2020年9月29日火曜日

赤毛のアン・渡る世間は鬼ばかり・魔女の宅急便

  「赤毛のアン」(完訳版)を読んだ。全10巻の、はじめの1巻である。僕はこれまでこの作品には、児童小説版にもアニメ版にも、まったく触れたことがなかった。今後も縁がないはずだったが、先ごろからNHKでドラマ版の放送が始まり、自分のためではなく、ポルガが観たりしないだろうかと思って録画をした。その結果、ポルガではなく自分が嵌まった。こんなにも心が救われる、喜ばしい物語があるだろうか、と感激して、原作小説を読むことにしたのだった。ちなみに講談社の、掛川恭子翻訳版である。
 読んだ感想として、やっぱり心が救われ、喜ばしい気持ちになった。小説って、人間のものすごく嫌な、心の内側のただれた部分をえぐるような、重たい気持ちになるものもあって、そういうものこそ人間の本質であるなどといって、評価が高かったりもするけど、本来の小説ってこうあるべきなんじゃないか、というふうに思った。世界は美しい。人間は優しい。愛しい。努力は報われる。小説ってそれでいいんじゃないか。
 アンはこの物語がはじまるまで家族に恵まれず、よその家や孤児院で育ったが(今回のドラマ版では、現代的な解釈ということなのか、アンはやけにトラウマを抱えている)、それがひとたび物語がはじまると、そこからの幸福度はずっと右肩上がりなので、安心して心地よく読める。この、それまで冴えなかった境遇の主人公が、物語がはじまって以降はずっとハッピーなので安心して心地よく読める感じって、なにかに似ているな、と考えて、思い至ったのは二次元ドリーム文庫だった。お前はすぐになんでもエロ小説に置き換える、思考停止だ、と思われるかもしれない。しかしはじめからアンにデレデレのマシューはチョロインだし、最初は拒絶するけどやがてマシュー以上のデレデレになるマリラはツンデレで、それ以外にもダイアナやレイチェル・リンド、ギルバートにジョゼフィーヌ・バリーなど、アンはとにかく周囲の人物からモテにモテまくる。自己を投影する主人公がみんなから慕われるこの快感は、二次元ドリーム文庫を読んでいるときとまったく一緒である。だからいいのだ。これだよこれ、小説ってこれでいいんだよ、と思う。性をテーマにした小説の、その高尚なもの、ということになると、すぐに谷崎潤一郎とかのSMじみた世界ということになるのが、僕はずっと納得いかずにいる。性でも、人生でも、小説ってもっと、読んでいて純粋にしあわせな気持ちになれるか、ということを希求していけばいいんじゃないか。たぶん希求しすぎると、それは新興宗教みたいな感じになってしまうので注意が必要だけど、そこさえ気を付ければ、主人公がひたすらしあわせになっていく物語は成立する。無理にえぐらなくていいのだ。右肩上がりならば平板じゃないのだから、窮地なんかなくとも読者は意外と飽きず、ただ爽快感だけを味わって物語を読み終えることができる。しあわせだけの上り坂が続く物語。
 「赤毛のアン」とは、そういう意味で理想の物語なんじゃないかと思った。気づくのが遅い。

 papapokkeのアカウントのツイッターでもつぶやいたが、今年は敬老の日に「渡る世間は鬼ばかり」のスペシャルがなくて残念だった。しかし連続ドラマでさえ撮影ができずに放送が延びた今年の情勢を思えば仕方のないことだし、なにより脚本家(94歳)やプロデューサー(95歳)をはじめとして、このドラマは出演者も制作陣も一般のそれよりもだいぶ平均年齢が高そうなので、そういう意味でも制作は難しかったろうと思う。そんな状況に対して、それこそ「そんなこといったってしょうがないじゃないか」だなあ、というところまでを、140文字以内に収めて投稿した。
 「そんなこといったってしょうがないじゃないか」は言わずと知れた、えなりかずきのモノマネをする場合の常套フレーズだが、こういうのによくある現象として、実はえなりかずき(役名は眞)が劇中でそのセリフを発したことはないのだという。
 しかしながら今年のこの状況に起因して(本当にそれが理由なのかは一般人として知る由もないが)、敬老の日の渡鬼スペシャルがなかったということのみならず、コロナにまつわるありとあらゆること、不満や悲観、軋轢や憎悪などすべてひっくるめて、このえなりかずきの(上記の通り本当はえなりかずきの、ではないのだが)「そんなこといったってしょうがないじゃないか」が、ことのほか胸に響くと思った。感染病は、お互い様であると同時に、ひとりひとりの心掛けが肝要なものだから、とかく他人の動向が気にかかり、どうしたって殺伐となる。そんなときに大事になってくるのが、「そんなこといったってしょうがないじゃないか」の精神。遊びたい。騒ぎたい。マスクしたくない。「そんなこといったってしょうがないじゃないか」。Go Toトラベルなんてしないでほしい。制限を緩和してほしくない。外国人に来ないでほしい。「そんなこといったってしょうがないじゃないか」。こだまでしょうか。いいえ、だれでも。AC。

 「魔女の宅急便」を観た。何年ぶりの何度目だろう。相変わらずよかった。昔はただの少女が主人公の冒険活劇くらいにしか感じていなかったものが、年々胸に突き刺さるようになってくる。それと今回は、この映画の脚本のすばらしさに気がついた。この映画には無駄なシーンが本当にひとつもなくて、実はパズルのようにカチッカチッと嵌まっている。すべてが連結して作用するので、トンボを助けるためにキキがデッキブラシで空を飛ぶシーンで、激しい感動が起る。この瞬間に瞳に分泌される涙の量が、自分が年を重ねて、観返すたびに増えているような気がする。今回はいよいよ本当に危なかったので、たぶん何年かあとの次回の観賞では、娘もいよいよキキの年齢に近付くし、決壊するんじゃないないかなと思う。

2020年9月24日木曜日

葡萄・ソファー・はてしない物語

 祖母から葡萄が届く。毎年忘れた頃にやってくる。いつも突然届くのだが、今回は僕がLINEでクロネコヤマトと繋がった関係で、「明日この荷物をこの時間に届けるよ」ということが告げられ、前日に分かったのだった。そして、それで気を重くしていた。ああ今年も例のあの葡萄が届くのか、と。食べるにはあまりにも酸っぱく、種が多く、どこまでもワイン醸造用の甲州。それの段ボールいっぱい分の房。野菜室を大きく占領して、いつまでも減らないが、「ちゃんと腐る」まで捨てるのも忍びないという、プロペ家の秋の風物詩、あの葡萄。
 そんなわけで翌日、きっかり所定の時間に配達されたそれを、ため息まじりに受け取った。そしてため息まじりにガムテープを剥ぎ、ため息まじりに箱を開けた。
 そこで「あっ」と思わず声が出た。
 中に入っていたのは、あの紫がかった薄いピンクの甲州ではなく、ザ・葡萄という感じの濃い紫色をした大ぶりの巨峰2房と、そしてきみどり色に発光する(本当に鮮やかで発光しているかのようだった)シャインマスカット1房なのだった。
 えっ、えっ、となって、テンションが爆上がりして、小躍りしながら冷蔵庫に移した。
 そのあと祖母にお礼の電話をしたところ、なぜ今年から甲州ではなくなったのかという説明は一切なかった。しかしこれはファルマンの証言によれば、僕は今年の正月の帰省の際、母に向かって「実は毎年の甲州に困ってるんだけど……」ということを普通に伝えていたらしい。だからそこからきっと母が、いいように祖母を操作してくれたんだと思う。感謝だ。なにに感謝って、母に訴えた正月の自分に感謝だ。「シャインマスカットは皮ごと食べられるやつ。値段はこれだけする」と、祖母は言わずにおれなかったのだろうシャインマスカットの値段を電話口で伝えてきた。「人から贈られなかったら絶対に買って食べない!」と僕は答えた。そして「どうもありがとう!」。これで来年以降のシャインマスカットも確定だろう。
 皮ごと食べられるシャインマスカット、というものは、存在は知っていたが、これまでいちども食べたことがなかった。叶姉妹とか、デヴィ夫人とか、あるいは中国の富裕層とかが食べるものだと思っていた。初体験のそれは、おいしさよりも感動のほうが大きかった。粒をもいで、そのまま口に運んで齧る。爽やかに甘い。夢みたいに満ち足りた果物だな、と思った。もうスーパーでデラウェアなんて買う気になれない。すれてしまった。

 わが家にソファーがやってきた。これまでもソファーが欲しいという話はずっとあったのだが、スペース的にままならず諦めていた。それがこのたび、あれを捨てて、あれも捨てて、あれをあっちへ移し、これをこっちへ移せば、居間にスペースができてソファーが置けるじゃないか、という計算が成立したので、とうとう実現したのだった。しかし考えてみたら居間には、7月に工業用ミシンがやってきている。さらにはこれまで子ども部屋にあった本棚までもが今回の大移動で居間にやってきて、そのうえソファーなのだから、どうも居間は空間が歪んでいるようだ(タンスが廊下に出ていった、というのはある)。
 それで実際のところ、そんな状態で導入されたソファーは成立しているのか、快適なのか、という話だが、これがとても快適なのである。買ったのはふたり掛けのもので、子どもとならば余裕で3人で座れる。これまで居間には座卓しかなく、そして座布団しかなく、つまり背を預けることのできるものが一切なかった。そのため居間は寛げる場所ではなかった。それがなんということでしょう。ソファーを置いた途端、家族が居間に集うようになったのです。ソファーに座り、優雅に読書なんてするようになったのです。こんなにいいものだったのか、ソファーは、と効果の程に驚いている。
 前回の模様替えでミシンとパソコンデスクが一体化し、居間は半分僕の部屋みたいになっているのだが、このたびそこへソファーまでやってきたわけで、その快適さはいよいよ天井知らずだ。もういっそ簡易トイレとかもあったらいい。よくない。

 ソファーが快適なので読書をしたくなり(ベタに秋になって過しやすくなったのもある)、それも「物語感のある物語」が読みてえな、ということで、ソファーに座ると自ずと目に飛び込んでくる本棚から、「はてしない物語」を選び、読んだ。やっぱり物語感のある物語といえば、ファンタジーだろう。本はファルマンが学生時代に買ったものだそうで、箱入りハードカバーの立派なものだ。
 読んだ感想としては、「なんかファンタジー小説って勝手が凄いな!」というもので、やっぱり大人になると主人公が少年のファンタジー世界に没入できるはずもなく、しかし物語は読者が世界に没入できていることを前提にずっと書かれるので(じゃなきゃおもしろくない)、大人の僕は終始、「勝手だな!」「勝手だな!」「勝手だなー!」と思いながら読み続けた。要するに「ついていけなかった」という感想になるのだと思う。
 小説を読み終えたあと、せっかくこのたびこうして小説を読んだのならば、あの映画「ネバーエンディングストーリー」も観てみたいものだと思い、試しにアマゾンプライムで検索したら幸いなことにあったので、観た。導入がけっこう丁寧に描かれ、しかし映画が90分ほどしかないことは画面で判っていたので、「えっ、どうなるの? これ、どうまとめるの?」と戸惑った。結果として、原作に対して信じられない端折り方だったが、しかしまあ話の骨子はこういうことで、むしろ原作の後半がいらなかったのかもなー、とも思った。
 そんな感じの「はてしない物語」体験だった。ファンタジー小説に対して我ながらピュア。

2020年9月14日月曜日

今年のブログ・ピイガゴリラ・ポルガ付箋

 9月に入り、朝晩は秋めいてきて、お店には来年のカレンダーが並びはじめた。信じられない。新型コロナで本当に先行きが見えなかった4月前後、「今年ってこの世の誰にとっても、まるでなかったような1年になるのではないか」といったが、まさにそんな感じになりつつある。新型コロナそのものは、1月の下旬あたりから人々の口に上りはじめたので、今年は本当にそれのことばかりに気を取られ続けて暮していた感じがある。
 そしてその影響に違いないが、今年は本当にブログが低調なのだった。ブログとはワールドワイドウェブの表現手段であり、ステイホームがかまびすしく呼びかけられたこのご時世にこそ本領を発揮するようでありながら、実際はそれとは真逆で、どうも委縮した。そもそも陰鬱な空気によってテンションが上がりづらいのに加え、人と交流した話、どこかへ出掛けた話などは書きづらい風潮もあり、記事を投稿する意欲が上がらなかった。ブログとは平時の世界でこそ花咲く装置なのだと痛感した(それに対してTwitterは乱世でこそ輝く)。
 来年のカレンダーが売られはじめたということは、11月23日発表の「cozy ripple流行語大賞」もだんだんと準備期間に入ってきたということを意味するが、はっきりいって今年は流行語も名言もあったもんじゃない。さらにいえばパピロウヌーボでおちょくれる時事ネタもない。振り返れば、3年前は安室奈美恵の引退、2年前はハヅキルーペをテーマにしてやっていた。なんと平和なのか。おととしはハヅキルーペの菊川怜がとにかくおもしろかった1年間だったのだ。そう考えて今年のことを思うと、思わず涙が出そうになる。

 ピイガは相変わらずやけにゴリラのことが好きで、家にいて寝ていない間は基本的に声を発しているのだが、発している言葉(ともいえないもの)の中身は、常にゴリラかウンコかの二択である。それくらいゴリラが好き。意味が分からない。
 先日も、車中で音楽が流れているというのに、後部座席でずっとゴリラとウンコの話をハイテンションでし続けるため、いよいよ両親の脳が破壊されそうになり、どうにかしなければと考えたファルマンが、延々と続く意味不明のガヤみたいなものを、なんとか最低限意味のあるやりとりに昇華させようと思ったのだろう、「ピイガ、それじゃあゴリラのモノマネしてよ」と呼びかけた。すると、それまでミュージカルかのように声を張って「ゴリラ! ウンコ! ゴリラ!」などと唱えていたピイガが、ひと呼吸おいたのち、「…………ホゥー」と、とても小さい、ウィスパーボイスでリクエストに応えてみせたので、それまでの無意味なハイテンション叫びと、ゴリラモノマネに対するクオリティーの希求の真摯さのギャップに、車内が爆笑に包まれた。ピイガは、ゴリラのことが好きすぎるので、ゴリラのモノマネを求められたとき、安易に「ウホウホ!」なんていわない。とてもリアルに「ホゥー」という。なんだそのプロフェッショナル。

 小学生が、国語の辞書で調べた言葉のところに付箋を貼って、やがてどんどん付箋が増えて、ページがきちんと閉じなくなって、なんかやけにカラフルでゴワゴワした、異様な見た目の辞書になってゆく、というのがあるだろう。やる子とやらない子がいるんだろうが、なんか「学習法特集」みたいなので、いちどは目にしたことがある、そういう事象があるだろう。
 ポルガがいままさにその沼にハマっていて、辞書に付箋を貼りまくっている。ひたすら貼り、カラフルでゴワゴワになっている。そして辞書をその姿にした小学生に対し、大人がいう言葉はただひとつである。
「お前それ、辞書をめくるとか、新しい言葉を知るとかじゃなくて、ただ付箋を貼るのが目的になってるだろう」
 なにしろポルガはひとしきりその作業をしたあと、「ほら、こんなに貼れた!」といいながら見せにくるのだ。もはやその指摘されている点をごまかす意図もない(この素直さが怖い)。
 僕が子どもの頃は、まだこの学習法は提唱されていなかったように思うが、それは僕に興味がなかっただけかもしれない。ポルガが辞書に嬉々として付箋を貼っているさまを見て、僕が人生中で唯一、本に付箋をたくさん貼っていた時期のことを思い出した。それは20代半ばくらいの、エロ小説をとにかく読みまくっていた時代。付箋を貼る位置は、主人公が射精をした場面。そうすると1冊でだいたい10~15枚ほどの付箋が張られることになる。こうして射精場面付箋処理がなされた小説を、ずらっと並べて、付箋の作り出す凹凸を手のひらで愛でるのが好きだった。何十冊ものエロ小説の射精の行に付箋を貼った、この連なりの生み出す曲線こそ、イデアとしての女体なのかもしれないと考えたりした。
 娘が国語の辞書に付箋を貼るのを見て、その頃のことを思い出した。

2020年9月6日日曜日

車検・モンペ・ペイ

 先日、車検を行なう。2年前の車検はどんな感じだったろうと日記を振り返ろうとしたら、どうやらなにも書いたりしていないようだった。ダッシュボードに入れたままだった2年前の明細を見ると、5万円にも届かない、とてもリーズナブルな値段で済んでいたので、書くほどのことがなかったのだろう。今回はタイヤの交換をする必要があったので(前の会社の人間や義父など、少しでも車に関心のある人はわが家の車のタイヤを見てすかさず進言した)、どうしたって10万円くらいにはなってしまうだろう、と思っていたら、それ以外にもいろいろ交換の必要があり、12万円を超えた。12万円! と思ったが、なにしろ車のことは一切わからないので、向こうが「(しなくても車検は通りますけど)交換がお薦めですね」といったものを、「結構です」とはねのける胆力はなく、「お願いします」「お願いします」と応じたらそういう結果になった。まあ仕方ない。今回そうして大幅に部品を改めたので、「次回はまた安くて済みますよ」と伝えられた。受け取りは翌日だったので、代車を出してくれ、それが真っ赤な新型ハスラーだった。ハスラーって、ちょうど島根から岡山に出ようとして、車を買おうとしていたあたりの時期、人気すぎて供給が追い付かないみたいな状況だったので、その頃から淡い憧れがあった。かといってたぶん次にわが家が車を買うときは軽自動車ではないんじゃないかという気がするので、このままハスラーには縁がないんだろうと思っていた。そのため1日とはいえハスラー体験ができて嬉しかった。真っ赤なハスラーは、その見た目にテンションが上がった。しかし乗ってみたら中から外装は見えないので、すぐに気が済んだ。車の外装って中からは見えないし、そして自家用車なんて基本的に内側からしか味わわないので、外装って実はどうでもいいんだな、と学習した。翌日に受け取ったMRワゴンは、いろいろ整備・交換をして、走りが見違えたような気もしたし、別にそこまで変わっていない気もした。タイヤは誰かからすり減り具合を指摘されるたびに「怖いこというなよ!」と思わされていたので、新しくなってとても安心感がある。すっきりした。

 ポルガの小学校の担任は、去年度とは別の先生ながら、年は同じくらいで、20代前半とか半ばくらいのものだそうで、僕が子どもの頃はそこまで若い小学校の先生なんていなかった気もするのだけど、最近よくいわれているように、学校の先生というのは労働時間が長すぎて、ぜんぜん長続きしないものなのだろうか。それで若い先生しかいないのだろうか。そう考えるとちょっと不安な気持ちになる。ところでその若い先生が授業中、学んでいるその単元に関するYoutube動画を、教室のディスプレイで再生して生徒たちに見せるのだそうで、しかもそれは文科省が作成した学習ビデオとかではなく、普通にユーチューバーとかの動画だったりするそうで、マジか、と思う。時代はとうとうそんなことになったのか。
 僕はそれを聞いて思わず、「うちの子がバカになるからそんな動画は見せないでくれ」と学校に抗議の電話をかけたくなったが、ファルマンに止められた。でも。だって。ユーチューバーって。ユーチューバーって。学校の無機質な授業に対して、「♪こんな感じの覚え方もあるぜっ」みたいな、内緒の、裏技の、あんちょこだろう、ユーチューバーのああいうのは。それを学校で見せるのはちがうだろう、と強く思う。古いのか。おっさんなのか。モンペなのか。だってユーチューブからは悪い電磁波が出てるんでしょ?

