2021年5月23日日曜日

オオキンケイギク・友情・百年前日記

 今年は異様に早く梅雨入りし、そもそも山陽から山陰に冬に出てきて、ようやく本格的な春となり、これからは山陰のとても限られた、明るい天候の日々になると思っていたら、見事に期待を裏切られた。やー、ぐずつく。日本海側は本当にぐずつくな。
 それで、向こうとは気候があまりにも違うし、生活もなにかとバタバタしていたりで、すっかり失念していたのだけど、先日車で走っていた道の端に、オオキンケイギクが咲いていて、「あっ」と思った。そういえば、5月下旬は、オオキンケイギクの咲く時期だった。
 あまりにも悪名高く、好きだなんていったら白眼視されるオオキンケイギクだけど、でもやっぱり形といい、色といい、好みだ。
 そのとき見かけたのは道路と歩道の間のちょっとした土の部分に咲いていたもので、目にして思い出した感慨はあったものの、スケールとしてはあまりにも物足りなかった。それ以来、どこかに群生していないものかな、と期待しているのだけど、行動範囲には残念ながら見当たらない。川や湖など、近所に水辺はけっこうあるのだが、どうやらこの土地はあまりオオキンケイギクに侵食されていないようだ。それはたぶん世の中的にはいいことなのだが、個人的には少し悲しい。
 ちなみに僕のLINEのプロフィール画像はオオキンケイギクだ。

 相変わらず「ズッコケ三人組」を読みまくっている。元のシリーズはもちろん、中年のほうももう半分くらい読んだ。前回これについて述べたとき、よく考えたらズッコケ三人組って友達の物語じゃないかよ、といまさらながらに憤慨したが、読めば読むほどその思いは強まっている。このシリーズは、友情とか親友とかの大切さを押し付ける、説教臭い児童文学ではなく、たとえば「おいしい」という言葉を使わずにおいしさを表現する、みたいなもので、ハチベエ、ハカセ、モーちゃんの3人は、ことさら友情を確かめ合うわけではなく、むしろその結びつきは友達と呼ぶには足りないくらい淡白のような気さえするのだけど、しかしやっぱり強い友情がここにはあるのだ。その友情はあまりにも強固で当たり前のものだから、わざわざ語るまでもないのだ。それだから僕は時間差でそのことに気づいて、なんだよこれめっちゃうらやましいやつじゃん、と身悶えることとなった。
 友達が欲しい、などといっている間はダメなのだ。友達とは気づいたらなってるもの(「君に届け」)だし、なんとなくいつも一緒にいて、周囲から「ズッコケ三人組だ」と評されるものなのだ。すなわち、友情とは無自覚であるべきなのかもしれない。友情は無自覚であるべきだと自覚した僕と、誰か友達になってくれないだろうか。

 ブログが拡散し、ふたたびこの「hophophop」や「おこめとおふろ」を投稿するようになったことで、それまで収束していた「百年前日記」を今後どう扱ったものか悩んだ結果、去年から書いている、去年からの日々を綴った、その名も「百年前日記」を、不定期に更新している。しかしあまりに赤裸々な内容なので、いちいち投稿報告はしていない。しかし投稿報告をしないと、あまりにも誰にも読まれていないような気がして、もっともこれは投稿報告をしたところでそう変わる気もしないのだけど、とにかく広く読まれたいような、あまり読んでもらいたくないような、いかにも、あえてこの時代にブログなんてものをやっている、こじらせ感が横溢している次第だが、しかしこの複雑な心境こそブログの真髄だろうとも思うわけで、その思いの発露として、やっぱり投稿報告はしないのだけど、このたびここに、そんなものを不定期に更新しているんですよ、ということを記した。こじらせている。

2021年5月11日火曜日

体・夏・友

 サウナやプールで自分の体を見るたびに、首をかしげる。
 この体は……、締まっているのか? それともただ痩せているのか?
 自分でも、どうにも判断がつかないのだ。167センチで53キロなので、瘦せ型ではある。だから知らない人から見たら、僕は筋肉がついている人ではなくて、贅肉がないものだから必要最低限の筋肉が表面に露出しているほうの人にしか見えないだろうと思う。しかし曲がりなりにも、僕は実は筋トレをしている人間なのだ。筋肉がきわめてつきにくい体質ではあるけれど、そうはいっても体としてもなんかしらの反応は示しているはずだ。これはその筋肉だ、だからこの人物はいわゆる細マッチョなのだ、という気もする。
 筋トレを始めてもう2年あまりになるが、それなのにまだこの段階、というのが切ない。

 先日とある場所で見かけた女性が、非常にどこかで見たことのある気がする顔の人で、誰だっけ誰だっけ、としばらく悩んだ。島根県生活も2度目なので、かつての職場で知り合った人物であるとか、いろいろ選択肢はある。しかしなんとなくの印象で、どうもそんな最近の交流ではないような気がする。あの人を見たのは、もっとずっと前、たとえば僕が十代の頃だったのではないか。しかし十代ということは横浜市時代である。そんな頃に知り合った人と、まさかこんなふうに島根県でばったり出会うものだろうか。まあ自分自身がこうして島根県に来ているのだから、相手だってなんかしらの事情により島根県にたどり着く可能性はいくらでもある。しかしそれにしたって思い出せない。絶対にどこかで見たことあるのに、どの時代のどの集団にいた人なのか、まるで見当がつかない。もっともよくよく思い返してみれば、別にそこまで特徴のあるわけでもない、よくある顔だ。どこで出会ったということもなく、人生の端々にあの手の顔の女性というのは存在していたのではないか。そんなふうにも思った。
 それでもずっと頭の中で、その女性の顔を思い浮かべていた。
 そして夜になって、つまり5時間くらい経って、ようやく思い至った。
 まさか本人ではないと思うが、あの女性は、モーニング娘。の振り付けで知られる、夏まゆみ先生にそっくりだったのだ。なるほどあれはよくある顔だ。同級生の母親とかに、必ずひとりはいる顔。そして自分が十代の頃に交流があった(「ASAYAN」などでよく目にしていた)、というのもぴったり当て嵌まる。特定できてとてもすっきりした。

 「ズッコケ中年三人組」に手を出す。目下「ズッコケ三人組」を僕と競い合うように読んでいるポルガと、これも一緒に読もうと思っていたが、冒頭からハチベエは水商売の女をホテルに誘い、不倫をしようとしていたため、とても読ませられない、と思った。あくまで、かつて「ズッコケ三人組」を読んでいた元子どもの大人、すなわち僕みたいな人間向けに書かれたものであって、リアルタイムで児童書のそれを読んでいる子どもには向けていないらしい。挿絵もないし、ここまできっぱり貫いていると気持ちがいいと思った。
 この本で主人公たちは40歳になり、それぞれの実生活においてそれなりに苦労をしているが、しかし彼らがどれほど苦境に立たされたところで、やはり「三人組」というくらいで、その友達の存在がずるいと思った。「ズッコケ三人組」は、それほど友情物語というわけでもないけれど、しかし三人組だ。そういえばずるい。いまさら気づいて、そのずるさにおののいている。