2018年7月24日火曜日

老師・畦道・ハードル

 図書館で太極剣(拳との兼ね合いから「たいきょくつるぎ」と発音するらしい)の教本を借りてきて、ここ数日読んでいるのだけど、言っていることが難解と言うか、独自の世界観すぎて、理解がぜんぜん追いつかない。こっちはバトン回し演舞のステップの一助になれば、という軽薄な目的で本を開いているというのに、そんな僕に向かって、こんなことを言ってくるのだ。

 『剣術において最も重きをおくのは身法であり、「左顧右盻」だけではなく、「前瞻後瞄」や「俯仰翻側」でさえも用いないものはない。いったい何をもって「立身中正」というのであろうか? 剣術における中正は立身の基本であるが、ここでいう中正の意味を理解してはじめて「奇正相生」の道理を理解でき、「俯仰翻側」の妙味を把握することができる。』

 ほら、なにを言っているのかまるで解らないだろう。こういうの読んでいると、僕の頭の中にゴー☆ジャスが現れて、「わけわかんねえだろう!」と僕の代わりに言ってくれる。杉村に続き、ふたりめの「わからない」キャラである。しかしまるで解らないのだが、実際に道場に出向いて、月謝を払い、門下生になって、道着姿の髭の老人にこれを言われたら、たぶん「はいっ!」といい返事をするのだろうな、するしかないよな、とも思う。
 でもそんな風に、あまりにも言っていることがちんぷんかんぷんで、逆におもしろくなってきたので、投げ出さずに読んでいる。もとい文字を目で追っている。
 そんなおかしな読書姿勢なのだが、それでもたまに感じ入る部分もある。
 剣での対決の心構えについての文章で、「蓄而後発」というキーワードの解説として、相手の出方を探りながら自分の出方を見極めることを指して、著者はこう言う。

 『進は進であるが、退も進である。』

 シンワシンデアルガタイモシンデアル! かっこいい! 思わず、老師! と言いたくなる。進は進であるが、退も進である。このフレーズの要旨は後半部の『退も進である』であり、前半部は本当にそのまんまのことをわざわざ言っているのだが、でもこれがあるからいいのだ。ただ『退も進である』だけだと弱い。当たり前のことを言うことによってそのあとの逆説の効果を上げるという高等テクニック。さすが老師だ。近ごろ僕が実生活で他人から教えられたこととして、さいきんちょっと痩せたという職場の上司のダイエットの心得『寝る前に菓子パンを食べるとよくない』というのがあるが、それと較べてのこちらの含蓄と来たらどうだ。相手がザコすぎるというのもあるが、老師の尊さがいっそう際立つ。僕も前のめりで使っていきたい。ちょっとした相談事で、すかさず使いたい。含蓄が半端ないわりに、汎用性も意外と高いと思う。
 それで、えーと、僕はなんのためにこの本を読んでいるのだったっけ。

 通勤の道程に、車道の両端がだいぶ先まで田んぼ、というエリアがあり、転居してきてすぐの頃のその風景(特に帰宅時の夕景)を目にしての衝撃たるや激しいものがあり(とは言え東京から直接来たわけではないので多少の耐性はあったと言える)、今ではだいぶ落ち着いたけれど、それでもやっぱりときどきハッと息を飲んだりすることもある。そんなエリアの一角で今年の春先、ショベルカーが田んぼの中に入り込んで、なんかしらの作業をしている場面を目撃した。これにはとてもショックを受けた。とうとうこのエリアにも開発の波が押し寄せたのか、造成した土地にはマンションか建売住宅が作られ、この風景はもうすぐ見られなくなるのか、と気を落とした。そうして気を落としたきり、すっかりこの出来事のことを忘れていたのだけど、つい先日、ふと思い出して、そう言えば別になんにも建ってないな、あれはなんの作業だったのかな、とショベルカーが作業をしていた場所に目をやった。そうしたら、田んぼと田んぼの間に、畦道ができていた。それまではたぶんなかった畦道。でも田んぼの一区画が大きすぎて不便だったんだろう、田んぼの持ち主はこの春、畦道を作ることにしたのだ。あれはそういう工事だったのだ。畦道って作ろうと思ったらショベルカーで作るんだなー、とひとつ勉強になった。

