2024年4月17日水曜日

せいちょう・爆裂なもの・あとから気付いてぞっとする話

 桜が散って、朝晩の冷え込みもなくなって、もうすっかり季節は移ろった。とは言え春と秋というのは、夏と冬と違って、純度100%という状態はないと思う。少し前までは冬を引きずった春だったのに、それが終わったと思ったら即座に、夏を彷彿とさせる春になった。濃い色と濃い色に挟まれた、あわいの部分のようだと思う。
 わが家では半月ほど前に衣替えがなされ、トレーナーやカーディガンの段だったものが、Tシャツの段になった。毎年のことながら、衣替えというものは、暑さ寒さへの対応というのはもちろんだけど、半年ほど着続けた服に対するうんざり感からの解放という意味で、ありがたいと思う。半袖のTシャツの清々しさ! と今は感動しているが、ただしこれも半年後には飽き飽きしているのだ。
 ところでそのTシャツに関して、少し驚く出来事が起っている。
 着てみると、小さいのだ。
 何年か前、Tシャツをやけに蒐集した年というのがあって、僕のTシャツラインナップというのは今もだいたいその頃のレガシーでできているのだけど、その当時、傾向としてわりと小さめのものを着ていたこともあり、今年いよいよ「着たらちょっと変」なレベルにまで小さく感じられるようになってしまった。
 太った、という話ではない。体重はほぼ増えていない。そうではなくて、数年間の筋トレおよび水泳によって、いよいよ胸周りが大きくなったのだ。だからそのあたりがパツッとしている。パツパツとまではいかないが、ちょっと強調しすぎだな、という印象を受ける。なによりこれを着て1日過したら、動きづらくて肩が凝りそうだと思う。
 体型がよくなったことは、目指していたことなので嬉しい。しかしTシャツの選択肢はだいぶ減ってしまった。参っぜ! そうか、発育のいい成長期の女子って、こんな気持ちなのか。誇らしいけど、照れ臭い。参っぜ!

 ポルガがよく食べる。たぶん人生でいちばんよく食べる時期なのだろう。
 夕飯時にごはんを大盛で2杯食べたあと、夜食でもう1杯食べたりする。びっくりする。僕なんか、そもそもの1杯が、ポルガの最初の1杯の7割くらいだ。それでもう十分。
 やはりなにが違うって、代謝が違うのだろう。若者は、たくさん食べて、たくさんエネルギーを放出するのだ。それって本当にすばらしいことではないか。そうやって空気中に放出されたエネルギーは、世界そのものを活気づけそうだと思う。
 だとすれば僕は、若者が多い国で暮したい。超高齢化の、人口減少社会はやだ!
 そう考えて、子どもが巣立ったあとの夫婦が小型犬を飼ったりする理屈がようやく解った。身近に、なにかパワフルな、爆裂なものを置きたいのだ。ファルマンの実家の犬は、しつけがぜんぜんできていなくて、あんな厄介なものがいると生活がままならないだろうと思っていたが、あの感じのものが家にいることで救われる心の部分があるのだろうな。

 山陽と山陰を繋ぐ特急電車やくもの、新型車両が走行を開始した。ちなみに開始したのはちょうど、われわれが車で岡山に行った日である。
 新型車両の話になると地元民がすぐ訊ねるのが、「揺れはどうなのか」で、そのくらい中国山地を突き抜けるやくもというのは揺れる乗り物なのであった。やくものことを「はくも」(酔って吐き気を催すから)、さらにはもう少し前に、今回ほど大々的にではなく車両がリニューアルされた際、ゆったりやくも、というコピーが付けられたのだが、それのことを「ぐったりはくも」と呼ぶのが地元民のトレンドであった。
 それでこのたびの新型やくもだが、ちょうど乗ってきた車両がそれだった(6月くらいに全てが新型に切り替わるそうだが、今はまだ混在していて、選択できるわけでもないらしい)という、関西から来た仕事関係の人の話によると、「ぜんぜんちがう」らしい。この人は定期的に来る人であり、そのたびにやくもを利用してきたわけで、話に信憑性がある。
「俺はいつも揺れがいちばん激しいときに小便に行くんだけど、これまでは安定せずに大変だったのが、新型だと難なくできた」
 というエピソードに、へえ、と感心した。どうやら今度こそ、やくもはそこまで揺れなくなったのかもしれない。いちどくらい乗ってみたいものだ、でも地元民がやくもを使うシチュエーションってほとんどないんだよなー、などと思った。
 違和感に気付いたのは帰宅後だ。
 「いつも揺れがいちばん激しいときに小便に行く」ってなんだよ。

2024年4月11日木曜日

ファルマン41・僕と電車・ぶりんばんばん

 ファルマンが41歳になったことについて、改めて書いておく。
 日々「おもひでぶぉろろぉぉん」をやっていることもあり、あの23歳だったファルマン(ちなみに当時の呼び方は「恋人」である。恋人という呼び方!)が41歳ということに、衝撃を受ける。しかしどうしたって去年の、自分がまだ30代なのにファルマンだけ先に40代になったときほどの昂揚感はない。よく見れば41という数字には、40にはないジトっとした奥行きみたいなものがある気がするのだけど、それは顕微鏡とまでは言わないが、ルーペを使わないと視認できない程度だと思う。残念だ。あのスカッとした喜びは9年後を待つしかないのか。
 ブログを書かなくなったファルマンが近ごろどうしているのか、関係者として報告しておく。ファルマンは日々、子どものことを中心にいろいろなことを心配し、またさまざまな事柄を面倒臭がり、そしてテレビドラマに癒されながら、とりあえず健康そうに生きている。なによりだと思う。41歳という輝かしい1年を、溌溂とした猛ダッシュで大笑いしながら駆け抜けてほしい。

 先日岡山に行ったことを契機に、電車のことに思いを馳せた。ポルガがかつての最寄駅から岡山駅に行ったり、またこの日は岡山と山陰を結ぶ特急列車「やくも」の新型車両の運転開始日であったりと、なにぶん普段の生活が電車とは本当に縁遠いので、実際のところ自分は利用していないのだけど、最近の暮しの中では最も電車に近づいた日だと言えた。
 しばらく乗っていないせいか(去年の3月の帰省以来乗っていない)、僕の電車処女膜は完全に再生してしまっていて、生娘のようにいたずらに拒否する気持ちが湧いている。拒否というか、怖いのである。なにが怖いって、自分が運転していないのに進む車窓の景色が怖い。それでも完全に知らない土地の風景であれば、ディスプレイを眺める感じで無でいられるだろうが、それが地元の知っている場所であった場合、自分の意志とは関係なく勝手に進んでいることや、普段との視界の高さの違いなどから、自分の世界が、そっくりの異世界のように思えてしまって、それが怖ろしいと思う。
 なんと、なんと田舎者の発想だろうか。書いていて自分で驚いた。もはやここまで来た。毎朝満員の田園都市線で渋谷まで行き、井の頭線に乗り換えていた高校生が、とうとうこの地平までやってきた。いまでは女房子供持ち、この先どこまでゆくのやら。

 春休みということで3月末から先週まで、またファルマンの上の妹とその娘たちが実家に来ていた。1月、2月、3月、4月と、今年はここまで毎月会っている。
 ファルマンと子どもたちは、こちらももちろん春休みで暇なので、日々実家へ出向き、姉妹なり従姉妹なりと、それぞれたっぷりと交歓していた。
 僕も2度ほど顔を合わせたが、ぼちぼち満2歳となる次女は、やはり心を開いてくれることはなかった。しかし拒むは拒むのだが、完全に無碍だった長女と異なり、次女の拒み方は「あらら、人見知り時期だからしょうがないね」とほほえましい気持ちになるような、血の通った感じがあり、拒まれた側としてもあまり悲壮感は湧かないのだった。
 それでもなんとか気を引こうと奮闘し、上の妹にアドバイスを求めたら、「Creepy Nutsの『Bling‐Bang‐Bang‐Born』で踊ったりするよ」という答えが返ってきたので、それを聞いて僕はどうしたかと言えば、なんの迷いもなく「ぶりんばんばん……」と唄いながら、あの腕を左右に揺らす振り付けをしてみせたので、我ながらびっくりした。おっさん、親戚の小さい子に受け入れてもらいたくて、そんなことしちゃうのかよ! と。パピロウ変わったな! 俺の知ってるパピロウは、そんなのプライドが邪魔して絶対にしなかったよ! と。
 でも2歳児、少しだけニコッとして、一緒にちょっと腕を振ってくれたので、よかったです。もう乳幼児のそういうのが享受できれば、それでいいのです。

