2022年12月22日木曜日

ポイント恨めし・広い心の身長・メスの安寧

 マイナンバーカードの申請をして例のポイントがもらえる期限が、当初の今年12月末から来年2月末まで延長されたらしい。納得がいかない。どの部分に納得がいかないかと言えば、すぐに申請した人間と、そうやって延長されてやっと申請した人間のもらえるポイントが、同額であるという点だ。ここは差をつけなければおかしい。それは首謀者(国)的にも都合がいいはずだ。首謀者は申請数を増やしたいのだろう。だから延長するのだろう。ならばポイントに差をつければいい。3000円程度の差をつければ、12月中の駆け込み申請が怒涛の如く押し寄せるに違いない。そんなの火を見るより明らかだ。「差をつけるなんて不公平だ」という批判が怖いか。あり得ない。どこに不公平があるのだ。門戸はずっと開かれていた。それだのに、他人と較べて損をしてしまう、という実感を得るまで申請しなかった人間が100%悪い。悪いはずなのに、なんの区別もなく救済される。納得がいかない。そのことに納得がいかないし、そしてあまりにもマイナンバーカードが日常でなんの役にも立たない。

 今年も健康診断が執り行なわれる。クリスマスと年末年始の直前というこの時期は、健康診断のタイミングとしてはなかなか好都合だと思う。すなわちそれは、不摂生期間の直前ということだからだ。これが年明けすぐとかだと最悪だろうと思う。
 今年は数値をよくするために静かに闘志をみなぎらせていて、実は12月はこれまでろくに酒を飲まずに来た。なのでたぶん芳しい結果になっていると思う。年明けの結果通知が愉しみだ(なんだか逆に伏線のようになってしまった)。
 ちなみに去年165.8という数字を叩き出し、計測者を無能と言い募り、僕の中でノーカンとすることにした身長だが、今年は165.7だった。0.1に関しては、誤差なので気にしない。大事なのは、同じだということだ。すなわち、去年の数字はなにかの間違いというわけではないのかもしれず、もしかすると僕がずっと信じてきた166.7という数字こそが間違いだったのかもしれない。でもね、それならそれでいいのです。もう達観しました。身長は、低いよりも高いほうがいいが、それは162に較べて176のほうがいいよね、という次元の話であって、165と166は、うん、誰にとっても、もはや本人にとっても、どっちでもいい。だってどちらにせよ、広い心で見れば170ですからね(懲りない)。

 夫婦ともども友達がいないキャラで売っていたつもりが、妻には娘がいるじゃないかよ、すっかり裏切られた、ということを前に書いた。それを読んだファルマンが、「そういえば私は、妹がふたりいたから、昔からそんなに積極的に友達を作ろうと思ったことがない」と言ってきて、ますます打ちひしがれた。さらに言えば、ファルマンにポルガとピイガがいるということは、ファルマンの母にとってはファルマンがそういう存在であるわけで、ファルマンは、上にも、下にも、そして横にも、波長の合う存在が多数いるということだ。ぜんぜんだ。ぜんぜん違う。なぜ最初、同類だと僕は思っていたんだろう。満たされない者同士の友情を感じていたら、実はあいつの実家めちゃくちゃ太い、みたいな裏切られ方だ。
 前回の記事を書いていたときにも頭にあったが、サルとかの群れの、基本はメスで、オスはリーダーの1匹だけで、それはある日急に取って代わられることもあり、そしてオスの子どもはある程度の年齢になったら群れから追い出されるという、そんな仕組みが、人間にもある気がする。僕には父親はおらず、兄弟もいないし、息子もいない。しかしいたとしても、ファルマンがあれらと接するようには接さないだろうと思う。どうも基本的に、人間関係、人間社会というものは、メスの安寧が保たれるように成り立っている気がする。

2022年12月16日金曜日

タイヤ交換・ワクチン接種・クラス担任

 まことに寒い。寒さってこんなにつらいものだったっけ、と呆然とするくらい寒い。一気に寒気がやってきて、先日などは短時間だが吹雪きさえしていた。年内に吹雪くかー、と日本海側の冬のスピード感をまざまざと思い知った。その寒波が来るという予報が出たところで、ファルマンとMRワゴンのタイヤの交換を行なった。フリードのほうは、もう少し前に、義父の車とともに業者に来てもらって既に交換していた。基本的に近所しか運転しないMRワゴンはそこまで急がなくてもいいだろうと暢気に構えていたのだが、思っていたよりも早い決行となった。そして今回、ファルマンとふたりで作業をした結果、われわれ夫婦はひとつの結論に至った。普通自動車は素人にはちょっと大変だけど、軽自動車ならそこまでじゃないから自分たちでタイヤ交換をやるという、義父の流儀をなんとなく踏襲して、この2年ほどをやってきたけれど、軽のタイヤ交換だって、ぜんぜん業者に頼むべきだ。やろうと思えばできることではあるけれど、だから自分たちでやったほうが常に得かと言えば、決してそんなことないのだ。1台2000円ほどである。そしてどうせ業者は義父の車とフリードのタイヤ交換のために呼ぶのだ。じゃあもうついでにMRワゴンもやってもらったほうが、心の底からぜんぜんいい。その2000円、ぜんぜん惜しくない。寒風吹きすさぶ中でのタイヤ交換、普通にとてもつらかった。できることならもう二度としたくない。あれが2000円で回避できるのなら、そのほうが断然いいと思った。次の、4ヶ月後くらいの、ノーマルタイヤへの交換から、そういうことでお願いしようと、夫婦で強く心に誓った。

 4回目の新型コロナウイルスワクチンを接種する。マスクもワクチンももう不要なんだよ、いまだにそんなことに拘泥している奴は思考停止の情報弱者なんだよ、という風潮もあり、そういうことを言う人々に対し、マスク着用やワクチン接種の重要性を訴える熱意も知識もないのだが、ただもう単純に、やっぱり受けておいたほうがいいかな、というほうに気持ちが振れたので受けることにした。というのも、もう1ヶ月ほど前になるが、ピイガが熱を出したことがあり、とうとうわが家にもコロナがやってきたかと暗澹たる気持ちになり、しかし抗原検査の結果は陰性だったので事なきを得たのだが、でもそのときに抱いた恐怖というのは想像していた以上に強かったので、やっぱりワクチンは受けておくに越したことはないな、と思いを改めたのだった。それまでは、3回目の副反応がけっこうハードだったこともあり、4回目からは逃げようと思っていた。思っていたんですけど、やっぱり受けることにしたんですよ、というエピソードを職場で披露したら、職場には高齢者が多いため、なかなか好評を得た。いちどは受けないスタンスを取りながら改心して受けることにした、というストーリーが、余計に老婆たちの心を掴んだと見えた。
 それで4回目の副反応だが、ファルマンはいつも通りの1日半くらいダウン、そして僕はほぼほぼなし、という結果だった。接種の予約が取れたのが平日で、次の日も普通に出勤だったため、副反応がひどかったら嫌だな、と思っていたので、本当によかった。
 受けたら受けたで、やはり安心感がある。寒さが増し、感染者数もどんどん増えてきていて、そして年末年始に突入するので、あのタイミングで決心し、なんとか予約が取れ、接種することができてよかった。

 2学期も終わるということで、子どもたちの個人面談が行なわれた。
 その際にそれぞれの担任から語られた子どもたちの評をファルマンが教えてくれ、なかなかおもしろかったので、ここに記録しておくことにする。
 まずポルガ。

・文章すごい。
・休み時間は自由帳が多いが、たまには人とも遊ぶ、誘われれば遊ぶ。
・自由帳を描き続けているので、男子にたまに「なに描いてるのー」などちょっかいっぽく言われることもあるが、意に介さない様子。実は心が痛いのではないかと心配しているが、行動がぶれる様子はない。
・係の仕事を忘れがち。周りの人がやっていても気づかず、言われないとやらないので、もう少し周りの様子を見れるようになるといい。
・勉強はよくできてるので、もっと難しい問題集を買ってやってみることをお勧めする。

 続いてピイガ。

・男子と鬼ごっこなど、日々元気いっぱい遊んでいる。
・自然と周りに人が集まってくるキャラクター。
・困っている人を助けてくれる。
・係の仕事を決して忘れず毎日やってくれている。
・勉強は、ノートがきれい。
・よく手を挙げて発表する。間違うこともあるが、再びくじけず発表する。
・テストはほどほどにちゃんとできている。
・一学期よりは、じっと座っていられるようになった。ものを机から落とす頻度も減った。
・分からないときちゃんと質問できるので偉い

 まあどちらもおおむね想像通りの学校生活なのだな、と思った。キャラが違っていておもしろい。そして教師というのは思っていた以上に生徒をちゃんと見てくれているようだ。時代だろうか。僕の小学校時代はたぶん、そんなことなかったと思う。あるいは地域性だろうか。学校給食がひどいことで名高い横浜市だからな。教育が崩壊しているのかもしれない。

2022年12月11日日曜日

箪笥体制・母娘・流行語

 衣替えで箪笥の中が冬服になって以降、引き出しの中がギッチギチである。はっきり言って成立していない。開けるのも閉めるのも渾身の力を込めてせねばならないので、なるべく最小限で済まそうとして、とても狭い範囲しか使えていない。活用していない、箪笥の使い勝手を悪くする作用しかない服なんて捨ててしまえばいいという話なのだが、冬服というのは捨てるのも夏服よりもパワーが必要で、どうもその踏ん切りも付かず、にっちもさっちもいかない状況がずっと続いている。
 そんな中で、ファルマンと僕の間で、箪笥という存在への不信感が強まってきている。我々がこうして持っている服をうまく活用できていないのは、もしかすると箪笥に原因があるのではないか、という疑念である。
 箪笥には、服を収納するという機能があり、我々はその機能に対してお金を払って箪笥を購ったわけだが、どうも箪笥はそのお金を、服の収納だけでなく、箪笥を箪笥たらしめる、箪笥自身の価値向上へもだいぶつぎ込んでいる節があると思う。それは大袈裟に言うと、体制であるとか、既得利権であるとか、そういう種類の欺瞞である。我々夫婦は日本大学という所にかつて所属していたので、その手の気配には敏感なのだ。
 家財という言葉がある。また箪笥はかつて嫁入り道具であったという。わが家の箪笥はもちろんそんな上等のものではなく、ニトリとかで買った普通のものなのだが、それであっても箪笥には、服を収納する以外の部分に振っている余力がある気がしてならない。それは真摯ではない。傲慢だと思う。箪笥が、箪笥としての矜持を保つために要するエネルギーを、我々は服を収納する道具としての存在に、求めていないし、認めていない。そこにお金を払った覚えはない。
 今こそレジスタンスの時だ。服は箪笥に収納するもの、という先入観は捨て、引っ越しや模様替えのたびに多大な苦労をもたらす、肥大化し腐敗した体制は捨て去り、具体的に言うと、服が夏なら6、7枚、冬なら3枚くらい入る大きさの、使い勝手のいい機構のプラスチックケースみたいなものを、夫婦で15個くらい持っていれば、それで十分に事は足りるのだから、そうするべきだ。そうするべきだと心の中では確信しているのだけど、なにぶん肥大化した体制というのは、肥大化しているがゆえに、簡単には排除できない。その億劫さによって、体制というのはいつまでも腐ったまま君臨し続けるのだと思う。

 いつまでも夫婦ともども友達がいなく、僕はそのことについて、おととしあたりにようやく、「それでいいんだ」という感動の結論に至ったのだけど、そこまでの道のりが壮絶を極めたのに対し、ファルマンはだいぶ早い段階から、「友達なんていらない」「人間関係なんて面倒くさいだけ」と達観していて、僕は妻のそれに対して憧れと同時におぞましさを感じていたのだが、つい先日、リビングでやかましい子どもたちから避難し、夫婦の部屋にひとりこもって過し、廊下越しに響く3人の声を聴いていたとき、ある事実に気が付いた。
 妻と娘たち、とても愉しそう。
 子どもの相手で疲れると言いながら、ファルマンは娘たちと会話で盛り上がり、よく笑っている。それはまるで、友達同士のようだと思う。母と娘という関係性には、やはりそういう感じがある。もちろんそれ自体はとてもいいことだ。いいことだけれど、「夫婦ともども友達がいない」という前提は、ちょっと様相が変わってくると思う。ファルマンには、友達がいなくても、友達以上に気安く、波長の合う娘がいる。ふたりもいる。それに対し父である僕の「友達がいない」は、それ以上でもそれ以下でもなく、とても高い純度の「友達がいない」である。僕の「友達がいない」には、「だけど……がいる」がなにもない。完全無欠の「友達がいない」だ。そうか、だからだったのか、と得心がいった。なぜ妻ばかりが早々に達観し、僕ばかりが30代後半になってもジタバタしていたのか。同じ立場だと思っていたら、ぜんぜん後ろ盾が違ったのだ。妻には、母には、自分よりも長生きしてくれる、すなわち死ぬまで寂しくなることはない、確固たる保証があったのだ。ひどい裏切りだ。

 流行語大賞に「ヤー! パワー!」が選ばれなかった。それと村神様は当確だろうと予測していたので、とてもびっくりした。なぜ「ヤー! パワー!」が選ばれると思ったのかと言えば、流行ったというより、授賞式を盛り上げられるのはそれしかないだろうと思ったからだ。ベストテンのうち、毎年ひとつはそうやってギャグ枠、芸人枠を設ければ、主催者、マスコミ、芸能界、三方にとってメリットだろうと思うのだが、毎年のことながらこの選考というのはクセが強いな。
 選外と言えば、「顔パンツ」もベストテンから漏れた。道理で僕のもとに授賞式への出席の打診が来なかったわけだ。心の準備と、体の準備はしていたのだけどな。

2022年12月6日火曜日

シーズン・サッカー・ヘアー

 寒いったらありゃしないじゃないか。いまちょうど寒波がやってきているから、ということが言われるけれど、週間予報を見ても最高気温はずっと15度に達しない。そりゃあそうだよ、12月なんだもの、と言われたらそれまでだけど、これまで5月あたりから半年以上、熱が豊富な環境でのうのうと暮してきたので、急に過酷な境遇に置かれ、困惑している。気温お坊ちゃまなのだ。気温お坊ちゃまなので、寒波民が恭しく差し出した12度を、「こんなの嫌だよ!」と言って叩き落してしまう。それは寒波民たちが、子どもらの分も含め、それぞれ食事の量を減らし、やっと工面したものだというのに。もっともはじめはそんな態度だった気温お坊ちゃまも、ひと月もすればすっかりここでの暮しに順応し、寒波民の子どもたちに混ざって、8度を競い合ってむさぼるようになる。とは言え今はまだ過去の栄光が忘れられない。当たり前のように20度以上が与えられていた時代のことばかり考えてしまう。普通にしていたら手がかじかんでくるような寒さの中、さらに日も短く帰宅時は真っ暗となると、いよいよプールに行く気力は湧きにくい。プールの水は温かいし、泳いだあとは熱いシャワーを浴びて、むしろ普通に帰宅するよりも体が温まった状態で帰ることになるのだと、頭では解っていても、どうしたって足が向きづらい。これはあれだな。いわゆるひとつの、あれだな。シーズンオフだな。

 サッカーW杯の決勝トーナメント1回戦で日本代表が負けた。つまりベスト16。これまでベスト8に進んだことがないということで、悲願だったわけだが、残念な結果となった。僕自身は、そこに対する思い入れのようなものはもちろん持ち得ないわけだが、なんにしろかんにしろ、ギャグマンガ日和でも言われていた通り、トーナメントというのはそれだけで盛り上がるわけで、勝ち進んだらもっとおもしろかったのになー、という思いがある。軽いな。そりゃあ軽いよ。サッカー観たの4年半ぶりだよ。
 最終試合となったクロアチア戦は、月曜日の深夜零時(つまり火曜日)キックオフという、真っ当な社会人にはずいぶんハードな日程で、もちろん試合が始まる前に就寝したわけだが、ふと2時20分あたりに目を覚まし、スマホで確認したら、1対1で延長戦をしていて、PK戦になりそうな気配だったので、これは観るべきだな、と思ってリビングに行き、テレビで決着がつくまでを見届けた。そしてそのあとまた寝た。
 前回のスペイン戦しかり、今回のクロアチア戦しかり、僕の、試合中継を前にして寝るは寝るけど、終盤のわりといいタイミングで自然と目を覚ます能力は、どうもなかなかのものだな、と思った。サッカー日本代表は負けてしまったけれど、僕のこの能力は、もしかすると世界のベスト4くらいに食い込むかもしれない。

 髪が長い。もう十分に結べるくらいに長い。嬉しい。いつから切っていないのだっけと日記を振り返った結果、今年の5月21日の「hophophop」に、長髪のままブリーチしてド金髪にしたらあまりにもヤバい感じになったので仕方なく切った、という記述があり、どうやらこれ以来切っていないようだ。つまり現在、6ヶ月半か。なかなかだな。ファルマンはもちろん「切らせろ」「切らせろ」と日々言ってくるのだが、こちらの心は盤石だ。「前髪が分かれておでこが出てて変だよ」とか、「小汚いよ」とか、「得体が知れないよ」とか、あの手この手で説得しようとしてくるが、「いい」「大丈夫」「ノーセンキュー」と、すべて泰然と受け流している。5月の当該記事に、「39歳の僕は、たぶん弓道部の副主将みたいな黒髪ポニーテールをしている」という文言があり、そこへの準備は着々と整いつつあると言える。なにぶんこれから寒くなる一方なので、切らないことへの大義名分があるのがありがたい。こんなに寒く、心身ともにやられかけている人間に、さらに首元を寒々しくしろって言うんですか。そんなの虐待じゃないですか。裾野市じゃないですか。

2022年11月24日木曜日

日程・代表・最低

 勘違いしていた。11月の行事として、『cozy ripple新語・流行語大賞』と、『パピロウヌーボ』と、『パピ労の日報告』があり、勤労感謝の日が、パピ労の日報告の記事を書く日だと思っていた。でもパピ労の日報告は去年どころかおととしから投稿がされておらず、やはりコロナ禍や、ロシアによるウクライナ侵攻に端を発する世界の分断などもあり、今年も投稿は難しいという判断をしていた。だから昨日、11月23日にはなんの投稿もしなかった。でも今年は、大賞とヌーボに関しては2年ぶりに開催する気満々であり、その準備のために、2年前の当該記事を確認したのである。そうしたら、大賞は11月23日に、ヌーボはその翌日の24日にそれぞれ投稿、というのがここ数年の慣習であったようで、あちゃー、となった。2年のブランクがあると、こういうことになってしまう。仕方がないので今年に関しては、勘違いしていたまま、大賞の発表を11月30日、そしてパピロウヌーボを翌12月1日にお送りする予定である。23日に投稿がなくてやきもきしていたオールドファンは、どうか安心して、止めていた呼吸を再開してほしい。息を吸わないと、死んじゃうよ!

