホで、マウスもなく、どうして操作ができるのだろう。タッチする瞬間だけ、指先が細く変形するのではないか。スマホから発せられる怪光線(現代科学では感知できない)によって、そんな変異が起っているのではないか。本気でそう思う。みんな器用なのか。ビーズ細工とか得意なんじゃないか。僕は自分のことが器用だと思っていたが、どうも違ったらしい。
 そんなわけで、仕方なく同型のものをもういちど買うことにした。ない時代にはもう戻れないのだった。世の人々はまだ大半が「ない時代」の中に在る。嘆かわしいことだ。

 夏だというのに、薄着の若い女の子との邂逅があまりにもない。こうもあまりにも実物を見ないと、伝説上の生き物化してくる感がある。写真がなくて、そもそもまだ未開の地が多かった時代、ゾウやキリンといった、遠い国から伝言ゲームで伝えられる動物と、村の誰かが確かに見たと言う河童や天狗というのは、ほとんど区別がなかったと言われるが、僕にとって夏で薄着の若い女の子もほとんどそんな感じだ。これは実際にいるほう、と思っていたら、なんのことはない架空のやつだった、ということになりかねない。それくらい見ていない。
 もっとも厳密な意味で言えば、僕の思い描く「夏の薄着の若い女の子」は、2018年の日本の夏には本当にいないのだ。最近の若い女の子は、僕が決して思い描かない、感性の違うファッションを身に纏っている。ショッピングモールとかで目にするあれはノーカンなのだ。
 だから34歳、平成最後の夏、僕は薄着の若い女の子を見ていない。きっと見ずに終わる。
(追記:ファルマンがこの記事を読んで、「あなたの思う薄着ってどんなの?」と訊いてきたので、「ワンピース的な……」と答えたら、「結局ジブリってことね」と言われた)

2018年8月17日金曜日

抜歯・悪タク大・ラウワン

 親知らずを抜く。さっき抜いてきた。
 親知らずを抜くことになっていた今日の歯医者の予約に合わせて、くだんの左上の親知らずは、実はキャンプあたりからジムジムと最後のあがきを開始し、当日の今日なんかは、痛み止めがまるで効かないほどに大暴れしていた。思わず監督契約年最後の年にやけにいい成績を残して辞めさせにくくする野村克也を連想したが、考えてみたら親知らずは別に活躍をしたわけではない。むしろメガンテ的なタチの悪さだった。
 抜歯というのが初めての経験で、抜歯抜歯と言うけれど、硬いものを噛み砕けるほどしっかりと根付いている歯というものを、一体どうやって抜くというのか、と疑問だったが、そこらへんの接続を融解させる魔法の薬があるわけではなく、なんか物理的にやっていたようだった。もちろん麻酔を十分に効かせていたため、いまいちどんな処置がなされたのか把握できていない。しかし嵌まっているものを引っこ抜くのだとしたら、力の強弱や角度など、作業者のテクニックというのがけっこう物を言うのではないかと思う。その点、今回掛かっている歯科医院の医者は、わりと優れているのではないだろうか。生え方もあるのだろうが、10分ほどでグソッと抜けた。血まみれのそれを、一瞬だけ「ほら」と見せられた。長年連れ添い、生まれた場所ゆえの不運で不良化し、僕を悩ませ、そしてとうとう排除されるに至った、かつて僕の一部だったもの。痛みの元凶が取り除かれた清々しさとともに、若干の切なさも抱いた。医者は「でかい」と言った。そうか、大きかったのか、お前。
 それから軽く縫合をして、今日の治療は終わった。帰りの車中で、「早めに服んだほうがいいですよ」と言われた痛み止めを服んだ。そのおかげか、麻酔はもう切れたんだろうが、痛みはいまのところない。あまり探らないけれど、血の塊のような存在は感じる。僕はさっき歯を抜いて、いま歯茎には穴が開いているのだ。なんだか信じられない。未経験だが、破瓜ってこんな気持ちか。