2024年4月2日火曜日

腰・ブラジャー・進学祝い

 腰を痛める。数日前の風呂上り、タオルの入っているいちばん下の引き出しを開けようと屈んだところで、ヌドゥンッという感じの味わったことのない違和感が腰を襲い、そこで動きが静止した。ぎっくり腰のエピソードとして伝え聞くような、その姿勢のまま一切動けなくなった、というほどのことはなく、最悪の結果は(今のところ)免れているが、それでもまだ腰は不穏な空気を放ち続けている。まるで反社のようだと思う。俺のこと軽い扱いしたらどうなるか分かってんだろうな、あぁ? と凄まれ続けているようなストレスがある。
 体に不調を来したとき、明確な原因など特定できる場合のほうが少ないのに、執拗なまでに「これが悪かったのかもしれない」「あれのせいかもしれない」と可能性を探るという性癖を持つファルマンは、「この春先の、寒さとして認識しづらい微妙な寒さに対する油断のせいだよ」などと言ってきたのだけど、春先のそれには毎年接していて、それなのにこれまでいちどたりともこんなことはなかったのだから、そうなるともう答えはひとつしかないと思う。目を逸らすなよ、と。
 そう思う一方で、春休みの娘を連れて実家に日参するファルマンは、すぐさま僕のこの腰痛のことも実家の面々に伝えたそうで、そのことに対して僕は、「やめろよ! いつまでも若々しいパピロウでありたかったのに!」と抗議をしたのだった。しかし僕のその抗議に対し、「別にあなた、いままでもそんなキャラじゃなかったよ」と冷静に諭され、何重かにショックだった。
 腰の不穏な痛み、つらい。じわじわじわ、と人生のテンションを下げてくる。

 「おもひでぶぉろろぉぉん」で、相変わらずまだ23歳時点の日記を読み返しているのだが、当時の僕はしばしば女子高生のブラジャーの話をしていて、時代性を感じる。
 たぶん17年前に較べて、世の中のブラジャーの売り上げというものは大幅に落ちたことだろうと思う。なぜか。
 それはブラトップができたからだ。
 17年前にはまだブラトップはこの世になかった。いつから出たのかと検索したところ、この1年後の2008年なのだった。エポックメイキング!
 ブラトップの登場によって、ブラジャーは一気に遠い存在になった。
 しかしなったらなったで、僕としてはなんの問題もない。どうも僕は、当時からそこまでブラジャーというアイテムには熱情を持っていなかった様子がある。ブラトップがブラジャーに取って代わったことに、苦言を呈したことはこれまでいちどもない気がする。
 おっぱいに関しては人並みに好きだという自覚があり、それを守るための女の子特有のアイテムと考えれば、ブラジャーに関してもパッションがあるべきだという気がするのに、なぜかそうではない。どっちでもいい、さらに乱暴に言えば、どうでもいいと感じている。
 ショーツと異なり、ブラジャーにしろブラトップにしろ、その中身以上に見目好いものというのが、存在し得ないからかもしれない。引き出しの、ショーツの段には興奮できるけれど、ブラジャーの段は開けてすぐに閉めると思う。もしも女の子の部屋に忍び込んだとしたら、と仮定して。

 姉の長女、姪がこの春から高校に進学する。姪が高校生て、という気もするが、なにぶん娘が中学生なので、実はその「月日の流れ早すぎるよ!」の感慨は、ただの定型句である。本当は淡々と、そうか、とだけ思っている。
 中高一貫の学校に通っていて、さらには制服もない学校なので、高校進学という感じはきわめて乏しいのだけど、それでも一応は進学なので、親戚としてなんかしらのお祝いを贈るべきだろうという話になっている。
 3月からなっているのだが、これがなにも思い浮かばないので困っている。横浜で生きる高校1年生の姪が、いったいどんなものが欲しいのか、見当もつかないのである。本人が欲しいものではなく、そんなものは世代の違う者が分かるはずないので、大人として、人生の先輩として、これから若者が必要となるであろうものを与えてやればいいのだ、とも思うのだが、そちらもまたなにも思い浮かばない。さらには姪の父の顔の広さのことを思うと、その考え方から思いつく大抵のものは、あの大集団の誰かしらからもう既に贈られているのではないか、それも情報強者特有の、知る人ぞ知る気の利いた逸品を、などと考えると、友達がいない田舎在住の叔父は、いよいよ手も足も出なくなる。
 もはや開き直って、相手のパーソナリティのことなど一切考慮せず、こちらの趣味を貫くしかないか。だとすれば、どうしたってこの叔父夫婦は、本くらいしか選択肢がなくなるわけだが、でも本って! とさすがに思う。本ってもう、叔父夫婦もほぼ読まないではないか。あんな現代にそぐわないものもらっても、迷惑なだけだろう。姪の家には本の収納場所(本棚といいます)などないだろうし。
 さあどうしよう。もう4月や。

2024年3月26日火曜日

ハンドメイド水着(メンズ)・酸欠神秘・7円

 3月はせっせと販売用の水着を作っていた。その果以あって、ぼちぼち数も上がってきたので、いよいよ発売のときは近そうだ。販売サイトは、検討した結果、たぶんYahoo!フリマにすると思う。見た中ではそこがいちばん、男性用水着の販売が活況そうだったから。
 でもたぶん簡単には売れないだろうと思う。「水着 メンズ」で検索を掛けると、speedoであったり、arenaであったり、mizunoであったり、水着ブランドの水着ばかりが出てきて、結局そうなんだよ、世の中の人たちは名のあるメーカーのものを偏重するんだよ、minneだってハンドメイドと言いつつ、結局セミプロみたいな感じだしさ、とクサクサしたのだった。しかしひとしきりクサクサしたあと、と言うか考えてみたらそもそも、ブランド偏重もなにも、「ハンドメイド水着」というジャンルが、この世にほぼ存在しないのだった、と思い至った。
 「ハンドメイド下着」というジャンルは、いちおうある。でもそのほとんどが女性用だ。僕がたどり着けていないだけかもしれないが、男性用ハンドメイド下着の販売ページというものは目にしたことがない。下着でさえそんな状況なのに、あろうことか水着である。狙いどころがあまりにもニッチ過ぎるのではないか、と我ながら思う。
 でも僕は実際にそれを着用して泳いでいるが、自分の理想を形にしただけあって、本当にいいのだ。販売ページであまり熱情を持って説明文を書くと引かれるので書かないつもりだけど、本当は声を大にして言いたい。これはすばらしいものであると。販売ページに書き込めない思いの丈は、たぶん「nw」にぶつけることになると思う。

 某女性シンガーソングライターと某元競泳選手が離婚して、明確な声明はなかったものの、どうもその元競泳選手というのが、とある新興宗教に傾倒したらしいという下世話な記事を目にし、その関連で紹介されていた、その初めて目にしたとある新興宗教の教義の香ばしさに、頭がくらくらした。
 その某元競泳選手は、先輩である超有名な元競泳選手の影響で入信したとのことで、それを聞いて思ったのは、やっぱり水泳選手というのは、酸素が足りない状態で死に物狂いで泳ぐので、臨死体験や神秘体験というものが身近にあるのかもしれない、ということだ。折しもパリオリンピックの競泳代表の選考会が連日NHKで放送されていて、少し観たりもしたのだが、1500m自由形なんかを観てると、これはもう競技というより修行の一種ではないかと感じた。なにより泳いでいる間、景色も変わらず暇で仕方ないだろう。酸欠で、体をオートメーションに動かしながら、頭の中では一体なにを考えているのか。それはやっぱりちょっと、容易に神秘的な方向に行っちゃうよな、と思った。

 大谷翔平が話題を振りまきまくっている。結婚、韓国、賭博。すごいじゃないか。うすうす感じていたけれど、どうやら大谷翔平というのは、やっぱりこの世界の主人公らしい。われわれユーザーを飽きさせないため、ジェットコースターのように息つく暇を与えない。
 約7億円が勝手に使われていたということで、それは本当か、本当に勝手になのか、というのが今回の件の焦点になるようだが、7億円というと途方もない額のように聞こえるけれど、大谷のドジャースとの契約金は約1000億なわけで、それは約分すれば、1000円持っている人にとっての7円という感覚の話になるわけで、きちんと理由を説明して7円を持っていかれても、あるいは勝手に7円を持っていかれても、大谷にとってはマジでどっちでもいいことだったんだろうと思う。そんなことより野球がしたい! 野球野球野球!
 球を投げて球を打って1000億円もらい、ぜんぜん豪遊せずにひたすら早寝早起きして野球だけする人がすぐ横にいたら、精神のバランスがおかしくなって、賭博に手を出してしまうのも、ちょっと仕方がないという気もする。
 そして大谷の話題のときには必ず言うことにしているが、僕が大谷翔平に勝っているのは、ちんこの大きさくらいのものだと改めて思った。新婚にこんなこと言って申し訳ないけれど。