 『cozy ripple新語・流行語大賞』をしないで昨日は何をしていたのかと言えば、サッカーW杯の日本代表戦を観ていた(1日中観ていたわけではないが)。サッカーの試合を観るということを、たぶん4年半ぶり、前回のW杯ぶりに行なったと思う。もはや「にわかサッカーファン」でもない。ただの「W杯だけ観る人」だ。潔いだろう。予選もぜんぜん観ていない。しかし4年半ぶりに観たサッカーの試合は、とても当たりの試合で、あのドイツ相手に逆転勝利という、喜びの大きいものだった。それでも僕なんかは、今日はドイツ戦だなあときちんと身構え、晩酌の準備などもして観戦に臨んだのだが、ファルマンはその横で、「え、なに、日本試合なの?」という感じで一緒に観始め、それでいて試合が始まれば、僕よりもはるかに大きなリアクションで叫んだり喜んだりしていたので、こういう人は生きやすいだろうし生きているのが愉しいだろうなあ、と思った。

 触れるだけで火傷するくらいセンシティブな話題なのだろうが、LGBTってあるじゃないですか。それが最近はLGBTQになり、なったかと思ったら、わりとすぐにLGBTQIAと言い出し、これは一体どこまで行くのかと思ったら、最終的にはLGBTQIA+と、この+は、「他にもいろいろあるよ!」という意味だそうで、もういい加減、言ってる側か言われてる側かは知らないが、関係者の誰かしらが、ここらで打ち止めにしよう、ということを決めたようだ。打ち止めと言うとよくないな。はじかれることに対して敏感な人たちの関わってくる事柄だから。他にもいろいろある! でも他にもいろいろあるよ! って言い出したら、もうその前に並ぶアルファベットも一律になくしてしまって、いっそのこと+だけでいんじゃね? という気もしないでもない。しないでもないが、しっかりするわけでもない。強い意見を持っていない。この問題に関して強い意見を言って、いいことはひとつもない。とにかく触ったら即火傷をする話題なのである。
 ところで+の中には、僕も含まれるだろうか。僕の性的傾向は、じゃあDだな。DosukebeのD。普通の人に較べてだいぶ助平だが、それも多様性。許されて然るべき。持って生まれたものだからしょうがない。俺とタイガー・ウッズはもうしょうがないのだ。どうか受け入れてほしい。Dで集まって乱交デモしようぜ!

2022年11月14日月曜日

流行語・ボリューム・ゴーグル

 ユーキャンのほうの新語流行語大賞にやいのやいの言いつつ、もちろん僕も2年ぶりの自前の新語流行語大賞の選考が大詰めなのだが(初夏くらいから読み返し作業を始めたはずなのに結局こういうことになる)、それで読んでいた自分の記事に、吉野家の役員が放った「生娘をシャブ漬け戦略」のことが記録されていて、「あーっ!」と思った。今年の4月のことだった。半年経ってすっかり忘れていたけれど、パワーワードっぷりでは今年随一だったろう。
 こういう不謹慎系の言葉って、いくら強くても賞に選ぶわけにはいかないのが残念なところだ。あとあまり大きな声では言えないが、「マザームーン」という言葉も、かなりおもしろいと思う。でもこれは「生娘をシャブ漬け戦略」以上に絶対に無理だわな。

 体重が増えない。9月の上旬に、体を分厚くしたいと熱望し、ごはんとかをモリっと食べるほうの男性になろうと舵を切ったのだが、それから2ヶ月ほど経ち、どうなったかと言えば、体重計の記録を確認すると、9月7日時点で52.1kgだった体重が、いま53.1kg。増加に成功、というには数字の変化がささやかすぎると思う。それまで、そこまで大きくもない茶碗に、7割くらいしか盛っていなかったごはんを、あの日からはちゃんとした感じで盛ることにしたのだ。その結果が、2ヶ月で1kgの増加か。うーん。日々の筋トレやプールのおかげで、引き締まっている感じはある。でも厚みが物足りない。このところ身体でボリュームを褒められたのは、ちんこくらいのものだ。この話は本当に嬉しかったので、今後の人生で何度でも掘り返したいと思っている。

 愛用していたゴーグルが壊れた。後ろのバックル部分のプラスチックが割れて、固定できなくなってしまったのだ。実にリアルな、耐久限度を超えたのだな、という壊れ方だった。購入履歴で確認したところ、買ったのは2019年のはじめだったので、3年半使ったことになる。倉敷時代から現在に至るまで、その間かなりプールに通っていることを思えば、塩素に晒されながら、とてもよく持ってくれたものだと思う。購入価格を見たら1000円していなかったので、びっくりするくらいコスパがよかった。
 それで、また同じのを買いたいと思ったのだが、残念ながらもう販売していなかった。仕方がないので、同じような型の、でもせっかくなので色味がぜんぜん違うものを選び、注文した。そして到着したものを見てみたら、レンズが黄色かった。商品画像ではあまり伝わらなかったが(ミラーレンズなので)、レンズ部分が黄色い仕様なのだった。ゴーグルってたしかに、青とか赤とか、レンズがカラーになっているものが往々にしてあるが、これまでがオーソドックスなグレーだったので、そういう概念のことを忘れていた。着けてみると、なるほど世界が黄色く見える。黄色い下敷き越しに見る世界である。なんでだよ、と思う。でも日常で着けたら当然それは違和感があるけれど、プールで、それも泳ぐときだけに着けるのならば、わりとそういうもんかな、と思うかもしれないし、なによりなんの説明もなしになぜ黄色なのかと言えば、水色の中で黄色いレンズを着けたら、いい具合に中和されてとてもいい色味になる的な作用があるのではないか、と思った。
 そんなことなかった。黄色いレンズは、水中、水色の世界の中でもやはり黄色で、せっかくの爽やかで透明な水色が、黄みがかり、まるで泥まじりの汚い川の水ように見えた。なんでだよ、と思った。大失敗買い物だった。仕方がないので、ファルマンに窮状を訴え、別のものを買わせてもらうことにした。次はミラーじゃない、本当に透明のレンズのものにしようと思う。水の色をそのまま見たい。プールの水の色、スマホの待ち受けにするくらい好きだ。

2022年10月26日水曜日

誤用・マザー・インスタグラマー

 「袖触れ合うも他生の縁」という言葉は、「多少の縁」と誤解されがちで、意味を正しく理解していない人が多くいる、などと言われる。言わせておけ、と思う。こういう言葉の誤用話、大嫌いだ。言葉に誤用もなにもないと思う。元からあったほうを揺るぎない唯一無二の正解であると蒙昧に信じ込む輩というのは、固有種を是として外来種を忌避し、オオキンケイギクを駆除したりするに違いない。固有種なんて、この100年くらいの、記録が残っている中での、たまたまの姿だろう。そんなものを大事に保とうとする意味が分からない。
 話を元に戻すが、そもそも「袖触れ合うも他生の縁」は、ミスリードを誘っていると思う。間違えて取ってほしくないのなら、「袖触れ合うは他生の縁」のほうがふさわしい。「も」が、「多少」に繋げてしまっているのだ。「めでたさも中くらいなりおらが春」とか、「蓼食う虫も好き好き」の「も」である。そうやって、わざわざ勘違いされやすい言い回しをしておいて、よく誤解されるんですー、だなんて、かまってちゃんかよ。
 あとついでに、長年なんの疑問もなく目にしてきた「押しも押されぬ」という言い回しが、それは誤用であり、正しくは「押しも押されもせぬ」だという話になって、テレビ番組のナレーションなどでもそちらが使われるようになった。この5年くらいのことだ。これもまた気に入らない。「押しも押されもせぬスーパースター」よりも、「押しも押されぬスーパースター」のほうが、きちんと輝いているような気がする。これは、「得も言われぬ」を連想するからではないかとも思ったし、あとはやはり語呂だろう。「押しも押されもせぬ」の垢抜けないテンポに対して、「押しも押されぬ」は7音だ。5音と7音は強い。そもそも7音にしたくて省略したのかもしれない。だったら「押しも押されぬ」でいいじゃん、とも思うが、いま堂々と「押しも押されぬ!」と言ったら、阿呆どもがすぐさま「誤用だ」「誤用だ」と言い出すに違いない。じゃあもういっそのこと「オシモオサレヌ」とカタカナ表記にして、「押しも押されもせぬ」からは独立した、勢いだけの言い回しとして使ってやろうかな、と思う。

 マス目の数が指定と異なる漢字練習帳を買ってしまい(かなり細かい区分けがあるのだ)、学校には持っていけないというので、ファルマンがそれに日記を書くようになった。1日1ページで、イラスト付き。たまにサボったりもしている。子どもたちの話が多いので、自分のことが描かれていて嬉しい気持ちもあるのだろう、子どもたちが大笑いしながら読んでいる。
 そのさまを見て、たとえば引退した伝説のダンサーが隠遁生活を送っていたら、近所の孤児院からボランティアの協力を求められ、もちろんダンサーの素性などは誰も知らず、一介の年寄りとして参加するが、オルガンに合わせて踊るお遊戯が、他の大人とはかけ離れたレベルでやけに壮麗で、子どもたちが目を奪われる、というような、一種の貴種流離譚のようだと思った。子どもたちは無邪気に、お母さんが書く日記おもしろーい、くらいの感じだが、その人は実はただの日記がおもしろいお母さんじゃないんだよ、その人はかつて、ブログマザーと呼ばれる存在だったんだよ、と心の中で思った。表舞台に帰ってきてほしい。

 インスタグラムを、ちゃんと毎日アップ(シェア)している。なぜか途中からぱたりと「いいね」が付かなくなったが、めげずに日々やっている。ブログは飛び飛びなのに。こうなるともう、僕はブロガーではなくインスタグラマーと名乗るべきかもしれない。ブロガー仲間など存在しないが、しかし存在しないけど確実にもさい彼らに対し、インスタグラマーに転生した僕は、一気に洗練されてしまった。なんだか申し訳ないな。存在しない彼らに、申し訳なさを感じる。空気を食べているような気持ちだ。
 かつて「nw」で「ビキニショーツ製作漫談」として、作ったショーツを(丸めた状態で)画像で紹介していたが、3日ほど前から、インスタグラムで1日1枚シェアしているそれが、「nw」で紹介していない領域に突入している。だからみんな、地球のみんな、僕がどんなショーツを作ったのか、毎日ちゃんとチェックすればいいと思う。

2022年10月18日火曜日

会員・新しい形・インスタはるか

 10月に入ってから、通っているプールにひとつの変化があった。これまで、本当にあった怖い話のごとく、「行ったら必ずいる人」というのがいたのだが、その人の姿がぱったりと見えなくなった。これは一体どうしたことかと考え、もしかしたらあの人は、4月からの半年会員だったのではなかろうか、と思った。10月に入り、日が暮れてからの気温ががくんと下がるようになって、それでもせっせと通ってはいるのだけど、あたたかい時期だけの半年会員という選択も、あるにはあるな、などと、勝手に決めつけ、勝手に得心している。たぶん経験値が違う。なにぶんこちらは初めてなのだ。実はその初めての1年会員も、ただの1年会員ではなく、それよりも当然ながら金額が上乗せになる、家族会員というものを選んでいた。そんなわけで夏場は頻繁に娘たちを連れてプールに行ったのだが、子どもというのは夏以外にプールに行くと、わりと如実に風邪を引くものなので、1年のうち3、4ヶ月くらいしか利用できないということに、夏が終わったところで気付いた。なので家族会員ははっきり言って失敗だった(ちなみにファルマンはとうとういちども行かなかった)。来年以降、自分の1年会員はやったとしても、家族会員にはしない。経験値を積んだ。こうした経験の末に、4月から9月までの半年会員というスマートな境地はあるのだろうと思う。

 りゅうちぇるの言い放った「新しい家族の形」が、聞いた当初からおもしろかったが、いつまでもおもしろく、愛しい。ぜひ流行語大賞にノミネートしてもらいたいと思っているが、微妙なデリケートさも孕んでいる感じがあり、果たしてどうなのだろう。関係者は慎重に打診してもらいたいと切に願う。
 もちろん「新しい〇〇の形」という大喜利的な使い方も魅力的である。なんてったって多様性の時代ですから。全員共通の理想を追い求める時代は終わっていますから。それはちょっとどうなんだろうと思われるようなものでも、「新しい〇〇の形」と名付けてしまえば、周りはもう、ぐうの音も出ない。ぐうの音を出したら叩かれますからね!
 新しいセックスの形。新しいマスターベーションの形。新しいセクハラの形。新しい痴漢の形。新しいちんこの形。
 みんなちがってみんないい。

 10月から始めたインスタグラムを、今のところ毎日投稿している。
 いま投稿と言ったが、これに違和感を抱かなかったあなたは古い。インスタグラムにおける、「送信」なり「投稿」なり「公開」なりの、要するに作成した記事をアップするボタンの名称は、「シェア」だ。シェアなのだ。ウェブログとはそもそも目的が違うのだ。そんなに違うことってあるかよ、とそれを目にしたときは大きな衝撃を受けた。インスタグラムって、ウェブ日記とかブログとかをまったく知らない星の人が作ったものなのかもしれない、と思った。前にも書いたが、投稿内容は画像ありきで、文章は「キャプション付けます?」くらいの扱いでしかない。画像や映像に対して、文章ってそんな程度のもの、という事実は、これまでもいろいろな場面で痛感していたが、それをまざまざと見せつけられ、さすがにちょっとショックだった。なにぶん僕はほら、日本大学芸術学部キャプション学科出身だからして……。
 投稿にはぽつぽつと「いいね」が付けられている。「ハンドメイド」というハッシュタグを置いているためだろう、時折、ほっこり系ハンドメイドマルシェみたいなアカウントから、いいねが来ていたりして、大丈夫か、と思う。女の子が穿くようなショーツを穿きたくて自作している男の、ひたすらちんこ周りの話だぞ。ちゃんと読んでいるのか。読んでいないんだろう。まあハンドメイドイベントの主催者なんてそもそもだいぶ胡散臭いしな。見せかけだけで、内実はぜんぜんほっこりしていないに違いない。あと、プロフィール画像が綾瀬はるかのアカウントからもたびたびいいねが来ていて、この人は自分ではなにも投稿していないので素性はまるで分からないのだが、僕は実は本物の綾瀬はるかなのではないかと疑っている。逆に綾瀬はるかの画像を使って、まさか本物の綾瀬はるかだとは思われまいと思って油断している、どっこい実際の綾瀬はるかだと思う。そうか、はるかは俺の作ったショーツが、俺のちんこ周りの話が、好きか。さすがだな。

2022年10月10日月曜日

裸・さんま・整理

 急にガクンと寒くなったので、久しぶりに服を着て寝た。寒い時期は裸で寝なかったかと言えばそんなこともなくて、今年の2月3月あたり、まだぜんぜん寒かった時期から、僕は裸で寝始めたように思う。それでも今回は「急にガクンと」だったので、体や布団が追い付かないような気がして、仕方なく服を着て寝たのである。ちなみに上下ともである。
 その結果、どうだったか。裸で寝る信仰の人々が言う、衣服のゴムが血流を止めて体の調子が悪くなる、なんてことにはもちろんならない。逆に、久しぶりにそちら側に戻ってみたら意外と快適だった、ということもない。なんにも変わらなかったのである。服を着て寝ても、裸で寝た感じと、なんにも変わらなかったのだ。
 これは一体どういうことかと考えて、この半年あまり裸で寝続けた僕はもう、たとえ服を着ていても、裸で寝るように寝ることができるようになったのではないか、と思った。つまり裸で寝ようが、服を着て寝ようが、僕は裸で寝ているのだ。服を着ているタイプの裸で寝ている、と言うこともできる。ヌーディストたちは、裸のことを、裸ではなく、空衣をまとっているのだ、と主張するらしいが、逆もまた然りということか。人生は気付きの連続だな。

 さんまを食べる。新物である。9月になると、まるで新物のような素振りで、実は去年の解凍物らしいものが店頭に並ぶが、そこらへんのトラップには十分注意をして、おそらく正真正銘の新物らしいものを買って食べた。ちなみに1尾180円。ひと昔前の感覚からするとちょっと高い気もするのだが、サバやサケもじわじわ値上がりしているため、相対的にあまり抵抗なく買ってしまった。おそろしい話である。
 少し細身のような感じもあったが、それでも生さんまなので、おいしかった。もう今年の初物の生さんま、という時点で、おいしくなければ嘘と言うか、自分がこれまで日本で生まれ暮してきて築いてきたものが瓦解する感じがあるので、たぶんだいぶ思考停止でおいしかったと言っている。それでいいのか。いいのだ。

 3連休だったので、ずっとやりたいと思っていた、机周りの整理をする。どうも机周りの整理という行為を、半年にいちどくらいの頻度で大々的にやっている気がする。気のせいだろうか。今回は物をよく捨てた。結局、捨てなければこのごちゃごちゃが改善されることはないのだと喝破し、だいぶ冷徹にゴミ袋に投げ入れた。投げ入れたものは、かつて自分が必要だと思い、買ったり作ったりしたものだ。だからそれを捨てることは、その当時の自分のきらめいた気持ちも一緒に捨てることなのではないか、などと思う。危険な発想である。ばっさばっさと捨てた。布マスク作りに関する資材は、さすがに捨てはしないものの、だいぶ奥のほうへと追いやった。パパポッケマスク、爆売れするって確信していて、めちゃくちゃ材料を買い込んだのだよな。ダブルガーゼ、マスクゴム、ゴムストッパー……、マスク何百枚分もあるあれを、一体どうすればいいのだろう。数十年後くらいに、またなにか流行るかな。なんてね。僕がこのマスク材料を再び必要としない世の中が続けばいいなって思うよ……。半日かけて、へとへとになりながら、整理は完了した。とてもよくなった。とても機能的になったので、もう散らかって混沌とすることは二度とないと思う。僕の机周り整理史は、今回のこれによって終止符が打たれたと思う。

2022年9月18日日曜日

ほん怖・運動会・ピザ

 本当にあった怖い話をひとつ。
 平日の退勤後にプールに行ったときの話です。その日は、プールに行くことを朝から心に決めていたのですが、そんなときに限って仕事が忙しく、普段の退勤よりも1時間半ほど遅くなってしまったのです。それでもやはり泳ぎたい気持ちが強かったので、少しだけ泳いで帰ることにしました。そう決めたら、それはそれで愉しみな気持ちが湧いてきました。それというのも、普段行く時間帯に泳いでいる人たちというのは、顔見知りというわけでもないのですが、どうしたってだんだん顔を覚えてくるもので、ああ今日もあのじいさんがいるな、あのムキムキの男がいるな、そして私が2日おきだったり3日おきだったりに行ってもいつもいるということは、この人たちはたぶん毎日ここに来ているんだろうな、なんてことを思うわけですが、今日はそれが1時間半も遅いので、泳いでいるメンツがぜんぜん違うはずです。遅い時間ということで、閉館時間まで泳ぎ続けるようなよほどのガチ勢が多いのではないか、ガチ勢にレーンを占拠されて、入る隙がなかったら少し嫌だな、なんてことを思いながら、私はプールエリアに出たのです。するとなんだか嫌な感じがするんですね。なんだろう、嫌だな、怖いな、と思いながら、私はそろりそろり、プールへと向かいました。そしてたどり着いたとき、そこに広がっていた風景に、私は腰を抜かしそうになりました。
 それというのも、そこで泳いでいたのは…………、いつものメンツだったからです。
 キャーーーーーー! (女性の悲鳴)