 いろいろなニュースに埋もれてしまって、そこまで話題に上らなかったけれど、またしても日大の、チアリーディング部のパワハラの話はおもしろかった。「悪質なタックル」や「奈良判定」などのパワーワードがなかったので、そこが弱いけれど、この出来事の最もおもしろい点は、パワハラを受けた学生が相談をした学内の部署の長が、あのアメフト部の内田監督だった、という所だと思う。よく物語などで、虐げられている主人公が、命からがら助けを求めた先には、実は既に敵の手が回っていて、善人顔で保護したフリをしつつ、こっそりと敵の大将に密告している、みたいな展開があるけれど、これってなんかそれに似た絶望感がある。もうこの町、いや、この国、いや違った、あの大学に、清廉な部分なんてどこにも残ってないんだ。逃げる場所なんてないんだ。

 若者のツイッターを眺めていたら、ROUND1のことをラウワンと言っていて、ああこういう所だ、と思った。ラウワンにいちども行ったことがない僕は、ラウワンのことに言及する際、これまで毎回きちんと、ROUND1と表記していた。日本語入力のROUND1ではなく、ちゃんとアルファベット入力のROUND1と。そこがもうダメだ。いかにも童貞のやることだ。ラウワンにちょいちょい行く人は、ラウワンのことをROUND1などと言わないのだ。ラウワンと言うのだ。勉強になった。なので僕もこれからはラウワンと呼ぶ。これでまた少しラウワンで遊ぶ日が近づいたと思う。あるいはROUND1のことをラウワンと呼ぶ僕は、もう既にラウワンで遊んだことが何度かあり得てくると思う。「何度かあり得てくる」ってなんだろう。

2018年8月16日木曜日

300・筋力・いたずら

 今回の帰省で、次女夫婦と三女と、LINEを登録する。しかし僕がタブレットを持ったことは、キャンプなどを通して認識しているはずなのに、向こうからLINEの登録をせがんでこないのはなぜだろうと思った。仕方なくこちらから、画面にQRコードを表示させ、提示してやった。シャイなのか。自分とお義兄さんでは釣り合わないとでも思ったか。そんなことを気にする必要なんてない。たしかに釣り合うか釣り合わないかで言えば釣り合わない。三女と交換した際、「ちなみに君は登録している友達は何人なの」と訊ねたら、「314人」という答えが返ってきて、それに対して僕は交換前(次女夫婦とは既に交換して)14人だったので、そこにはちょうど300人の開きがあった。300人以上が登録されている三女のガバガバLINEと、一個のラグビーチームほどの僕の純潔LINEでは、登録すること、されることの価値がまるで違うのは言うまでもない。でもそんなことに引け目は感じなくたっていい。僕は広い心で受け入れてやる。かくして友達15人。また親戚か。

 近ごろ自覚症状が出るほどに、筋力が落ちている。特に背筋だ。背筋が落ちたせいで、自然と猫背になってしまっている。加齢で筋力が落ちての猫背って、本当に救いがない。元から猫背というのとは違う、本格的なダメさがある。このまま放置していたら、背が丸まった分、腹が圧迫され、圧迫された腹部は贅肉を前に押し出し、そうして中年太りが出来上がるのだ。中年太りは、代謝からも骨格からも要因が襲い掛かってくるのだと知った。なぜ加齢はそんなにも我々の腹を突き出したがるのか。どういう狙いがあるのか。向こうに確たるメリットがあるとは思えず、それゆえにタチが悪いと思う。なんとなく遊び感覚で責められるのが、いちばん絶望感がある。
 流れを食い止めるために、筋トレを試みることにした。腹筋は最近になってあの、仰向けに寝た姿勢から上半身を起き上がらせるあれよりも、肘で腕立て伏せの姿勢のままキープするやつのほうがよほど効果的だ、なんてことが言われ出したので、背筋にもそういうのがあるんじゃないのかと検索したら、意外となかった。それで仕方なく、ちゃんといたわってやらないとちんこが痛くなる、あのうつ伏せで上半身を反らせるあれをやった。何年ぶりか、というくらいに久しぶりにやった。そうしたら上半身が、自分でもびっくりするくらい持ち上がらなくて仰天した。精いっぱい頑張っても、ほんの一瞬、6センチくらいしか上がらないのだ。あまりにも上げられなすぎだろう、とさすがに自分でも思った。あまりに上がらないので、そもそもトレーニングにあまりならない。筋力がなさすぎて、筋肉を刺激するための負荷が与えられないのである。なんという現象だろうか。春先にランニングを目論んだとき、外に出たら風が冷たく、しかし走っているうちに体があったまるだろうと思っていたら、体があったまるよりも先に息が上がってしまい、体をあたためられなかった、ということがあった。どちらも世の中的に珍しい現象であるだろうに、「僕のトレーニング」という狭い分野で立て続けに事例が報告されて、こんなの奇蹟的だ、と専門家も舌を巻いている。

