2023年6月29日木曜日

左・口笛・手書き

 クロールをしながら気が付いた。
 左手がサボっている。
 僕のクロールはほとんどキックをせず、ほぼ手の掻く力だけで進むのだけど、その手も、実質右手だけしか稼働していないのだった。左手ももちろん右手と同じ動きはしているのだが、右手の動きのオノマトペが、ザッパァ、ザッパァ、であるとするならば、左手のそれは、ペショッ、ペショッ、という感じ。こいつ、やってるフリをしてるだけで、実はぜんぜん水を掻いてない。こういう奴、集団に必ずひとりはいる。
 うすうす疑惑はあった。よくできた右手に対し、左手は不出来な部分があり、基本的に消極的だし、どうしても動かなければならない場面でも真面目にやらない。たとえば右腕の毛を剃るためにはどうしても左手で剃刀を操らなければならない。そんなとき、左手は必ずと言っていいほどに右手を傷つけるのだった。どこまでも左手はひねくれている。そのため大抵の作業は右手主体で行なうこととなり、右手にばかり負担がいってしまう。
 本人の言い分を聞けば、もともとお前が差別したんだろうが、ということになるだろう。たしかに右手ばかりを偏重し、左手を蔑ろにしてきた面は否めない。早い段階からもう少し左手のことを気にかけてやっていたら、ここまで左手が卑屈になることはなかったとも思う。
 この問題は、右手だけが大変である、ということだけにとどまらない。僕の勃起というのは基本的に左に向きがちなのだけど、これも右手ばかりが主体的に動きがちなのが原因だと思う。右手でなにかしらの作業をするということは、体の前面にあるものを、右手で抱くように扱うことになるわけで、体としては左方に向くことになる。体そのものは、正面を向こうと思えば向けるわけで、そのことには気付きにくいが、勃起というのは、上下の操作は静止していてもそれなりにできるが、左右は無理で、それは自然に身を任すほかない。そのため体全体が左方に向いているということが、如実に出てしまう。
 左を向くことは前から気になっていて、どうにか直らないものかと思っていたが、原因を突き止めることなく、手でどうこうしようと思っても無意味なのであった(さらにはそのとき用いる手が結局右手なわけで、右手でちんこを掴んでいる限り、どれほど無理やり右に向けようとしたところで、ちんこは左を向き続けるのだ)。
 今回、原因が判明したので、これからは左手の稼働というものを意識して生活していこうと思う。左手でなにかをやりにくそうにしている僕を見かけたら、ちんこのことに思いを馳せ、エールを送ってください。

 子どもたちが口笛を吹く。それ自体を咎めようとは思わないが、夜にも吹くので、そのときは「夜に口笛を吹いたらダメだ」と注意している。夜に口笛を吹くと、ヘビが出るのだったっけ。たぶんいちばんオーソドックスなのがそれで、でもこういうのって地域によってバリエーションがいくらでもあるんだろうな、と思う。
 夜に爪を切ると親の死に目に会えない、という、迷信というか、昔ながらの注意があり、でもこれは、照明器具のなかった昔、暗い中で爪を切ると狙いを外してケガをすることが多かったから、という真っ当な理由があると聞いたことがある。
 じゃあ夜に口笛を吹くな、にはいったいどんな真意があったというのか。
 親になり、子どもが口笛を吹くようになって、その答えが自ずと判った。
 なんかムカつくからだと思う。
 耳障りなので、なるべくなら口笛なんか吹かないでほしい。でも完全に禁止するのもなんだから、少なくとも夜はもう勘弁してくれよ、ということだと思う。
 ちなみに僕は口笛が吹けない。