 これからおもしろい話をします。
 という話し始めをしたら絶対にいけない、ということは十分理解した上で、それでもやっぱりこの話はその導入で始めたい。だって本当にあまりにもおもしろいのだ。
 ここにも書いた話だが、先日僕は耳栓を買ったじゃないですか。その耳栓をファルマンが、「どんな感じか着けさせて」と言ってきて、だから貸してあげたんですよ。それでファルマンが両耳の穴にそれを嵌めたらですね、その瞬間にファルマン、屁をこいたんですよ。
 最高におもしろくないですか。だって耳の穴に栓を突っ込んだら、屁が出たんですよ。お前は昭和のロボットか。原材料は竹とかのやつか。どんな単純システムやねん。っていう話で。
 この出来事があった翌日、仕事をしながら何度か思い出し笑いをした。たぶん死ぬ直前の走馬灯でも甦る類の思い出だと思う。この人と結婚してよかった、としみじみと思った。

2018年7月22日日曜日

断酒・耳栓・興醒め

 柄にもなく、酒を飲まずにいた。この場合の柄というのは、人柄というのもあるし、もちろん季節柄というのもある。だってビールが美味しい季節じゃあないか。毎日35℃超え。1日の最後にビールを飲まなきゃやってらんない。そんな時候だというのに、今週は酒を飲まずにいたのである。なぜか。3連休明けの、火曜日から始まる1週間に調子が狂い、なんとなく気だるさを感じた瞬間に、「今日は休肝日にしようかなあ……」と呟いたら、ファルマンがここぞとばかりに喰いついてきて、休肝日と言わずあなたはもうちょっと酒を飲まないべきだ、気だるいのは肝臓がアルコールの処理で疲れ果てているからだ、と矢継ぎ早に責め立てられ、気付けば「酒は週末だけ」というルールができあがっていたのである。火曜日水曜日あたりは「そ、そんなことが許されるのか……? お、俺の身体に?」と戸惑いが隠せなかったが、木曜日金曜日には「まあそんなものかもしれないな」という気持ちになっていた。そうして肝臓を数日間休ませて、劇的に体が楽になったとか、明らかに顔色が良くなった、ということがあればよかったのだが、もちろんそんなことはない。思えば毎日のアルコールで肝臓が疲れているから気だるいのだ、というのは詭弁で、連日35℃超えなのだから誰もが気だるいのは当然なのである。なんか暑さのドサクサで騙されたような気がしてきた。
 とは言え晩酌をしないことで、毎夜1時間弱の時間が生まれたし、晩酌のときに僕はわりと麺類を食べたりしていたので、もちろん腹周り的にもいいに違いない。ともすれば来週も続けようと思う。週末は飲むけど。張り切って飲むけど。

 先日「おこめとおふろ」にちらっと書いた耳栓を、本当に買った。1500円ほどする、ちゃんとしたやつである。本当に、子どもが家で哀しくなるほどうるさくて、鼓膜が、鼓膜なのに悲鳴を上げるので、買わざるを得なくなった。それで届いたものを着けて暮している。もちろん聴覚を完全に遮断するわけではなくて、あらゆる音を少しトーンダウンさせる感じである。装着時はまだちょっと違和感があるのだけど、そのうち慣れるだろうと思う。それで家ではもちろんのこと、仕事中でもたまに着けている。仕事場も機械の音やエアコンの音が恒常的にうるさいので、必要だと思った。しかしそういう音から耳がガードできる一方で、人から話しかけられたときに聞き取れなかったらどうしようという不安感が常につきまとうので、けっこう気を張ってしまい、これでは耳が疲れるか神経が疲れるかの違いだな、とも思った。そしてこう書いていて思ったが、耳の疲れだの神経の疲れだのと、どうにかして疲れの正体を突きとめ、それをなんとかしようとしたところで、ひとつ目の話題と結論が被るが、どうしたって暑さで絶対的に全身がヘロヘロなのだから、なんかもうどうしようもないな、という気もする。暑さでもうこの2ヶ月はどうしたってどうしようもないのに、アルコールを断ったり、耳栓を買ったりする俺、愛しい。生きるのにまじめ。

