2018年5月30日水曜日

ネクタイ・輪っか・チンポイ

 予想はしていたが、週が明けてやっぱり悪質なタックル問題のほとぼりが冷めている。連盟の処分が決まったとか、そういう問題じゃないだろう。みんなもっと熱意を持ってこの事件について語り合うべきだと思う。僕は別にインターネット特有の、例の正義感から、日大のあの監督はもっと反省するべきだ、とか、あいつが完膚なきまでに痛い目に遭うところを我々の目に焼き付けさせるべきだ、とか、そういうことを主張しているのではない。そんな嗜虐的正義感ほど気持ち悪いものはない。そうではなくて、みんなまだこのコントに飽きないでほしい、という、ただその願いだけなのである。この、衝撃映像から始まって、激おこの監督、激おこの父親、ピンクネクタイで相手の名前を間違える監督、好青年の加害者学生、30歳に見えない(年下!)コーチ、ブチギレ司会者、そしていちばん意味不明だった学長の会見……。日替わりで見せ場があった今回のコントのことを、みんなそんなにあっさりと思い出なんかにしないでほしい。だって僕は買ったのだ。ピンクのネクタイ買ったのだ。本当に買ったのだ。悪質なタックルの謝罪コントをするためだけに買ったのだ。週が明けただけでこんなに風化してしまったら、とても忘年会まで持たないじゃないか。ひどい。

 やっぱり友達がいない。たまに意識が朦朧としたときとか、自分にはたくさんの友達がいるような勘違いをすることがあるけれど、落ち着いて見てみたらやっぱり友達がいない。LINEにふたりの人間を新たに登録した日、「友達は質より量」とまでほざいたのに、それから全く量が増える様子はないし、もちろんそのふたりともほぼやりとりしていない。
 保健だか公民だか、なんの教科書に載っていたのだったか忘れたが、子どもが成長するにつれて、はじめは親やきょうだいだけだった人間関係が、ひとつ大きな輪っかで親戚、もうひとつ大きな輪っかで近所の人、もうひとつ大きな輪っかで幼稚園や小学校の友達、という風に、人間関係の範囲がどんどん広がっていく図、というのがあった。あの図で言えば、今の僕には赤子とほぼ同一の、いちばん小さな、家族の輪っかしかないと言っていい。あの図について説明を受けたとき、「だんだん広がる」とは言われたが、「やがてしぼむ」なんてことは教わらなかった。子どもの成長に伴う話だったので、身長などの体の発育と連想しやすく、だからしぼむという発想はまるでなかった。でも考えてみたら、身長だってある程度の年齢になれば縮まるわけで、なんかもう老年期の身長のそれと同じ現象が、僕の人間関係には起っているのかもしれない。

 昼休みのバトンの練習が愉しい。愉し過ぎて筋肉痛になったりしている。最近イヤフォンで流しているのはルーマニア民謡で、ノリがなんとなくいいというのもあるが、いつか人に向かって披露するとき、誰も知らないルーマニア民謡で俺がバトンを華麗に回したらそれだけで愉しいだろうな、という思いからやっている。僕のバトンの練習には、そのくらい打算的な、友達相手にこれをやったらどうなるか、という思いが実はある。あるから余計に切ない。
 それでルーマニア民謡についてネットで情報を検索したら、ルーマニアではバグパイプのことを「cimpoi」(チンポイ)と言うのだそうで、ル、ルーマニア! とちょっと感動した。テンポの速いチンポイに合わせて踊るルーマニアのフォークダンスは動きがアクティブで、じゃあ俺がルーマニア民謡でバトンの演技をしたあとは、みんなでチンポイのフォークダンスを踊ればいいじゃないか、と思った。チンポーイ! 間違えた、バンザーイ!

