2022年8月27日土曜日

りゅうちぇる・マイナ・女子

 りゅうちぇるとぺこが離婚したそうじゃないか。
 一報を目にしたとき、いろいろな思いが胸に去来したけれど、一言で簡潔に表すと、やっぱり「やったぜ」ということになると思う。子どももいることだし、離婚そのものはもちろんあまりいいことではないだろう。両親はなるべくなら離婚しないほうがいい。どうしようもなく仕方ない場合というのも当然あるだろうが、本当にギリギリのところであっても、しないで済むのなら、子どもにとってはそのほうがいいに決まってる(言葉に重みがあるだろう)。
 それならばなぜ「やったぜ」なのかと言えば、りゅうちぇるはちょっと、先進的ないい夫、いい父親的な発言をし過ぎていた。イクメンとか、育児に協力とか、なんかそこらへんのことについて、そういう自覚を持つこと自体がおかしい、くらいのことを言っていたと思う。そんなの当たり前のことだから、そう努めようとする時点で間違っているのだと。
 言いたいことは解る。解るが、そんなことを求められても困る。またMD世代のことを僕は言い出す。MD世代の親の世代、すなわちモーレツ世代はまだ、男は外の仕事、女は家の仕事と役割がはっきりしていた。明解だったとも言える。でもMD世代からはそうもいかなくなって、それでイクメンなどという言葉が編み出されたのだ。我々はイクメンネイティブではないのだ。親からは学べなかったその姿を、誰も明確な正解が分かっていないまま、社会の流れという漠然としたものから、泥団子を作るように、あがいてあがいてなんとか形成していったのだ。
 それだのにりゅうちぇるは、それを「意識してやることじゃない」と言った。「意識が低い」ならまだ許せただろう。そうじゃない。意識をしたらいけないというのだ。意識をせずとも行なえることが正しいというのだ。なんだそれは。ニュータイプか。アムロ・レイか。しかしどれほどMD世代が憤っても、りゅうちぇるは新時代の旗手として、ぺこときちんと結婚し、きちんと子どもを作り、きちんと幸せな家庭を築いていた。だからこれまで、ぐうの音も出せずにいた。
 そういった経緯によって、今回の離婚に関しては喜びの感情がまず出た。ジェンダーとか、同居は続けるとか、新しい家族の形とか、まだいろいろと理論武装を繰り広げているようだけど、どんな言葉も虚しく過ぎ去るばかりである。結局のところ、弱い犬ほどよく吠えるのやつで、確固たる自信があったり、本当に当たり前のこととして受け止めていることについては、人はあんなふうに語ったりしないのだと思う。りゅうちぇる論法で言うならば、「語る時点でダメ」なのだ。そうじゃないから、自己催眠をかけるかのように、自分自身に言い聞かせていたのだ。
 ジェンダーマイノリティ方面のことを主張すれば、そこから先はもう誰もなにも言えない、という風潮がある。こっちだって、お前らがジェンダーマイノリティであることを声高に主張さえしなければ、当たり障りのない扱いをするのだ。それこそ理想的な、「両語らず」の形だろうと思う。もう僕はりゅうちぇるの述べることには一切耳を貸さない。りゅうちぇるとぺこの結婚および離婚は、本人がどれほどその崇高さを訴えようが、僕の中でIZAMと吉川ひなののそれと、一緒のカテゴリに分類された。

 マイナポイントで配るはずの資金が、ものすごく余っているという。信じられない。
 選挙の投票に行かない人の気持ちは解る。投票をしないことは結果的には〇〇円の損、などと脅されたりするけれど、どうしたって「自分ひとりが投票しようがしまいが結果は変わらないしなあ」という思いはある。投票率が半数を切っているということは、投票しなかった側の人が結託すれば社会はひっくり返るんだなあ、などと思ったりもするけれど、そんなことは永遠に実現しない。投票したところで、すぐに個人的な見返りがあるわけではないからだ(逆に投票しなければ罰金という国はあったはず)。
 マイナポイントはそうではない。作ったら、むちゃくちゃ即物的な見返りがある。ポイントと言うが、ポイント支払い全盛の現代において、それはもはや現ナマである。作ったら確実に、なかなかの金額の現ナマがもらえるのだ。そんなの作らない理由がないだろう。
 政治的な思想を理由とする人々に対しては、なにも言わない。僕は、政治的な主張がある人と会話をしたくない選手権の世界チャンピオンなので、その人たちはいい。いいと言うか、不可侵である。しかしそんな人々は、ひと握りだろう。そうじゃない大抵の人たちは、なんとなく億劫でやっていないだけだろう。
 結果的に、余剰金額は6000億円だそうだ。諸経費などいろいろあるだろうとは思うが、ひとり2万円で考えれば、3000万人分ということになる。なるほど。
 昔の僕ならば、誰ももらおうとしないんなら、その6000億円、俺にくれよ、と思っていたことだろう。今はそうは思わない。6000億円もらっても困る。20億円くらいならやぶさかじゃないが、ひとりひとりがそういうことを言うとややこしくなるので、言わない。主張するとするならば、9月30日までにお利口にマイナカードのことをやったほうの国民で、その6000億円を山分けしようよ、ということだ。これなら誰も文句ないだろう。山分け分の支給は簡単だ。なぜならマイナンバーカードを作っていて、管理しやすいからだ。余剰金がなんとなく闇に消えるより、これは本当にいいアイディアのような気がする。

