2023年12月26日火曜日

クリスマス顛末・わき腹・飛行機

 今年のクリスマスも無事に終わる。無事とはなにかと言えば、サンタが寝ている間に枕元にプレゼントを置く、のくだりのことである。
 ピイガに関してはいつも通り9時半に寝たのでなんの問題もなかったのだが(ピイガは僕に似て寝つきがいいのである)、厄介なのは中学生である姉のほうである。元来ファルマンに似て寝つきが悪いのに加え、「クリスマスだから徹夜しよ」などとホザき、ぜんぜん寝ようとしなかった。本人が寝ないのは最悪しょうがない(プレゼントが届かないだけの話だ)が、なにぶんポルガが起きている以上、ピイガの部屋にプレゼントを持っていくこともできないので、実に迷惑だった。
 結局、翌日は月曜日で出勤なので僕は寝て、ファルマンが零時過ぎにピイガのもとへプレゼントをフォッフォッフォした。そしてポルガへのプレゼントは、僕が朝にフォッフォッフォすることになった。
 そういう段取りになっていたのだが、意志の力か、あるいはサンタ力(りょく)とでも言うのか、3時40分くらいにふと目が覚めたので、朝よりもいい頃合だろうと考え、そのタイミングで持っていった。ドアをそーっと押しながら、もうこれで目を開けているポルガと目が合ったら堂々と開き直ろう、荒井注ばりに「なんだバカ野郎」と言おう、と思った。幸いさすがに寝ていたので、そっとベッドの隅に物品をフォッフォッフォし、自室に戻った。
 そして朝になり、出勤の準備をしていると、ピイガがプレゼントを抱えて起きてきた。プレゼントの中身は、アタッシュケースのような二つ折りのケースにぎっしり並んだ工具セット(おもちゃではなく実用的なもの)と、材木と、かんなであった。クリスマスプレゼントが工具だなんて、伊坂幸太郎の小説の、親に監禁されている子どもへのプレゼントのようだが、もちろん監禁していない。ものづくりが好きな本人の希望である。
 ポルガは朝は起きず(完全にファルマンと同じ体質なのである)、帰宅後に顔を合わせた。ポルガへのプレゼントは、クーピーの30色入りと、カラーペンの60色セット。こちらも本人の希望である。「サンタが来る時間が分かった。1時から3時50分の間だ。1時にはまだプレゼントがなくて、3時50分に起きたときにはあった」と言っていて、3時50分のそれは、おそらく僕の動きによって、少し遅れて目を覚ましたに違いなかった。危ないところだったと言うか、なんかもう、とことんめんどくせえな! と思った。
 まあ今年はそんなクリスマスでした。

 脇腹を痛めていた。もう1週間から10日くらい前のことで、もうさすがにだいぶ良くなったが、いまも違和感は残っている。寒さも影響したものか、やけに長引いた。
 痛めた原因はと言えば、筋膜ローラーである。あの、円柱形の、表面がごつごつした、トレーニング、ではないか、ストレッチ器具というのかな。あれである。ずっと前、筋トレに関する記事とかをネットで熱心に読んでいた頃、効率よく筋肉をつけたいなら絶対にこれが必要! みたいな文言を目にして、すかさず買ったのだった。
 しかし手に入れた当初から、使ってもあまりピンと来ず、いつしか押入れの奥に眠るようになっていたのを、先日ふと魔が差して、やっぱりこれってやったほうがいいんじゃないか、これをやっていないから俺の腹筋は割れないんじゃないかと思ってしまい、だいぶ久しぶりに使ったのである。
 床の上に置いた筋膜ローラーの上に覆い被さり、腹で押し付けながら回転させ、しばらくぐりぐり動いた。その最中にポルガが部屋を訪ねてきて、ノーコメントだったけれど、トレーニングパンツ一丁だったこともあり、なんかいま俺、娘に床オナを目撃された父親のようだな、ということを思った。
 痛めたのはその直後で、腹斜筋のことを思ってわき腹へも当てていた際に、左わき腹がグギッとなった。なってすぐはそうでもなかったが、翌日、翌々日と痛みが強まって、往生した。打ち身のような、捻挫のような、そういう痛みだった。
 おかげでこの1週間から10日はろくに筋トレもできず、筋膜ローラーで効率のいい筋力アップを目論んだはずが、完全に逆効果となった。実に教訓的な話で、今すぐには浮かばないけれど、一言で言い表せられることわざがいくつもありそうだ。
 筋膜ローラーはもう捨てようと思う。

 飛行機について調べることにした。
 当面乗る予定はないのだけど、いま自分の中で飛行機に乗るという選択肢が完全になくなってしまっていて、それはよくない気がするので、なるべくなら克服したいと考えた。そのために、飛行機が空を飛ぶ仕組みをきちんと理屈として知ろうと思ったのだった。
 というわけで本を読んでいる。目的意識がある読書は愉しい。こういうの、ちょっと久しぶりで嬉しい。じっくり読み込んでいくつもりだ。
 本には、「とても重いジェットエンジンを何基も吊り下げて、どうして飛行機の主翼が折れてしまわないのか、不思議ですよね」という記述があり、もちろんそのあと「それは――」と、大丈夫である理由の説明が続くのだが、それはこれまで自分が気にもしていなかった、言われてみればたしかに不安だという要素だったので、案外この本を読むという行為は藪蛇かもしれないとも思いはじめている。涙ぐましい。

2023年12月19日火曜日

飲み物・ごん・重布

 職場で、立場が上の人から飲み物をもらうときってあるだろう。差し入れというか、自分の買う分のついでというか、なんかそんな感じで。
 先日もそういう場面があったのだけど、くれたのがペットボトルのホットのカフェオレで、見るからにだだ甘そうだったので、その場では「ありがとうございます」と礼だけ言って、あとで別の同僚にそのまま渡した。渡してから思い出したが、この同僚には前にも、同じようにして手に入れたコーラを渡したことがあった。もしかするとこの同僚の中で、僕はとても神経質な、意識の高い、添加物とかそういうものを忌避する、ちょっと厄介な人間のように思われているかもしれない。ただ甘い飲み物が嫌いというだけなのに。
 少し前に、うちの子どもはほぼ麦茶と牛乳でしか水分を摂ってない、と気付いて驚いたことがあったが、実は僕も世間一般に較べると、そこまで多彩というわけではなさそうだ。
 そう言えば飲み物をおごってくれる人と、自販機の前で出くわした際、欲しいものを選ばせてくれるパターンというのが前にあった。そのとき僕は、少し悩んだ末に、ミネラルウォーターを所望したのだった。一日に必要な分の水分は、家から持ってきた水筒の麦茶で足るので、いざというときのための備蓄として、ミネラルウォーターならば鞄の中に忍ばせておくのもいい、と考えたのである。「えっ」とその人は少し驚きの声を発した。意味が分からなかったのだろう。たしかに意味が分からない。合理的に考えてその選択をしたわけだが、たぶんあの場面はそういうことではなかった。

 ピイガの学校のテストの答案を見る。いい点数だったので、褒められようと思い見せつけてきたらしい。なるほど概ねいい点数だった。
 国語は往年の「ごんぎつね」であった。教科書の内容は時代で当然いろいろ変化しているが、たまにこうして不動のものがあるのも愉しい。ぼんやりした子どもだったので、当時の自分が「ごんぎつね」に触れてどういうことを思ったのかはまったく覚えていないけれど。
 ラストシーンからの出題で、ごんを鉄砲で撃ったあと、栗などを届けてくれていたのがごんであったことに気付いた兵十は、どんな気持ちだったか書きなさい、というのがあった。定番中の定番とも言える問題。要するにあの名フレーズ、「ごん、お前だったのか」が、どのようなテンションで唱えられたか、という問いかけである。
 ピイガの回答はこうだった。
「マジか。」
 そして〇だった。〇なんだ。マジか。

 年末年始の休みで縫い物をしたりしたいよね、それにあたって布がないから買わないとね、ということでネットで吟味の末に布を買ったのだが、届いた荷物を受け取ると、その重たさに驚愕した。間違えて鉄アレイでも買ったんか、というくらいに重かった。開けてみると、重たいのは複数買った布のうちの1点で、安いわりにそれなりの厚みがありそうで、柄も悪くないから掘り出し物かもな、と思って、ずいぶんな長さ、白状すると7メートル分も注文したものであった。それが人生で接した布史上いちばん重い布と言ってもいいくらい重たいものだったので、総重量としてとんでもないことになったのだった。
 7メートルというのは、コートでも作ろうかと思っての長さだったのだが、この布でコートを作ったら、もはやちょっとドラゴンボールの世界観であろう。でもそれじゃあ、コートで大量消費することを目論んで買った7メートルの布を、いったいどう処理すればいいのだろうか。目下、なにも案が浮かばない。ファルマンの目線も痛く、非常に困っている。

2023年12月9日土曜日

健康診断・目頭・ボクサー

 職場の健康診断を受ける。
 去年は意気込んで、半月くらいほとんどアルコールを摂取せずに検診に臨み、まんまといい数字をゲットしたが、今年はその期間が3日ほどと短かったので、ガンマ的な部分に不安がある。でも特別な断酒をしてその数値を良くしたところでなんだよ、という達観に至ったので、もう結果に振り回されないことにした。と、まるで精神的に成長したかのような口ぶりで言ってみたが、要するに長く禁酒できなかっただけの話である。
 結果に振り回されないと言えば、去年おととしと、なぜか165センチ台という屈辱的な数字を叩き出していた身長は、今年166.1だった。とてもめでたい。165.7と166.1という4ミリでそんなに違うか、という話だが、まあ違うのだ。166センチ台の人間は、165センチ台の人間をどんなに悪しざまに言ってもいいという権利が発生する。だからめでたい。それは同時に167センチ以上の人間からの侮蔑を受け入れることを意味するが、身長というのはそういうものだと思う。上には上がいて、下には下がいて、だから誰も決してしあわせになれない世界。それが身長世界というものだ。なんて嫌な世界だろう。
 ところで同僚のおじさんが、「私は毎年、測るたびに身長が1センチ短くなる」と言っていて、すりこぎのようでおもしろいな、と思った。「じゃあ160年後には〇〇さんは存在が完全に消失する計算ですね」と言おうかとも思ったが、しかしそれは僕も同じだな、と思ったので口には出さなかった。

 「目頭が熱くなる」という表現は巧みだと思った。
 「泣きました」や「涙が出ました」では、目から液体がこぼれ出たという事実がないと嘘になる。しかしそんな嘘が、面と向かって対話しているわけではないウェブ世界には蔓延っていて、Twitter改めX(笑)の、140文字未満の文面で、そんな作用が頻繁に起っている。140文字未満で本当に泣くわけないだろう。本当にそれで泣くんだとしたら、お前の情緒がいよいよおかしいんだよ、あるいはお前はウミガメの一種なんだよ、と思う。
 それに対して「目頭が熱くなる」は、どんなときでも嘘ではない。ちょっと心が動かされただけで、実際のところ涙腺にはちっとも響いていなくても、人が目頭に思いを馳せたとき、目頭は普段よりもいくらか熱くなっているのだから、決して嘘にはならない。なにしろ僕は嘘というものが本当に嫌いなので、その点は本当に大事なのである。
 その上、「目頭が熱くなる」という表現は、「泣きました」「涙が出ました」に対して、少し知的な印象がある。偏差値が低い学校を出た人は、あまり「目頭が熱くなった」とは言わないと思う。とんでもないアクロバティックな偏見に、目頭が熱くなる思いだ。今後の人生で多用していこうと思う。多用し過ぎて面倒になったら、メガアツと略すのもいいだろう。

 健康診断の日、もしもの場合に備えて、オリジナルのショーツではなく、既製品のボクサーパンツを穿いていった。もちろん結果としてはそんな必要はぜんぜんなかったのだが、社会人として念のために予防線を張った次第である。
 去年の健康診断の際どうしたのか記憶がないが、とにかく既製の、ローライズと謳っているわけでもないボクサーパンツというものを穿いたのが、何年ぶりかというくらいに本当に久しぶりだったので、穿き心地にびっくりした。
 めっちゃ包むやん!
 と思った。肉棒も、金玉肉袋も、肛門も、とにかく全てを覆い、包み隠す。ボクサーパンツというものは、こんなにも男の下半身の要素を削ぎ落すものだったか、と思った。
 これに較べると、ガーリーライクにしろ、のび助にしろ、最近作っているローライズボクサーにしろ、あれらというのは、ほとんど穿いていないようなものだな、薄々そんな気はしていたけど、本当にそうなんだな、と思った。
 その違いは、単純に使われている布の面積の違いもあるけれど、理念も関係していると思う。既製のボクサーパンツは、覆おうとしている。それに対して僕のハンドメイドは、やはりのびのびさせようとしている。ちんこに対するアプローチが異なるのだ。
 ブロイラーと放し飼い、というワードを連想する。
「味が濃い!」
「野性味がすごい!」
「本来はこういうものなんですね!」
 喜ぶ客の姿が目に浮かんだ。なによりです。

2023年12月3日日曜日

流行語大賞・牛乳と子ども・年末年始の帰省について

 cozy rippleじゃないほうの流行語大賞が発表された。大賞は予想通りの「アレ」。もうひとつの、とにかく明るい安村も登壇するだろうから授賞式も久しぶりに盛り上がるだろうという予想は、受賞(選考委員特別賞という、「大賞」や「トップテン」に対してどういう序列になるのか意味不明なやつだが)というのは正解したが、安村は授賞式には出席せず、映像でのスピーチとなったようなので、まあ外れたと言うべきだろう。そしてこれは、予想が外れたことが残念というよりも、いよいよユーキャン流行語大賞がベストジーニスト化してきたというか、昔ならばお笑い芸人がこの賞を獲るとなれば、万難を排して出席したに違いないのに、もうそんな存在でなくなったということを象徴しているようで、一抹の寂しさを感じた。
 3年連続で野球関連の言葉が大賞になったこともあり、やくみつるが槍玉に上がって、感覚があまりにも時代遅れだ、ということが例年以上に叫ばれている様子があるけれど、かと言ってネット流行語大賞やSNS流行語大賞といったものがより世相を反映しているかと言えばそんなこともないわけで、現代はメディアが多様化しているので昔と違ってあらゆる世代で全般的に流行するものなんてないのだ、という意見は、それを言ったらおしまいだよ、という正論ではあるのだけど、やはりもうしばらくはユーキャンのそれが、このジャンルでの最高権威ということでやっていくしかないと思う。最高と言っても、もはや本当に乏しい高さだけども。