  マイナポイントとかいってくるので、とうとうわが家でも電子マネー(なんとかペイのやつ)を導入することにした。選んだのは楽天ペイ。楽天ポイントと関連するのならそれがいちばんいいかな、という発想。しかしながらいざ楽天ペイのアプリをダウンロードして街に繰り出してみれば、意外と行動範囲に楽天ペイを受け付けているところが少なかった。ペイペイとかLINEペイはやってるけど楽天ペイはダメ、みたいなところがけっこうある。アプリを入れる前は、世の中のすべての店で楽天ペイは使えるんじゃないかという印象だったのに、いざちゃんと使う段になって眺めてみたら、意外と現実はシビアだった。
 しかも楽天ペイが使用可能だという店で、じゃあ「楽天ペイで」とタブレットの画面を差し出してみても、どうやらレジのバーコードリーダーによっては、スマホサイズしか想定していない仕様で作られているようで、読み取るにはバーコードが大きすぎるようで、「これ、もうちょっと縮小した画面になりませんか?」などといわれ、でも指2本でえいってやってもそんなことできなくて、レジでぜんぜんスマートじゃなくて、「じゃあもう現金で払います!」なんてことになったりする。そしてペイ論議のとき往々にしてたどり着きがちな、「現金最強」という結論に至る。
 それにしても最近の小売って、ウイルス対策と、ペイ対策と、ビニール袋対策で、ちょっと負担が掛かり過ぎなんじゃないかと思う。店にとっても客にとっても、買い物が面倒臭すぎる。どうしてこんなことになってしまったんだろう。

2020年8月26日水曜日

眠り・安心してください・いのちの輝き

 先日金曜ロードショーで「となりのトトロ」をやっていて、もうトトロなんて何度も観ている録画だって持っているため、放送をリアルタイムで観ることはしなかったのだが、自分が子どもの頃、21時から放送が始まるアニメ映画(十中八九ジブリ)を、その日だけはテレビのある居間に布団を敷き、夏だったらクーラーを効かせ、放送を観ながらいつの間にか(どうしたって11時までは起きていられないので)寝入っている、というのをたまにやっていて、それは子ども時代のわりと心地よい記憶として残っているので、娘たちにもそのうちやってやろうかなー、なんてことを思った(もっともポルガは絶対に11時まで起きて観続けるだろう。そしてピイガは寝る)。
 しかしそのまた数日後、今度は「ドラえもん のび太の新・日本誕生」をテレビでやっていて、新のほうはまだ観たことがなかったので、日中だったがこれはみんなで観た。物語の最後にタイムパトロール隊として現れるのが「T・Pぼん」のキャラクターだ、というのは知っていたので、家族にそんな情報を披露しつつ、わくわくしながら観ていた。途中まで。ドラえもんたちが日本に連れてきたヒカリ族を、ギガゾンビがまた攫っていってしまった、みたいなところまでは覚えている。その先の記憶がない。なぜかといえば、寝てしまったからだ。気づけばエンディングテーマとして、今回の放送は新映画のプロモーションなので、そのテーマ曲であるミスチルの曲が流れていた。最後にT・Pぼんのキャラクターが出てくるんだよ、とひけらかしておきながら、当人がそのシーンをぜんぜん見ることができなかった。
 という、そんな出来事を通して気づいたのだけど、僕が大抵の映画の途中で寝てしまうのって、子どもの頃のあの映画の視聴のせいなのではないだろうか。映画を観ながら入眠するしあわせが刷り込まれてしまっていて、映画が流れはじめるともうその段階で体が寝る準備をしだすのかもしれない。そう考えると、あれ自体はいい思い出だが、僕の精神形成にだいぶ厄介な傷跡を残しているといえるかもしれない。子どもにやってやるのはやはりよしておこうと思った。

 先日の模様替えで、居間に僕のパソコンがやってきたわけだが、居間にmyパソコンがあるとエロいものを見るにあたって不便ではないか、という懸念が各方面から上がってきているので、それにお答えしたいと思います。
 案外だいじょうぶです。
 居間にパソコンがあるといっても、廊下から居間に入るためのドアを開けたらディスプレイが丸見え、という位置関係ではない。なので問題ない。安心してください。

 8月も終盤で、体も夏バテ気味で、低調だ。思えば梅雨が明けたのって、7月の本当の終わりごろ、ほぼ8月みたいなタイミングだったので、だとすれば本格的な夏って、まだ1ヶ月ほどしか味わっていないはずなのである。とてもそうとは思えない。もうずっと真夏の中に在る気がする。もしかして時空が歪んでいるんじゃないか。我々は本当はもう何万年も、この新型コロナ禍の夏に居続けているのではないか。どうもそんな気がしてならない。リセットされるたびに記憶はなくなるのだけど、しかし細胞レベルのどこかで蓄積されるものがあって、それがこの濃密に凝縮された異常なうんざり感をもたらしているのではないか。そんなことを思っていたら、このたび決定し発表となった、2025年大阪万博のロゴマークが、まさにそんな感じのイメージだったので、やっぱり、と思った。

2020年8月19日水曜日

暑さ・筋トレ・表情

 暑すぎるだろう。今年は新型コロナのせいで話題がぼやけてしまっているけど、コロナなんかに気を取られている場合ではない。いまはひたすら暑さについて思いを馳せるべきだ。暑さにばかり囚われるとどんないいことがあるのか、といわれたら別にないのだが、なんていうんだろう、この状況で暑さ以外のことを気にするということは、すぐ隣にマイクロビキニの女がやってきたのにぜんぜん胸の谷間に目をやることもなく教科書を読み続けるみたいな、そんな行為ではないかと思う。ちょっと違うかもしれない。
 夏の暑さは、数字の上でも明確にこの10年20年の高まりが現れているが、それと同時にこの10年20年というのは、ひたすらに老いてきた年月でもあり(人生のほとんどは老いることだと喝破した)、ただでさえ体がしんどくなってくるところへ、暑さのパワーまでもが高まるのだから、もはや今後の人生において夏が逆に楽になるという目は一切ない。体のしんどさと、夏の暑さは、比例関係にあるわけではないが、今後も間違いなくひたすら両者とも高まってゆく。関係性はないけど両者とも高まっていくなんて、まるで相互オナニーする男と女のようだ。だいぶ違うかもしれない。

 筋トレをしようしようと思いつつ、なかなかままならない。朝おきた瞬間からわりと体がだるかったりするのに、なぜそこから筋トレの実行へとたどり着けよう。それでいて摂取のほうも、食欲がわかなくて量が減っているので、盛夏というのはもう、どうしようもない。筋肉は分解される。体重は減る。そういうものなのだと割り切るしかない。
 思えば、筋トレへと人をいざなうコピーとして、「夏までに理想のカラダ!」みたいなものがよく見られる。つまり1年単位で考えたとき、「理想のカラダ!」というのは7月1日あたりの状態で、そこからの真夏の2ヶ月間で、できあがった「理想のカラダ!」は滅びの美学のごとく崩壊してゆき、暑さがやわらいだ頃にふたたび筋トレに励めるようになって、そしてまた約10ヶ月後に迎える夏に向けてひたすら研鑽を重ねる、という周期になっているのかもしれない。だとすれば夏の肉体とは、リオのカーニバルみたいな、その日のためにその日以外の1年をがんばって生きるみたいな、そういうものなのかもしれない。そのわりに、別に夏だからといって肉体を披露するような機会はなかった。もっとも、そもそもそれほどの仕上がりでもなかった。なるべく破壊を食い止めたい。

 相変わらず友達がいなくて、その友達がいないということについては、3週間くらい前にやけに哀しくなった数日間があったのだけど、ここ数ヶ月においてそのときだけであり、概ね気にならない日々が送れている。そんなわけで、職場での会話というものさえなくなって、ひたすらファルマンとばかりしゃべる、逆にいえばファルマン以外としゃべらない日々というのが数十日間続いた今、なんとなく思うこととして、伴侶との会話って、相手がどういう声を出すか、どういう内容のことを話すか、といった点において、チューニングがきわめて高いレベルで合っているため、互いにコミュニケーションを取るのがめちゃくちゃ楽で、その楽さは、苦痛だったり不快だったりする雑多な会話の中の止まり木としてはとてもいいものに違いないのだけど、なにぶん我々はほぼその止まり木にしか身を置いていないために、これってきっと長く続けたら、天敵がいないものだからのほほんと暮していたオーストラリアの生きものが、開拓者の連れてきた犬や猫によって駆逐されたような、そんなことになるのではないかという懸念がある。あとメンタル以外にも、表情筋を使わないでいると顔の肉が支えられなくなって衰えて見えるという話を耳にして以来、フィジカル面のそちらの恐怖も抱き始めた。最近はそれの防止のために、なんでもないときに意識的に顔をクシャーッとさせて、顔の筋肉を動かすようにしている。しかし実際に他人としゃべっていた時代でも、そこまで表情豊かな動きはしていなかったはずで、ともすればもう現役当時を超えているかもしれない。他人とぜんぜんしゃべらないのに表情豊かだなんて、人間関係という荒波の丘サーファーのようだと思う。

2020年8月6日木曜日

精子・Poison・枕詞

 精子は進むときドリルのように回転している、ということがこのほど明らかになったという。これまでは蛇みたいな、鰻みたいな、ああいう動きだと信じられてきて、僕もてっきりそうだと思っていたが、実際は回りながら進んでいるらしい。この永きにわたる勘違いには、精子の擬人化というか、擬生命化というのが要因としておそらくあって、我々はどうしても精子の姿を見て、「頭」や「尻尾」というふうに捉えてしまう。だからその動きに、形状の似た蛇や鰻のそれをイメージしてしまう。でも実はそれは間違いで、あれらは回転するのだ。上も下もなく、三半規管もない、どこまでも機能性だけのものなので、生きものにおいては考えられないような回転しながらの移動が可能なのだ。そして擬生命化に端を発する、精子に対するその間違った捉え方は、男尊女卑にも自ずと通じていたことだろう。顕微鏡が発明される前までは、精子は小さい人の形をしていると信じられていたそうだが、実際はそうじゃなくて頭と尻尾だけのおたまじゃくしみたいなやつだったんですよ、となったところで、実はそんなに違わない。だって結局のところそれは、「女の腹は畑」という考え方に繋がるからだ。生命の根源は男が持っていて、女は、それをどの場所で育てるかの違いでしかない、という考え方。知らず知らずのうちに当り前だと思い込んでしまっていた精子の擬生命化には、そんな傲慢さが根底にあった。反省しなければいけないと思う。
 あと、精子は実は回転していたらしい、ということを、記事を読んでファルマンに向かって話したところ、「私はそれ知ってたよ」と即答してきたのだが、これはいったいどう捉えたらいいのだろう。精子の回転、いつ見たのか。いつ感じたのか。

 お盆を前にして、GoToトラベルキャンペーンだの、自粛だの、ひっちゃかめっちゃかである。なにかと振り回され、うんざりする。そんなとき、世代的にどうしても思い浮かぶのが、「言いたいことも言えないこんな世の中じゃPoison」でおなじみの、反町隆史の「Poison」である。たぶん我々は、どうしようもない厄介な局面に身を置いたときには、死ぬまでこの歌のことを思い出すんだろうと思う。そう考えると偉大な歌だ。ファルマンとふたりで語り合っているときは、もはや一節を唄ったり「Poison」というタイトルを口に出したりする必要はない。「マジで反町だ」といっている。「反町」=「言いたいことも言えないこんな世の中じゃPoison」なのだ。でも最近は、「マジで反町だ」「反町だねー」のやりとりのあと、「Ah Forever Your Love~」と唄うのが流行りだ。あ、そっちなんだ? というボケ。てっきり新型コロナ対策に対する鬱憤で「Poison」なのかと思ったら、実はビーチボーイズ」のそっちのほうだったんだ、めっちゃ声低いやつだ、という。そこまででワンセット。夫婦の内輪受けの一連の流れ。

 最近突如として始めたのだが、Twitterの勃鬼の短歌で、「オリジナル枕詞」というのをハッシュタグを付けてやっている。あの枕詞という、なんの意味もない、音数を合わすだけの言葉って、思い返すだに、「あってもなくても別にいいけど、俺たちが学ぶ必要はねえだろう」という感じなのだが(まあそんなこといったら文系の勉強のほとんどがそうなってしまうのだけど)、自分で好き勝手にやる分には愉しいのではないかと思った。学年題俳句よりはだいぶ小規模なオリジナル性なのだけど、気軽にできていい。ここ10日ほどの短歌はもっぱらこの趣向でやっている。
 ここまで「乳重の→梅雨」「常濡れの→放課後」「抜きすさぶ→ナイトプール」「夢縫いの→陰嚢」「めめぬめる→女湯」「双子獅子→金玉」「ちんまんの→セックス」「花襞の→プリーツスカート」「爛転ぶ(らんまろぶ)→ビキニ」「べろつばき→フェラチオ」「天を突く→勃起」「てるつよし→亀頭」というのが出ている。すごく愉しい。なにしろ、法則性とか意味とか、特に考える必要がないのだ。雰囲気だけで勝手にやっていいのだ。こんなに楽な短歌技法はない。古典の時代の奴らも、さぞや半笑いで「たらちねのー」とかやっていたんだろうと思う。
 これが100個くらい溜まったら、一覧表でも作ろうと思う。そしてパピロウ期末試験にここ出るからなー。夢縫いの陰嚢だからなー。ちゃんと覚えとけよー。

2020年7月28日火曜日

えなり・手締め・現代

 4連休の最終日に、実家の面々とLINEで映像通話した。母と祖母は実家にいて、姉一家は実家から車で5分ほどの姉一家宅にいて、3画面通話だった。このウィズコロナ時代においてそれはあまりにも普通のことなのだろうが、僕にとっては初めての経験で、便利なものだなあと思った。複数画面で同時に繋ぐと話が噛み合いづらくなるのではないかと思ったが、やってみたらなんにも変わらなかった。卒寿と小学生の対話なんて、実際に会ってようが3画面の映像通話だろうが、はじめから噛み合わないのだった。
 通話の中で、「夏は来ないんでしょ?」と母に訊ねられた。もちろん行かない。「冬の帰省こそできなそうだから夏は行きたかったんだけどねえ」と答えたら、「えっ、冬も来ないの?」と母は少し哀しそうだった。もちろんまだ分からないが、前評判では寒い時期こそダメって話だった。行ける状況になる可能性は低いだろう。こればっかりはもう、えなりかずきのごとく、「そんなこといったってしょうがないじゃないか」としかいいようがない。ピン子も赤木春恵も我慢してほしい。

 手締めってすごく憧れるなあと思い、YouTubeで小一時間ほど、もちろん自分とは一切関係のない団体の、集いの席での手締めの映像を眺めた。一丁締め、一本締め、三本締め、大阪締め、伊達の一本締め、博多一本締めなど、さまざまなバリエーションがあり、とても愉しかった。やっているのは、端のほうにいるわずかな女性を除いて、基本的に男性ばかりで、手締めというものの業みたいなものを感じた。暴力団によるそれの映像も多数出てきたので、なんか要するに手締めって、そういうものなんだなあとも思った。
 だとすれば、地元を捨て、ありとあらゆる旧友を捨ててきた僕にとって、手締めって対極にある文化のはずだ。そういう仲間賛美の共通認識、お前死ぬほど嫌いじゃん、という話である。でも、だからこそ憧れたりもするのである。
 もしも今後の人生で、所属する集団で手締めを行なう場面が訪れたならば、そのときはオーソドックスな一本締めとかじゃなくて、オリジナルのリズムを開発したい。それこそ手締めの醍醐味だろう。メンバー内だけの共有事項として、独特の拍子の手締めを、見事に全員で合わせて行ないたい。そのときの快感たるや、と夢想する。
 なので仲間がひとりもいない今のうちから考えておこうと思い、ファルマンに相談した。「自由な発想で考えてくれ」と依頼したところ、「うーん」と悩む素振りを見せたのちおもむろに示した1手目が、グーの右手がパーの左手のひらを打ち付ける、「そうか!」の振付だったので、これは期待が持てる、と思った。完成したら発表したい。

 子どもたちの通う小学校の先生が若い。ポルガの担任は、去年度も25歳くらいの男性だったが、今年度なんか23歳くらいの女性だそうで、そんなのもうほとんど大学生だし、っていうか我々側か子ども側かでいえば、もはや子ども側じゃないかよ、と思う。そのため授業以外の雑談で話される内容もやけに若く、「鬼滅の刃」だの「GENERATIONS」だの、昭和生まれの親からは与えられない情報を日々仕入れてくる。まさか自分がこんなにも現代の流行りについていけない「親」になるとは思ってなかった。
 だがその一方で、音楽の授業においては現在、リコーダーで「男の勲章」をみんなで練習しているそうで、なんかもうクラクラする。変な未来。

2020年7月22日水曜日

横浜叔父・再会・重み

 実家にマスクを発送し、「送ったから明日たぶん届くよ」ということを母にLINEで伝えたところ、それに対する謝意とともに、「そういえばおじちゃんが近所に引っ越してきたよ」という報告があり、「ええっ!?」となった。
 母がたまに繰り出す、「それってもらった電話(当世はLINEだが)で伝えること?ギャグ」が、久々に発動した。ちなみに前回は「そういえば犬が死んだよ」である。
 おじちゃんというのは、母の弟である叔父のことで、大学のあった広島で就職し、ずっと独り身のまま、2年ほど前に定年退職をしたのだった。それ以降、年末年始や夏の集いの際には、祖母から事あるごとに「山梨に帰ってくればいいのに」と嘆かれ、しかし母と叔父はやけに山梨のことが好きじゃないので、帰る素振りはまるでなく、僕も叔父といえば広島というイメージしかなかったので、まあ広島でふわふわ仙人のように暮すのが性に合っているんだろう、隣県なのでそのうち家族で家に急襲してやろう、などと思っていた。
 そんな叔父が突如として横浜市民である。実家から車で15分ほどの距離だという。僕の驚愕のリアクションに対し、母は「あれ? お正月のときとかにそういう話してなかったっけ?」ととぼけていた。僕はたしかに実家で話されたことは瞬時に忘れがちなので、そういうどうでもいいやりとりを延々と覚えているファルマンに確認したところ、ファルマンもまた「聞いてないよ!」と衝撃を受けていたので、やっぱり青天の霹靂なのだった。
 しかしまあ、身寄りもない広島で独居老人まっしぐらコースよりかは、(親戚付き合いが特濃の山梨という選択肢はなかっただろうから)叔父にとっての姉や、姉の娘一家がいる横浜のほうが、今後のことを思えばなにかといいのは間違いない。それに、僕もまたそうだからほぼ間違いないこととして、叔父は40年あまり暮した広島という街に、たぶんぜんぜん格別の愛着もなかっただろうと思う。つまり広島でも横浜でも、叔父にとっては関係ないのだ。むしろ重ねないつもりでも自然と重なってしまった40年分の年輪がある広島より、横浜のほうが心地よいとさえ思っているはずだ。
 そんなふうに考えて、聞いた直後は驚愕した内容だったが、すとんと腑に落ちた。広島の叔父というイメージしかこれまでなかったので、そこの認識にはまだ違和感はある。あとやっぱり、それってもらった電話で伝えること? とは思う。