 おもひでぶぉろろぉぉんの一環として、ウェブにアップしていない、「俺ばかりが正論を言っている」前夜の手書き日記、2006年の春、無職時代のそれを読み返す作業をしていたのだが、感じ入る部分が多すぎて、なかなかスムーズに読み進められず、それどころか、にっちもさっちもいかない、しょっぱい日々の記述に、ちょっと気持ちを引っ張られる気配があり、どうもこれは精神衛生上あまりよくなさそうだぞ、と思い至り、もうなるべく早く終わらせることに決めた。ちょうど明日が月末なので、明日で終わらせようと思う。
 誰とも繋がろうとしない、だから実際ほとんど誰にも読まれていない日記を、しかしウェブ上にアップし続けることに、いったいなんの意味があるのかと、まあさすがにいまさらそんなことを思い悩んだりはしていなかったが、それでも今回の経験により、それであってもウェブ上にアップするのって大事なのだ、としみじみと感じた。いやまあ、この手書き日記の場合、書くことで、諸々のどうしようもない気持ちを必死に紛らわしていたのだろうから、書くことに意義はもちろんあって、それを読み返してしまっている現在の僕が間違いなのだけど、やっぱり文章というものは、ある程度気取るというか、他人の目を意識して鎧を纏わなければ、なんかもう本当に生身でえぐいものだな、と思いました。

2023年6月22日木曜日

音楽・ソロ・伸びしろ

 ポルガが一丁前に音楽を聴くようになった。なにを聴いているのかと言えば、主にボーカロイドの曲のようである。いまどきだな。いまどき、なんだよな? もはや正確ないまどきというものが察せなさ過ぎて、なにを言っても間違っているような気がする。
 一家で車で出掛けるということになると、誰かしらのスマホと接続し、プレイリストを再生させるのだけど、どうしたってそれは子どものものになりがちで、そうなるとボーカロイドの曲ばかりが流れることになり、運転手はだんだん心が死んでゆくこととなる。これは本当におっさんぽい症状だと我ながら思うのだけど、ボーカロイドの歌って、聴いているとだんだん気持ち悪くなってくるのだった。声がまず異様だし、テンポも速く、さらには繰り返しのフレーズが多かったり、音の重ね方がすごかったりするので、3曲くらい聴くと堪らずギブアップとなる。
 ところで走行中は車載オーディオのBluetooth接続の操作が不可になるため、ずっと停止しない高速道路などでは、途中でプレイリストを再生するスマホを変えたくても変えられず、ずっとひとりの音楽ばかりが再生されることとなり、それがちょっと不便だなあと思っていたのだけど、先日、共有のプレイリストというものを作れるということが判明し、それに各自の聴きたい曲を入れて、誰のスマホを接続するということもなく、それをひたすら再生すればいいのだ、となった。それはとても簡潔ですばらしいのだけど、そうなるとやはり、そこにガンガン曲を入れるのはポルガで、ティーンというのは音楽を聴くものなのだなあと、自分のことを思い出すにつけしみじみと感じるのだけど、しかしその行為をそのままのさばらせておくと、わが家共有の「ドライブ」プレイリストはボーカロイドの曲ばかりになってしまい、運転に支障を来すので、ティーンのような音楽への情熱はまるでないけれど、自衛策として、自分を救うための曲をダウンロードし、入れた。研ナオコの「ひとりぽっちで踊らせて」や、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」、松任谷由実の「ANNIVERSARY」などだ。ポルガのボーカロイドの曲30曲くらいと、ファルマンのロック15曲くらいの中に、まだこの3曲だけ。給水ポイントが少なすぎる。

 義兄が友達5人くらいと一緒にソロキャンプをしたんだって、という話を何ヶ月か前に母から聞いて、大爆笑した。僕とファルマンの中で、世界でいちばん友達の多い人間である義兄。そんな義兄が、巷で話題のソロキャンプというものをしてみたいと考えた結果、友達を誘ってみんなでソロキャンプをするという、とてつもない奇策に至ってしまったのだと思った。それはもはや浅ましいを超えて、いじらしいと思った。流行りに乗りたい。でもひとりぼっちは嫌だ。だからみんなでソロキャンプ。情けなくて愛しいじゃないか。
 しかし、そんな阿呆なことをするのはこの世で義兄(とその周辺)だけだろうと思っていたら、しばらくしてヤフーの記事で、その名も「ソログルキャン」として、そういう趣向がひそかなブーム、などと伝えられていたので、そうなんだ、義兄だけじゃないんだ、と驚いた。
 ソログルキャンのメリットは、それぞれテントや食事などは独立していて自由でありながら、いざというときはすぐ近くに仲間がいるので安心感がある、という所らしい。
 言いたいことはいろいろある。ツッコミどころを挙げていったらキリがない。もっとも、そもそものキャンプに魅力を感じない人間が、その上にふたつも修飾語のつく、すなわちさらに細分化されたジャンルのキャンプの情趣を理解できるはずがないのである。
 ツッコミではなく、どうしてもひとつだけ言いたいこととして、基本的につるむのが好きな人間が「ソロキャンプ~♪」などと言うのって、まるで中学時代、普段アニメなど観ない層の同級生がエヴァンゲリオンの話で盛り上がっていたときのような、なんかそんな気持ちになる。なんか、同じものを観て、同じ言葉を使っても、我々と彼らは、たぶんぜんぜん交わっていない。時空レベルの違いを感じる。