 牛乳の1リットルパックが2日もたないので、日々せっせと買う。1ヶ月に15本以上20本未満くらい買っているのだと考えると、毎月4000円近くを牛乳代として使っている計算だ。ちなみに僕は成分無調整の生乳は飲まず、低脂肪乳を別で買っているので、これは僕以外の3人による消費である。3人というか、ファルマンはたぶん朝のミルクティー以外では牛乳は飲まないので、ほぼほぼ子どもたちふたりということになる。
 うちの子は本当に牛乳をよく飲むものだな、と牛乳を買いながら考えていて、あることに思い至る。それは、うちの子って水分を、牛乳と麦茶でしかほぼ摂ってない、という事実である。ジュースの類を進んで与えることはしないし、炭酸やカフェインはふたりともまったく飲めない。であれば、子どもというのは、牛乳と麦茶ばかりをせっせと飲むほかないのだ。自明の理と言えば自明の理なのだけど、改めてこのことを認識して、なんだかびっくりした。あいつらって、そんなに水分補給のバリエーションが少ない生き物だったのか。この多彩な世界において、そんな野生動物のような暮しをしていたとは。どうりで冬になり、ココアが食卓に現れると異様にテンションを上げるわけだな、と腑に落ちた。

 この年末年始には帰省をしないことにした。理由は複合的で、複合的な理由をひとつひとつ挙げて説明していくと、どうしても言い訳めくというか、(行かないという)結論を正当化するための材料探しに余念がないっすね、という感じになってしまうのだけど、それでも述べてゆく。
 まず、自分が思っていたよりも新幹線の料金というものは高額であった、ということ。これまでファルマンに任せきりだったのだけど、聞いてみたらすごい金額だった。これは今回からポルガが大人料金になるというのも影響している。
 そしてその新幹線が、今回の年末年始期間から、自由席車両というものがなくなるそうで、それ自体はいつも指定席を取っていたから関係ないのだけど、じゃあこれまで自由席車両にぎゅうぎゅう詰めになっていた、指定席を取らない輩はどうするのかと言えば、どうもデッキ部分や指定席車両の通路部分などに立って乗車するようで、これを聞いたとき、起りそうなトラブルや気まずさ(すぐ横に高齢者や赤子連れが立ったらどうすればいいのか)などを想像し、とてもそこに身を置きたくないと思った。
 さらには、そんな苦労をして年末年始に帰省をしても、年末年始なので、せっかく首都圏に行ったのだから行きたいと思うような施設もほぼ休業しており、現地でできることは実家で酒を飲んでダラダラすることだけだ、というのもある。それでも顔を出すことが大事なんだ、という意見もあろうが、それならば年末年始じゃなくてもいいはずだ。
 95歳になる祖母の存在はもちろん気にかかるのだけど(元気だそうだが)、先日17年前に書いた日記を読んでいたら、23歳の僕が、年末年始の帰省に際し、「行かなくて祖母になにかあったらいけないので行く」と書いていて、急に気が楽になった。もうその懸案は長年じゅうぶんにしたので、ローンで言うなら払い終わったと言っていいと思う。もうこの案件は自分の所有になったので、好きにして許されると思う。
 というわけで、僕はこの年末年始の帰省をやめた。やめることにしたらとても身軽な気持ちになった。よほど気重だったのだな、と気付いた。

2023年11月14日火曜日

BGM・日本シリーズ・からし

 ホームグラウンドプールのBGMが自由だ。たぶん本当に自由なんだと思う。規定とかがなくて、その日のシフトの職員が、掛けたい曲を掛けているんだと思う。
 Adoであるとか、BTSであるとかは、「いまどきの曲」として、違和感がない。「いまどきの曲」というのは、時代ごとに違うものなのに、やはりその時代の空気感に寄り添っているから「いまどきの曲」なわけで、きちんと「そのとき」であれば、お葬式とかを除けばあらゆる場面で受け入れられるようになっているものだと思う。
 映画音楽チャンネルにでも合わせたのか、「ハリーポッター」や「トップガン」、「2001年宇宙の旅」の音楽が流れたときは違和感があった。普段と同じいつものプールなのに、なんか物語性があるような気がした。「トップガン」のときは心なしかクロールのスピードが速くなった気がしたし、「2001年宇宙の旅」のときは新しい時空へ突入するような気がした。
 これまででいちばん印象に残っているのは、尾崎豊の「卒業」が流れたときで、平日夜の、子どもなどひとりもいない、健康志向のおっさんおばさんしかいないプールに響く、「卒業」。これほどふさわしくない音楽もそうそうないだろう。25mを延々と往復して、水の抵抗に逆らい続け、あがき続け、俺たちはどこへ向かうべきなのか。しかしだとしたら、いまどき「卒業」を掛けるのにふさわしい空間って果たしてどこなのだろう。お葬式とかだろうか。

 ちょっともう古い話になるが、タイガース対バファローズの日本シリーズが行なわれ、タイガースが優勝したのだった。シリーズ中は世の中が盛り上がっていて、そういうのには素直にミーハーなので、チャンネルを合わせて中継をちょっと観たりもしたのだけど、もちろん僕以外の3人は野球にまったく興味がないので、そこまでがっつり眺めはしなかった。もとより僕自身、話題に乗ってチャンネルを合わせるだけで、がっつりスポーツを眺める素地は持っていない。
 そんな日本シリーズを垣間見て、ファルマンがこう言ったのが印象に残っている。
「日本シリーズって、いる?」
 なんかちょっと前にも決定戦みたいのやってたのに、またやってんの、と。
 今年もまた、毎年恒例の、プレーオフ(クライマックスシリーズ)は不要ではないのか論争が繰り広げられていたが、そんな議論はもう時代遅れらしい。時代の先を行くファルマンともなると、もはや日本シリーズが必要なのか、という境地である。ちょっと前に決定戦みたいのやってたんだからもうあれでいいじゃん、と。140試合やって優勝チームを決めて、そのあと同じリーグの3位と2位と1位とで改めて短期決戦をして、それで勝ったチームがバンザイしておしまい。セだのパだの知らねえ。
 非常に大胆で、希少価値のある意見であると思う。NPBにはぜひ一考を望みたい。

 納豆には、たれとともにからしの小袋が入っているけれど、あんまり使わない。わが家の場合、子どもは使わないし、大人も、納豆を納豆として食べるときには入れるけれど、卵と混ぜるときや、オムレツに入れるときなどは、たれは使ってもからしは使わない。だからからしの使用率は、20%未満だと思う。つまり納豆3個パックふたつ分、6個の納豆を消費したとして、からしの小袋は5個も余る計算となる。
 余ったからしは、とりあえず冷蔵庫のドアポケットの最上階、刺身を買ったときに付いてくる個包装の刺身醤油などと同じエリアに放り込むわけだが、既にそこには、何ヶ月前のものだか知れない、よく見ると謎の作用でなんか成分が分離している感じになっている小袋があったりして、まったく活用できていない。ここからからしがすくわれるケースとしては、お弁当に焼売を入れるときであったり、チューブのからしを切らしたときであったりするのだけど、それはきわめて稀だ。
 今ではすっかり駆逐されてしまったけれど、かつて大容量タイプのヨーグルトにはかなりの分量のグラニュー糖の袋が封入されていて、あれも各家庭で持て余されていた。しかしグラニュー糖は、なんだかんだで料理にも使えるので、消費のしようがあった。からしにはそれがない。からしを調味料として使う料理として検索したら、「辛し和え」というものが出てきた。そんなものは作らないし、しかも小袋の大量消費にはならなそうである。
 もういっそグラニュー糖と同じくからしの封入をやめてしまえばいいのではないかという話だが、しかし15%以上20%未満くらいの確率で、からしは必要なのである。完全になくされると(いささか)困る。
 というわけで考えたのが、「からしプチ当たり方式」である。当たったあなたは幸運、というほどの低い確率ではなく、3個パックのうちのひとつには入っているくらいの割合で小袋を入れるのだ。使わないときは冷蔵庫に入れておいて、次に納豆を買って、からしを入れたかったのに3つともにからしが入っていなかったときに使えばいい。そのくらいの案配で、からしの不良在庫はゼロにすることができると思う。でも現実的じゃないだろうな。同じ値段で内容が違うことになるわけで、クレーマーの餌食だろうな。

2023年11月2日木曜日

流行語・かわいそ(笑)・排出権

 10月が終わり、11月になった。今年もあと残り2ヶ月。そのことに信じられないような思いもありつつ、cozy ripple名言・流行語大賞のために1年の日記の読み返しをしているので、まあたしかに10ヶ月、ちゃんとかどうかは別として、生きてはいたな、という確信もある。
 ところで本日、世間一般のほうの新語・流行語大賞のノミネート語が発表になった。30語。納得のいくものもあればそうでないものもあり、しかしその感想は毎年きれいなくらい均一だな、ということを思った。過した1年も、その30語も、毎年ぜんぜん違うのに、その一覧を眺めて抱く思いは必ず一緒。だとすれば賞の理念として強固な一貫性があると言えるかもしれない。大賞は「アレ」で岡田監督はきっと上手なスピーチをするし、とにかく明るい安村も登壇することになるだろうから、今年の授賞式は久しぶりにまあまあ盛り上がるのではないかと思う。あとひとつ気になるのは、サッカーのW杯は2022年の12月だったのだが、こちらの賞というのは、cozy ripple名言・流行語大賞のように、昨年のノミネート語発表の翌日からが集計範囲ということにはなっていないのだろうか。「ブラボー!」や「三苫の1ミリ」が、30語の中に、影も形もない。だとすれば11月12月にいくら言葉を流行らせても徒労だということになる。別にサッカー派というわけでもないが、なんとなく釈然としないものを感じる。だって、それじゃあ1年間の流行語ではなく、10ヶ月間じゃないか。

 新語流行語のノミネートにも入っていたが、「X」である。
 実は心の奥底では脅威だったり憧憬だったりを抱いていないこともなかったTwitterがあんなことになってブロガーとしては胸がすく思いだ、ということは前に書いた。名前がXになったり、有料サービスになるという噂が現実味を帯びたり、それだけで「ハハッ、かわいそ(笑)」と思っていたのに、ここへ来てイーロン・マスクは、Xを将来的には有料の出会い系サービスにするつもりでいる、というニュースを目にし、なんかもう、さすがに不憫になってきた。Twitterがアイデンティティみたいになっている人って、世の中にわりとたくさんいただろうに、宇宙船地球号で考えれば、大気が汚れたとか、文明が荒廃したとかいう、叡智を結集すればなんとかできるかもしれない局面を超越し、これはもう地球そのものが壊れてなくなります、というレベルの話だ。もうジタバタしてもしょうがないのだ。世界は、神様のスイッチひとつで簡単に消え去ってしまうみたいな、Twitterをやっている人たちというのは、今そういうSF哲学みたいな境遇にあると思う。かわいそ(笑)。

 ちょっと遠出をする予定があり、車内で流す音楽を、それ用に新しいプレイリストを作成しようぜという話になり、ひとり25曲、4人で100曲ということでどうか、となったのだが、実際のところ曲を25曲もホイホイ選べるのは中学生のポルガのみで、あとの3人は25曲なんて持て余すのだった。しかしポルガだけ25曲で、他の人間が少ないと、高頻度でボーカロイドの中二病っぽい歌詞の曲ばかりを聞くはめになるので、ポルガが20曲、他は15曲ということで手打ちとなった。
 この擦り合わせの際、はじめ与えられていた25曲の権利のうち、10曲分を400円ほどでポルガに販売するのはどうか、そうした場合、僕の曲が15曲、ポルガの曲が35曲ということになるが、400円儲かるならいいな、などと思い、これは炭素の排出権ビジネスとまったく同じ発想だな、と思った。カーボンニュートラルとは、これくらいくだらない話なんだな、ということを実感した。

2023年10月28日土曜日

痺れ・しろ・丈

 朝起きて、手首のあたりが軽く痺れたようになっているときがある。
 その原因について考え、このほど真相に至る。
 そういう症状が出る日は、なんとなく気が向いて、服を着たまま寝た日なのであった。この場合、ズボンの中に手を差し込み、ちんこを触ることになるため、ちょうど手首のあたりにウエストのゴムが来ることとなり、それで圧迫されることによって痺れが来るという寸法なのであった。
 もはやバイブルと言ってもいい、裸で寝ることの良さを謳った例の本では、下着やズボンのウエストゴムなど、下半身のゴムが恒常的に体に与えるストレスについては語られていたが、眠りながら股間に手を伸ばしてしまうがために手首が圧迫される害については触れられていなかった。だとすれば今回の僕の発見により、かの論はさらに深化したと言えるかもしれない。
 ファルマンにこのことを離したところ、「触らなきゃいいじゃん」という指摘が返ってきたのだけど、きわめて浅い意見だと思う。じゃああなたは、いびきについて悩む人に、「息をしなきゃいいじゃん」と言うのですか。あまりに乱暴ですよ。
 今回の気付きを経て、寝るときにゴムを身に着けない志は、改めて強固になった。手を守るために、僕は下半身になにも纏わせずに寝る。そして思うがままにちんこを触る。ちんこは本来、そういうノーストレスな存在であるべきだと思う。

