2022年10月26日水曜日

誤用・マザー・インスタグラマー

 「袖触れ合うも他生の縁」という言葉は、「多少の縁」と誤解されがちで、意味を正しく理解していない人が多くいる、などと言われる。言わせておけ、と思う。こういう言葉の誤用話、大嫌いだ。言葉に誤用もなにもないと思う。元からあったほうを揺るぎない唯一無二の正解であると蒙昧に信じ込む輩というのは、固有種を是として外来種を忌避し、オオキンケイギクを駆除したりするに違いない。固有種なんて、この100年くらいの、記録が残っている中での、たまたまの姿だろう。そんなものを大事に保とうとする意味が分からない。
 話を元に戻すが、そもそも「袖触れ合うも他生の縁」は、ミスリードを誘っていると思う。間違えて取ってほしくないのなら、「袖触れ合うは他生の縁」のほうがふさわしい。「も」が、「多少」に繋げてしまっているのだ。「めでたさも中くらいなりおらが春」とか、「蓼食う虫も好き好き」の「も」である。そうやって、わざわざ勘違いされやすい言い回しをしておいて、よく誤解されるんですー、だなんて、かまってちゃんかよ。
 あとついでに、長年なんの疑問もなく目にしてきた「押しも押されぬ」という言い回しが、それは誤用であり、正しくは「押しも押されもせぬ」だという話になって、テレビ番組のナレーションなどでもそちらが使われるようになった。この5年くらいのことだ。これもまた気に入らない。「押しも押されもせぬスーパースター」よりも、「押しも押されぬスーパースター」のほうが、きちんと輝いているような気がする。これは、「得も言われぬ」を連想するからではないかとも思ったし、あとはやはり語呂だろう。「押しも押されもせぬ」の垢抜けないテンポに対して、「押しも押されぬ」は7音だ。5音と7音は強い。そもそも7音にしたくて省略したのかもしれない。だったら「押しも押されぬ」でいいじゃん、とも思うが、いま堂々と「押しも押されぬ!」と言ったら、阿呆どもがすぐさま「誤用だ」「誤用だ」と言い出すに違いない。じゃあもういっそのこと「オシモオサレヌ」とカタカナ表記にして、「押しも押されもせぬ」からは独立した、勢いだけの言い回しとして使ってやろうかな、と思う。

 マス目の数が指定と異なる漢字練習帳を買ってしまい(かなり細かい区分けがあるのだ)、学校には持っていけないというので、ファルマンがそれに日記を書くようになった。1日1ページで、イラスト付き。たまにサボったりもしている。子どもたちの話が多いので、自分のことが描かれていて嬉しい気持ちもあるのだろう、子どもたちが大笑いしながら読んでいる。
 そのさまを見て、たとえば引退した伝説のダンサーが隠遁生活を送っていたら、近所の孤児院からボランティアの協力を求められ、もちろんダンサーの素性などは誰も知らず、一介の年寄りとして参加するが、オルガンに合わせて踊るお遊戯が、他の大人とはかけ離れたレベルでやけに壮麗で、子どもたちが目を奪われる、というような、一種の貴種流離譚のようだと思った。子どもたちは無邪気に、お母さんが書く日記おもしろーい、くらいの感じだが、その人は実はただの日記がおもしろいお母さんじゃないんだよ、その人はかつて、ブログマザーと呼ばれる存在だったんだよ、と心の中で思った。表舞台に帰ってきてほしい。

 インスタグラムを、ちゃんと毎日アップ(シェア)している。なぜか途中からぱたりと「いいね」が付かなくなったが、めげずに日々やっている。ブログは飛び飛びなのに。こうなるともう、僕はブロガーではなくインスタグラマーと名乗るべきかもしれない。ブロガー仲間など存在しないが、しかし存在しないけど確実にもさい彼らに対し、インスタグラマーに転生した僕は、一気に洗練されてしまった。なんだか申し訳ないな。存在しない彼らに、申し訳なさを感じる。空気を食べているような気持ちだ。
 かつて「nw」で「ビキニショーツ製作漫談」として、作ったショーツを(丸めた状態で)画像で紹介していたが、3日ほど前から、インスタグラムで1日1枚シェアしているそれが、「nw」で紹介していない領域に突入している。だからみんな、地球のみんな、僕がどんなショーツを作ったのか、毎日ちゃんとチェックすればいいと思う。