 ひとり暮しの最後のあたり、突如として自宅のブルーレイレコーダーが、なにもボタンを押していないのに勝手にディスクトレイを開示してくる、という出来事が起った。何度電源をオフにしてもひとりでにオンになり、吐き出してきて、こちらが閉じる操作をしたら引っ込むものの、またすぐに出してくるし、仕方なく無視していたらそのうちあきらめて引っ込め、しかしやがてまた出してくるという、その繰り返しだった。仕事に出ていた日中、エアコンが入ることもないので、暑さにやられたのだろうとそのときは思い、そのうち自然と直ればいいなあとあまり深く考えずにいた。そして実際、帰省から戻ってきたら、その現象は収まっていて、一件落着したのだけど、いまになって振り返ってみたら、夏場のひとり暮しのときに起ったその現象って、怖がろうと思えばもっとどこまでも怖がれた。電源をオフにしても勝手にオンになるくだりなんて、なんかしらの意思、いたずら心のようなものが感じ取れる(ちょうどその前に「平成狸合戦ぽんぽこ」を僕は観ていた)。でもそのときその恐怖にどっぷり浸ってしまったら本当にドツボに嵌まっていたと思うので、無意識の自助作用として、あまり深刻視しないようにしていたんだと思う。よくできている。

2018年8月8日水曜日

裏口・10年・ぽんぽこ

 太田光が裏口入学だった、という報道に驚く。真偽のほどはよく知らないけれど、なにが衝撃って、裏口入学のスケールだ。裏口入学と言えば、いま騒がれている文部科学省の大物の息子と東京医科大のやつ、ああいうのはスケールがきちんとしていて納得できるのだけど、この話の場合、いや、だって、日芸だぜ? となる。悪質なタックル大学夢見がち学部だぜ? この異様さを例えるならば、死ぬ前の最後の晩餐のリクエストを訊ねたら、超高級料理でもなく、逆に「白米」みたいな素朴なやつでもなく、「すかいらーく」という答えが帰ってきたような、なんかそんな気持ち。えっ、えっ、なんで? といちばん戸惑うパターン。
 なんだか今年はこういう系のニュースがおもしろいな。悪質なタックル大学と違って直接の関係はないが(悪質なタックルとも実際は関係ないのだが)、日本アマチュアボクシング協会の話ももちろんおもしろい。この一件では、「奈良判定」というフレーズがとてもいい。悪質なタックルにしろ、奈良判定にしろ、やっぱり秀逸なフレーズがひとつあると強いな、と思う。年末の例の賞への期待もいや増す。
 ちなみに記事を読んだわけではないが、太田光の自力での合格なんて怪しい、という趣旨でのエピソードとして、太田光は割り算さえできなかった、という話があるらしいが、日芸の学科試験は国語と英語だけだろう。それとも太田の時代は違ったのだろうか。

 婚姻届を出したのは2008年の8月8日なので、今日で結婚10周年なのだった。
 10年。ずいぶんな月日である。10年になってくると、夫婦としての格がちょっと変わってくる感じがある。そうそう生半可なもんじゃねえぞ、という雰囲気が出てくる。
 そんな記念すべき10周年なのだが、ファルマンは子どもたちとともに島根に帰省中なので、見事に離ればなれなのだった。この予定を組んだとき、10周年の日に離ればなれになるということはもちろんその場で判明したのだけど、結婚10周年というのは、それによって予定を変更するほどのパワーはないのだった。一緒にいたところで、きっと特段どうということもしないのだ。でもなんかしらの行動はしなければ、と考えて、まず間違いなくケーキを買って食べていたろうと思う。しかしケーキは先月の交際開始15周年にも食べた。だからこれでむしろよかったかもしれない。
 あの夏の練馬から10年。あの夏は冷夏だったんだよな、たしか。そのことひとつ取っても隔世の感がある。