 子どもたちと少し久しぶりに「ぷよぷよ」をしたら、なんかあっという間にこれでもかと妨害の白いぷよぷよが落ちてきて、こてんぱんに負けた。3人プレイをして、普通に最初に敗退した。それが2回続いたので、そこでもう「目が疲れたわ!」と叫んでゲームをやめた。
 ソフトを買った直後は、昔少しやっていたこともあり、不慣れな子ども相手に楽勝だったのに、わずか半月ほどで子どもたちはすっかりコツを掴んだようで、普通に勝てなくなってしまった。切ない。「伸びしろ」という言葉が脳裏をよぎる。子どもにあって大人にないもの、なーんだ? それは伸びしろ。じゃあ逆に大人にあって子どもにないもの、なーんだ? それは縮みしろ。「目が疲れたわ!」は決して嘘ではない。2戦もやれば、目も頭ももう限界を迎えるのだった。

 気を悪くした出来事があった。
 ネットショップで寒い時期用のズボンを買ったのだけど、購入前にレビューを確認したところ、大勢の人が「丈が少し短めなのでワンサイズ大きめがおすすめ」と言っている。ふむそうかと皆の意見を取り入れ、普通に考えたらこれだろうと思うサイズより、ひとつ大きいサイズを注文した。
 そして到着したものを穿いたところ、姿見には、新品の大きなズボンを穿いた、憮然とした表情の僕が立っていた。
 裾がかかとを超えて、床にべったり垂れているのだった。
 別に自分のことを、足の長いスタイル抜群の人間だと思っていたわけでもないが(巨根ではあるけれど)、身長に対し、自分がそこまで平均からかけ離れた足の短さであるとも思えない。それなのに、レビューの「丈が短めです」という意見の比率はあまりにも高く、そしてまんまと騙される結果となったので、思わずここに悪意というか、悪意ほどではないにせよ、人間の業のようなものを感じ取った。
 ショーツ作りを始めた際にもさんざん語ったが、メンズショーツの、ちんこのためのスペースをしっかり用意してある系商品のレビュー欄には、そのスペースについて、「小生には小さすぎました……」という意見が必ずあるのである。
 今回のズボンも、これと同じような作用が起っているのではないだろうか。買ったズボンの感想として、「(小生には)丈が短め」と言わずにおれない層というのが、一定数存在するのではないだろうか。そうとしか思えない。
 この悪い流れを断ち切るには、誰かが「丈が短いなんてことないよ! 見栄っ張りたちに騙されないで!」とレビューを書き込む必要がある。だけどそれは僕ではない。なぜなら僕は短足ではないからだ。そんなことを主張する奴は、よほどの短足なんだろう。お前の意見は聞き入れない。俺は向こう側の人間だから、「丈が短い」と教えてくれている同輩たちの言うことを聞く。

2023年10月17日火曜日

裸フェス・試験結果・ハイカカオ

 裸フェスに参加した。
 夢の話である。
 裸フェスとはなにかと言えば、会場内では裸で過すフェスであり、特に会場ステージで愉しいイベントが繰り広げられるなどということはない。じゃあそれってヌーディストビーチ的な、(表向きは)裸をエロいものと捉えず、自然に還ろう的なやつなんじゃないの、と思われるかもしれないが、決してそんなこともないようで、男女ともに、見る・見られることに悦びを覚える輩が来場しているらしかった。
 僕はそこでどうしていたかと言えば、参加者たちが開けっぴろげに裸を披露するさまを軽く眺めつつも、主に視線をやっていたのは、いまから入場門をくぐろうとしている、すなわちまだ着衣の女性たちだった。これから脱ぎ捨てる服を着た、まだ開けっぴろげではない、でも開けっぴろげになれる場所にわざわざやってきたという、羞恥心もまだ服とともに纏っている、そんな女性たちの複雑な表情を熱心に眺めていた。
 ここがいちばんエロいんだよ、と、夢の中の僕はずいぶんと裸フェスの手練れであるらしかった。

 ポルガの2学期の中間試験の結果が返ってきて、やけによかったらしい。やけによかったというか、点数が落ちなかったらしい。中学1年生の1学期のそれは、お試しみたいなもので、なんとなく普通に点数が取れたりするものだが、「2学期以降はそうはいかないよ!」というのは、試験前期間中、ファルマンが呪詛のように唱え続けていた言葉で(苦い実体験に裏打ちされているのだろう)、ろくに試験勉強をしようとしないポルガに向かい、「そうはいかないよ」「ひどいことになるよ」「結果が悪かったら塾に行かすよ」と、さんざん脅しをかけていた(それでもポルガはやはりろくに勉強をしなかった)。
 そうしたら、それなのに、ポルガはいい点数(1学期よりもむしろ主要5教科の平均点は上がりさえしたらしい)を取ってしまい、親としては喜んだり褒めたりしてやるべきなのかもしれないが、ファルマンは「こんなはずじゃ……」と、返討ちに遭った敵キャラのようになり、むしろ消沈している。ファルマンの中の勧善懲悪のシナリオが崩れたのだと思う。かわいそう。早く娘が落ちこぼれたらいいね。もはやなにが真の望みなのか見失い始めている感がある。

 ハイカカオチョコレートが血行改善にいい(陰嚢が寛ぐ)という情報を得て、せっせせっせ、本当に涙ぐましいほど、せっせとハイカカオチョコレートを食べる日々を送っていた。5グラムの個包装で1キロ、すなわち200個あったのだろうそれは、もう残りが4分の1くらいになっている。そのさまを見て、数日前くらいまでは、また注文しなきゃな、と思っていた。
 それが昨日あたりでプツッと自分の中でなにかが切れ、急に忌々しくなった。
 だって85%のハイカカオチョコレート、おいしくないのだ。いや、ただ「おいしくない」ではなく、企業努力により、「おいしくなくはなくなくなくなくもない」くらい、迷える程度のおいしくなさにまでは到達している。すばらしいと思う。でもまあ、やっぱり結局おいしくないのだ。
 それでもはじめのうちは、陰嚢のため、健康のため、と高い意欲で食べていたが、約150個食べ、そのおいしくなさに飽きまでが加われば、それはもう苦行に等しい。
 先ほど、晩ごはんのあとのコーヒーに、いつもならハイカカオチョコレートのところ、反動というほかない、あろうことかチョコパイを食べてしまった。そして、ブラックコーヒーには、こういう、飴みたいに甘いチョコレートを食べないことには、成り立たねえだろうがよ、と、数ヶ月越しのツッコミをした。
 陰嚢をどうしても寛がせたい場面に臨む際は、鼻炎薬を服むことにしようと思います。いつだろう。裸フェスに参加するときかな。

2023年10月7日土曜日

寝言・運動会・鼓舞

 けっこう寝言を言うらしい。もちろん自覚はない。それも、かなり明瞭な発声をするそうなので、隣で寝ているファルマンはいつも驚くという。
 少し前のところでは、
「それはおもしろいことになりそうだ!」
 というセリフだったそうだ。そう言っていたよ、と言われた日にどんな夢を見ていたかは覚えていない。夢と寝言は、やはり連動するのだろうか。だとしたらずいぶん少年まんがのような、意気揚々とした夢を見ていたようである。
 最新のものでは、
「正しい。それは人生にとってすばらしい選択だよ」
 と僕は寝ながら言ったらしい。聞いたとき、嘘だろ、と思ったが、ファルマンがそんな嘘をつくメリットはなんにもないので、事実と認めざるを得ない。
 長い期間に渡って編まれてきた僕の少年まんが風の夢は、主人公もすっかり成熟し、そろそろ大団円を迎えるのかもしれない。苦楽を共にした仲間とも、別れの時が近づく。やるせない寂しさを覚えながらも気丈に振る舞い、新しい目的を見つけた仲間の決断を、受け入れることにしたのだろう。いい奴やん。
 そのうち、
「fin……」
 と寝言を言うかもしれないので、ファルマンにはぜひ聞き逃さないでほしいと思う。

 子どもたちの運動会が中学校と小学校でそれぞれ終わった。
 中学校のはそもそも保護者の存在はあまり意識されておらず、立ち入り禁止というわけでは決してないようだが、平日であり、僕はもちろんのこと、ファルマンも観に行くことはしなかった。ポルガも「来ないでよ」みたいなことを言ったらしい。年頃やねん。
 小学校のはもちろん週末に行なわれたので、夫婦ともども観に行った。ピイガはまだ無垢なので、「ちゃんと観ててよ、ちゃんと撮ってよ」である。あるいは性格かもしれない。相変わらず学年の中ではとびきり小さく、横に2年生や3年生の列があると、あっちに並んだほうがいいんじゃないかな、と思うほどだったが、オーバーじゃなく頭ひとつ分大きい輩とともにやった徒競走で、見事に1位になっていた。やっぱり遺伝ってあるんだな、と思った。僕もたぶん、全力でやればぜんぜん1位だったと思う。実際はまあちょっと、ヘラヘラしながらビリから2番目くらいでゴールする感じだったけど。

 ちんこを擦ることって、僕の人生にものすごい量の喜びを与えてくれているのではないかと思った。40歳、不惑。そんな真理に到達した。ちなみに出すと喪失感が大きいので、出てしまわぬよう、注意しながら擦る。前にも話に出た、不出という考え方である。不惑不出。新しい四字熟語の誕生である。
 ちんこを擦るという行為は、亀頭だけでなく精神を上向きにさせるという意味で、ただ手を滑らせるという行為を指す、どこまでも物理的なそんな漢字ではなく、「鼓する」と表記すべきではないか。擦っているのではない、鼓すっているのである。自分を、人生を、鼓すっているのである。そんな僕の提案をどう思いますか。
 正しい。それは人生にとってすばらしい選択だよ。

2023年9月29日金曜日

2023始動・水着・ぷよ

 毎年恒例の「cozy ripple名言・流行語大賞」の選考作業が始まった。これが始まると、1年ももう後半なのだなという感じがしてくる。もはや風物詩ですね。
 毎月ノルマとして、最低限2桁記事数ということを心掛けているのだが、これが今年は本当にほぼ最低限の様相を呈していて、果たしてノミネート語を選出できるほどの中身があるのかという懸念から、前回が期せずしてそうなったように、2年にいちどの開催のほうがいいのではないかという意見も運営委員の一部からは出たようだが、そのような引け腰な提案は委員長である僕が突っぱねた。丁寧に探せばなんだかんだであるし、もしも本当に少なかったら、最後に無理やり量産すればいいだけの話だ。なんとかなる。なんとかしてきた。老害は高度経済成長期のマッチョな思想に凝り固まっているのだ。
 最近はちょっとサボり気味で、だいぶ遠大な達成計画になりそうな「おもひでぶぉろろぉぉん」も、とは言え同時進行でなされているわけで、なんかもう僕は自分の書いた文章ばかりを読んでいる。そして数ヶ月前の僕も、十何年前の僕も、どちらもそれぞれ愛しいし、さらにはその二者のことを愛しいと思っている僕のこともまた、僕は愛しいと思う。愛しさの合わせ鏡が、光の速さで無限を繰り広げ続けている。

 水着の生地を買って作るのが愉しすぎて、日々生産して、日々違う水着で泳いでいるのだけど、先日ふと、こうして水着を自分で作るようになる前って、僕はいったい何を穿いて泳いでいたのだっけ、と思った。
 ショーツを作り始めたのだって実はまだ1年半ほどのことで、水着となったらそれよりもさらに最近の出来事なのだが、手作り水着で泳ぐのが当たり前になりすぎていて、既製の水着を穿いている自分が想像できなくなっている。
 岡山でもプールにはよく行っていた。岡山生活の途中から、プール習慣は始まったのだった。あの頃は水着はもちろん、ショーツだって自分で作るという発想はなかったので、僕はひたすら既製のものを穿いて泳いでいたはずなのである。それなのに思い出せない。
 そこで水着を洗濯してくれるファルマンに、「俺って昔どんな水着を穿いてたっけ」と訊ねたところ、ファルマンも「えっ、思い出せない」と固まった。そしてしばらく考えたのち、「なにも穿いてなかったんじゃない」と答えた。
 そうか。俺は水着を自作する前は、なにも穿かずに泳いでいたのか。よく捕まらなかったな。それなら、いま少々面積が小さい上にフロントが盛り上がった水着を穿いてても、穿いてるだけマシだな。穿くようになった分だけ偉いな。

 こないだの3連休に、switchのソフト「ぷよぷよテトリス2」を買った。最初、体験版で遊んでいて、とても健全に、体験版で体験して欲しくなったので買ったのだった。
 「ぷよぷよテトリス」はその名の通り、ぷよぷよとテトリスが組み合わさっていて、好きなほうを選んで遊べるのだが、僕はもっぱらぷよぷよばかりしている。ファルマンとピイガも基本的にそうだ。それに対しポルガだけが、やけにテトリスをするので、やっぱりちょっと変な奴だな、と思った。テトリスは、テトリスしかなかったらやるけれど、ぷよぷよと並んでいたら、それは断然ぷよぷよだろう、と思う。エンタメ性がぜんぜん違う。
 大貧民と同じで、とりあえず僕が頭ひとつ抜けてレベルが高いようで、普通にやると大抵勝つ。そのためとても気分がいい。子どもたちはいつまでもコツを掴まないでほしい。
 それにしても、マリオカートも桃鉄も、4人でやれて感動したけれど、ぷよぷよはそのさらに一段上の、「最高じゃねえか」感がある。長く、それこそ一生、集ったときにはこれで愉しめそうで嬉しい。さすがeスポーツだな。