2018年5月24日木曜日

コント大学・ニラ玉・三国志

 どれだけ書くの、そんなに時事ネタに触れるブログだったの、という話だが、やっぱり悪質なタックルの話題がおもしろい。おもしろくて仕方ないのだ。乳房が胸一杯になるくらいおもしろい。悪質なタックル大学とか、乳房が胸一杯大学とか、日本大学とか、呼び名はいろいろあるけれど、今回の件でやっと、それが自分の母校であると堂々と言うことができるようになった気がする。こんなにおもしろい大学、他にあるかよ。誇りに思うよ。ジョイナスだよ。
 この一件のおもしろいポイントとして、まず「悪質なタックルの映像があまりにも明確に悪質でおもしろい」というのがあり、さらには「整列中に潰すのを念押ししている場面をしっかりと撮られている」、「そのあとオフレコで内田監督が思いっきり白状している音声データがある」、「被害者選手の父親が議員とかやっている人でぜんぜん泣き寝入りしない」、「最初の謝罪のときネクタイがピンク色」、「謝る相手の学校の名前を言い間違える」、「加害者選手の会見がすごく立派」、「それに対して大学や監督があまりにもどうしようもない」、「会見の司会者がキレる」など、挙げればキリがない。これはもう、隙がないと評していいレベル。このポイントを押さえてコントをすれば、とびきりおもしろい寸劇が誰にでもできる。やりたい。あと、なぜ反則のあとすぐに選手を交代させなかったのかという問いに対して、監督は「見てなかったし、気付いたときにはあれよあれよと次のプレーになっていた」と答えたのだけど、このフレーズもかなりおもしろいと思う。見てなかったし、気付いたときにはあれよあれよ、となっていることって、たしかに日常の中でけっこうある。この共感の感じは、俳句に通じるものがある。でもちょっと長いので、前半は略して、「MNKTあれよあれよ」、とすればいいと思う。あれよあれよのパートは愉しいから言う。

 晩ごはんのメニューにニラ玉が出て、ニラ玉ってやけによく食べる気がするなあと思ったのだけど、なぜか分かった。ニラ玉は、そのままの材料でニラ玉スープにもなるからだ。あの、おかずとしてのニラ入り玉子焼のニラ玉と、ニラと玉子の中華スープ。もちろん同時に出てくることはないが、今日はこっちで、今日はそっちで、という感じで出てくる。だから材料は同一なのに、普通のおかずの倍の働きをする。さながらニラ玉は献立界の大谷翔平だな! というお話でした。

 出張のたびに適当な本を選ぶのが面倒なので、長いシリーズ物を読めばいいじゃないかと考え、北方謙三の「三国志」(全13巻)を読み始めたのだけど、いま2巻までを読み終えたところで、「これは、おもし……ろい、のか?」という感じである。中だるみとか、後半グダグダとか、そういうのは予想していたが、2巻を読み終えてもこんなに自分と物語が噛み合ってこないとは思わなかった。
 これは僕があまりにも三国志のことを知らな過ぎるのがいけないのではないか、と考えた。本当に、諸葛孔明と曹操くらいしか登場人物を知らない。話の流れも、中国が3つに分かれたんだよなあ、くらいにしか知らない。本当に驚くほどこれまで触れずに生きてきたのだ。そこでダイジェスト版とか、「まんがでわかる中国の歴史 三国志の時代」とかを読んで、基礎知識を得ることにした。それでいちおう三国志の内容を押さえた結果として、再び「これは、おもし……ろい、のか?」状態に陥っている。なんかみんなわりと病死するし、話の山場がどこなのかよく分からない。
 でも「三国志」はもう8巻くらいまで既に買ってしまっているので、読まないわけにはいかない。不安な気持ちを抱えたまま、読み進めることにする。

2018年5月23日水曜日

悪質・清しい・バトン熱

 悪質なタックル問題が世間を賑わせ続けている。心から愛する我が母校の対応のひどさが本当にあんまりで、なんだかどんどん愉しくなってきた。こうなったらもう堕ちるところまで堕ちればいいと思う。僕はこれから出身校を訊かれたら、「悪質なタックル大学芸術学部です」と答えようかと思っている。「悪質なタックル」ってとにかく言いたい。あと、いつかなんかしらの行為によって謝罪するとき用に、ピンク色のネクタイを買っておかなければならないな、とも考えている。
 日芸生は今回のことで大体そんなことしか感じていないと思う。