 先日、子どもたちの運動会が執り行なわれ、夫婦で観覧した。この2年は、運動会自体がなかったり、あっても保護者の観覧不可であったりしたため、だいぶ久しぶりというか、ピイガに至っては小学校の運動会に出ているのを観るのが、3年生にして初めてだった。
 しかしなんとか開催にはこぎつけたものの、やはり簡易版ということなのか、演目は個人の徒競走と、チーム対抗で全員が参加するリレーという、全学年においてそのふたつで、だから運動会は、ほとんど短距離走会だった。ずっと誰かしらがひたすら走っていた。
 感染対策であるとか、時間短縮であるとか、いろいろな理由はあるのだろうが、しかしあまりにもシンプルで、シンプルと言えば聞こえはいいが、まるで文明がない世界のようだな、とも思った。戦後、物資はなにも満足になかったが、しかし希望だけは満ち溢れていた、みたいな、そんな感じ。それでいて、別に人々の心に希望は満ち溢れていない。
 インスタグラムで、外国の、説明不要で「わー!」となる画像や映像が垂れ流される様を眺めていると、文明が成熟した果てには、こんな原始的な風景が広がっていたのか、と虚しい気持ちになったりするが、道具もややこしいルールもなくただ走るだけの運動会にもまた、同じような感情を持った。きっと感覚が古いんだろうな。ぜんぜんSDGsじゃない、無駄で余計なものに浸って生きてきたので、最小公倍数のような清貧の世界に、違和を抱いてしまう。居心地悪くなってしまう。頑固親父、まっしぐらである。

 ピザを作る。GWに母から生地のレシピを教えてもらい、ずっと冷蔵庫に貼ってあったのだが、ここまで手を付けずにいた。言い訳をするなら、かつてファルマンが買い、ポルガの出産前後に10回くらい食パンを焼いたあとは放置され、どこかのタイミングでファルマンの実家に渡っていたホームベーカリーを、混沌という名の屋根裏部屋から回収するのに時間がかかったのだ。それが成ったのが8月だったので、暑さとかもいろいろあり、さあそれではピザ生地というものを初めて作ってみようかな、となるのがシルバーウィークになってしまったのも、致し方ないと思う。しかし改めて母にLINEで教えを乞いながら製作したところ、ここまで引っ張ったのが阿呆らしくなるほど、簡単なことだった。材料を分量通りに内釜に入れ、あとはコースを設定して作動スイッチを押せば、じきに生地はできあがった。それだけだった。それを伸ばして、ピザソースを塗り、用意していた具を乗せて焼いたらば、紛うことなく立派なピザだった。普通においしい。なんの問題もなく、1回目から万全においしいピザができあがった。どうやらピザもあれだな、シュウマイと同じ部類で、作ったことがない人には手間がかかるように見えて畏敬の念が集まりがちだけど、いざ作ってみたら想像よりもはるかに簡単という、対外的コスパに優れた食べ物のようだな。こんど仲間の誰かのホームパーティーの誘いがあったら、絶対に持っていくことにしようっと。

2022年9月8日木曜日

痩せ・値上げ・ピコピコ

 体重を半月に一度くらい計るのだが、そのたびにじわじわと、200gぐらい減っている感じがあり、6月に54kgあったのが、今は52kgになってしまった。特に瘦せようとしているわけではないのだが、普通に日々の摂取カロリーが消費カロリーよりも少なくて、その結果ジリ貧のように体重が目減りしてきているのだと思う。筋トレとプロテインは続けているが、それなのに筋肉が盛り上がっていかない、体が分厚くならないのは、単純にそこに原因があるのだと、気付くのがすごく遅いが、気付いた。
 糖質オフダイエットということが言われ、炭水化物を忌避する向きが世間にはあるが、僕は炭水化物に関しては、これまでも特に節制していなかった。それよりも脂質をものすごく意識していた。物を買う際は、栄養成分表を見て、脂質の数値がたんぱく質よりも大きいものは、極力買わないように心がけていた。別にたんぱく質が脂質を相殺させるわけではないのだが、それを目安としていた。これはこれで正しい心がけだろうと思う。脂質はまあ、なるべく摂らないほうがいいんだろうと思う。なので僕の場合、増やすべきは糖質だ。具体的に言うと、これからはもっとお米を食べようと思う。節制するつもりはなかったが、そこまでたくさん食べたいとも思わず、たぶん一日のお米の消費量としては、小学生の娘たちよりも少なかったのではないかと思う。それじゃあ筋肉は増えていかない。筋肉がついている人なのか、ただ痩せているだけの人なのか、ぱっと見じゃ判らない境地から、いよいよ脱却したいのだ。
 今年の秋は、強迫観念食欲の秋。

 物価が高くなって嫌だが、それ以上に嫌なのは、物価が上がったことを伝える報道だ。世の中には気分がくさくさするニュースが多いけれど、物価の上昇というものは、その最たるものだと思う。物価の上昇のことを憂うと、日本人はそれだから経済が発展していかないんだ的な、健全なインフレだのなんだのと、すかさず言ってくる輩がいるけれど、言いたいのはそういうことではない。僕が嫌なのは、ニュースのあの感じなのだ。視聴者を暗い気持ちにさせるのが趣味なのか、ニュース番組というのは、物価の上昇についてちょっと偏執的ではないかと思う。値上げの品目を、そこまで精細に調べ上げなくてもいいだろう、そうやってなるべく身近な商品を持ち出してなるべくショックを受けやすいよう工夫を凝らさなくていいだろう、と思う。
 9月1日から値上げされる品目のニュースで、9月1日はじっとりと嫌な気持ちになった。そしてどの番組も最後に必ずこう言った。「値上げされる品目が最も多いのは10月」と。10月1日はテレビを観ないように心掛けようと思う。

 自分が10代の頃はさんざんやったくせに、大人になってみたら、テレビゲームってすげえ時間の無駄だな、と思うようになった。思うようになるんだな。eスポーツなどと言って、最近はゲームの地位が向上したと言われるが、頭の固い大人なので、理解が及ばない。なに言っとんねん、テレビゲームやろ、ピコピコのやつやろ、と思う。このピコピコという表現も、古いゲーム機の名前を言って若者にバカにされるくらいなら、総称というか、蔑称というか、総蔑称というか、「お前らが時間を費やしているのはすごく虚無的でくだらないものなんだよ」という思いを言外に伝えようという意志が漲っていて、とてもいいと感じるようになった。
 そんな大人になった僕が、目下さらに輪をかけて理解が及ばないのが、ゲーム実況だ。自分自身でやるゲームでさえ時間の無駄だろうと思うのに、他人がプレイしているのを観るものだという。なんやそれ。もう自分でピコピコさえせえへんのかいな。虚無すぎるやろ。虚無も虚無、大虚無や。生み出さなさに生み出さなさが掛け合わされ、しかしその経済規模は年々増大しているのだそうで、なんかもう、ただただこの世に白けてゆく。生きづらい。

2022年8月27日土曜日

りゅうちぇる・マイナ・女子

 りゅうちぇるとぺこが離婚したそうじゃないか。
 一報を目にしたとき、いろいろな思いが胸に去来したけれど、一言で簡潔に表すと、やっぱり「やったぜ」ということになると思う。子どももいることだし、離婚そのものはもちろんあまりいいことではないだろう。両親はなるべくなら離婚しないほうがいい。どうしようもなく仕方ない場合というのも当然あるだろうが、本当にギリギリのところであっても、しないで済むのなら、子どもにとってはそのほうがいいに決まってる(言葉に重みがあるだろう)。
 それならばなぜ「やったぜ」なのかと言えば、りゅうちぇるはちょっと、先進的ないい夫、いい父親的な発言をし過ぎていた。イクメンとか、育児に協力とか、なんかそこらへんのことについて、そういう自覚を持つこと自体がおかしい、くらいのことを言っていたと思う。そんなの当たり前のことだから、そう努めようとする時点で間違っているのだと。
 言いたいことは解る。解るが、そんなことを求められても困る。またMD世代のことを僕は言い出す。MD世代の親の世代、すなわちモーレツ世代はまだ、男は外の仕事、女は家の仕事と役割がはっきりしていた。明解だったとも言える。でもMD世代からはそうもいかなくなって、それでイクメンなどという言葉が編み出されたのだ。我々はイクメンネイティブではないのだ。親からは学べなかったその姿を、誰も明確な正解が分かっていないまま、社会の流れという漠然としたものから、泥団子を作るように、あがいてあがいてなんとか形成していったのだ。
 それだのにりゅうちぇるは、それを「意識してやることじゃない」と言った。「意識が低い」ならまだ許せただろう。そうじゃない。意識をしたらいけないというのだ。意識をせずとも行なえることが正しいというのだ。なんだそれは。ニュータイプか。アムロ・レイか。しかしどれほどMD世代が憤っても、りゅうちぇるは新時代の旗手として、ぺこときちんと結婚し、きちんと子どもを作り、きちんと幸せな家庭を築いていた。だからこれまで、ぐうの音も出せずにいた。
 そういった経緯によって、今回の離婚に関しては喜びの感情がまず出た。ジェンダーとか、同居は続けるとか、新しい家族の形とか、まだいろいろと理論武装を繰り広げているようだけど、どんな言葉も虚しく過ぎ去るばかりである。結局のところ、弱い犬ほどよく吠えるのやつで、確固たる自信があったり、本当に当たり前のこととして受け止めていることについては、人はあんなふうに語ったりしないのだと思う。りゅうちぇる論法で言うならば、「語る時点でダメ」なのだ。そうじゃないから、自己催眠をかけるかのように、自分自身に言い聞かせていたのだ。
 ジェンダーマイノリティ方面のことを主張すれば、そこから先はもう誰もなにも言えない、という風潮がある。こっちだって、お前らがジェンダーマイノリティであることを声高に主張さえしなければ、当たり障りのない扱いをするのだ。それこそ理想的な、「両語らず」の形だろうと思う。もう僕はりゅうちぇるの述べることには一切耳を貸さない。りゅうちぇるとぺこの結婚および離婚は、本人がどれほどその崇高さを訴えようが、僕の中でIZAMと吉川ひなののそれと、一緒のカテゴリに分類された。

 マイナポイントで配るはずの資金が、ものすごく余っているという。信じられない。
 選挙の投票に行かない人の気持ちは解る。投票をしないことは結果的には〇〇円の損、などと脅されたりするけれど、どうしたって「自分ひとりが投票しようがしまいが結果は変わらないしなあ」という思いはある。投票率が半数を切っているということは、投票しなかった側の人が結託すれば社会はひっくり返るんだなあ、などと思ったりもするけれど、そんなことは永遠に実現しない。投票したところで、すぐに個人的な見返りがあるわけではないからだ(逆に投票しなければ罰金という国はあったはず)。
 マイナポイントはそうではない。作ったら、むちゃくちゃ即物的な見返りがある。ポイントと言うが、ポイント支払い全盛の現代において、それはもはや現ナマである。作ったら確実に、なかなかの金額の現ナマがもらえるのだ。そんなの作らない理由がないだろう。
 政治的な思想を理由とする人々に対しては、なにも言わない。僕は、政治的な主張がある人と会話をしたくない選手権の世界チャンピオンなので、その人たちはいい。いいと言うか、不可侵である。しかしそんな人々は、ひと握りだろう。そうじゃない大抵の人たちは、なんとなく億劫でやっていないだけだろう。
 結果的に、余剰金額は6000億円だそうだ。諸経費などいろいろあるだろうとは思うが、ひとり2万円で考えれば、3000万人分ということになる。なるほど。
 昔の僕ならば、誰ももらおうとしないんなら、その6000億円、俺にくれよ、と思っていたことだろう。今はそうは思わない。6000億円もらっても困る。20億円くらいならやぶさかじゃないが、ひとりひとりがそういうことを言うとややこしくなるので、言わない。主張するとするならば、9月30日までにお利口にマイナカードのことをやったほうの国民で、その6000億円を山分けしようよ、ということだ。これなら誰も文句ないだろう。山分け分の支給は簡単だ。なぜならマイナンバーカードを作っていて、管理しやすいからだ。余剰金がなんとなく闇に消えるより、これは本当にいいアイディアのような気がする。

 あまり女子女子した傾向がないこともあり、ポルガのことを、ずっと性別不明の奇妙な生き物として扱ってきた。願望というか、一種のモラトリアムというか、男親としての複雑な感情がここにはあったのだと思う。
 ポルガがこのたび、初経を迎えまして。
 あの、あの11年前に生まれた赤ん坊が、もう、もうそういう、女の子の、女の、そういう、そっちの、そのやつに足を踏み入れたのだと思うと、月日の速さ、その容赦のなさに、めまいがする思いだ。
 もちろん本人から報告があったわけではなく、ファルマン伝いに僕は聞き、本人的にはどのような様子なのかと訊ねたら、「まあ別に平然としてたよ。健康な証拠だって言ったら嬉しそうだった」とのことで、安心した。おそらく授業であったり、クラスメイトであったり、母であったり、外堀はじわじわと埋まっていて、心の準備はそれなりに出来上がっていたのだろう。女子というのはさすがだな、としみじみと思った。そのことが少女にとってものすごくショッキングに描かれる創作というものを、これまでいくつか目にしたことがある気がするが、あれってもしかしたら、男性作者が、男性担当者に促され、男性読者に向けて描いたものだったのかもしれない。そう考えると非常に気持ち悪いな。
 今回、その報告を聞いて、父親としての感慨深さからショックを受けると同時に、じゃあもうこれからは気軽にプールに誘えないな、ということをすぐ思い、我ながらその感想の無邪気さ、バカな男子っぽさに衝撃を受けた。女子のその感じをまざまざと見せつけられたことで、自分って、男って、なんでいつまで経ってもちんこでただひたすら愉しいんだろう、もしかしたらものすごく阿呆なのかな、ということを思った。

2022年8月24日水曜日

相似・しまむら・転生

 お盆休みの直前に、amazonプライムに「This is us」の最終第6シーズンが出た。暑さで出掛けづらく、時間を持て余し気味な夏休みに、一気見すればいいという配慮なのか。意外と人情があるじゃないか、amazon。
 さすがに18話をお盆休み中に全て観切ることはできなかったのだけど、そのあとの数日と週末をかけて、このたび観終えた。ちなみに最終シーズンにして初めて、全編ファルマンと一緒に観ることができた。観かたにタイムラグがあると、先を行く一方はまだ相手に感想を語れなかったり、遅れている一方が感想を言ったら相手は既にそのシーンがうろ覚えだったりして、もどかしかったりする。また最終シーズンということもあり語るべき事柄は多々あったので、一緒に観られたのは実によかった。
 そうしてファルマンと感想を言い合いながら観ることができたので、ここで感想を述べたい衝動はない。もとい第6シーズンともなると、なにを言ってもネタバレになってしまうので、なにも言えないのだ。それでもどうしても言いたいこととして、物語の終盤、作中において、ずっとインストゥルメンタルの曲だと思っていたエンディングテーマに、急に歌詞が乗る場面があり、その瞬間、僕の頭には天童よしみの顔が浮かんだ。そのことだけ、どうしても主張しておきたく、ここに書き記しておく。

 ファッションセンターしまむらに行ったら、サウナ5点セットと銘打った商品が売られていた。Tシャツ、ハーフパンツ、フェイスタオル、サウナマット、そしてそれを収納するナップサックというセットで、値下げされていたこともあり、一瞬買おうかとも思ったのだが、結局買わなかった。というのも、サウナマット以外にはオリジナルのロゴが印刷されているのだが、そのロゴというのが、「イマカラサウナイキマス」というフレーズなのだ。そのフォントがどうこう、デザインがどうこう、というのではない。あくまで内容である。だってTシャツとハーフパンツって、それ、サウナのあとに着るもんなんじゃないの、という話だ。サウナのあとのリラックスした恰好としてのそれだろう。それなのに文面は「イマカラサウナイキマス」。ここが納得いかなかった。サウナの前にそんな楽な恰好をするシチュエーションは思い浮かばないし、かといってサウナのあとにそれを着るのも間抜けだ。たぶんサウナ情報サイトの「サウナイキタイ」を意識しているのだろうけど、ならば過去形の「サウナイッテキタ」でよかったんじゃないかと思う。あるいはやっぱり「After Sauna」ですよ。「After Swimming」Tシャツ、すごくいいですよ。プールのあと必ず着ている。

 10インチのタブレットからスマホになって半月ほどが経つ。はじめは小ささに戸惑っていたが、もう慣れた。慣れてしまえば、10インチのタブレットはなんと巨大だったのかと思う。タブレットはタブレットで存在意義があるだろうが、それを携帯電話として1台だけで持つというのは、ちょっとおかしな話だと思う。多分その人とは、あまり仲良くなれないと思う。購入の際、画面の大きさに拘泥したい気持ちはまだ色濃く残っていて、スマホにしては大きい、7インチになんなんとするような製品も候補に挙がっていたのだが、半端なことをしなくてよかった。カメラ機能を重視して買って正解だったとしみじみと思う。
 ホーム画面は、これまで歴代の端末でずっと「タッチ」の達也と南が自転車に乗っているイラストにしていたのだが、いよいよ飽きたので替えることにした。それでどういうものにするか考え、とにかく自分が目にして心地よくなるものがいいので、だとすればビキニの女の子の画像とかになってくるのだけど、ホーム画面というのはなんだかんだで他人の目に触れることもあるものなのでそれは自重し、ビキニの女の子はいない、どこかの国のきれいなリゾートプールの画像にした。さわやかでとてもいい。手のひらサイズのスマホで、ホーム画面は外国のリゾートプール。この人となら仲良くなれそうだと万人に思われること必至だ。

2022年8月15日月曜日

夏の変化3つ

 金髪をやめた。とうとうやめた。やめる決意はだいぶ前から固まっていて、かなり暗い茶色のカラーを入れたりしたのだが、それは1週間くらいでみるみる薄まってしまい、結果として元の金髪に戻る、という形での金髪が継続されていた。やはり髪の色をきちんと戻すためには黒髪戻しをしないといけないようで、しかし前にもやったけど、本当に黒の黒髪戻しは、元々の黒よりもだいぶ黒の濃い、「俺は漆黒の闇の代弁者」みたいな中二病のコスプレのようになってしまうので、それが嫌だった。しかしお店でうーむ、と思いながら棚を眺めていたら、黒髪戻しの茶色版という商品があったので、これだ、と思い買った。買ったけどすぐには使わなかった。実は買ったのはひと月近く前だ。これはなぜかといえば、この期に及んで迷っていた。飽きてやめようと思ったくせに、いざやめるとなると、せっかくの金髪がもったいなく思えて、もうしばらく続けてもいいのではないか、髪の根元側、全体の4分の1くらいは既に黒いわけで、施術はせず、このまま1年くらいかけて、金髪がその時々でカットされてゆくことで、ゆるやかに黒髪に戻っていけばそれでいいのではないか、などと思った。それでもこのたび、やっぱり薬剤を使って茶色く染めた。紫外線と、塩素と、長さで、髪の健康状態が実際えらいことになっていたので、ビジュアルどうこうというより、ここらできっぱり是正しなければならない、と思った次第である。そんなわけで短く切ってもらい、そののちに茶色く染め、これを契機に買ったダメージリペア系のシャンプー、コンディショナー、トリートメントに切り替え、一気にいたわるほうへと舵を切った。髪の毛はさぞや、主人の急な心変わりに戸惑っていることだろう。これまでの虐待のトラウマもあり、夢のような扱いを受けながら、まだ素直に受け入れられないでいると思う。どうせそのうち、主人は気まぐれに私にひどいことをするのではないか、と疑っているに違いない。正解だ。主人の悪い虫は、どうしたってまた騒ぎ出す。ごめんな。死なないでな。