2023年9月16日土曜日

タイガース・X(笑)・魂胆

 阪神タイガースが優勝した。18年ぶりだという。
 2005年のことだそうで、そこは既に「おもひでぶぉろろぉぉん」の作業が完了している時代だったので、優勝が決まったであろう当時の9月や10月あたりの抜き出し記事をざっと読み返してみた(便利です)。すると、「ほっとけない」でおなじみのホワイトバンドをはじめとするラバーバンドが流行っていた時期だった。そうか。大昔だな。あと個人的なことだが、ソニーの携帯電話からパナソニックのものに乗り換えていて、記憶媒体がメモリースティックからSDになったので便利になった、と喜んでいた。折しも先日発表されたiPhone15で、アップルはとうとうLightningケーブルを諦め、USB‐Cを採用することになった、というニュースがあったので、18年越しの共通項というか、人類の技術進化のスピードは加速化していると言われるが、案外そんなこともないんじゃないか、と思ったりした(Lightningケーブルというものには結局まったく触れ合わなかった人生だった)。
 ちなみに「優勝」を指して岡田監督が用いた「アレ」という表現は、かなりよかったと思う。大賞になるかどうかは分からないが(今年は当たり年である)、流行語大賞にノミネートされるのは間違いないし、よくある「それは流行語じゃなくてただの流行!」というツッコミに当て嵌まらない、純然たる流行「語」なので、好感度が高い。優勝が決定した試合後のインタビューで「アレはもうやめて優勝と言います」と監督が述べ、ファンが「ワーッ!」と盛り上がったのも秀逸だと思った。でも同時に、だからもうあの時点から、優勝のことを「アレ」と濁して発言するのは古い、ということにもなったと思う。そのため優勝が決まったあとの街頭インタビューで、「アレが決まって最高でした!」などと答えている人を見ると、ダサッ! と思った。そしてこの、一瞬で古くなるというのも、流行語としてのポイントが高いんじゃないかと思った。

 TwitterがXになり、もう1ヶ月くらい経ったのだろうか。
 この一連の騒動に関して、自分がどういう思いを抱いているのか、これまで心の動きを静かに見つめていた。そしてこのたび結論が出たので記す。
 ざまあ、だ。
 ブロガーにとって、Twitterは脅威だった。華やかで、ポップで、活気があって、品も(まあ)ないこともなかったように思う(いま思えば)。
 ブログが、築30年くらいの、和室なんかも普通にあるような、質実剛健な、5階建てくらいの、でも法律がなかったのでエレベーターが設置されていないみたいな、昔ながらの集合住宅であるのに対し、Twitterはそのすぐ横に建った、タワーマンションであった。豪奢な造りで、設備も充実し、なにより新しさがあった。
 でもその誰もがひそかに羨んでいたタワーマンションに、施工の致命的な欠陥が見つかった。耐震性がぜんぜんないとか、塗料に発がん性物質を使っているとか、なんかそういう感じの、本当にどうしようもない欠陥。これまで栄華を誇っていた住民たちは阿鼻叫喚。しかも頼みの綱の補償関係も、業者がとんずらしたとかでままならないと来た。
 そのさまを見て、昔ながらの集合住宅の住民たちは思う。思わない。大声で叫ぶ。
 ざまあ、と。
 別に自分たちの立場が上がったわけでは決してないのだけど、忌々しく思っていた存在の凋落は純粋に嬉しい。この世に本当に純粋な感情があるのだとすれば、こういう感情だとしみじみと思う。テレビなどで、「X(旧Twitter)」などと見苦しい表現をしているのを見るたびに、ベホイミくらい生命力が回復するのを感じる。
 Xという名称がまたいい。悪すぎて、こちらとしては万々歳だ。よく知らないが、イーロン・マスクはこれまで、ブログを一切やってこなかったんじゃないだろうか。ブログをいくつかやっていたら、絶対にこんなネーミングはしない。最初はどうしたって、「つれづれ日記」みたいなタイトルを付けてしまいがちだ。Xには、「つれづれ日記」と同じセンスを感じる。黒歴史感がすごい。ブログもせず、コーチの経験もなく、監督になってしまったら、Twitterみたいなことになるし、中日ドラゴンズみたいなことになるといういい例だ。
 この文章内で、僕はどれほどの人間を敵に回したろう。おかしいな。めっちゃ性格いいはずなのにな。

 あまりにも友達がいないせいか、お店などで同年代とか、もう少し若いくらいの男性を見ると、この人が俺の友達だったら……、などと考えるようになった。もはや片親のいない子のようだ。もっとも僕は実際に片親のいない子どもだったが、街中で見かける父親くらいの年齢の男に対し、この人が父親だったら、なんて発想は抱いたことがなかった。たぶん父親は別に欲しくなかったし、友達は今でもやっぱり欲しい気持ちがあるからだろう。友達がいつまでもひとりもいないので、友達なんていても別にしょうがないもんだな、という真理にいつまでも到達せず、憧憬の燃え殻みたいなものだけがくすぶり続ける。
 先日は、僕に友達をもたらすという目的で、三女が結婚をすればいいんだ! ということを思った。三女が結婚をするとなったら、その相手本人であったり、相手の人間関係において、僕に友達が生まれる可能性がにわかに湧いてくると思う(そうだろうか?)。
 思わずもうちょっとのところで、三女にLINEをするところだった(頭を冷やし、思いとどまった)。独身者に婚活をけしかけるのって、大抵はおせっかいというか、それでも一応は本人のことを思って行なわれる行為であることが多く、それであっても今の時分、時代錯誤だと大いに疎まれがちだというのに、僕のこの魂胆の場合、良かれと思ってでさえない。ただ僕の友達を生み出すためにやれと言っているわけで、ここまで最低だと、逆に清々しさも出てくる気がする。さらにゲスなことを言うなら、僕との友情が築かれたあとなら、いくらでも離婚してくれたって構わないと思う。

2023年9月13日水曜日

還暦・人生一・プレゼント

 ちょうどあと1週間で誕生日である。皆々様、プレゼントの準備はお済みですか。
 40歳になるということについて、なんだかそれってものすごいことのような気もする一方で、もはや逆に凪いでいる感じもある。先日、おもひでぶぉろろぉぉんで読んでいた2006年9月の記事で、僕は23歳の誕生日を迎えていて、でもそれは23歳の自分には受け入れがたいことだったようで、「自分は20歳から先はこれまでの年齢を下っていく奇病にかかった」と主張し、「だから僕はこのたび17歳になった」とほざいていた。23歳の僕は、23歳という年齢が、大人すぎて受け入れられなかったか。そうか。23歳か……。
 それでいくと、僕は1週間後の40歳になった瞬間、満0歳ということになり、存在が消え去る計算だ。この仕組み、なんか微妙に引っ掛かる部分があるな、と感じて、その正体をよく考えたら、なんのことはない、還暦とほぼ同じ考え方だ。60年で十干十二支がひと回りして、元通りになるから、赤ん坊に帰り、赤いちゃんちゃんこを羽織る。それを僕ともなると、40年でしてしまうということか。人類未踏の2度目の還暦、いわゆる大還暦も、120歳はさすがに難しいので、いっそのことこの方式にしてしまえば、80歳で条件が満たされることとなり、ぐっと現実味が増す。そして目指すは夢の3度目の還暦、いわゆる超還暦だ。結局120歳じゃないか、という。そしてなんでそんなに還暦をしたがるのか、という。

 職場の上司がおもむろにケーキ屋の話を始める。本人が買いに行ったわけではなく、奥さんが買って帰ったものらしいが、プリンであったという。上司はプリンが好きで、ケーキ屋ではいつもプリンを選ぶのだそうだ。そのプリンは、アルミの容器に入っていて、注文をすると店員がいちど厨房に持って帰り、バーナーで表面を炙ってくれるらしい。それはプリンではなくクレームブリュレですね、と口を挟もうとしたが、実際のところプリンとクレームブリュレの定義をしっかり知っているわけでもないのでよした。
 そしてここからがこの話の骨子であり、上司がわざわざ話題に出した理由でもあるのだが、「そんでそのプリンがさ、俺がいままで食べてきたプリンの中で、いちばん美味かったんだよ」と上司は言ったのだった。
 この表現に、ほほぅ、と感じ入る部分があった。「今まで食べた中でいちばん美味しい」って、ありきたりな表現ではあるけれど、それは子どもやB級タレントがよく使うものであって、一般人の50代の男性が、さらにはその場にいる人が作ったものだったり、持ってきてくれたものを褒めるために冗談めかして言うわけでもなく、本当にそう感じたから、いまここにその物品があるわけでもないのに、どうしても感動を伝えたくて使ってしまったのだと考えると、まるで重いパンチのような強いパワーがあるな、ということを思った。50代一般男性の、人生一。もっともカラメルが焦げてるのが初体験で新鮮だっただけの可能性もあるけれど。

 誕生日プレゼントが浮かばない。ファルマンから「どうすんだ」とせっつかれているのだが、いまだに決められずにいる。なんだか寂しい。昔は、もっと欲しいものがたくさんあった気がする。「欲しいもの」という言葉は、類語というわけでもないが、「意欲」という言葉と結びつきやすい。それが減退してしまったことか、などと思う。
 先日は悩んだ挙句、寝る直前にamazonのカートに、新体操のリボンと、ヌンチャクを入れていた。でも次の日に、どちらもいらないな、と思って削除した。それにしてもどうして僕は小手先でクルクルするようなものに魅力を感じるのだろうか。
 新しい服も別にいらないし、アクセサリーも欲しくない。ゲームもしないし、推しもいない。なんだか考え始めると、自分がつまらない人間のように思えてくる。日常の中で、自分の自由に使えるお金をなにに使っているかと言えば、生地と、酒と、プールの会員費くらいのものか。どうしたものかな。10月から第3のビールの酒税が上がるらしいので、それにしようかなとも思ったが、あまりにも日常的でしみったれていて、節目の40歳の誕生日プレゼントがそれってどうなのか、と思ってやめた。やめてどうしよう。どうしようどうしようとなって、欲しいものを探してamazonをさまよう行為の、なんと阿呆なことか。

2023年9月7日木曜日

プールよ・LINE・侵食

 9月に入り、夏が終わった感はありつつも、でもまだ晴れた日は暑く、むしろ夏の疲れがぼちぼち決算され、不足していた分の体力の支払いが求められているような、不良債権のごとく重くのしかかってくるものがある感じもする。そんなわけで、夏休みを中心になんだかんだで8月はそこそこの回数行ったプールに、9月に入ってからはいよいよ足が向いていなかったのだけど、会員なのだから行かないことには、と貧乏根性で奮起し、泳ぎに行った。そうしたら8月の喧騒が嘘のように空いていて、祭りの後の会場跡みたいに寂しかった。でもそれが実は常態なのだし、実際人が少ないほうが利用する上では快適だった。そして行ったら行ったで、やはり泳げば気持ちがよく、夏のバブルにあてられたけど、ここでいちどリセットし、オフシーズンの、趣味としてのスイミングを、実直に行なっていこうと決意を新たにした。本当にただそれだけのことを書いた。

 ファルマンがLINEの設定画面を刷新する。中心の、会話の画面にも出てくるあの円形の画像はヒエログリフになり、その背景の、わざわざ見ないと見れないあの画像はイズミル王子になった。「王家の紋章」を読んだのだな、そしてかなり嵌まったのだな、ということが容易に窺える新体制なのだった。経験があるので分かるが、変えると気持ちが改まって少しいい気分になるようで、ファルマンは僕にも「変えるといいよ」と薦めてきて、それも悪くないなあと思ったのだけど、しばらく考えても、なんにも変更する当ての画像が思い浮かばないのだった。僕は最初、あの円形の画像は、「耳をすませば」の杉村の顔にしていて、そのあと「スター☆トゥインクルプリキュア」のキュアミルキーに一瞬したのだけど、姉から即座に「やめなよ」と窘められて以降は、もう何年もオオキンケイギクの写真のまま停止してしまっている。変えたい、とも思う。しかし本当になにも思い浮かばない。昔の人間なので、現実世界とネット世界をきちんと分けており、現実の人と繋がるLINEに、ヒット君やクチバシを登場させるわけにはいかない。目下の趣味は、ショーツ作りと、水着作りと、スイミングだが、そのどれもがLINEの画像にするにはふさわしくないと思う。かと言って今さら、ブラックジャックだったり上杉達也だったり、漫画のキャラクターにするのもダサい。いったいどうすればいいのか。もう無難な花の画像とかにしておこうかな。

 先日、起きたポルガが目の調子が悪いと言って、ファルマンが学校の前に眼科に連れて行ったところ、目の中に異物、それも植物の種子と思しきものが入っていたそうで、麻酔効果のある目薬を注したのち、摘出してもらったそうだ(ひー)。しかしなぜ植物の種が目の中に入るのか、それも寝て起きたあとなどに、という話なのだが、この報告をファルマンから聞いた瞬間に、僕にはピンときた。ポルガは相変わらず、昔に作った、1メートル超あるヒット君を抱いて毎晩寝ているのだけど、何を隠そう、ヒット君というのは植物なのである。そういう設定の生き物なのである。ポルガとあのヒット君との関係は、イマジナリーフレンドの域を超えて、作った僕が言うのもなんだが、少し気色悪い次元に至っているが、ここに来ていよいよ、ヒットくんはポルガを乗っ取ろうとし始めたかもしれない。今回は失敗に終わったが、もしも摘出しなかったら、ポルガの眼窩内の水分で種が発芽し、なにしろ眼と脳はすぐ近くだ、あっという間に侵食されて、ポルガはヒット君になっていたことだろう。怖い。ヒット君が一気にホラーになった。そしてそんな出来事があった日からも、ポルガはもちろん毎日ヒット君を抱いて寝ております。もう時間の問題かもしれませんね。

