2019年6月27日木曜日

低気圧・ハリー・ちんぽこ

 日中やけにイライラ、モヤモヤ、クヨクヨと、柄にもないマイナスの感情に苛まれたのだけど、さすがに経験則があるので理屈がわかっていた。
 これは低気圧のせい。
 だから本格的にその懊悩に心を浸してしまうことはなく、陥りそうになったらすぐに「これは低気圧のせい」と自分に言い聞かせ、深入りはせずに済んだ。そして労働の帰りにプールに寄ってたくさん泳いだら気分がリフレッシュした。よかった。
 そのあと家に帰ったら、家族も押し並べてかったるそうにしていた。低気圧すごい。
 そしてこの低気圧禍で想起されるのが、大阪で今週末に行なわれるG20である。カーラジオでは関西の放送局がかかるので、最近では毎日その話題ばかりで、なんだかそこそこ臨場感を持って開催を待ち受けているのだが(会場のインテックス大阪にも行ったことがあるし)、よりにもよってこの低気圧である。
 この本来とても陽気な僕でさえダウナーになってしまう過酷な気圧の中で、アメリカとか中国とかと、貿易摩擦のことなどを話し合うのである。ただでさえ気が重かったのに、さらに脳が圧縮されるような不快感まで付与される。考えただけで気が重い。
 ろくな結論は出ないと思う。

 ハリーポッターは2巻の中盤。読むペースで察せられると思うが、まだそこまで入れ込んでいない。けれどそれなりに愉しく読んでいる。巻の冒頭で、ダーズリー家で契約相手を接待する場面があり、この商談が成功するとダーズリーの会社には相当な利益があるようで、ハリーに絶対に邪魔をするな、出てくるな、と命じるのだが、なんか屋敷しもべとかいうのがハリーに会いにやってきて、そいつのせいで話し合いがめちゃくちゃになる、という場面があり、ダーズリー家は本当にかわいそうだと思った。ダーズリー家も、ダーズリーが社長を務める会社の社員もかわいそう。ハリーは最終的にはちゃんとダーズリー家へ、育ててもらった恩を返すのだろうか。
 こういう話をすると、全巻を読み終えているファルマンが「ああ、それは、まあ、言っちゃうとね、うん、うふふ」とニヤニヤするのでいやらしい。

 唐突に始めたブログクロス連載小説「俺と涼花」がおもしろい。とても愉しみながら書いている。
 この中で先日、「わからんちんぽこどもとっちめちんぽこ」というフレーズを出した。これが書いた翌日以降もずっと頭に残り、労働中も心の中でずっと「わからんちんぽこどもとっちめちんぽこ……」と考えてばかりいた。帰宅したらファルマンも同じ状態になっていたようで、僕がそれを口に出すたびに、最近この人のここまでの笑顔は見たことがない、というほどの爆笑をするのだった。
 「うわのそら」のファルマンさんは、「わからんちんぽこどもとっちめちんぽこ」で腹の底から馬鹿笑いするんですよ。騙されちゃいけませんよ。

2019年6月18日火曜日

ハリーポッター・バケモノ・飴師匠

 数ヶ月前にファルマンとポルガの中で強烈なハリーポッターブームが起り、そのとき僕は、刊行中だった当時に4巻とか5巻くらいまでは読んで、でも次のが出る前に話とかキャラクターとか忘れるから、後半で話がややこしくなってくることもあり、入れ込めずにフェードアウトしたという、こういう人すごく多いんだろう的な、読んだとも言えるし読んでないとも言える、そういう立場だったので、ふたりのブームに対しても、やはり原作に対するスタンスと同じくらい、入れ込めずにいた。
 そんな僕だったのだけど、このたびとうとう、さしあたって読む本がないこともあり、いっそのことハリーポッター読んだろうやないか、と発起した。発起するにあたり、家族のふたりや、さらには世間のハリポタ好きとか、USJとか、映画とか、そういう要素をすべて頭の中から消して、ハリーポッターに対する期待も嫌悪も一切ない状態で読もう、と思った。僕はなにしろ、この本が好き! とか、この話の大ファン! みたいなことをのたまう人間が大嫌いなのだ。だからそういう人が多そうな本は絶対に読みたくないのである。それなのにハリーポッターを読むことにしたのである。なので本当に、4000年後くらいの未来人が、失われた文明の図書館で見つけたくらいのまっさらな気持ちで読んでいる。いまハグリッドがハリーを迎えに来たところ。ダーズリーはハリーを嫌っておきながら、どうしてあんなにハリーを手放すのを嫌がるのだろう。