 スマホを買う。買った目的については、「nw」に記した通りである。じゃあここではなにを述べるのかと言えば、僕と、ガラケーと、タブレットと、スマホにおける、心の変遷や関係性についてである。なんだそれは、と思われるかもしれない。心の変遷ってなんだよ、ただ新しい機種に乗り換えていくだけのものだろ、と。
 そうではないのだ。ちょうどcozy ripple新語・流行語大賞のために過去の日記を読み返しているところなので、そこに綴られた思いが、いま自分の中でわりと生々しくあるのである。
 ガラケーから、仕事の都合でLINEをする必要に迫られ、まず8インチのタブレットに乗り換えた。2018年の4月のことである。あの小さい、魔法のような、持っている人間が調子に乗っている、スマートフォンというものにどうしても抵抗があり、俺は電話もできるノートパソコンを持つのだ、という妥協点としてのタブレットであった。それから仕事が変わり、新しい職場において、今度は電話をポケットに入れて持ち運べるものにする必要に迫られた。必要に迫られるというか、それはガラケー時代からの、世間の当たり前であった。タブレットしか持っていない人間が異常なのだった。それで仕方なく、6.5インチくらいの、いわゆるスマホを持つことになった。2021年の2月のことである。しかし忸怩たる思いでそれを持ちながら、僕はいちどタブレットを挟んだ矜持から、自分はスマホの軍門に下ったわけではなく、あくまで電話もできるノートパソコンが手のひらサイズになった、そういうものを持っているだけだ、と当時の日記の中で主張していた。それから、まあいろいろあって、再び僕は、電話をポケットに入れて常に持っておく必要がない境遇になった。そしてこの期間に溜まった様々なフラストレーションの象徴として、スマホに対して猛烈な忌々しさを感じていたため、その反動として、当てつけのように今度は10インチのタブレットに乗り換えた。2021年の10月のことである。これは必死に弁明するまでもなく、とてもノートパソコン性が高かった。8インチの頃は、まだ大きめのメモ帳サイズというか、コートの大きめのポケットなら入らないことはないかも、くらいで、携帯電話の範疇に片足は残っていたが、10インチともなると、それはもう大学ノートの大きさであり、むしろ電話機能があることに違和感があるような代物だった。でも電話なんて帰りの車中でファルマンと話すだけなので何の問題もなく、画面の大きさはやはり魅力的であった。しかしいかんせん安物なので、機能が乏しかった。カメラの画質の悪さ、Bluetoothの不具合、電池の消耗の速さなど、不都合に思う場面は少なくなかった。なにより重たかった。
 それでこのたび、「nw」に書いたとおりの理由から、いよいよ自分の意志によってスマホに乗り換えた。画質のいいカメラで写真を撮り、それをインスタグラムなどにアップする心積もりもある。きわめてスマホなのである。もはやノートパソコンの小型版という言い訳はしない。スマホを、スマホとして買った。僕はスマホユーザーであると、堂々と宣言する。長い年月をかけて、ようやくその境地に至った。僕がその境地に至る間に、iPhoneは13に至った。長い長い遠回りをした。
 あんた、そうやってウロウロして頻繁に買い換えるんだったら、高いやつが買えたんじゃないの、とファルマンに言われたが、はじめのタブレットから今回のスマホまで、4台の合計はせいぜいが7万円くらいのものだ。試しにiPhone13の値段を検索したら、12万円とかしていた。たっか! 高いんだろうとは思っていたが、まさかそこまでとは。信じられない。思考停止でなんとなくiPhoneを買うような輩(親あたりの世代を想定)が、12万円分の機能を活用しているとはとても思えない。阿呆だと思う。

 子ども部屋体制の刷新に伴う模様替えで、夫婦の部屋とピイガの部屋がマーブル模様になっていた。ピイガの学習机が夫婦の部屋に来て、ファルマンとピイガがピイガの部屋で寝る、という中途半端な状態だったのだ。これは、ポルガがひとり部屋になったのに伴い、ピイガもひとり部屋を持ってしまえばいいものを、ひとりで寝るのは嫌だと本人が拒んだ結果としてそうなっていた。この結果、僕はひとり寝の日々であった。しかしこんな宙ぶらりんな状態は長く続かないだろうと予想していて、案の定もう終わった。ピイガがひとりで寝ることを受け入れ(ただし寝かしつけはするという条件付き)、学習机は子ども部屋に帰り、その代わりにファルマンとファルマンの布団がこちらの部屋に舞い戻ってきた。まあ真っ当な、然るべき形である。われわれ4人家族は、ようやくこの部屋割りに至った。これがこの4人で生活する中での、到達点だろう。そう考えると少しだけ寂しくもある。

2022年7月21日木曜日

夏プール・理念と業者・選考

 実はわりとプールに行っていない。前に行ったのは先週の月曜日だから、もう10日だ。
 行きたい気持ちは日々あるし、なにしろ夏なのだから今こそプールを存分に堪能すべきだろうと思うのだが、「今日こそ帰りにプールに寄るぞ」の気持ちは、10時くらいをピークにして、労働中にみるみる減退し、退勤時にはすっかり「もう買い物だけして帰ろう、そしてビール飲もう」状態になっている。毎日それの繰り返しだ。
 夏だからプール、というのは一方では道理だけど、夏で体力が減退していて運動どころじゃない、というのもまた道理である。水泳は、水気が目くらましになっているけれど、紛うことなく運動だ。そう考えれば、夏にそれがままならなくなるのは自然の摂理だろう。
 1年会員になったので、元を取ることに囚われ気味になっているきらいがあるのだが、実は7月8月は一般利用の料金が、それ以外の月に較べて高くなるので、ここでたくさん行っておくと「元取りポイント」が効率よく得られる。しかし意欲も高まっていないのに努めて行って、挙句の果てに疲弊したら、文字通り元も子もない。本当に行きたさが高まった瞬間以外は、無理をしないようにしようと思う。そして秋や春にたくさん行こう。冬は冬でもちろん行きづらい。こうして考えると、1年会員ってなかなか難しいな。

 minneがまったく低調である。単純に自分の売り物が売れていないというのもあるが、minneという媒体そのものに、魅力を感じなくなってきた。
 会員なので、ニュースレターが届くのだが、先日「夏のサンダル特集」という内容のものが送られてきた。見ると、出品されているサンダルが羅列されていた。それを眺めていて、これまでうっすら感じていたことが、確信になった。
 minne、もうあんまり素人のハンドメイド作品販売の場でなくなっている。
 サンダルじゃなくても、バッグでも洋服でも、素人が趣味で作っているレベルを超えているようなものが多いと感じていた。またその商品画像が、やけにこなれていたりして、どうも怪しいと思っていた。まるで褒め言葉のようだが、あまり褒めていない。minneの実際のところの理念なんかはよく知らんが、僕の捉えていたminneのそれからは、逸脱していると思った。そんなのは、ちゃんとセレクトショップとかに卸して売ればいいだろう。minneが目指すのってそういうところなのか。本格的で、プロっぽい、素人っぽさを削ぎ落したものが、良しとされるのか。それを良しとするのなら、そういうものを買いたいというのなら、その消費者はminneではなくお店に行けばいいのではないか。
 ヤフオクとかを見ても、同じことを感じる。ハンドメイドに限らず、一般商品の中古品においても、たくさん売り買いをしている人のやり口は、もはや業者のそれだ。そして買う側も、結局のところそういう実績のある人のところで買いたがる。じゃあそれ、もう商売じゃん。生業じゃん。はじめの理念はどこへ行ったんだ。
 どうやらもう終わったらしいが、「99人の壁」という番組も、そのままこれだった。最初は100人の、それぞれの得意ジャンルを持った人間がスタジオに集まり、そのうちのひとりが選ばれ、その人のそれが歴史なら歴史のマニアックな問題が出題されるが、その歴史の問題において、スタジオの99人の中にたまたま、その歴史上の出来事が起こった土地の鉄道が得意ジャンルの人がいて、そうやってたまたま重なった知識で、その人が正解をかっさらうと、歴史の人は脱落となり、次に鉄道の人が回答者になる、という仕組みの番組で、はじめのうちはおもしろかったのでよく観ていたが、番組作りに問題があったのと、普通に数字がよくなかったのか、末期においては最初の理念は見事に吹き飛び、「アニメ特集」などと銘打って、アニメに詳しい人間が100人集められた、ただのカルトクイズ大会みたいになっていた。
 雑多なもの、ジャンクなものは、はじめ魅力的に映るのだけど、結局は多数派の、正当なもの、評価しやすいものに収斂されて、おもしろくもなんともないものになる。
 minneに対して、いま痛烈にその感じを抱いている。

 cozy ripple新語・流行語大賞の選考がはじまった。早い。普段は9月の終わりあたりから始まるのだが、なにしろ今年の場合は、去年開催が見送られたため、2年分なのだ。去年は投稿数が少なくて成立しなかったからそうなったとはいえ、それでも2年分は2年分なのだから、準備期間も長く見ておかなければならないと思い、始めた。
 選考対象は、前回の大賞発表の翌日以降の記事からなので、はじめは2020年の11月ということになる。もう、ほぼ2年前。2年前ともなると、ちょっともう年下めいているというか、後輩めいていて、なんだかかわいい。このなんだかかわいい生き物が、日々せっせと生き、なにかを思い、そしてブログを書いたのだと思うと、しみじみ愛しい。読み返して、そんな思いを抱いている。2年空くと、こんな気持ちになるという発見である。

2022年7月8日金曜日

記憶・発言・知識

 7月8日はファルマンとの交際開始記念日である。しかしながら入籍記念日が8月8日ということもあり、いつも微妙な感じになる。祝うのは来月でいいか、となる。今年もそんな感じだ。
 それでも今年は僕にとってちょっと節目で、交際開始時の年齢が僕は19歳なので、単純に満年齢だけで考えれば、38歳の今年はちょうど倍の年数ということになるのだった(ファルマンは既に20歳だったので、倍になるのは2年後だ)。つまりもう人生の半分、ファルマンと一緒にいるということになる。意外だ。もっと長いような気がしていた。なにしろ過去の記憶があまり残らないタイプの人間なので、「ファルマン以前」の自分が、「ファルマン以後」と同じ長さを持っているということに、逆に驚いた。
 そんな節目の7月8日が、ずいぶんセンセーショナルな事件のあった日の記憶となってしまった。

 桜田元五輪担当大臣による、少子化問題に関する演説の中で、「女性はもっと男に寛大になってほしい」という発言があり、ちょっと問題になった。そのことについて思うところがあったので、私見を述べようと思っていた。そうしたらこんなことになって、この話題は世間から一気に掻き消えてしまった。おっさん政治家の女性蔑視的な発言がバッシングの的になる世界って、すごく平和だったんだな、と思う。
 それでもやっぱり書きたいから書くが、この発言に関するニュースで、街の声として女性がインタビューに答えていたのだが、その女性がこのようなことを言っていたのだ。
「これでもだいぶ許してるんですけどね」
 これを聞いて、この齟齬は未来永劫解決不能なのだな、としみじみと思った。男の「許されたさ」と女の「許せさ」は、たぶんK分くらい違う。男の許されたさが100kgのとき、女の許せさは100gぐらいだと思う。つらい。

 安倍元総理が暗殺された。ショックだ。政治に関することは知識がないので書かない。書けない。本当にバカな子っぽいが、僕にとって安倍さんは、テレフォンショッキングに出た人であり、ボキャブラ天国が好きだった人であり、サンドの伊達にモノマネされる人であり、マリオの人であり、マスクの人だ。こう考えるとけっこう親しみがあるような気がしてきた。国民に遍く配られたアベノマスクが、形見になってしまった。ご冥福をお祈りいたします。

2022年6月29日水曜日

常夜灯・髪色思い・梅雨明け

 10日ほど前に、僕とファルマンの部屋の常夜灯が切れて、ふだん寝る際は常夜灯だけの状態にしていたのだが、仕方がないので完全に暗くして寝た。その結果、目覚めがそれはもうパッチリで、いつもなら睡眠が7時間を大幅に下回ると日中がつらかったのが、その日はぜんぜん平気で、「常夜灯、あれ?」となった。常夜灯、睡眠を浅くしていた疑惑。その疑惑が作用して、新しい電球を買う意欲がなかなか湧かず、1週間くらいが経過してようやく交換した。しかし点灯するようになっても、常夜灯を点けずに寝ている。睡眠時間に対しての次の日の寝不足感が、常夜灯ありとなしでは、やはりだいぶ違う気がする。実際のところどうなのかとネットで検索したら、やっぱりそんなことを講ずるページが見つかったのだけど、しかしそれは「常夜灯 睡眠」で検索したから、当然と言えば当然だろうと思う。この場合の検索って自分の知りたい答えを探す手段でしかないので、もはや占いの類だと思う。
 今回の常夜灯のことで思い出したのだけど、僕は高校生の頃、高等なことを考えるには、頭をきちんと休ませてはいけないという考えの下、眠るときは照明を常夜灯どころか全開にして煌々と点けて寝ていたし、さらに言えば長い時間寝るのもよくないと考え、9時から12時、3時から6時というような感じで、分割睡眠を行なっていた。いま考えると、気持ち悪いし、そもそもよく体が持ったことだと思う。若さのなせる業か。男子校に通う男子高校生が、そんな思想で頭を爛々とさせて街を闊歩していたと思うと、危険だと思う。
 それから倍以上の年月が経ち、今はすっかり解脱し、とにかくたっぷり濃厚に、頭を休ませたいということばかりを考えている。

 髪染めを決行した。金髪は、なんとなく「夏に向けて!」みたいな意味合いもあったように思うが(なぜ夏に金髪なのか、と問われたら返事に窮するくらいなんとなくだが)、プリンの進行が夏本番の到来に先んじてしまい、すっかりタイミングが外れた。これは来年以降の教訓としようと思う。あくまで「以降」。きっと来年はブリーチしない。来年ではまだブリーチ賢者タイムは継続していると思う。4、5年経つとウズウズし出す。その頃に今回のことを覚えていたらいい。たぶん忘れている。
 ヘアカラーは予告した通り、ほんのりとしたブラウン系を選んだ。説明書に、明るい髪に使用すると紫がかった色味が出る場合がございます的なことが書かれていて、ふうんと思ったが、直後はまさにそれが出た。金と紺と黒と銀色が混ざったような、宇宙創成のような、一朝一夕では出せない色合いだった。こんな髪色の人は他にいないからいいなあと感動していたら、日々のシャンプーで色味はどんどん変化した。青系の要素はわりとすぐに薄れ、4日ほど経った現在、金髪とシルバーアッシュのあいのこのような感じになっている。悪くないが、金髪の時ほどではないにせよ、これでは根元から黒髪が生えてきたらやはりツートンになってしまいそうだな、と思う。まあそのときはそのときか。

 もう梅雨が明けてしまった。本当か。梅雨終盤、7月上旬にめっちゃ雨降る的なことが、今年はないのか。ないパターンってあるのか。大丈夫なのか。電力不足に水不足まで乗っかったら、もういよいよ末世の感がある。嫌だなあ。
 6月でありながらの容赦ない暑さに参りつつも、山陰だし、労働中はエアコンの効いた屋内なので、実は声高に窮状を訴えるほどは、参る境遇ではないのだろうと思う。やはり太平洋側、あるいは山間部だろう。群馬や山梨の気温を聞くと、かの地の人々はいったいどうやって暮しているのか、と思う。
 これが今から、2ヶ月以上続く。夏は、そうは言っても冬よりは、土地による差が大きくないと思う。よほどの避暑地などでない限り、日本全国、夏は猛暑日ばかりである。我々は、これからそれぞれ各人が、猛暑と闘いを繰り広げる。離れていてもこころはひとつ。猛暑に打ち克ち、元気な姿で秋の再会を迎えよう。健闘を祈る。

2022年6月21日火曜日

髪色・呼吸・女体化

 短髪の金髪にして1ヶ月が経ち、根元からは黒いのが伸びてきて、なにぶん茶髪とかじゃなくちゃんと金色なので、かなり目立つのだった。そろそろ限界かな、と思う。そうなんだよな、脱色の流れっていつもこうして、最後はド金髪にして、そうなると生えてくる髪とのギャップでおかしくなって、挙句の果てに「もうええわ!」となるんだった。また懲りずにそれを繰り返した。まあ別に懲りることでもない。脱色したかったし、ド金髪にしたかったからしたまでだ。そしてぼちぼち気が済んだ。とは言え黒髪戻しをするつもりはなく、いま僕の頭で支配権争いを繰り広げる金髪と黒髪の仲を取り持つ融和策のような、落ち着いたブラウンというかベージュというか、そういう色にしようと思う。それならば下から黒髪が生えてきてもそこまで違和感がないし、それにプールに頻繁に通っているので、塩素の効果によって、うまくいけば髪の色はずっとそんな色合いがまろやかに続けられるのではないかと目論んでいる。

 水泳のレベルをアップさせるため、あれこれ本を読むのだが、水泳時の呼吸法について書かれた本を読んで以来、どうも呼吸が乱れがちで、悩んでいる。水泳時に限らず、呼吸法って意識すればするほど、ゼロの状態よりも駄目になりがちだと思う。やれ腹式呼吸だの、吸うよりも吐くほうを長くするだの、考えてやろうとすると、途端に息苦しくなる。そしてそれまで自分がやっていた加減まで忘れてしまう。無意識にやっている状態が、結局いちばんいいんだろうと思う。思うのだが、無意識に常にやっているこの呼吸というものが、質の高いものになったらば、人生全体がバージョンアップするような薔薇色の未来が待っている気がしてしまい、つい手を出してしまう。そして苦しくなる。阿呆だと思う。

 生まれ変わっても男として生まれたい、なぜなら男にはちんこがあるからだ、という考えで生きているが、先日ファルマンに、「もしもあなたが女として生まれたらどんな子だったろうね」と、割とよくある類のもしも話を振られ、少しだけ夢想した。どうせ女の子になるのなら、やっぱり美少女になりたい。ポニーテールを揺らす活発な美少女。異性のことが気にならないわけじゃないけど、男の子の粗野なところが苦手。女子ってことでバカにするような態度を取る男子には、こう言ってやる。「金玉蹴っ飛ばしてやる!」。思わずそう叫んだら、それが夜22時半くらいの、隣の部屋で子どもがうとうとし始めているような時間だったので、「急におっきい声でなに言ってんの!」と怒られシュンとした。

2022年6月14日火曜日

レベル・露出・あの野郎

 せっせとプールに通っている。週に2ないし3回くらい。1000メートルを目安に泳いでいる。1000メートル泳いできたよ、とファルマンに言うと、「すごい!」となるのだけど、1000メートルというのはスイマーにとっては鼻で笑う距離のようでもある。まったく泳がない人と、マジで泳ぐ人の乖離は広い。僕はその狭間にいる。まあまあうまいこと泳げているな、などと思っていたら、隣のレーンに、お前は脚にモーターが付いてるだろ、みたいな人が現れ、意気消沈したりする。泳ぐのが速い人の、あの意味が分からない推進力ってなんなんだろう。あれって体の使い方とかじゃなくて、前月に5万円以上買い物した人は翌月プラチナ会員としてポイント利率アップ、みたいな感じで、同じことをしていても、なんかその人だけ水に優遇されているように思える。まあたぶん、同じことをしているんじゃないんだろう。前回のプールで、いつものように泳ぎながら、ふと、ここで腕をこうなんじゃね? と閃き、実践したら、泳ぎが少しスムーズになったように感じられた。テレレレッテテッレー、と福音が聴こえたような気がした。たぶん、地道なこれの繰り返しなんだろうな。