 そんな大変に暑い真夏に開催される予定のキャンプについてなのだが、僕がしおりを作ると言ったら、ポルガも「ポルガもつくる」と張り切りはじめ、しかししおりというものがどういうものかあまり理解していなかったため、とにかく来たるべきキャンプへの思いの丈をぶちまける内容の誌面を延々と紡ぎ、なんか最終的にそれは50ページ近くになっていた。最後のほうはページ数を増やすための手抜きがひどいのだが、前半部はなかなかにおもしろく、そのうちスキャンして公開しようと思っている。そして我々がそういうことをしているということが、ファルマン経由で耳に入り、キャンプの企画者である義父もなにかが触発されたらしく、エクセルで今回のキャンプの概容についてまとめたものを送ってきた。これはいかにも人生の途中でパソコンに遭遇したおっさんが作ったエクセルファイルだなあ、という垢抜けない感じのもので、たぶんふたつあるコテージの部屋割を提案することが当初の目的だったのだろうが、それだけだとエクセルにする意味がないと感じたのか、バーベキューで用意する食材の分量であるとか、今回のキャンプに掛かる費用であるとか(それはあなたが黙って払えばいいのだから知らせる必要がない)、そういうものまで記載されていた。僕はそれをファルマンのパソコンの画面で見て、そのときはもう自分のキャンプのしおりを作り終えていたこともあり、「……なんか、人がこうして張り切ってるのを見ると、すごく醒めるね」と呟いた。なんか、やけに白けた気持ちになったのである。そうしたらファルマンが、「そんなこと言ったら私はそれを、夫からも娘からも父からもされてるんだからね」と言った。本当だ。つらたんじゃん。

2018年7月18日水曜日

耳すまスタンプ・親知らず・宮崎

 びっくりした。LINEに「耳をすませば」スタンプが登場した。こわい。だって別にいま、「耳をすませば」、世間的にぜんぜんブームじゃない。僕の中でしかブームじゃないのだ。
 僕の中のブームと言えば、先日、LINEの画面を「耳をすませば」にしたことについて、以前に職場でLINEを交換した人に、「どうして「耳をすませば」に?」と問われて、しかしあんなツッコまれ待ちみたいなことをしておきながら、この問いかけに対する軽妙な回答というのを、不覚にも僕はまったく用意していなかったので、現実に人と相対しているとき特有のキョドり方をしたのち、「み、「耳をすませば」に、ハマってるから……」と、なんにもおもしろくない返答をした、ということがあった(「ああ……」と言われた)。
 そんな哀しい出来事もありつつ、このタイミングで降って湧いたような「耳をすませば」スタンプである。瓢箪から駒とはこのことだ。アプリを入れるにあたっていろんな情報を吸い取られる仕組みでもって、ピンポイントで気を回されたんじゃないかという疑念さえ生じる。だって本当に、あまりにもあまりにもなタイミングではないか。本当にこわい。
 ちなみにスタンプの種類としては、「いいよ」や「オッケー」、「ありがとう」みたいな、いわゆる汎用性の高い素材に加え、聖司による「大好きだ!」、「オレと結婚してくれないか」など、使う場面が限られ過ぎるものなどもあり、まあまあおもしろい。先日、俺が勝手に考える「耳をすませば」スタンプということで挙げた中では、「コンクリートロードはやめたほうがいいと思うよ」「おーい答えてよ」「やな奴やな奴やな奴!」「ちがう、お前なんかじゃない!」、そして杉村の「お前(のこと)が好きなんだ!」が合致した。まあまあの正解率だと思う。
 そう言えばあの記事を投稿してから思い至ったのだが、上の実際にスタンプにもなった「おーい答えてよ」と同じ用法になるとは思うのだが、聖司の「コンクリートロードはやめたほうがいいと思うよ」に対して放つ雫の「読んだなー!」も、既読になったのに返信を寄越さない場面で使えるんじゃないかなー、と思っていた。それはスタンプになっていない。あと雫の母による件の「それって今やらなくきゃいけないことなの」も不採用だったが、父による「勉強よりも大切なことなのかい?」というのは採用されていた。雫の父は他にも「自分の信じるとおりやってごらん」や「戦士の休息だな」(これはいいと思った)も採用されていて、スタンプ制作者の贔屓を感じる。母親は台詞なしで、雫の成績低下について頭を悩ませるイラストだけがスタンプになっているのだが、それなら「勉強よりも……」ではなく「それって今……」を採用すればよかったんじゃないかと思います。
 そしてなによりいちばん大事な部分だが、杉村の「わっかんねーよ!」(本当は「わかんないよ」)はスタンプになっていなかった。杉村は前述の「お前が好きなんだ」と、「いいよ」だけ。杉村の「いいよ」ってどこだよと検索したら、「原田、あのことだけど俺の方から断っとく。ごめんな」「ううん。私こそごめんね」「いいよ」というやりとりが見つかった。……そ、そこ!? 杉村の、そこ!? なんで? これは大いに納得がいかない。
 でもまあとにかくスタンプになったことはめでたい。初めてスタンプを買いたいと思った。でもなんかラインポイントみたいなことを言ってきて、意味がわからない。困ってファルマンに相談したら、ファルマンが買ってプレゼントしてくれた。やったね! オレと結婚してくれないか。