 先日、失業保険を申請してから初めての認定日がやってきて、指定された日取りにハローワークへ行った。なにしろ工場閉鎖で、従業員が一斉に退職となったので、雇用保険の申請をしたタイミングもほぼ一緒ということになり、じゃあ認定日にハロワに行ったら、工場の人たちと顔を合わせたりするかしら、と少し身構えた。別に会いたいわけではないが、なにぶん7月に入ってから、「家族以外の知人との会話」というものを本当に一切していないため、言うても寂しがり屋(かわいい)な一面が顔を覗かせたのだった。それで結果はどうだったかといえば、市という単位は自分が思っているよりもはるかに大きな単位なんだな、ということを痛感した。市内には、自分と同じタイミングで失業保険を申請した、自分の知らない人がこんなにいるのか、と思った。結局だれとも再会しなかった。この体験は2度目だ。初めては成人式のときだ。高校から東京に行ってしまい地元を顧みなかった僕は、成人式に連れ立って行くジモ友がひとりもいなくて、でも会場に行けば誰かしらに会うだろ、と思ってひとりで行ったら、なにぶん横浜アリーナで午前と午後の2部に分けて式を行なう横浜市なので、群衆の中を血眼になって探したのに、僕が知っている(20人くらいの人間は)誰ひとりとして見つからず、出発前に母に「同級生と再会して飲みに行って遅くなるかも」と言っていたのに、めちゃくちゃまっすぐ帰宅したのだった。そのことを思い出した。成長しない。

 エロ小説をベッドの下の引き出しに入れていて、ファルマンは当然ながらそれを忌々しく思っていて、子どももだんだん大きくなってくるのに、もしも引き出しを開けられて中身を見られたらどうすんだ、といい、引き出しの中にずらっと並ぶ背タイトルの上に、わざわざ目隠しの布を掛けたりしているのだが、先日蔵書の整理をして、ほんの少しブックオフに売ったりして、そういう作業をしていて思ったこととして、おそらく許容荷重をはるかに超えた、何百冊かのエロ小説がぎっしり搭載されたこの引き出し、子どもの力で引き出すことは到底不可能だ。僕でさえしっかり腰を据えて引っ張らないと開かない。だからこれは安全だと思う。つまりこれは一種の密室トリックで、重さが鍵になっているというパターン。あるいは小銭を詰めた靴下で殴打する、凶器トリックのほうか。さらにこの重みは僕自身にとってもいい作用があり、引き出しを開けるのがちょっと億劫になることにより、本当に読みたい、必要だ、と思ったときにしかエロ小説を手に取らないで済む。以上の理由により、この大量のエロ小説は、ぜんぜん忌々しくないと思います、裁判長。

2020年7月14日火曜日

MAX・ヒロシ・明け

 無職で時間があるときにやりがちなことランキング第6位の、蔵書の整理をして見切りをつけたものをブックオフに売りに行く、を実行した。と言ってもここ数年はずっと、増えるよりも減るほうが多いような状況なので、そこまで売るものは多くない。紙袋3つ分くらい。1200円。思っていたよりは値段がついた。売ったものの中にはMAXのCDもあり、感慨深かった。当時あんなに好きだったMAXのCDを、とうとう売ってしまう日が来るとは。なんとなくあの頃の自分を裏切ってしまったような罪悪感が胸を刺した。たしかに今の僕にはもうMAXは必要なくなってしまった。だけどMAXがくれた喜び、感動、やるせない気持ちは、これからも僕の中で生き続けるに違いない。あの日々は無駄じゃなかった。あの日々があるから、今がある。ありがとう、MAX。

 先日、柳家喬太郎の高座をテレビで観ていて、喬太郎って誰かに似てるなー、と感じて思いを巡らせた結果、芸人のヒロシとまったく同じ顔だ、と思い至った。本当に似ている。というか同じ顔なのだ。こんなに同じ顔があるかよ、というくらい同じ。一緒に観ていたファルマンに伝えたら、しばらくじっと観たのちに、「ほんとだ!」と驚いていた。
 ところでヒロシといえば、いまは再放送ばかりになってしまっているが、BSで金曜日の夜にやっている「迷宮グルメ異郷の駅前食堂」がとてもおもしろい。毎週録画し、30分の2話構成なので、週末の昼食時に1話ずつ観る、というのが最近のわが家の定番となっている。これがとてもいい。このため子どもたちの中でヒロシは、我々にとってのタモリのような、とてつもなくメジャーなタレントみたいになっている。別に教育方針でもなんでもなく、自分たちが観たい番組がないという理由で、民放の番組が子どもの目に触れる機会が少ないため、子どもたちにとってヒロシの存在ばかりが大きい。テレビタレントのイメージをグラフに表したら、うちの子だけやけにヒロシの占める割合が多い、いびつなものになるだろうと思う。

 梅雨が長い。もう1ヶ月以上、梅雨をしている。いよいようんざりだ。九州などでは災害にもなっているし、早く明けてほしい。明けると言えば、緊急事態宣言の最中あたり、「コロナが明けたら……」みたいな表現をよく目にして、コロナとは明けるものなのか、喪的なものなのか、と思ったりしたが、緊急事態宣言が解除になったあとはあんまりそういう人は見なくなって、じゃあちょっとずつ生活を元通りにしていこうとしていっているこの日々は、コロナが明けたといえるのか、といえばそんなことはもちろんなくて、コロナってまだまだダラダラと長引くようで、だとすればあのとき彼らがいっていた「コロナが明けたら……」は、ただ単に緊急事態宣言の解除のことを指していたのだな、と思った。コロナどうこうというより、活動自粛でしょげてたんだな。
 ところでつい昨日のことなのだが、わが家のインターネットの、NTTから借りているあの機械が、急にウンともスンともいわなくなり、ネットができなくなり、それはファルマンが狂乱しながらセンターに電話をかけて、たった1日で代替機を手に入れて無事に復旧したのだが、引っ越しの際には必ず初日にインターネット回線を繋げることで知られるファルマンにとって、インターネットに繋がらない一夜はありえないものだったようで、ちょっと禁断症状みたいになっていた。そのさまを見て、「アウトドア派の人にとっての外出自粛がそれなんだよ」といったら、バケモノはハッとしていたので、少し他者の気持ちが解ったのかもしれなかった。

2020年7月8日水曜日

バージンカラオケ・17年・BETWEEN A AND B

 先週の日曜日、カラオケに行った。コロナ禍以降、初めてのカラオケである。前回は2月16日とのことで、この日の日記には新型コロナのことにはぜんぜん触れていない。コロナウイルスのことはこの時点ですでに取り沙汰されてはいたと思うが、まだまだ対岸の火事だった時期だろう。
 なにより「三密」という概念がまだ生まれる前だ。コロナには、「コロナ前」「コロナ後」というそもそもの区切りに加えて、「三密前」「三密後」という区切りがあると思う。あれでこの騒動のキャラが確定された感がある。
 カラオケは三密に見事に当てはまる行為で、実際にちょっと前にもクラスターが発生したりしていた。僕もまだ不特定多数の人と一緒にやろうとは思わない。今回のカラオケももちろんいつメン、妻と娘ふたりとである。
 唄ったのは少なめ。1曲目、中島みゆき「瞬きもせず」。2曲目、小坂明子「あなた」。3曲目、乃木坂46「インフルエンサー」。4曲目、山口百恵「イミテイション・ゴールド」。5曲目、ザ・ドリフターズ「ドリフのズンドコ節」(追悼)。6曲目、小柳ゆき「あなたのキスを数えましょう」。7曲目、玉置浩二「メロディー」というラインナップ。約5ヶ月ぶりのカラオケということで、調子を掴むのが難しかった。カラオケ処女膜が再生してしまったのかもしれない。今後、いったいいつ家族以外の人間に歌声を披露する機会があるのか見当もつかないが、なるべくコンスタントに行為をして、こなれた状態をキープしておきたい。

 今日は7月8日ということで、ファルマンとの交際開始記念日である。毎年いうことながら、来月が結婚記念日のため、特に祝い事をするわけでもない。しかし結婚よりも常に5年分、数字が大きいために、「歳月……」ということを思うにあたっては、こちらの数字のほうが効果的である。
 今年はそれが、17年目ということになる。ファルマンが20歳のときのこと(僕は19)なので、めっぽう計算がしやすいのだ。
 というわけで満を持して思おう。
 17年……。さ、歳月……。

 先日「nw」にアップした、「WE ARE MD AGE」Tシャツというのがあるのだが、ファルマンが「わたすも欲すい」というので、作ってやった。「WE」といっていることもあり、複数枚作ることに意義がある。とはいえこのTシャツは、子どもたちには作ってやれない(求めもしないだろうが)。だいたい、現在32歳~43歳くらいの人専用のTシャツとなっております。
 ファルマンのTシャツには、自分のにはしなかったのに(今度しようと思っているが)、背中側にもメッセージを足した。「BETWEEN PERSEVERANCE AND INFORMATION」というのがそれで、意味は「気合と情報の間」。辻仁成と江国香織の共著ではない。気合世代と情報世代に挟まれた我々、ということである。MD世代という言葉は、本当にどうにかすれば、「団塊の世代」みたいな用語になって、だとしたら僕は堺屋太一みたいになれるんじゃないか、と夢見ているのだけど。

2020年6月30日火曜日

電話帳・水泳・インフルエンサー母

 先日、ガラケーの契約が2年にいちどの更新時期に入り、それはそのタイミング以外で解約などをしようとすると違約金として結構な額を払わされる期間のことで、なにもしなければ自動更新となるわけだが、そもそもガラケーというのが、詳しくは忘れたが(さんざん「切り替えろ!」という要旨のダイレクトメールを受け取ったくせに)、なんかもうあと数年ほどで使えなくなるというし、それに近ごろはあまりにもガラケーを持っている意味がなさすぎる状態(もはや目覚まし時計と、保険や不動産投資の勧誘を受けるだけの機械だった)になっていたため、このタイミングでもういっそガラケーはやめることにした。それでガラケーをやめてスマホに乗り換えたのか、といえばそんなことはなくて、携帯電話の番号は、持っているタブレットへと移し、つまりタブレットだけの体制となったのだった。タブレットだけで通話はどうするのか、という話だが、まあ本当に電話というのは滅多に掛かってこないし、もしも掛かってきたらオンフック状態で話せばいいだけなので特に問題はないだろうと思う(一応マイク付きのイヤフォンも買った)。ガラケー+タブレットからスマホに一本化、というのなら話は簡単だったのだけど、やはりいちどタブレットを持ってしまうと、スマホの小さい画面にはどうしても抵抗があり、このような選択となった。
 そのような、通常の乗り換えではない移動だったためか、これまでの乗り換えの際には必ず行なわれてきた電話帳のデータ移行が、今回は行なわれなかった。そのためガラケーの電話帳の画面を眺めて、本当に必要そうな番号だけを、タブレットの通話アプリの電話帳に自分で入力することにした。
 その結果、入力がなされた番号は、祖母と叔父(LINEで繋がっていないため)、実家、ファルマンの実家、そして行きつけのカラオケ店と、車検やオイル交換をしてもらっている車の整備工場、というラインナップだった。本当にこれだけなのだった。
 これまでは乗り換えのたびに自動で電話帳データを移行され続けていたため、携帯電話を持ちはじめた高校時代のクラスメイトの番号までもが電話帳には残っていた。そいつらとなんか、卒業以来いちどもなんの交信もしていないので、もう18年間、なんの意味もなくずっとデータだけが存在していたことになる。それでも僕がそうであるように、アドレスはもちろんさまざまな変遷があったろうが(そもそも携帯電話のメールアドレスなんてもはや存在しない可能性のほうが高い)、電話番号はずっと変わっていない人間もいるだろう。それが18年間音信不通となると、もうひたすらに怖い。発信したら、18年後の同級生(おっさん)が不審げな声で「もしもし?」と話すかと思うと、怖くてしょうがない。そもそもこれまでデータが残っていたことがおかしかったのだ。これはまた「18年」が「14年」になるだけの大学時代の知人もほとんど同じで、ここらへんの番号はばっさりと切った。さらには書店員時代の同僚や島根時代の人たちも、どう考えても今後の人生で関わり合いを持つとは思えなかったので、番号は入力しなかった。
 そして、新しい電話帳は先述の通りのラインナップとなった。こうして書くと、自分のこれまでの人生というものに思いを馳せ、なんとなく寂寥感のようなものを抱きそうになるのだけど、僕の人生は別に、その時々の関わりを持った人々によって形作られたり彩られたりしているわけでは決してないので、まあいっか、と思う。

 気温が高まっていることで渇望感があり、プールへはそれなりの頻度で通っている。
 先日そこで驚くべき出来事があった。何往復か泳いで、端までたどり着いたところで息が上がったので少し休んでいたら、隣のレーンで同じく立って休憩していた中年男性が、こう話しかけてきた。「お兄さん、泳ぐの上手いねえ」。こんなことは初めて言われたので、思わず「ええっ」と声を上げてしまった。たしかに水泳の本を何冊も読んでフォームに気を配ったりもしたが、そもそもの体力や運動神経の素養がそれほどでもないので、プールにおいてたびたび遭遇する、「マジでめっちゃスイスイ泳ぐ輩」を見ては、(俺はどんなに練習してもあの次元までは行かないんだろうなあ)と諦観している僕である。なので、「いや、そんなことないと思いますよ!」と全力で否定した。すると中年男性はさらに「そう? 大会とか出る人じゃないの?」と言ってくる。これには「まさか!」と大きな声が出た。中年男性は、ビート板を持って泳いでいたので、ビギナーであることは間違いなかったが、それにしたって見る目がなさすぎるだろうと思った。そう思ったけど、まあ、もちろん悪い気はしなかったよね。お金とかあげたくなったよね。

 minneに出品したものが相変わらずぜんぜん売れないのだが、そのことを憂えたファルマンが、何を思ったのか、僕の母親にLINEで、minneの僕のページを紹介したのだった。
 これまで母へはヒットくんやクチバシのトートバッグを何枚かあげたのだが、どうやら母は実際にそれを街で使ったり、仲のいい友達に1枚プレゼントしたりしているようで、「かわいいって言ってたよ」とか「店員さんに褒められたよ」などという報告がちょくちょく来るので、じゃあもう販売ページを教えて広めてもらおうよ、とファルマンは考えたようだ。たしかに、インフルエンス能力があまりにも壊滅的な我々夫婦よりも、関東在住ということもあり、母のほうがよほど宣伝力に期待が持てるのは確かだ。とは言え、この時代、この年齢で、作品の宣伝が母の口コミ頼みというのは、果たしてどうなのかと我ながら思う。我ながら思いつつも、ひとつ目の話題で書いたように、僕は過去の人間関係を大事にせずバッサリ切ったりするので、そこはもうしょうがないんだと思う。なにかもう、他人との交感というあたりの機能に、(僕は淡くファルマンは濃く)問題があるんだと思う。なので母にがんばってもらうしかない。新商品ができたら送ろう。

2020年6月22日月曜日

ミラーレス一眼・大丈夫・いいんだよ

 なんか40万円もらえたので、カメラを買った。ミラーレス一眼というやつ。
 ポルガの誕生直後に買った一眼レフカメラが、最近いよいよとぼけてきていて、どうも簡単には取り除けない場所に入り込んだゴミが、撮った写真に入り込むし、そもそもそのゴミのせいで撮りたい対象にちゃんとピントが合わないという事態になっており、そんな状況で僕もファルマンもタブレットを持つようになったため、公園に行くときなども、カメラはタブレットでいいか、となる場面が増え、しかし別に性能の優れたものではない我々のタブレットで撮影する写真のクオリティはたかが知れているし、かといって一眼レフカメラをわざわざ持っていっても、大きい画面で見たらちょっとぼやけてる写真ばっかりだし、といった感じで、この1年2年くらい、わが家の写真環境は実はとてもよろしくなかった。今回の購入により、それがようやく打開されたのだった。もしも「自分で稼いだわけではないひょんな40万円」などという、本当に稀有な収入がなければ、まだ当分その状況が続いていただろうと思う。
 買ったのは、標準レンズとズームレンズがセットになったもので、これまでの子どもの幼少期は、標準+単焦点のセットだったのが、子どもがふたりとも小学生になったタイミングでズームレンズという選択になったのは、とても実利的だなあと思う。これで運動会や発表会の撮影もバッチリだ。
 もっともなぜ40万円の収入があったかといえば新型コロナの流行によるもので、そして新型コロナの流行によって運動会も発表会も軒並み中止となっており、なんだかこれはどことなくO・ヘンリーの「賢者の贈り物」のような話だな、と思う。

 「大丈夫」という言葉は、ファルマンが「好きな言葉は?」と訊ねられたときの回答でもあるのだが、もともとは頑強な男のことを指すものであり、「ますらお」と打っても「大丈夫」と変換されるほど「益荒男」と意味は近く、そして「大丈夫」の時点でもうっすらと感じられたことだが、「益荒男」となると、いよいよ男性性のシンボル的な雰囲気は高まり(「ま」と「ら」が連想させる部分も大きい)、そう無邪気に好意を宣言してよい言葉なのだろうか、という気もしてくる。
 さらには先日あるとき気づいたのだが、悪い男がいたいけな女の子を、半分騙すように籠絡しようとするとき、男はやけに「大丈夫だから」と言うのだった。たとえばビキニをちょっと持ち上げておっぱいを見せてもらいたいとき、あるいはちんこを触ってもらいたいとき、逡巡する女の子に向かって、男は「大丈夫だから、大丈夫だから」と、なにが大丈夫なのか知らないが、やけにその言葉を繰り返す。でもこれはよく考えれば、いまどきの「大丈夫=安心安全」というイメージがむしろ間違いなのであって、男の唱えるそのフレーズで女の子が「安心だから、安全だから」という解釈をするのは勝手だが、男はあくまでそれを、「健康な男の性的発露によるものだから、健康な男の性的発露によるものだから」という意味で使っているわけで、ここに大きな落とし穴がある、と思う。だってこの場合、「大丈夫だから」で安全が担保された、などというのは女の子の勘違いに過ぎない。男は、「大丈夫だから」と、堂々と宣言した上で欲情をぶつけているのだ。これは裁判でもよく争点になる部分だ。知らないけど断言してみた。

 minneへの出店からもう1ヶ月以上が経つのだが、まだいちども売れていない。なんでだよ、と思う。「nw」に出店報告をした際、分け合えば余る、ということを書いたが、みんなちょっとわきまえ過ぎだ。分け合い過ぎだし、余り過ぎ。もうちょっとガツガツしていい。いいんだよ。パピロウオリジナルデザインのトートバッグが1800円。たしかに信じられない安さ。たとえば最高級黒毛和牛1キロが100円だといわれたら、なるほど買いづらいかもしれない。数に限りがあるサービス価格。自分だけ得してやろうとそれに群がることに抵抗感を覚えるのは、文明人としては当然のことだろう。僕のブログを読んでいるあなたがたは特にその傾向が強いので、そのあまりの品性、そして貞節さが邪魔をして、とてもじゃないが、まるで乞食に恵んでやるような値段のトートバッグに手を挙げられないのだろうと思う。分かるよ。分かるけど、でもいいんだよ。パピロウの手の掛かったものを1800円で買っても、いいんだよ。にわかには信じられないかもしれない。そんな僥倖があってたまるか、という疑念はなかなか消えないだろうと思う。でもがんばってその理性に逆らい、一歩を踏み出してほしい。夢みたいな幸福をあなたに。

