2019年4月27日土曜日

ストイック・パンツ・茶魔

 いい体になるために摂生をしている。夜に麺類を食べていないし、週末の晩酌もビールや日本酒ではなく、チューハイやハイボールにしている。さらには菓子類もほとんど口にしていない。
 そんな暮しで愉しいか、と以前の僕なら言ったと思う。お酒と甘いものを抜いて、なんのために生きているのか。そんな抜け殻のように生きて幸せか、と。
 もちろん愉しいのである。この精神状態になってみて思うのは、上記の行動は、結果的に「摂生」と呼ばれるものになっているというだけで、かつての晩酌を毎晩していた自分と、今のいい体を作ろうと励んでいる自分、その行動理由はどちらも喜びを得るために他ならない。お酒を飲んで幸せか、やってくるいい体のことを思って幸せか、ただその違いがあるだけで、幸福希求の表現が変わっただけの話なのだ。
 そしてこれは僕のこの、晩酌と筋トレを例にした場面にしか通用しない理屈ではなくて、精神(および動物の本能)とは、常に自己の利を求めて動く、きわめて物理的なものだと思っているので、だからアスリートとか修行僧とかって、よくストイックという言葉で褒めそやされるけれど、実はぜんぜんそんなことなくて、彼らなりの快楽物質の発生しやすい方向に身を振った結果がああなっているだけなんだと思う。

 ボクサーパンツには前開きタイプと前閉じタイプがある。前閉じは単なる短パンであるのに対し、前開きはちんこの所で右からの布と左からの布が重なるようになって穴を塞いでいる形で、だからそこからちんこを出すことができるのが特徴である。
 そして僕は断然、前開き派なのだった。前閉じ派の気が知れなかった。前閉じなんてどう考えたって不便だろう。あんなものなんのために生産されるのだと思っていた。せっかく気に入ったデザインのものを見つけても、前閉じタイプだから買わない、なんてことがこれまで何度もあった。
 そんなある日である。排尿のために小便器の前に立ち、ズボンのチャックを下げ、そこから手を突っ込んでちんこを出してハッとした。
 俺、前開きの穴、使ってない!
 チャックを下げたあと、突っ込んだ手はボクサーパンツのウェストゴムを掴み、それを下げて陰嚢ごとまろび出していた。僕はそういうスタイルなのだった。なんか、てっきりあの構造を活用しているような気がして、前開き派を堂々と標榜していたのだけど、実は別にぜんぜん使っていなかったのだった。新発見だった。
 これによりパンツ選びの選択肢が広がった。

 「おぼっちゃまくん」の主人公が使うギャグと言うか、独特の言い回しのことを茶魔語というのだけど、その中に「ともだちんこ」というのがあって、この前ふとそのことを思い出して、「ともだちとちんこって、俺の二大テーマがどっちも入ってるじゃないか!」と衝撃を受けた。友達とちんこについて、本当にこれまでいろいろ考えてきたけれど、それって結局は「ともだちんこ!」という一発の叫びに集約されるのかもしれないな、と思った。すばらしい言葉だ。ちなみに英訳バージョンでは、「friendshipenis」だという。フレンドシッペニス。すばらしい。すばらしいなあ。

2019年4月25日木曜日

離陸・和製・IH

 数日前、国内のどこかの空港で飛行機が離陸を失敗した、というのがニュースになっていた。最初ヤフーニュースの見出しで見たとき、すわ墜落かと思ったのだけど、失敗したのは離陸のほうだった。ちょっと意外だった。
 もう久しく飛行機に乗っていないが(練馬から島根に移住する際に乗ったのが最後だと思う)、乗った時の記憶を掘り起してみると、飛行機に乗ったときの恐怖や絶望感というのは、飛行機が浮かんだ瞬間に発生するのだ。その瞬間、やってしまった、と思う。飛行機が絶望感の乗り物だと、その前の搭乗で思い知ったはずなのに、俺はまたやってしまった、また浮かんでしまった、浮かんでしまった以上、もう俺の生殺与奪は機長次第だ、そしてこの飛行機の機長はドイツかどこかで起ったあの事件のように頭がおかしい奴だし、さらに言えばこの機体に関してはなぜか整備士もぜんぜん整備をサボった。だからもうおしまいだ。浮かんでしまったらおしまいだ。そうなる。
 離陸失敗はそれの回避に他ならない。僕がこの飛行機に乗っていたら、たぶんガッツポーズをしていると思う。そして航空会社がくれる陸路の交通費をホクホクしながら頂く。