 先日の親知らずの話をここに書いた夜から、痛みがピタッと止まったのだった。
 歯のこういうところが気色悪い。それまで調子に乗って痛みを主張していたけれど、いざ宿主が、お前そんなに痛むのなら抜いちゃうぞ、という姿勢を見せると、途端におとなしくなる。抜かれたくなくておとなしくできるのならはじめからそうしろよ、と思う。それでどうなんだ。お前はもう大丈夫なのか。痛まないのか。ええ。ええ。痛みません。痛みませんとも。パピロウさまの体調が悪かったり、生活がバタバタしていたり、そういうときまで決して痛みません。お前のそういうところだ。

 ポルガの小学校からの便りで、学校の全職員のプロフィール紹介みたいのがあり、最初は別に興味がなかったのだけど、なんとなく漫然と眺めるにつれ、だんだんおもしろくなっていった。質問項目は、マイブームと、好きな有名人と、好きな言葉で、こんな無難な項目でも、50人以上の人間が回答すると、けっこうそれぞれの個性が出るのだなと思った。自分だったらどう答えるか、というのも考えて、好きな有名人で悩んだ。ファルマンは定番の稲葉浩志で、こういうときファンの相手がいると便利だなと思った。悩んでいたらファルマンが「小沢健二は?」と言ってきて、ファルマンによる、僕は小沢健二が好き、というイメージは本当にいつまでもしつこい、とうんざりした。当時はとても好きだったし、今もまあ好きだけど、でも別にそういうんじゃない。そもそも好きな有名人というのを訊かれて歌手を答えるほど音楽好きではない。じゃあ誰か、ということを考えて、まあ僕だったらこの回答欄には宮崎駿と書き込んでおくかな、と思った。小学校のお便りに宮崎駿。これだけでなんとなく不穏さがあるが、駿というところを間違えて勤と書いたらもう校長に呼び出される。

