2020年5月25日月曜日

パズル終了・布マスク漫談・若者と性

 パズルをやめた。嵌めやすい部分をサクサク嵌める愉しい期間が終わったあと、それでも10日間くらいは粘っていたが、やはりどうしたって時間と労力に対して成果が見合わず、それに部屋の一角もずっと占領されていて困る、ということで中止の決断をした。だって本当にマジで、嵌められずに残っているピースというのがすべて、「茶色」「黒」「緑」の、クスノキの一部でしかないものであり、それを数十分にひとつくらいのペースで嵌めていく作業は、気が狂いそうになるくらいおもしろくないのだった。ちなみに姉一家のほうは完成させたという。なにぶん姉は自腹で購入しているという意地があるので、やらざるを得なかったろうと思う。タダで手に入れた我々にその活力はない。
 パズルは、嵌められた部分はなるべく大きな塊のまま箱に戻し、またいつか発起して取り組むとき(たとえば第2波が来たときとか)が来たらやろうね、ということで押し入れの奥に仕舞った。
 パズルがそんな結末になったため、ご丁寧にセットで送られてきた額縁が、浮いてしまった。1000ピースのパズル用の額縁なので、薄いものとはいえこれもかなり嵩張る。なのでこれは押し入れに仕舞うより、いっそのことポスターでも買って壁に取り付けよう、という話になった。それでなんのポスターにするかを夫婦で考え、僕は部屋に飾るポスターといえば上杉和也の顔写真のアップだろうと思い、そんな商品はあるだろうかと検索したのだが、残念ながら存在しなかったため、ファルマンの案でビートルズのものを注文した。まあ無難でいいと思う。
 それにしてもようやくパズルから解放されてやれやれだ。もう我が家にとってこの日々が、コロナ禍だったのかパズル禍だったのか判然としない。ようやくの宣言解除だ。

 「nw」にデザイン布マスクの製作・販売について書き綴ったちょうど翌日に、ヤフーニュースに「布マスクの功罪」みたいな記事が載っていて、興味深く読んだ。やっぱりこのご時世に布マスクで儲けようとするのは、相当な信念がなければただの便乗商法になってしまうのだなあ、と自戒を込めて納得した。何度もいうけど僕は、もう布マスクをマスクとは思ってなくて、「気に入ったデザインの布製品で顔の半分を覆ってもオッケーな時代がやってきた!」というスタンスでこの状況を捉えている。そしてこの暑さも手伝って、その流れはますます加速していくのだと思う。というのも、先日眺めていたネットのアパレルショップでは、「通気性抜群!」という売り文句でオリジナルのファッション布マスクを販売していたからだ。もはやマスクでもなんでもない。
 オシャレに敏感で、そしてこれまでマスクの習慣のなかったヨーロッパの人たちは、この時代の流れに対してだいぶ忸怩たる思いがあるようで、「マスクは口輪のイメージ」と記事内のフランス人デザイナーは語っていた。馬なのか奴隷なのか拷問なのか判らないが、そうか、ヨーロッパの人たちにとって、口を覆うというのはそういうことなのか、と考え方の違いに驚いた。このデザイナーはそれでも実際にマスクを作って販売しているのだが、それにあたり中央に縫い目のあるデザインを選ばなかったという。その理由として、「戦士の甲冑のようで見た人を緊張させてしまうから」と答えていた。どうもこの人の発想には、フランス人の民族的なトラウマがだいぶ影を落としているように思えてならないが、しかし立体型マスクを忌避するのは僕も同じで、「不穏な、物騒な、由々しき感じがして、僕は怖い」(「nw」より)ということをいっていたが、それもまた日本人のトラウマとして、地下鉄サリン事件の映像とか、そういうのが影響しているのかもしれないとこの記事を読んで思った。四角いマスクは風邪や花粉用、立体マスクは化学兵器用、みたいな刷り込みが、そういわれてみるとあるような気がする。じゃあコロナウィルスはどっちなの、と問われると、またちょっと難しい話になってくる。