2024年3月15日金曜日

ロケット・で・徴兵

 和歌山県から打ち上げられた民間ロケットが、発射後すぐに爆発していた。
 ロケットを作ったベンチャー企業の社長が、そのあとに開かれた記者会見において、頑なに失敗という言葉を使用しなかったのが、なんだかおもしろかった。たぶん今後のスポンサー誘致のことなどを勘案し、悪いイメージをつけまいとしての作戦だったのだろうが、その会見内容を伝えるニュースの前に映し出される、ロケットが爆発する映像というのが、本当に見事なまでにきれいな、清々しいほどの爆発具合なので、そのあまりのギャップが笑いを誘うのだった。見た目からして絶対にとんでもなく阿呆な子を、「やればできる子なんです」と言っているような、なんかそういうギャグめいた風景に見えたのだった。
 同じくロケット事業を行なうイーロン・マスクもコメントを発表したとのことで、どんなことを言ったかと思ったら、「Rockets are hard」だそうで、ここまで含めてやけにコントっぽい出来事だな、と感じた。マスクのコメントはどこかバカボンのパパっぽさがあり、赤塚不二夫の世界観に近い気がする。

 ちょっと前、まあよくある話なのだけど、なんかしらの事由で疲れている奥さん(投稿者)が、これから晩ごはんを作ろうというとき、献立をどうしたものかと夫に問いかけたら、「うどんでいいよ」という答えが返ってきて、あり得なかったので説諭した、というエピソードが投稿されて、やけに話題になっていたのだった。
 これは本当によくある。夏場に、そうめんでいいよ、と言ってしまったパターンなどのバリエーションもある。そして定期的に盛り上がる。女はこのパターンが本当に好きである。男の、家の仕事の大変さへの理解のなさ。大好物である。
 女のそういう部分の怒りを刺激していいことなど本当にひとつもないが、それでもこちらも性分なので、黙っていることができない。誰も読んでいないブログだし、述べる。
 晩ごはんをうどんで済ますのは、普通の晩ごはんを作るより、絶対に楽だろ。
 いまどき、完全に料理をしない男は少数派だ。だからこっちだって実体験をもとに判るのだ。うどんは楽だ。ごはんと、汁と、おかずが、ひとつで済むのだから。
 女は、「で」が悪い、と言う。「うどんがいい」「そうめんがいい」ならいいが、「うどんでいい」「そうめんでいい」は、手抜きだけど許してやるよ的な考えが漏れ出ていると考えるらしい。読解力が低い。あるいは被害者意識が強すぎる。話にならない。
 普通の献立を作り上げる労力が10だとしたら、うどんは5くらいで済む。こちらはその簡便さを実現するための方策として、「うどんってことでいいんじゃない(ナイスアイディアだろ)?」と言っているわけで、別に手抜きを糾弾する意図はないのだ。それなのに女はすぐに言葉尻を取って男を責める。責められた男は、本当は反省などしていない。なぜなら反省する部分などないからだ。悪はいない。いるとすればそれは女の心の中の仮想敵だ。責めることでお前の溜飲が下がるならば結構、と思いながら男は粛々とそれを受け止める。
 ま、そんなところが女のかわいさなんだけどさ。

 ミャンマーで徴兵制が開始されるというニュースを目にし、内容を読んだところ、男性は18歳~35歳が対象とのことで、衝撃を受けた。
 戦争教育の賜物か、僕は徴兵制というものにものすごい拒否感を持っていて、自分の人生で絶対にそんなことにはなりませんように、ということをずっと強く願い続けてきた。小中学校での体力テストも、あまりいい記録を出すと、いざというときの徴兵リストの上位のほうに名前が来てしまうと考え、力をセーブしていたほどである(俺が本気を出したらそのときはもう、ねえ)。
 そのため、このほど運用が開始された徴兵制の対象年齢が35歳までだったというのは、国が違うとは言え、かなり感慨深いものがあった。
 これはどうも、今生、僕は徴兵を免れたのではないだろうか。
 これから有事になったとて、もはや40歳の僕は、国家から戦力としてカウントされないということではないのか。ましてや中学校の体力テストの記録を見るに、とても機敏に動けそうもない。さらには内申点から察するに、規律に対する従順さも壊滅的だ。しかもamazonの定期購入リストにはサプリメントがずらずらと並んでいる。サプリメントを日々せっせと飲んで、やっと立てているようなものではないか。駄目だ駄目だ、こんな奴は。たとえ志願してきても絶対に入れてやらん。こっちから願い下げだ。
 そう考えるととても嬉しい。この世からありとあらゆる争いごとがなくなりますように。

2024年3月13日水曜日

矜持・むべ・見識

 子どもたちがYouTubeの、ほとんど静止画のような、キャラクターの絵が小刻みに動くだけの簡単なアニメに、やたら早口のセリフを乗せた、コント仕立ての映像をとても愉しんで観ていて、不憫だ。不憫とはどういうことかと言えば、子どもたちはそれが本当におもしろいと思っていて、父である僕にも観るよう薦めてくるのである。だが僕は断るのである。どう言って断るのかと言えば、こうである。
「俺はごっつええ感じを観て育った世代だからこんなものはとてもじゃないが観られない」
 つまり、こんなものをおもしろいと思ってしまう、ごっつええ感じをやっていない時代のお前らが不憫だ、ということである。
 言いながら、我ながらひどいな、と思う気持ちはもちろんある。僕はラジオ番組の常連リスナーによる内輪ウケの感じとかがものすごく嫌いなのだけど、これではあまり人のことは言えない。しかもハガキ職人でさえなく、観ていただけなのだから、なおさらタチが悪い。
 そういう自戒の念はありつつ、それでもなお、あの類のアニメを観たくないと思う理由は、厳然としてそこに立脚していると思う。これは矜持だ。俺はごっつええ感じを通して、おもしろさというものを理解していった人間だという矜持。矜持と書いて老害と読む。

 ようやくきちんと暖かくなってきて、春を実感できるようになった。
 グダグダだった去年に対し、今年の灯油のフィニッシュはかなりうまいこといきそうである。なにしろコタツの存在が大きい。去年はコタツを出さなかったので、ストーブを点けるか点けないかという大味の寒さ対策しかできなかった。今年はコタツのおかげでゆるやかな調整をすることができ、結果として灯油の購入費も大いに削減できた。去年の記録というものはないのだけど、今年ははっきりしていて、12000円である。灯油缶、約6回分。これはたぶん、去年よりもだいぶ少ないはずである。
 暖かくなってくるとなにがいいって、あまり服を着込まなくていいというのが嬉しい。常態としてあまり服を着込まないでいられると、そこからの脱ぎやすさ、裸になりやすさというのもよくなってくるわけで、いろんな意味で快適だ。冬の間じっと我慢していた部分が、スプリング状に飛び出るイメージ。春になってちんことか出しちゃう事案が多く発生するのも、むべなるかな、と思う。俺のむべなるかなが涎を垂らして悦ぶ春です。

 手製のスイムウエアを本当に販売してみることにして、鋭意製作中である。
 以前「パピロウせっ記」に、僕の作るスイムウエアは股間の部分にたっぷりのゆとりがあって、それは製作者こだわりの特長であると同時に、あまりそのことを主張し過ぎると公共の場での着用に支障が出てくるし、かと言ってその作りに関してまったく触れずに販売するとそれはそれで問題がありそうで、いったいどういう言い回しにすればいいか悩んでいる、ということを書いた。minneで痛感したのだけど、どうも僕は人にきちんとなにかを説明しようとすると言葉数が多くなりすぎるきらいがあり、このままではスイムウエア販売(ちなみにminneでは売らない)でも同じ失敗を繰り返してしまいそうだと思った。
 そこでファルマンに相談したところ、「「圧迫感のないデザインです」くらいでいいんじゃない」という答えが返ってきて、「それだ」となった。つかず、離れず。それくらいでいいのだ。ジョニファーの着用画像に、それくらいの文言でいいのだ。それで伝わるのだ。
 ああ助かった。股間部の盛り上がりに関する表現について見識のある妻と結婚してよかった。