 あまり女子女子した傾向がないこともあり、ポルガのことを、ずっと性別不明の奇妙な生き物として扱ってきた。願望というか、一種のモラトリアムというか、男親としての複雑な感情がここにはあったのだと思う。
 ポルガがこのたび、初経を迎えまして。
 あの、あの11年前に生まれた赤ん坊が、もう、もうそういう、女の子の、女の、そういう、そっちの、そのやつに足を踏み入れたのだと思うと、月日の速さ、その容赦のなさに、めまいがする思いだ。
 もちろん本人から報告があったわけではなく、ファルマン伝いに僕は聞き、本人的にはどのような様子なのかと訊ねたら、「まあ別に平然としてたよ。健康な証拠だって言ったら嬉しそうだった」とのことで、安心した。おそらく授業であったり、クラスメイトであったり、母であったり、外堀はじわじわと埋まっていて、心の準備はそれなりに出来上がっていたのだろう。女子というのはさすがだな、としみじみと思った。そのことが少女にとってものすごくショッキングに描かれる創作というものを、これまでいくつか目にしたことがある気がするが、あれってもしかしたら、男性作者が、男性担当者に促され、男性読者に向けて描いたものだったのかもしれない。そう考えると非常に気持ち悪いな。
 今回、その報告を聞いて、父親としての感慨深さからショックを受けると同時に、じゃあもうこれからは気軽にプールに誘えないな、ということをすぐ思い、我ながらその感想の無邪気さ、バカな男子っぽさに衝撃を受けた。女子のその感じをまざまざと見せつけられたことで、自分って、男って、なんでいつまで経ってもちんこでただひたすら愉しいんだろう、もしかしたらものすごく阿呆なのかな、ということを思った。

2022年8月24日水曜日

相似・しまむら・転生

 お盆休みの直前に、amazonプライムに「This is us」の最終第6シーズンが出た。暑さで出掛けづらく、時間を持て余し気味な夏休みに、一気見すればいいという配慮なのか。意外と人情があるじゃないか、amazon。
 さすがに18話をお盆休み中に全て観切ることはできなかったのだけど、そのあとの数日と週末をかけて、このたび観終えた。ちなみに最終シーズンにして初めて、全編ファルマンと一緒に観ることができた。観かたにタイムラグがあると、先を行く一方はまだ相手に感想を語れなかったり、遅れている一方が感想を言ったら相手は既にそのシーンがうろ覚えだったりして、もどかしかったりする。また最終シーズンということもあり語るべき事柄は多々あったので、一緒に観られたのは実によかった。
 そうしてファルマンと感想を言い合いながら観ることができたので、ここで感想を述べたい衝動はない。もとい第6シーズンともなると、なにを言ってもネタバレになってしまうので、なにも言えないのだ。それでもどうしても言いたいこととして、物語の終盤、作中において、ずっとインストゥルメンタルの曲だと思っていたエンディングテーマに、急に歌詞が乗る場面があり、その瞬間、僕の頭には天童よしみの顔が浮かんだ。そのことだけ、どうしても主張しておきたく、ここに書き記しておく。