2023年8月27日日曜日

蛙化現象・王家の紋章・夏の終わり

 蛙を200匹くらい殺してしまった。
 労働で遅くなり、この時期にしては珍しく、会社を出たときにはすっかり暗くなっていた。会社のすぐ横には端から端まで数百メートルあるような広大な田んぼが広がっていて、その田んぼと田んぼの間に、慎ましやかに、田んぼの畔の事情なのだろう、やけにアップダウンのある道が拓かれ、そこが僕の通勤路なのだが(岡山の灘崎の風景もなかなかのものだったが、こちらも引けを取らない)、そこを走っていて、最初は、なにかやけに道に散らばってるものがあるな、植物かなにかかな、と思っていたのだが、ハイビームで照らされたそれが、たまにピョンピョンと跳ねたりするのを目にして、無数のそれが、すべて蛙であることを悟った。その道を通らないわけにはいかないので、悟らなければよかった。悟ってしまったばっかりに、ファルマンに帰宅を告げる電話を掛け、通話をしている最中だったのだが、「うひゃあ!」「いやあっ!」と絶叫を聞かせることとなり、ファルマンを動揺させた。これがほんとのカエルコールだね、というジョークは、いまこれを書いていて思いついた。
 ハンドル操作で避けようにも、避けた先にも蛙はいるのだから、どうしようもなかった。結局その晩、僕はたぶん、200匹くらいの蛙を轢き殺したことだろう。つらい出来事だった。もちろん轢き殺された蛙のほうがつらかったに違いないけれど。
 しかし翌朝、出勤で同じ道を走ると、生きた蛙はもちろんのこと、蛙の死骸もまるでない。まさか潰された蛙が、すべてタイヤの溝に詰まったわけではないだろう。これはいったいどうしたことかと思っていたら、道のすぐそばには何羽もの鷺がいて、6月にも書いたけれど、ああそういうことか、と思った。自然界はやけにシステマティックなところがあって、まるで、蛙500匹が鷺1羽とイコールです、と窓口で告げられたような、そんな気持ちになった。そして普段は丸呑みするのだろう蛙を、タイヤで潰した状態で食べることで、鷺の消化の負担が減り、普段なら新しい鷺を1羽発生させるのに必要な蛙が500匹であるところ、200匹で済んだ、などというのなら、昨晩の自分の抹殺走行も、少しは救われるな、などと思った。

 「王家の紋章」を、最新69巻まで読み終えた。34巻まで読んだと書いたのが8月20日なので、1週間で35冊、1日7冊ペースで読んだことになる。怒濤である。まるで母なるナイルの氾濫のようではないか。
 読み始めた頃は、この目まぐるしい展開が続くのだとしたら、いったい69巻ではどんなことが繰り広げられているのか、と途方もなく感じたけれど、いざ読んでみれば順当に、この漫画は35年だか40年をかけて、漫画世界の中ではたった数年ほどのことを、丁寧に丁寧に描いているのだった。絵柄もほとんど変わらないし、作者の理念のブレなさに、驚嘆を超えて、震撼する思いを抱いた。
 この1週間、おかげで筋トレもプールも裁縫もほとんどままならず、日常が瓦解し、特異な期間となった。それはまるで主人公であるキャロル(当初は20世紀から古代に来た少女という設定だったが、途中から21世紀ということになっていた)の追体験のようでもあった。現代と古代、そして昭和から平成、さらには令和と、さまざまな時代が、目まぐるしく移り変わり、少し疲れた。前回の記事で、おもしろい長編漫画は一種の蝗害のようなもの、と書いたが、読み尽くし、作物が食い尽くされたことで、僕はようやく蝗害から解放され、平和な日常を取り戻せそうだ。ものすごくおもしろかったけど、反面その嬉しさもある。ちなみに最新刊の刊行はほんの2ヶ月ほど前なので、続刊は当分先だろう。そしてこの読み方をしてしまったら、70巻が発売されても、1巻だけの追加分なんてどうせなあ……、などと思ってしまいそうで、まあとにかくあまり健全な読み方ではなかったな、と思う。

 今日で子どもたちの夏休みが終わる。まだまだ暑いので心配だが、暑さを理由に休業していたら、大学生並みの夏休みにしなければならないので、仕方ないだろう。
 夏休みは、大きくどこかへ出掛けるということはなかったが、もうこれはどうしようもない。連日警戒アラートなのだから。レジャーは、秋や春に集中して行なえばい(ポルガの部活もあり、これまでのようにはままならそうだが)。
 夏休み最終日の今日は、ピイガが「夏休みの間にいちどくらいホットケーキをしたかったな」などと、いじましいことを言ったので、滑り込みで行なった。ホイップクリームを立て、バニラアイスやチョコソースなども用意して、気を済まさせてやった。ピイガは1枚、ポルガは2枚、僕とファルマンは1枚を半分ずつという、まんま人間の生命力曲線グラフみたいな分量を食べた。1口目がとてもおいしかった。
 とにかく一刻も早く涼しくなってほしいが、週間予報を見れば暗澹たる数字が並んでいて、まだまだ我慢の時は続きそうだ。地を這うような曲線グラフの人間は、せっせとビールを飲んで耐えるしかない。われわれは文字を持たない、聖書に記述だけが残されている、ビールばかりをよすがに生きていたという謎多き民族。愛い奴。

2023年8月20日日曜日

王家・ハイカカオ・絵本

 夏休みに借りて読み始めた「王家の紋章」が滅法おもしろい。
 話そのものがもちろんおもしろいのだけど、それに加えて、「ガラスの仮面」とまったく同じ、「作者の情熱」としか言いようのない、読者の反応だとかマーケティングだとか、そんなものに囚われていない、混じりっ気のない「私はとにかくこれが描きたいのだ!」という強烈な業が、全編に渡って満ち溢れていて、それがたまらなくおもしろいのだ。作者が自分を愉しませるためだけに描かれている(実際はそんなことないのかもしれないが)ものが、なぜか「読者はこういうのが読みたいだろうな」と計算されて描かれたものよりもはるかにおもしろいという、その奇蹟的な現象を生み出す力こそ才能というのだろうな、などと読んでいて感じる。
 状況に恵まれ、いま実は、家に最新刊までの全巻が揃っている(完結ではない)。だから心置きなく読み進められる。それはもちろん嬉しいのだが、時間を取られるのも事実で、なかなか他の読書や、日記を書いたりということができずにいる。でもこれはもうしょうがないと、あきらめている。おもしろい漫画は、しょうがないのだ。喩えは悪いが、これはもう蝗害みたいなもので、食い尽くすまで収まらない。せいぜい早く読み終えようと思う。ただし夏休みから読み始めているのに、まだ34巻で、やっと半分というところ。先は長い。嬉しいけども。

 先月の体調不良の折に服んだ薬で、陰嚢が思うがままに寛ぐ姿を目の当たりにし、血流というのはなんと大事なものかと再認識し、恒常的に血流が良くなれば、いつでもあのような陰嚢でいられるのかと希望を抱き、インターネットで血流を良くする方法を検索したところ、ハイカカオチョコレートを紹介される。カカオ分が70%とか80%とか90%とかの、あれである。
 これまでもチョコレートは愛好していたが、それはハイカカオなどと謳っているものではなく、そしてそれは、ハイカカオチョコレートをおすすめするページにおいて、「ああいうチョコレートは飴です」という、なかなかセンセーショナルな文言でばっさりと切り捨てられていた。それ以来、まだ食べかけだったそれは、そのまま冷蔵庫で冷やされ続けている。薄々は感じていた。薄々というか、甘いチョコレートはそもそも、罪悪感を伴う妖しいおいしさが身上みたいな食べ物だったはずだ。
 しかしページを読んだ日からすっぱりと宗旨替えし、今はせっせと、カカオ分80%台のチョコレートを摂取している。これまで食べていたものより甘くなく、口どけもよくないが、でもただそれだけのことだな、と思った。幸い僕は、これまで食べていた飴チョコに、飴を求めていたわけではなく、それでもチョコレートらしさを得ようとしていたようで、チョコレートの濃さを希求した製品に、抵抗感はなかった。なにより、これを習慣的に食べることで、陰嚢が寛ぎ、さらにはアンチエイジング効果まで望めるのだと思うと、メリットしかないと思った。ありがとうございます。

 夏休みに行なった図書館巡りには、スタンプラリーのほか、実はあともうひとつ個人的な目的があって、子どもたちに絵本を読んでやっていた頃に読んだものだと思うのだけど、断片的な場面だけが思い出され、しかしそれが誰の何の本だったかはっきりしないものがあって、家にある蔵書では見つけ出せず、図書館でその探し当てようと目論んでいたのだった。
 とはいえ、完全になんの取っ掛かりもなく、記憶の中の曖昧なひとつの場面だけを頼りに、絵本棚の端から端までを当たるわけもいかない。なんとなくイメージの中のそれは、五味太郎の絵ではないかという気がしていたので、行った先々の図書館で、五味太郎の本を片っ端に確認した。しかし「これだ!」というものは発見できなかった。もしかするとぜんぜん五味太郎じゃないのかもしれない。
 というわけで、今でもその本の正体は判明していない。
 思い浮かんでいる場面は、サーカスの情景が俯瞰で描かれていて、たぶん本の前半で、パフォーマンスを失敗し団員が怪我をするのだが、ショーの最後でその団員が再びステージに現れ、客は「大事なかったようだ」と安心する、みたいな、なんかそんな情景。
 どなたか、心当たりのある方は、お知らせください。なんてことを、妻以外ほぼほぼ誰も読んでいなさそうなブログで書くという、この行為の清廉と美しいこと。

2023年8月8日火曜日

不純・ナイトキャップ・京極堂

 ポップサーカスの松江公演を観て、大いに感動したのだけど、でもどうしたって大人なので、外国の人も大勢いるサーカス団員の、背景のことなどにも思いを馳せてしまい、それは不純であると思った。故郷の親はどう思っているのかとか、どういう環境で暮し、どの程度の自由が与えられているのかとか、つい考えてしまう。演目のひとつに、中国雑技団系の6人の少女による曲芸があり、これなんかはもう、完全に親の視点で見てしまい、いかにも先輩だろう相手の投げたものを、後輩と思しき少女がキャッチするのを失敗したりすると、舞台裏での叱責の情景が思い浮かんでしまい、それはもう芸そのもののハラハラドキドキとはまったく別のハラハラドキドキで、サーカスの見方としては間違っているに違いなかった。子どもは決してそんなことは思わないので、やはりピュアであることは尊いな、と思った。
 ちなみにサーカスは、動物も登場するのかと思いきや、ほぼ現れず、帰宅後にウェブで確認したところ、どうもいまどきのサーカスというものは、動物愛護の観点から、動物による曲芸というものは排斥されつつあるらしい。ほうそうか、と思う。動物は、文句を言うことも逃げ出すこともできないので、人間の勝手で芸を仕込まれてあっちこっちと引き回されて可哀相だ、というのはもっともな話だが、でもそれは人間自身だって同じようなものではないか、ということも思った。華やかなショーを眺めながら、「やりがい搾取」などというワードが頭に思い浮かぶので、ピュアでなくなった大人は哀しい生き物だと思う。

 夏の暑さが原因であるに違いないが、髪が傷んでいて、キシキシする。それをファルマンに訴えたところ、「上の妹はナイトキャップを着けて寝ているらしいよ。髪にいいらしいよ。シルクがいいらしいよ」という答えが返ってきて、へえ、となった。
 ナイトキャップ。amazonで見てみると、「赤ずきん」に出てくるおばあさんのような、あれである。あの時代、それどころかもっと前から、ナイトキャップというものはまるで進化していないようだ。それでも美容に造詣の深い次女が言うのだからということで、1枚注文することにした。
 選ぶにあたり、頭に密着させる仕組みがゴムでないというのは絶対条件だった。とにかく就寝時のゴムを毛嫌いしているので、それだけは避けなければならなかった。というわけで、リボンで結ぶタイプのものにした。
 まだ着けて寝るようになって3日目なので、効果のほどは分からない。実は商品が届いたその日に、ファルマンに髪を切ってもらい、それでキシキシ感がだいぶ緩和されたので、ナイトキャップそのものによる効果というものは計測できなくなってしまった。なんやそれ。
 ちなみにだが、ナイトキャップを頭に被りつつ、相変わらず全裸で寝ている。全裸就寝に関してはファルマンからずっと呆れられていて、「せめて下着だけでも」と懇願されたりもするのだが、ずっと拒み続けていた。それだのにここへ来て、ナイトキャップだけが採用された。全裸ナイトキャップ。いよいよファルマンの眉間の皺は深くなる。「寝るときに全裸である」と「寝るときにナイトキャップを着ける」のベン図の重なりは、どのくらいだろう。同志はどれくらいいるのだろうな。

 おもひでぶぉろろぉぉんで過去の日記を読んでいたら、2006年の8月に僕は京極夏彦の京極堂シリーズを読んでいて、ああ京極堂シリーズ懐かしいな、などと思っていたら、なんとものすごくタイムリーに、9月にシリーズ最新作(「鵼の碑」だそう)が発売される、というニュースが飛び込んできたので、だいぶ驚いた。シンクロニシティ。
 ちなみに17年ぶりだそうで、そういう意味でもシンクロがある。当時の再読は、その年に刊行された「邪魅の雫」とは無関係のようだが(自分が「邪魅の雫」を読んだのか読んでいないのか定かでない)、17年ぶりの時を経て、ちょうど読み返している当時の日記の自分とともに京極堂シリーズの最新作を読むというのも一興だな、などと思う。
 でも腰が引ける。果たして17年経った今の自分に、京極堂シリーズが読めるだろうか。読む気力、体力があるだろうか。やってみたらぜんぜん無理だった、ということになったら、ちょっとショックを受けそうで、挑戦そのものをスルーしたい気もしている。そもそもキャラクターをほとんど覚えていない。いきなり最新作を読んでもいいのだろうか。過去作を再読するべきなのだろうか。でもだとしたら本当に壮大な計画になってしまう。悩んでいる。