 先日のレジャーで、ファルマンは1年以上ぶりにプールに入り、だから僕の泳ぐ姿というものも1年以上ぶりに見たことになるので、年間会員として日々切磋琢磨していることもあり、「どうだった?」と泳ぎについて訊ねたら、「ぜんぜん気配がしないから急に近づいてきて気持ち悪かった」という答えが返ってきた。
 水の抵抗を減らすことを念頭に、手を水中に入れるときやキックなど、なるべく水を荒立てずに泳ぐよう普段から心掛けていたのだけど、自分では分からなかったが、どうやらずいぶんな境地にまで到達していたようだ。嬉しい。ただ水の抵抗を減らしたことで、泳ぐのが速くなったとか、長い距離を泳げるようになったということは、実はあまりない気もする。
 以前、筋トレにおいても同じ現象が起こったが、どうも僕は運動神経があまりに良すぎるようで、トレーニングをしようと思っても、体が自然と無駄のない最適解の動きをしてしまい、そのためそれなりに淡々とできてしまい、成長が起らないのだった。要するに、伸びしろがない。磨く部分がないのである。これはこれで考えものだと思う。なんでもできていいじゃないかと思われるかもしれないが、案外これも、寂しいものですよ、はい。

2023年6月13日火曜日

マジック・灯油・パンツ!

 ファルマンがこのたび、googleのストレージの容量を増やす契約を結んだのだが、そうしたら特典で、あの「消しゴムマジックで消してやるのさ」でおなじみの消しゴムマジックが使えるようになったという。ちなみにファルマンはあのCMのフワちゃんのモノマネを前からめっちゃしていて、最近はもうハリウッドザコシショウばりに、誇張し過ぎて原型をとどめていないほどなのだが、そんなファルマンにとうとう本物の消しゴムマジックが与えられたのである。ということで喜び勇んで、「消しゴムマジックで消してやるのさ」をしようと思ったのだが、子どもたちを撮った写真の、背景に入り込んだ他人を消してみようとアルバムを探したところ、「……ない!」となった。背景に他人が入り込んだ写真が、アルバムにぜんぜんなかったのだった。消しゴムマジックを使うまでもなく、行政マジックによって、人口は十分に消失していたのだった。しゅんとなった。