 今年の夏は小学校でプールの授業があるらしい。てっきりないだろうと思っていたため、慌てて水着の準備をしたりした。最近のスクール水着(女子の)は、なんとなく見知ってはいたが、下はスパッツ、上はタンクトップ、それどころかTシャツのような袖付きの型の、セパレート(といってももちろん間が空いて素肌を晒すわけではない)タイプが主流で、へえ、と思う。ちなみに僕はスクール水着については一切のフェチがなく、競泳水着にもなく、これに関しては猛烈にビキニ一辺倒なので、このスク水の変遷にはなんの感慨もなかった。そんな、自分の時代に較べ生地多めの、娘のスクール水着を買いながら、ファルマンが、「ブルマと一緒で、昔のスクール水着を見て、昔は女子生徒にこんなものを着せていた、って驚かれるようになるんだろうね」としみじみと言っていた。それを聞いて思ったこととして、大正や昭和の、水着なり体育着なりは、まるで囚人服のような長袖長ズボンだった、という写真を見たことがあるが、そこからだんだん生地が削られ、削られ、行き着いた先がブルマやわれわれの時代のスクール水着で、そして今そこからまた生地が徐々に増えてきているということは、われわれの時代というのは、この100年くらいのそのジャンルの、露出度グラフでいうところの、山のてっぺんだったようだ。ピークの、いちばん過剰だった時代。そんなスリリングな時代に、青春時代を送ったのだ。そんな気がしてたぜ。

 コロナがいよいよ落ち着いた感があり、とてもめでたい。でも今回のコロナ禍に関し、このまま風化させるわけにはいかない事柄がひとつあるので、ここに記しておく。
 ファルマンの上の妹の夫(32歳)のワクチン接種のことである。
 こいつが、新型コロナワクチンを、なかなか打たなかった。
 ひと月半ほど前に第2子が生まれた義妹一家は、すなわちこの9ヶ月間ほど、妊婦と小学生が家にいるという状況だった。さらに言えば夫は、兵庫県の自宅から大阪の中心部に電車通勤する身なのであった。本来であれば、島根県で一切公共の乗り物に乗らない人々なんかよりも、一目散にワクチンを接種するべき立場だろう。
 しかしなかなか打たなかった。あまりに打たないので、職場の方針とか、実家の方針とか、なにか外部の干渉があってのものかと思った。しかし話によればそんなことは一切ないのだった。彼は本当に純粋に、「副反応が怖い」という理由で逃げ続けたのだった。しゃれにならないので当時は書かなかったが、今から半年前の年末年始の帰省の際も、まだ未接種だった。兵庫県から、大阪に通勤する、ワクチン未接種の奴がやってくるというのは、島根では本当に周囲に知られたら大変なことになる事案である。いい加減にしてくれよ、と思った。
 思う一方で、そんなことを思う自分がなんとなく嫌だと思った。国からの「ワクチンを接種しましょう」を無知蒙昧に受け入れ、それを拒む人間を批判する様は、大東亜戦争的な、われら一億ワクチン総火の玉みたいな、もしかしたら自分はそちら側の、出兵バンザイ側の人間になってしまっているのではないか、ということを思った。これは別に思わなくていいことだった。彼が打っていればそれでよかったのだ。そもそも彼はそんな問題提起や体制への抗議のために恭順しないのではなかった。副反応が嫌で打たなかったのだ。なんと迷惑なのか。さらに言えば、副反応に怯える彼は、基本的にとても健康な人間である。屈強な体をしていて、体調を崩した話は聞いたことがなく、虫歯も一本もないらしい。しかしきっと、そうして体を壊したことがないから、コロナに対して絶大な自信を持っていて、むしろワクチンの副反応を恐れたのだろうと思う。
 そんな彼も、2月だったか3月だったか、とうとう打った。あまりに遅い。世間では3回目の接種が始まろうとしていた。ちなみに副反応はまるで出なかったらしい。
 これだけでも十分にとさかに来るエピソードなのだが、いまこうしてコロナ禍がじんわり終息しようとしていて、そして察することとして、彼はまず間違いなく、3回目のワクチン接種を受けない。本人的にも極力受けたくないのに加え、世間がすっかりそれを許容する風潮になっている。断言していい。あいつは絶対に受けない。
 ずるい。あまりにずるくないか。僕だって1回目2回目の副反応なんてほとんどなかった。でも3回目はつらかった。それをあいつは受けない。受けないで許される。俺がつらい思いをしたんだからお前もしろよ、と言いたいわけではない。いや、言いたい。言わせてもらったっていいじゃないか。だって、お利口に、案内が来てすぐに接種した人間が、損をしているじゃないか。さんざん逃げて、年末年始に実家の面々に不必要な葛藤を抱かせた人間が、あのつらい3回目接種を免れる。世の中間違ってる。
 コロナ禍の日々が遠い昔になっても、このことだけは胸に深く刻んで、今後の親戚付き合いをしていこうと心に誓っている。

2022年5月21日土曜日

みょうが・緩和・ヘアスタイル

 今年もみょうがの季節がやってきて、まだ高いが、先日は安売りをしていたので購入し、冷ややっこにたっぷり乗せて食べた。あの清涼感。とてつもなくベタな言い回しだが、夏が来たな、という気がした。実家で「去年の夏はみょうがに嵌まった」という話をしたら、酒を飲み出す前の、野菜をほとんど食べなかった頃の僕と暮していた母と姉は、「お前が、みょうがを……」と衝撃を受けていた。実家では庭でみょうがを栽培しているといい、それはいいなあ、俺も作りたいなあと言ったら、「鉢ではできない」と無碍だった。それで悔しがっていたら、あるときスーパーで、「みょうがの茎」として、たぶん規格外的なみょうがが、中くらいのナイロン袋にぎっちぎちに詰まったものが売られているのを発見し、こんなんめっちゃええやん、と購入した。170円だった。普通に食べて、悪くなる前に食べきれる量ではないので、漬けて保存食として用いるものらしい。というわけでネットでレシピを検索し、甘酢漬けとしょうゆ漬けの2種類を瓶で作った。煮沸消毒した瓶に、調味料漬けにした保存食を作るなんて、クウネルみたいだな、素敵生活だな、と思った。しょうゆ漬けはそのまんまのしょうゆに漬けた味で、汎用性はあるがあまり感動はなかった。甘酢漬けがよかった。もちろん冷ややっこに乗せてもいいし、そうめんにもいいだろう。先日はたこ焼きの際に、これを刻んでゆで卵と一緒にマヨネーズで和え、タルタルソースのようにして掛けて食べた。さっぱりとしていてとてもおいしかった。たぶんチキン南蛮のときとかにもすごくいいだろう。愉しみ。

 気温の高まりとコロナ禍の窄まりが合わさって、マスク着用に関しての緩和策が唱えられはじめた。それはもっともだ、とは思うが、僕は感染予防の観点からではなく社会活動的にいろいろ楽だからという理由で今後もマスクを着け続けようと思っている派なので、そこまでこの話題に関心はない。マスクで顔が隠されることで表情から感情を読み取ることのできない子どもが増える、なんてことが危惧として挙げられていたが、弱いと思う。顔の下半分を隠されたら表情が読み取れない人間は、たぶん基本的に人の感情が読み取れない人間なのだと思う。むしろ通り一遍の作られた表情に惑わされずに内面を察する能力のほうが、よほど大事だろう。どうでもいいけど。ちょっとあまりに弱いな、と思ったので口を挟んだ。
 それよりも今回のマスクの緩和策のことで気になったのは、職場の昼の休憩所でそのニュースが流れたとき、おじさんやおばさんが「あり得ない!」「なにを言ってんだ!」と興奮していた点だ。島根はこのひと月ほど、コロナの新規感染者がわりと多く、過去最高なんかも出していたため、年配の人たちはけっこうセンシティブになっているようだが、しかしそれはこれまでが80人くらいだったのが、近ごろは130人くらいになっているという次元の話で、大都市のそれとはぜんぜんスケールが違う。普通に考えれば、一喜一憂するほどの数字ではないのだ。それなのにあの人々は、いっとき160人くらいを叩き出したとき、「島根もう終わった」くらいに嘆いていた。それくらい必死なのだ。だから今回の緩和策に関してもまるで受け入れる様子はないわけだが、なんだかその感じって、国がもう「戦争は終わった」と言っているのに、ヒートアップしすぎてそれを受け入れられず、はじめは国のために戦っていたのに、その国が「もうやめ」と言ってもそれを否定し、暴走する人民のようで、新型コロナ騒動は、国という括りを平時に較べて強く感じさせる出来事だったため、ナショナリズム的な場面がたびたび見受けられたが、これもまた大いにそれを感じた。人も国も世界も哀しい。たしかなものって本当にない。

 とうとう髪を切った。本当はまだ切るつもりではなく、少し前にこのブログで書いたように、色を抜くことだけをしようと思っていた。その作業はファルマンに頼むわけだが、その際に「ついでに髪切る?」「そろそろ切っとこうかね」としつこく言ってくるのを、まだ切らないから! と強く否定していたのだった。しかしブリーチ剤を塗布し、放置し、風呂で流したあと鏡を見たら、これは……ちょっとどうなんだろう、という相貌の男がそこには映っていて、ファルマンもその姿を見るなり、先ほどまでよりも激しい口調で、「切らねば!」という警告を出してきた。髪の色はこれまでの、下部はもうけっこう黒い明るめの茶髪から、白髪とまではいわないものの、とうもろこしの髭のような、枯れた藁のような、かなりの金髪になっていて、それでいて肩につくまでの長髪&大ボリュームなので、金の面積が大きく、なんかもう、明らかに堅気じゃなかった。これまでが堅気だったかといえば別にそうでもないのだが、ちょっと突き抜けた異様さがあった。プロレスラーの高山善廣のことを思い出した。それでもまだ、外に出るときは結ぶから別に大丈夫じゃないかな……、と思いたい部分もあったのだが、「ぜんぜん大丈夫じゃない」というファルマンの断言を、今までのように突っぱねるための確信は、自分の中から失われていたため、じゃあ頼みます……、ととうとう観念してカットを依頼した。ファルマンはここ数ヶ月の念願が叶い、「よしきた!」と鋏を手に取り、ざっくざっくと髪を落としていった。床に敷いた新聞紙には、すさまじい量の金色の髪が積み上がった。髪を切ってから色を作るのではなく、髪の色を作ってからそれに合わせて髪を切るなんて、めちゃくちゃこだわり派のおしゃれさんみたいだな、と思った。かくして、そう短髪というわけでもないが、まあまあコンパクトな、ド金髪でもそう異様ではない、そんな髪型になったのだった。もっといい喩え、例えばバンドのあれだとか、韓国アイドルのあれだとか、そういうことが言えればいいのだが、そっち方面の情報は乏しいため、これになってしまうのだが、お見送り芸人しんいちみたいな感じだ。だいたいあれみたいな感じで、それのだいぶいい具合にしたほうのやつだ、と主張したい。髪を結べなくなったのは寂しいが、頭が軽く、乾きもいい。まあ夏はしょうがないか。秋からはまた伸ばす。そして、伸ばして、ポニーテールにする際は、髪色は黒がいいんだな、と学習した。長生きして、こうして経験を積んでいく。39歳の僕は、たぶん弓道部の副主将みたいな黒髪ポニーテールをしている。

2022年5月13日金曜日

新姪・プール・髪

 ライフハックによってGWの前半にブログを書かなかったので、すっかり記録が遅くなってしまったけれど、ファルマンの上の妹が、4月の終わりに第2子となる次女を産んだのだった。また女。これによりファルマン家は、ファルマン3姉妹からポルガ・ピイガ・上の子・そして今回の下の子まで、7連続女ということになる。この記録はどこまで伸びるのか。とりあえずめでたいことには間違いない。身近に赤ん坊ができたのは久しぶりで、早く感触を愉しみたいが、対面できるのは夏になるだろう。なにぶん上の子が小学2年生なので、里帰り出産もかなわなかったのだった。姉妹の年齢差は8ということになり、なかなかだなと思う。ちなみに一族初の令和生まれということになるが、あわや、別にあわやということもないが、寸でのところで昭和の日生まれになるところだった。令和生まれなのに昭和の日生まれってちょっとおもしろいな、誕生から早速ボケてくるな、と淡い期待を抱いていたが、結局誕生は4月30日となった。図書館記念日だそうだ。ふうん……、と思う。

 5月に入って田んぼに水が張られ、恒例のカエルの喚きが始まっている。鳴き声でも囀りでもなく、喚きである。ともすれば都会の喧騒よりも、絶え間なく大音量で、無数のカエルは喚き続けている。たまに、窓を開けたままにしてたっけ、と勘違いするほどである。そんな季節の移ろいの中、とうとう僕のプール生活が再開した。大みそかのおろち湯ったり館から、結局4ヶ月以上もスイミングから遠ざかったこととなる。実は帰省の際、ワンチャンひとりで夜に横浜国際プールに行けたりしないか、という画策があったのだが、事前にホームページを見たら帰省の期間中はメインプールが大会に使用されて一般利用できないとのことで、あきらめた。サブプールでも50メートルなので十分な設備なのだが、やはりせっかくわざわざ横浜国際プールに行くんならメインプールで泳ぎたいじゃないか。横浜国際プールのメインプールだなんて、草野球の選手が東京ドームで試合をするような、草サッカーの選手が国立競技場で試合をするような、そういう贅沢さだろう。実家からは車で15分ほどで、中学生の頃にできたこの施設に、当時のクラスメイトと行ったことがあった。残念だった。それは残念だったが、島根に戻ってきて、馴染みのプールの会員に復帰し、無事に4ヶ月ぶりのプールにありついた。当初は半年会員になるつもりで、冬からこつこつと資金を貯めていたのだが、申し込みが予定よりも後ろ倒しになった結果、資金がもうちょっと貯まり、ならばいっそのこと1年会員になってやれ、ということで1年会員になった。半年会員だと、秋に期限が切れて、そこから会員を継続するかどうか、これから寒くなるしあまり行きたくなくなるかな、なんて逡巡が発生し、そして会員をやめてしまったら再びプールと何ヶ月にも渡って縁遠くなるに違いないので、冬もひっくるめての1年会員というのは潔くていいと思った。会員である以上は、元を取るために冬も泳ぐだろう。それでいい。月曜日に会員になり、今週は月水金と3回も行ってしまった。再開直後だからって、ちょっと行き過ぎ。でも泳ぐの気持ちいい。嬉しい。

 髪を相変わらず伸ばしていて、もうかれこれ半年以上、前髪以外切っていない。暑くなってきたこともあり、日中は髪を結ぶのがデフォルトになっている。初めの頃は板についていなかったそのスタイルも、今では結ぶのも上手になり、なにより髪の体積は日々増え、日が経るごとに結びやすくもなってくるので、だんだん様になってきたように思う。ファルマンは少し前まで、僕の顔を見ると本当に忌々しそうに、「切れ」「切らせろ」ということを言い連ねてきて、帰省の際に実家の面々、母や姉などから僕が髪のことで苦言を呈されるのを期待していたようだが、結果的に「また金髪にしてんだ」以外の反応が一切なかったことでトーンダウンし、さらには最近ちょっと思うところがあったのか、「生きてくれてるだけで、いいよ……」という感じになっていて、どうやら無事に山は越えたようである。これでもうしばらくは難所は訪れないと思う。もっともプール生活が始まり、髪を乾かしにくいのは厳然たる事実である。でも、でもそれが? と思う。そんな理由で髪を切るのだとしたら、これまでの半年間せっせと伸ばした僕がかわいそうだ。ただしプールのあとは髪を結ばないのでモリっとなって、そして金髪寄りの茶髪みたいな髪色なので、なんか90年代っぽいというか、当時の加藤晴彦や押尾学のような感じで、それがちょっと嫌だと感じている。やっぱりもうちょっと色を抜こうかな。金髪寄りの茶髪ではなく、白髪寄りの金髪にしたい。

2022年5月10日火曜日

モルック・館・叔父(横浜帰省異聞)

 帰省の記事の際にさらっと書いたが、モルックをしたのだ。モルックである。姉がおもむろに「モルックって知ってる? 持ってきてるんだけど」と言ってきて、モルックってなんだっけな……、と一瞬考えたのち、「あのさらば森田の?」と思い至った僕は偉いと思う。実はつい先日、雑誌で紹介されているのを目にしていた。微妙に興味は湧いていたが、明らかに友達が多い人々の遊びなので、自分には縁がないだろうと思っていた。友達が多い人々が、キャンプとかで興じる遊びであると。どっこい縁はあったのである。僕には、友達が多くてキャンプによく繰り出す親縁がいたのだ。そういえば横浜在住のあの一家は、あまりにも典型的に、モルックをしそうな一家ではないか! 友達の友達の友達の……、と数珠つなぎをしていけば、理論上は5回くらいで地球上の誰とでも繋がれる、みたいな説があり、その話を聞くたびに義兄のことを思い出し、もしも僕がそれを試す状況に置かれたら、絶対に義兄へパスを回そう、義兄ならば無限の選択肢があるから、と思っているのだけれど、僕とモルックも、はるかに遠い関係かと思いきや、間に義兄を挟んで思わぬ至近距離でつながった。さすがである。
 それで実際に競技はどうだったのかというと、義兄・姪コンビチームと、僕・ポルガ・ピイガトリオチームで対戦をした結果、義兄チームが2回投げる間に我々は3回投げられるというハンデがありながら、やはり経験値的に終始劣勢だったのだが、終盤に向こうのチームが50点に近づけるのに手間取っている間に、我々もあと7点で50点というところまで来て、僕の番になり、「7」の棒だけを倒せば勝ちだけど、「7」の周りには何本も他の棒があって、誰の目にもそんなことは不可能だと映るなか、僕の投げた棒は本当に見事に、それ以上でもそれ以下でもそうはならなかったろうという、針の穴を通すような絶妙な加減で「7」だけを倒し、劇的な逆転勝利を収めたのだった。森田がこれのことを「すべらないゲーム」と言っていたが、本当だと思った。ビギナーズラックという言葉があるが、これはそうではなく、たぶん僕は今後の人生でもう二度とモルックをする機会がないだろうから、一生分の運があの一投に注ぎ込まれたのだと思った。

 姉がどういう風の吹き回しか、字の本を読んでいるそうで、どんなものを読んでいるのか訊ねたら、「十角館」という答えが返ってきて、聞き間違いかと思った。しかし間違いではなく、本当に綾辻行人の館シリーズを読んでいるらしい。「いま迷路館」だそうだ。字の本と言ったが、姉は漫画さえ読まない人間だったので、それがミステリの、新本格の、館シリーズを読んでいるということに、違和感に違和感に違和感が重なって、頭がくらくらした。パラレルワールドに迷い込んだのかと思った。そういえば読むきっかけを訊くのを忘れたな。なんでなんだろう。それが最大の謎だ。

 叔父は2021年、青葉区から出なかったそうだ。免許を持たない叔父は、徒歩か自転車でしか行動をしないので、気づけばそういうことになっていたらしい。1年間でいちばんの遠出が、祖母と母のいる実家だそうだ。同区内だ。すごいな。コロナ禍もあり、県内から出なかったという人はたくさんいるだろうが、区内となるとなかなかいないと思う。そして叔父は別に、コロナ禍だから自粛というわけでもなく、ナチュラルにそうなんだと思う。広島から横浜に越してきて、行きたい場所とかないのか。ないんだろう。しかし決して、無気力とか引きこもりとか、そういうことでもないのだ。会うと、やりたいようにやっている感が出ている。きっと誰よりも自由だろう。ちょっと憧れる気持ちも湧く。ファルマンは「最終目標だ」と心酔している。しかし結婚し、子どもを持ち、運転免許を取った身には、あの境地に至ることは絶対に不可能だ。
 餃子を焼いているとき、ホットプレートに繋いだ延長コードが老朽化により発火した、ということを日記に書いた。実はそれを焼き始める前の準備の際、延長コードをパソコンなどに繋いでいる分岐タップの空きに差そうとしたところ、叔父が「それはよしたほうがいい」と忠告をし、少し離れた位置にある、なにも差さっていないコンセントタップを使うことにした、という経緯があった。発火した当時は、その衝撃でそれどころではなかったが、しばらくしてから、「叔父、言ってたな……」と思い出した。叔父は少し先の未来が見え始めたのかもしれない。だとしても違和感はない。
 あとその夕餉が終わったあと、姉の運転する車で、帰りついでに叔父を住まいまで送る際、このとき姪は、日中のこどもの国で動き回り、その際に捻挫というほどでもないが脚の筋を少し痛めていたらしいのだが、「おじちゃんが車から降りた瞬間に、ぴたっと痛みがなくなったんだよ!」と、次の日に報告してきた。これもまた、叔父の人ならざる力によるものではないか。叔父はもう、とても高い次元に至ったのかもしれない。30歳まで童貞だと魔法使いになれるといい、叔父が童貞なのかどうなのかは知る由もないけれど、だいぶ力が強まっていることは間違いない。僕にもう少し山師的な才覚があれば、すぐにでも新興宗教を立ち上げるのだけど。そして叔父の近くには、山師的な才覚に溢れる人間がひとりいて、その娘の足は教祖様のお力によって穢れが取り払われたのだけど、果たして気づいているだろうか。ビッグビジネスのチャンスやで!