 ファッションセンターしまむらに行ったら、サウナ5点セットと銘打った商品が売られていた。Tシャツ、ハーフパンツ、フェイスタオル、サウナマット、そしてそれを収納するナップサックというセットで、値下げされていたこともあり、一瞬買おうかとも思ったのだが、結局買わなかった。というのも、サウナマット以外にはオリジナルのロゴが印刷されているのだが、そのロゴというのが、「イマカラサウナイキマス」というフレーズなのだ。そのフォントがどうこう、デザインがどうこう、というのではない。あくまで内容である。だってTシャツとハーフパンツって、それ、サウナのあとに着るもんなんじゃないの、という話だ。サウナのあとのリラックスした恰好としてのそれだろう。それなのに文面は「イマカラサウナイキマス」。ここが納得いかなかった。サウナの前にそんな楽な恰好をするシチュエーションは思い浮かばないし、かといってサウナのあとにそれを着るのも間抜けだ。たぶんサウナ情報サイトの「サウナイキタイ」を意識しているのだろうけど、ならば過去形の「サウナイッテキタ」でよかったんじゃないかと思う。あるいはやっぱり「After Sauna」ですよ。「After Swimming」Tシャツ、すごくいいですよ。プールのあと必ず着ている。

 10インチのタブレットからスマホになって半月ほどが経つ。はじめは小ささに戸惑っていたが、もう慣れた。慣れてしまえば、10インチのタブレットはなんと巨大だったのかと思う。タブレットはタブレットで存在意義があるだろうが、それを携帯電話として1台だけで持つというのは、ちょっとおかしな話だと思う。多分その人とは、あまり仲良くなれないと思う。購入の際、画面の大きさに拘泥したい気持ちはまだ色濃く残っていて、スマホにしては大きい、7インチになんなんとするような製品も候補に挙がっていたのだが、半端なことをしなくてよかった。カメラ機能を重視して買って正解だったとしみじみと思う。
 ホーム画面は、これまで歴代の端末でずっと「タッチ」の達也と南が自転車に乗っているイラストにしていたのだが、いよいよ飽きたので替えることにした。それでどういうものにするか考え、とにかく自分が目にして心地よくなるものがいいので、だとすればビキニの女の子の画像とかになってくるのだけど、ホーム画面というのはなんだかんだで他人の目に触れることもあるものなのでそれは自重し、ビキニの女の子はいない、どこかの国のきれいなリゾートプールの画像にした。さわやかでとてもいい。手のひらサイズのスマホで、ホーム画面は外国のリゾートプール。この人となら仲良くなれそうだと万人に思われること必至だ。

2022年8月15日月曜日

夏の変化3つ

 金髪をやめた。とうとうやめた。やめる決意はだいぶ前から固まっていて、かなり暗い茶色のカラーを入れたりしたのだが、それは1週間くらいでみるみる薄まってしまい、結果として元の金髪に戻る、という形での金髪が継続されていた。やはり髪の色をきちんと戻すためには黒髪戻しをしないといけないようで、しかし前にもやったけど、本当に黒の黒髪戻しは、元々の黒よりもだいぶ黒の濃い、「俺は漆黒の闇の代弁者」みたいな中二病のコスプレのようになってしまうので、それが嫌だった。しかしお店でうーむ、と思いながら棚を眺めていたら、黒髪戻しの茶色版という商品があったので、これだ、と思い買った。買ったけどすぐには使わなかった。実は買ったのはひと月近く前だ。これはなぜかといえば、この期に及んで迷っていた。飽きてやめようと思ったくせに、いざやめるとなると、せっかくの金髪がもったいなく思えて、もうしばらく続けてもいいのではないか、髪の根元側、全体の4分の1くらいは既に黒いわけで、施術はせず、このまま1年くらいかけて、金髪がその時々でカットされてゆくことで、ゆるやかに黒髪に戻っていけばそれでいいのではないか、などと思った。それでもこのたび、やっぱり薬剤を使って茶色く染めた。紫外線と、塩素と、長さで、髪の健康状態が実際えらいことになっていたので、ビジュアルどうこうというより、ここらできっぱり是正しなければならない、と思った次第である。そんなわけで短く切ってもらい、そののちに茶色く染め、これを契機に買ったダメージリペア系のシャンプー、コンディショナー、トリートメントに切り替え、一気にいたわるほうへと舵を切った。髪の毛はさぞや、主人の急な心変わりに戸惑っていることだろう。これまでの虐待のトラウマもあり、夢のような扱いを受けながら、まだ素直に受け入れられないでいると思う。どうせそのうち、主人は気まぐれに私にひどいことをするのではないか、と疑っているに違いない。正解だ。主人の悪い虫は、どうしたってまた騒ぎ出す。ごめんな。死なないでな。