 灯油が余っていた。灯油余り問題は、この2ヶ月弱、われわれ夫婦を悩ませていた。
『給油はガソリンと同時に、灯油も入れた。灯油缶は家にふたつあって、いま1缶は空になり、もう一方も残りが半分くらいという状態であり、かなり悩んだ。もしかしてもうこの半分ほどの残りで乗り切れるんじゃないのか、ここで1缶分の補充をしたら持て余すことになるんじゃないのか、と。しかしファルマンと協議した結果、まあ朝晩は寒いし買っておくか、という結論に至った。買ってしまえばやはり心強い。もしこのままどんどん暖かくなり、持て余したとしても、この時点での安心を買ったのだと思えば損はないと思った。』
 「おこめとおふろ」にこの記述がなされたのが、3月5日のこと。それ以降さすがに買い足すことはしていないはずなので、このときのものがずっと残っていた。今年はやけに見誤った。言い訳するならば、春先、住んでいるコーポの外壁塗装工事があり、エアコンが使用不可だったというのも、灯油との関係が断ち切れなかった原因のひとつだと思う。
 5月になっても余っていた灯油を使い切るべく、少し肌寒い朝などに積極的にストーブを稼働させたりしたが、どうもストーブとしてももはや気合が入らないらしく、冬場はあれほどすぐに給油を呼び掛けてきたくせに、ほぼ燃焼していないようで、いつまでもタンクは空にならないのだった。
 そしてとうとう6月に突入し、ストーブの横に扇風機が並ぶという、珍奇な風景がリビングに展開された。これはもういよいよダメだろうと、使用するのは諦め、どうにか処分するしかないだろうと観念し、検索したところ、とあるガソリンスタンドで回収してくれるという情報を見つけ、電話で確認した結果オッケーとのことだったので、持っていった。そうしたら、ピットの奥に巨大なオイルポットのようなものがあり、そこに注ぐというシステムだった。ガソリンスタンドでは、なんかしらの作業に使用できるのだろうか。それならいい。わが家で3ヶ月以上くすぶった灯油も浮かばれるというものだ。
 長らく懸案事項だった灯油が片付き、部屋も心もとてもすっきりした。来年はこんなことにならないよう立ち回りたいが、まあ余らしてもこの手段があるのだな、という経験則を得た。

 とにかく明るい安村がイギリスのオーディション番組で大ブレイクしたというニュースに触れ、とても喜ばしい気持ちになった。
 しかしこの番組の映像を見てひとつ思ったこととして、安村がポーズを取ったあと、「安心してください、穿いてますよ」の英語ver.として、「Don’t worry, I’m wearing」と言うと、向こうの審査員の女が言い出したらしい、「パンツ!」というコールをする、という流れがあるのだけど、向こうの人って、安村が穿いている、いわゆる下着としてのあれを、なんだ、パンツって言うんじゃんか。
 なんかほら、向こうの人が言うパンツって、われわれがズボンと呼んでいるものを指すのだとか、たぶん四半世紀前くらいから急に言われ出して、ズボンという表現はダサく、死語であり、これはパンツ(イントネーションは尻上がり)であるという、なんかそういう風潮があっただろう。でもなかなか定着せず、「パンツ」で商品検索すると、ズボンと下着、両方同じくらい出てくるという、にっちもさっちもいかない状況が、日本ではずっと続いていたじゃないか。
 でもこのたび結論が出た。下着がパンツでいいのだ。だから、パンツはやっぱり下着なので、ズボンはズボンと呼べばいいのだ。向こうの人たちがなんと呼んでいるのかは分からない。ズボンでないことは確かだ。ズボンは、脚をズボンと入れるからズボンなのである。なんと愛らしい語源であろう。堂々と使っていきたい。