2018年7月16日月曜日

剣・歯・命

 バトントワリングを「見られるもの」にするための動きとして、最初にどうかと思ったストリートダンスがちょっと無理そうだとなり、じゃあ太極拳はどうかと睨んでいる、ということを前に書いた。それで太極拳の教本を選んでいたら、太極拳の中の一ジャンルとして太極扇というものを知り、これは片手で扇を持って太極拳をするというものらしいが、太極拳の時点でだいぶ怪しかったが、こうなってくるともう完全に拳法ではなく演舞であり、扇の所をバトンに変えればそのままバトントワリングに応用できるのではないかと思った。それで教本を借りて練習しようとしたが、やっぱり本だと太極拳のあの間合いというのは理解しづらく、こんなときこそ現代文明に頼ろうとユーチューブで検索をする。すると太極拳も太極扇も出たが、同時に太極剣というのも出てきて、これは剣を持ってやるバージョンの太極拳とのことで、こうなってくるともういよいよ形状がバトンに近似してきたので、扇よりもさらに応用しやすいのではないかと色めきたった。そうして僕が盛り上がる様を横で見ていたファルマンが、「じゃあもう剣を持てばいいじゃん」と言った。

 歯がいよいよかもしれない。だいぶ前から懸念している左上の親知らずが、とうとう予断を許さない状況になってきている。これまでもたまに疼くことがあって、でもそれはスペースのない所に無理やり顔を出そうとする親知らずが歯茎を圧迫するからに過ぎず、だからその発作の時期を過ぎたらケロリと楽になることは分かっているので、痛み止めを服んでやり過していた。
 でも今回のこれはもう違う感じがある。その無理やり出ようと顔だけ出している状態(たぶん)の親知らずが、そんな半人前の状態でありながら、一丁前に虫歯になっているような気がするのだ。これまで何度かやり過した圧迫の痛みとは別種の痛みが、そこからは発せられているような気がしてならないのだ。なんてことだろう。身の程知らずもいいところだ。お前が虫歯菌を養えるような立場か。そういうのはひとり立ちしてから考えればいいだろう。そう怒鳴りつけてやりたい。
 でもいくら向こうの貞節をなじったところで、できてしまったものは仕方ない。このままでは日常に支障を来すので、来週中にでも歯医者に連絡を入れようと思う。気が重い。そりゃあ重いよ。だって親知らずの治療ということは、つまり抜歯ということだろう。上の歯は下の歯に較べていくらか楽、という話は聞くが、それにしたって抜歯は抜歯だ。想像すると涙が出る。痛みとか、血とか、そういう関係のことに、幸福なことだが本当に耐性がないのだ。だから本当につらい。
 犯罪みたいに、逃げて逃げて、最後まで逃げ切ったら、時効になればいいのに。逃げても痛みが強く長くなるだけ、というのが絶望的につらい。

 「耳をすませば」とかについて考えていると、もうすぐ35歳になる今でも、高校が共学じゃなかったことに絶望をする。「耳をすませば」は中学生で、中学校は僕も地元の公立だったので共学だったわけで、「耳をすませば」で絶望感を抱くのは本当はお門違いなのだが、なんかもうそんな冷静な見境などつけられなくなっていて、制服を着た男女が一緒の教室で授業を受けている風景に対して、条件反射的に絶望感を抱く仕様に脳が委縮してきているのだと思う。
 そんな絶望感に苛まれたとき、さいきん僕はこのように考えることにしている。
「男女共学の高校に通った人は、もう二度と人間に生まれ変わることはないのよ」
 僕の中の火の鳥が、そう言って僕のことを慰めてくれる。男女共学の高校に通った男は、もうそれが最後の人間としての命で、あとは虫ケラとかにしかなれない。それに対して男子校だった僕は、まだいつか男女共学の高校に通う人間としての命の機会を有している。
 そう考えることで必死に溜飲を下げている。僕の中の火の鳥はどこまでも僕に優しい。