 なんの縁もゆかりもない小学校の校歌の歌詞を眺めていたら(なんでだよ)、その中に「清しい」という表現があり、なんだそれは、となった。意味は解る。「清々しい」だ。しかしこれまでそんな表現は見たことがなかった。実際、広辞苑を確認したら載っていなかった。ウェブの辞書には項目としてあったけれど、ウェブの辞書になんて「そこに載っていたら正式な日本語だ」という権威はまるでないので、なんのあてにもならない。たぶん今回の場合、本来なら「清々しい」としたかったところを、曲の音数に合わせるために「清しい」にしたんだろうと思う。
 それは別にいい。怒らない。怒らないどころか、逆に「清々しい」ってなんだよ、とさえ思えてきた。考えてみたらなんで2回、「すがすが」って言わなけりゃならないのか。って言うか「すがすが」ってなんだよ。「すがすが」だけこうして抜き出すと、やけに間抜けな字面で音で、本当になんでこんな言葉を口に出さなけりゃならないのか、と思えてくる。それに対して「清しい」の清しさったらどうだ。清々しいよりもはるかに清しいではないか。これまでさんざん世界の清々しいところを表してきた清々しいという言葉だったが、実は自分自身に、もっと清々しくなれる要素が隠されていた、という皮肉。紺屋の白袴。往々にしてそういうものかもしれない。
 こんなときは断捨離。「清々しさ」から、「々」を捨てる。だって実はぜんぜんいらなかった。なんの役にも立っていない、むしろ邪魔でさえあったのに、なんとなく捨てられずにずっととってしまっていた。それを今回とうとう捨てた「清しさ」さん、生まれ変わった現在の心境はいかがですか。「はい。清々しました」。だーかーらー!

 日曜日のバトンのステージを見て以降、またバトン熱が高まっている。こう言うとまるで熱が低下気味だったようだが、別にそんなことはなく、日々励んでいたのだけど、またさらに改めて、ということである。そして当日にも書いたように、これまでバトンを頭上に飛ばす練習なんかをしていたのだけど、反省して、今はまたひたすらバトンを回す基礎練習に戻っている。これが愉しい。バトンを飛ばすのって、演技として見たとき、それをしなければ観客が納得しないだろう、という感じがあるが、やっている側としては案外つまらないんじゃないかと思う。それに対してひたすらバトンを回すの、チョー愉しい。マジで愉しい。クルクルクルクルクルクル、と回し続けていると、だんだんトリップ状態みたいになってきて、愉悦の境地に至りそうになる。今日なんか昼休み終了5分前のベルに気付かず、そのあとも回し続けてしまい、危ないところだった。手首が柔らかくなりたい。

2018年5月20日日曜日

日大・友達袋・CCさくら

 会社で「日大が話題になっとるやーん」と嘲られる。アメフトのタックルの件である。たしかにひどい話である。競技のことは詳しく知らないのでなんとも言いようがないが、発覚後の態度の悪さがとにかくひどい。このSNS全盛のウェブ社会において、いまどきこんなに評判を気にしない、悪い体制を隠そうとしない団体があるかよ、と衝撃を受けた。
 それはそれとして、日大のことで僕をいじられても困る。日本大学という巨大な組織の、中心と言ったらどこらへんのことになるのか、さっぱり分からないけれど、芸術学部がそこから外れていることだけは断言できる。あまりこういうことを言うと、芸術という分類の性質ゆえに、鼻にかけている感じがどうしたって出てしまい、もちろんその種の特権意識みたいなものがまったくないわけではないのだが、かと言って在籍した4年間によって芸術への造詣が一般人をはるかに凌駕するレベルに到達したかと言えばそんなこともまるでなく、しかし曲がりなりにも高い授業料を払って修了したからには対外的には一目置かれたって罰は当たらないじゃないかという思いもあり、そのあたりはなかなかに複雑な心模様なのだけど、とにもかくにも言いたいのは、日芸生には日本大学という組織への帰属意識がほとんどない、ということなのである。僕は出身地を訊かれても、よく言われるように「神奈川県」ではなく「横浜」と答えるし、なんかその手の鼻につく感じには筋金が入っている。
 それなので、日本大学いじりをされて、とても驚いた。日本大学出身者として扱われていたのか、というショックみたいなものも正直少しあった。それでちょっと頭に来たので、母校名物の悪質なタックルを喰らわせてやろうかと思ってしまった。日大出身者はみんなあれ出来るんだよ。

