2020年3月26日木曜日

延期・アスリートファースト・ロゴデザイン

 オリンピックの延期が決まった。ようやくだ。その前にたっぷりと、「延期する以外ありえないだろ」という空気を蔓延させてからの発表だったので、世間はこのことをとてもなめらかに受け止めた感じがある。さまざまな利権が絡んでいるため誰もバシッとしたことがいえない組織構造、なんてことがいわれていたが、結果的にこのなめらかさを目の当たりにすると、ここまで引っ張ったことは、巧妙な手法だったんじゃないかという気もする。オリンピックが延期って、100年以上の歴史で初めてのことだそうで、わりととんでもないことなのに、我々はそれをスーッと染み透るかのように自然に受け入れてしまった。
 しかし1年延期。もう1年以上前からだいぶどうでもよくなってきていたオリンピックが、ここからさらに1年延期。ほとほとうんざりする。1年延びたということは、オリンピックに対して我々は、いまから1年前の状態に再び舞い戻ったということである。そしてそれはもう既に経験しているため、よく知っている。「来年のオリンピックに向けて」の話題が、どれほどしつこくて辟易するか。
 もっともいうまでもなく、純粋に1年前にリターンしたわけではない。2巡目の今回はそこへ、「見通しが立たないコロナの収束」と、「延期によって発生するさまざまな問題」までが付与される。そしてずっと騒ぎ続ける。
 以前母が、子どもたちが10歳前後から20歳前後になるあたりの期間を指して、「私に40代は存在しなかった」という表現をしたことがあり、(じゃあ俺はいったい誰と10年間暮していたのか……)と思ったことがあったが、どうもこれから1年半くらいは、日本のみならず世界の人々にとって、「ほとんど存在しない」日々になりそうな気がする。今回の発表で、その日々がとてもなめらかに始まったのだと思う。

 1年間の延期に関して、アスリート本人がいっているのを聞いたことがないので、アスリートそのものに対して義憤を抱いているわけではなく、ふた言目には「アスリートファースト」などと唱える謎の輩が、これについてもたぶんいっているので、その謎の輩のことを糾弾したいのだが、あの「アスリートは今年の夏に照準を合わせて調整をしてきたのでそれが変更になるのは非常に困難だ」という論調、あれはいったいなんなんだ。オリンピックに出るようなトップアスリートの調整はよく知らん、よく知らんが、7月の本番にピークを持ってくるために、3月時点でそこまでガチガチに行動を定めているような、そんな人間がいるとは思えない。もちろん日々の鍛錬はあるだろうが、試合当日にピークを持ってくる調整は、せいぜい3週間前くらいからでいいだろう。実際そんなもんだろう。どうもアスリートのストイックさをやたら神格化したがる層というのがいて、彼らはとにかくアスリートのことを崇拝しているため、スポーツをしない人間が下手なことをいうと、烈火のごとく怒る。アスリートに対して失礼、ということをすぐにいう。お前らにとってアスリートは尊い存在なのかもしらんが、体を動かすのが得意であることを尊敬につなげない価値観の人間もいるのだ。逆になぜ体を動かすのが得意だという程度の人のことを褒めそやさなければならないのか。もっともこれはアスリートに限ったことではなく、アーティストと呼ばれる人の周りにもまったく同じ感じの人々がいて、要するにその正体は「ファン」である。ファンというのは本当に恐ろしく、理解ができない存在だ。

 この期間において、しれっと「干支4コマ 2020ねずみ」を開始していた。やるなら今だな、と思って見切り発車でスタートさせたのだった。正月にアップをしなくなって以来、その年に起った時事ネタを含ませるのも常套手段となっていたが、ここまで現実世界に対してタイムリーに取り組んだのは初めてのことである。いま6話目までを投稿したところで、ここからオリンピックの話に入っていくつもりだったのが、ぼやぼやしているうちに延期が正式に発表になってしまい、すっかりタイミングを逃した。今年はタブロイド紙並みのタイムリーさを売りにしようと始めながら、いちばん大事なタイミングを逃してしまい、なんだかとてもホワイトキックな気持ちだ。あと6話、どうしたものか。
 まあそれはそれとして、今年は「ETO YON COMA」のタイトルデザインがとてもうまくいったので、もうそれだけでだいぶ満足している。ゼロから作ったオリジナルのデザインで、なかなかセンス良く仕上がったのではないかと自画自賛している。
 と、逆にいまそれをイジる人間がいるのか、と我がことながらなかなかに驚いている。このタイトルデザインを作るにあたり、くだんのデザインについてネットで検索をしていたら、「ロゴがパクリだったなんてありえない! こんなオリンピックはもう中止にするべきだ!」と怒っている人がいて、ああ、5年前にこの人の意見を聞き入れて中止にしていたらこんなことにはならなかったのにな……、と思った。ロゴデザインがパクリだった程度のことでオリンピックを中止にしろだなんてあまりに乱暴な意見だと思われがちだが、どっこい素晴らしい慧眼だったと今ならいえる。