2024年2月29日木曜日

褒美・ステルス・石ころ

 ポルガが学年末試験を終える。
 試験のたびに、「勉強しなさい」「嫌だ」「成績が悪かったら塾に行かすよ」「じゃあ逆にいい点数だったらご褒美ね」というやりとりがあり、結果としてポルガはこれまで順調に塾をすり抜け、褒美をゲットし、そして真摯に勉強をしないのにわりといい点数を取って帰ってくる娘に、ファルマンは自分の悲惨な思い出と照らし合わせて膝から崩れ落ちるという、そこまでが一連の流れとなっている。
 褒美は、これまではゲームのソフトや漫画だったのが、今回のポルガのリクエストは、スマホの1日の使用制限時間の拡大と、さらにはTikTokアプリのダウンロードの許可で、なんかあれだな、フェーズが変わったんだな、ということをしみじみと思った。そのことに一抹の寂しさを感じつつも、ご褒美に一切費用が掛からなくて助かるなあ、とも思った。
 TikTokは、どんなものかファルマンが試しにダウンロードして覗いてみたところ、1分くらいで「これはあかん」となり、かなりの高得点でなければ実現しない設定とした。僕自身はTikTokはまだ見たことがないけれど、ひとつだけ分かることは、もしも今回かなりの高得点を取ってTikTokを無事にゲットしたら、それ以降はもう高得点を取ることは絶対になくなるに違いない、ということだ。そのくらいの、バカまっしぐら装置だと認識している。YouTubeもその装置の機能としては大概だが、TikTokはそれをさらに加速させたものであろうと。
 それで試験の結果はどうだったかと言うと、どうも、塾に行かせなければならないほど悪くもなかったが、ろくに勉強しなくてもぜんぜん高得点という、これまでの流れには、ちょっと翳りが見え始めたのかな、という感じで、少々の使用時間の拡大はやぶさかではないけれど、TikTokは不許可という、そのあたりに落ち着きそうな案配だ。いい落しどころだな。

 昔とてもおいしく食べていたお菓子が、そこまでおいしいと思えなくなった、という現象があって、舌が肥えたというよりも、年を取ったことで、強い味のものを受け付けられなくなったんだなあ、などと感じたりしていたのだけど、先日ふと思ったこととして、量や大きさがダウンするステルス値上げという言葉があるけれど、それら物理的な要素のほかに、使用している材料の品質がステルスでダウンしている可能性だって大いに考えられるわけで、かつてはバターを使っていたのがマーガリンになったりとかして、本当においしくなくなっている場合も往々にしてあるのではないだろうか。そのように考えると自分の生きる力的には安心感が得られるのだけど、この世やこの社会という視点で考えると、ちょっと暗澹たる気持ちになる。安寧は得難い。

 ゆめタウン出雲で今週の日曜日、ドラえもんショーが行なわれるという情報が入ってきて、そのショーのタイトルが「石ころぼうしでひとりぼっち?」だったので、見出しをパッと見た瞬間に、ドラえもんの石ころ帽子をモチーフにした体験イベントが開催されるものと勘違いをしてしまい、夢を見てしまった。
 よくある「ドラえもんの道具でひとつ手に入るとしたら?」の問いに、「どこでもドア」や「もしもボックス」などと答えるのは浅はかだ。当たり前すぎて話が盛り上がらない。僕のその答えは断然「石ころ帽子」だ。石ころ帽子のなにがいいかって、もう20年にわたってこのブログで何度も言っているけれど、ただ相手に自分の姿が見えなくなるわけではなく、見えているけど石ころのように気にならなくなる、という点だ。ここが絶妙なのだ。
 だから石ころ帽子のイベントと聞いて(勘違いして)、ローションフェスであるとか、ヌーディストビーチであるとか、それこそ乱交パーティーとか、なんかそういう類のものかと思ってしまった。参加者がそれぞれ石ころ帽子を被り、その場にいる自分以外の人を、同時に気にならなくなって(というていで)、思いのままに振る舞うという、なんかそういう淫猥な匂いのするイベントかと。そんなものを開催するなんて、ゆめタウン猛ってるな、ランサムウエアに感染していろいろ大変そうなのに強気だな、などと思った。
 もちろんそれは大いなる誤解で、実際は冒頭に書いたと通りの、たぶん着ぐるみが出てくるショーで、のび太がピンチに陥るけど結局は一件落着するんだろう(身も蓋もない解釈)。着ぐるみのショーは、もうわが家の子どもたちは対象年齢ではなくなってしまった。たぶん観に行くことはない。もしも観に行ったとしたら、観客席でやけに感慨深い顔でショーを眺めている男性、それが僕です。気にしないでください。

 

2024年2月23日金曜日

さなえ・大谷棒・成熟

 怖い話をする。
 昨晩未明、僕は寝言で突然こう言ったという。
「さなえちゃん、さむかったろう、まだまだ……」
 ファルマンによると、僕はそれを好々爺のように言ったのだという。わりと大きな、ともすれば普段の僕の話し声よりも大きな声だったという。そしてそのあとは黙ったという。ファルマンは慌てて暗闇の中でスマホのメモを起動し、この文面を記したそうだ。
 ちなみに僕の身の周りに「さなえ」という女性はいない。
 僕はわりと、現実とは乖離した、現実で知っている人がひとりも出てこない、知らない人しか出てこない夢を見たりするけれど、それでも思い出す限り、僕は常に僕だ。さなえちゃんの寒さに思いを寄せる老爺になったりすることはない。怖い。
 もしかすると、寝ている間の、使われていない体や脳の部分を、この世界のこの時代とはまるで違う存在に、勝手にレンタルされているのかもしれない。あるいは何十年後かに、孫や曾孫で「さなえ」が誕生したら、これもまた趣の異なる怖さだと思う。

 大谷翔平が初めてのドジャースのキャンプということで、注目度が高く、ニュースでよくやっている。今シーズンは打者に専念するわけだが、先日は実戦形式で、バッターボックスに入っていた。昨シーズンのホームラン王ということもあり、報道陣のほかに見物客もたくさん詰めかけ、大谷の姿を見つめていた。
 その第1打席がすごかった。
 大谷、いちどもバットを振らなかったのである。球筋などを確認するため、はじめからそのつもりだったのだろう。
 しかし大勢のドジャースファンが見守っていたのである。10年7億ドル、日本円にして1000億円を超えるという契約をした大谷がどれほどのものか、見定めてやろうと取り囲んでいたのである。そんな中で、バットを振りもしない、という精神力。もはやサイコパスではないかと思った。
 僕なら、「第1打席は見るだけにしよう」と思っていても、大勢のファンが「どうなの、こいつ実際どうなの、やれんの」という感じで見に来ていたら、「いいとこ見せなきゃヤバいかな、顰蹙を買うかな」と思って、すごく半端なスイングをしてしまうと思う。そしてフォームを崩し、1シーズンを棒に振ると思う。その点、大谷はバットを振らない。バットを振らないから、シーズンを棒に振らない。すごい。サイコパスだ。
 大谷のエピソードを目の当たりにするたびに、僕が大谷に勝っているのはちんこの大きさくらいのものだな、と思う。ちんこの大きさ以外は、すべてで負けている気がする。

 ドラクエ11をやっているのだが、十代の頃のプレイと大きく変わったなと思うこととして、最強の装備を揃え、最強の仲間を集め、最強の強さになろう、という気持ちはぜんぜんないのだった。十代の頃は、レベルを99にして、メタルキングの装備一式を身に着け、5や6だったら仲間にできるすべてのモンスターを仲間に、みたいな執念があった。
 今は、あるもの、手の届くもので、やらなければならないことがこなせればそれでいい、というスタンスである。世界のどこかには、もっといい装備品があるかもしれない。たぶんあるだろう。でも別にそれを手に入れなくてもボスは倒せるので、なくてもいい。
 この考え方の変化は、もちろん僕が大人になったというのもあるけれど、ゲーム自体もそういう傾向があって、スキルポイントの割り振りというのがあり、そのキャラクターの装備できる、剣だったり、槍だったり、杖だったりの、どのスキルを伸ばしていくか、というのが選べるようになっている。レベルを上げたら、あらかじめ定められた数値でそのキャラクターの能力が上昇していくという一本道ではなくて、育成の要素があるのだ。だから、槍を伸ばすことにしてそっちにポイントを全振りしたら、剣はそこまで得意ではないキャラクターになる。昔だったらなんとなくそれは据わりが悪く思ったかもしれない。欠損だと感じたかもしれない。今はそんなことない。これはとてもいいことだと思う。なんでもかんでも手に入るわけではない。そういうものだ。それでいいのだ。

