2020年7月28日火曜日

えなり・手締め・現代

 4連休の最終日に、実家の面々とLINEで映像通話した。母と祖母は実家にいて、姉一家は実家から車で5分ほどの姉一家宅にいて、3画面通話だった。このウィズコロナ時代においてそれはあまりにも普通のことなのだろうが、僕にとっては初めての経験で、便利なものだなあと思った。複数画面で同時に繋ぐと話が噛み合いづらくなるのではないかと思ったが、やってみたらなんにも変わらなかった。卒寿と小学生の対話なんて、実際に会ってようが3画面の映像通話だろうが、はじめから噛み合わないのだった。
 通話の中で、「夏は来ないんでしょ?」と母に訊ねられた。もちろん行かない。「冬の帰省こそできなそうだから夏は行きたかったんだけどねえ」と答えたら、「えっ、冬も来ないの?」と母は少し哀しそうだった。もちろんまだ分からないが、前評判では寒い時期こそダメって話だった。行ける状況になる可能性は低いだろう。こればっかりはもう、えなりかずきのごとく、「そんなこといったってしょうがないじゃないか」としかいいようがない。ピン子も赤木春恵も我慢してほしい。

 手締めってすごく憧れるなあと思い、YouTubeで小一時間ほど、もちろん自分とは一切関係のない団体の、集いの席での手締めの映像を眺めた。一丁締め、一本締め、三本締め、大阪締め、伊達の一本締め、博多一本締めなど、さまざまなバリエーションがあり、とても愉しかった。やっているのは、端のほうにいるわずかな女性を除いて、基本的に男性ばかりで、手締めというものの業みたいなものを感じた。暴力団によるそれの映像も多数出てきたので、なんか要するに手締めって、そういうものなんだなあとも思った。
 だとすれば、地元を捨て、ありとあらゆる旧友を捨ててきた僕にとって、手締めって対極にある文化のはずだ。そういう仲間賛美の共通認識、お前死ぬほど嫌いじゃん、という話である。でも、だからこそ憧れたりもするのである。
 もしも今後の人生で、所属する集団で手締めを行なう場面が訪れたならば、そのときはオーソドックスな一本締めとかじゃなくて、オリジナルのリズムを開発したい。それこそ手締めの醍醐味だろう。メンバー内だけの共有事項として、独特の拍子の手締めを、見事に全員で合わせて行ないたい。そのときの快感たるや、と夢想する。
 なので仲間がひとりもいない今のうちから考えておこうと思い、ファルマンに相談した。「自由な発想で考えてくれ」と依頼したところ、「うーん」と悩む素振りを見せたのちおもむろに示した1手目が、グーの右手がパーの左手のひらを打ち付ける、「そうか!」の振付だったので、これは期待が持てる、と思った。完成したら発表したい。

 子どもたちの通う小学校の先生が若い。ポルガの担任は、去年度も25歳くらいの男性だったが、今年度なんか23歳くらいの女性だそうで、そんなのもうほとんど大学生だし、っていうか我々側か子ども側かでいえば、もはや子ども側じゃないかよ、と思う。そのため授業以外の雑談で話される内容もやけに若く、「鬼滅の刃」だの「GENERATIONS」だの、昭和生まれの親からは与えられない情報を日々仕入れてくる。まさか自分がこんなにも現代の流行りについていけない「親」になるとは思ってなかった。
 だがその一方で、音楽の授業においては現在、リコーダーで「男の勲章」をみんなで練習しているそうで、なんかもうクラクラする。変な未来。