 LINEの友達がふたり増える。職場の、それなりに話す同僚に、「LINEの友達って何人いるの? 俺6人なんだけど。そのうち3人は仕事の人で、もう3人は妻と母と姉なんだけど」と話しかけたら、「え、じゃあ交換する?」と相手が言ってくれ、QRコードを読み取る画面の出し方が分からなかったからその操作もしてもらって、登録した。やったぜ。しかし登録したらしたで、職場の同僚と改めて話すことなんてなにもないものだなあと気付いたり、と言うかLINEってチャットみたいな感じだから、家族とか、あるいは仕事上の事務的な連絡とか以外では、1対1で語り合うのってちょっと重くない? などと思ったりして、まだなにも発言していない。登録してもらっておいてなんの挨拶もしないという状態が果たして正しいのかどうかも解らない。解らないことだらけだ。山から降りて初めて舞踏会に出たような気持ちだ。誰か俺をひとりの立派なレディーに仕立て上げろよ。
 でも、そんなヘロヘロの友達状態の僕だけど、そんな僕だからこそ説得力がある気がしないでもないこととして、友達って質より量なのだ。本当にそう。量より質とか言う奴は絶対に負け惜しみだと思う。3人くらいしか友達と呼べる人間ができない、負け犬の遠吠えなのだと思う。本当に、ひとりも友達がいない僕が、どこまでも透き通った瞳で世の中を見つめて、そしてこう主張したい。友達は質より量。大事なのは量だ。食べものなら量より質だってことはある。なぜなら胃袋の大きさには限りがあるから。友達はそうじゃない。友達袋は四次元ポケット。いくらでも入る。だからたくさん入っていたほうがいいに決まってる。ピンチのとき、パニックになって、あれでもない、これでもない、となかなか目当てのものが出てこない、そんなくらいに中身がいっぱい詰まっていればいい。

 始まったときにはとてもワクワクしていた「カードキャプターさくら クリアカード編」なのだけど、最近は視聴が追いつかず、ハードディスクに毎週自動で録画されるのがどんどん溜まって、ファルマンから顰蹙を買いはじめている。
 なぜ視聴が追いつかないのかと言えば、視聴の触手がなかなか伸びないからで、心が躍っていれば、ファルマンにとっての「おっさんずラブ」のように、この人これが終わったら脱け殻みたいになるんじゃねえかな、と不安になるくらい、がっついて観るのだけど、残念ながら今の僕にとって「カードキャプターさくら クリアカード編」はそうではないのだった。
 ここに、このアニメに対してとにかく付き纏う、時代の流れ、現実世界の自分の加齢をまたしても痛烈に感じる。アニメは、さくらが小学6年生から中学1年生になったことと、携帯電話がスマートフォンになったこと以外、作品としての本質はほとんど変わっていない。だから、それがきちんと愉しめなくなったということは、僕のほうが変わったということになる。
 20年近く経っているのだから当たり前だ、変わっていないほうが不健全だ、というのはもっともだが、どうしても寂しさがある。劇画オバQのような寂しさ。そうか、パピロウはもう大人になっちゃったんだな……。もう李くんの桃まんくらいでしか愉しめなくなっちゃったんだな……。