 スマホを買う。買った目的については、「nw」に記した通りである。じゃあここではなにを述べるのかと言えば、僕と、ガラケーと、タブレットと、スマホにおける、心の変遷や関係性についてである。なんだそれは、と思われるかもしれない。心の変遷ってなんだよ、ただ新しい機種に乗り換えていくだけのものだろ、と。
 そうではないのだ。ちょうどcozy ripple新語・流行語大賞のために過去の日記を読み返しているところなので、そこに綴られた思いが、いま自分の中でわりと生々しくあるのである。
 ガラケーから、仕事の都合でLINEをする必要に迫られ、まず8インチのタブレットに乗り換えた。2018年の4月のことである。あの小さい、魔法のような、持っている人間が調子に乗っている、スマートフォンというものにどうしても抵抗があり、俺は電話もできるノートパソコンを持つのだ、という妥協点としてのタブレットであった。それから仕事が変わり、新しい職場において、今度は電話をポケットに入れて持ち運べるものにする必要に迫られた。必要に迫られるというか、それはガラケー時代からの、世間の当たり前であった。タブレットしか持っていない人間が異常なのだった。それで仕方なく、6.5インチくらいの、いわゆるスマホを持つことになった。2021年の2月のことである。しかし忸怩たる思いでそれを持ちながら、僕はいちどタブレットを挟んだ矜持から、自分はスマホの軍門に下ったわけではなく、あくまで電話もできるノートパソコンが手のひらサイズになった、そういうものを持っているだけだ、と当時の日記の中で主張していた。それから、まあいろいろあって、再び僕は、電話をポケットに入れて常に持っておく必要がない境遇になった。そしてこの期間に溜まった様々なフラストレーションの象徴として、スマホに対して猛烈な忌々しさを感じていたため、その反動として、当てつけのように今度は10インチのタブレットに乗り換えた。2021年の10月のことである。これは必死に弁明するまでもなく、とてもノートパソコン性が高かった。8インチの頃は、まだ大きめのメモ帳サイズというか、コートの大きめのポケットなら入らないことはないかも、くらいで、携帯電話の範疇に片足は残っていたが、10インチともなると、それはもう大学ノートの大きさであり、むしろ電話機能があることに違和感があるような代物だった。でも電話なんて帰りの車中でファルマンと話すだけなので何の問題もなく、画面の大きさはやはり魅力的であった。しかしいかんせん安物なので、機能が乏しかった。カメラの画質の悪さ、Bluetoothの不具合、電池の消耗の速さなど、不都合に思う場面は少なくなかった。なにより重たかった。
 それでこのたび、「nw」に書いたとおりの理由から、いよいよ自分の意志によってスマホに乗り換えた。画質のいいカメラで写真を撮り、それをインスタグラムなどにアップする心積もりもある。きわめてスマホなのである。もはやノートパソコンの小型版という言い訳はしない。スマホを、スマホとして買った。僕はスマホユーザーであると、堂々と宣言する。長い年月をかけて、ようやくその境地に至った。僕がその境地に至る間に、iPhoneは13に至った。長い長い遠回りをした。
 あんた、そうやってウロウロして頻繁に買い換えるんだったら、高いやつが買えたんじゃないの、とファルマンに言われたが、はじめのタブレットから今回のスマホまで、4台の合計はせいぜいが7万円くらいのものだ。試しにiPhone13の値段を検索したら、12万円とかしていた。たっか! 高いんだろうとは思っていたが、まさかそこまでとは。信じられない。思考停止でなんとなくiPhoneを買うような輩(親あたりの世代を想定)が、12万円分の機能を活用しているとはとても思えない。阿呆だと思う。

 子ども部屋体制の刷新に伴う模様替えで、夫婦の部屋とピイガの部屋がマーブル模様になっていた。ピイガの学習机が夫婦の部屋に来て、ファルマンとピイガがピイガの部屋で寝る、という中途半端な状態だったのだ。これは、ポルガがひとり部屋になったのに伴い、ピイガもひとり部屋を持ってしまえばいいものを、ひとりで寝るのは嫌だと本人が拒んだ結果としてそうなっていた。この結果、僕はひとり寝の日々であった。しかしこんな宙ぶらりんな状態は長く続かないだろうと予想していて、案の定もう終わった。ピイガがひとりで寝ることを受け入れ(ただし寝かしつけはするという条件付き)、学習机は子ども部屋に帰り、その代わりにファルマンとファルマンの布団がこちらの部屋に舞い戻ってきた。まあ真っ当な、然るべき形である。われわれ4人家族は、ようやくこの部屋割りに至った。これがこの4人で生活する中での、到達点だろう。そう考えると少しだけ寂しくもある。