2024年2月15日木曜日

ジョグ・休肝・ドラクエ

 「おこめとおふろ」にも書いたが、いつものプールが閉鎖していて、地方民なのでそのプールが閉鎖するとそれはもうほぼプール難民ということになり、哀しみに喘いでいる。しかしなにぶん性根が前向きなので、打開策としてジョギングをぽつぽつとやっている。偉い。本当に偉いと思う。俺だけの国があれば、俺は俺に国民栄誉賞をあげたい。
 ジョギングは、プールほどはおもしろくないけれど、非日常感もそれなりに得られ、多少の気分転換になる気がする。そのついでに脂肪が燃焼されるのなら万々歳だ。
 夜に、車が来ないからという理由で近所の土手を走ったりすると、遠くに街の灯はあるものの、道や足元は本当に真っ暗で、平衡感覚が失われるほどだ。土手なので、片側は川べり、片側は道路となっており、転がろうものなら危険だし、もしも倒れたら朝まで発見されないな、などと思いながら走っている。
 空を見上げれば、冬の星がすごい。なにがすごいって、数がすごい。
 そんな星空を眺めて思ったのだが、にわかに変なことを言うようだけど、星の配置って、なんとなく線で繋いで、形を想像で補ったりすると、なんかしらの生き物や物品のように見えてきて、それらが星空を舞台に、呼応するように巡っているのだと思うと、ストーリー性さえ帯びてくるような気がする。あまりに荒唐無稽というか、無茶があるので、こんなことを考えるのなんて、過去現在未来併せても僕くらいのものだと思うけども。

 いつまで続くか知らんが、酒を飲むのは次の日が休みの晩だけにしようじゃないか、と思い立ち、実行している。いつからか。昨日からだ。昨日から始めた禁酒を、さも最近の暮しの報告です、みたいな面をして述べてみた次第である。
 酒を飲むことは、肝臓に悪いのはもちろん、なんかしら食べることになるので太るし、寝る前の飲酒はトイレが近くなるし、もちろん酒代も掛かる。冷静に考えるとメリットはデメリットに較べてとても少ないのだ。定期的にこの事実を噛み締めて、禁酒を誓う。それだのにいつの間にかこの誓いは破られるのだから不思議だ。頭おかしいんじゃないか。
 寝る前2時間くらいは食べないほうがいいとか、22時以降は食べないほうがいいとか、そういうことが言われるけれど、晩ごはんを食べたあと、寝るまでの数時間、なにも摂取せずに寝るのって、ちょっと寂しすぎると思う。これまではその思いから晩酌をしていたわけだが、禁酒ということになると、酒の代わりになにか別のものを用意しなければならず、これがけっこう難しい。コーヒーなどのカフェインを摂るわけにはいかないし、ホットミルクというのも大げさだ。じゃあぐい呑みに日本酒を一杯だけ、というのがいちばん簡単な話なのだが、しかし酒がぐい呑み一杯で終わるはずもなく、たぶんそこらへんから禁酒の誓いはいつも綻ぶのだ。
 昨日はどうしたかと言えば、沸かしたばかりの熱い麦茶を飲み、手作りのクッキーを2枚ほど食んだ。健康的だな、とも思うと同時に、それで人生の歓びは得られているのか、という自問も浮かんだ。時間の問題だな。

 ドラクエ11を買う。ポルガがお年玉で買う。それでポルガと同時進行で、僕も冒険の書を作り、プレイしている。実はポルガに買わせたのも、だいぶ僕が焚きつけたところがある。せこい父親だな。もっともドラクエというものは、人生の素養のひとつとして、ひとつくらい摘んでおいても損はないと思う。古い考えかもしれない。
 ドラクエは、たしかDSの9はしたのだったと思う。そしてオンラインの10には触れず、2作ぶりにこうしてまた巡り合った。やり始めてすぐは、ドラクエはもとよりRPGというものが久しぶりだったためか、いまいち気持ちが盛り上がらず、危機感を抱いたが、しばらくやっているうちに、乾燥していた土地に水が染み渡るように、きちんと愉しくなった。
 画面は、はじめにポルガが3Dでやるのを眺めていたら酔ったので、自分は2Dで進めていたのだが、せっかくの美麗なグラフィックを拒否し、ファイナルファンタジー6やドラクエ6あたりの感じのドット絵でプレイしているのが、なんだかすごく偏屈な行為であるように感じられ、途中から3Dに変更した。慣れたらぜんぜん大丈夫だった。これは経験則だ。「初見で拒否感があっても、だんだん慣れて大丈夫になる」のだ。これまでの半生で、さまざまな変遷に対峙し、そんなことは何度も何度も繰り返し学習しているはずなのに、なおも初見での拒否感に付き従ってしまう。年を取ると余計にその傾向が加速している気さえする。不思議だ。「初見で拒否感があっても、だんだん慣れて大丈夫になるんじゃよ……」と若者に諭せるようになれればいいのに、実態はその逆である。人は哀しいな。
 プレイしていると、子どもの頃のドラクエの愉しかった思い出がよみがえってきて、なるほど僕は過ぎ去りし時を求めて、ドラクエ11をしているのかもしれないと思う。

2024年2月8日木曜日

いよいよ・保守・ヘアケア

 年末の買い出しでちょっと浮かれた気持ちになって、20代半ば以来の白ワインを買って飲んだら、意外と美味しく飲めてしまって、そうだよな、白ワインはわりと美味しいんだよな、とは言え赤はさすがに無理だな、あのエグみはどうしたって無理だな、などと思っていたのだが、白ワインを2本ほど飲んだあと、次のものを買うためにお店のワインコーナーに行ったところ、気づけば白ワインと一緒に赤ワインもかごの中に入っていた(無意識状態で酒を買ったなどと言うと不穏な感じがある)。ただし不信感があったので、白ワインに較べてとても小さボトルである。もしもダメだったらハンバーグを焼くときとかに使えばいい、と思った。しかし飲んでみたところ、これがぜんぜんいけるのだ。あっさりした白ワインとはまた別の、こっくりとした味わいがあって、美味しい。ワインを飲もうと思ったのは、ひたすらビールと日本酒と缶チューハイしか飲まない、自分のアルコールのバリエーションの少なさに飽きが来ていたという理由もあり、白と赤、立て続けにふたつも選択肢が増えたのは喜ばしかった。
 それにしても、かつてエグくて受け付けなかったものが、いまは受け入れられるようになった、ということで確信したのだけど、年を取るとさまざまな意味で、あらゆる感覚が鈍感になるのだと思う。「これの良さが分からないなんて、まだまだだな」なんてことを年配者が言ったりするけれど、そんなはずないのだ。むしろ「それが受け入れられるだなんて、いよいよですね」だと思う。そう思いながら、赤ワインを飲んでいる。

 子どもが、主にピイガが、「ちびまる子ちゃん」にハマる。漫画を読み、アニメを観ている。ピイガは最近になって児童書から漫画へとステップアップし、「ちびまる子ちゃん」の前は「ドラえもん」をがっつり読んでいた。それはまっとうな流れのような気もするが、30年前の、自分やファルマンもまったく同じ筋道であったことを思うと、驚嘆すべき事実のような気もする。なんで子どもが居間のこたつで寝そべって読む漫画が、30年前から変わっていないんだ、と。それともウチが特殊なのだろうか。たしかにポルガの岡山時代の友達は、好きな漫画が、「鬼滅の刃」から「呪術廻戦」になり、「東京リベンジャーズ」、「スパイファミリー」と来て、いまは「葬送のフリーレン」だそうなので、その可能性も十分ある。もしかしたらわが家は、漫画アーミッシュなのかもしれない。

 先日髪を切ったわけだが、仕上がったさまを眺めてファルマンが、「あなたって眉毛を整えないよね、なんで?」と訊ねてくる。僕はわりと眉毛が太く、濃い。わりと整えがいのある眉毛だと思う。でも人生でいちどもいじったことがない。なぜかという問いの答えは、「眉毛を整えるのはヤンキーか野球部かビジュアル系だから」ということになる。ひとつ目とふたつ目は、ベン図で言うとだいぶ重なっていて、世代は違うけれど中田翔なんかは、まさにその例であると思う。そして彼らは必ず金色の鎖みたいなネックレスをする。眉毛を整える男というのは、そういう輩だという、時代によるすり込みがあるので、決して自分がする行為ではないと捉えているのだった。そう説明したところ、「でも陰毛は整えるよね」と言われたので、それはまたぜんぜん別の話だ、と思った。陰毛の生やし方、残し方については、一家言ある。こと陰毛に関しては、ビジュアル系に属するとも言える。