2018年5月15日火曜日

荷物・オオキンケイギク・撮影

 職場に持っていく毎日の荷物がやたら多い。自分でもたまにびっくりするほどだ。
 まずメインのバッグがある。これがまずわりと大きい。ベジバッグというやつで、そもそも市場で野菜をたくさん買って持って帰るためのバッグだという。だから搭載量はかなりある。ここに財布やら、飲み物やら、身だしなみグッズやら、本やら、眼鏡ケースやら、おやつやら、なんだかんだでパンパンに物を入れている。これだけでずいぶん重い。近ごろ半袖になったら、持ち手を引っ掛けていた肘の内側が内出血を起すようになった。それほど重い。
 加えて、お弁当を入れるためのミニバッグを持つ。これは弁当箱がぴったり入るサイズなので、大きくはない。しかしお弁当は毎日のことなので、これも必ず持たなければいけない。食後に飲むお茶用に、マグカップも毎日ここに入れて持ち運んでいる。
 そこへ、手作りのバトンバッグも必ず携える。携えていきながらいちども回さない日というのも少なくないのだが、もはや精神安定のためにこれも必ず持っていないといけない。朝、玄関先で、ファルマンはたまに「ご武運を」と言って低頭しながらこれを捧げてくる。武士と妻コントである。しかし中身はトワリングバトンである。先日ここに煮玉子のキーホルダーを付けたのだけど、これがまたやけに重たいキーホルダーなのだ。付属のボールチェーンが駄目になるくらい重くて、仕方なく家にあったもっと丈夫なボールチェーンに付け換えた。なぜか外すという発想はなかった。
 ちょっと前まではここまでだったのだけど、先月からタブレットを持ちはじめ、タブレットにはキーボードもセットで必要になってくるため、その一式専用のバッグを持つことになった。タブレットを購入するにあたりちょっと相談したりした会社の人に、「それで結局タブレットは買ったの」と問われ、「買いましたよ、ほら」とそのバッグからタブレットを取り出したら、「なんなの、その大きいバッグ」と追及され、「これにはキーボードが入っているのです」と続けてキーボードを取り出してみせたら爆笑された。ギャグの一種と思われたのかもしれない。
 そんなわけで、いまそんな4つのバッグを持って、日々出勤している。これが合計で、すごく嵩張るしすごく重たい。歩く距離が、車から自分の仕事場までの100メートルくらいだからなんとかなっているが、公共交通機関での出勤だったら考えられない体積と重量である。疲れの溜まった週末など、たった100メートルでもつらくなるときがあるので、少し減らしたい気持ちはあるのだが、ためつすがめつして見ても、なにひとつとして省けるものがないのだった。男性の同僚には、水筒と財布しか持ってこない人なんかもいて(昼ごはんは宅配弁当)、驚嘆する。

 オオキンケイギクが咲き始めている。やっぱりうっとりするほどきれいだ。好きな黄色、好きな形。これの存在だけで、この時期は自然と愉快な気持ちになる。
 そしてオオキンケイギクをウェブで検索したら出てくる、特定外来生物だの駆除だのという言葉にうんざりする。なんでこんなに毛嫌いされているのか読んだら、別に毒があるとかそういう話では一切なく、繁殖力が強くて在来種を追いやってしまうからだという。その程度の話なのだ。それを「特定外来生物に指定!」などと言うものだから、国が戦争を始めたら一億総火の玉とかすぐに叫び出しそうな輩が、「駆除しなければ!」となる。本当にばからしいと思う。

 ファルマンが「おっさんずラブ」にど嵌まりしている。僕もそれなりにおもしろく観てはいるのだけど、横にいる人があまりにも入れ込んでいると、引いてしまう。本当に、あらゆる日常会話が、ツーステップくらいですべて「おっさんずラブ」につながるので、どうせ結論が「おっさんずラブ」ならば会話などする必要がないのではないか、とさえ思えてくる。
 そんな「おっさんずラブ」の先週の放送では、とてもタイムリーに中川駅を出てすぐの歩道橋で撮影をしていた。昔からあそこはよくドラマの撮影に使われるのである。それが今回は、妻のど嵌まりしているドラマで、しかも僕は実際にそこを数日前に思い出散歩したばかり、ということがあったので、わりとインパクトが強かった。別に林遣都を目撃したわけではないのだが、ファルマンは大いに発憤していた。「昔からよくドラマの撮影に使われるんだよ」の部分が、怒りの琴線に触れたのかもしれない。いやでも、ほら、島根もちょっと前にやってたじゃん、エグザイルがたたら場に行ってなんかする映画。出演していた橋爪功の息子が覚醒剤で捕まったせいですぐに上映中止になったやつ。あれやってたじゃん。すげえじゃん! フゥー!