2023年8月2日水曜日

副産物・よよよよ400・あだち充足

 新型コロナに罹患した疑惑があり、その後遺症として名高い、「ちんこが小さくなる」について、「その様子は見受けられない」という報告をした(だからみんな安心したと思う)。しかしながら、まだサンプル数(回数)が少ないため確かなことは言えないのだけれど、なんとなく、罹患前に較べて、発射が早くなったような気が、しないでもない。前までなら耐えられていた度合で、「あっ、あっ」となる。ちょっとそんな傾向を感じる。
 そこで「新型コロナ 後遺症 早漏」で検索してみたところ、やはり「ちんこが小さくなる」や「勃起不全」ばかりが出てきて、早漏ということを言っているページは見つけられなかった。もしかしたら世界初の症例なのかもしれない。
 もっとも早漏かどうかというのは、長さや固さ以上に感覚的なものなので、それが事実かどうかは確かめようがない。あるいは発想の転換で、性器に問題が生じて早漏になったと考えるのではなく、コロナ罹患を経て、俺の指使いに磨きが掛かったと捉えることも可能だ。だとすれば後遺症ではなく、副産物だ。新型コロナの副産物、自慰のテクニックの上昇。力が抜けたことで、絶妙なタッチが実現したのかもしれない。

 先日、夏祭りが3年ぶりだか4年ぶりだかに執り行なわれたので、家族で参加した。コロナ以降、初めてだし、コロナ以前も、なぜか倉敷では不思議なほどに夏祭りというものに縁がなかったので、ポルガも含めて、子どもたちはほぼ人生初の夏祭りなのだった(ポルガは第一次島根移住の際に連れて行ったこともあったが、記憶にないという)。
 数年ぶりの開催だったからか、島根のくせにすごい人出で、身動きが取れなくなるほどの瞬間もあり、そもそもそういう状況に慣れていないし、さらには暑さもあって、ひどく疲弊した。来年からは子どもだけで行ってくれよとも思うが、夏祭りの日のティーンのハイテンションを思うと(目の当たりにした)、なかなか娘を野放しにする気にもなれないのだった。
 屋台もたくさん出ていて、僕はもちろんこういう所のものは決して口に入れたくないのだけど、子どもたちはピュアなので「あれも食べたい」「これも食べたい」と言ってきて、でもだいたいのお店が行列だったので買うこともままならず、それでもひとつくらいはということで、チョコバナナの店の列に並び、購った。値段がどこにも書いておらず、いくらなんだろう、どうせお祭り価格だから高いんだろうなと思いながら、ポルガとピイガの分、2本を注文したら、「800円です」と言われたので、聞き間違いかと思った。あるいは、4人で並んでいたので、ひとり1本、4本の注文だと思われたかと思った。いいいい1本、よよよよ400円? ここここの、いかにも安そうな貧弱なバナナを、衛生面に大いに不安のあるチョコレートのプールにくぐらせ、そこにカラフルな粒粒のやつを振りかけただけの、これで、400円? 400円取るの? マジで? えっ、マジで言ってんの? たこ焼き600円とか、りんご飴500円とかは、まあ「お祭り価格だから」の許容範囲だ。でもこのチョコバナナ1本400円は、さすがに限度を超えている。易々と超えてるだろ……、と思いながら、子どもを引き連れて並んだ手前、「じゃあいいです」とも言えず、忸怩たる思いで1000円札を出し、200円だけ返ってきた。カツアゲかと思った。子どもたちは「おいしい」と言って嬉しそうに食べていて、まあ子どもが喜んでいるならいっか……、というふうに思えればいいのだが、あんな不衛生で法外な値段のものを喜んで喰うなよ、むしろ唾棄しろよ、と思ってしまうので、いつまでも溜飲が下がらなかった。今もだ。この半年くらいで、いちばん無駄に使ったお金だったんじゃないかと思う。
 そのあとに見た花火も、この衝撃には敵わず、久々の夏祭りの思い出は、チョコバナナ1本400円という驚き一色に染まってしまった。だって、ほんとに、あれが400円は、さすがに間違ってるだろう。あまりに儲けが出過ぎだろう。将来もうチョコバナナ屋さんになろうかな。おっさんのチョコバナナも咥えてくれーや。

 「タッチ」を読み終えた。途中でも書いたが、結局は浅倉南なんだな、ということを思った。あだち充が描きたかったのは、上杉兄弟でもなく、もちろん野球でもなく、ただ浅倉南なのだ。あだち充が描く物語は、主人公とヒロインが、表面上は紆余曲折ありながらも、結局は深い部分で一切揺らがず強く結びついていて、それは少年が物語を読むときの願望である、「とにかく無条件に主人公(俺)がモテ続ける」に他ならないが、あだち充はたぶんそれをビジネスライクにやっているのではなく、さらにその上位の存在として、「それを描いているのは俺である」という、自身の歪んだ欲求の充足のためにやっているのだと思う。それだからこんなにも、人の情欲をくすぐるのだと思った。大いに参考にすべき創作法だろう。

2023年7月23日日曜日

40代・繋がり・おろち

 季節が梅雨から本格的な夏へと移行するタイミング。ここで毎年、体もそれまでの状態から夏仕様へと移り変わる必要があって、サーフィンのように、スムーズに波に乗れれば大成功なのだが、今年はそこに風邪菌という隕石が堕ちて、海は荒れに荒れ、甚大な被害が発生した。僕の顛末は「おこめとおふろ」に書いた通りだが、ここへ来てファルマンのダメージが大きい。ファルマンは僕がだんだん回復してきた週の半ばあたりから、入れ替わるように徐々に体調を悪化させていった。今週は難易度の高い仕事が来ていたことに加え、先の記事にも書いたように、ファルマンは咳という行為に多大なエネルギーを消費するため、「咳が続く状態」は、どんどんファルマンの体を疲弊させてゆくのだった。体の具合を訊ねた僕に向かってファルマンは、「30代までの風邪は日に日に良くなる。40代からの風邪は日に日に悪くなる」と答えた。なんて、なんて嫌な格言か。4月生まれの妻だけが40代というこの半年余りを、思う存分にいじり、堪能してやろうと思っていたが、そこまで悲愴感を漂わされたら、さすがに茶化せなくなった。また、「40代の風邪は寝ても良くならない」というフレーズ、これは僕自身も感じ、記事の中で述べたけれど、ファルマンは朝起きてしばらく布団から上半身だけを持ち上げた状態で、なにもせず、どこも見ないまま、廃人のように項垂れ、そしてそれを絞り出すように言うので、説得力がまるで違った。さすがモノホンの40代なのだった。
 そんなファルマンは、日曜日になった今日現在、やはりまだ気怠そうだ。でももう季節は容赦なく真夏に移行したし、夏休みに入った子どもたちは毎日家にいる。もうこれから2ヶ月、ファルマンが本当の意味で清々しく快調になることは、決してないのかもしれない。そして考えてみれば、ファルマンって毎夏こんなもんじゃなかったっけ、とも思う。

 音楽のサブスクのやつ、家族各人それなりに活用し(なんと言っても中学生が一番だが)、どうやら契約はこのまま継続され、わが家に定着されそうな様相である。
 ところで先日これに関してヒヤリとする出来事があったのだが、あるときポルガから急に、「パパ、落語とかダウンロードしてたね」と言われたのである。えっ、なんで知ってるの、と訊ねたら、「フォローしてるから」とのことで、どうもデフォルトの、非公開にしていないアカウント設定では、フォロワーに対してプレイリストなども丸裸であるようで、もちろんアカウント名が本名というわけではないのだが、それにしたって嫌なので、慌てていろんな項目を非公開設定にした。
 どうも感覚が現代のそれに追いついていないのだが、なんで、なんで音楽をダウンロードし、そして聴くサービスに、「データベース」と「自分」以外の、横の繋がりが必要なのか。こちらは、そんな繋がりの可能性を、はじめからまるで想定していないのだから、非公開設にするという考えが浮かぶはずもない。そして現代っ子には丸見えとなっていた。
 これは恐怖である。
 結果的にダウンロードしなかったのだが、あるとき、音声データみたいな感じで、延々と喘ぎ声が流れ続けるのってないかなー、と検索を掛けたことがある。そうしたらそれっぽいものがそれなりに出てきたのだが、でももしも操作をミスって家族でのドライブのときに再生されちゃったらまずいしなー、と思って取り込まなかった。九死に一生である。家族でのドライブのときにミスって流すどころの話ではない。もう少しで娘に喘ぎ声のダウンロードを目撃されるところだった。
 今回のヒヤリハットを肝に銘じ、これからの人生で取り入れるさまざまなサービスは、基本仕様として横の繋がりが推奨され、さらけ出すことが初期設定になっている、だから取りも直さずあらゆる項目を非公開に設定しなければならない、と思った。ライフハックだ。

 体調不良を経て、体に老廃物的なものがまつわりついているような感覚があり、サウナ欲が高まっていた。サウナって、行ったら行ったで、こんなもんか、という感じなのだけど、行きたいなあと切望するときの期待値と来たら、いつもとんでもないものがある。
 というわけで暑気払いも兼ね、久々におろち湯ったり館へと足を運んだ。土曜日の晩。さすがに夏なのだからプールが混んでいるかな、と危惧していたが、大丈夫だった。貸し切りだった。木次は裏切らんな。木次は1年のうち、桜が満開の1週間しか人が密集しない。本当にそう。そういう習性の希少生物のようだ。
 サウナも気持ちがよかった。相変わらず客は僕以外みんな顔見知りで、どこまでも田舎臭い話をしていた。あまりにもリアルで、あまりにも別世界なので、逆に僕はいま都会のタワーマンションにいて、VRゴーグルを着けてこの情景を疑似体験しているのではないかという気持ちになった。マニアックなソフトだな。
 サウナで老廃物が排出されるということは特にないらしいが、そうは言っても、なんかしらのものは払われた感じがたしかにある。だから行ってよかった。行くたびに、もう少し近くにあって、もう少し頻繁に行ければなあ、と思うが、このくらいの距離感が、あのサウナの別世界感を得るにはちょうどいいのかもしれないとも思うのだった。あのクソみたいな田舎臭さも、おろち湯ったり館の魅力であるに違いない。

2023年7月11日火曜日

南という女・ゴム・やけに

 ちんこを浅倉南に喩える、ということをしたのを契機に、「タッチ」の何度目か知れない読み直しを始めた。愛蔵版の第2巻で、高校に入学して少し経ったくらいの頃。和也はもちろんまだ存命(あっ、ネタバレしちゃった!)。
 それにしても、こうして数年おきに読み返すたびに、「南という女は……!」という思いが強まるのを感じる。当然南自身の行動は変わらないので、読んでいるこちらの感覚が、数年でわりと変化しているのだ。そのことに気付かされる。つまり、ジェンダーとか、ルッキズムとか、そのあたりのことだ。自分自身は確固たる信念を持ち、他者の影響は受けず、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、という確かな指針がある人間です、などと言いながら、実は知らず知らずのうちに、どうしたって生きている時空のパラダイムに染められているようで、何年か前には気にならなかった南の振る舞いに、それはさすがに嫌な女だろ、などと感じたりする。それは極端な言葉で言えば、「粗暴さ」ということになる。南の行動には、絶対的な自信(自らのポテンシャルもさることながら、上杉兄弟(現状では主に和也)の幼なじみだという出自も合わさっての)に裏打ちされた、無意識の粗暴さがある。この学校で私に敵う女はいないと南は思っているし、それを隠そうともしていない。その隠そうとしなさが現代の感覚からはかけ離れているな、ということを感じる、2023年の「タッチ」読み返し作業である。
 もっともそれはそれとして、純粋に「タッチ」めっちゃおもしろい。双子と南の関係は、これからどうなっていくのだろうか。南はどっちを選ぶのか、あるいはふたりとも一緒にの串刺しファックパターンなのか、目が離せません。

 熱帯夜の季節になり、参っている。寝たあと、2時とか3時とかに、蒸すか、そうじゃないかって、単純に気温だけで決まる話ではないようで、そこが悩ましい。毎日が賭けだと言っても大袈裟じゃない。今日はエアコンなしで大丈夫だろう、と思って付けずに寝たら、3時ごろに汗だくになって起きたりする。もちろんその逆もある。
 さらに事態をややこしくするのが、僕が寝るとき全裸であるという要素である。普通なら逡巡なくエアコンを付ける場面でも、ファルマンはその点において躊躇うことがあるそうで、「お願いだから服を着て寝てくれ」ということを訴えられるのだが、それに対して僕が首を縦に振ることは決してないのだった。なぜなら、2年半前に読んだ『パンツを脱いで寝る即効療法』に、ゴムの締め付けは体に毒なので、寝ているときくらいは脱がないと不健康だ、ということが書いてあったからだ。それがもう完全に刷り込まれてしまい、ゴム製のものを身に着けて寝ると、もはや精神面から体調を崩すような気がするのだ。
 ということをファルマンに説明したら、ファルマンがこう言った。
「その本がゴムだよ!」
 いいフレーズだなあ、と思った。全体の中の悪い部分のことを、これまでは「癌」と表現していたが、これってちょっと不穏なので、今後はゴムでいいんじゃないかと思った。まあ僕、ゴムめっちゃ好きだけど。150枚のショーツを作るために、ダイソーで何回ゴムを買ったか知れない。でも寝るときは全力で忌避する。愛憎入り交じっているのです。

 22歳の春の手書き日記を読み終え、通常運転に戻ったので、久しぶりに「百年前日記」でも書こうかな、とも思ったのだけど、22歳の無職の時期の自分を振り返り、最後ちょっと精神が引っ張られそうになったので慌てて終了させたわけで、このあとすぐに「百年前日記」をやるのは無理だな、と思った。「百年前日記」も、なんのことはない、要するに無職日記に他ならない。しかもこちらは子持ちver.であり、悲壮感や切迫感という意味では22歳の比ではない。だから当分は無理だ。
 それにしても、僕はどうも、人生の中に、無職期間がやけにありはしないか。やけに。いたずらに。放埓に。気儘に。積極的に。乗り気に。前のめりに。おかしいな。