2018年7月12日木曜日

プロフ・ハート・メモ

 これまでLINEのホーム画像が手塚治虫の写真で、プロフィール画像が火の鳥だったのだけど、昨日ふと思い至って変更した。ホーム画面を、雫と杉村が神社で話している場面、プロフィール画像を杉村のアップにしたのだった。先日、耳をすませばのスタンプがあればいいのに、ということを書いたが、こうしたことで、要するに僕が耳をすませばスタンプでしたかったことは実現できるのではないかと思った。僕自身はLINEのやりとりの画面に杉村は現れないのだけど、向こう側ではすべての発言が杉村が頬を赤らめて叫んでる風に見えているはずなので、そんなん僕だったらおもしろいから、特に用件もないのにずっとその人とだべっちゃう、と思う。あとステータスメッセージはもちろん「わっかんねーよ!」である。基本的に杉村は「わからない」。すべてわかってる風だった火の鳥から、一気にキャラを変えてきた。発言内容も自ずと変化してくると思う。
 この変更をファルマンは褒め称え、「私も耳をすませばにしようかな」と言ってきたので、「いいじゃん。ホーム画面を一緒にして、君は雫にすればいいじゃん」と言ったのだけど、言ってから夫婦で杉村と雫じゃダメだろ、と気がついた。しかし僕は聖司にするつもりはないので、ならばファルマンには夕子になってもらうしかない。夕子……。僕が杉村で妻が夕子というセットで捉えれば、まあもちろん大いに痛々しいのだけど、意味はとりあえず解るとして、共通の知人ではない、たとえば子どもの幼稚園や小学校の母親たちは、ファルマンの唐突な夕子に対してどう思うか。数あるジブリキャラの中で、夕子!? ……でもあの人ならさもありなんよね。そうね、さもありなんよね。ヒソヒソ、ヒソヒソ……。ちなみにファルマンのプロフィール画像は、ジブリじゃない原作のほうの魔女宅です。夕子とそれ、果たしてどっちがセーフなのか。わっかんねーよ!

 TikTokの話をしたい。お前どうした。TikTokに対してなんでそんなに入れ込んでいるんだ。自分でもわからない。もうさすがにしつこいので杉村調では言わないが、よくわからない。なんかあのネタ合戦的なところに、生来のなにかが刺激され、こうしちゃいられない気持ちにさせられるのかもしれない。それと同時に主に映っているのが女子高生なものだから、その合わせ技で、そのまま寝技に持ち込みたいのかもしれない。
 演出なのだろうと思うが、女子高生のムービーで、撮影者が友達に向かってスマホを向けて勝手に撮影をスタートし、あのパンチするやつとか、いろんなハートを指で作るやつとか、「め組のひと」とかのメロディを流し、カメラを向けられたほうは0.5秒くらいびっくりしたあと、それぞれのメロディのお決まりの振り付けをする、というのがよくあり、あれがなんだかとても羨ましい。友達が多い子の、急にTikTokの撮影をスタートされちゃって、でもそれに対応しちゃう、その情景からにじみ出る、その子の幸多からん日々が羨ましいのだと思う。
 友達ってなんだろうということを常日頃から考え続けているけれど、友達っていうのは、勝手にスマホを向けてTikTokの撮影をしちゃう人のことなんじゃないかな、と思った。だから僕もいつか起るだろうその瞬間に対応できるよう、女子高生たちのムービーを観て、日々練習に励んでいる。あの「しあわせはいつも続かない」みたいな歌詞のハートを作るやつ、もう急に撮影がスタートしても大丈夫だ。かわいくできる。いつでも来い。どす来い。

 かつてタブレットを持っていなかった時代、ガラケーのメモ欄に思いついたことをメモしていたのだけど、やはりタブレット導入以降はそれをめっきりしなくなった。いまはもっぱら、タブレットバッグのポケットに入れたメモ帳と、ペン差しに差したボールペンで、書きつけています。