2024年2月1日木曜日

髪を切らない1月・でしたが妻・髪を切った2月

 ぼちぼち髪を切ると思う。
 Googleのフォトの機能で、同じ日付のあたりの過去の写真というのが、勝手に「思い出ですよ」という感じで表示されるのだけど、そこに写っていた1年前の自分は、いまの僕とまったく同じ髪型をしていた。すなわち、半年以上髪を伸ばして、やっと結べるようになって、喜んで結んでいる、そんな状態である。
 しかし日々鏡を見て薄々感じ、そして1年前の自分の写真を客観的に見て確信に変わったこととして、なんかこの長髪、自分が期待しているものにぜんぜんなっていない。
 なにを期待しているのかと問われると、「こうだ」という具体的な答えがあるわけではないのだけど、漠然と求めている「すてきな感じ」から、だいぶ離れているのは間違いない。金髪で長髪ということもあり、正月に映像通話をした横浜の実家の面々からは、「プロレスラーみたいだね」という遠慮のない言葉を投げられた。おととしだったか、長髪だったところへブリーチをしたら、高山善廣のようになってしまい慌てて散髪したという出来事があったが、今回は金髪が先だったためか、自分としてはそんな印象はなかった。自分的には、「ガラスの仮面」でヘレン・ケラー役のオーディションに参加していた演技派の少女、もちろん名前など憶えていないので検索したのだが、金谷英美という、あの子を彷彿とさせるな、と鏡を見て思ったことは何度かあった。ちなみに高山善廣にしろ金谷英美にしろ、やけにがっしりタイプの印象だが、もちろん僕自身はそういうタイプではない。そしてどちらにせよ、思い描いている理想とは乖離している。
 去年は2月の下旬に切っていた。その記事の中に、体の中にあったものが、外に出した途端に汚物になる、そんな感じに長い髪の毛が疎ましくなった、という記述がある。さすがは自分だ。大いに共感する。そして今年はそれが少し早まりそうな情勢である。

 それまでの38年あまりに渡る蒙が啓かれた、パンツを脱いで寝る健康法の本を、再び図書館で借りて読んでいる。パンツを脱いで寝る健康法は、ビギナー向けも上級者向けもなく、本当にもうそのタイトル通りの内容しかないのだが、じゃあ本1冊にどんなことが書いてあるのかと言えば、パンツを脱いで寝るようになった結果、自分の身にどんないいことがあったかという、実践者たちのレポートである。そればかりがずっと続くのである。しかしその文章が、活気に満ちているというか、みずみずしくて、読んでいてとても心地よい。これが宗教とかの、うちの神様を崇めればどんなにいいことがあるか、という内容であったら、その心地よさには胡散臭さ、すなわち商売っ気が横溢することだろう。しかしこの健康法はそうではない。セミナーがあったり、器具を売ったりするわけではない。読者が信じようが信じまいが、彼等にはなんの損得もないのだ。それなのにこんなにも必死に良さを伝えようとするのだから、そこには真の慈愛と誠実さがある。ような気がする。
 入信した僕は、全裸で布団に入り、夜な夜なこの本を読んでいる(感心な信者だ)。そして隣の布団のファルマンに、内容を伝えている。そのファルマンはもちろん寝間着を着ているし、僕が全裸で寝ることもいまだに不服そうだ。だから僕が喋った内容を、片っ端から否定してくるのだけど、この妻はいったいいつまでこの無駄な抵抗を続けるのだろう、と思う。続ければ続けるほど、伏線というか、前フリというか、『……と、はじめは否定していた妻でしたが、今ではすっかり私以上に……』という、自分がいつか書くであろう、パンツを脱いで寝る健康法のレポートの文面が思い浮かぶ。

 髪を切った。ファルマンに切ってもらった。
 ひとつ目の文を書いたのが昨日1月31日で、そして今日2月1日に切ってもらったので、今回の記事は地味に月を跨いで紡がれているのだった。
 髪はいつもの、切りたいとなったら途端に、長いのがひたすらウザったくなるという例のやつで、平日ながらお願いしてやってもらった。おかげでとてもすっきりした。
 ファルマンはもちろんだいぶ前から「切れ、切らせろ」ということを何度も言ってきていたのだが、拒み続けていた。いま切ってしまったら、去年とぜんぜん変わらないことになる。せっかく1年後にこうしてまた伸ばしたのだから、去年以上のさらなる地平に進むべきではないかと、そんなふうに思っていた。切るほうに振れた今となっては、髪を伸ばす地平ってなんだよ、と思う。
 ファルマンが髪を切るよう促す言い回しの中に、「どうせ切るんだから」というのがあって、これには少し考えさせられた。そうだな、やっぱり切ろうかな、と心が揺れたわけではない。髪はどうせいつかは切る。それはそうなのだけど、その理由で髪を切っていては、じゃあ「どうせ死ぬんだから」も言えてしまうことになり、生きる意義を見失ってしまうのではないかと思ったのだった。髪を伸ばそうと思って伸ばしている間は、そんなことさえ思う。思っていたのに、あるとき急に「切ろ!」となる。我ながら不思議だ。

2024年1月26日金曜日

飛行機・大谷・松本

 年末年始、飛行機が飛ぶ仕組みについてきちんと学習しようと本を何冊も借りて、ノートなど取りつつまじめに取り組んでいた矢先、1月2日にあのような事故が起り、さらにはそのあとも、ちょこちょこと飛行機に関する案件がニュースになって、なんだかすっかり挫けた。挫けたというか、タイミングがタイミングだったので、縁起が悪い、と思った。
 そんなわけですぐに頓挫することとなった飛行機についての学習だが、いちばん肝心の、飛行機はなぜ飛べるのかという点についてだけは、なにより真っ先に学ぶべき事柄であったので、きちんと当該のページを読み、知識を得た。
 その答えは、揚力ということであった。つまり空気の流れである。その説明を読んでいると、飛行機が空を飛べるという事実は、どこまでも盤石のことのように思えて、もしかしたら飛行機はぜんぜん怖くないのかもしれないと思った。
 思ったのだったのだけどな。

 大谷翔平が全国すべての小学校に野球グラブを配った件が、狂騒曲のようになっていておもしろい。児童がぜんぜん使えないよう展示してしまう学校があったり、さらには市長が小学校へ配布する前に市庁舎に展示してしまった例なんかもあったらしい。全国のたくさんの校長が嬉ションしちゃうんだろうなー、と予想はしていたけれど、おっさんの興奮はこちらの想像を軽く超えてくるのだった。おっさんは本当に野球と若い女が大好き。だから要するに稲村亜美が好き。
 しかし校長の肩を持つわけではないけれど、あのグラブの取り扱いって簡単じゃないと思う。ガラスケースの中に展示して、児童が自由に使えないようにするのを、「大谷選手の意向を無視して愚の骨頂だ!」と憤る輩は、児童が自由に使えるようにした途端に盗まれてメルカリに出品された場合、「管理責任はどうなっているんだ!」と憤るに違いない。そう考えると大谷のグラブは、ただの火種でしかない。丁重に保管しても地獄、破損・紛失しても地獄。これならもらわないほうがずっとよかった。心底そう思っている校長も少なくないだろう。
 ちなみにピイガの通う小学校でも、ケースの中なのかどうなのかは知らないが、展示されているそうで、「それって申し込んだりしたら貸してもらえるの?」と訊ねたところ、「知らない。興味ない」とのことで、まあそうか、そうだよな、野球に興味を持たない人間って、大谷からグラブをもらったって、絶対に興味を持たないよな、そういうもんだよな、と思った。