 この外出自粛の4月5月に、若者からの妊娠に関する相談が例年に比べてとても増えた、というニュースを目にする。目にして、腑に落ちる気持ちと、腑に落ちない気持ちがない交ぜになり、心が千々に乱れた。前者の落ちているほうの気持ちは、理性的な思考で、そりゃあ家で暇にしてたらセックスになるわなあ、と納得をしている。テレワークで家族全員がずっと家にいるようになった家もあれば、親はやはり出勤で子どもだけが残されるパターンの家もあったろう。そうなったらもう当然の帰結としてセックスということになる。それに対して後者の落ちないほうの気持ちは、若い女の性、それを享受する男がこの世にはいるのだという、いつものそこらへんの部分に対する憤りから、世の不条理を嘆いている。俺が高校生のときにコロナ禍があれば、もしもあればそのときは、うん、うん……、そうだね、コロナとか外出自粛とか中出し推奨とか、関係ないね。なんでもかんでもコロナのせいにしちゃあいけませんよ。

2020年5月19日火曜日

殺してパズル・9月入学・スポーツ

 ジグソーパズルがぜんぜん進まない。やたら難しい。子どもの頃、同じく1000ピースで「ウォーリーを探せ」のものをやったことがあり、そもそも実家で姪たちがそれを見つけたことから、今回の姉からの急なジグソーパズル送付は始まっているらしいのだが、あれはここまで難しくなかった。なぜならウォーリーの絵は、隙間がないくらいびっしりと人物や物が描かれているから、手に取ったピースがどこのものか箱を見れば大抵はすぐに分かったのだ。しかし今回の、絵の75%が大クスノキのこれは、トトロやメイなどの分かりやすい部分を嵌めてしまったあとは、ひたすら木の幹の茶色と黒(陰になっている部分)と、葉っぱの緑しかない。だからピースを見ても、全体のどの部分かさっぱり分からない。そのため、長時間やったのに2ピースくらいしか埋められなかった、なんてことになる。とてつもなく時間を無為にしている感がある。ただ上空からの光線に対して、木の幹の、葉っぱの生い茂っている上部は陰になりがちで、それに対して根元のほうは光が直接当たっているために茶色が若干明るいため、その濃淡の加減で、この明るさのピースはたぶんこのあたりだろう、と当たりをつけたりしていると、普段では考えられないほど繊細に色彩を味わっているような気がしてくる。しかし、だからなんだ、という話だ。そんな繊細なセンサーは、生活の中の別の場所で働かせたい。というか、パズルなんて本当にしたくない。一家の誰もしたくなかった。子どもも最初は食いついたけど、難易度の高さに自然と距離が生まれはじめた(当然だと思う)。勝手に送られてきた激ムズのジグソーパズルって、いったいどうすればいいのだろう。あとはもう、辞める勇気だろうか。

 にわかに9月入学の話が持ち上がって、でももし実現したとしても、編成が変わるのはピイガのひとつ下の学年からになるようで、だとしたらギリギリセーフ感がある。
 最初に話を聞いたとき、じゃあ今まで先輩だったのが同級生になったり、同級生だったのが後輩になったりするのだろうか、などということを思ったが、もう現時点で既に児童・学生になっている世代は(仮に実現したとしても)このままいくものらしい。それはそうか。
 僕は9月20日生まれなので、年度が8ー9月区切りになると、4月3日生まれのファルマンほどではないが、学年の中のとても早いほうの生まれということになる。そしてもしも僕らの時代(もはや四半世紀も前)から制度がそうであったとするならば、同級生だった人の一部(たとえばファルマン)は先輩になり、後輩だった人の一部は同級生になるわけで、そんなこといいだしたらキリがないが、人生の形がだいぶ変わってくるなあと思う。今はまだ実現するのかどうか定かではないので、幼児のいる家庭はドキドキものだろう。親が友達同士で、それぞれの子どもが数ヶ月違いで生まれたとして、現行制度なら同学年だったのに、もしも9月入学ということになれば1学年差、なんて状況もある。これはもう現状を鑑みるに、数年後に蓋を開けてみなければ判らない。じゃあこれをシュレディンガーの同級生と呼ぼう。