2018年7月7日土曜日

JK・茶髪・四半世紀

 LINEの友達の数が増えないし、既存の友達ともまるでやりとりがない。
 既存の友達と言ったが、それはLINE側が多様な関係性を忖度せず、十把一絡げに「友達」と、こちらの心の琴線を刺激する言い回しを用いてくるからで、実際に「友達」と言える人間は、登録されているメンツの中にもちろんひとりもおらず、おらんのだからやりとりが生まれるはずもない。おらんのに、そのおらん相手とやりとりをしていたら、もう人として最終的な段階に来ていると思うので、それよりは救いがあるのではないかと思う。
 ところで先日ふと、僕が女子校の教師であったならば、LINEがむちゃくちゃ愉しいんだろうなあ……、ということを思った。娘をふたり持つ父親がなにをふと思っているのか。本当は生徒とLINE交換なんてしたらいけないんだけど、ひとりちょっと不安定な生徒がいて、その子がいざという時にいつでも俺に連絡を入れられれば、と思いLINEを交換したら、そこから他の生徒たちも「えー、ずるい」とか「ウチも先生とLINEしたいし」などと言って交換することになり(「学年主任には内緒だぞ」)、それからというもの、生徒たちからのLINEのメッセージが引きも切らず、しかも既読スルーとかしたらJKはめっちゃキレるものだから必ずなんかしらの返信をせねばならず、ホントにもう、参るんだよ……、とジモ友との飲み会で愚痴を吐きたい。そしてそんな愚痴を吐いている間にも生徒たちからのメッセージは鳴り止むことがない……。
 だけど僕は女子校の教師ではないし、JKからメッセージが送られすぎるという愚痴を吐く相手のジモ友もいない。兄のエースも死んだ。じゃあ僕には一体なにがあるというのか。
「仲間がいるよ!」
 だからいないんだってば。

 ファルマンに髪を染めてもらう。「USP」で確認したら、去年の9月13日に「気が済んだ宣言」をして、髪を黒くしていた。だから10ヶ月ぶりということになる。
 染めてもらうという表現だったのは、今回はブリーチから始めるわけではなく、むしろその真逆で、ちょっと白髪が目に付くようになったから、それを染めるのが目的だったからだ。ちなみに白髪に関しては、子どもの頃からあったし、20歳前後の頃など現在よりもよほど多かったので、僕の中では禿げと明確に区別され、老いとは直結しないので、ショックがない。だからそれを染めるためという理由も、少なからずただの大義名分であり、実際は「気が済んだ」の「気が済んだ」からだとも言える。ブログが収束と拡散を繰り返すように、髪のある間はこんなことを繰り返すんだろう。
 カラーリング剤はいちばん明るい栗色系のものを選んだが、なにしろ黒髪からのスタートなので、パッケージの写真ほどは明るくならなかった。もちろんそれは想定済みで、ほどほどの茶色になった。気に入っている。今回は前回のように、躍起になって明るくするつもりはない。

 ファルマンが前回の記事でTikTokの存在を知り、「いやでもこういうのって昔からあったよ」と言う。こういうときに自分たちの口から出る「昔」が、そろそろ本当に四半世紀ほど前の話になったりするので、言葉に重みが出てきた感がある。そしてファルマンはこう続ける。「結局クラスの目立つ子たちは、使い捨てカメラとかで休み時間にこんなことやってたもん。もちろん私はやらないほうだったけど。だから(現代の)これも、やってるのは一部の子で、大抵の子はやってないんだよ」。うん、まあそれはそうなんだろうな、と思う。僕はもう高校生をユーチューブでしか見られない立場になってしまい、そしてユーチューブにアップされた動画に映っている高校生というのはそっち側の高校生ばかりなので、現代の高校生ってみんなこうなのかと思いがちだけど、実際はもちろんそんなことはない。実際TikTokの教室で撮影された動画なんかを眺めていると、映っている子たちの後ろのほうに、休み時間なのにノートに向かっている生徒とかが映り込んでいたりする。ああいうのだって当然いるのだ。数年前、東京を離れるとき、出身大学である悪質なタックル大学のキャンパスに行って、現役の大学生を眺め、「時代が進んで、細かいアイテムは変わっているのかもしれないけど、オシャレな子のオシャレ感と、オシャレじゃない子のオシャレじゃない感は、結局まるで変わっていない」と感じたことがあったが、それと同じなのだ。ああ、それにしても本当に、妻の口からサラリと放たれる、使い捨てカメラという言葉よ……。近ごろ若者の間で使い捨てカメラがひそかなブーム、「スマホのカメラと違って現像するまでどんな写真になるか分からないのがいい」、という話は本当なのだろうか。そんな「よさ」、ないだろ。撮った写真がその場で確認できる喜びに、我々世代はこれから死ぬまで浸り続ける所存だぞ。そんな「よさ」、どこにもないだろ。不便だろ。