2020年3月14日土曜日

共学・エルドアン・パラ

 毎度おなじみコロナの話題。WHOがこのたびとうとうパンデミックを宣言したのだった。そして感染の中心はアジアから欧米へと移動したらしい。特にイタリアでは死者が千人を超えたとか。なぜイタリアか、という理由はいくつかあるようだが、その中でたぶんいちばん信憑性の低い、「イタリア人はスキンシップが多いから」という説が、心に突き刺さった。その説が成り立つのならば、もしもこの国で一斉休校の対策が取られなかったとしたら、コロナは共学高校からまず流行りはじめたことだろうなあ、と思った。そうファルマンにいったら、「あなた高校が共学じゃなかったことを引きずり過ぎ」と呆れられた。引きずり過ぎもなにも、一生背負っていく所存だ。

 世界中でスポーツの大会やリーグ戦が中止になっていて、もはや今夏の東京オリンピック開催は風前の灯状態だ。立場上「やるに決まってんじゃん!」というほかない、都知事や組織委員長の言葉が、とても哀しく聞こえる。これはもう負けが決まっている戦争の、しかし逃げることは許されない指揮官のそれだ。本当はもうみんな判ってる。こんな、ギリシャでの聖火リレーが中止になったような状況で、4ヶ月後にオリンピックができるわけがないってことくらい。それでもさすがに中止にはしないようなので、延期になるわけだ。うんざりだな。こっちはもう数ヶ月前から、もうオリンピック飽きた、本当にどうでもいい、一刻も早く終われ、と思っているというのに、ここからさらに1年とも2年ともいわれる延期。この悪夢の狂騒曲はまだまだ続くのだ。
 そんな折、コロナ対策として握手などの接触をしない代替案として、トルコのエルドアン大統領が、これまでならば相手と握手をしていた場面で、自らの胸に手を当てて、「コロナ!」と唱える、というパフォーマンスをしていた。これは、だいぶ考えた末にこういう結論に至ったのだろうということが窺え、評価したい気持ちもあるのだけど、やっぱりどうしても、結果的にコロナ教の信者みたいになってしまっているため、浸透しないだろうと思う。そこはかとなく、はしゃいでる感もある。
 そしてこのはしゃいでる感で思い出したのだけど、トルコといえば、東京とイスタンブールとで、2020年のオリンピック招致で最後まで争った国だったではないか。なんか争ってたのにやけに友好的で、東京に決まったとき一緒に喜んでくれたとか、当時そんな報道があった。それで検索してみたら、「Tokyo」が告げられた瞬間、安倍総理のもとに駆け寄って抱擁して祝福した人物こそ、当時首相であったエルドアン現大統領その人だった。それを知り、なるほど、と膝を打った。はしゃいでる感、ではない。本当にはしゃいでいるのだ、エルドアン大統領は。あのときもしもオリンピックがイスタンブールになっていたらと考えたら、そうではない今の状況が嬉しくて仕方ないはずだ。ああよかった、日本が貧乏くじ引いてくれて。

 というわけで、もう表面張力がいつ弾けてもおかしくない、今夏のオリンピックなのだけど、この事態になってからの、「オリンピックはどうなる」「オリンピックはできるのか」という話題に接して思うことは、これまで大きな問題がなく予定調和に事が進んでいる間は、「オリンピック・パラリンピック」と、絶対にふたつをセットにして呼称し、オリンピックだけが大事なんじゃなくてパラリンピックもちゃんと注目してますよ、差別しないですよ、興味ありますよ、ということをアピールしていたのに、非常事態になったらもう、化けの皮はものの見事に剥がれ、人々の口からはパラリンピックのパの字も出てこない、ということだ。いや、解ってはいたのだけど。しかしまあ、いざとなったらこうもあからさまに、パラリンピックは意識の埒外に置かれるのか、と驚く。これまでだって別に信じてなんかなかったけど、マスクの転売やトイレットペーパーの買い占めなんかも目の当たりにして、しみじみと、良識なんてものは本当に、人間社会の、それも恵まれた地域の人々の、安定した暮しの中に時おり発生する、オーロラのように希少で尊いものだったのだな、と思った。