 オリンピックが延期になり、プロ野球、Jリーグ、大相撲も開催されず、スポーツ中継というものが日常からすっかり遠のいた。僕もプロ野球に関して、毎年それなりに愉しんでいるような気持ちになっていたが、なければないでこんなに困らないものかと思った。やってるから見てただけで、他の娯楽っていくらでもある。
 その一方で、外出自粛だったり、そもそも施設が休業していたりで、一般の人々の運動欲というのはいよいよ高まっていると思う。かくいう僕がそうだ。プールが徐々に再開しはじめていて、いつ行ってやろうとうきうきしている。
 つまり今回のコロナ禍で、人々はこんな結論に至ったと思う。
 スポーツは観るものではない、やるもの。
 考えてみたらそうだ。人がやってるのを観たって、メリットもないし、ぜんぜん愉しくない。レベルは関係ない。どんな超人的なスーパープレーを観たって、自分で体を動かすのに勝る快感はない。
 そんな結論に人々は至り、そしてオリンピックは来年開催されるとかされないとか。

2020年5月15日金曜日

笑ってジグソー・papapokke・布マスク

 姉からジグソーパズルが届く。休校で子どもが退屈してるから買うことにしたから、そちらの分も一緒に注文しといた、という連絡があったのは4月の終わりごろのことで、世の中の人間みんな同じことを考えたのか(風が吹けば桶屋が儲かる的な感じで、コロナが流行ったことで売れているものは医薬衛生品以外にも世の中にたくさんあるようだ)、発送までずいぶん待たされ、つい数日前にようやく届いたのだった。なんの絵柄かは事前に教えてもらえなかったのだが(ポルガが期待したらまずい、ということで「ドラえもんではない」ということは明言された)、文字通り蓋を開けてみたら、「となりのトトロ」だった。そして1000ピース。
 休校期間にじっくり取り組む用なので妥当なのかもしれないが、しかし1000ピース。多い。そして絵柄的に、下方にトトロとメイがいるほかは、画面のほとんどの部分が大木となっており、幹の茶色と葉の緑色ばかりで、なかなかの難易度である。もちろん9歳と6歳の娘だけでままなるものではない(また6歳のほうが壊す壊す)ので、親も駆り出される。親も、といったが正確には男親、すなわち僕だ。ファルマンはやらない。やらないというか、できないのである。考えてみたら、できるはずがない。右手に面倒臭がりの精霊、左手に大雑把の精霊を宿してこの世に降り立ったようなファルマンに、1000ピースの、茶色と緑色ばかりのジグソーパズルができるはずがない。「なんで絵をバラバラにしちゃったの」とファルマンはピースを掴んで憤っていた。パズルだからだ。
 だから実質、僕が70%、ポルガが25%、残りのふたりで5%くらいの働きで進めている。70%も担っているというと、なんだかジグソーパズルが得意なような、なにしろ姉から届いたわけだし、もしかしてパズルを嗜む系の家の人なのかしら、と思われるかもしれないが、もちろんそんなことはない。(す、すごく時間の無駄だ……)と思いながらやっている。でも居間に簡易座卓を出してその上で取り組んでいるので、完成して額縁に入れてしまわないと(ご丁寧に額縁も送ってくれた)いつまでも部屋が片付かず、それが嫌で仕方なくやり進めているのだった。バイト代欲しい。

 minneというハンドメイド作品販売サイトにお店を出して、オリジナルグッズを売り始めた。「nw」にも書いたことで、「nw」と「hophophop」で読者層が分かれているはずもないのだが(そもそも分かれるほどの分母がない)、こちらにもいちおう記し、リンクも貼っておく。商売なのでガツガツしているのである。→PAPAPOKKE
 それでガツガツついでに、Twitterも始めた。悖鬼ではない。なんだボッキって。minne舐めてんのか。minneの世界に勃起はない。ただただ素敵な平常世界である。だからTwitterも当然、分ける。別アカウントというやつである。それがこちら。papapokkeである。こちらではminneに出品をしたとか、あるいは家族を中心としたほんわかした内容ばかりをつぶやいていくつもりだ。ちなみにこっちがパピロウの本当。悖鬼のエロ短歌とか、毎日すごく無理してやっている。でもアップしないと人質になっている親友が殺されるので、泣きながらやっている(たまに忘れてアップしない日もあるが、そのたびに死んでる)。それがこっちではのびのび、ただ自分が愛しいと思うことを素直につぶやけるのだ。ああ嬉しい。絶対に間違えてエロ短歌をアップしないようにしよう。