2023年6月3日土曜日

サギ・暦・よそ者

 仕事の帰り道、田園地帯なのだが、その中の1枚の田んぼが、白かった。運転中でメガネを掛けていたため、なぜ白いのかはすぐに判った。サギなのだった。
 サギって日常の中で相対するにはちょっと大きすぎる生き物だと思う。倉敷時代も、家のすぐそばを用水路が通っていたためか、ゴミを捨てる際など、ちょっともう会釈くらいしたほうがいいのかな、というくらい至近距離に、1メートルを超える大きさのサギが平然と立っていたりした(体が大きいためかスズメなどのように臆病ではないようで、逃げないのだ)。横浜や練馬の暮しにそれは登場しなかったので、田舎暮しが長くなった今でも、見るたびに驚く。このあたりの部分に、先天的田舎民か後天的田舎民かの差が出る。
 しかしそんな田舎のサギ事情でも、大抵の場合、ひとつの視界にサギは1羽である。サギは群れで生活するタイプの生き物ではない(おそらく)。たまに2羽、3羽くらいが端々にいて、視界の中に同時に収まることはあるけれど、せいぜいそのくらいだ。
 それが今回の目撃の場合、田んぼを埋め尽くすほど、つい先ごろ植えられたばかりの苗はまだまだか細く、張られた水の水面は暮れなずむ夕空と同じ色を浮かべていたが、その1枚の田んぼだけは、それよりも白い面積のほうが大きかった。
 50羽以上いたと思う。
 帰宅後の食卓で家族に向かってこの話をしたら、「なぜ写真を撮らなかったのだ」と責められた。たしかにその通りだ。撮ればよかった。話だけでは、父の語ったビッグフィッシュである。続けてファルマンに、「アップしたらバズったかもしれないよ」とも言われた。
 ちょうど先日、嘘か誠か知らないが、田んぼの持ち主に向かって、カエルの鳴き声がうるさいから対策を取ってくれ、という手紙があった、というツイートがバズっていた(たぶん現代の世相を反映させた風刺の創作だろうと思う)。田舎のカエルの鳴き声は、たしかにすごい(でも6月に入ってピークは超えた)。それに関してもしも対策を取るとするならば、それはもうサギの大量投与しかないだろうと思う。
 というより、水を張った田んぼにカエルの鳴き声が鳴り響くのも自然現象ならば、それがやがて落ち着き、落ち着いたと思ったらサギが気色悪いほど増殖しているのも自然現象で、対策というか、そういうサイクルだ。カエルの鳴き声対策にサギを大量投与することはできない。カエルを食べて、サギは数を増やすのだから。サギの体の大部分は、たぶんカエルでできている。ありとあらゆる生命はそうやって連綿と連なっているのですよ、猿田。

 先週「整理」で書いたように、150枚ほどあるショーツをひとつの大きなカゴに入れ、そこへ毎日ずぼっと手を差し入れ、指の先に遭った1枚をピックして穿くということをしているのだが、これがとてもおもしろい。これまでの恣意的に選ぶスタイルでは絶対に選ばなかったようなものも一切の忖度なく選ばれるので、毎日「おっ、こう来たか」みたいな新鮮な感動がある。唯一の不満は、140枚くらいある、フロントが1枚のガーリーライクショーツに対し、のび助ショーツは10枚ほどしかないため、ぜんぜん当たらない(今週はいちども当たらなかった)という点で、この制度を取る前の半月間ほどは、恣意的にのび助ショーツばかりを穿いていたため、久々のガーリーライクは、ちんこの置き場所というか、根源的な姿勢の違いみたいなものに、戸惑いがあった。ちんこを、こんなふうに下方に押し込むような感じにしてしまって、よくなくないの? と不安を抱いた。でもその違和感も1日ほどで薄れ、やっぱりこれはこれで魅力があるよなあ、と再認識したりした。そうでなければ140枚も作ったりしない。それでもこれからはバランスが良くなるよう、のび助ショーツを主体に数を増やしていこうと思う。そうしているうちに、やがてショーツの数はとうとう365に達するだろう。そうなればショーツは暦になる。ショーツが暦になるってなんだろう。俺が言って俺が分かんなかったらこの世の誰にも分かんないじゃんね。

 先日、ひそかにおろち湯ったり館へ行った。週末の夜であった。ホームページに、「週末は夕方にかけてたいへん混雑するためお待ちいただく場合がございます」と書いてあったので、どうなんだろうとおそるおそる行ったのだが、なんのことはない、蓋を開けてみたらプールなんて貸し切りだった。「夕方にかけて」ということなので、夜はピーク後ということか。たしかに田舎の夜は早い。お年寄りしか行かないような昔ながらのスーパーは、16時半くらいに刺身が半額になるのでびっくりする。サマータイムかな、と思ったりする。
 サウナはさすがに貸し切りではなかった。たぶん、毎晩来ているのだろう地元のメンツがいて、僕以外は誰もが顔見知りのようだった。雲南市に観光客ってひとりもいないのだろうか。土曜の晩だぞ。地元の人たちの会話は、それはもうえげつなく、今ここが日本でいちばん田舎臭いサウナじゃないかな、ということを思ったが、たぶん同率一位が日本中にたくさんあるだろうとも思った。
 田舎の、人が少ない割に、施設が充実している空間に、永遠のよそ者として存在できるのって、すごく恵まれているな、ある意味俺は透明人間として温泉に来ているな、もちろん入るのは男湯だけどな、などと思った夜だった。