2019年4月2日火曜日

新元号決定・山陰洗礼・あらすじ短歌の発見

 新元号が発表される。令和。ほほー、と思った。
 平易で読みやすくてMTSH以外で、といろいろ条件がある中で、国民があれだけ予想をしていたのに、それを見事にかいくぐったやつをババーンと出すのって、さぞ気持ちよかっただろうな、と思った。安永? 安久? ちげーよ! なに時代だよ! 応仁の乱かよ! センスが古いんだよ愚民どもめ! これだよ! ババーン、という。
 そうなのだ、令和って字面も音も、なんかシュッとしている感ある。垢抜けてる。もうイメージが湧く。明治大正昭和平成、令和。令和の未来感と来たらどうだ。そしていま未来感のある令和もきっと数十年後には、未来感がちゃんとなくなっていて、次の元号が次の時代らしい未来感のある言葉になるんだろうと思う。さすがは国語の重鎮が考えるだけあり、大したもんだと思った。
 ちなみに最終候補は令和を含めて6案あったとのことで、選ばれなかった5案がどんなものだったのかは、秘匿されるはずが、ずいぶんおしゃべりな政府関係者がいるようで早くもすべて明かされてしまったのだけど(我慢できなさすぎだろう)、それは「英弘(えいこう)」「久化(きゅうか」「広至(こうし)」「万和(ばんな)」「万保(ばんぽ)」だったという。こうして見ると令和の圧勝じゃねえか、と思うが、それは令和になった世界の僕が見るからかもしれなくて、パラレルワールドの「万和」に決まった僕が見れば、万和以外あり得ねえ、と感じるのかもしれない。もっとも皇太子の顔だけで考えると「広至」がなんとなくしっくり来るような気はした。それと最後の「万保」は、ドラクエ5のゲレゲレ的な感じがあると思った。どうしても「んぽ」に反応してしまう小学生男子が僕の中に巣食っている。こいつは平成が終わって令和になっても、ずっと僕の中に生き続けるんだろうと思う。って言うかそれが俺の本体だからね。

 おとといに日帰りで妻子を島根まで迎えに行って帰ってきたら、その夜から急に体調を崩し、いまはすっかり風邪のような状態になっている。それまで独り暮しのもんだから調子に乗って連日のようにプールに行ったりして、とても体調がよかったのに、本当にガクンと悪くなった。ただでさえ新年度寒波などと言って気温が下がっていたのに、それに加えて一段寒い地方に行ったものだから、もう体がついていけなかった。さらには黄砂とか、実家の犬の毛とか、喉を痛め鼻を苦しめる外敵がいっぺんに襲いかかってきた。ふだん温室の岡山でのほほんと暮している人間が、過酷すぎる山陰の環境に晒されて、滞在時間わずか半日にして、これほどのダメージを負った。おそろしい。あまりにもおそろし過ぎる、山陰。逆に言うと山陰で暮している人間のエネルギーすごい。なんかたぶん、鬱屈とした、濃厚な、なんかカルマ的なやつだ。おそろしい。

 先日「andp」に、あらすじ短歌というものを投稿した。これがすごくよかった。別に誰かから褒められたとかではなく、もちろん僕自身が思ったことなのだけど、すごい発見だと思う。短歌とか俳句とか、小説のようにきちんと設定や前後関係を語れるわけではない表現って、それが原因で題材が限られて、小説で言うなら私小説、すなわち作者本人の人生でしか創作ができないとされてきたけれど、ああやって短歌の前に散文であらすじを記しておけば、どんなテーマでも題材にすることができるのだ。できたんだ。みんなできないと思ってただろ。できるんだよ。前置きで説明しちゃえばよかったんだよ。逆に、作者の人生をきちんと知っていなければその短詩に込められた感情が汲み取れない、なんてもののほうが、考えてみたらよほど不健全だったのだ。
 エロ動画って、再生すればとりあえず男と女がまぐわっていて、それがどういう関係のふたりで、どういう経緯でそうなったのかなんていう説明はほとんどなされない。でも男と女がまぐわっているのを見ればとりあえず興奮する。それと一緒だと思う。詩情とか、背景とか、そういうのはどうでもいいのだ。そんな部分の表現をせっせとする必要はない。描きたい部分を描きたいように描けるように、最短で至ればそれでいいのだ(バカボンフィニッシュ)。