 minneを始めて、まずはトートバッグを出品して、他になにを出そうかなあ、などと考えると、どうしたって布マスクという発想が頭をもたげる。実際、minneにおいても布マスク市場はなかなか活況のようである。
 でもパピロウ、布マスクを作ったとき、山梨の中学生に敬意を表して布マスクで金儲けはしない、と宣言していたじゃない。もうなの? もう宗旨替えなの?
 いや違うんですよ。あれなんですよ。聞いてくださいよ。状況が変わってきたじゃないですか。官製マスクが一向に届かないまま、世の中に不織布マスクが戻りはじめ、感染もちょっとひと段落した感じがあり、緊急事態宣言の解除もはじまって、しかも気候も暑くなってきて、普通に考えたら布マスク(しかも不織布に較べてウイルス対策での効果は乏しいとさんざんいわれる)の需要なんてもうあんまりないはずなんですよ。なのに売れてる。それはなぜかって話なんですよ。
 それは、感染がひと段落したといっても今後は「ウィズコロナ」っつって(それにしても今年の流行語大賞はどうなるんだろう)、コロナと共存していく社会においてマスクは必須だし、不織布マスクが店に出はじめたといってもその値段は半年前の5倍以上するので、だから布マスクにはやっぱり需要があるのだ、ということになるわけだが、だからもうこの場合の、これからの社会における布マスクというのは、もう不織布マスクの代替品じゃなくて、着けるのが当たり前の衣料みたいな立ち位置になっていくんだと思う。これも布マスクを作ったときの「nw」の記事内(上のリンク参照)で書いたことだが、かつて白だけだったマスクにさまざまな色が使われはじめた(といってもコロナ前の話なのだが)のは「パンツみたい」な進化の仕方だ、という見方があるけれど、今回のコロナ禍を通してマスクの概念はさらに進化し、パンツから、ずばりTシャツになったのだと僕は思う。僕らはこれから、夏に自分のセンスに合ったさまざまなTシャツを着るように、気に入ったいろんな布マスクを着けて生きていくんだと思う。本当にそんな存在に布マスクはなったのだと、自分自身をはじめ、最近の街中の布マスク着用者を見ていて感じる。
 そして僕はこれがとても嬉しい。たしかに暑い。5月でこれでは7月8月はさすがに無理かな、とは思うものの、何年か前から批判めいた口調で指摘されていた「伊達マスク症候群」に、人類は強制的に追いつかされ、価値観はひっくり返り、伊達マスク症候群こそが推奨され、マスクを頑なに拒むおっさんが忌避される世の中になり、僕はこれまでインフルエンザシーズンと具合が悪いとき以外は基本的にマスクをしない人間だったが、今回のことでずっとマスクをするようになって、そうしてしみじみと思うのは、マスクはしているとすごく楽なのだった。鼻と口が隠れていると、対外関係がすごく楽。たぶんコロナ前の「伊達マスク症候群」という指摘は、その楽さを、「社会において大事なことをサボりやがって!」という意味で糾弾していたわけだが、これからはそれが感染予防という大義名分の下、許される社会になる(客商売などのために透明パネルの飛沫ガードというのがあるようだが、なぜそこまでして鼻と口を見たいのだろう)。それはとても喜ばしいことだと思う(それにしてもこのあたりのことは、トランプ大統領が意地でもマスクを着けないことや、イスラム(の特に保守的なほう)の女性の目しか出さないあの頭巾のことなどを思うにつけ、なかなか文化人類学的に根深い問題なのだろうと思う)。
 というわけで、話はだいぶ長くなったのだが、僕がもしも今後minneに布マスクを出品したらば、それは火事場泥棒や不安商法といったものではなく、Tシャツを売る感覚で売っているのだ、と解釈してほしい。つまり僕は、実際に作って売るかもまだ分からない布マスクのために、ここまで語ったわけである。なんだろうこれは。矜持だろうか。