 和製英語の話ってきな臭い。「普通に英語だと思って日本人が使っているこの言葉、実は和製英語で、外国人に向かって使ってもぜんぜん伝わりません!」というのが、和製英語話のお決まりのパターンなのだけど、さらによく聞いてみたら、「その表現はアメリカ英語では〇〇、イギリス英語では××といいます」なんてことを言う。それが納得いかない。そこで既に分かれているのなら、我々の和製英語だって表現のひとつとして認められたっていいではないか。言っておくが、別にどうしても認めてほしいわけではない。ただ和製英語話のときの、「ブー! それは和製英語! 嘘のダサいやつです!」みたいな空気に対し、激しい義憤を覚えるのである。それを言う奴が大抵帰国子女だ、というのも怒りを増幅させるポイントだ。ちなみにフライドポテトは和製英語で、アメリカ英語ではフレンチポテト、イギリス英語ではチップスだそう。うるせえよ。ケンタッキーフライドチキンがあるんだから、油で揚げたポテトはフライドポテトでいいじゃねえか。なに言ってんだ。

 教本をたくさん読み、プールに週に3、4回のペースで通って、そして思った。
 まあこのあたりが俺の水泳の才能の限界だろうな。
 これ以上はもう伸びていかない。伸びしろがない。才能がある人たちはひゅんひゅん飛び越えるだろう壁に、突き当たってしまった。それをあるとき痛切に感じた。
 それでファルマンに、
「どうやら俺は、インターハイとかには行けない人間のようだよ……」
 と打ち明けた。
 するとファルマンは、「い、いいんじゃない。別に」と言った。

2019年4月17日水曜日

にー・ちょっと・いろぼけ

 週末に行なった部屋の模様替えの際、ファルマンが物と物の間に指を挟んでしまい、激痛に襲われるという一幕があった。物理的に痛かったのに加えて、そのあとも痺れのような症状が続き、これはだいぶタチの悪い感じだぞ、と嘆いていた。具体的に言うと、「痛いにー」「変だにー」と唱えていた。その晩のことである。ファルマンが子どもたちと風呂に入り、体温が高まってさらに掻き立てられた患部の痛みを憂えていたところ、ピイガが「いたいのはどこ?」と訊ねてきた。それでファルマンが指を見せて「ここだにー」と伝えると、ピイガは迷いなくその指を思い切り引っ張ったという。ファルマンを襲う再びの激痛。なんてことをするんだ、ともちろんその場で窘めたそうである。しかし風呂から上がって、事の顛末を僕に向かって話したあと、ファルマンがポツリとこう言った。
「そこから痛みが全くなくなったにー」
 そんなピイガのミラクルの話。ファルマンの方言のせいで内容が入ってこない。

 先日ふと、ザ・たっちの「ちょっと! ちょっとちょっと!」というギャグは、実はすごく秀逸なのではないかと思った。ダチョウ倶楽部の「聞いてないよぉ」(流行語大賞銀賞)にも匹敵する力を持っている気がする。とにかく日常生活で使いやすいのがいい。もっと流行ればよかった。どうしてあまり流行らなかったのだろうかと思い返して、具体的にどのあたりの年代になるのかは定かではないが、あの頃はテツandトモとか、小島よしおとか、なんかそこらへんのギャグがわりと渋滞していたからではないかと思った。贅沢な時代だ。いま初めてこのギャグがお披露目されたのなら、たぶん流行ったと思う。今はもう出涸らしなので難しいだろう。残念な話だ。僕はこのギャグを再発見したので、流行など気にせず日常で使っていきたい。いっそのことこのブログのタイトルも、「ちょっと! ちょっとちょっと!」の言い方で言うことにしようかとさえ思う。

 子どもふたりが1月生まれで、なので5月あたりに妊娠が発覚していたのだけど、それはさらに原因を遡れば、こういう話になる。
 4月の俺は発情期。
 ホンマやな、ホンマにその巡りでワイは生きとんのやな、と思った4月上旬だった。
 頭の中が常に桃色遊戯で、ブログもサボり気味になるほどに色ぼけていた。下旬に入り、それがやっと少し治まったように思う。よかった。発情が治まったのもよかったが、しかしそれはそれとして、ちゃんと発情が起ったのも30代半ばの男性として安心した。