 ひとりの夜、娘らのワンピースを縫いながら、観たいテレビもなかったので、「平成たぬき合戦ぽんぽこ」を観た。けっこう久しぶりに観た感想として、もっとスカッとおもしろい娯楽作品と思っていたのが、実は全編を通して悲壮感があり、逆に、こんなにも哀しいストーリーを、娯楽作品と勘違いさせるほどに、巧みに可笑しく作っていたのか、と思った。圧倒的な力によって、生きる場所も食べものも、無慈悲にどんどん奪われていくあの話は、哀しく描こうと思えばいくらでも哀しくできるだろう。それを、主人公を狸にしたり、声優に噺家をたくさん使ったりすることで、一見愉快なものにしているのだ。その愉快さが、こうして気付くと、また逆に哀しかったりもして、やっぱり高畑勲っつうのもすげえんだな、といまさらながらに強く思った。

2018年8月4日土曜日

体力・かい・べい

 毎日が暑い。仕事中はエアコンの入った場所にいるのだが、エアコンの性能が今年の暑さに追い付かず、常に微妙に暑い。よく効いた冷房が「答え」だとしたら、職場のあれは「ヒント」だと思う。たしかにそれによって乗り越えられるようになるのだが、完全に楽をさせてはくれない。教育的だと思う。数年前のように、凍えるように寒くなって自律神経が崩れるとかはなさそうでいいが、体力は日々じわじわと削られている感じがある。
 それで、どうしても体がしんどくなり、先週あたりから、睡眠時間を1時間増やした。これまで6時間目安だったところを、7時間目安にした。そうしたら劇的と言ってもいいほどに効果があった。6時間だった睡眠を7時間にすると、活動時間はたしかに1時間減るのだけど、起きているときの活力において、トータルで1時間以上の効果が出てくる気がする。35歳になんなんとする年齢で、ようやくそのことに気付いた。この論でいけば、23時間くらい寝て、1時間だけ活動すれば、僕はとてつもない力を発揮できるかもしれない。1時間でなにができるだろう。食事と射精くらいか。23時間寝ての射精はよく飛ぶかもしれない。

 したかいがあった、というときの「かい」って、これまでまったく疑問を持たずに「甲斐」と表記していたのだけど、甲斐って武田信玄のそれであって、言葉の意味とぜんぜん違うではないかと気がついた。おそらく当て字が一般化したんだろうと思う。
 それで広辞苑を開いて「かい」を見てみたら、漢字表記に【詮・甲斐】とあった。「詮」は「詮ない話だ」などというときの「詮」で、こちらはこちらで、意味だけ似ていて字が当てられたようだが、漢字の音としてはぜんぜん違って、これも違和感がある。そもそも現代において「したかいがなかった」を「した詮がなかった」と書いて「かい」と読む発想はない。
 じゃあもうひらがなが穏当か、となるわけだが、「かい」ってひらがなだと、「したのかい?」みたいな意味での「かい」と混同する(本当に意味を履き違えるわけではないが、ここで少し足踏みしてしまう)ので、それもやっぱりよくない。
 というわけで国語に関してなんの権力も持っていない僕が、新しい表記を考えることにした。思えばかつても、「さいちゅう」と「さなか」を区別するために、後者に「乍中」という表記を僕は与えた。僕はもちろんこれを普通に使っているけれど、僕の文章を僕以外の人間が目にする機会は少ないために、何年経ってもまったく浸透していかない。でも別にいい。だって世間に向けて提案しようとしているのではない。自分の文章のために考えるのだから。
 というわけで今回「かい」には、「果以」の字を与えようと思う。書き下せば、果て以て、ということである。こちらの行為による結果、みたいな意味になり、意味的にも音的にもいい線いっていると思う。いい言葉ができた。考えた果以があった。

 ファルマンが米津玄師を覚えられない。最初など「べいづげんすい」と言っていた。おかんっぽい! と思った。数年ごとに新しくなり、併せて横文字のネーミングも新しくなるテレビゲーム機を、もう開き直ってすべて「ピコピコ」と呼ぶことにしたおかんのようだ。最近やっと元帥ではなく玄師だ、ということは覚えることができたようだが、米を「べい」と読んでしまう呪縛はどうしても解けないらしく、「あの歌手の名前は?」と訊ねると、「べいっ! べい……つ? づ? べいづげんすい?」などと言う。あ、やっぱり元帥も未だに言うわ。もううちのおかん、米津玄師のインプットは無理らしい。それならもういっそピコピコって呼んだらいいんじゃないか。