 松本人志のことについて、自分がどう思っているのか、定まらずにいる。
 裁判で争うという、報道された内容が事実かどうかがはっきりしないから、ということではない。事実かどうかという意味では、まあ事実なんだろうと思う。ああいうことは、なされていたろうと思う。芸能界というのは、成功すればそういうことができる世界なのだという、そういう認識がある。なんかそういう、ぎらぎらした世界なのだと。
 だから別に名誉棄損もなにもないし、テレビもこれまで通り出ればいいじゃん、と個人的には思うけれど、当世そんなわけにはいかないのだという理屈ももちろん理解している。
 そんなわけで松本人志はテレビからいなくなりつつあって、「裁判に集中したいから」と、本人は裁判後の復活をほのめかしていたけれど、しかしこのままフェードアウトしそうな気配も漂っている。
 この一連の動きに関して、いろんな見方ができるけれど、でもやっぱり「凋落」という言葉が思い浮かぶ。本人の意思に反して、引きずり降ろされてしまった。本人や周囲がどれだけ取り繕っても、図式だけ見ればどうしたって凋落だ。
 去年あたりにあった、松本人志審査員し過ぎ問題などが表すように、松本人志はお笑い界の、ひいてはテレビ界の中心に君臨していた。それが今回の件で崩壊したことに、喝采を上げる輩がいる。実は俺はずっと松本界隈の粗野な芸人たちが嫌いだったからせいせいした、などという。たしかにそれはそうなのだ。あの界隈は柄が悪いのだ。今回の件は、その柄の悪さが極限まで高まって飽和したことで起った出来事だと考えれば、松本人志の凋落によってお笑い界は少なからず浄化されるのかもしれない、という期待はたしかにある。
 でもそれじゃあ、松本人志は本当にただのチンピラの統領だったということになってしまうじゃないか。そんなはずはないのだ。松本人志は、エキセントリック少年ボウイも日影の忍者勝彦も生み出した。中学時代の、エンターテインメントをいちばん吸収する時期に、僕はさんざん松本人志を吸収した。だから松本人志を否定することは、自分自身を否定することになってしまう。そんなことはしたくない。
 でも復帰を強く望むかと言えば、別にそんなこともなくて、要するに気持ちが定まっていない。

2024年1月18日木曜日

犬夜叉・冬ピーター・ジュン

 わが家に「犬夜叉」ブームが来た。ブームだろうか。そこまでは盛り上がっていないかもしれない。コミックスがまとめて手に入ったので、子どもたちが一気に読み、そうしたらアニメも観たくなって、それもぽつぽつ観ているという、そういう状況だ。
 僕も、去年の夏の「王家の紋章」のような、むさぼるような読み方ではないけれど、それなりに愉しく読んでいる。完全な初読である。
 高橋留美子という漫画家は、サンデー系の、「うる星やつら」や「らんま1/2」などの作者で、なんか今は「犬夜叉」という、ファンタジックな、自分とはだいぶ縁遠いものを描いているようだ、というくらいの認識しか、20歳くらいまで持たずに生きていたが、20歳から付き合い始めた人が、高橋留美子の信奉者みたいな人だったので、そこからにわかに距離が近くなった。それでも「犬夜叉」にたどり着くまで20年かかった。それくらい、ジャンルに関して縁遠さを感じていた。読んだ結果、印象が改まったかと言えば、あまりそんなことはない。感じたのは、この「犬夜叉」という漫画は、ジャンプばかりをひたすら読んできた人間が、サンデーに対して抱く、「マガジンほど受け付けない感じでもないんだけど、でもなんとなく違うんだよな感」の結晶のようだな、ということだ。その「感じ」の純度が極めて高い。というか、これを源流にして、「感じ」の程度の差こそあれ、サンデーの漫画は脈々と紡がれ続けているのかもしれないな、とも思った。
 ちなみにファルマンは今回、単行本を手に取る様子はない。ファルマンの高橋留美子に対する思いはいろいろとグロテスクなので、もはや不可侵だ。ちなみに前回の記事でも言ったが、ファルマンはかつて「犬夜叉」のなりきりチャットをしていたこともあるそうで、僕は陽の当たる道ばかりを歩んできたので、なりきりチャットというジャンルを、この妻の告白で初めて知ったのだけど、本人談だが、ファルマンはそのチャットルームにおいて、みんなから「あの人はまだか」「あの人がいないと始まらないぞ」と待望される存在であったという。でもそれはなぜかと言えば、「だって私以外はみんな小学生とかだったからね」とのことで、大きい子が小さい子ばかりを集めて大将になるやつのなりきりチャットver.という、妻の過去の行ないの不憫さに、目頭が熱くなる思いを抱いた。

 寒さにくじけそうになっていた。お前、今年そこまで寒くないだろ、という話なのだが、体感の寒さって、相対的なものじゃないですか。最高気温2度が続く日々の中で訪れる最高気温5度と、最高気温10度が続く日々の中の5度は、違うわけじゃないですか。だから例年よりは雪も少なくて気温は高め、なんていうのは、なんの慰めにもならない。
 寒いとなにがつらいって、基本的に、着込んでじっとしているしかないのがつらい。性分に合わない。いつも薄着でバタバタしていたい。ブログなど書いて、おとなしくて知的な印象を持たれがちな俺だけど、中身はほぼほぼピーターパンなのだ。あるいはティンカーベルでもいい。とにかく薄着でバタバタしているのが本性なのだ。
 ああ早く冬が終わってほしい。夏になってほしい。夏の、半裸で過すしあわせな日のことを考える。しあわせなことを考えれば、翼が生えたのと同じ。でもダメだ。半裸のピーターパンの自分を想像したら、同時に脚の間のティンクにも思いを馳せてしまった。それがどう考えたって、子どものそれじゃない。大人にしたって特別なほうだ。僕はもう飛べない。ネバーランドにも行けない。そう言えば、巨根は空を飛べないんだった。なにかを得る代わりに、なにかを失ってしまっていた。それに気づいた時点で、僕はもう大人なんだね。

 週末にポルガの誕生日祝いを予定している。
 4日にピイガのお祝いをし、その際はケーキに「1」と「0」の数字型キャンドル(ジュン!)を立てたわけだが、儀式が終わって2本のそれを回収しながら、今回一緒に「3」も買っておけば、半月後のポルガのときにわざわざ買いに行かなくて済んだなあ、と後悔をした。「1」はもちろん使い回す予定である(なんなら2ヶ月半後の、「4」「1」となるファルマンのときにも使えないかとさえ思うが、さすがにそれは無理だろう)。
 ところでこのキャンドル(ジュン!)に関して、ひとつ思うことがある。100均などで数字ごとに売っているこれって、どのメーカーのものも、得てして数字ごとに色が違うのだけど、それはいったいなぜなのか。「1」「0」にしろ「1」「3」にしろ「4」「1」にしろ、そんな数字のキャンドル(ジュン!)は売っていないから、仕方なく位ごとの数字を用立てて、並べてケーキに差すわけだけど、でも気持ち的には「10」だし「13」だし「41」なのだ。だから色はなるべく統一したい。でもひとつずつ売られている「0」~「9」は、なぜか異様にカラフルである。あれはいったいなんのためのカラフルなのだろう。
 統一するとしたら何色がいいか、少し頭の中で考えて、キャンドル(ジュン!)を差すケーキは、白と赤のショートケーキが多数派であろうから、緑あたりがいいんじゃないかな、と思った。ジュンがプロデュースしてくんねえかな。

2024年1月12日金曜日

大谷のグローブ・トップバリューの鈴カステラ・傷だらけのファルマン

 大谷翔平が、全国のすべての小学校にグローブを配ったじゃないか。大谷なのか、ミズノなのか、実際のお金の出どころは知らないけれど。
 そのニュースを見ていて思ったが、この全国のすべての小学校に配るやつって、大谷翔平は約2万あるという小学校に、送っていいですかとお伺いを立てて、いいですよという返事をもらったから送るわけではたぶんなくて、ちょっと乱暴な言い方になるが、勝手に送り付けているんだろう。そうしたら、あの、アメリカで、アメリカ人たちをヒーヒー言わせてる、自国民の誇りである大谷翔平が、子どもたちに笑顔を届けたいという純粋な思いから、都会とか、私立とか、そういう分け隔てなく、直々にグローブをくださるぞと、約2万人の校長は押し並べて喜び(校長をやっている世代のおじさんは野球が好きな確率がとても高いに違いない)、あるとき大谷翔平の名前で届けられたその荷物に、欣喜雀躍し、何人かの校長は嬉ションさえして、すぐさま全校児童を集めると、まるで自分と大谷翔平に特別なパイプがあるかのごとく、よってまるでそれが自分の手柄であるかのごとく、うやうやしくそのグローブをお披露目し、内心では児童らに、水戸黄門の印籠のようにかしずいてもらいたいとさえ思いながら、校長としての矜持がギンギンにみなぎる(これを「校長勃起」と呼ぶ)のを感じ、悦に入るのである。つまりみんなハッピー。誰もこの一連の流れに疑問を持っていない。
 でも大谷翔平のグローブがいいのなら、どうしてこれはダメなんですか、という展開だってあり得るだろう。たとえば、世界で活躍したという意味では、とにかく明るい安村が、あのビキニパンツを送ったらどうなのか。それはちょっと、と断るのか。なんでだ。なんで大谷翔平のグローブはよくて、安村のビキニはダメなのか。その線引きはなんなのか。
 本当は、なんなのかは、解っている。一言では言えないけれど、大人なので理解している。でも大谷翔平のグローブだけが諸手を挙げて受け入れられている情景が、性分的になんとなく落ち着かなく、駄々をこねたくなった次第である。
 安村のそれは完全にアウトだけど、きわどいところでは、SHELLYがコンドームを配るというのはどうだろう。校長らは全校集会で溌溂と紹介するだろうか。