 幼稚園の母親たちのグループLINEで、園の行事に関する分かりにくかった部分を、ひとりの母親が園に確認をして、その詳細を伝達してくれた、ということがあったそうで、それに対してグループのメンバーである他の母親たちが、みな次々に「ありがとうございます」という要旨のスタンプを貼っていく、という流れがあったという。その様を見てファルマンも、正体はバケモノながら、必死に隠そうと人間社会でがんばっているので、流れに乗ってスタンプを貼ったのだ。
 ブラックジャックのピノコの。
 そうしたら、実際にその画面を見せてもらったのだが、おもしろいようにそこでその流れが止まったのだった。誰ひとりとして足並みを乱す者もなく、ピタッと。
 かわいそう、とさすがに思った。
 たしかに他の母親たちの貼るスタンプは今風の、カナヘイ風の、うさぎとか猫とかの当たり障りのないものばかりで、その中にいきなり現れた手塚治虫は一同を唖然とさせたことだろう。しかしだからと言って、そこまで明白に流れを止めるなんて、みんなちょっとファルマンいじりが優秀すぎるんじゃないだろうか。いいぞもっとやれ。

 今日、職場でおばさんから、「ちょっと痩せた?」と言われ、欣喜雀躍した。
 やっと言われた。この数ヶ月の摂生と運動によって体が引き締まったことは、鏡を見たって体組成計のデータ(毎日計っている)を見たって明らかなのだが、しかし人から言われる喜びというのは、それらとは較べ物にならないものがある。本当に嬉しい。思わず前のめりになって、いま運動とかして体を鍛えているのだ、ということを語った。痩せるのは本来の目的ではないのだが、とは言え摂生しているので副産物として痩せちゃった形なんだよね、と普段びっくりするくらい喋らないのに、朗々と語った。それくらいテンションが上がった。
 ちなみにそれに気づいたおばさんというのは、前から話にちょくちょく登場している飴師匠その人であり、この数ヶ月間においても飴師匠はもちろん通常運転で僕にちょいちょい飴をくれていたのだが、「あざーす」と受け取りながら、それらはすべて引き出しにしまい込んでいるのだった。糖質やGI値のことを気にして飴師匠の飴は舐めなくなった僕だけど、さすがは飴師匠、僕にとびっきりの甘い喜びを与えてくれました、というお話でした。

2019年6月13日木曜日

リモコン・筋肉・夏の予定

 日馬富士を家に招待する夢を見た。どういう所以でそういうことになったのかは知らない。僕がタニマチという設定だったのだろうか。そう言えばなんとなく大きな家に住んでいた気がする。なんてったって日馬富士と言えば横綱なので、僕は大いに張り切り、存分にもてなした。なんの起承転結もない、ただそれだけの夢だった。
 起きてからその夢のことを思い出して、夢の中の僕は日馬富士について、貴ノ岩とのカラオケのリモコン事件のことをぜんぜん気にしていなかったな、と思った。と言うか横綱として彼のことを見ていたし、僕の歓待に「こいつキレさすとやべえ」みたいな陰りは一切なかった。つまり今日の夢は、あの事件が起る前という設定だったわけだ。
 だとすればこれは未来に起ることを先に見てしまう予知夢の、世にも珍しい、そしてなんの利点もない逆バージョンだということになり、これを「なにむ」と呼ぶのか知らないので、僕が勝手に名付けてしまおうと思う。これを安馬夢といいます。

 ストイックな生活を3ヶ月ほど続けて、ようやくお腹にうっすらと、筋肉の形のようなものが(調子のいいときは)(おぼろげに)見え(ないこともなくなっ)てきた。切ないほどにとても微かな兆しなのだが、それでも嬉しい。もっとも筋肉はもうちょっと甘い設定でついてもいいのではないかと思う。
 筋トレは腹を中心に、背中と胸と、あと少し嫌だけど太ももあたりもやっている。脚に筋肉がつくと代謝がよくなると本にあったので。でも腕のことは一切やってない。腕がムキッとなっているのは趣味じゃないから。だから腕はこれまでと同じで、ほむほむしている。最近パピロウ筋トレとかし始めて、ウチらの好きなパピロウとなんかちがう……と戸惑っている人は、だから腕を見て安心してほしい。ほむほむしてるから。
 先日ポルガが体育で体力測定をしたそうで、その際の左手の握力の記録が9キロだったという。左手の握力がひと桁って、僕の中学時代の記録と一緒だ。これはDNAだな。

 夏休みには島根に行って、日本海で泳ぐという目論見がある。夏にも、帰省にも、本当にそれしか求めていない。それさえできればいい、と考えていた。それだのにどうやら今年の夏も、義両親を中心に、さすがにキャンプではないが、みんなでの外泊の予定がいつの間にか立ち上がっているそうで、これはやばい、と思った。この話は、この段階ではっきりした態度を取っておかないと、あれよあれよと勝手に組み込まれていくタイプのやつ。たぶんまた3人は長めに帰省し、僕だけ頭かお尻の2泊3日ほどをともに過すという形になるのだと思うが、2泊3日しかないのに外泊なんて、とてもじゃないけどしてられない。目的が違うし、なによりとても疲れるのだ。たぶん泳ぐどころの気分じゃなくなる。したくもない外泊で海水浴ができなかったら目も当てられない。だからこの段階で態度を曖昧にせず、きっぱり断ることした。僕は不参加と。残念だけどと。それは僕が行く前か、僕が帰ったあとの期間に、愉しくやればいい。あとはこの主張が通るかどうかだ。