2022年4月19日火曜日

筋肉・キムシャブ・飛行機

 それぞれのワクチン接種の副反応で中断してしまったが、その少し前あたりから、ファルマンと一緒にHIITをしている。HIITとは筋トレと有酸素運動を兼ね合わせたもので、ファルマンは運動不足の解消、僕は筋肥大と脂肪減を目的に、YouTubeの動画に合わせ、3日にいちどくらいのペースで行なっている。行なうと、次の日に僕は筋肉痛に襲われるのだけど、ファルマンはほとんどそれがないというので、びっくりする。日々、HIIT以外にもせっせと筋トレに励んでいる僕が筋肉痛になり、この時間以外はガラパゴスゾウガメレベルの動きしかしないファルマンは筋肉痛にならない。なぜ、と思う。同じ動きをしているようで、実は僕はちゃんと体を刺激できていて、ファルマンはそれができていない、というのならいい。しかしそれよりも、筋トレ程度では覆せない地力、という考え方のほうが、正直しっくり来る。どんなに筋トレをしてもいつまでもやわらかさのある僕の体(かわいすぎる)に対して、特になんにもしていないファルマンのバキバキたるやどうだ。抗えない事実として、肉牛でいうなら品種みたいな、そういうものを感じる。加えて、前に書いたが、阿呆な奴のほうが、日々のありとあらゆる動きに際し、効率のいい動きというものを一切しないものだから無駄に肉体を使い、しかし結果としてそれが絶え間ない筋力トレーニングになっている、という例の説のこともある。そんなふうに考えて、このやるせない現実を受け止めている。

 吉野家の取締役が言い放ったという、「生娘をシャブ漬け戦略」という言葉が、やっぱりすごくおもしろい。ワードのチョイスがいいのに加え、語呂もいい。近年の流行語でいうならば、「激おこぷんぷん丸」にも匹敵する完成度ではないかと思う。これまで編み出されたすべての「〇〇戦略」の中で、たぶんいちばんおもしろいと思う。あまりに秀逸なので、演劇でいうところの、役に役者のイメージがついてしまうみたいな現象で、今後は「戦略」という言葉を聞くたびに、(生娘をシャブ漬け……)と頭の中に浮かんでしまうだろうと思う。それくらいすごい。すごくひどい。こういう失言の類には、言葉の綾とか、文脈とか、作為的な切り取りとか、そういった弁明がつきものだが、そんなものを完全に受け付けようがない、完膚なきまでのアウト発言。10点満点。見事だ。
 ちなみにファルマンはこの話題を知って、なにをどう感じたかといえば、島根から所沢に出てきて、ひとり暮しで、プロぺ通りの吉野家で牛丼ばかり買って食べていた日々のことを思い出したそうだ。シャブ漬けにされた生娘だったのだった。

 飛行機に乗ることになり、一日のうちの何分間かは、そのことに思いを馳せている。乗っている時間は1時間半ほどなので、その間なにか、空を飛んでいるという阿呆な現実を忘れられるくらい、熱中できるものがあればいい、と思う。そうして考えたとき、やっぱりエロしか思い浮かばない。席は2列のシートを前後で取り、子どもたちをそれぞれ窓側に座らせる予定で(飛んでいる窓の外を見たいなんて狂気の沙汰だと思う)、だから隣には娘が座るわけだが、それでもこのときだけは許してもらって、ぜんぜん普通にエロ漫画を読んで、ぜんぜん普通に勃起して、ぜんぜん普通にちんこをこすったりしていようかな、などと思う。あまりの恐怖に、飛行機が落ちなくても社会的に死ぬ方法さえ検討し始めた。

2022年4月17日日曜日

日々・眼鏡・カムカム

 3月の最終週にコロナワクチンの3回目を接種して、金曜日だったが、翌週の火曜日あたりまで違和感があった。周囲にも、1回目と2回目はそうでもなかったが3回目は来た、という人はけっこういた。その次の週末が広島旅行だったので、かなり気忙しかった。旅行を終えて、次の週末には法事があった。ファルマンの父方の祖父の七回忌である。それ自体は日曜日の午前が潰れるだけのことなのだが、実はそれ用に娘たちの礼服を手作りすることにしており、その製作が、ワクチン接種の副反応や旅行のことなどでなかなか捗らず、かなり綱渡りの完成になってしまった。またその日々の中で、たった1泊2日の旅行記を6回にも分けて書くということをしていたため、結局この3週間ほど、普通の日々に普通のブログを書くということが、ぜんぜんできなかった。要するに、ちょっとバタバタしていた。バタバタといっても、外的な要因によって悩まされるとかではなく、ほとんど自主的なものなのだけど。しかしそこからもようやく抜け出し、いま差し当たって抱えている物事はない。嬉しい。筋トレして、裁縫して、ブログを書く、通常運転の日々の再開である。

 眼鏡を買った。とうとう買った。正月に買えず、広島で買えず、岡山に行ったときに、などと思っていた眼鏡だったが、やはりこれまでの眼鏡のレンズに入った傷は限度を迎えていて、目が疲れて瞼がピクピクする頻度は高まっており、それを見かねたファルマンが、「いいからもう島根の店で手を打ちなさいよ」と背中を押してきて、えー、でも島根の店にはいいのがないんだよなー、などと文句を言いながら、それでも行くだけ行ってみるかと覗いた店で、「あ、これいいじゃん」というものにあっさりと出会い、買った。さんざん引っ張っておきながら、買うときは呆気ないものだった。
 購入の際、視力検査をしてもらう。ここ2回くらいは、いま着けている眼鏡と同じ度数で、という注文をしていたのだが、瞼がピクピクするのが仕事中であることを考えると、これまで「ちょっと裸眼よりも目が良くなる」というコンセプトで作ってもらい、常に着けていた眼鏡だったが、本来の、18歳のときに初めて作った際の理由である、運転用に特化した、ちゃんと遠くがはっきりと見える仕様で作ってもらい、運転中は着け、労働中は外すという使い方をこれからはしようと思ったのだった。それで検査してもらったところ、「今までの眼鏡だったら更新が通りませんでしたね」と言われ、ヒヤッとした。そして2段階ほど度合を上げてもらった。着けると、ぐいっと遠くがはっきり見える。そこまで強く見えなくてもいいんだけどな、とも思うが、運転中は本来そうあらねばならぬものであったらしいのでしょうがない。そしてこれは、もちろん労働中にはとても着けていられない。
 そんなわけで週明けから、労働中は裸眼の人となる。えーどうしよう。ずっと眼鏡だったので、急な裸眼はなんだか恥ずかしいな。デビューみたいじゃないか。

 なんとなく気忙しかった日々の最中、毎日欠かさず視聴した「カムカムエブリバディ」が終了した。最後まで非常におもしろく、おかげでとても愉しい日々を送ることができた。100年の物語ということで、あのときのあの少年が老人となり、ここぞという場面で登場、みたいなことがあるんだろう、と前に予測したが、こちらの期待通り後半はもうそれの連続で、あまりの連続さに作者の狂気さえ感じるほどだった。連続テレビ小説にしろ大河ドラマにしろ、NHKのドラマではよく「ロス」ということがいわれ(それだけみんなNHKのドラマをよく観るんだろう)、放送中のハマり方からすれば僕もロス状態になってもおかしくないはずなのだが、実際はぜんぜんそんなことなく、カムカムがない日々を普通に受け入れている。たぶんそれは最後のその怒涛のサービスで、きちんとお腹いっぱいになったからだと思う。ちょうど満足したので、気持ちよく店を出て、振り返ることもなく、帰宅して、消化して、排便して、健やかなんだと思う。それって創作物としてすごいことだと思う。

2022年3月27日日曜日

岡山時代・ガソリン・眼鏡

 パソコンが新しくなるのに際して、画像データの移し替えなどをしていて、岡山時代の写真に目が留まる。そしてそこに写る家の狭さに、びっくりする。住んでいた当時、十分に余裕のある広さだとは思っていなかったにせよ、そこまで狭いとは感じていなかった。もしかすると、無意識にその事実から目を逸らしていたのかもしれない。なにぶん物が多かった。島根に越すにあたり、だいぶ物を減らしたのだ。これぞ引越しの大いなる利点であろう。そもそもこちらの住まいは岡山時代よりもそこそこ面積が大きいので、現実から目を背けているわけではなく、まあまあ余裕がある。余裕があるならある分だけ物を散らかすのが子どもだが、それでも岡山時代よりはマシだ。写真に写し出された情景に、本当にびっくりした。

 金曜日の出勤時、ガソリンが微妙に乏しくて、航続可能距離を見ると、出退勤できないことはないのだが、しかしそこまでぎりぎりの状態になるのは避けたい気持ちがあり、しかしながら給油は、いまとてもガソリン価格が高いこともあり、できることならば価格が安くなる週末、それも通勤のルート内ではない、行きつけの割安のスタンドでしたいという思いがあるため、とりあえず出勤時に1000円分だけ入れることにした。ところがセルフのスタンドで1000円分の給油をして車を出発させると、航続可能距離がまったく増えていない。話には聞いたことがあった。少量の給油では数字に反映されないことがある、ということを。それでも1000円分のガソリンは増えているのだから大丈夫だと思いつつ、しかし航続可能距離は給油前の不安感を覚える数字のままで、それが走っているうちにさらに目減りしていくものだから、なんとなく落ち着かなかった。これってなにかに似ているな、と思い、なんだろうと考えた結果、甘イキだと思い至った。思いっきりの射精をしてしまうとそこで話が終わってしまって寂しいので、繊細なコントロールによって、「射精エッセンス」とでもいうべき、射精とカウントされるような、されないような、絶妙な快楽を繰り返し得るという、あの行為。タンクがいっぱいになる、タンクが空になるという、真反対の現象ながら、車にとって給油が射精であるとするならば、1000円分だけの、入れたのに入れていないことになっている給油は、まさに甘イキのようなものだと思った。

 正月に買えなかった眼鏡を、相変わらず買えずにいる。先日ファルマンが先んじて眼鏡を新調したので、その際にお店で、「これはよそで買った眼鏡なんですけど、レンズだけ交換してもらったらいくらですか」と訊ねたところ、「5500円」という答えが返ってきて、やはり「むー……」となった。5500円かー。レンズしか新しくない眼鏡に5500円。うーむ。
 近ごろ、もはや眼鏡拭きでどうにかなるものではないレンズの汚れ(もとい傷)に悩まされているため、眼鏡というスタイルそのものに疑問が出てきて、そうなるとコンタクトレンズということになるが、しかし今さら家の外で眼鏡ないキャラになるのも抵抗感があるため、いっそ今のこのお気に入りのフレームの眼鏡の、汚れたレンズを外してしまい、フレームだけにしたところへ、視力方面はコンタクトレンズで解決という、そういう方策はどうだろうと考えもしたが、意味が分からないのでやめた。早く解決したい。

2022年3月3日木曜日

おつかれ生・ホットケーキ・THIS IS US

 ガッキーによるアサヒのビール「マルエフ」のCMで放たれる「おつかれ生です」に、毎回とても甘美な気持ちになっている、ということを前に書いた。それがもう3ヶ月も前のことで、最近はさすがに感動が薄れてきて、「どうせガッキーは生派なんでしょ、ゴムは嫌なんでしょ。知ってんぜ」と食傷気味になっていたところへ、その「マルエフ」にこのたび黒ビールver.が出たということで、その新CMでももちろん「おつかれ生です」のセクハラコピーは健在で、「うほっ、黒! 黒いの! 黒い生! ガッキー、黒くてぎらぎら光る生が好き! おつかれ赤黒生ちんぽ!」と興奮が息を吹き返した。こういうことをいうと、先日ハードディスク内のエロ画像のサムネイルの羅列を目撃して以来、僕に対してフェミニズム的な批判を強めているファルマンが、また眉を顰めるのだけど、フェミニズムとか、そういうんじゃないだろう。僕はただ、女の子をエロい目で見るのが好きなだけなんだ。ただそれだけなんだ。怪力の、けれども心の優しいモンスターが、小動物と遊ぼうとして、しかし力加減が分からず、ぶっ殺してしまうみたいな、なんかそういう哀しい話なんじゃないのかな、これは。

 先週の日曜日の昼ごはんは、ホットケーキだった。家族で寝坊したため、そもそも朝ごはんがブランチめいた時間帯になったこともあり、後ろ倒しになった昼ごはんが、今度はおやつと合体し、ホットケーキになったというわけである。ファルマンと子どもたちはたまに(数か月にいちどくらい)していたようだが、僕はホットケーキなんて、たぶん数年ぶりだ。食べることにした以上はおいしく食べたかったので、午前中の買い物の際に生クリームを購入し、泡立てた。それをたっぷり乗せて食べたら、焼き立てということもあり、脳髄にガツンとおいしかった。これまでファルマンの監修のもと、バターとハチミツだけのホットケーキしか知らなかった子どもたちに、新しい世界を見せてしまった。もうホイップクリームのないホットケーキでは物足りない体になってしまったかもしれない。
 それにしても、その特性上しょうがないことなのだけど、生クリームの脂肪分ったら、普段の買い物で食材の脂肪分の多寡を気にしているのが虚しくなるほどの激しい数字で、なるほどこれだから洋菓子は太りやすいといわれるのか、と痛感した。それでも食べる際は、そんなことを気にして薄く塗っても馬鹿らしいので、こんもりと乗せ、背徳感もおいしさに転化させ、きちんと堪能した。
 そもそも脂肪分をそうやって気にし、体を引き締めたいと思う一方で、体を全体的に大きく、がっしりさせたいという思いもあって、最近の僕はいまいち指針がはっきりとしないのだった。ホイップクリームをこれでもかと乗せた、夢みたいなホットケーキを前に、「それなりに厚みもありつつ、でも細マッチョの部類」を夢見る乙女心は、千々に乱れるのだった。

 「THIS IS US」のシーズン5を観終える。今シーズンも盛りだくさんの内容で、観ている期間は幸福だった。ずっと続けばいいのに、と思うが、情報によると次のシーズンでおしまいらしい(向こうではちょうど最近放送が終わったとか)。残念。前に「渡る世間は鬼ばかり」との比較について書いたことがあったが、あれのように、1年に1度、敬老の日とかに、スペシャル版みたいな感じで作ってくれればいいのに。
 それにしても今シーズン最終話のラスト。なんだあれ。僕よりあとに観始めたのに、僕より先に観終えたファルマンが、「最後すごいよ、狐につままれるよ」などと匂わせてきたので、身構えていたのだが、見事につままれた。処理が追い付かない。追い付かないまま、また1年ほど、次がプライム会員特典になるのを待つしかないのか。いっそのこと、ファルマンの勧誘によって義母もハマり、今シーズンも3人のうちで誰よりも早く観終えたほどなので、有料のものが出た段階で購入をけしかけようかな。そしてファルマンと実家に押しかけ、ひと晩ぶっ通しで観る、なんてことをしたい。できないけど。もう徹夜なんて。

2022年2月22日火曜日

サウナを愛でたい・セイでしょ・幕府

 「サウナを愛でたい」で四季荘をやるというので、観た。行ったことのあるサウナの紹介は、「俺ここ行ったことあるぜ」という意味でおもしろかったが、逆にいうと紹介される内容はすべて知っているため、観る意味がないともいえた。それにしてもBSとはいえ全国放送なわけで、やっぱり今後はますます盛況するに違いない。以前と違って今は平日の休みがないので、行けるとしたら週末になるが、週末の四季荘はただでさえ熱波師だのなんだのの内輪受けがひどそうなのに加え、さらに大混雑ということになってくると、いよいよ足は遠のく。こんなこといっても本当にしょうがないけど、僕はたぶん、去年オープンした四季荘のサウナエリアの、先着200番台くらいの客なんだぜ。最初に行ったときは貸し切りだったんだぜ。
 あと今回の放送は四季荘のLINEで知らされたので観たわけだが、観た結果、実は山陰シリーズと銘打って、先週あたりに鳥取でオーシャンに行っていたようだということを知って(最後にヒャダインが振り返っていた)、ファルマンと、「むしろそっちが観たかったわー」と悔しがった。11月の鳥取旅行は、われわれの中でとてもしあわせな思い出になっている。

 先日ファルマンにその膨大な量のデータを発見され、プチトラブルになった、ウェブ上のエロ画像を保存していく行為について、「見ていても、見たいものだけが並んでいるわけではないから、自分の性癖に合致するものだけを保存していくことによって、とても心地よいフォルダが出来上がるって寸法」と記述したが、あとになって、「精製」という言葉を思いついた。そうなのだ。それは「混合物を純物質にする工程、あるいはその技術」というwikipediaの説明がとてもしっくりくる。さらにいえば、「生成」でもあるし、「聖性」でもある。あるいは「清々」ともいえるし、なにより「精誠」だし「正々」だ。だからつまり、その行為は、「せいせいせいせいせいせいせいせいせいせい」なのだ。これからは、「なんでそんなことするの?」と訊ねられたら、「だって、せいせいせいせいせいせいせいせいせいせい!」と答えよう。もはや意味が分からないけど、そうやって煙に巻こう。