2023年7月5日水曜日

インスタ・南・推し

 実に梅雨めいていて、気怠い日々である。思考する気が起きず、読書をする気が起きず、裁縫をする気が起きず、筋トレをする気が起きず、日記を書く気が起きず、じゃあなにをしているのかと言えば、インスタグラムをやっている。ジョニファー・ロビンの下着紹介のやつ。ずいぶん間が空いて、フォロワーたちをだいぶやきもきさせてしまったと思う。久しぶりにやったら淡々とおもしろい。今のこの散漫な気分に合っているので、次々に投稿していこうと思う。
 ところでこれをスマホから投稿することはないのだけど、過去にどういう投稿をしたか、スマホで確認したい場面はある。しかし職場でも、お店のレジ待ち中でも、なかなか自分のインスタグラムの画面を開く勇気はない。なにしろあまりにもビキニショーツのどアップ写真だ。田舎の車通勤なので感覚が少々失われているが、都心部の人々は、通勤通学の電車内でよくスマホを眺めるのだろう。であるならば、ビキニショーツのどアップ画像ばかりが並ぶインスタグラムというのは、なかなか開かれづらいだろうなあ、と思う。カリスマインスタグラマーへの道のりは遠い。

 自分は強めの右利きなので、そのためにちんこが左に向いてしまっている、ということを前回の記事に書いた。だからこれからは左手の稼働を意識していきたい、と。
 書いたあと、これって「タッチ」みたいな話だな、と思った。いつも右手(和也)ばかりが目立ち、左手(達也)は陰でいじけていた。しかし哀しいかな、和也が張り切れば張り切るほど、ちんこ(南)は達也のほうを向いてしまう……。
 という話をファルマンにしたところ、「南を!? 南をそれに!?」と驚嘆された。たしかに浅倉南をちんこの喩えに使ったのは、これが人類史上初めてのことかもしれないと思った。
 俺の南が、今後もうちょっと和也のほうを向いてくれますように。
 でもこれだけは言っておきたいこととして、俺のちんこはゲームの賞品じゃない。

 推しという言葉、文化が花盛りである。
 なんか推しがある人って人生が愉しそうだな、羨ましいな、ということを思い、某ネット発の歌い手を推しているファルマンに話をしたら、「あなたにはMAXがいるじゃない」と半笑いで言われ、「なにを!」となった。
 なんかしらのファンであることは愉しそうだという、今回とまったく同じ考えから、MAXのファンになることを表明したのは、振り返ったらもう4年も前のことだった(4年前はまだあまり「推し」という表現は一般的ではなかったようだ)。ということは僕は、もうMAXのファン歴が4年になるのか……。なるのか、ではない。なってない。白状してしまえば、実は僕はMAXのファンではないのだ。人生の中で一秒だってMAXのファンになり下がったことなどない。もぐりなのだ。丘MAXなのだ。MAXという頂は少し高すぎて、僕には登ることができなかった。
 それでもいちどはファンになろうとした間柄なので、半笑いでオチのようにMAXのことを使われると、少し気に障る部分がある。MAXをバカにしていいのは俺様だけだ! と、ベジータのような気持ちになる。とても複雑な関係性なのである。
「まあ結局、あなたは自分のことしか好きじゃないもんね」
 と、これもまた4年前と同じようなことを言われた。たしかにそうだ。だから僕は誰かを推したりしない。そして大々的に発信するわけでもないから、誰かに推されることもない。推しも推されもしないとは、つまりこういう状態のことを指すのか、と思った。

2023年6月29日木曜日

左・口笛・手書き

 クロールをしながら気が付いた。
 左手がサボっている。
 僕のクロールはほとんどキックをせず、ほぼ手の掻く力だけで進むのだけど、その手も、実質右手だけしか稼働していないのだった。左手ももちろん右手と同じ動きはしているのだが、右手の動きのオノマトペが、ザッパァ、ザッパァ、であるとするならば、左手のそれは、ペショッ、ペショッ、という感じ。こいつ、やってるフリをしてるだけで、実はぜんぜん水を掻いてない。こういう奴、集団に必ずひとりはいる。
 うすうす疑惑はあった。よくできた右手に対し、左手は不出来な部分があり、基本的に消極的だし、どうしても動かなければならない場面でも真面目にやらない。たとえば右腕の毛を剃るためにはどうしても左手で剃刀を操らなければならない。そんなとき、左手は必ずと言っていいほどに右手を傷つけるのだった。どこまでも左手はひねくれている。そのため大抵の作業は右手主体で行なうこととなり、右手にばかり負担がいってしまう。
 本人の言い分を聞けば、もともとお前が差別したんだろうが、ということになるだろう。たしかに右手ばかりを偏重し、左手を蔑ろにしてきた面は否めない。早い段階からもう少し左手のことを気にかけてやっていたら、ここまで左手が卑屈になることはなかったとも思う。
 この問題は、右手だけが大変である、ということだけにとどまらない。僕の勃起というのは基本的に左に向きがちなのだけど、これも右手ばかりが主体的に動きがちなのが原因だと思う。右手でなにかしらの作業をするということは、体の前面にあるものを、右手で抱くように扱うことになるわけで、体としては左方に向くことになる。体そのものは、正面を向こうと思えば向けるわけで、そのことには気付きにくいが、勃起というのは、上下の操作は静止していてもそれなりにできるが、左右は無理で、それは自然に身を任すほかない。そのため体全体が左方に向いているということが、如実に出てしまう。
 左を向くことは前から気になっていて、どうにか直らないものかと思っていたが、原因を突き止めることなく、手でどうこうしようと思っても無意味なのであった(さらにはそのとき用いる手が結局右手なわけで、右手でちんこを掴んでいる限り、どれほど無理やり右に向けようとしたところで、ちんこは左を向き続けるのだ)。
 今回、原因が判明したので、これからは左手の稼働というものを意識して生活していこうと思う。左手でなにかをやりにくそうにしている僕を見かけたら、ちんこのことに思いを馳せ、エールを送ってください。

 子どもたちが口笛を吹く。それ自体を咎めようとは思わないが、夜にも吹くので、そのときは「夜に口笛を吹いたらダメだ」と注意している。夜に口笛を吹くと、ヘビが出るのだったっけ。たぶんいちばんオーソドックスなのがそれで、でもこういうのって地域によってバリエーションがいくらでもあるんだろうな、と思う。
 夜に爪を切ると親の死に目に会えない、という、迷信というか、昔ながらの注意があり、でもこれは、照明器具のなかった昔、暗い中で爪を切ると狙いを外してケガをすることが多かったから、という真っ当な理由があると聞いたことがある。
 じゃあ夜に口笛を吹くな、にはいったいどんな真意があったというのか。
 親になり、子どもが口笛を吹くようになって、その答えが自ずと判った。
 なんかムカつくからだと思う。
 耳障りなので、なるべくなら口笛なんか吹かないでほしい。でも完全に禁止するのもなんだから、少なくとも夜はもう勘弁してくれよ、ということだと思う。
 ちなみに僕は口笛が吹けない。

 おもひでぶぉろろぉぉんの一環として、ウェブにアップしていない、「俺ばかりが正論を言っている」前夜の手書き日記、2006年の春、無職時代のそれを読み返す作業をしていたのだが、感じ入る部分が多すぎて、なかなかスムーズに読み進められず、それどころか、にっちもさっちもいかない、しょっぱい日々の記述に、ちょっと気持ちを引っ張られる気配があり、どうもこれは精神衛生上あまりよくなさそうだぞ、と思い至り、もうなるべく早く終わらせることに決めた。ちょうど明日が月末なので、明日で終わらせようと思う。
 誰とも繋がろうとしない、だから実際ほとんど誰にも読まれていない日記を、しかしウェブ上にアップし続けることに、いったいなんの意味があるのかと、まあさすがにいまさらそんなことを思い悩んだりはしていなかったが、それでも今回の経験により、それであってもウェブ上にアップするのって大事なのだ、としみじみと感じた。いやまあ、この手書き日記の場合、書くことで、諸々のどうしようもない気持ちを必死に紛らわしていたのだろうから、書くことに意義はもちろんあって、それを読み返してしまっている現在の僕が間違いなのだけど、やっぱり文章というものは、ある程度気取るというか、他人の目を意識して鎧を纏わなければ、なんかもう本当に生身でえぐいものだな、と思いました。

2023年6月22日木曜日

音楽・ソロ・伸びしろ

 ポルガが一丁前に音楽を聴くようになった。なにを聴いているのかと言えば、主にボーカロイドの曲のようである。いまどきだな。いまどき、なんだよな? もはや正確ないまどきというものが察せなさ過ぎて、なにを言っても間違っているような気がする。
 一家で車で出掛けるということになると、誰かしらのスマホと接続し、プレイリストを再生させるのだけど、どうしたってそれは子どものものになりがちで、そうなるとボーカロイドの曲ばかりが流れることになり、運転手はだんだん心が死んでゆくこととなる。これは本当におっさんぽい症状だと我ながら思うのだけど、ボーカロイドの歌って、聴いているとだんだん気持ち悪くなってくるのだった。声がまず異様だし、テンポも速く、さらには繰り返しのフレーズが多かったり、音の重ね方がすごかったりするので、3曲くらい聴くと堪らずギブアップとなる。
 ところで走行中は車載オーディオのBluetooth接続の操作が不可になるため、ずっと停止しない高速道路などでは、途中でプレイリストを再生するスマホを変えたくても変えられず、ずっとひとりの音楽ばかりが再生されることとなり、それがちょっと不便だなあと思っていたのだけど、先日、共有のプレイリストというものを作れるということが判明し、それに各自の聴きたい曲を入れて、誰のスマホを接続するということもなく、それをひたすら再生すればいいのだ、となった。それはとても簡潔ですばらしいのだけど、そうなるとやはり、そこにガンガン曲を入れるのはポルガで、ティーンというのは音楽を聴くものなのだなあと、自分のことを思い出すにつけしみじみと感じるのだけど、しかしその行為をそのままのさばらせておくと、わが家共有の「ドライブ」プレイリストはボーカロイドの曲ばかりになってしまい、運転に支障を来すので、ティーンのような音楽への情熱はまるでないけれど、自衛策として、自分を救うための曲をダウンロードし、入れた。研ナオコの「ひとりぽっちで踊らせて」や、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」、松任谷由実の「ANNIVERSARY」などだ。ポルガのボーカロイドの曲30曲くらいと、ファルマンのロック15曲くらいの中に、まだこの3曲だけ。給水ポイントが少なすぎる。

 義兄が友達5人くらいと一緒にソロキャンプをしたんだって、という話を何ヶ月か前に母から聞いて、大爆笑した。僕とファルマンの中で、世界でいちばん友達の多い人間である義兄。そんな義兄が、巷で話題のソロキャンプというものをしてみたいと考えた結果、友達を誘ってみんなでソロキャンプをするという、とてつもない奇策に至ってしまったのだと思った。それはもはや浅ましいを超えて、いじらしいと思った。流行りに乗りたい。でもひとりぼっちは嫌だ。だからみんなでソロキャンプ。情けなくて愛しいじゃないか。
 しかし、そんな阿呆なことをするのはこの世で義兄(とその周辺)だけだろうと思っていたら、しばらくしてヤフーの記事で、その名も「ソログルキャン」として、そういう趣向がひそかなブーム、などと伝えられていたので、そうなんだ、義兄だけじゃないんだ、と驚いた。
 ソログルキャンのメリットは、それぞれテントや食事などは独立していて自由でありながら、いざというときはすぐ近くに仲間がいるので安心感がある、という所らしい。
 言いたいことはいろいろある。ツッコミどころを挙げていったらキリがない。もっとも、そもそものキャンプに魅力を感じない人間が、その上にふたつも修飾語のつく、すなわちさらに細分化されたジャンルのキャンプの情趣を理解できるはずがないのである。
 ツッコミではなく、どうしてもひとつだけ言いたいこととして、基本的につるむのが好きな人間が「ソロキャンプ~♪」などと言うのって、まるで中学時代、普段アニメなど観ない層の同級生がエヴァンゲリオンの話で盛り上がっていたときのような、なんかそんな気持ちになる。なんか、同じものを観て、同じ言葉を使っても、我々と彼らは、たぶんぜんぜん交わっていない。時空レベルの違いを感じる。

 先日のレジャーで、ファルマンは1年以上ぶりにプールに入り、だから僕の泳ぐ姿というものも1年以上ぶりに見たことになるので、年間会員として日々切磋琢磨していることもあり、「どうだった?」と泳ぎについて訊ねたら、「ぜんぜん気配がしないから急に近づいてきて気持ち悪かった」という答えが返ってきた。
 水の抵抗を減らすことを念頭に、手を水中に入れるときやキックなど、なるべく水を荒立てずに泳ぐよう普段から心掛けていたのだけど、自分では分からなかったが、どうやらずいぶんな境地にまで到達していたようだ。嬉しい。ただ水の抵抗を減らしたことで、泳ぐのが速くなったとか、長い距離を泳げるようになったということは、実はあまりない気もする。
 以前、筋トレにおいても同じ現象が起こったが、どうも僕は運動神経があまりに良すぎるようで、トレーニングをしようと思っても、体が自然と無駄のない最適解の動きをしてしまい、そのためそれなりに淡々とできてしまい、成長が起らないのだった。要するに、伸びしろがない。磨く部分がないのである。これはこれで考えものだと思う。なんでもできていいじゃないかと思われるかもしれないが、案外これも、寂しいものですよ、はい。

2023年6月13日火曜日

マジック・灯油・パンツ!