2020年6月10日水曜日

シーズン2・佐々木希・プールとミシン

 「THIS IS US」のシーズン2を観終える。観終えてしまった。primeには今のところここまでしかないのに。明日からいったいどうすればいいのだろう。
 内容はもちろんおもしろかった。しかし物語を成立させるためとはいえ、ピアソン家の人々は本当にトラウマだらけだな、と思った。観ながら犬ドッグのことを何度も思い出した。エテモンキーは鍵だらけだし。
 どうせすぐには観られないのだし、ということで、2を最後まで観てすぐ、シーズン3と、この春にアメリカでの放送が終わったばかりのシーズン4の、あらすじをウェブで読むということをしてしまう。その結果、観たら観たで、それはもちろんついていけるし、おもしろく感じるのだろうが、いま現在の気持ちとしては、「なんか、もう、いいかな……」というふうになった。過去のエピソードの掘り返しも、現代の人間関係の広がりも、さすがにもうこれ以上いらない、と思う。しかしそのふたつを否定してしまったら、「THIS IS US」とは一体なんなのか、自分はこれまで「THIS IS US」のなにをおもしろいと思って観ていたのか、という話になってくるので、まあ気長にシーズン3を拝める日が来るのを待とうと思う。わりと先でいい。

 渡部建が不倫をしていた、ということで大騒ぎだ。
 なぜこうも騒ぎになるかといえば、渡部建の最近の売れっ子ぶり、というのももちろん大いにあるが、しかしいちばん大きな理由はこれだろうと思う。
 渡部建の奥さんは佐々木希だから。
 それなのに、だから。
 奥さんが佐々木希なのに不倫をする。これはどうにかスマートなフレーズに仕立てれば、50年後くらいにはことわざになっているくらいの現象だと思う。漁夫の利、とか、船頭多くして船山に登る、みたいなのに混じって、奥さんが佐々木希なのに不倫、というのが辞典に並ぶ可能性がある。意味としては、「いちばん価値のあるものを持っているのに活用せず、それより劣るものに固執すること」みたいな。サッカーに圧倒的な才能を持っているのに、頑なにリフティングしかやらない生徒に向かって、教師が「お前、このままだと奥さんが佐々木希なのに不倫、だぞ」と言う。あるいは佐々木希の側に立って、「佐々木希でも不倫される」という表現をしてもいい。この場合の意味は、「世の中には最善を尽くしてもどうしようもないことがある」になるか。万全の準備をして本番に挑むが、それでも失敗することはある。それで落ち込んでいる相手に言ってやる。「くよくよすんなよ、佐々木希でも不倫される、だよ」
 なんて言いつつも、まあ、夫婦にはいろいろあるんだろうな、ということも思う。

 先日からちょいちょいプールに行っている。
 プールは市営のものが再開したから行っているわけだが、どうもまだあまり大きな声で「プール行ってきたぜ!」とは言えない風潮があると思う。東京都の、緊急事態宣言が解除された途端に感染者がまた増えた、なんて現象が、ますます自粛警察の力を強めるのではないかと危惧している。いつまでもすっきりしないな。
 それはそれとしてプールはやっぱり気持ちいい。久しぶりだし、いつの間にか初夏だから、なおさらだろう。しかし相変わらず自分の体つきに満足がいかない。1200メートルほども泳ぎ、これは相当にパンプアップされたことだろう、と思って更衣室に戻ったら、そこにはプニョンとした体の男が映っているのだった。思わず目を疑った。そんなはずないだろう!? と鏡の中の男に詰め寄りたい気分だった(ノイローゼだ)。
 そんなことがあった翌日とかに、家で縫製の作業をしていて、その区切りをつけたところで風呂に入ることにして脱衣所で服を脱いだら、洗面台の鏡にやけにパンプアップした体が映し出されていたので、目を疑うとか、詰め寄るとかじゃなく、もはや奇怪だった。なんでやねん! なんでプールよりもミシンのほうが筋肉つかっとんねん! と鏡の中の男に詰め寄りたい気分だった(やっぱり詰め寄りたくなった)。
 もうこうなったら「縫製トレーニング」という新手法で本を出そうかな。手芸の本でありながら、トレーニング法も書かれているのだ。いいな。俺なら買うな。逆にいえば俺しか買わないかもな。

2020年6月3日水曜日

負荷・唇マスク・虫

 筋肉がつかない。それまで拒んできた筋力について、つけるほうに舵を切って1年余り。イメージでは現状、もう少しシャープでパキパキした体になっているはずだった。途中、そういう気配はあったのだけど、それはただ痩せて、体重も50キロを切り、最低限の筋肉が表層に出ただけの、あのやつだった。筋肉の形と一緒にあばら骨とかも見えるやつ。こういうことじゃない、とそこからまた方向転換し、たくさん食べ、糖質も意識的に摂って、体重を増やすことにした。それでいまは56キロくらいになったのだが、そうしたら往時の筋肉はまた内側に潜ってしまい、それを脂肪が覆う、ぜんぜんシャープじゃない肉体が爆誕した。とは言えそれは、2年よりもっと前の、筋トレとか一切せずに暮していた頃とは、組成としてはだいぶ違うと思う。その実感はある。でも実感があってもしょうがないのだ。大事なのは客観的な見た目なのだ。客観といっても他人ではない。そうそう他人に肉体を見られる機会はない。僕の肉体をいちばん多く客観的に見るのは、他でもない僕自身である。その僕が満足しない。やわらかそうな体だな、と見て思う。実際、ファルマンは近ごろ半袖になった僕の二の腕を、「気持ちいい」といってたびたび揉む。そんなはずあるか。大胸筋を鍛えるためにダンベル種目をやって、でもダンベルってけっこう難しくて、腕ばっかり鍛えられちゃうんだよね、というのは筋トレあるあるだが、僕は大胸筋はもちろん腕にも一向に筋肉がつかない。なぜだ。胸に行ってほしい負荷が腕に行ってしまう、じゃないのだ。腕にも行ってないのだ。じゃあ日夜ダンベルを持ち上げている負荷はいったいどこへ行っているのだろう。ちんこだろうか。ちんこならいっそいいのに、そんな様子は微塵もない。うちの負荷知りませんか。

 先日ニュースでちらっと見たのだけど、どこかの地方の飲食店、たしかうなぎ屋だったと思うのだが、その店の従業員は、口を覆ってしまう不織布マスクは冷淡な感じがするとして、マスクの上に唇のシールを貼っていて、これが客になかなか好評、という話があった。写真を見ると、従業員の中年女性たちが、わりと巨大で真っ赤な唇マークのシールを貼ったマスクを着け、みんながこちらを見つめていて、なかなか迫力があった。
 マスクに口を、といえば、先日「nw」に記事を書いた「「回」マスク」である。「回」マスクはいちど試作品を作っていまいちな結果になって以降、特になにも進展していない。しゃべるとき、マスクの中の実際の口に合わせて、もう少しマスク表面の「口」が動けばおもしろいのになー、などと思案しているが、解決の兆しは一向にない。うなぎ屋の唇シールのマスクは、そこらへんに関する思索は一切ないだろう。また真っ赤な唇マークに関して、ちょっと下品ではないだろうか、などという逡巡もたぶんない。中年女性の集団にそんな葛藤はない。あるのは勢いのみである。そしてそれは少し羨ましい。勢いって大事だよね。

 今年は毛虫が多い。田舎暮しになってからの8年余りで、ここまでそのことを強く感じたことはないので、今年はたしかに大量発生しているのだと思う。職場の駐車場が山の麓のような場所にあり、枝葉が伸びているその下に車を停めるような環境なので、労働を終えて車に戻ると、屋根やフロントガラスに何匹かの毛虫が鎮座していたりする。いうまでもなく、非常に気持ち悪い。またその毛虫が、実に気持ち悪い外見なのだ。頭の中に、思うままに最高に気持ち悪い毛虫の姿を思い浮かべてくれれば、それがほぼ実物そのものだろうという、そのくらいに気持ち悪い。毛がまた長くてさ。あいつが成虫になったらどういう虫になるのか、たぶん蛾だろうとは思うが、いったいどんな蛾なのか、知りたい気持ちはあるのだが、外見の特徴で検索をかけたりすると、真相にたどり着くまでに、見る必要のなかった毛虫の画像を大量に見なければならないと思うと、する気にならない。ちなみに車の上に毛虫が鎮座していたら僕はどうするのか、というと、「見なかったふりをして出発する」だ。そうしたら家に着く頃にはいなくなっている。それ以外に方法はない。同僚はフロントガラスについたやつを、「突っついて振り払うつもりで」ワイパーを作動させたら、それはもう惨憺たることになったらしい。想像したくない。
 あと虫つながりで、これも職場の話になるのだが、同僚が今日「家族でホタル見に行ったりしないの?」と訊ねてきたので、「いやー、行ったことないですね。ホタルなんてどこ行ったら見られるんですか?」と訊き返したのである。訊き返しながら、たぶん県北とかそういう話なんだろうなあ、と大体の予想をしていた。そうしたら同僚が、「あそこのファミマを左に曲がって、まっすぐ進んだあと看板が出てるからそこを右」と、駅前でラーメン屋の場所を訊ねたときくらいの説明をしてきたので驚嘆した。俺とホタルの生活圏はそんなに近かったのか。だとしても別に行かないけど(そこにはきっと毛虫も大量にいるのだろうし)。

2020年5月25日月曜日

パズル終了・布マスク漫談・若者と性

 パズルをやめた。嵌めやすい部分をサクサク嵌める愉しい期間が終わったあと、それでも10日間くらいは粘っていたが、やはりどうしたって時間と労力に対して成果が見合わず、それに部屋の一角もずっと占領されていて困る、ということで中止の決断をした。だって本当にマジで、嵌められずに残っているピースというのがすべて、「茶色」「黒」「緑」の、クスノキの一部でしかないものであり、それを数十分にひとつくらいのペースで嵌めていく作業は、気が狂いそうになるくらいおもしろくないのだった。ちなみに姉一家のほうは完成させたという。なにぶん姉は自腹で購入しているという意地があるので、やらざるを得なかったろうと思う。タダで手に入れた我々にその活力はない。
 パズルは、嵌められた部分はなるべく大きな塊のまま箱に戻し、またいつか発起して取り組むとき(たとえば第2波が来たときとか)が来たらやろうね、ということで押し入れの奥に仕舞った。
 パズルがそんな結末になったため、ご丁寧にセットで送られてきた額縁が、浮いてしまった。1000ピースのパズル用の額縁なので、薄いものとはいえこれもかなり嵩張る。なのでこれは押し入れに仕舞うより、いっそのことポスターでも買って壁に取り付けよう、という話になった。それでなんのポスターにするかを夫婦で考え、僕は部屋に飾るポスターといえば上杉和也の顔写真のアップだろうと思い、そんな商品はあるだろうかと検索したのだが、残念ながら存在しなかったため、ファルマンの案でビートルズのものを注文した。まあ無難でいいと思う。
 それにしてもようやくパズルから解放されてやれやれだ。もう我が家にとってこの日々が、コロナ禍だったのかパズル禍だったのか判然としない。ようやくの宣言解除だ。

 「nw」にデザイン布マスクの製作・販売について書き綴ったちょうど翌日に、ヤフーニュースに「布マスクの功罪」みたいな記事が載っていて、興味深く読んだ。やっぱりこのご時世に布マスクで儲けようとするのは、相当な信念がなければただの便乗商法になってしまうのだなあ、と自戒を込めて納得した。何度もいうけど僕は、もう布マスクをマスクとは思ってなくて、「気に入ったデザインの布製品で顔の半分を覆ってもオッケーな時代がやってきた!」というスタンスでこの状況を捉えている。そしてこの暑さも手伝って、その流れはますます加速していくのだと思う。というのも、先日眺めていたネットのアパレルショップでは、「通気性抜群!」という売り文句でオリジナルのファッション布マスクを販売していたからだ。もはやマスクでもなんでもない。
 オシャレに敏感で、そしてこれまでマスクの習慣のなかったヨーロッパの人たちは、この時代の流れに対してだいぶ忸怩たる思いがあるようで、「マスクは口輪のイメージ」と記事内のフランス人デザイナーは語っていた。馬なのか奴隷なのか拷問なのか判らないが、そうか、ヨーロッパの人たちにとって、口を覆うというのはそういうことなのか、と考え方の違いに驚いた。このデザイナーはそれでも実際にマスクを作って販売しているのだが、それにあたり中央に縫い目のあるデザインを選ばなかったという。その理由として、「戦士の甲冑のようで見た人を緊張させてしまうから」と答えていた。どうもこの人の発想には、フランス人の民族的なトラウマがだいぶ影を落としているように思えてならないが、しかし立体型マスクを忌避するのは僕も同じで、「不穏な、物騒な、由々しき感じがして、僕は怖い」(「nw」より)ということをいっていたが、それもまた日本人のトラウマとして、地下鉄サリン事件の映像とか、そういうのが影響しているのかもしれないとこの記事を読んで思った。四角いマスクは風邪や花粉用、立体マスクは化学兵器用、みたいな刷り込みが、そういわれてみるとあるような気がする。じゃあコロナウィルスはどっちなの、と問われると、またちょっと難しい話になってくる。

 この外出自粛の4月5月に、若者からの妊娠に関する相談が例年に比べてとても増えた、というニュースを目にする。目にして、腑に落ちる気持ちと、腑に落ちない気持ちがない交ぜになり、心が千々に乱れた。前者の落ちているほうの気持ちは、理性的な思考で、そりゃあ家で暇にしてたらセックスになるわなあ、と納得をしている。テレワークで家族全員がずっと家にいるようになった家もあれば、親はやはり出勤で子どもだけが残されるパターンの家もあったろう。そうなったらもう当然の帰結としてセックスということになる。それに対して後者の落ちないほうの気持ちは、若い女の性、それを享受する男がこの世にはいるのだという、いつものそこらへんの部分に対する憤りから、世の不条理を嘆いている。俺が高校生のときにコロナ禍があれば、もしもあればそのときは、うん、うん……、そうだね、コロナとか外出自粛とか中出し推奨とか、関係ないね。なんでもかんでもコロナのせいにしちゃあいけませんよ。

2020年5月19日火曜日

殺してパズル・9月入学・スポーツ

 ジグソーパズルがぜんぜん進まない。やたら難しい。子どもの頃、同じく1000ピースで「ウォーリーを探せ」のものをやったことがあり、そもそも実家で姪たちがそれを見つけたことから、今回の姉からの急なジグソーパズル送付は始まっているらしいのだが、あれはここまで難しくなかった。なぜならウォーリーの絵は、隙間がないくらいびっしりと人物や物が描かれているから、手に取ったピースがどこのものか箱を見れば大抵はすぐに分かったのだ。しかし今回の、絵の75%が大クスノキのこれは、トトロやメイなどの分かりやすい部分を嵌めてしまったあとは、ひたすら木の幹の茶色と黒(陰になっている部分)と、葉っぱの緑しかない。だからピースを見ても、全体のどの部分かさっぱり分からない。そのため、長時間やったのに2ピースくらいしか埋められなかった、なんてことになる。とてつもなく時間を無為にしている感がある。ただ上空からの光線に対して、木の幹の、葉っぱの生い茂っている上部は陰になりがちで、それに対して根元のほうは光が直接当たっているために茶色が若干明るいため、その濃淡の加減で、この明るさのピースはたぶんこのあたりだろう、と当たりをつけたりしていると、普段では考えられないほど繊細に色彩を味わっているような気がしてくる。しかし、だからなんだ、という話だ。そんな繊細なセンサーは、生活の中の別の場所で働かせたい。というか、パズルなんて本当にしたくない。一家の誰もしたくなかった。子どもも最初は食いついたけど、難易度の高さに自然と距離が生まれはじめた(当然だと思う)。勝手に送られてきた激ムズのジグソーパズルって、いったいどうすればいいのだろう。あとはもう、辞める勇気だろうか。

 にわかに9月入学の話が持ち上がって、でももし実現したとしても、編成が変わるのはピイガのひとつ下の学年からになるようで、だとしたらギリギリセーフ感がある。
 最初に話を聞いたとき、じゃあ今まで先輩だったのが同級生になったり、同級生だったのが後輩になったりするのだろうか、などということを思ったが、もう現時点で既に児童・学生になっている世代は(仮に実現したとしても)このままいくものらしい。それはそうか。
 僕は9月20日生まれなので、年度が8ー9月区切りになると、4月3日生まれのファルマンほどではないが、学年の中のとても早いほうの生まれということになる。そしてもしも僕らの時代(もはや四半世紀も前)から制度がそうであったとするならば、同級生だった人の一部(たとえばファルマン)は先輩になり、後輩だった人の一部は同級生になるわけで、そんなこといいだしたらキリがないが、人生の形がだいぶ変わってくるなあと思う。今はまだ実現するのかどうか定かではないので、幼児のいる家庭はドキドキものだろう。親が友達同士で、それぞれの子どもが数ヶ月違いで生まれたとして、現行制度なら同学年だったのに、もしも9月入学ということになれば1学年差、なんて状況もある。これはもう現状を鑑みるに、数年後に蓋を開けてみなければ判らない。じゃあこれをシュレディンガーの同級生と呼ぼう。

 オリンピックが延期になり、プロ野球、Jリーグ、大相撲も開催されず、スポーツ中継というものが日常からすっかり遠のいた。僕もプロ野球に関して、毎年それなりに愉しんでいるような気持ちになっていたが、なければないでこんなに困らないものかと思った。やってるから見てただけで、他の娯楽っていくらでもある。
 その一方で、外出自粛だったり、そもそも施設が休業していたりで、一般の人々の運動欲というのはいよいよ高まっていると思う。かくいう僕がそうだ。プールが徐々に再開しはじめていて、いつ行ってやろうとうきうきしている。
 つまり今回のコロナ禍で、人々はこんな結論に至ったと思う。
 スポーツは観るものではない、やるもの。
 考えてみたらそうだ。人がやってるのを観たって、メリットもないし、ぜんぜん愉しくない。レベルは関係ない。どんな超人的なスーパープレーを観たって、自分で体を動かすのに勝る快感はない。
 そんな結論に人々は至り、そしてオリンピックは来年開催されるとかされないとか。