2018年5月11日金曜日

エロ本・縁・キーボード

 帰省初日の出来事なのだけど、一家の荷物を、滞在中あてがわれている部屋にとりあえず置いて、「おこめとおふろ」に書いたように、僕とファルマンは電器屋へと出掛けたのである。その間、子どもたちはすっかり慣れたもので、母や叔父に見守られながら、Wiifitなどして過ごしていたらしい。Wiifitというのが悲劇の引き金だった。無駄にジョギングなどするものだから、長袖を着ていたピイガは汗だくになったという。それで母は、かわいそうだから半袖に着替えさせてやろうと思い、部屋に置かれたキャリーケースの中を探った。しかしそのキャリーケースは、帰省のあとそのまま出張へ行く僕の荷物専用のものであり、探せど探せど子どもの服は入っていない。入っているのは、34歳の息子の衣類と、そして数冊のエロ小説だけなのだった。そうなのだ。エロ小説なのだ。出張で、移動時間も長いので、それはエロ小説の1冊や2冊、2冊や3冊は、荷物の中に入れてくるに決まってるじゃないか。そんなこと言ったってしょうがないじゃないか(えなり)。子どもたちの服は実はファルマンの背負っていたリュックに入っていたのだけど、なんとなくそちらの開帳は遠慮したらしく、キャリーケースの中に息子の衣類とエロ小説しか見つけられなかった母はそこで見切りをつけ、たまたま家にあった、姉の娘の服を着せていた。もちろんちょっと大きかったのだけど、はじめからそうすればよかったじゃないか。もちろん面と向かってエロ小説のことを言及されたわけではないのだが、しかし事の次第を考えれば、母がそれを目にしたことはほぼ間違いない。まさか実家を出て、家庭を持ち、34歳にもなって、オカンとエロ本のこういった出来事に遭遇するとは思っていなかった。帰省初日にして大いにへこんだ。ファルマンに話したらすげー爆笑された。

 帰省初日の晩ごはんの際、義兄と話をしていて、義兄はやけに僕に対してそういうことを言うのだけど、今回もまた、「パピロウはもっと自分をアピールして創作活動をしていくべきだ」という内容のことを言われる。義兄が僕の作ったなにを見て、そこまで忸怩たる思いを抱いてくれているのかよく解らないが、ありがたい話ではある。「こういうのって人と人との縁なんだから」とも言われる。もちろんそんなことは解っちゃいるのだ。だがそこの部分が壊滅的にできないから、なにも広がっていかずにここまで来ているのではないか。「もうパピロウがやらないなら俺が動くよ」とさえ義兄は言ったが、果たして義兄は僕の作ったものをなにか持っていただろうか。ヒットくんとクチバシの絵でも描いて送ったら、数ヶ月後くらいにサンリオのキャラクターになっていたりするのだろうか。義兄ならやってくれるかもしれない。あの友達クーポンを体現して生きているような義兄ならば、この世でできないことなどなにもないような気がする。友達クーポンを使ったことがなさすぎて、未だ見ぬそれに対して無敵のようなイメージを持っている。