2020年3月13日金曜日

インターネット・いい体・スパゲッティ

 職場で休憩時間にタブレットを操作していたら、後ろに立っていた婆さん(職場には婆さんがたくさんいる)が、「それってなんでもできるの?」と訊ねてきたので、「なんでも……?」となる。それで返答に困っていたら、婆さんは重ねて「なんでも」といってくる。依然として問いかけの意図が掴めないが、「インターネットができるだけですよ」ととりあえず答えた。そうしたら婆さんは「はあ。インターネットね……」とふわっとした反応なので、「インターネットしないんですか?」とこちらから訊ねると、「ないない。ぜんぜんしたことないの」という答えだった。へええ、と思った。インターネットにまるで触れずに生きてきた人を、ずいぶん久しぶりに見たかもしれない。それはいまどき、かまいたちのネタにあったような、となりのトトロを見たことがない人よりも、はるかに希少価値があるのではないかと思った。インターネットの普及前と後では、パラダイムシフトが起っていて、だから知ってしまった後の我々は、もう前の世界の状態を正しく捉えることができない。この婆さんには、もはや我々がどうがんばっても見ることのできないその世界が見えているのだ、と少し昂揚した。ただし婆さんは続けて、「インターネットってあれでしょ。悪口が広まるやつでしょ」といったので、なんのことはない、インターネットのことを完全に知らない人ではぜんぜんなかった。とてもわかりやすい偏見を持っていた。

 コロナのあおりを受けて、ジムにもプールにもサウナにも、もうひと月以上行っていない。そもそも公共のジムなんかは閉鎖されているし、プールやサウナは開いてはいるが、なんとなく足が向かない。なにもこのさなかに行かんでも、と思い自重している。自粛ではない。なにか大きなものにおもねっているわけではない。自らの意思としてそう選択してるのである。とはいえそのため、なんとなく発散できていない感じがある。
 思えばこの1年ほどでずいぶんとアクティブな人間になったものだ。きっかけは1年前の健康診断に向けての対策だった。それで運動不足の解消としてプールに行きはじめたのが、この肉体改造に勤しんだ1年間のはじまりだった。
 先日テレビに氷川きよしが出ていて、箱根八里の半次郎を唄うにあたり、半次郎の恰好をしていた。去年末からの氷川きよしの姿を見ているので、「これは氷川きよしにとって男装ということになるのだろうか……?」などと思案しながら眺めていた。それを一緒に観ていたファルマンが、「あなたってまだ女装願望があるの?」と訊ねてきたので、「もちろんある」と即答した。「ワンピースとか着たいよ」と。すると「そのわりに体を鍛えてるじゃない」といってきたので、「それは違う」と反論した。なにがどう違うかといえば、筋肉がついていない体=女性っぽい体という点だ。これは大いなる勘違いで、去年までの僕がそうであったように、筋肉がついていない体というのは、ただのだらしない体という、それ以上でもそれ以下でもないもので、別にぜんぜん女性のそれには近づかないのだ。だから筋トレと女装願望は矛盾しない。これに気づくまでにすごく時間がかかった。