2019年4月9日火曜日

健康診断結果・神様・ガラケー愛

 健康診断の結果が出る。心待ちにしていた。だって3月、ほぼ酒を飲まなかった。そんな生活を25日も続けて、診断を受けたのだ。それはもう途轍もなくいい結果が出るだろうと期待していた。いや確信していた。それで大きい封筒を開けたら、中から「紹介状在中」という小さな封筒が出てきたので衝撃を受けた。今年の僕には入っていないはずだったやつ。今年も入っていた。いらない。いらないはずだったのに。
 表を確認すると、引っ掛かったのはもちろん肝機能だった。引っ掛かるのはそれ自体が嫌だけど、なんかしらに引っ掛からなければならないのだとしたら、なじみのある肝機能がいい。肝機能なら、原因が明白だから。ちなみに今年のGTPは106。正常は~50。去年は134。去年より良くなっていると言えば聞こえはいいが、いまいち効果が足りない。もっと落ちていてしかるべきだ。106は身の回りの酒飲みたちが武勇伝のように語る数値からすれば屁のようなものだが、それでも満足がいかない。さらに言えば、同じく肝機能のチェック項目であるASTやALTももちろん基準値を超えているのだが、それらの数値は去年とまるで変わっていない。変わっていないってなんだよ。3月も普通に飲んでいた去年と、3月ほぼ飲まなかった今年で、変わっていないっておかしいだろう。じゃあ飲むよ、って話になってくる。飲まない分だけ損じゃないか。こんなことがあっていいのか。
 それでこの結果を踏まえ、今後どうするか。酒をまた毎日飲むようにする、ということにはさすがにならない。もう気持ち的にも必要なくなったし。飲むにしたって週末だけだ。そしてオルニチンのサプリとか摂ってやろうと思う。1ヶ月で足りないなら1年だ。来年こそ基準値まで落す。もうトサカに来た。肝機能やってやんよ。1年そうやって努めて、そして来年それでもまだ紹介状が封入されていたら、そのときは大病院に行って精密検査をしてもらおうと思います。

 職場の有線で「トイレの神様」(植村花菜)が流れて、流れるたびになんとも言えない気持ちになるのだけど、流行った当時はただもう純粋に「へっ」としか思っていなかったこの曲が、年月が経ち、もう世間の熱がすっかり冷めたところで、ようやくおもしろく思えてきた。逆にいま「トイレの神様」を持ち出してきたらウケんじゃね、と思う。
 この曲はかつてとても流行ったことで、メロディだったり歌詞の内容だったりを、けっこうみんなが知っている。ここがいい。だから替え歌にして、カラオケで10分超、朗々と唄ったらば、それはけっこうなエンターテインメントになるのではないかと思った。
 それでどんな替え歌にすればいいかと考えた。テーマはもちろん性的なことで決まりだったのだけど、全寮制の中高一貫女子校を舞台にしたり、美術部のヌードデッサンのモデルが勃起してしまって構図が崩れる物語で考えたり、いろいろ思案した末に、シンプルにいちばんおもしろいのは、「トイレ」の部分だけを「チンポ」に替えることではないかという結論に至った。チンポにはそれはそれはきれいな女神さまがいるんやで。

 携帯電話がいよいよおかしなことになってきた。故障ではない。立ち位置の意味不明さの話である。スマホに対する嫌悪感から、ガラケーを保ちつつタブレットを持つようになったのがちょうど1年ほど前のことである。単純にスマホにしてしまわないところに、一種の矜持を持っていた。俺は蒙昧にスマホ窟に没落してしまわないのだぞ、と。
 しかし1年経って、タブレットでネットをしたり音楽を聴いたり文章を書いたり、わりと便利に使う横で、ガラケーの使わなさと来たらどうだ。それまでガラケーで行なわれていた家族内のやり取りもLINEでできるようになってしまったら、ガラケーは本当に鳴動しなくなった。あ、朝にだけ鳴動する。本当にその機能だけ生きている。それ以外ない。
 この状況になってみて思うことは、「ガラケーの矜持ってなんだよ」ということだ。スマホに対する嫌悪感が、僕のガラケーへの思いを無駄に掻き立ててしまっていたようで、別に僕にはガラケーに誇りを持つ義理なんてないのだった。スマホが嫌いなことと、ガラケーを愛することはイコールではない。別にガラケーに愛なんてなかった。
 だから、なんかもう、本当にタブレットだけでいい気がしてきた。