2020年5月15日金曜日

笑ってジグソー・papapokke・布マスク

 姉からジグソーパズルが届く。休校で子どもが退屈してるから買うことにしたから、そちらの分も一緒に注文しといた、という連絡があったのは4月の終わりごろのことで、世の中の人間みんな同じことを考えたのか(風が吹けば桶屋が儲かる的な感じで、コロナが流行ったことで売れているものは医薬衛生品以外にも世の中にたくさんあるようだ)、発送までずいぶん待たされ、つい数日前にようやく届いたのだった。なんの絵柄かは事前に教えてもらえなかったのだが(ポルガが期待したらまずい、ということで「ドラえもんではない」ということは明言された)、文字通り蓋を開けてみたら、「となりのトトロ」だった。そして1000ピース。
 休校期間にじっくり取り組む用なので妥当なのかもしれないが、しかし1000ピース。多い。そして絵柄的に、下方にトトロとメイがいるほかは、画面のほとんどの部分が大木となっており、幹の茶色と葉の緑色ばかりで、なかなかの難易度である。もちろん9歳と6歳の娘だけでままなるものではない(また6歳のほうが壊す壊す)ので、親も駆り出される。親も、といったが正確には男親、すなわち僕だ。ファルマンはやらない。やらないというか、できないのである。考えてみたら、できるはずがない。右手に面倒臭がりの精霊、左手に大雑把の精霊を宿してこの世に降り立ったようなファルマンに、1000ピースの、茶色と緑色ばかりのジグソーパズルができるはずがない。「なんで絵をバラバラにしちゃったの」とファルマンはピースを掴んで憤っていた。パズルだからだ。
 だから実質、僕が70%、ポルガが25%、残りのふたりで5%くらいの働きで進めている。70%も担っているというと、なんだかジグソーパズルが得意なような、なにしろ姉から届いたわけだし、もしかしてパズルを嗜む系の家の人なのかしら、と思われるかもしれないが、もちろんそんなことはない。(す、すごく時間の無駄だ……)と思いながらやっている。でも居間に簡易座卓を出してその上で取り組んでいるので、完成して額縁に入れてしまわないと(ご丁寧に額縁も送ってくれた)いつまでも部屋が片付かず、それが嫌で仕方なくやり進めているのだった。バイト代欲しい。

 minneというハンドメイド作品販売サイトにお店を出して、オリジナルグッズを売り始めた。「nw」にも書いたことで、「nw」と「hophophop」で読者層が分かれているはずもないのだが(そもそも分かれるほどの分母がない)、こちらにもいちおう記し、リンクも貼っておく。商売なのでガツガツしているのである。→PAPAPOKKE
 それでガツガツついでに、Twitterも始めた。悖鬼ではない。なんだボッキって。minne舐めてんのか。minneの世界に勃起はない。ただただ素敵な平常世界である。だからTwitterも当然、分ける。別アカウントというやつである。それがこちら。papapokkeである。こちらではminneに出品をしたとか、あるいは家族を中心としたほんわかした内容ばかりをつぶやいていくつもりだ。ちなみにこっちがパピロウの本当。悖鬼のエロ短歌とか、毎日すごく無理してやっている。でもアップしないと人質になっている親友が殺されるので、泣きながらやっている(たまに忘れてアップしない日もあるが、そのたびに死んでる)。それがこっちではのびのび、ただ自分が愛しいと思うことを素直につぶやけるのだ。ああ嬉しい。絶対に間違えてエロ短歌をアップしないようにしよう。

 minneを始めて、まずはトートバッグを出品して、他になにを出そうかなあ、などと考えると、どうしたって布マスクという発想が頭をもたげる。実際、minneにおいても布マスク市場はなかなか活況のようである。
 でもパピロウ、布マスクを作ったとき、山梨の中学生に敬意を表して布マスクで金儲けはしない、と宣言していたじゃない。もうなの? もう宗旨替えなの?
 いや違うんですよ。あれなんですよ。聞いてくださいよ。状況が変わってきたじゃないですか。官製マスクが一向に届かないまま、世の中に不織布マスクが戻りはじめ、感染もちょっとひと段落した感じがあり、緊急事態宣言の解除もはじまって、しかも気候も暑くなってきて、普通に考えたら布マスク(しかも不織布に較べてウイルス対策での効果は乏しいとさんざんいわれる)の需要なんてもうあんまりないはずなんですよ。なのに売れてる。それはなぜかって話なんですよ。
 それは、感染がひと段落したといっても今後は「ウィズコロナ」っつって(それにしても今年の流行語大賞はどうなるんだろう)、コロナと共存していく社会においてマスクは必須だし、不織布マスクが店に出はじめたといってもその値段は半年前の5倍以上するので、だから布マスクにはやっぱり需要があるのだ、ということになるわけだが、だからもうこの場合の、これからの社会における布マスクというのは、もう不織布マスクの代替品じゃなくて、着けるのが当たり前の衣料みたいな立ち位置になっていくんだと思う。これも布マスクを作ったときの「nw」の記事内(上のリンク参照)で書いたことだが、かつて白だけだったマスクにさまざまな色が使われはじめた(といってもコロナ前の話なのだが)のは「パンツみたい」な進化の仕方だ、という見方があるけれど、今回のコロナ禍を通してマスクの概念はさらに進化し、パンツから、ずばりTシャツになったのだと僕は思う。僕らはこれから、夏に自分のセンスに合ったさまざまなTシャツを着るように、気に入ったいろんな布マスクを着けて生きていくんだと思う。本当にそんな存在に布マスクはなったのだと、自分自身をはじめ、最近の街中の布マスク着用者を見ていて感じる。
 そして僕はこれがとても嬉しい。たしかに暑い。5月でこれでは7月8月はさすがに無理かな、とは思うものの、何年か前から批判めいた口調で指摘されていた「伊達マスク症候群」に、人類は強制的に追いつかされ、価値観はひっくり返り、伊達マスク症候群こそが推奨され、マスクを頑なに拒むおっさんが忌避される世の中になり、僕はこれまでインフルエンザシーズンと具合が悪いとき以外は基本的にマスクをしない人間だったが、今回のことでずっとマスクをするようになって、そうしてしみじみと思うのは、マスクはしているとすごく楽なのだった。鼻と口が隠れていると、対外関係がすごく楽。たぶんコロナ前の「伊達マスク症候群」という指摘は、その楽さを、「社会において大事なことをサボりやがって!」という意味で糾弾していたわけだが、これからはそれが感染予防という大義名分の下、許される社会になる(客商売などのために透明パネルの飛沫ガードというのがあるようだが、なぜそこまでして鼻と口を見たいのだろう)。それはとても喜ばしいことだと思う(それにしてもこのあたりのことは、トランプ大統領が意地でもマスクを着けないことや、イスラム(の特に保守的なほう)の女性の目しか出さないあの頭巾のことなどを思うにつけ、なかなか文化人類学的に根深い問題なのだろうと思う)。
 というわけで、話はだいぶ長くなったのだが、僕がもしも今後minneに布マスクを出品したらば、それは火事場泥棒や不安商法といったものではなく、Tシャツを売る感覚で売っているのだ、と解釈してほしい。つまり僕は、実際に作って売るかもまだ分からない布マスクのために、ここまで語ったわけである。なんだろうこれは。矜持だろうか。

2020年5月8日金曜日

DAIGOの功罪・味噌汁・あつ森

 官製マスクについてのDAIGOのコメント、「俺にはジャストサイズ」に感銘を受けた、という話をひとつ前の記事でして、あのときは本当に、DAIGOすばらしい、と素直に思っていたのだけど、あれから日が経って、DAIGOと加藤紗里以外の芸能人のところにも官製マスクが続々と届いているようで(岡山県のわが家にはまだ来ていない)、届いたそれを着けては、その姿を撮影してブログにアップし、それを見たファンがコメントで「顔ちっちゃい!」と褒める、というのが定番の流れみたいになっている様を見て、これはよくない、と思っている。心情的にDAIGOのことを悪く言いたくはないのだが、でもやっぱりこれはDAIGOから生まれた流れと言わざるを得ないこととして、官製マスクは今や、「小顔かどうかの判定装置」みたいになってしまっている。政策に対する不満をぶつけてマスクそのもののことを悪く言ってはいけない、それを本当に必要とする人もいるのだから、その人が着けづらい雰囲気を作ってはいけない、ということを前に書いたが、実際にはそれとはまるで別の角度から、一般人が着けづらい空気が醸成されてしまったといえる。
 そもそも官製マスクは、主に子どもが着けるのを想定しているのか(世帯分としては届いていないが、実はそれに先行して別枠で子どもたちが小学校でもらってきた)、わりと小さい。でもこれはそういう意図なんだろう、大人のサイズに合わせたら子どもが着けられないから、子どもに寄せたんだろう、と思っていた。だから大人が着けた状態としては、安倍首相のあの姿こそが正しいのだ、ともいえる。ちょっと大の大人にとっては小さい感じもあるが、そこは子ども寄りのユニバーサルサイズなのだから仕方ない、それを大人はなるべくいいポジションに当たるよう調整しようぜ、大人なんだから、というスタンス。いっっっっさいの(力を込めて)説明はないが、そう解釈してやるのが良識のある大人というものだろう。そこへ、もちろんDAIGOはDAIGOで、悪評ばかりが目立つマスクの擁護として言ったわけだが、「小さいなんてことはない」という発言が出てしまった。これで本当に話がややこしくなってしまった。
 しかしこの混迷する状況には、大きな商機が隠されていると思う。ガーゼが手に入れば、という前提だけど、官製マスクの作りはそのままで、実はふた回りほど大きく作ったものを売ればいいのである。「小顔かどうかの判定装置」となっている官製マスクの、シークレットシューズみたいなバージョン。これを着ければ、別にぜんぜん小顔ではないあなたも、「#俺にはジャストサイズ」。たぶんすごく売れると思う。でも官製マスクは出品禁止か。

 昨日「ケンミンSHOW」を観ていたら、大阪特集の中で、大阪では一般的な和食の献立の際、左手前にごはん、右手前にメインおかず、そして左奥に味噌汁、というふうに配置をする、という話をしていて、とても驚いた。いわれてみたらそのほうが、「左手前にごはん、右手前に味噌汁」よりもよっぽど合理的だ。ごはんと味噌汁には、「椀を左手で持ち上げて食べる」という共通点があり、おかず皿にはそれがない。だとすれば、椀を持ち上げる必要のあるそのふたつを左に置くのは理に適っている。逆にいえば、味噌汁を右に置くのはなんの理にも適ってない。それだのに僕はこれまでの人生で、せっせせっせと味噌汁を右に置き、子どもたちにもそうしつけていた。なんと不見識だったことか。食事に関する不見識といえば、以前どこかで、「箸なんて形状の道具が、物を突き刺して食べることを想定していないはずがない」という文言を目にして、それもそうだ、と目から鱗が落ちたことがあった。日常の中に不見識は溢れている。不見識は、不見識であるがゆえに、不見識な状態のさなかにある間はそのことを認識できない。だからその蒙が啓かれるとすごく驚きがある。ファルマンにこのことを話し、「だからわが家はこれから味噌汁は左奥に置こう」といったら、「あなたってわりと影響されやすいよね」と呆れられた。柔軟といってほしい。

 外出自粛の影響もあり、「あつまれどうぶつの森」が大いに売れているという。義妹たちもやっているようで、ゲーム画面を見せてもらったのだが、僕にはどうにもあのゲームの魅力が理解できないのだった。そもそもあれをゲームといっていいのだろうか。あれは要するに、このコロナ禍で精神が参った人たちがすがる、箱庭療法みたいなものだろう。なんかあの世界に横溢する、空虚な明るさみたいなものが、傍から見ていてとても恐ろしく思える。あの世界に浸ったあと、現実のコロナのニュースを見たら、落差で余計につらくなるのではないだろうか。心配だ。ウザいおっさんだな。

2020年4月30日木曜日

肌着・DAIGO・パン祭り

 Tシャツの季節がやってきた。去年の夏の終わり(といっても10月になんなんとしていた)、あんなにうんざりしたTシャツが、半年置けばこうも喜ばしい。もうネルシャツもカーディガンも着たくない。Tシャツばかりをひたすら着たい。
 しかも今年は、いい体になった&オリジナルデザインTシャツがある、というふたつの要素まで加わっているので、ますますTシャツライフに胸が躍る。先日ファルマンが衣替えをやってくれたのだが、見てみたら自分の保持しているTシャツの多さに驚いた。ひと夏、毎日ちがうTシャツで生きていけるんじゃないか、というくらいある。いつの間にこんなことになっていたのか。
 しかしTシャツの充実に対して、Tシャツの下に着る肌着のことがいつまでも解決しない。基本的にタンクトップを着ているのだが、白いTシャツだとタンクトップが透けて不格好だ。それとTシャツを最近タイト気味にしているので、肌着も体にピタッとしたものにしたいのだが、そうすると丈も短くなって、裾がボトムスから出てしまう、という問題もある。これを解決するためには、昔の女の子が着ていたような、ちょっとしたワンピースくらいの丈があるキャミソールみたいな、あんな肌着が必要なのではないかと思い、ファルマンに「あれはなんていうんだろう?」と訊ねたら、「たぶんシュミーズだけど、えっ、なにシュミーズ着んの?」と警戒された。シュミーズ着ねえよ。大胸筋鍛えてシュミーズ着てたら、そんなのもう絵に描いたような変態じゃないか。

 小さいと不評の官製マスク(「アベノマスク」という言い回しは、はじめに聞いたとき、上手いと感心したが、しかし誰かが発案したジョークであって、正式名称ではないし、みんなでそのジョークを繰り返すのもどうかと思う)だが、このたび家に届いたというDAIGOが、「俺にはジャストサイズ」とSNSに投稿し、その素敵な振る舞いに賞賛が集まっているという。たしかに素敵だ。外出自粛のストレスや政策への不満もあって、人々はついマスクのことを攻撃してしまいがちだが、DAIGOはその状況を逆手に取った。「みんな、文句言うなよ! せっかくもらったんだから受け入れようぜ!」じゃ誰も耳を傾けない。みんな小さいっていうけど、俺にはちょうどいいサイズだったぜ、ということで、もう誰も小ささのことをいえなくなった。だってそれはつまり自分の顔がでかいことを喧伝することに他ならないからだ。素晴らしいな。とんちだ。
 この話で思い出したのは、前にも書いたが、ショッピングサイトの、ペニストレーニングの器具とか、コンドームとか、あるいは水着とか下着とか、そういう商品の購入者レビューには、必ず「俺にはちょっとフロント部分の設計が小さすぎた」という内容がある、という例の話だ。世の中に絶対はあまりないが、これは絶対にある。男性器をはめる系の商品には、絶対に「俺には小さすぎ」といっているレビューが存在する。疑うなら試しに見てみたらいい。
 それが今回のDAIGOのマスクに関するコメントとどう関連するのか、といわれると、まあ連想したというだけで、そう関連しているわけではない。ちなみに炎上商法で知られる加藤紗里は、各家庭に2枚ずつ配布されるこのマスクを、「ナイトブラにした」といって実際に乳房に装着した写真を公開したらしい。この話もまた、関連する、ようで関連しない、ようで関連する、ような感じだ。それでもちんこと乳房なので、ちょっと近づいた感はある。ちなみにその写真は見ても仕方ないのでもちろん見ていないが、たぶん装着した様は、いわゆる眼帯ビキニのような感じになるんだろうと思う(眼帯ビキニっていわれても一般の人は画が浮かばない気もするが)。そこまで考えてさらに連想するのは、ちょっと前に僕がTwitterで詠んだ短歌、「昨今のマスク不足にグラドルがビキニの寄付を申し出るなり」だ。予言だったのかもしれない。

 4月30日ということで、ヤマザキ春のパン祭りが終わる。世の中ではほとんどの春祭りが中止だったが、この祭りだけは今年も無事に開催された。ここ数年、わが家でも毎年何枚か皿を獲得していて、今年も2枚分(今年は少なめ)の点数がたまった。それで交換をしようと思うのだが、しかし東京ほどの深刻性はないにせよ、不要不急の外出をしないとか、ソーシャルディスタンスとか、スーパーの店員さんありがとう、などと叫ばれているこのご時世に、パン祭りの皿の交換って、もう不要不急中の不要不急みたいな行動であるような気がして、なかなかその気になれない。別に皿のためにわざわざ赴くわけではなく、スーパーへは日々の必需品を買うために行くのだから、そのついでにサービスコーナーに立ち寄るのは、そこまで見識のない行為でもないだろうとも思うのだが、しかしやはりどうしたって間が抜けている。そもそもこの、0.5刻みのシールをせせこましく25点分数えて貼った用紙を提出して皿をもらうという行為は、いつだって基本的に間が抜けているのだ。絶対にかっこよくはキメられない行為なのだ。それが今年はさらに時世的に苦境に立たされている。そのハードルはきわめて高い。しかしせっかく50点も集めたのだから放棄するという選択肢はない。交換期限は5月10日までだ。意外と短いな。

2020年4月28日火曜日

移住・モワーッ・THIS IS US

 別にいま住んでいる土地に不満は持っていないつもりなのだが、とても魅力的な島を見つけたので移住したくて仕方なくなる、という夢を見た。
 その島は瀬戸内海にあり、広島県に所属する。それに関し、広島県かー、岡山県ならよかったのになー、と夢の中で思ったのを覚えている。しかし具体的にどう魅力的だったのかという、肝心な部分をあまり覚えていない。なんかの用事で僕は実際にその島に上陸し、そこである一家と知己を得た。その一家の感じがとにかくよかった。そしてその家の主人は、島ではそれなりに顔の利く人物であるらしかったので、移住するにあたってそのことはとても頼りになるだろう、ということを夢の中で算段した。夢らしく、変なところが曖昧で、変なところがやけに細かい。
 しかし移住となると自分ひとりの問題ではない。僕は普段、夢の中では家族を持たなかったり、それどころか自分が自分でさえなかったりもするのだけど、今回の夢はその点がとてもリアルで、島への移住の欲求にひとり焦がれつつ、しかしファルマンは絶対に嫌がるだろう、それをどう説得しようか、ということを必死に考えていた。夢の中なのだからもっと自由に振る舞えばいいのに、妻の反応を気にするだなんて不憫なことだ。もう尻に敷かれている状態で人格が形成されてしまっているのかもしれない。ファルマンが懸案するだろうポイントは聞かずとも分かっていた。利便性(商業施設や医療機関など)と子どもの教育環境だ。でもなにぶん夢の中の理想の島なので、調べてみたらその点も問題なかった。島は最初に思っていたよりもだいぶ栄えているようで、人口も多く、島内で完結するレベルのしっかりした社会基盤があり、ショッピングセンターなんかもあるようだった。これならファルマンも受け入れてくれるかもしれない、と僕は安心した。
 そのあたりで目が覚めた。目覚まし時計が鳴る30分前だった。起きたのだから、今まで見ていた情景は夢だったわけだが、起き抜けの頭に、理想の島に出会った興奮も重なり、じゃあこの30分であの島についてインターネットでもっと情報を集めよう! などと思った。しかしその溌溂さも一瞬のことで、すぐに、あれ? いまの夢だったんじゃね? という疑念が生まれてしまい、それにネットで調べようにも、僕は移住しようとしていたその島の名前さえ知らず、そのことに気付いた瞬間、感動したはずの島の風景もサラサラと幻の向こうへ消えていった。なんだ、夢だったのか……、と切なくなった。
 あとからウェブで検索した結果、広島県に所属する瀬戸内海の島でまあまあの規模となると、因島、倉橋島、江田島あたりが該当するようだ。いつか行ってみたい。GWは行けない。