 髪をとても伸ばしている。金髪にしているのとまったく同じ感情から、できる状況にあるのだから、長髪というものも気の済むまでやってみようじゃないかと思っている。現時点で、結ぼうと思えば結べるのだけど、いま結ぶと、ただの「結ぶのをしたいだけの男」でしかない長さなので、もうしばらく伸ばし、「必然性のある場面では結んだりもする男」になろうと思っている。
 こうして髪を伸ばす試みは初めてではなく、しかしこれまではゴールに至らず頓挫してきた。どういう理由で頓挫するかといえば、それは大抵の場合はファルマンだ。ファルマンが、「見苦しいから切らせろ」「変だから切らせろ」と苦言を呈し、そのしつこさに僕が、「じゃあ目にかかる前髪を中心に、整えるだけだよ」と根負けし、ケープを纏って椅子に座ることとなり、そして鋏を持ったファルマンを前に、僕はまな板の鯉になるほかないので、結局「ちょっとだけ、先っぽだけ」と騙す悪い男のように、ずっぽり根元まで挿入され、いつしか後ろもばっさりいかれてる、ということになる。いつもそうして僕の夢は断たれてきた。
 実際、髪を伸ばす最中には、数々の難関がある。難関とは、半端な変な状態のことである。襟足がマイルドヤンキーの息子のようになる時期、目にかかる前髪を払おうとして前髪がパッカリ分かれる時期、耳との干渉によって下に伸びるというより横に広がるような状態になる時期など、こういうときにファルマンは苦言を呈してくる。
 そして先週の後半あたりが、まさにこの挙げた中の最後の状態、横に広がる時期のピークで、見かねたファルマンが、「絶対に週末に切るよ!」と宣言をしていた。普段ならばここで万事休す、あえなく断髪の憂き目に遭う状況だったのだが、今回は違った。土曜日にファルマンの歯の詰め物が取れるという出来事が起り、週末のファルマンはそのことにずっと囚われ通しで、僕の頭髪のことなどすっかり思考の埒外となったのだった。かくして難所であった週末を乗り切り、安心しながら観た日曜日の夜の「鎌倉殿の13人」で、源頼朝はまず助からないような場面でも奇蹟的に助かり、それは天の導きによるものだ、というような話をしていて、今回の僕の髪とファルマンの歯の詰め物のくだりも、まさにそれだな、と思った。天が、僕の髪を切らないよう差配しているとしか思えない。じゃあ僕も数々の難関をかいくぐり、いつの日か髪切らん幕府を開きたいな、と思います。いい髪型にしよう髪切らん幕府。おあとがよろしいようで。

2022年2月18日金曜日

蛮行・脱衣・性癖

 ダイソーで買った、200円でも300円でもない100円の、4色(黒、赤、緑、青)ボールペン&シャーペンが、やけに書き味も抜群で、嬉しいと同時に、若干のやるせない思いも抱く。大人なので、あまりにも安く、あまりにも機能的に十全なものに接すると、経済であるとか、労働であるとか、そんな部分に思いを馳せてしまうのだ。などと言いつつ、あまりにもコスパがいいので、自宅用や職場用など、何本か買い足して使っている。
 そのペンに関して、元から入っていたシャーペンの芯がなくなったので、補充しようと思い、てっぺんにあるキャップとミニ消しゴムを外したところ、穴がないのでびっくりした。これまでこういう多色ペン&シャーペンみたいなものを持ったことがないので、この手のペンはこういうものなのか、それともここに100円商品の限界があるのか、判然としない。とにかく穴がないと芯の補充のしようがないではないか。どうすればいいのか。リビングでそう嘆いていたら、ファルマンが、「ペンの先っぽから入れればいいじゃん」と言う。「って言うか私はいっつもそうやって補充してるよ」と。その内容に驚いていたら、横にいたポルガまでが、「自分もそうしてる」と言い出したので、多大なショックを受けた。シャーペンのペン先から芯を入れるなんて発想、まるでなかった。芯は後ろから入れて前から出すものと、自分の中で明確に定まっていた。そういう流れというか、矢印というか、それが僕の中にはあった。だから出口から芯を入れるなんて、蛮行ではないかと感じた。この他に聞き取り調査をできる人がいないので、果してどちらの発想がどれだけ一般的なのか、よく分からない。たまたまふたりが、世界めんどくさがりチャンピオンと、世界めんどくさがりジュニアチャンピオンである可能性もある。あとそう思うと同時に、入口と出口、穴と棒の話なので、男と女のそれぞれの観念も無意識に作用しているのだろうか、とも思った。僕はちゃんと正道に差し入れたい。でも穴がないのならしょうがない。ペン先から挿入した。ちょっと背徳的な気持ちになった。

 「パンツを脱いで寝る即効療法」という、タイトルの通りの内容の本に出会い、非常に興味深く読んだ。医師が語る科学的な論拠パートもよかったが、ページの大部を占める、「実践者による成功体験報告」がとにかくおもしろかった。それによると、パンツを脱いで寝ると、肌荒れ、腰痛、肩こり、神経痛、ぜんそく、鬱、水虫など、ありとあらゆる体の不調が改善されるようだった。
 今が冬でなければ僕もすぐにやるんだけどなあ、ということを前に書いたが、この療法が最初に流行ったのはなんと北海道で、実は裸で寝ることと寒さはぜんぜん関係ない、むしろパジャマで余計な空気の層を作るよりも裸で直接布団にくるまれたほうが暖かいのだ、みたいな記述もあり、そこまでいうなら、ということでやってみた。というより、やってみている。隣の布団のファルマンにものすごく嫌な顔をされながらも、半裸だったり全裸だったりで寝ている。その結果、どうなったかというと、そもそも僕はさしあたっての体の不調というものがないので、劇的な効果は得られようもないのだが、まあ本当に単純な感想として、なんか気持ちがいい。眠りの質とか、寝起きとか、そういうことじゃない。ちんこが出ていることで高揚感が発生し、ひと晩中、微弱な性感を得続けながら過せているような気がする。この本は、常にゴムで締め付けられていることは害悪である、という論旨なのだが、ゴムから解放された結果、常に微弱な性感が下半身を覆うようになったわけで、こんな締め付けなら大歓迎ですね。「寝るときなにを身に着けていますか?」と訊ねられたら、僕はこう答えよう。「性感だ」と。今後も続けようと思う。

 子どもの画像の整理をしていたファルマンが、僕のパソコンに繋いだハードディスク内のそれを取り込もうとした際、「ゆめ」と名付けられた、やけに容量の大きなフォルダを見つけ、子どもの映像だろうかと思い、確認しようと開いたところ、膨大な数のエロ画像のサムネイルが表示されて、それはもう、それはもうとても、ショックを受けたという。これはとても不幸な事件であった。誰も悪い人はいない。見てしまったファルマンは不幸だし、見られてしまった僕も不幸だ。もういちど言おう。誰も悪い人はいない。
 夫にそんな習慣があったことを知らなかったファルマンは、「なぜ?」と困惑したそうだ。そういうものを、見ていることは知っている。でもなぜ、なぜ保存するの? と。帰宅後、実際にその疑問を投げつけられたが、なぜ、と問われても困る。見て、見るだけより、保存するほうが、自然だろう、としか答えられない。強いて言うなら、見ていても、見たいものだけが並んでいるわけではないから、自分の性癖に合致するものだけを保存していくことによって、とても心地よいフォルダが出来上がるって寸法である、というくらいの理由か。それが積み重なって、1枚1枚はそれほど容量の大きくない画像が、映像もかくや、というくらいの容量になった。その結果、悲劇が起きた。みたび言おう。誰も悪くない。
 気持ちが悪い、とファルマンは言った。ああいう画像そのもの、ああいう世界そのものが受け入れられないし、なによりその画像が、子どもたちの写真と同じハードディスクに入っていることが耐えられない、と。それは見解の相違だな、と思った。そのふたつが同じフォルダに入っていたら、それはもちろん異常だと思うけど、フォルダは分かれていたのだ。フォルダってそういうもんだろう。分かれているんだから、なんの問題もないだろう。
 そんな僕の主張は通らず、早晩USBメモリを購入し、そこへいくらでも保存すればいい、ということになった。しかしハードディスクも、USBメモリも、同じく僕のパソコンに繋がれるのである。じゃあそれとフォルダ分けのなにが違うの、と思うが、それでファルマンの気が済むのなら黙って従おうと思う。最後にもういちど言っておく。誰も悪くない。

2022年2月8日火曜日

THIS IS US・カムカムエブリバディ・鎌倉殿の13人

 「THIS IS US」のシーズン5がプライムビデオに出たので、さっそく観ている。おもしろい。本当にリアルタイムの世の中の設定でドラマが作られているため、今シーズンはきちんとコロナ禍での話になっている。感染対策で撮影が大変なのはもちろんのこと、このドラマの場合、ちょいちょい未来の風景も描いているため、コロナのことなんて頭になかった時代(数年前)に描いた未来と、コロナを経た未来の、辻褄を合わせなければならず、そういう意味でも大変そうだと思う。それでリアルタイムということを意識したせいか、改めて主人公たち3人と自分がほぼほぼ同世代であることを実感し、過去の思春期の時代であるとか、大学生の時代であるとか、主人公たちがそれぞれいろんなことをしていた時代、遠く離れた日本で、僕は男子校に通ってお好み焼き屋でバイトしてたなあ、とか、モーニング娘。とか聴いてたなあ、なんてことを思ったりした。本当にドンピシャで同世代だから、そういう意味でも愉しい。まだシーズン序盤で、いっぱい話が残っているので嬉しい。

 「カムカムエブリバディ」も引き続き観ているが、こちらはもう3世代ヒロインのアンカーになって、放送もあと2ヶ月ほどと、ひなた編はまだ始まったばかりとはいえ、終わりが見えはじめてしまって、なんとなくもの哀しい気持ちがある。近ごろはこれを「ロス」と、なにかが終わるたび、登場人物の誰かが死ぬたび、条件反射のようにみんな言う。本当にただの「反応」でしかない感じで、馬鹿みたいだな、とも思うが、まあたかがドラマなのだから、そのくらい簡単な受け止め方でいいのだ、ドラマの感想に美辞麗句を並べようとするほうがよほど馬鹿みたいだろ、という気もする。併せて、「ナレ死」という言葉もあり、このドラマの感想でもさんざん、ナレ死だナレ死だ、と言い募る向きがあるけれど、ナレ死という言葉が生まれる前のドラマって、そんなにちゃんと登場人物の死を、死の瞬間を、映像として表現していただろうか。ましてや戦国ものでもない、朝の連続テレビ小説である。合戦をして胸に矢が刺さるわけでもないのだ。そんな物語世界での、ナレ死じゃない死って、きちんと描いたら朝からとても陰鬱な気持ちになるだろ、と思う。でもまあ、それでいいのだ。ナレーションで誰かの死が告げられたら「ナレ死だ!」とつぶやき、そして「ロスだ!」とつぶやけばいいのだと思う。朝ドラってどうやらそれでいいのだ。

 「鎌倉殿の13人」ももちろん観ていて、というか今期は朝の連続テレビ小説と大河ドラマしか、ドラマを観ていない。なんと保守的なのか、とも思うが、順当な帰結だろう、とも思う。ところで鎌倉に行きたいという気持ちは、数年前から募らせていて、しかし帰省するときは夏にしろ正月にしろ人が多い時期だし、数年前まではインバウンドとかいって、本当に人が多そうだった。いまは外国人は少ないのだろうが、外国人が少ない理由とまったく同じ理由から、帰省そのものがままならない。そして夏ごろ、(ともすれば)ようやく帰省ができたとしても、その頃はこのドラマの影響で、やはり鎌倉は大混雑であろう。あざみ野から鎌倉までは、電車で1時間ほどで着くようだが、近くて遠い。果たして行けるのはいつのことになるのか。

2022年2月3日木曜日

センター試験・池江・配布

 今年もセンター試験が行なわれていた。本当はもうセンター試験ではなく別の名称になっているらしいが、たぶん僕は一生、センター試験と言うのだろうと思う。そのセンター試験で印象的だったのは、問題流出事件ではなく、どこかのサイトで目にした、「センター試験の日は女子高生に痴漢行為をしても、向こうは事を荒立てて試験に遅れるわけにはいかないから、したい放題だぜ」という文言だ。これには、なんと下劣なのか、と憤ると同時に、まあしかしなんという知恵だろうな、とも思った。こういうことに関する知恵というのは、それ以外のことに取り組んでいるときに較べ、ざっと数百倍くらい、まさにスカボン級に増幅するものだとしみじみと思う。しかしどうしたって下劣だ。ずっとこの日のために勉強をがんばってきたじょっこからすれば、たまったものではない。かくなる上は試験日当日は、受験生のLJKのために、FJKやMJKがあえて制服姿で電車に乗り、痴漢してきた男を駅員に突き出すという運動をしてはどうか、そんな呼びかけをなんかしらのハッシュタグで行ない、実現したら感動的だろうな、なんてことを思った。38歳男性が発起人になってもいいだろうか。発起人が勃起人になる結末が待ち受けているかもしれませんね。駅員さん、こっちです!

 池江璃花子が、なんかの大会の50メートル自由形の予選を、クロールではなくバタフライで泳ぎ、そして2位で通過したという。かっこいい。ちなみに決勝では、さすがにクロールで泳ぎ、そして優勝したという。なんかもう、すごい。2019年、白血病になっていたというのに、地力がとにかくスカボンなのだろう。なにを隠そう池江は僕の大学の後輩なのだけど、ずいぶん差をつけられちまったな、と思う。池江の先輩の僕は、12月31日におろち湯ったり館で泳いだきり、1月はとうとういちども泳がなかったし、行きつけのプールが改修工事に入ってしまい、春まで閉まるので、たぶん2月も3月も泳がない。後輩との差は開くばかりだ。あと日大は、ここ数年の不祥事によって、国からの補助金がとうとう完全にもらえなくなってしまったらしいが、「学費の値上げは一切しない」そうだ。当たり前だボケ。

 上のふたつの話題において、説明をする前に普通に使用してみせたのだが、「スカボン」という表現を考えた。度合がすごい、能力がすさまじい、とにかく激しい、そんな意味。「スカウターがボンッってなるレベル」だからスカボン。フリー素材なので、誰でも自由に使ってください。

2022年1月24日月曜日

ポルガ11歳・すべらない話・一般人の壁

 1月22日にて、ポルガが11歳となる。11歳。10歳はまだ幼児のグループに入る感があるが、11歳からは思春期のグループに所属するような、そんな気がする。数字の上では。ポルガは、背はまあまあ大きくなり、幼児では決してないが(顔は生後2ヶ月くらいからあまり変わっていないが)、じゃあ思春期の気配があるかというとそんなこともなく、前からなんとなく不思議な、普通に街で育て、普通に公立学校に通わせているのに、おととい文明社会に連れてこられたみたいな雰囲気だったが、近ごろは「子ども」でもなければ「少女」でもなくなり、ますます得体の知れない存在になってきた。友達の多い、気さくなタイプではないが、自己肯定感は、強いとか弱いとかの次元を超えて、ドーピングでもしているのではないかというくらい振り切れていて、そもそも(誰に似たのか)ひとりで自分の好きなことをするのが好きなタイプなので、今後も迷いなく自分の満足のためだけに突き進んでくれればいいなと思う。
 誕生日祝いのメニューは、毎年恒例のたこ焼き。これは本当に毎年、リクエストによって必ずなので、今年もせっせと焼きながら、「ああ今年も無事にこうして娘の誕生日を祝えたなあ」と感慨を抱くことができ、便利なシステムのような気がしてきた。今回のたこ焼きは、買った粉が当たりで、とてもおいしかったので、味的にも大満足だった。ケーキはチョコレートのスポンジに、クリームもチョコレート(もともとそういう生クリームが店にあればよかったのだが、なかったので板チョコを溶かして作った)にして、チョコレートケーキにした。なにぶんこの1ヶ月間で3度目のホールケーキなので、味変する必要があった(などというわりに、そういえばこの間にカステラを何度か作っている)。
 誕生日プレゼントは、レジン創作のスターターキット。さすが、1月4日よりは精神が落ち着き、それなりに考えられた「欲しいもの」が挙がるものだと思う。レジン創作に関しては、前に穴に向かって叫んだように、複雑な感情を抱えているのだが、興味がないこともないので(あわよくば僕もペッペッペーってやって、ペッペッペーって稼ぎたいと思っている。完全に裁縫よりも下に見ている)、わが家に器材がやってくるのは喜ばしかった。
 これにて今年の娘たちの誕生日月間はおしまい。7歳と10歳だったものが、8歳と11歳になった。まだまだ小さいものだな、と思うが、嘘だろ、まだ3歳と6歳だろ、と驚く気持ちもある。子育てはまだまだ続く。

 先日職場での会話で、関東でも雪が積もったという日だったろうか、向こうの人たちはスタッドレスタイヤなんて持ってないだろうから大変だろうという話になり、その際に上司が、「そういえば前、外国のメーカーが、1年中履き替えなくてもいいスタッドレスタイヤを開発したって聞いたぞ」と発言し、僕はそれに対して、へえ、それは便利ですね、などと、たぶん適当に返事をしたのだったけど、あとになって、別にどんなスタッドレスだって使おうと思えば、燃費は悪いが1年中使えるじゃないか、と思い至り、あれ? もしかしてさっきのって、上司の渾身のジョークだったのかな? いや、そういうことじゃなくて、なんか特別な1年中仕様の研究開発がなされたスタッドレスタイヤってことなのかな? 分からん、なにもかもがあやふやすぎて、なんにも分からん、なんて意味のない会話だ、とやきもきした。

 「有吉の壁」の、前半の「一般人の壁」が、さすがにマンネリのように思える瞬間があり、でも「有吉の壁」を19時台に放送することは、現代テレビ界の良心であると思っているので、そんなことをいったら罰が当たる、下手なテコ入れなんかしたら台無しになる、あれでいいのだ、後半の「流行語大賞の壁」などをもっと長くしてほしいと思ったりもするが、それは大変なのだろうし、うん、やっぱり「一般人の壁」はあれでいいのだ、と自分を納得させ、視聴している。そんな「一般人の壁」に関して、最近はとみに出てくる芸人の数が多く、(放送されるのは)1組1ネタくらいの感じになっていて、そのため有吉の歩く先に、本当にさまざまな芸人が次々と現れ、芸を繰り広げるので、この雑多なキャラクターたちがひとつの世界に集結し、参戦し、得意技を出したり、ときには合体技をしたりする感じって、スーパーロボット大戦に似ている、と気づいた。そうか、だからこんなにワクワクするし、そしてやがてちょっと飽きるのだな、と思った。