 タブレットを携えての帰省および出張は、とてもよかった。ホテルで帰省の日記を書くこともできたし、LINEで家族と映像通話をすることもできた。かく言うこの記事だって、帰りの新幹線で書いている。簡易テーブルにスタンド台を置き、タブレットをセットして、膝の上でキーボードを打っている。やっぱりキーボードも買ってよかった。ファルマンとのLINEでも、すごく快適に文言が打てて、けれど向こうは画面上のキーを打っているので、やがて「手が疲れたからもう勘弁してくれ」と拒まれてしまった。妻が「もう勘弁」と音を上げて、夫はまだまだ元気だなんて、まるでキーボードってバイアグラのようだな、などと思った。あと写真やビデオも便利。普通にきれいだし。中川駅で降りての思い出散歩や、出張先の街並みなんかを、すごく気軽に撮影した。そして撮影しながら、「ああ俺はいま、タブレットで風景を撮影しただけで、ちょっとなんかしたような気になってるな……」と思った。この自覚だけは失わぬよう、自らを戒めていかなければならないと思う。

2018年5月2日水曜日

ややこし・セクハラ・人間ごっこ

 「増長」と「助長」と「冗長」がまぎらわしい。まず「増長」と「助長」は、意味がまぎらわしい。正しい用法を辞典で調べるということをひとまずしないで話を進めるが、どちらの「長」も「調子に乗る」みたいな意味だと捉えている。それを「増す」か「助ける」かの違いだ、ということだ。だから「増長」は自動詞的で、「助長」は他動詞的だ。Aが調子に乗っているとして、「Aは増長している」とも言えるし、「Aは助長させられている」という風に言うこともできる。それでややこしい。同じ現象に対して使えて、自動か他動かの部分だけをちょっと変えれば代替可能だから困る。それに、完全に自動で増長することなんてそうそうなくて、大抵の場合は周囲による助長が原因だろうと思う。そう考えれば増長を使える場面なんてなくなるような気もするし、しかしその一方で、周囲による助長の結果こそが増長なのだ、だから逆にすべては増長に帰結するのだ、という気もする。そういうことを迷って、咄嗟のときにどちらを出せばいいのかあぐねたとき、意味は別に似ていないが、増長と助長、ふたつのちょうど中間で、音的にまぎらわしい「冗長」までもが脳裏をよぎりはじめ、困る。日常の困りごとランキングの、これが78547位。

 労働をしていたら、60代のおじさん社員が後ろからやってきて、「やってるねえ」みたいな感じで背中に手を置かれ、怖気が立った。たぶん60オーバーのおじさん的には普通のことで、ましてや男同士だし、反応するほうがおかしいのかもしれないが、思わずのけぞり、すぐに体を前に流して、手の平から分離した。自分でもびっくりするほどの拒否反応が咄嗟に出た。そして思った。セクハラって本当に嫌なものだ。別に今回のこれをセクハラというつもりはないけれど、実体験を通して、世間で騒がれているセクハラというものが、どれほど嫌なものかということがよく解った。だって僕がこれまで一生懸命に生きてきたのは、あのおじさんに背中を触られるためじゃないもの。だからあんなことは絶対に他人にやってはならない。人生全体を侮辱されたような気がした。そして思った。セクハピなんてない。なんだセクハピって。阿呆か。神経を疑うわ。

 ファルマンが母の日のプレゼントで思案している。島根のほうの母の話なので、三姉妹で協議しているらしいが、妹たちの意見により話が花方面に傾きそうだという。親ってもう大抵の物は持っているので、いろいろ考えた結果、まあ花を贈っとけばええわ、となりがちなものだ。これに対してファルマンは、「なんで花なんか贈ろうって思うんだろう。花って、臭いし、腐るし、世話しなくちゃいけないしで、なんにもいいことないじゃない」と文句を言っていて(もちろん妹たちに言うわけではない)、ああさすがポルガの母親だなあと思った。えっ、じゃあ花のどこがいいって言うの、と問われたら、それはまあ僕だって別に明確な答えは持っていないのだけれど、でもそれにしたってあんた、花は尊んどけばいいじゃない。「花=素敵」と心に書き込んで決定事項にしておけば、たぶんその分だけ生きやすいわけじゃない。俺たちそうやってちょっとずつ世の中のことインプットしてなんとかこなしていこうよ。早く人間になりたい。