 政府広報による「密を避けよう」のコマーシャルで、人の口から発せられるウイルス的なものが、小林製薬のブレスケアみたいに、なんかモワーッとした煙のようなもので表現され、他人と集うということはそれだけ互いの身体から出たものを吸い合うことなんだよ、だから新型コロナウイルスが流行っている今は密を避けようね、ということを伝える、というものがあるのだが、あれってもう「流行っている今は密を避けよう」どころの話じゃなくて、そこを気にしだすと日常生活に支障を来すからこれまで目を逸らしてきたけれど、他人と狭い空間に一緒にいるのってめちゃくちゃ気持ち悪いじゃん! 他人の口から出た、餃子を食べたあとの口臭みたいなモワーッとしたやつを体の中に入れるってことなんじゃん! と、もう一生だれとも近い距離で接したくなくなった。タバコの煙っていうのは、もちろんにおいとか有害物質とかもあるけれど、あのようなCGを使わずともモワーッとしたのが可視化されているから、人の吐いたものを吸うことの気持ち悪さを嫌でも痛感させられ、だから忌み嫌われてどんどん排斥されたんだと思う。それが今後は、ただの呼吸でももうだめだ。タバコを吸っていなくても、誰の口からも、モワーッとしたやつが出るのが見えるようになってしまった。なんて生きづらいんだ。もう友達とカラオケに行くのも控えようかな……。

 「THIS IS US」のシーズン1を観終える。18話。観始めたのは何ヶ月か前で、途中で停滞していた期間があったのだが、最近になってprimeにシーズン2も追加されたので、そう意識していたわけではなかったのだが、どうやら僕はそれで安心して、シーズン1を観終えることにしたようで、それからこの10日間くらいで後半をわりとハイペースで観た。とてもおもしろかった。
 途中でも書いたが、36歳という年齢のこともあり、主人公たちに感情移入しやすく、そうしてアメリカ人に感情移入ができる、ということに驚いた。主人公のひとりが、婚約者のことを人に話すとき、「フィアンセ」という言葉を使ったあと、「フィアンセだなんてフランス人みたいで照れる」という場面があって、そうなのかー、と思った。フィアンセという言葉はアメリカ人にとってもそうだったのか。そんなふうに、わりとおんなじなんだな、と思うこともある一方、きゃつらは街中はもちろん親の前でも恋人と口でチュッチュチュッチュしたりするので、そこはやっぱり大いに違う、などとも思った。
 とてもおもしろく観終え(ラストはびっくりするくらいシーズン2に続くだけの終わり方でしかなくて驚嘆したけれど)、そのあと最終話のあとの特典映像、客を入れたホールでの最終話試写会のあとの舞台挨拶みたいなのも見た。そこに現れた出演者たちは、なにぶん18話を愉しく観賞した愛着があるので愛しかったが、しかし大成功したこのドラマがどれほど素晴らしかったか、どうしてこんなに素晴らしいものになったかを、互いにどんどん褒め合うので、さすがにだんだん鼻についた。僕の「自分が所属している集団に誇りを持っているタイプの人間が嫌い」センサーから出たビームが、18話分のキャラクターへの愛情というフィルターを突き抜けたのを感じた。
 でもシーズン2も愉しみ。愉しみというかもう観始めてる。

2020年4月18日土曜日

間寛平・マスク・健康診断

 星野源と安倍首相のコラボ動画の件で、みんないろんな理由で憤っていたが、その中で間寛平のコメントがとてもよかった。間寛平はあの動画を見て「がっかりした」のだという。なぜか。「安倍さんは家ではマスクを作ってるかと思ってた……」間寛平はそういったのである。すばらしくないか。これはもちろんボケなのだけど、なんとキュートでおしゃれなボケだろう。星野源と仲間たちが謳歌していたが、安倍首相の登場で一瞬で蒸発してしまったおしゃれさが、巡り巡って間寛平に集約した形だと思う。吉本の大御所といえば、去年の吉本の闇営業とかの騒動(なんと平和な時代だろう)の際、リポーターの「いま吉本興業にいいたいことは?」と訊ねられた池乃めだかは、「背が高くなる薬を作ってほしい」と答えたそうで、それも当時とてもいいと思った。芸人が他のコメンテーターと一緒に眉をひそめ、同じようなことをいってもなんの価値もない。中世の王様の傍にいたピエロのように、奇矯なことをいうのが彼らの役割だろう。芸人かくあるべし、という姿を見た。

 相変わらず不織布のマスクは流通しないが、しかし不織布のそれは布のマスクよりも防御力が高いというのなら、医療現場や、小売店や、あるいは電車で通勤しなければならない人が優先的に手に入れて着ければよく、僕のような田舎でマイカー通勤して日々いつもと変わらない面子で働くような人間は、そんなものを必死に購おうとしなくてよいのだと思う。布マスクをたっぷり作った余裕もあり、そんなふうに思う。
 しかしドラッグストアなどには並ばないが、ある所にはあるようで、楽天でこれまでに利用して登録していた店(それもドラッグストア系ともぜんぜん違うような店)などから、「不織布マスク入荷しました!」なんてメールが届いたりする。そしてそれらの値段といえば、これまでよりも大袈裟じゃなく10倍くらい高い。今まで50枚入りで500円しなかったのが、3980円とかするのだ。そういうのを見ると、とても気分がクサクサする。メルカリなどでの転売屋を世間はあんなに批判したのに、悪質さの程度がちょっと違うだけで、やっていることはぜんぜん一緒じゃないか。そしてやっていることがぜんぜん一緒という意味では、戦後の闇市とも一緒だ。
 ところで今週末からいよいよ政府謹製の布マスクが配られはじめるらしい。マスク配布て、というそもそもの行為に対する批判や、配られるマスクが微妙に小さいこととか、とかく評判の悪いこの施策だが、しかし届いたマスクで遊んだりネタにしたりすることは絶対にしてはいけないと思う。どうも最近はTwitterやYouTubeで、倫理観のない輩がそういうことをしそうな気配がある。市販のマスクがどうしたって手に入らなくて、その布マスクを使わなければならない人も世の中にはたくさんいるのだ。そういう人たちが、そのマスクを着けにくくなるような揶揄だけはしてはいけないと思う。

 今年の健康診断の結果が返ってくる。
 これが、めっちゃよかった。
 なんてったって、なんてったって、去年までの僕とは別人である。今年に関しては、健康診断の直前だけめちゃくちゃ節制した、なんてことは特にないのだ。それなのにナチュラルにいい数字。つまりマジで健康な人になったのだ。
 別にこれまでも、全体的に惨憺たる有様だったというわけではない。僕の健康診断は、要するに肝機能の数値の診断ということになる。毎年それに引っ掛かって、「要精密検査」という紹介状在中の封筒を結果と併せて渡されていたのだ。それが今年はなかった。いつもネックとなるγ‐GTPの値が、17年159、18年134、19年106と来て、今年はとうとう59となった。59! 50までが正常値とされるので、そこからは若干オーバーしているが、ぜんぜん問題視されるようなオーバーじゃない。日々酒を飲んでこの数字なら万々歳だろう。
 この結果の要因は、別に厳密な取り決めをしたわけではないがそれなりに休肝日を設けたことと、あとはなんといっても運動だろう。なにしろそれまでまるでしてこなかった運動をするようになったので、僕の身体には伸び代しかなかった。逆にいえば、これまでは伸び代をまるで広げることなく畳んでいたということだ。じゃあもう別人だ。広げてみたら、それは伸び代どころではなく、プリーツみたいになっていたんだ。僕は本当はこんなに健勝で壮健な人間だったんだ。もう東京時代の人間と会っても、誰も僕のことに気づかないかもしれない。寂しいよ……。

2020年4月10日金曜日

入学・干支4コマ停止・カナリア

 ピイガの入学式が執り行なわれる。行なわれたのだ。行なわれてよかった、と思う気持ちと、行なうのか、という気持ちがせめぎ合う、たぶん関係する誰の心においてもせめぎ合っていた、そんな式だった。もちろん全員マスク着用で、窓は全開。陽射しの届かない体育館内はひどく寒かった。内容ももちろん短縮版で、来賓の挨拶などは一切なし。これは卒園式もそうで、なによりだと思った。疫病とか関係なくいつもぜんぜん要らない。
 あと印象に残ったところでは、担任紹介の際、教員ももちろんマスクをしているのだが、しかし「3組、ナンヤラ先生」と紹介されたときだけは、さすがにマスクを外して顔を見せていて(もちろんマスクを外した状態では喋らず、そしてまたすぐに着け直す)、紹介された人はマスクを外すというその流れが、仮面を外して次々に正体を現す悪の軍団のようでおもしろかった。たぶんその中には、てっきり死んだと思っていたかつての親友なんかもいるんだろうと思う。それと上級生からの言葉、校歌紹介のくだりでは、いったいどうするんだろう、いちばん歌の上手い子がソロで唄うんだろうか、などと考えていたら、なんと音声テープだったので、なるほど、と思った。でもその場にいない少年少女の声だけが響き、誰もいない壇上のほうを全員で眺めている情景というのは、ずいぶんシュールな感じで、でもやっぱり笑ってはいけない感じもあり、そわそわした。もしかしたらそのうち蝶野正洋が現れ、校長先生をビンタするのではないかと思ったが、そんなことはなく式は終了した。「ピイガの入学式はちょうど……」と、後々語り草にしやすい入学式だな、と思った。かくしてピイガは小学生になった。あのちっちゃい子が嘘だろ、という気持ちが拭えないし、始まった小学校も完全な形での登校とはならないようで、そういう意味でも嘘だろの疑いがあまり晴れず、なんとなくモヤモヤする。

 干支4コマが完全に停止した。タイトルデザインに東京オリンピックの幻のロゴを(モチーフとして)採用し、オリンピックを意識して急遽はじめた今年の干支4コマだったが、コロナの深刻度が増し、オリンピックの延期が発表になり、緊急事態宣言が発令されるという、刻一刻と状況が変化する中で、すっかり身動きが取れなくなってしまった。まあ全12話の、ちょうど半分までが終わったところなので、後半はまた年の終わりにやろうと思う。2020年という年を冠に据えた4コマを、この4月時点で完結させてしまうのは、どうしたって無理がある。後半、ちゃんとのどかに笑えるようになっていたらいいなと思う。ちなみに作中において「今年の干支漫談は初の無観客開催だ」というネタがあったが、たしかに3月の時点では、無観客開催だったのである。しかし大相撲がそうであるように、もう事態は無観客ならいいという段階を超えてしまった。だから連載も中断する。今年の干支4コマは現実とのリンクがすごいな。

 換気のために窓全開の入学式において、僕の鼻水はズビズバ溢れ出て、ずっとティッシュで鼻をかんでいた。その様子をあとからファルマンが笑い、「あなたってちょっと布団の上げ下ろしをしてもすぐに鼻が止まらなくなるし、本当に敏感だよね」といじってくる。それに対して少しムッとした僕が放った、「俺は鼻の中にカナリアを飼っているんだ」というフレーズが、我ながらちょっとおしゃれだと思った。鼻炎のことを、これからは鼻カナリアと呼ぼう。

2020年4月7日火曜日

sjk・低脂肪乳・過ぎたるは及ばざるがごとし

 Twitterのフォロワーとかがぜんぜん増えない。ほぼ毎日、せっせと短歌などをアップしているというのに、ほぼ反応がない。反応なんてなくても気にしない、というスタンスでは決してやってないのだ。そもそもそんなスタンスだったらTwitterでやってない。いいねとかリツイートとかされて、たくさんの人に褒められたくてやっているのだ。なのに一向にそんな兆候が見られない。話がちがう、と思う。誰となにを話したわけでもないが、なんとなくそんな気持ちがある。そこで人気を獲得するためのマーケティングとして、人気のあるTwitterユーザーの傾向を探ってみることにした。
 そしてその結果、ひとつの真理に到達した。これはとても商業的価値のある真理である。しかし僕は出し惜しみなどしない。さらりと記す。
 女子高生は人気がある。
 これが真理である。結局のところ、女子高生なのだ。女子高生ならばなにを書いたっていいねとかリツイートとかされるし、女子高生じゃない人間がなにを書こうが女子高生じゃないという時点で得られる名声はたかが知れてる。
 だから僕も女子高生になろうと思う。これまでプロフィール欄には「ウサントタッバ!!」とだけ記していた。これがいけない。ウサントタッバの意味が、「出ていかないと殺す」であるということ以前に、とにかくこれでは女子高生じゃない。この時点でアウトだ。
 だからこれを「私立ウサントタッバ学園2年生」とする。さらには、「おっぱいがおっきすぎるのが悩みのタネ……」とも続ける。これでいいねもリツイートも爆発するはずである。ちなみに今日ツイートした短歌は、「一センチ、一ミリ先を追求す俺のチンポのアスリート性」です。これをsjkが詠んだのだと思うと、逆に興奮して、いいねボタンが連打されるのも必定だすな。

 最近スーパーやドラッグストアで売っている低脂肪乳で、紛い物みたいなのが売られているじゃないか。あれがとても嫌だ。どう紛い物かといえば、一般的な低脂肪乳が、その名前から想起(期待)される通りに、他の成分は牛乳(生乳)と遜色ないまま脂肪分だけがカットされているものであるのに対して、最近目にするそれは、たんぱく質などの必要な成分までもが半分くらいの度合になっているのだ。それでは意味がない。意味がないし、そんなに成分が薄いのに牛乳テイストということは、逆に要らない成分がいろいろ加工されているのだろうなあ、と嫌な気持ちになる。それなら買わなければいい、という話であり、実際に買わないわけだが、それで済む話ではない。なぜなら、「低脂肪乳」ということでそれだけしか陳列していない店の場合、ちゃんとした低脂肪乳を求めて、わざわざ別の店に行かなければならないからだ。そんなことが頻繁にあり、とても不便している。さらに近ごろ頓に、正規の低脂肪乳からその手の偽低脂肪乳へ乗り換える店が増えてきていて、問題の深刻度は日々増してきている。おそらくだが、たんぱく質などの成分が半分くらいになっているということは、生乳に対してそれだけ水増ししているということで、普通の低脂肪乳より原価が安いのだと思う。そして原価が安い分、仕入れ値も安いわけで、店としてもそちらを選びがちなのだと思う。しかし思うのだが、牛乳ではなく低脂肪乳を選ぶ輩というのはもうその時点で、これは僕がユーザー自身であるという立場から少し口幅ったいのだが、「意識が高い」わけじゃないか。成分表の数値とか、気にした上で低脂肪乳を選んでいるわけじゃないか。その輩を相手に、数値が脆弱な製品を投入しても、忌避されるだけで絶対に受け入れられないはずだ、と思う。メーカーおよび小売店には、ぜひこのことをご一考願いたい。社会的影響力のあるブログからの発信です。

 ちょっと前、なにかの折にエロ小説を大量に仕入れたのである。お前その歳になってまだ買うのか、という話で、いや、それはまあ、買うといえば買うわけで、キャンペーンなどでお買い得で手に入るとなると、それはもう喜び勇んで大量購入したりしたわけである。それで、手に入れたそれらを、唯一許された保管場所、ベッドの下の引き出しへと詰め込んだ。それはもう「詰め込む」という表現がぴったりの詰め込まれ具合で、もともと満員に近かったところへさらに大量に新しいメンバーが乗り込んできたものだから、引き出しはいよいよパンパンになった。そしてパンパンになったら、もう全体の見通しが立たなくなって、どんなものがあるのかも気軽に確認できなくなり、ふいにある1作品を思い出して、あれを読もうと思ってもとても発掘できなくて、結果的にパンパンになる前よりも、エロ小説との間に距離ができてしまった。過ぎたるは及ばざるがごとし、ということをしみじみと痛感しました、というエピソードでした。

2020年3月26日木曜日

延期・アスリートファースト・ロゴデザイン

 オリンピックの延期が決まった。ようやくだ。その前にたっぷりと、「延期する以外ありえないだろ」という空気を蔓延させてからの発表だったので、世間はこのことをとてもなめらかに受け止めた感じがある。さまざまな利権が絡んでいるため誰もバシッとしたことがいえない組織構造、なんてことがいわれていたが、結果的にこのなめらかさを目の当たりにすると、ここまで引っ張ったことは、巧妙な手法だったんじゃないかという気もする。オリンピックが延期って、100年以上の歴史で初めてのことだそうで、わりととんでもないことなのに、我々はそれをスーッと染み透るかのように自然に受け入れてしまった。
 しかし1年延期。もう1年以上前からだいぶどうでもよくなってきていたオリンピックが、ここからさらに1年延期。ほとほとうんざりする。1年延びたということは、オリンピックに対して我々は、いまから1年前の状態に再び舞い戻ったということである。そしてそれはもう既に経験しているため、よく知っている。「来年のオリンピックに向けて」の話題が、どれほどしつこくて辟易するか。
 もっともいうまでもなく、純粋に1年前にリターンしたわけではない。2巡目の今回はそこへ、「見通しが立たないコロナの収束」と、「延期によって発生するさまざまな問題」までが付与される。そしてずっと騒ぎ続ける。
 以前母が、子どもたちが10歳前後から20歳前後になるあたりの期間を指して、「私に40代は存在しなかった」という表現をしたことがあり、(じゃあ俺はいったい誰と10年間暮していたのか……)と思ったことがあったが、どうもこれから1年半くらいは、日本のみならず世界の人々にとって、「ほとんど存在しない」日々になりそうな気がする。今回の発表で、その日々がとてもなめらかに始まったのだと思う。

 1年間の延期に関して、アスリート本人がいっているのを聞いたことがないので、アスリートそのものに対して義憤を抱いているわけではなく、ふた言目には「アスリートファースト」などと唱える謎の輩が、これについてもたぶんいっているので、その謎の輩のことを糾弾したいのだが、あの「アスリートは今年の夏に照準を合わせて調整をしてきたのでそれが変更になるのは非常に困難だ」という論調、あれはいったいなんなんだ。オリンピックに出るようなトップアスリートの調整はよく知らん、よく知らんが、7月の本番にピークを持ってくるために、3月時点でそこまでガチガチに行動を定めているような、そんな人間がいるとは思えない。もちろん日々の鍛錬はあるだろうが、試合当日にピークを持ってくる調整は、せいぜい3週間前くらいからでいいだろう。実際そんなもんだろう。どうもアスリートのストイックさをやたら神格化したがる層というのがいて、彼らはとにかくアスリートのことを崇拝しているため、スポーツをしない人間が下手なことをいうと、烈火のごとく怒る。アスリートに対して失礼、ということをすぐにいう。お前らにとってアスリートは尊い存在なのかもしらんが、体を動かすのが得意であることを尊敬につなげない価値観の人間もいるのだ。逆になぜ体を動かすのが得意だという程度の人のことを褒めそやさなければならないのか。もっともこれはアスリートに限ったことではなく、アーティストと呼ばれる人の周りにもまったく同じ感じの人々がいて、要するにその正体は「ファン」である。ファンというのは本当に恐ろしく、理解ができない存在だ。