 アメリカのドラマ「THIS IS US」を観ている。ちょうど36歳でこのドラマを観ているというのも、なかなか貴重な経験なのではないかと思う。
 観る人はものすごく観るらしいアメリカのドラマだが、僕はこの作品が初めてで、だからとても新鮮だ。思えばアメリカ人の暮し向きについて、僕はハリウッド映画の印象しか持っていなくて(それだって人生で数本くらいしか観ていないが)、だからアメリカ人というのは、日本人なんかとはぜんぜん違う思考で動く、とにかく激しい、ほとんど違う星の人々のように思っていた。しかしこのドラマを観ていたら、ぜんぜんそんなことなかった。36歳のアメリカ人たちは、僕が普通に共感できることで喜び、驚き、悩んでいた。そのことにとても驚いた。あの人たちと僕は、同時代を生きる、同じ「科」だったのか。
 あと登場人物たちのセリフで、セックスは「セックス」だったし、スパゲッティは「スパゲッティ」だったし、ダイエットは「ダイエット」だった。案外そうなのか、と思った。特に「スパゲッティ」だ。アメリカ人、「スパゲッティ」っていうんじゃないか。スパゲッティはパスタの一種のスパゲッティーニに過ぎずうんぬん、みたいな御託はなんだったんだ。よかったんじゃないか、スパゲッティで。「パスタ」とかいわなくてよかったんだ。なんだ「パスタ」って。いいよもう、あのマカロニの亜種みたいなやつら。あのシリーズ、もう一生食べられなくてもいい。どんなソースだろうと、ちゃんと麺になってる、あのスパゲッティでしてくれればいい。ちなみに僕はスパゲッティを必ず箸で食べる人です(ファルマンからはいつも睨まれながら啜って食っている)。
 今はまだ18話中の7話あたり。ゆっくり観ている。滅法おもしろい。

2020年3月3日火曜日

コロナ・コロナ・コロナ

 コロナで春休み前倒しの一斉休校となり、ポルガの通う小学校も例に漏れず、先週の金曜日で今年度がほぼ終わった。なんとも性急で特異な事態なことだな、と思う。しかし小学校は休校なのだが、幼稚園は休園にならず、そのためピイガは今週も普通に登園している。なんとなくおかしな感じだ。小学生は留守番ができるが幼児はできない、みたいな判定なのだろうか。あまり理屈になっていない。そもそも理屈になっていないという意味では、これまでもこの時世は、女性に対して仕事と出産と子育てと家事というムチャブリをしてきたわけで、その時点でぜんぜん理屈になっていなかったし、今回のことでさらにその理屈は大いに破綻したように思う。わが家にはファルマンがいるので、今回の事態においてもあまり問題はなかったが、じゃあ結局、両親ふたりともが外に働きに出ていかないほうが正解なんじゃないの、ということになる。こうして、いざってときに結局は母親による融通に頼る感じになるんだったらば。

 コロナで買い占めが起っていて、気持ちがくさくさする。買い占めも嫌だし、高額転売も嫌。僕なんて平常の暮しにおいてもだいぶ他者のことを嫌悪しながら生きているのに、こういう事態になるといよいよ世の中に対しての苛立ちが募る。
 たしかに不足は怖い。物資に満ちているように思える現代社会だが、結局は「店に並んでいるもの」で生きているのだな、ということを、今回のことで痛感した。それはかつて自然の中で狩猟をしていた時代と、綱渡り加減はそう変わらないのかもしれない。どこのスーパーに行っても、肉も魚も野菜も売っていなかったら、われわれは10日くらいで飢えてしまう。店に売ってなかったらなんにも手に入らないんだな、としみじみと思った。
 マスクが店頭から消えて久しいが(幸い家にはまだストックがある)、近所のドラッグストアでは、がらんとしたマスクの売り場に石鹸が置かれ、その脇に手書きの、手洗いがどれほど大事か、どうやって洗えばいいかを伝えるポスターが掲示されていた。これはとかく気持ちがマイナスになりがちな今回の出来事の中で、だいぶ救われた。店頭のがらんとした棚というのは、それだけで寂寥感があるので、それを隠す意味でも、そしてマスクを妄信的に求める精神を諫める意味でも、とてもよかった。新聞に投書したいくらいの、いわゆるちょっといい話だ。

 コロナでやはり大相撲の3月場所は、無観客での開催が決まった。大相撲を無観客でやるとどういう感じになるのか、あまり想像がつかない。今週の日曜日が初日。相撲そのものへの興味よりも、その異常事態への興味本位で、チャンネルを合わせてしまうだろうな、と思う。
 その大相撲に関して、不謹慎なのであまり大きな声では言えないのだが、思いついた以上どうしても言わずにおれないフレーズというのがあり、ここに記しておきたい。
 「はっけよーい、濃厚接触!」というのがそれで、「のこった」と「濃厚接触」は「のこ」までが掛かっているので、これはかなり上手いのではないかと思う。決まり手は上手出し投げ。上手出し投げで破皮狼関の勝ち。