2019年4月2日火曜日

新元号決定・山陰洗礼・あらすじ短歌の発見

 新元号が発表される。令和。ほほー、と思った。
 平易で読みやすくてMTSH以外で、といろいろ条件がある中で、国民があれだけ予想をしていたのに、それを見事にかいくぐったやつをババーンと出すのって、さぞ気持ちよかっただろうな、と思った。安永? 安久? ちげーよ! なに時代だよ! 応仁の乱かよ! センスが古いんだよ愚民どもめ! これだよ! ババーン、という。
 そうなのだ、令和って字面も音も、なんかシュッとしている感ある。垢抜けてる。もうイメージが湧く。明治大正昭和平成、令和。令和の未来感と来たらどうだ。そしていま未来感のある令和もきっと数十年後には、未来感がちゃんとなくなっていて、次の元号が次の時代らしい未来感のある言葉になるんだろうと思う。さすがは国語の重鎮が考えるだけあり、大したもんだと思った。
 ちなみに最終候補は令和を含めて6案あったとのことで、選ばれなかった5案がどんなものだったのかは、秘匿されるはずが、ずいぶんおしゃべりな政府関係者がいるようで早くもすべて明かされてしまったのだけど(我慢できなさすぎだろう)、それは「英弘(えいこう)」「久化(きゅうか」「広至(こうし)」「万和(ばんな)」「万保(ばんぽ)」だったという。こうして見ると令和の圧勝じゃねえか、と思うが、それは令和になった世界の僕が見るからかもしれなくて、パラレルワールドの「万和」に決まった僕が見れば、万和以外あり得ねえ、と感じるのかもしれない。もっとも皇太子の顔だけで考えると「広至」がなんとなくしっくり来るような気はした。それと最後の「万保」は、ドラクエ5のゲレゲレ的な感じがあると思った。どうしても「んぽ」に反応してしまう小学生男子が僕の中に巣食っている。こいつは平成が終わって令和になっても、ずっと僕の中に生き続けるんだろうと思う。って言うかそれが俺の本体だからね。

 おとといに日帰りで妻子を島根まで迎えに行って帰ってきたら、その夜から急に体調を崩し、いまはすっかり風邪のような状態になっている。それまで独り暮しのもんだから調子に乗って連日のようにプールに行ったりして、とても体調がよかったのに、本当にガクンと悪くなった。ただでさえ新年度寒波などと言って気温が下がっていたのに、それに加えて一段寒い地方に行ったものだから、もう体がついていけなかった。さらには黄砂とか、実家の犬の毛とか、喉を痛め鼻を苦しめる外敵がいっぺんに襲いかかってきた。ふだん温室の岡山でのほほんと暮している人間が、過酷すぎる山陰の環境に晒されて、滞在時間わずか半日にして、これほどのダメージを負った。おそろしい。あまりにもおそろし過ぎる、山陰。逆に言うと山陰で暮している人間のエネルギーすごい。なんかたぶん、鬱屈とした、濃厚な、なんかカルマ的なやつだ。おそろしい。

 先日「andp」に、あらすじ短歌というものを投稿した。これがすごくよかった。別に誰かから褒められたとかではなく、もちろん僕自身が思ったことなのだけど、すごい発見だと思う。短歌とか俳句とか、小説のようにきちんと設定や前後関係を語れるわけではない表現って、それが原因で題材が限られて、小説で言うなら私小説、すなわち作者本人の人生でしか創作ができないとされてきたけれど、ああやって短歌の前に散文であらすじを記しておけば、どんなテーマでも題材にすることができるのだ。できたんだ。みんなできないと思ってただろ。できるんだよ。前置きで説明しちゃえばよかったんだよ。逆に、作者の人生をきちんと知っていなければその短詩に込められた感情が汲み取れない、なんてもののほうが、考えてみたらよほど不健全だったのだ。
 エロ動画って、再生すればとりあえず男と女がまぐわっていて、それがどういう関係のふたりで、どういう経緯でそうなったのかなんていう説明はほとんどなされない。でも男と女がまぐわっているのを見ればとりあえず興奮する。それと一緒だと思う。詩情とか、背景とか、そういうのはどうでもいいのだ。そんな部分の表現をせっせとする必要はない。描きたい部分を描きたいように描けるように、最短で至ればそれでいいのだ(バカボンフィニッシュ)。