 この期間において、しれっと「干支4コマ 2020ねずみ」を開始していた。やるなら今だな、と思って見切り発車でスタートさせたのだった。正月にアップをしなくなって以来、その年に起った時事ネタを含ませるのも常套手段となっていたが、ここまで現実世界に対してタイムリーに取り組んだのは初めてのことである。いま6話目までを投稿したところで、ここからオリンピックの話に入っていくつもりだったのが、ぼやぼやしているうちに延期が正式に発表になってしまい、すっかりタイミングを逃した。今年はタブロイド紙並みのタイムリーさを売りにしようと始めながら、いちばん大事なタイミングを逃してしまい、なんだかとてもホワイトキックな気持ちだ。あと6話、どうしたものか。
 まあそれはそれとして、今年は「ETO YON COMA」のタイトルデザインがとてもうまくいったので、もうそれだけでだいぶ満足している。ゼロから作ったオリジナルのデザインで、なかなかセンス良く仕上がったのではないかと自画自賛している。
 と、逆にいまそれをイジる人間がいるのか、と我がことながらなかなかに驚いている。このタイトルデザインを作るにあたり、くだんのデザインについてネットで検索をしていたら、「ロゴがパクリだったなんてありえない! こんなオリンピックはもう中止にするべきだ!」と怒っている人がいて、ああ、5年前にこの人の意見を聞き入れて中止にしていたらこんなことにはならなかったのにな……、と思った。ロゴデザインがパクリだった程度のことでオリンピックを中止にしろだなんてあまりに乱暴な意見だと思われがちだが、どっこい素晴らしい慧眼だったと今ならいえる。

2020年3月14日土曜日

共学・エルドアン・パラ

 毎度おなじみコロナの話題。WHOがこのたびとうとうパンデミックを宣言したのだった。そして感染の中心はアジアから欧米へと移動したらしい。特にイタリアでは死者が千人を超えたとか。なぜイタリアか、という理由はいくつかあるようだが、その中でたぶんいちばん信憑性の低い、「イタリア人はスキンシップが多いから」という説が、心に突き刺さった。その説が成り立つのならば、もしもこの国で一斉休校の対策が取られなかったとしたら、コロナは共学高校からまず流行りはじめたことだろうなあ、と思った。そうファルマンにいったら、「あなた高校が共学じゃなかったことを引きずり過ぎ」と呆れられた。引きずり過ぎもなにも、一生背負っていく所存だ。

 世界中でスポーツの大会やリーグ戦が中止になっていて、もはや今夏の東京オリンピック開催は風前の灯状態だ。立場上「やるに決まってんじゃん!」というほかない、都知事や組織委員長の言葉が、とても哀しく聞こえる。これはもう負けが決まっている戦争の、しかし逃げることは許されない指揮官のそれだ。本当はもうみんな判ってる。こんな、ギリシャでの聖火リレーが中止になったような状況で、4ヶ月後にオリンピックができるわけがないってことくらい。それでもさすがに中止にはしないようなので、延期になるわけだ。うんざりだな。こっちはもう数ヶ月前から、もうオリンピック飽きた、本当にどうでもいい、一刻も早く終われ、と思っているというのに、ここからさらに1年とも2年ともいわれる延期。この悪夢の狂騒曲はまだまだ続くのだ。
 そんな折、コロナ対策として握手などの接触をしない代替案として、トルコのエルドアン大統領が、これまでならば相手と握手をしていた場面で、自らの胸に手を当てて、「コロナ!」と唱える、というパフォーマンスをしていた。これは、だいぶ考えた末にこういう結論に至ったのだろうということが窺え、評価したい気持ちもあるのだけど、やっぱりどうしても、結果的にコロナ教の信者みたいになってしまっているため、浸透しないだろうと思う。そこはかとなく、はしゃいでる感もある。
 そしてこのはしゃいでる感で思い出したのだけど、トルコといえば、東京とイスタンブールとで、2020年のオリンピック招致で最後まで争った国だったではないか。なんか争ってたのにやけに友好的で、東京に決まったとき一緒に喜んでくれたとか、当時そんな報道があった。それで検索してみたら、「Tokyo」が告げられた瞬間、安倍総理のもとに駆け寄って抱擁して祝福した人物こそ、当時首相であったエルドアン現大統領その人だった。それを知り、なるほど、と膝を打った。はしゃいでる感、ではない。本当にはしゃいでいるのだ、エルドアン大統領は。あのときもしもオリンピックがイスタンブールになっていたらと考えたら、そうではない今の状況が嬉しくて仕方ないはずだ。ああよかった、日本が貧乏くじ引いてくれて。

 というわけで、もう表面張力がいつ弾けてもおかしくない、今夏のオリンピックなのだけど、この事態になってからの、「オリンピックはどうなる」「オリンピックはできるのか」という話題に接して思うことは、これまで大きな問題がなく予定調和に事が進んでいる間は、「オリンピック・パラリンピック」と、絶対にふたつをセットにして呼称し、オリンピックだけが大事なんじゃなくてパラリンピックもちゃんと注目してますよ、差別しないですよ、興味ありますよ、ということをアピールしていたのに、非常事態になったらもう、化けの皮はものの見事に剥がれ、人々の口からはパラリンピックのパの字も出てこない、ということだ。いや、解ってはいたのだけど。しかしまあ、いざとなったらこうもあからさまに、パラリンピックは意識の埒外に置かれるのか、と驚く。これまでだって別に信じてなんかなかったけど、マスクの転売やトイレットペーパーの買い占めなんかも目の当たりにして、しみじみと、良識なんてものは本当に、人間社会の、それも恵まれた地域の人々の、安定した暮しの中に時おり発生する、オーロラのように希少で尊いものだったのだな、と思った。

2020年3月13日金曜日

インターネット・いい体・スパゲッティ

 職場で休憩時間にタブレットを操作していたら、後ろに立っていた婆さん(職場には婆さんがたくさんいる)が、「それってなんでもできるの?」と訊ねてきたので、「なんでも……?」となる。それで返答に困っていたら、婆さんは重ねて「なんでも」といってくる。依然として問いかけの意図が掴めないが、「インターネットができるだけですよ」ととりあえず答えた。そうしたら婆さんは「はあ。インターネットね……」とふわっとした反応なので、「インターネットしないんですか?」とこちらから訊ねると、「ないない。ぜんぜんしたことないの」という答えだった。へええ、と思った。インターネットにまるで触れずに生きてきた人を、ずいぶん久しぶりに見たかもしれない。それはいまどき、かまいたちのネタにあったような、となりのトトロを見たことがない人よりも、はるかに希少価値があるのではないかと思った。インターネットの普及前と後では、パラダイムシフトが起っていて、だから知ってしまった後の我々は、もう前の世界の状態を正しく捉えることができない。この婆さんには、もはや我々がどうがんばっても見ることのできないその世界が見えているのだ、と少し昂揚した。ただし婆さんは続けて、「インターネットってあれでしょ。悪口が広まるやつでしょ」といったので、なんのことはない、インターネットのことを完全に知らない人ではぜんぜんなかった。とてもわかりやすい偏見を持っていた。

 コロナのあおりを受けて、ジムにもプールにもサウナにも、もうひと月以上行っていない。そもそも公共のジムなんかは閉鎖されているし、プールやサウナは開いてはいるが、なんとなく足が向かない。なにもこのさなかに行かんでも、と思い自重している。自粛ではない。なにか大きなものにおもねっているわけではない。自らの意思としてそう選択してるのである。とはいえそのため、なんとなく発散できていない感じがある。
 思えばこの1年ほどでずいぶんとアクティブな人間になったものだ。きっかけは1年前の健康診断に向けての対策だった。それで運動不足の解消としてプールに行きはじめたのが、この肉体改造に勤しんだ1年間のはじまりだった。
 先日テレビに氷川きよしが出ていて、箱根八里の半次郎を唄うにあたり、半次郎の恰好をしていた。去年末からの氷川きよしの姿を見ているので、「これは氷川きよしにとって男装ということになるのだろうか……?」などと思案しながら眺めていた。それを一緒に観ていたファルマンが、「あなたってまだ女装願望があるの?」と訊ねてきたので、「もちろんある」と即答した。「ワンピースとか着たいよ」と。すると「そのわりに体を鍛えてるじゃない」といってきたので、「それは違う」と反論した。なにがどう違うかといえば、筋肉がついていない体=女性っぽい体という点だ。これは大いなる勘違いで、去年までの僕がそうであったように、筋肉がついていない体というのは、ただのだらしない体という、それ以上でもそれ以下でもないもので、別にぜんぜん女性のそれには近づかないのだ。だから筋トレと女装願望は矛盾しない。これに気づくまでにすごく時間がかかった。

 アメリカのドラマ「THIS IS US」を観ている。ちょうど36歳でこのドラマを観ているというのも、なかなか貴重な経験なのではないかと思う。
 観る人はものすごく観るらしいアメリカのドラマだが、僕はこの作品が初めてで、だからとても新鮮だ。思えばアメリカ人の暮し向きについて、僕はハリウッド映画の印象しか持っていなくて(それだって人生で数本くらいしか観ていないが)、だからアメリカ人というのは、日本人なんかとはぜんぜん違う思考で動く、とにかく激しい、ほとんど違う星の人々のように思っていた。しかしこのドラマを観ていたら、ぜんぜんそんなことなかった。36歳のアメリカ人たちは、僕が普通に共感できることで喜び、驚き、悩んでいた。そのことにとても驚いた。あの人たちと僕は、同時代を生きる、同じ「科」だったのか。
 あと登場人物たちのセリフで、セックスは「セックス」だったし、スパゲッティは「スパゲッティ」だったし、ダイエットは「ダイエット」だった。案外そうなのか、と思った。特に「スパゲッティ」だ。アメリカ人、「スパゲッティ」っていうんじゃないか。スパゲッティはパスタの一種のスパゲッティーニに過ぎずうんぬん、みたいな御託はなんだったんだ。よかったんじゃないか、スパゲッティで。「パスタ」とかいわなくてよかったんだ。なんだ「パスタ」って。いいよもう、あのマカロニの亜種みたいなやつら。あのシリーズ、もう一生食べられなくてもいい。どんなソースだろうと、ちゃんと麺になってる、あのスパゲッティでしてくれればいい。ちなみに僕はスパゲッティを必ず箸で食べる人です(ファルマンからはいつも睨まれながら啜って食っている)。
 今はまだ18話中の7話あたり。ゆっくり観ている。滅法おもしろい。

2020年3月3日火曜日

コロナ・コロナ・コロナ

 コロナで春休み前倒しの一斉休校となり、ポルガの通う小学校も例に漏れず、先週の金曜日で今年度がほぼ終わった。なんとも性急で特異な事態なことだな、と思う。しかし小学校は休校なのだが、幼稚園は休園にならず、そのためピイガは今週も普通に登園している。なんとなくおかしな感じだ。小学生は留守番ができるが幼児はできない、みたいな判定なのだろうか。あまり理屈になっていない。そもそも理屈になっていないという意味では、これまでもこの時世は、女性に対して仕事と出産と子育てと家事というムチャブリをしてきたわけで、その時点でぜんぜん理屈になっていなかったし、今回のことでさらにその理屈は大いに破綻したように思う。わが家にはファルマンがいるので、今回の事態においてもあまり問題はなかったが、じゃあ結局、両親ふたりともが外に働きに出ていかないほうが正解なんじゃないの、ということになる。こうして、いざってときに結局は母親による融通に頼る感じになるんだったらば。

 コロナで買い占めが起っていて、気持ちがくさくさする。買い占めも嫌だし、高額転売も嫌。僕なんて平常の暮しにおいてもだいぶ他者のことを嫌悪しながら生きているのに、こういう事態になるといよいよ世の中に対しての苛立ちが募る。
 たしかに不足は怖い。物資に満ちているように思える現代社会だが、結局は「店に並んでいるもの」で生きているのだな、ということを、今回のことで痛感した。それはかつて自然の中で狩猟をしていた時代と、綱渡り加減はそう変わらないのかもしれない。どこのスーパーに行っても、肉も魚も野菜も売っていなかったら、われわれは10日くらいで飢えてしまう。店に売ってなかったらなんにも手に入らないんだな、としみじみと思った。
 マスクが店頭から消えて久しいが(幸い家にはまだストックがある)、近所のドラッグストアでは、がらんとしたマスクの売り場に石鹸が置かれ、その脇に手書きの、手洗いがどれほど大事か、どうやって洗えばいいかを伝えるポスターが掲示されていた。これはとかく気持ちがマイナスになりがちな今回の出来事の中で、だいぶ救われた。店頭のがらんとした棚というのは、それだけで寂寥感があるので、それを隠す意味でも、そしてマスクを妄信的に求める精神を諫める意味でも、とてもよかった。新聞に投書したいくらいの、いわゆるちょっといい話だ。

 コロナでやはり大相撲の3月場所は、無観客での開催が決まった。大相撲を無観客でやるとどういう感じになるのか、あまり想像がつかない。今週の日曜日が初日。相撲そのものへの興味よりも、その異常事態への興味本位で、チャンネルを合わせてしまうだろうな、と思う。
 その大相撲に関して、不謹慎なのであまり大きな声では言えないのだが、思いついた以上どうしても言わずにおれないフレーズというのがあり、ここに記しておきたい。
 「はっけよーい、濃厚接触!」というのがそれで、「のこった」と「濃厚接触」は「のこ」までが掛かっているので、これはかなり上手いのではないかと思う。決まり手は上手出し投げ。上手出し投げで破皮狼関の勝ち。

2020年2月26日水曜日

オリンピック・カーリング・ヴォルデモード

 コロナ騒ぎが止まらない。サウナでもおっさんたちがコロナの話をしていた。果たしてサウナは濃厚接触的にどうなんだ、という話だが、そこはまあ熱気でウィルスもやられるんじゃないの、よう知らんけども。
 大型イベントは軒並み中止や延期で、とうとう7月のオリンピックの開催可否まで取り沙汰されてきた。最初はTwitterのデマだったのに、なんかここ10日ほどで話がまことしやかなものになってきている感がある。えらいことだ。もう東京オリンピック、本当につらい。シンボルマークのパクリ疑惑とか、新国立競技場のデザイン変更とか、ここまでで既に数多の、どさくさ紛れのひっちゃかめっちゃかがあったというのに、それでもいよいよあと半年でこのうんざり感満載の狂騒ともおさらばだと思っていたら、誰も予想していなかった方向から、リアルに「開催できないかも……」と来た。あんまりだ。あんまりに苦難が多すぎる。野島伸司のドラマか、と思う。それでも開催されれば、「なんだかんだでよかったよかった」となるのだろうが(それはそれでひどい話だが)、これで本当に開催地移転とかになったら、日本はこの7年間くらい、別に出さなくてもよかった恥部をひたすらさらけ出しただけ、ということになる。むなしい。

 大相撲の3月場所が無観客試合になるかも、という話もあり、「笑点」が公開収録中止になったのと同じで、客層が客層なのだから、それはぜひそうしたほうがいいと思うし、この分だと実際そうなる気がするが、それはそれとして、昨日開幕したカーリングの日本ミックスダブルス選手権について、札幌で行なわれているこの大会が無観客試合になった、というのを今朝ニュースでやっていたのだが、それは別にいいだろ、と思った。平日のカーリングの試合である。誰が見るんだ。地球上に7人くらいだろ。観客席カスカス。濃厚接触なし。ああカーリングが憎い。

 コロナ騒ぎで人々がパニック状態となり、もちろんファルマンもパニックになっている。ここ数日で多少は落ち着いた感があるが、10日ほど前あたりはひどかった。昔なら「疫病が流行っているらしいから気を付けよう」でしかなかったものが、現代は情報を得ようと思えば、本当に情報と呼べるものから単なる噂話まで、無尽蔵にいくらでも得ることができてしまうので、頭の中をそれで満杯にしてしまうことが可能で、だから簡単にパニックになるのだと思う。そのうえ閲覧されやすい、リツイートされやすい、すなわち引きのある情報というのは、得てして恐怖心を煽るものであるため、なおさらだ。そしてこの状態になった人と、なっていない人は、完全に別の世界を見ているので、共同生活に齟齬を来す。一方は過敏さを厭い、一方は意識の低さを厭う。だからなにもスムーズに事が運ばなくなる。
 この思いを抱くのは2度目だ。1度目はもちろん東日本大震災の放射能のときである。もっとも放射能とウィルスはぜんぜん違う。放射能に対して人間は(物質は)無力だが、ウィルスはそうではない。健康にしていたら防御効果があるし、もとよりそれ以外に対抗策はない。だから、思いわずらうのが最も悪い。ヴォルデモードという絶対的な悪もおそろしいが、その悪に対するスタンスの違いで対立や排斥をする魔法界もまたおそろしいのである。
 こんな思いを、これからの人生でまだ何度もするのだろうか。そのうち、こういう社会情勢になったときの妻の操縦テクニックも上達するのだろうか。今回、2度目なのにまるで上達していない自分をふがいなく思っている。

2020年2月13日木曜日

映画ハリポタ・よきも・Google

 映画版「ハリーポッター」を、先日最後まで観終えた。観終えた、のだと思う。微妙にあやふやなのは、話の展開がとにかく駆け足だったことと、あと「謎のプリンス」あたりからあまりにも画面が暗かったため、映像を観ているわけではないような気になったからだ。本当に暗かった。もとい、黒かった。黒い画面の中に、少しだけ灰色の部分があって、それが移動することでどうやら人か物が動いているようだと類推する、というような、そんな有様だった。それくらい暗い画面なのだった。ヴォルデモードの復活によって魔法界に暗雲が立ち込め、誰もが絶望感でいっぱいだ、というのは解る。でもその絶望感を、画面の暗さで表すのはどうなのか。小説でいうならこれは、怪談などでおなじみの、なんという名前のフォントかは知らないが、血で書かれたみたいなあれ、あれをしかも赤で記したようなもので、そんな用立てをしたらなんだって怖くなる。たとえば二次元ドリーム文庫だってホラー小説みたいになるだろう。話のイメージでフォントを変えること自体は卑怯でもなんでもないが、やり過ぎると反感が生まれる。「内容で勝負しろよ!」とツッコみたくなる。映画版「ハリーポッター」の暗さはまさにそれだった。暗すぎて、曇りの日の夜空の環境映像でも観ているような気分だった。あと白人の少年(青年)たちがみんなあまりにゴツくなってて引いた。

 カッティングマシンを購入してから、オリジナルTシャツ作りをしている。このブログのちょっと前の記事で、クラTについて書いたが、それももちろんこのあと始まるオリジナルTシャツ製作のことを念頭に書いたものなのだった。
 当該の記事では、実際に製作されたクラTを部外者にも販売してくれないだろうか、という話をしたが、いまの僕ならば、購入せずとも作れる。なにをか。クラTをだ。僕はいま何年何組でもないし、学校祭を控えているわけでもないが、しかしクラTを作る設備はある。あってしまうのだ。だから本気で作ろうかとちょっと考えている。デザインの中に30人あまりのクラスメイトのファーストネームを列挙し、その中に自分の本名もこっそり混ぜるのだ。本当は自分の名前以外は全員女子がいいのだが、それをやると一気にリアリティがなくなるので、男女比は半々にする。ところでお前、36歳なんだから生徒じゃなくて担任ポジションだろう、という意見もあるだろう。クラTを作ったことがないので詳しくは知らないが、たしかにクラTには担任の名前も入っていたりする。鈴木先生の場合、「鈴木組」なんて記されたりするんだよね、よく知らないけど。まあそれも悪くない。それなら生徒の名前は全員女子でもよくなってくるし(夢が膨らむ)。
 そしてそれを実際に作り、実際に着て街に出たとき、ぜんぜん見たことがない知らない若者が、「えー、めっちゃ懐かしい!」「ちょっとなんでクラT普通に着てんの?」などと次々に話しかけてきたら、世にも奇妙な物語みたいだな、と思う(血で書かれたみたいなフォント)。