2020年5月8日金曜日

DAIGOの功罪・味噌汁・あつ森

 官製マスクについてのDAIGOのコメント、「俺にはジャストサイズ」に感銘を受けた、という話をひとつ前の記事でして、あのときは本当に、DAIGOすばらしい、と素直に思っていたのだけど、あれから日が経って、DAIGOと加藤紗里以外の芸能人のところにも官製マスクが続々と届いているようで(岡山県のわが家にはまだ来ていない)、届いたそれを着けては、その姿を撮影してブログにアップし、それを見たファンがコメントで「顔ちっちゃい!」と褒める、というのが定番の流れみたいになっている様を見て、これはよくない、と思っている。心情的にDAIGOのことを悪く言いたくはないのだが、でもやっぱりこれはDAIGOから生まれた流れと言わざるを得ないこととして、官製マスクは今や、「小顔かどうかの判定装置」みたいになってしまっている。政策に対する不満をぶつけてマスクそのもののことを悪く言ってはいけない、それを本当に必要とする人もいるのだから、その人が着けづらい雰囲気を作ってはいけない、ということを前に書いたが、実際にはそれとはまるで別の角度から、一般人が着けづらい空気が醸成されてしまったといえる。
 そもそも官製マスクは、主に子どもが着けるのを想定しているのか(世帯分としては届いていないが、実はそれに先行して別枠で子どもたちが小学校でもらってきた)、わりと小さい。でもこれはそういう意図なんだろう、大人のサイズに合わせたら子どもが着けられないから、子どもに寄せたんだろう、と思っていた。だから大人が着けた状態としては、安倍首相のあの姿こそが正しいのだ、ともいえる。ちょっと大の大人にとっては小さい感じもあるが、そこは子ども寄りのユニバーサルサイズなのだから仕方ない、それを大人はなるべくいいポジションに当たるよう調整しようぜ、大人なんだから、というスタンス。いっっっっさいの(力を込めて)説明はないが、そう解釈してやるのが良識のある大人というものだろう。そこへ、もちろんDAIGOはDAIGOで、悪評ばかりが目立つマスクの擁護として言ったわけだが、「小さいなんてことはない」という発言が出てしまった。これで本当に話がややこしくなってしまった。
 しかしこの混迷する状況には、大きな商機が隠されていると思う。ガーゼが手に入れば、という前提だけど、官製マスクの作りはそのままで、実はふた回りほど大きく作ったものを売ればいいのである。「小顔かどうかの判定装置」となっている官製マスクの、シークレットシューズみたいなバージョン。これを着ければ、別にぜんぜん小顔ではないあなたも、「#俺にはジャストサイズ」。たぶんすごく売れると思う。でも官製マスクは出品禁止か。

 昨日「ケンミンSHOW」を観ていたら、大阪特集の中で、大阪では一般的な和食の献立の際、左手前にごはん、右手前にメインおかず、そして左奥に味噌汁、というふうに配置をする、という話をしていて、とても驚いた。いわれてみたらそのほうが、「左手前にごはん、右手前に味噌汁」よりもよっぽど合理的だ。ごはんと味噌汁には、「椀を左手で持ち上げて食べる」という共通点があり、おかず皿にはそれがない。だとすれば、椀を持ち上げる必要のあるそのふたつを左に置くのは理に適っている。逆にいえば、味噌汁を右に置くのはなんの理にも適ってない。それだのに僕はこれまでの人生で、せっせせっせと味噌汁を右に置き、子どもたちにもそうしつけていた。なんと不見識だったことか。食事に関する不見識といえば、以前どこかで、「箸なんて形状の道具が、物を突き刺して食べることを想定していないはずがない」という文言を目にして、それもそうだ、と目から鱗が落ちたことがあった。日常の中に不見識は溢れている。不見識は、不見識であるがゆえに、不見識な状態のさなかにある間はそのことを認識できない。だからその蒙が啓かれるとすごく驚きがある。ファルマンにこのことを話し、「だからわが家はこれから味噌汁は左奥に置こう」といったら、「あなたってわりと影響されやすいよね」と呆れられた。柔軟といってほしい。

 外出自粛の影響もあり、「あつまれどうぶつの森」が大いに売れているという。義妹たちもやっているようで、ゲーム画面を見せてもらったのだが、僕にはどうにもあのゲームの魅力が理解できないのだった。そもそもあれをゲームといっていいのだろうか。あれは要するに、このコロナ禍で精神が参った人たちがすがる、箱庭療法みたいなものだろう。なんかあの世界に横溢する、空虚な明るさみたいなものが、傍から見ていてとても恐ろしく思える。あの世界に浸ったあと、現実のコロナのニュースを見たら、落差で余計につらくなるのではないだろうか。心配だ。ウザいおっさんだな。