2018年8月21日火曜日

林・マウス・薄着

 甲子園が終わる。大して試合は観なかったが、夏の中心、お盆のあたりに甲子園をやってるというのはやっぱりいいな、と思った。きっと日本人の放つ熱量で言えば、サッカーワールドカップよりも大きいと思う。それは真夏だから、というのではなくて。
 大会の中で僕がいちばん印象に残ったのは、済美対星稜の試合で、星稜が逆転満塁サヨナラホームランを打たれて敗退したあと、宿舎に戻って最後のミーティングをしていたときの一幕だ。選手である高校生たちが涙を流しながら悔しがっているところへ、監督が優しく語りかける。
「誰ひとり悪くない、今日。
 負けたら監督のせいです。
 よう頑張ってくれた。
 こういう終わり方も、またお前たちにとっては、大きな経験や。
 今日の日を忘れることなくね、次に生かしてほしい。
 ……一曲唄っていいかな?」
 テレビを観ていて、「えーーー!」となった。
 そして実際に監督の林さんは唄うのである。ちょっと掠れた涙声のアカペラで。ぜんぜん聴いたことのない曲を(歌詞で検索して、かりゆし58の「オワリはじまり」という曲だと知った)。
 この流れがとてもよかった。高校の野球部監督としてそれっぽいことを言った(ネタフリ)あと、唐突に唄い出す。本来の歌詞の「燃えるような恋をしたかい」を「野球をしたかい」に替えているのもよかった。これで応用の幅がグッと広げられた。そこさえ替えれば、このよくできた流れは、どのジャンルにも使えるのだ。やりたい。やりたくて仕方ない。いつできるだろう。やっぱり悪質なタックルのときと一緒で、ラウワンに行ったときくらいしか浮かばない。ラウワンに行ったらしなければならないことが多すぎる。

 実は先日のキャンプで、タブレットで使っていたマウスをなくした。コテージ内で使っていたのだが、翌朝の荷造りの際にどんなに探しても見つからなくなってしまった。出発前に丹念にコテージ内を調べたが見つからず、帰宅してからも荷物を精査したが出てこなかった。哀しい。
 買って、繋いで、カーソルが現れた瞬間に、「やっべ! 便利! パソコン!」と欣喜雀躍したが、その分だけ、なくなったときのショックが大きかった。世の人々は、タブレットよりも小さいスマホで、マウスもなく、どうして操作ができるのだろう。タッチする瞬間だけ、指先が細く変形するのではないか。スマホから発せられる怪光線(現代科学では感知できない)によって、そんな変異が起っているのではないか。本気でそう思う。みんな器用なのか。ビーズ細工とか得意なんじゃないか。僕は自分のことが器用だと思っていたが、どうも違ったらしい。
 そんなわけで、仕方なく同型のものをもういちど買うことにした。ない時代にはもう戻れないのだった。世の人々はまだ大半が「ない時代」の中に在る。嘆かわしいことだ。

 夏だというのに、薄着の若い女の子との邂逅があまりにもない。こうもあまりにも実物を見ないと、伝説上の生き物化してくる感がある。写真がなくて、そもそもまだ未開の地が多かった時代、ゾウやキリンといった、遠い国から伝言ゲームで伝えられる動物と、村の誰かが確かに見たと言う河童や天狗というのは、ほとんど区別がなかったと言われるが、僕にとって夏で薄着の若い女の子もほとんどそんな感じだ。これは実際にいるほう、と思っていたら、なんのことはない架空のやつだった、ということになりかねない。それくらい見ていない。
 もっとも厳密な意味で言えば、僕の思い描く「夏の薄着の若い女の子」は、2018年の日本の夏には本当にいないのだ。最近の若い女の子は、僕が決して思い描かない、感性の違うファッションを身に纏っている。ショッピングモールとかで目にするあれはノーカンなのだ。
 だから34歳、平成最後の夏、僕は薄着の若い女の子を見ていない。きっと見ずに終わる。
(追記:ファルマンがこの記事を読んで、「あなたの思う薄着ってどんなの?」と訊いてきたので、「ワンピース的な……」と答えたら、「結局ジブリってことね」と言われた)