 Googleで検索して情報を得ることが、同時にgoogleに情報を与えることでもあり、Googleに携わった人生の1コマ1コマが、僕の人生の一部であると同時に、Googleにも保存されて、つまりGoogleにはほんの少しだけ僕が含まれているといえ、それはGoogleを使ったことのあるすべての人類に共通していえることで、これってなにかに似ている、となって記憶をたどれば、それは「火の鳥」の未来編で30億年生きた後、火の鳥の一部になった山之辺の姿なのだった。火の鳥の中には、タマミをはじめとするすべての生命がいて、そのすべてが、ひとつなのだった。これととてもよく似ている。だとすればGoogleとは、宇宙生命(コスモゾーン)なのかもしれない。僕が死んでも、僕はGoogleの中に生き続けるのかもしれない。

2020年2月4日火曜日

乗り物・顕微鏡・ブラトップ

 ポルガに「いまいちばん乗りたい乗り物はなに?」と訊ねられ、悩む。乗りたい乗り物……、あまり考えたことがないテーマだ。飛行機、新幹線、船、バイク、どれも別に乗りたくない。目的地にもよるけれど、その移動手段にこだわりはない。なので本当に思い浮かばない。それで仕方なく、「ポルガは?」と訊き返したら、「タイムマシン!」という答えが返ってきて、えー、となった。乗り物としてのタイムマシン、ちょっと答えとしてずるくないか。ポルガのそれは間違いなくドラえもんのイメージでいっているわけだが、同じくドラえもんの中に、タイムベルトという道具も出てくる。これは機体に乗らない、ベルトタイプのタイムマシンである。タイムマシンに乗りたい、という願望は、要するに時間旅行がしたいという願望であり、ならばタイムベルトでもことは済む。その事実が証明するように、乗りたい乗り物という問いにタイムマシンと答えるのは、なんとなく真摯ではないと思う。その次に、横でこの会話を聞いていたピイガが、「ピイガはブランコ!」といってくる。バカでかわいい。バカでかわいいが、その答えも果たしてどうなのか。ブランコは、たしかに乗るけれど、乗り物ではなく、遊具だろう。これもまた質問に対する正面からの答えになっていない。挙げ句の果てには、「ちなみにお母さんはベッドだって」とポルガが告げてくる。ベッド! こいつがいちばん阿呆だ! と震撼する。あまりにひどい答え。乗り物という括りのお題に対してベッドという答えもえげつないし、そもそも生命体として、いちばん乗りたい乗り物を寝具と答えるその気概がよくない。膝から崩れ落ちそうになった。俺だけ真面目に、飛行機とか船とかに思いを馳せたのに、俺以外の家族3人とも、ぜんぜんまともに答えねえじゃんかよ……。こんなことならば9歳の娘からのその問いかけに、「女!」と即答すればよかった。

 ポルガの誕生日に顕微鏡をプレゼントした。別に勉学に役立つものでなければ与えない、などといったわけではなく、本人のリクエストである。それで繊維を見たり、葉っぱを見たり、さらには公園の池からちょっと水を掬ってきて見たり、先日からいろいろしている。しかし750倍までできるという触れ込みの製品なのだが、なかなか高倍率で焦点を合わすのは難しく、四苦八苦している。池の水は、藻の生えているあたり、いかにも微生物がたくさんいそうな所のものを採取したので、低倍率で見たとき、たしかになにか動いているものはいたっぽいのだが、高倍率ではてんで捉えることができず、そのため顕微鏡を覗いて、動き回る小さな生き物の姿を見て「うおおっ!」となる感動はまだちゃんと味わえずにいる。
 もちろん、これを味わうための最善策は初めから分かっているのだ。細かい無数のものが蠢いていることは確実(ウェブで検索したところ、400倍程度で、頭と尻尾のあの形がちゃんと確認できる模様)で、感動もいろんな意味でもれなく付いてくる。ちなみに顕微鏡を発明したレーウェンフックは、すなわち人類で初めてこれの姿をちゃんと見た人間だといわれているらしい。プレパラー射すれば、簡単にこの願いは叶う。プレパラー射……。
 しかし娘にやったプレゼントの顕微鏡でそれを見るというのも、ちょっと気が引けるというか、もちろん娘に見せるわけにもいかないし、ジレンマだな、と思っている。

 居間にいつもファルマンの肌着が干してあって、よくぶつかったりするので、そういえばなんでこれはいつもこうして1枚だけ干されているのか、と訊ねたら、「これは下着だからだ」という答えが返ってきた。そういわれて見てみたら、なるほどただのいわゆるババシャツではなくて、胸の部分にカップが入っている、ユニクロのブラトップというやつだ。これでブラジャー要らず、という例のやつ。ブラジャー要らずなので、つまりブラジャー代わりであり、そのため下着である、という論理であるらしい。だからショーツ類(それはそれで子どもらのものも含めて小型のパラソルハンガーに吊るして室内に干している)と同じく外には出せないのだ、と。その論理そのものを否定するつもりはないが、それはあくまで着用する女性側の考え方で、女性が下着類を外に干さない理由であるところの、他者(主に男)の目からすれば、ユニクロのブラトップは、ぜんぜんブラジャーの代替にはなっていない。ブラジャーで得られる情趣を、われわれはブラトップからはひとつも受け取らない。どんなに好色な下着泥棒でもブラトップは盗らない。ブラトップというのはそういう存在だと思う。だからお前、安心して外にお干しよ、と諭して以降、わが家で歩いていてブラトップにぶつかることはなくなった。めでたしめでたし。

2020年1月31日金曜日

コロナ・オマーン・とうとう散髪

 新型コロナウィルスというものが流行っていて、ファルマンもその話ばかりしている。タピオカの次はバナナジュースとかいっていたが、そんなことなかった。コロナウィルスだった。
 ウィルスってやっぱり、生きものにとっていちばん大事な、生存に関わるものなので、その禍に際すると、普段なるべく取り繕っている自制心のある人間性みたいなものが取っ払われ、恥や外聞なんて概念のない、生きもの本来の姿がさらけ出されると思う。中国の、武漢の人々に対する、自警団によるあんまりな処置なんかを見ていると、しみじみとそう思う(もっともその様を眺めて半笑いを浮かべる我々もまた、それはそれで恥も外聞もないのかもしれない)。
 昨日観た映像では、自警団の人々は、武漢から帰ってきた一家の家のドアに木片を打ちつけて開けなくして、さらにはドアの横に、「この家の住民は武漢帰りだから接触してはならない」という貼り紙までしていた。ウィルスすごい。ウィルスひとつで、世界はこんなに簡単にディストピアめくのか、と感心した。
 ところでこの貼り紙というのが、もちろん中国語(簡体字)なのだが、それが赤い紙に黄色い文字で記されているのである。いかにも中国の人のセンスでデザインされたもので、なんだか目を奪われた。「nw」で記したように、カッティングマシンを買ってオリジナルTシャツ作りにハマっているところなので、わりと世の中の全てをその対象として見ているところがあり、それを見て「ありなのではないか?」などと思った。赤いTシャツに黄色いシートで、「この家の住民は武漢帰りだから接触してはならない」というTシャツ。不謹慎にもほどがある。

 今日の新聞に、1月10日に亡くなったという、オマーンのカブース前国王への追悼が、広告の扱いで一面を使ってなされていた。学がないので、カブース前国王のことはこれまで知らなかったし、オマーンという国が日本とどういう関係を持つのかも知らなかった。ただ去年の12月9日に、Twitterでこう詠んでいた。「我が国の国際情勢なぜそんな気にするのかとオマーン大使」。オマーンという国は、僕にとって本当に、本当に、国際情勢や国際空港のことしか思い浮かばない、そんな国なのである。なんかこう書くと、まるで救いようのない阿呆な子のようだ。そんなことないのに。新聞を見て、「オマーン国王、おまーんこくおう……」と2回呟いたけど、そんなことない。

 髪を切った。前にも書いたが、ずっと伸ばしていた。去年の8月からいちども切っておらず、そろそろ結べようかという頃合いだった。人生の最長記録だったろう。毎朝の爆発はとんでもなく、整髪剤とヘアピンが必須で、さらには入浴後のドライヤーも時間がかかったが、自分的にはとても満足していた。しかしファルマンからの評判はすこぶる悪かった。切れ、切らせろ、寝てる間に切ってやろうか、ということを、この2ヶ月くらいの間に何百回いわれたろう。何百回じゃない。千回を超える。でもぜんぜん切る気持ちにならなかった。ピイガと、卒園式までには切るという約束をしたので、まだまだ伸ばすつもりだった。
 つもりだったのだが、なんか唐突に、もういいかと思って、先ほど切ってもらった。そしたら、すごくいい! めっちゃすっきり! 頭が軽い! そして顔も明るい! 若返った! いま、その効果のほどに感動している。短い髪がこんなにいいものだったなんて。
 こんなによくなるんなら、なんでもっと熱心に、切るべきだといってくれなかったのか、とファルマンにいったところ、あああ!? とヤンキーみたいに凄まれた。

2020年1月19日日曜日

十二国記・クラT・Fっぽい

 ようやく十二国記の最新作「白銀の墟 玄の月」を読んだ。先週から読みはじめ、読みはじめたら全4冊を猛スピードで読むほかなかった。1、2巻と3、4巻が1ヶ月置いて刊行されるということで、4冊が出揃ったら読もうと思っていて、でも1、2巻が出た時点で好奇心からウェブ上のレビューを読んでしまい、そうしたら評判があまりよくないので、なんとなくテンションが下がってしまった。そしてこんなタイミングでの読書となった。4冊を読み終えた感想としては、1、2巻の時点で読むのがくじけそうになるのも仕方ないかなー、と思った。4冊一気に読んでも回避しきれずちょっとクラクラする局面があったので、これで1、2巻で1ヶ月間を置かれたら、それはつらかったろう。刊行されてすぐに読んでくれる熱心なファンに対して無慈悲な刊行形式をとったものだと思う。幸い僕は愉しめた。分かってはいたけど、この作者はとんでもないものを書くな、としみじみと思った。架空の世界で物語を書くとなったら、もっと華やかで気楽で派手なものを書こうとするもんだろう。こんな地味で細かくてせせこましいことを書くなら、もういっそ現実でいいじゃん、と思った。とはいえこれは解説の人もいっていたが、特殊設定下でのミステリ的な部分もあるので、だとすればこれは4巻目のあの場面のカタルシスのための、とてつもなく長い特殊設定の説明なのかもしれない。すさまじいことだな。今年には短編集が刊行予定とのことで、そっちは華やかな、ファン心を素直にくすぐるような話であればいいなと思う。肩の力を10分の1くらいまで抜いてほしい。

 ネットサーフィンをしていたら、受注生産のオリジナルデザインTシャツの制作販売のホームページに行きついた。受注生産のオリジナルTシャツとは、つまりクラスであったりアマチュアのスポーツチームであったり、なんかそういう集団が心をひとつにするために着用する、あれのことだ。僕の人生でこれまでいちどもなく、というか今後なんかしらの集団に所属して、おっさんおばさんと揃いのTシャツを着たってなんにも愉しくないので、高校時代に学校祭用のクラTを作らなかった時点で(そもそも男子校に進学した時点で)、僕の人生は既にこの文化とは完全に隔絶しているといっていい。そんな僕が、そのホームページを眺めていてなにを思ったかといえば、完全に架空のサンプルなのか、あるいは実際の制作例なのかは判然としないが、何点か表示されているそのクラT、それを買って着たいじゃないかよ、ということだ。たぶん美術部の奴とかがデザインしているので、それなりによくできていて、若者らしいまっすぐでさわやかなテイストで、そしてなにより、クラス全員のファーストネームが羅列されていたりする。ここがいい。ひとりも知らないけど、俺もこれを買って着れば彼らと結束できるんじゃないかと思う。あるいは女子校と思しき女子の名前しかないTシャツというのもそそる。それを着ているということは、じゃあ俺は彼女たちの担任なのかな、という気持ちになれる。いいなあ。実にいい。クラT部外者販売。けっこう需要があるんじゃないか。発注する高校生に対して、部外者販売をオッケーにしてくれたら割引とかにすればいいのだ。ウィンウィンではないか。ちなみにメルカリにクラTって出品されてないのかな、と覗いたがさすがになかった。

 最近ちょっと字を書いたり絵を描いたり、努めてそういうことをしているのだが、久しぶりに絵を描いて思ったことに、僕は相変わらず本当に動きのある絵が描けない。マネキンのように、直立している絵しか描けない。それに対し、近ごろドラえもんの絵ばかり描いているポルガは、それは要するにF先生の模写なので、シンプルながらも絵に動きがあり、羨ましく思う。僕も小学生の頃、ドラえもんの絵ばかり描いていたのだが、基本的に頭部の絵しか描かない子だった。もうその時点から、能力的なものは露呈していたということだろう。
 先日、動きのある絵の代表として、走っている絵が描けるかどうか、という話になった。ちなみに僕は描けないのである。ファイナルファンタジーのサボテンダーみたいなのしか描けない。それはつまり、「走っている人」のマネキンでしかないということだ。ところがポルガは「描けるよ」といって、スラスラと鉛筆を走らせはじめた。それで、マジかよすげえなあ、と思って眺めていたら、ドラえもんやのび太の顔がみんな正面を向いているではないか。「いや、走ってる絵を描けよ」と指摘したら、「走ってる絵だよ」と答える。どういうことかと思っていたら、紙の画面奥からこちら側に向かって走ってくる構図の絵だった。走ってる絵というお題でそのショットを描くかよ、と驚愕した。泳いでいる魚の絵が、得てして左向きに泳いでいるものであるように、走っている人の絵は、右から左に向かって走る様を描くものだと決めつけていたので、とても意外だった。振り上げている手なんか、ちょうど水平になっている袖の部分が、正円で表現されていた。なんかFっぽい、そんな部分ちゃんと見たことないけどたぶんFっぽい、と思った。

2020年1月16日木曜日

バナナ・炎・よそ者

 いつものサウナに入っていたら、ちょっと珍しく若者のグループがやってきた。高校生のようだ。いつも腹の突き出たおっさんしかいないので、その若さと細さに驚いた。
 その若者のひとりが、仲間の若者に向かって、こう問いかける。
「なあ、タピオカの次に流行るものって知ってる?」
 なになにその話、と食いついた。なんて興味をそそる導入だろうか。
 するとそれに対して、問いかけられた若者はこう答えた。
「知ってるよ。バナナジュースだろ」
 ええー! と心の中で驚きの声をあげた。いつものようにタオルを頭に被せながら、目を瞠った。
 タピオカの次はバナナジュース……、そういわれてみればたしかにありそうな絶妙のポイントだな……、しかしこの取って付けたような会話は本当だろうか……、なんか芸人のネタとかじゃないのか……、などと思念が渦巻いた。
 帰宅してからネットでバナナジュースを検索したら、なんか本当にそういうことをいっている人たちがいるようだった。若者のブームを生の声で先取りした、と思った。

 腹の突き出たおっさんたちは、場所中なので相撲の話に花を咲かせていた。田舎のおっさんどもはやっぱり外国人力士が嫌いなようで、メタメタにいっていた。稀勢の里や御嶽海にばかり声援を送り、白鵬へはブーイングをする勢いの観客ってどういう人たちなんだろうと思っていたが、なんのことはない普通のおっさんたちなのだった。
 その中で炎鵬の話題になり、「炎鵬はいいなあ」「炎鵬は小さいのによくやってる」と、おっさんたちはやっぱり小兵力士のことも好きであるらしかった。その話の際に、ひとりのおっさんが炎鵬のことを「れんほう」といってしまい、他のおっさんたちが「蓮舫はちがう」「蓮舫て」と総出でツッコむ、という一幕があった。
 そしてそのうちのひとりのツッコミがこうだった。
「炎じゃあ」
 この言い方が、さすがは岡山、リアルノブで、なんだか感動した。 

 斯様に地元密着の浴場に、もちろん顔見知りがいるはずもないので終始無言で、そしてそれなりの頻度で通っているのだが、たまに館内アナウンスが掛かり、「……近ごろ盗難事件が多発しております。貴重品の管理には十分お気を付けください……」みたいな内容が流れると、身に覚えなどないのになんだかうすら寒いものを感じる。この環境で、本当に盗難事件があったらば、僕のような存在は真っ先に疑われるのだろうな、と思う。

2020年1月6日月曜日

ねずみ・ピイガ6歳・凄王

 昨年末に「今年の仲間内10大ニュース2019」を投稿したことで、年間の恒例行事は無事にすべて完了したのだった。多い。11月下旬から年末まで、恒例行事が多すぎる。皇室かよ、と思う。ちなみに本来ならば年始に干支4コマをアップしなければならず、だとすればそれも年賀状のように、年末のうちに準備をしておかないといけないのだが、それはもちろん年が明けた現時点でもやっていない。干支のネズミのキャラクターデザインそのものが、どうしたもんだろうかなあ、という感じで何度か紙に描いてみたりしたが、まだぜんぜん定まっていない。ネズミって既存のキャラクターが多いので扱いやすいような気がしていたが、案外そうでもない。なんとなく顔が尖っているイメージがあり、そうなってくるとかわいくしづらいのだった。まあでもほら、ネズミ年は1年あるから。

 ピイガが誕生日を迎えた。1月4日。なんともいえない日付だとしみじみと思う。三が日なら三が日で、もう親戚の集いの中で誕生日を祝ってしまえばいいと思う。でもそうじゃない(3日の25時半くらいに産まれたのだ)。その一方で、正月気分が完全に取り払われたかといえば、もちろんそうでもない。正月と日常のあわいの、まだ頭が現実に追いつかないぼんやりしている頃に、そこへ向けて誕生日の祝いの準備をしなければならないのである。これが6年目になっても慣れない。もしかしたらいつまでも戸惑うのかもしれないと思う。ケーキはクリスマスに続いて、オーソドックスないちごのショートケーキ。それにしてもいちごはやけに高かった。また1月4日の悪口みたいになるのだが、スーパーのチラシを眺めていたら、1月5日はいちごの日ということで、いちごがちょっとだけ安くなっていた。まったくもって間が悪い。
 それにしてもピイガが6歳。春からは小学生。まるで嘘のようだと思う。相変わらず小さいし。しかし小さいけど声はデカく、動作も激しく、わが家でいちばん音を発していることは間違いない。ポルガは基本的に物静かで、そして周囲のことを一切気にしない人間なので、その正反対であるピイガの存在は、とても尊い。ファルマンがダダかわいがってダダ甘やかすものだから、女王気質がいよいよ増長してきているきらいはあるが、今後も健やかに全力でバカ明るく生きていってほしいと思う。

 そんなわけで、今年の冬休みが終わる。長く愉しんだ。相変わらず家族や親類とばかりいて、他者とは一切絡まなかった。でもそれでいい。
 今年の目標としては、いろいろ思うことはあるが、一言でいうならば、ぼんやり生きたくないと思っているので、そのための具体的な方策として、「すごい」ってなるべくいわずに1年を過そうと思っている。実際の発言でも、文章でも、深く考えずに「すごい」っていい過ぎではないかと、昨年末にふと思ったのだった。だからこれまで「すごい」で済ましてしまっていたところを、ちゃんと別の表現でいうようにしようと思う。結果的にそれがぼんやり生きないことに繋がるのではないかな、と目論んでいる。目の付け所がすごいよね。