2018年7月4日水曜日

一過・妖精・僕杉

 おとといあたりから気持ちが沈んでいて、自分に友達がいない哀しみなどを中心に、やけに落ち込んでいたのだけど、今日の昼、台風一過の空の下、久しぶりに散歩をしたら、一気に気持ちが晴れた。歩きながら、そう言えばピイガがちょっと体調が悪そうで、幼稚園を休むかもしれないと言っていたな、と思い出し、ファルマンに電話を掛けたら、ピイガは普通に登園して普通に帰ってきていた(ちょうど午前で終わりの日だったからよかった)。ついでにその電話で、気持ちが晴れたことを伝えたら、「それって低気圧が原因だったんじゃない?」と言われ、それまでなぜかその考えがまるで思い浮かばなかったのだけど、落ち込んだタイミングも回復したタイミングも、まさにそれしか考えられず、なるほど、なーんだ、となった。我々は、脳を通してしか世界が見られないから仕方ないことではあるけれど、その時々でとても深刻な苦悩を抱えているつもりになっても、結局は気圧のせいで脳がちょっと物理的にどうにかなっているだけだったりする。そう考えたら逆に、脳さえハッピーなら世界中がハッピーなわけで、そういうクスリがあればいいのになあ……。

 TikTokというジャンルを知り、なんだか衝撃を受けた。これまでも次々出てくる若者文化に対して、それなりに衝撃を受けながら生きてきたけれど、なんかもう僕と若者文化との乖離は来るところまで来たな、とこれを知って感じた。女子高生が中心になってやっているから、まあその関係でその存在を知ることになったのだけど、ただでさえ得体の知れない存在であった女子高生というもの(なにしろ僕は男子校出身であり、振り返ってみれば生身の女子高生とはあまり縁のない半生を送ってきたのである。そのせいかいつまでも火が燻ぶり続けるように女子高生を追い求め、結果的に女子高生成分が濃密な半生を送ってきたような錯覚さえ抱いていたが、よく考えてみたらやっぱり女子高生と現実に絡んだことはほぼない!)が、今回のTikTokによって本当に遠いものになった。伝説を信じて森を探求した結果、草むらの一角に妖精たちの遊び場を発見したが、その妖精たちの遊びと言えば、葉っぱを指で叩いてケラケラ笑うみたいな、なんか本当にもう、君たちは一体それのなにが愉しいの? その遊びの情趣はなんなの? おじさんに教えてよ! と思わずいいたくなるほど退屈、みたいな、そんな感じ。もはや女子高生は妖精的な存在になった。

 ヒップホップダンスの教本を借りた、ということを前に書いた。それで練習に励んでいるかと言えばそんなことはなく、ただステップを説明する連続写真を眺めているだけで、ぜんぜん体は動かしていない。しょうがないじゃないか。仕事を終えて帰って、子どもたちも寝ついた夜半に、ヒップホップダンスを練習できるか。できないだろ。そんなわけで、これもバトンと同じで、昼休みに会社で練習したらいいのではないかとファルマンに相談したら、「それはやめとけ。ヒップホップダンスはやばい」みたいなことを言われて、なぜバトンはよくてヒップホップダンスはダメなんだ、わっかんねーよ! とまた僕の中の杉村が発動した。世の中、僕の中の杉村なことだらけだ(わからないことだらけの意)。もっともヒップホップダンスに対して、ヒップホップダンスじゃないんじゃないか? という猜疑心を抱きつつもある。バトンと組み合わせて芸になるかどうかというレベルの話ではなく、僕にこの、中学生くらいの少年少女が、飛ぶがごとく踊っているこれは、ぜってえできねえんじゃねえかと、ちょっとべらんめえ口調になってしまうほどに、感じているのだった。そんなわけで次なるターゲットの教本を図書館で予約する。次は太極拳だ!