 イオンのトップバリューの鈴カステラが復活した。
 もうなくなって久しかった(「店頭からなくなった」という記述をしたのが去年の1月のことだった)が、イオンに行くたびに棚を確認するのは怠らずにいた。そうしたら去年の暮れに、しれっと並んでいるのを見つけ、大慌てで3袋買った。
 イオンのこれがなくて、2023年はどうしていたかと言えば、トップバリューではない、別のスーパーで扱っている均一菓子のシリーズにその存在を見出し、それはインターネットで買ったさっくりタイプの鈴カステラにショックを受けて傷心だった僕を、それなりに慰めてくれる食感であったので、ひたすらそれで糊口をしのいでいた。だから大いに感謝をしなければいけない。いけないのだけど、イオンのそれをひとつ食べてみたらどうよ、約1年ぶりのそれに、塞がっていたチャクラが再び開いたような感動があった。ぜんぜん別物、別次元の食べ物だった。1年間僕が食べていたのは、鈴カステラの形をした、小麦粉と卵と砂糖のお菓子だったんだな、と思った。それくらいおいしい。超しっとり。最高。
 あまりにも嬉しかったので、家族思いの僕は、家族にもこのしあわせをお裾分けしてやろうと、おやつの時間にそれを振る舞ってやることにした。しかしながらなんたることか、家族は誰も芳しい反応を示さないのである。ファルマンとピイガはひとつ食べて「うん」とだけ言い、ポルガに至っては食いさえしない。せっかくのしあわせのお裾分けを、こんなに無碍にする奴らがあるか。あるのだ。家族なのだ。考えられない。もういい。金輪際ひとつもやらん。ぜんぶひとりで食べる。実際3袋はすぐになくなり、もう追加で買った。今後も安定的に販売してくれますように、と願ってやまない。

 新しい1年が始まり、ファルマンが日記をつけ始めた。
 ファルマンの日記再開は、この数年で3回くらいあり、そしてわりとすぐに頓挫していたので、こちらも学習して、軌道に乗るまでそこまで反応しないようにしようと思っていた。しかし当たり障りのない記事が3つくらい投稿されたあと、次に投稿されたのは、「去年の後半にファルマンが大いにハマった韓国ドラマの名シーンを短歌にしたもの」で、これがすごくよかった。短歌の質がよかったとかではない。そんな視点では見ていない。じゃあなにかと言えば、それはやっぱり「痛々しさ」という言葉になってしまう。どうしたって出身大学が出身大学なので、痛々しさが身上みたいなところがあり、韓国ドラマにハマって、その短歌を詠んでしまうという行為は、なかなか本芸だな、と思った。
 今年はあの、DVDボックスを買ったことで知られる「おっさんずラブ」も新シリーズが始まったことだし、ファルマンの情感的な部分が刺激され、痛々しい物質がたくさん醸成されればいいな、と期待している。ちなみにファルマンはその昔、「犬夜叉」のなりきりチャットをやっていたそうです。最近知りました。傷だらけだな。

2024年1月7日日曜日

ピイガ10歳・あの輩・出雲大社

 1月4日、無事にピイガの誕生日の祝いを執り行なった。なんと10歳である。信じられない。あのピイガが10歳であるということも、僕はもう小さい子のほうだって10歳以上になっている親になったのだということも、びっくりする。
 ちなみに上のほうの子の10歳のお祝いのときはどんなふうだったろうと当時の日記を読み返したら、僕は帯状疱疹で酒が飲めない状態だった。そうか、あの時期か。あの時期はつらかったな。あの時期に較べると、いまはだいぶ暮し向きはよくなったと思う。
 晩ごはんのメニューは、去年に引き続き餃子の皮を使ったたらこのピザと、あと使用食材はなんにも被っていないのだが、ただピザ繋がりということで、粉から作る本式のピザも併せて作った。4枚作り、もう少し具のバリエーションを用意しておけばよかったなー、とも思ったが、それなりに美味しくできた。
 ケーキはこれも去年と同じく、7号サイズのスポンジを買ってきての、手仕上げショートケーキ。これの製作にあたり、それにしたって今年のいちごの異常な高値はどうしたことだよ、と義憤に駆られた。詳しい事情は知らないけれど、不作なのだとしたら、もう甘みの追求はしなくていいから、強い品種を作ってくれよ、と切に思った。
 親からのプレゼントは、直前まで決まらず、当日の買い出しの際に、ショッピングセンターで見かけたバッグを所望したので、それになった。マウント気質があり、妬みや嫉みによく苛まれているが、しかし実際のところ、そこまで物欲がある子ではないのだと思う。もはやサイコパスな姉と較べるとはるかに常識人で、そのせいで損な役回りになることも多いが、根が真っ当で、そして人当たりがいいので、愛されやすいだろうとも思う。10歳になったので、ここからいよいよ本格的な人間生活が始まる。しあわせに生きてほしい。それと、あともうちょっと食事の際の行儀をよくしてほしい。

 年末にやったらしい「サ道」のスペシャルドラマをTVerで眺めたら、昨今のサウナというのは本当に、ブームに乗ってやってきたしゃらくさい輩によって、猛烈なしゃらくささを纏い始めているのを感じるが、その時代の流れに対してこのドラマは、まったく反発することなく、とても素直に寄り添っているので、すごいと思った。何度も言うけれど、僕自身がサウナブームでサウナを嗜むようになったので、新参者が文化を壊した、みたいなことを言う資格はない。ただ、しゃらくさい、ということを猛烈に思う。
 最近のサウナブームのその感じには、キャンプブームのそれと同じものを感じていたが、なんのことはない、その二者の正体は同一であるということが、近ごろはっきりした。あの輩は、キャンプに行った先で、自然と一体になれる、SDGsなサウナを、仲間とやるのだ。「あの感じのサウナが好き」と「あの感じのキャンプが好き」のベン図は、もうほぼひとつの円にしか見えないほど、しっかりと重なった。
 憎い。あの輩のなにが憎いって、仲間と一緒にやって、さらには一緒に来られなかった別の仲間に向けてSNSで報告までしないと、自分がそれをしたという喜びを実感できないほど、実はその行為そのものには喜びを感じていないくせに、しかし大人数で声が大きいというそれだけの要因で、その領域においてすぐ我が物顔になるところだ。彼らが生み出すありとあらゆるものの、薄っぺらさ。そんな張りぼてでしかない虚飾が、なぜ成立しているかと言えば、それは彼らがその柱に互いに寄っかかって倒れないようにしているからに過ぎない。でもそれはブームだから寄っかかっているだけのことで、ブームが過ぎ去れば、彼らはまた別の張りぼてを急造し、そこでつるむのだ。その軽薄さが憎い。憎いけれど、正面から立ち向かおうとは思わない。彼らはすぐにキレるからだ。そういうところも嫌い。
 そんなことを思った「サ道」だった。じゃあもう観るなよって話だ。

 神在月の、甘く見ての失敗もあり、三が日は出雲大社に行こうとは思わなかったのだけど、しかしまあ1月のうちに顔を出しておきたい気持ちというのはどうしたってあり、そんなわけで地元民は、正月の喧騒が少し落ち着いたこの3連休で行くことが多いんだよね、という感じで、出雲大社へと赴いた。とは言えまだ松の内ということもあり、かなり賑わっていた。臨時駐車場が開設していて、なんとかそこに停めることができた。
 境内をぐるりと回り、複数ある御祈願ポイントで祈願をする。願うのはやはり家族の健やかな暮しで、去年も同じことを願った。それは無事に成就されたとも言えるし、しかしコロナにはかかったよなあ、ということも思った。なにより元日からの災害のことを思えば、神も仏もないじゃないか、なんてことも言いたくなる。
 家族の健やかな暮しのあとで、ロトのこともよろしく言っておいた。災害は別として、健やかな暮しには、自身の行ないも重要になってくるが、ロトは完全に運任せなので、罰当たりのように見えて、神に向かって願う案件として、実はいちばんふさわしいのではないかとも思った。神様の「よっしゃ、まかせろ」という返事が聴こえたような気がした。