2022年1月22日土曜日

チンコロ・ブックオフ・昭和のクソジジイ

 新型コロナウイルスに感染するとちんこが小さくなる、という話題を目にする。その瞬間、これまで存分に迷惑を被りつつも、どこか他人事だったこのウイルスが、ようやくはっきりとした形になった気がした。
 もっとも話の信憑性は分からない。いわゆる個人差案件というやつだろう。しかし新型コロナウイルスに限らず、体調を崩すということは、いちど減ったら決して増えない、「生命力」の分母を少なくすることだと思っていて、病後、人は、自然な老化とは別の、フレッシュさやエネルギーの喪失をするのだと、経験則から捉えているため、ちんこが小さくなることも、抜け毛や倦怠感、呼吸困難や記憶障害と同じように、普通にあり得るだろうな、とも思う。
 そうなってくると、新型コロナウイルスに感染したくない気持ちが、これまでとは較べものにならない度合で高まってくる。こんなにもか、というくらい、危機感が増した。このことをもっと早い段階で喧伝していれば、特に夜の街で感染が蔓延することは、決してなかったのではないかと思った。
 そして、新型コロナウイルスの場合は直截的ではないけれど、もしも本当に「感染するとちんこが小さくなるウイルス」が生まれ、その感染拡大が確認されはじめたら、そのときのパニックたるや、新型コロナウイルスの比ではないだろうと思う。都市のひとつ、国のひとつくらい、それ以外のすべての国の軍隊が結集して、バスターコールで消し去るのではないかと思った。

 この年始は、たっぷり時間があったくせに、新春のブックオフのセールに行かなかった。別にもう、わざわざ買って所有したいほど欲しい本なんてないな、ということを思い、行く意欲が湧かなかったのだった。とうとうこんなことになったか、と思う。ブックオフに異様に通っていた蜜月時代があるからこそ、この心境の変化に我ながら衝撃を受ける。
 そしてこう思う。
 僕が行かなくなったら、じゃあいったい誰がブックオフに行くのだろう?
 あの僕である。あの僕がブックオフに用がなくなったのだ。何年も前からきっと、櫛の歯が欠けるように、ブックオフに用のある人は少なくなっていき、僕なんかは本当に最後のほうまで残っていたほうなのではないかと思う。それがこのたびついに欠けた。それじゃあもう国民の誰も、ブックオフに用なんてないのではないか。
 企業に対して、失礼な話をしている。店舗は運営を続け、新春セールのCMを正月はバンバン流していたのだから、利用する人間は利用し、会社はきちんと成立しているのだ。世の中は、僕が利用しないのに成り立っている会社ばかりである。

 音楽にしろ、絵にしろ、体験にしろ、人間の力だけでは生み出せない、コンピュータの力を借りてできた作品って、飽きるな、と思った。そういう、一見すさまじい、衝撃的なレベルのものって、くどくて、お腹いっぱいになる前に、もういいや、となる。これって添加物の入った食べものと一緒で、同じ重量で砂糖の800倍の甘さを持ちます、などといわれても、それはもうこちらの知覚を超えて、消費者として享受する側でありながら、味蕾に置けばたしかに甘く、そのオートメーションさは、こちらの感覚までもが加工品の一部であるような気にもなり、その考えなくてもよさに身を委ね、たゆたわせてしまえば楽は楽なのだけど、しかしそれではブロイラーと一緒で、コンピュータで加工されたものに、反射的に「いいね」となって、感動した気持ちに浸るのは、もうほとんど薬漬けみたいなものではないかと思う。自分がコンピュータを使ってそういうことができない負い目から、僕は今後そういうスタンスで、Z世代とかを眺めていこうと思った。

2022年1月19日水曜日

バランスボール・カステラ・健康診断

 バランスボールを買う。
 水泳の教則本のようなものを読んでいたところ、トレーニングにバランスボールを多用していて、なるほど不安定な状態での踏ん張りとか、そういうのを鍛えるのにとてもいいのかもしれない、と思った矢先、ダイソーに行ったらちゃんとした大きさっぽいのが500円で売っていたので、喜んで買ったのだった。膨らませてみると、適度ないいサイズで、バランスボールといえば「最高の離婚」のイメージがあり、置いたら途端に部屋が雑然とするのではないかという危惧があったが、そうでもなかったので安堵した。
 教則本ではボールの上に膝立ちになり、腕はクロールの動きをしていたが、やってみたらクロールの動きなんて到底無理で、ただの膝立ちでさえ数秒しかもたない有様だった。そのあと子どもやファルマンも代わる代わるに試したところ、各人それなりにうまくバランスを取り、膝立ちを保っていた。どうも通常、それくらいは、できるものらしい。どうやら僕が、いわゆる体幹というのだろうか、それが平均よりも劣っている様子である。
 だとすればすばらしいことだと思う。頭の中で、本田圭佑ならぬ、じゅんいちダビットソンの声が聴こえる。伸びしろですね!

 週末、カステラを作った。1月中旬ながら、実は今年に入ってから早くも2度目である。数ヶ月前からカステラ作りに凝り、けっこうな頻度で作っている。
 これまでの数回は、台湾風というのか、半熟っぽい、しゅわしゅわに仕上がるレシピで作っていて、ファルマンは殊のほか気に入ってくれ、子どもたちにも好評だったのだけど、僕の中ではあまり満足いっていなくて、やっぱりカステラといえば、もったりした、もといもはや、ボソボソといってもいいくらいの、ハードな甘いスポンジを喰らっている感じのものがいいなあという思いが募り、最新の今回はレシピを変更し、そういうものを狙って作った。
 結果として、とてもよい出来になった。僕は大満足した。ファルマンは「甘すぎる」といい、明らかにこれまでのものよりも食いつきがよくない。別にいい。僕のおやつだから。ちなみに子どもは「おやつ」という名目で一定以上の甘さがあればなんでも食べる。奴らに味覚などない。

 昨年末に職場で受けた健康診断の結果が届く。この1年半ほど、転職やら引っ越しやら転職やら、いろいろあったため、だいぶ久しぶりの健康診断となった。途中、ストレスで帯状疱疹が出るなど、過酷な局面も多々あったため、どうなることかと思ったが、おおむね問題なかった。よかった。定番の懸念事項であるγ-GTPも、今回はすんなりと正常範囲に収まった。近ごろは酒を飲まずに終わる日がチラホラあるのに加え、せっせと肝臓エキスのサプリメントを飲んでいる効果が出たものだろう。めでたい。その代わりといってはなんだが、初めてコレステロールの値で引っ掛かった。筋肉をつけるため、意識的に卵を摂るようにしていて、カステラ(卵8個使用)もまさにその一環だったりするので、覿面に数字に出るもんだなー、と感心しつつ、だからこれはまあしょうがないよな、と思う部分もあるが、今後はしかし、少しだけこのことを気にするようにしようと思う。健康診断というものの、非常に正しい捉え方だな。あと身長が、どうも計測する人があまりにも無能だったらしく、165.8と出た。僕は他人のことを無能だなんて普段いう人間ではないが、こればかりはいわざるを得ない。彼は、身長計測の才能が決定的に欠如している。実際は167、調子のいい時は168、巨視的には170ある人間を捕まえて、165.8はない。なのでノーカン。

2022年1月12日水曜日

ウホホ・アイロン・フリマ

 筋トレをくじけていた12月に読んだ筋トレの本に書いてあったのだが、筋トレって、運動神経が悪い人間のほうが向いているんだという。どういうことかといえば、運動神経がいい人間というのは、ダンベルを持ち上げるであったり、腹筋ローラーをするであったり、そういった筋トレ動作を、どうしたって無意識に、効率よく力を抜いてやってしまう。やれてしまうのだ。そのため負荷が逃げてしまい、得られるはずの効果が十全に得られない。これはどんなに意識しても、無意識のうちにそうなってしまう。それに対して運動神経が悪い人間は、ダンベルを持ち上げるとなったら、とりあえずがむしゃらに持ち上げる。そこには工夫もなにもないので、ダンベルの重さがそのまま体にのしかかる。そのためきちんと負荷がかかり、効果的な筋トレとなる。結果、そっちの人間ばかりが、「筋肉ついたウホホ」となる。この理屈には、これまでの人生を振り返っても、思い当たる節が数多くあり、大いに腑に落ちた。そうか、だから阿呆な人間に限って腕力が強く、そして僕にはいつまでも筋肉がつかないのか。そうかそうか、そういうことなら仕方ないな、と12月はこれを、筋トレをしない理由とした。年末年始からは心を入れ替え、励んでいる。筋トレのコツは、頭を使わないこと。

 アイロンを買う。これまで使っていたものはコードレスで、コードレスなのは、そのひとつ前にコード付きのものを使っていて、それでコードが邪魔だと感じたからコードレスにしたのだけど、やっぱりコードレスはすぐに熱が下がるので不便で、今回はまたコード付きになった。人は永遠にこのループを繰り返すのかもしれない。あとコードレスうんぬん以外にも、これまでのアイロンは、わりと買ってすぐにスチームが出なくなってしまい、手で霧吹きをするのがどうしても面倒だったというのもある。そのため買い替えはけっこう前から考えていて、なにしろかなり裁縫をする人間なのだから、次はちゃんといいやつを買いたいなあと思い、となるとティファールということになり、しかしティファールのいいやつって1万5千円くらいするので、うーん、と思案し、ヤフオクやメルカリなどを覗いてみたり、いろいろ吟味した結果、amazonで1300円くらいの知らないメーカーのコード付きスチームアイロンを買った。悩むのに疲れ、もういいやこれで、となったのだ。届いて使ってみたら、とりあえずなんの問題もない。コード付きなので息継ぎの必要がないし、スチームも軽快に出る。おもしろいのは、「霧吹きボタン」というのがついていて、これを押すとアイロンの頭から本当に霧状の水が出るのである。じゃあスチームにそのうち不具合が出るのは織り込み済みなんじゃん、という気もするが、なにぶん1300円だし、実際スチームがダメになったらこの霧吹きギミックは普通に便利だと思う。わりと長い期間、ティファールの呪縛に囚われていたが、まあティファールが性能的にいいといったって、値段に比例し、このアイロンの10倍以上もいいということはあるまいと思う。1300円で懸案から解放され、とてもすっきりした心持である。

 このたびminneにトートバッグを出品したのだが、はじめはminneではなく、paypayフリマに出そうかな、と考えた。これまでpaypayフリマを利用したことはないが、最近ネットショッピングでyahooショッピングおよびpaypayモールを使うことが多く、paypayフリマの宣伝も目に入ってきて、天引きは5%だというし(minneは10.56%)、配送は匿名だというし、なにより売り上げが早いスパンでpaypayとして入金されるのが魅力的だと思った。なのでminneももちろん並行して出品するにしても、paypayフリマに主軸を移そうかな、なんてことを思った。それでとりあえず出品者として登録をしようと、ホームページをよく読んで探したのだが、出品する流れが一向に分からない。なんでだろうと検索をかけたら、paypayフリマって、スマホでしかやりとりができないらしい。いわく、パソコンよりも、スマホのほうが、個人情報が特定できるため、主催者としては取り扱いやすいからだとか。ぎゃふん! とうとう時代は、そんなふうになったのか。スマホで写真を撮って、出品して、売れたらコンビニで番号だけ伝えて送るという、なるほど本当に簡便な、すばらしい仕組みなのだが、簡便すぎて、どうも丁寧に作ったハンドメイド作品を売るコンセプトとは、若干ずれている気もする。もっともminneの雰囲気が心地よいかといえばそんなこともないので、デジタル一眼レフで撮った画像をわざわざスマホ(タブレット)に送るとか、いろいろ逆に面倒そうな気もするが、そのうちやってみようかとも考えている。売れたい。

2022年1月8日土曜日

救済・分断・開催

 大晦日は紅白を観た。18時半くらいからテレビを観はじめたとき、じゃあ俺はこれから6時間くらいテレビを観つづけるのかな、大晦日ってすごいな、と思ったが、結局ほんとうにそのくらい観たのだった。風呂は湯ったり館で済ませていたので、中断することもなく、ただただ観た。無為だな、とも思ったが、年末年始ってそういうもんだ、そういうもんだから、年末年始のそれは無為だけど無為じゃないんだ、とも思った。そんなことを思うことが無為である。
 知っている歌手、知らない歌手、いろいろいたが、結局いちばん心が動いたのは、どうしたってマツケンサンバだった。身を削るようにして創作をしている歌手には不憫な話だが、マツケンサンバの前では、すべてがしゃらくさく、なにもかもがどうでもよくなる。圧倒的で絶対的である。その問答無用のパワーに、本当に涙が出そうになったし、たぶんひとりだったら泣いていた。それくらいすばらしかった。
 どうしてこんなにマツケンサンバに救われるのかと考え、東京オリンピックの式典でも待望論があったし、なによりいまこうして久しぶりに紅白にも招聘された機運を鑑みるに、要するにマツケンサンバとは、現代の「ええじゃないか」なのだな、と思った。ただでさえ閉塞感の横溢していた現代に、コロナ禍も相俟っていよいよストレスが高まっているところへ、マツケンサンバの「理屈じゃなさ」は、胸のすく救済となった。
 この勢いで、来年(今年)の紅白はぜひ、葉っぱ隊の「YATTA!」をお願いしたい。

 「カムカムエブリバディ」を相変わらず愉しく観ている。年末年始、僕とファルマンの間で、相手に向かって髪をかき上げておでこを見せ、「アイ、ヘイト、ユー!」というのが流行った。それくらい嵌まっている。そして年が明けた今では、もうそのあたりの、安子編の最後のほうの怒濤の展開が、遠い昔のようだ。どこかのコメントで、「るい編になって完全に違う物語みたいで、単なるオムニバスを観ているようだ」といっている人がいたが、的外れな意見だと思う。るい編はまだ始まったばかりで、るい編と安子編のつながりというのは、これからもちろん出てくるのだろうが、でもそうやってつながるのは、これが物語だからで、実際の「親の物語」と「子の物語」は、両者が家族であったひと時はあるにせよ、基本的に分断しているものだと思う。親がいるから子がいて、命、遺伝子は、もちろん切り離しようがなく連結しているが、しかし別々の人間であり、それぞれの人生は異なる。だから親子(最終的には3世代になるが)の物語は、単なるオムニバスのようで、あって然るべきなんだと思う。そのつながってなさ、世界の違いは、親が先に死に、子が取り残される、あらゆる生きものの摂理を想起させて、そのシステマチックさに、切なくなる。今回の朝ドラは本当におもしろい。

 北京オリンピックまであと1ヶ月を切った、この状況で思うこととして、新型コロナウイルスが世界中で流行り、ワクチンだ、新しい変異株だ、なんだ、かんだと騒がれる中、オリンピックの運営をどうしたもんかと、主催者(国)がバタバタするさまって、自国でないと、こんなにどうでもいいのか、ということだ。もっとも去年あの状況で東京オリンピックをしたこの世なのだから、ましてやあの中国が、開催の可否で揺らぐことは絶対にないわけだが、それにしたって対策はいろいろ大変であるに違いなく、まったく東京ともども、貧乏くじを引かされた、ひたすらパリが恨めしい同輩であるともいえるが、しかしなにはともあれ「済ませた側」からすると、「ああ、開幕1ヶ月前くらいに爆発的に感染が増えちゃうやつね、それね、ウチらのときもあったあった」的な先輩風を吹かしたくもなるし、あるいはもう完全に卒業したら現役にはノータッチの先輩のような心情もある。どちらにせよ、かなりどうでもいい。そういえばオリンピックって、単なるスポーツの大会なので、自分の国で開催するとかじゃない限り、こんなにもどうでもいいんだったと、数年ぶりにオリンピック開催国じゃない身分になってのよその国のオリンピックを前にして、痛感している。ただし噂によると2030年は札幌だとか、そんなヤフーのトピックスをちらっと見た気もするのだが、まさかそんなはずないない、と笑い飛ばすよりほかない。数十年経って、喉元過ぎれば、だったらまだわかるけど、まだみんな生々しい火傷を負ってるから、さすがにあり得ないと思う。思うんだけどなあ。

2022年1月5日水曜日

ピイガ8歳・アッシュ・文学国語

 1月4日にて、ピイガが8歳となる。わが家の最年少であるピイガは、甘えん坊で、しかししっかり者でもあり、姉よりもだいぶ常識人である一方、野生動物のような苛烈さも持ち合わせ、自己肯定感はわが家でも随一だが、承認欲求も強く、まあどんな人間だってそうであるように、いろいろな面があるが、とにかく日々、激しく、そして愉しそうだ。少し落ち着け、声のボリュームを落とせ、と諭したくなる場面も多々あるものの、元気でなによりだと思う。
 誕生日は、リクエストにより昼ごはんはワカメの乗ったうどん、晩ごはんは餃子の皮を使ってのタラマヨピザだった。1月4日。正月と平日、ハレとケのあわいの日が、1年でいちばん大事な誕生日というのは、どんな気持ちなのだろう。気の早い話だが、12年後には成人式があるので、その年は平年に輪をかけてせわしないんだろうな、と思う。
 ケーキは、クリスマスが5号と4号の2段だったのに対し、今回は7号の1段。7号のスポンジって、売っているのを初めて見て、買ったのだが、切り分けたときの見栄えがとてもよく、1段ならばその大きさもちょうどいい感じがして、とてもよかった。おいしく食べれた。
 相変わらず体は小さく、こちらも末っ子として「小さくてかわいい」という扱いをするため、サイズも言動も、4、5歳くらいの印象があり、8歳だなんて嘘だろ、という気がする。たぶん末っ子というのは特に、実年齢と、こちらの抱く印象の年齢が、いつまでも合致せず、違和感を持ち続けるんだろうと思う。

 年末に脱色した髪が、下品な明るい茶髪だと、ファルマンにとても不評で、早急に色を入れろと命じられ、年明けに決行した。本当はブリーチからもうちょっと間を空けるべきらしいが、まあ仕方がない。どんな色にするか、ぜんぜん見当もつけずにドラッグストアに行き、店頭の限られた選択肢の中から、「これかなあ」と選んだのは、ちょっとグレー系のアッシュだった。まあどうせパッケージ通りの色にはなるまいと思っていたが、果してグレー感などほとんどなく、しかしただの脱色ではないまろやかな金髪めいた茶髪、みたいな感じになったので、まあまあ成功だと思う。考えてみたら岡山で髪の色をいじっていた時期も、ブリーチは最初だけで、あとは黒い部分が増えるたびに、カラーを重ねていたのだった。これってやればやるほど複雑な色味になっていくからいいんだよな。

 国語が「論理国語」と「文学国語」に分けられる、という話題がある。これが選択制になって、そして学問として試験などで重きを置かれるのは当然前者のほうなので、これからの国民はますます文学から遠ざかっていく、という。
 この問題について、僕は一家言あるだろうか、特にないだろうか、と少し考えて、当然あるよ、なんてったってあの日芸の、あの文芸学科卒だぞ、とまず思ったのだが、「じゃあどんなご意見・ご感想ですか」と問われると、「……ふうん、と思いました」としか答えらえないな、とも思った。別に文学を学んだからどう、学んでないからどう、なんてことは、人格形成、社会形成に、なんの関係もないと思う。この話題って、なんとなく「由々しき事態だよ!」といいたくなる雰囲気があるが、それは本当に「なんとなく」であって、実際にはなんの根拠もない。文学を一般教養として学ぶなら、なぜ映画は学ばないのか、という話になってくるし、そう考えると、あれ、もしかして、文学が学習要領だったのって、実は単なる既得利権だったんじゃないの、なんてことも思う。そういえば既得利権感の横溢する教授や講師を、学生時代にたくさん見たような気がする。
 映画や音楽、漫画、スポーツ、写真、料理、裁縫、学びたい奴は勝手に学ぶ。文学もそれと一緒でいいだろう。それらに較べて文学だけが、なんかしらの絶対的な価値や役割を持つなんてことは、まるでないと思う。結局、意見してしまった。