 ファルマンがこのたび、googleのストレージの容量を増やす契約を結んだのだが、そうしたら特典で、あの「消しゴムマジックで消してやるのさ」でおなじみの消しゴムマジックが使えるようになったという。ちなみにファルマンはあのCMのフワちゃんのモノマネを前からめっちゃしていて、最近はもうハリウッドザコシショウばりに、誇張し過ぎて原型をとどめていないほどなのだが、そんなファルマンにとうとう本物の消しゴムマジックが与えられたのである。ということで喜び勇んで、「消しゴムマジックで消してやるのさ」をしようと思ったのだが、子どもたちを撮った写真の、背景に入り込んだ他人を消してみようとアルバムを探したところ、「……ない!」となった。背景に他人が入り込んだ写真が、アルバムにぜんぜんなかったのだった。消しゴムマジックを使うまでもなく、行政マジックによって、人口は十分に消失していたのだった。しゅんとなった。

 灯油が余っていた。灯油余り問題は、この2ヶ月弱、われわれ夫婦を悩ませていた。
『給油はガソリンと同時に、灯油も入れた。灯油缶は家にふたつあって、いま1缶は空になり、もう一方も残りが半分くらいという状態であり、かなり悩んだ。もしかしてもうこの半分ほどの残りで乗り切れるんじゃないのか、ここで1缶分の補充をしたら持て余すことになるんじゃないのか、と。しかしファルマンと協議した結果、まあ朝晩は寒いし買っておくか、という結論に至った。買ってしまえばやはり心強い。もしこのままどんどん暖かくなり、持て余したとしても、この時点での安心を買ったのだと思えば損はないと思った。』
 「おこめとおふろ」にこの記述がなされたのが、3月5日のこと。それ以降さすがに買い足すことはしていないはずなので、このときのものがずっと残っていた。今年はやけに見誤った。言い訳するならば、春先、住んでいるコーポの外壁塗装工事があり、エアコンが使用不可だったというのも、灯油との関係が断ち切れなかった原因のひとつだと思う。
 5月になっても余っていた灯油を使い切るべく、少し肌寒い朝などに積極的にストーブを稼働させたりしたが、どうもストーブとしてももはや気合が入らないらしく、冬場はあれほどすぐに給油を呼び掛けてきたくせに、ほぼ燃焼していないようで、いつまでもタンクは空にならないのだった。
 そしてとうとう6月に突入し、ストーブの横に扇風機が並ぶという、珍奇な風景がリビングに展開された。これはもういよいよダメだろうと、使用するのは諦め、どうにか処分するしかないだろうと観念し、検索したところ、とあるガソリンスタンドで回収してくれるという情報を見つけ、電話で確認した結果オッケーとのことだったので、持っていった。そうしたら、ピットの奥に巨大なオイルポットのようなものがあり、そこに注ぐというシステムだった。ガソリンスタンドでは、なんかしらの作業に使用できるのだろうか。それならいい。わが家で3ヶ月以上くすぶった灯油も浮かばれるというものだ。
 長らく懸案事項だった灯油が片付き、部屋も心もとてもすっきりした。来年はこんなことにならないよう立ち回りたいが、まあ余らしてもこの手段があるのだな、という経験則を得た。

 とにかく明るい安村がイギリスのオーディション番組で大ブレイクしたというニュースに触れ、とても喜ばしい気持ちになった。
 しかしこの番組の映像を見てひとつ思ったこととして、安村がポーズを取ったあと、「安心してください、穿いてますよ」の英語ver.として、「Don’t worry, I’m wearing」と言うと、向こうの審査員の女が言い出したらしい、「パンツ!」というコールをする、という流れがあるのだけど、向こうの人って、安村が穿いている、いわゆる下着としてのあれを、なんだ、パンツって言うんじゃんか。
 なんかほら、向こうの人が言うパンツって、われわれがズボンと呼んでいるものを指すのだとか、たぶん四半世紀前くらいから急に言われ出して、ズボンという表現はダサく、死語であり、これはパンツ(イントネーションは尻上がり)であるという、なんかそういう風潮があっただろう。でもなかなか定着せず、「パンツ」で商品検索すると、ズボンと下着、両方同じくらい出てくるという、にっちもさっちもいかない状況が、日本ではずっと続いていたじゃないか。
 でもこのたび結論が出た。下着がパンツでいいのだ。だから、パンツはやっぱり下着なので、ズボンはズボンと呼べばいいのだ。向こうの人たちがなんと呼んでいるのかは分からない。ズボンでないことは確かだ。ズボンは、脚をズボンと入れるからズボンなのである。なんと愛らしい語源であろう。堂々と使っていきたい。

2023年6月3日土曜日

サギ・暦・よそ者

 仕事の帰り道、田園地帯なのだが、その中の1枚の田んぼが、白かった。運転中でメガネを掛けていたため、なぜ白いのかはすぐに判った。サギなのだった。
 サギって日常の中で相対するにはちょっと大きすぎる生き物だと思う。倉敷時代も、家のすぐそばを用水路が通っていたためか、ゴミを捨てる際など、ちょっともう会釈くらいしたほうがいいのかな、というくらい至近距離に、1メートルを超える大きさのサギが平然と立っていたりした(体が大きいためかスズメなどのように臆病ではないようで、逃げないのだ)。横浜や練馬の暮しにそれは登場しなかったので、田舎暮しが長くなった今でも、見るたびに驚く。このあたりの部分に、先天的田舎民か後天的田舎民かの差が出る。
 しかしそんな田舎のサギ事情でも、大抵の場合、ひとつの視界にサギは1羽である。サギは群れで生活するタイプの生き物ではない(おそらく)。たまに2羽、3羽くらいが端々にいて、視界の中に同時に収まることはあるけれど、せいぜいそのくらいだ。
 それが今回の目撃の場合、田んぼを埋め尽くすほど、つい先ごろ植えられたばかりの苗はまだまだか細く、張られた水の水面は暮れなずむ夕空と同じ色を浮かべていたが、その1枚の田んぼだけは、それよりも白い面積のほうが大きかった。
 50羽以上いたと思う。
 帰宅後の食卓で家族に向かってこの話をしたら、「なぜ写真を撮らなかったのだ」と責められた。たしかにその通りだ。撮ればよかった。話だけでは、父の語ったビッグフィッシュである。続けてファルマンに、「アップしたらバズったかもしれないよ」とも言われた。
 ちょうど先日、嘘か誠か知らないが、田んぼの持ち主に向かって、カエルの鳴き声がうるさいから対策を取ってくれ、という手紙があった、というツイートがバズっていた(たぶん現代の世相を反映させた風刺の創作だろうと思う)。田舎のカエルの鳴き声は、たしかにすごい(でも6月に入ってピークは超えた)。それに関してもしも対策を取るとするならば、それはもうサギの大量投与しかないだろうと思う。
 というより、水を張った田んぼにカエルの鳴き声が鳴り響くのも自然現象ならば、それがやがて落ち着き、落ち着いたと思ったらサギが気色悪いほど増殖しているのも自然現象で、対策というか、そういうサイクルだ。カエルの鳴き声対策にサギを大量投与することはできない。カエルを食べて、サギは数を増やすのだから。サギの体の大部分は、たぶんカエルでできている。ありとあらゆる生命はそうやって連綿と連なっているのですよ、猿田。

 先週「整理」で書いたように、150枚ほどあるショーツをひとつの大きなカゴに入れ、そこへ毎日ずぼっと手を差し入れ、指の先に遭った1枚をピックして穿くということをしているのだが、これがとてもおもしろい。これまでの恣意的に選ぶスタイルでは絶対に選ばなかったようなものも一切の忖度なく選ばれるので、毎日「おっ、こう来たか」みたいな新鮮な感動がある。唯一の不満は、140枚くらいある、フロントが1枚のガーリーライクショーツに対し、のび助ショーツは10枚ほどしかないため、ぜんぜん当たらない(今週はいちども当たらなかった)という点で、この制度を取る前の半月間ほどは、恣意的にのび助ショーツばかりを穿いていたため、久々のガーリーライクは、ちんこの置き場所というか、根源的な姿勢の違いみたいなものに、戸惑いがあった。ちんこを、こんなふうに下方に押し込むような感じにしてしまって、よくなくないの? と不安を抱いた。でもその違和感も1日ほどで薄れ、やっぱりこれはこれで魅力があるよなあ、と再認識したりした。そうでなければ140枚も作ったりしない。それでもこれからはバランスが良くなるよう、のび助ショーツを主体に数を増やしていこうと思う。そうしているうちに、やがてショーツの数はとうとう365に達するだろう。そうなればショーツは暦になる。ショーツが暦になるってなんだろう。俺が言って俺が分かんなかったらこの世の誰にも分かんないじゃんね。

 先日、ひそかにおろち湯ったり館へ行った。週末の夜であった。ホームページに、「週末は夕方にかけてたいへん混雑するためお待ちいただく場合がございます」と書いてあったので、どうなんだろうとおそるおそる行ったのだが、なんのことはない、蓋を開けてみたらプールなんて貸し切りだった。「夕方にかけて」ということなので、夜はピーク後ということか。たしかに田舎の夜は早い。お年寄りしか行かないような昔ながらのスーパーは、16時半くらいに刺身が半額になるのでびっくりする。サマータイムかな、と思ったりする。
 サウナはさすがに貸し切りではなかった。たぶん、毎晩来ているのだろう地元のメンツがいて、僕以外は誰もが顔見知りのようだった。雲南市に観光客ってひとりもいないのだろうか。土曜の晩だぞ。地元の人たちの会話は、それはもうえげつなく、今ここが日本でいちばん田舎臭いサウナじゃないかな、ということを思ったが、たぶん同率一位が日本中にたくさんあるだろうとも思った。
 田舎の、人が少ない割に、施設が充実している空間に、永遠のよそ者として存在できるのって、すごく恵まれているな、ある意味俺は透明人間として温泉に来ているな、もちろん入るのは男湯だけどな、などと思った夜だった。

2023年5月28日日曜日

整理・サプリ・市民プール万歳

 暑くなってきたので、布の整理をした。どういうことかと言えば、部屋のエアコンの前にタンスがあり、そのタンスの上に布を収納したカゴを積み重ねているため、このままだと冷房の風がカゴに直撃して、部屋が冷えなそうだったからだ。暖房はエアコンに頼らないので問題なかったが、冷房は如何ともし難いため、このタイミングで実行した次第である。去年の夏はどうしてたんだろうと思い返したら、去年はたぶん、今よりも布が少なかったので、そこまで積み重なってなかったんだと思う。でもあまりこのことに言及するとファルマンが憤怒するので、素知らぬふりをしていよう。
 これに合わせ、去年の末に紹介したように、これまでは作ったショーツを、コンパクトにたたんでぴったり10枚が収まる小ぶりのケースに詰め、それを積み重ねて使っていたのだけど、3棟くらいのタワーになったそれから、本当にその日の気分で穿くショーツを選ぶということはなかなかできず、どうしたって上のほうにあるケースから取り、それが洗濯から戻ってきたらまたそれを穿く、みたいな感じになってしまっていて、せっかく130枚ほどもあるのにぜんぜん有効に活用できていないということを切に感じていたため、この機にその仕組みも刷新した。すなわち、スーパーの買い物カゴほどもある大ぶりのカゴひとつに、たたんだショーツをすべて入れることにしたのだった。これまでの10枚ずつの収納では、微妙に色別やタイプ別で分類する気持ちがなくもなかったのだが、これからはそんな作業に煩わされることはない。選ぶときも、ショーツのプールの中に手を突っ込んで、その日の1枚を選べばいい。ショーツのプールという言葉がいいな。普通のプールももちろんいいけれど、ショーツのプールでも泳いでみたいものですね。

 サプリの止め時が分からない。何種類かのサプリを定期購入に設定し、日々せっせと服んでいるのだけど、果たして意味があるのかと疑う気持ちが沸々と湧き上がる瞬間がある。服み始めた直後は、なんとなくそれまでよりも体が楽になった感じがあったのに、2年くらいするとそれが普通になってしまい、この体の状態は自力のものであり、別にサプリなんか服まなくっても変わらないんじゃないか、と思えてくる。民衆とは勝手なものだ。しかし、じゃあ実際にやめるかと言われると、やめた瞬間に体の調子がガクガクッと崩れるのではないかという恐怖心があり、やめられない。だとすればこれはもはや一種の中毒ではないのか。そんな、自分の体が、サプリメントによって糊付けされてようやく人の形を保っているわけじゃあるまいし、とも思うが、なかなかやめる勇気は出ない。もうお守りのような感覚で、一生携えていくしかないのかもしれない。活力のお守り。活力のお守りって、もうだいぶスピリチュアルな感じがある。サプリメントマザーのご加護がありますように。

 前から存在は知っていて、気になっていた、「ロバート秋山の市民プール万歳」という番組が、プライムビデオに出た(気づかなかっただけで前からあったのかもしれない)ので、喜んで観ている。喜んで観ているのだが、コンセプトにはものすごく魅力を感じる一方で、回を進めるうちに、ロバート秋山自身も大いにそれを感じているように見受けられることとして、どんな街のどんなプールでも、泳ぐさまは一緒、という抗いようのない事実を突きつけられる。僕も3月に、わざわざ旅行先の倉敷で市民プールに行ったけれど、泳いでみて、うん、泳ぐという行為、水と自分との関係性というのは、結局どのプールでやっても同じだな、そりゃそうだよな、ということを思った。番組は回を重ねるごとに、秋山がプールで泳ぐ時間も距離もどんどん短くなり、ほぼ街ブラの様相を呈するようになってきた。別にいいんだけど。

2023年5月11日木曜日

昼顔・脱出・進路

 GWを利用してレンタルDVDで一気に観た「昼顔」の、映画版はamazonプライムにあったので、こちらも観た。すなわち、全てを観終えたのだった。映画版の結末は、実は観る前から知っていた。まだ僕が観る決意をしていなかった段階で、ファルマンが喋ったからだ。だいぶショッキングな内容なので、先に聞いていてよかったような気もするし、面白味として当然よくなかったような気もするし、どちらなのか判断がつかない。
 映画版は夏の海が舞台なのにトーンが暗く、つらかった。ドラマ版の吉瀬美智子と高畑淳子が恋しかった。あのふたりが物語を、背徳的なだけではない、エンターテインメントにしてくれていたのだな、と気付いた。
 全体を通しての感想としては、不倫はよくないと思った。小学生のような無邪気な感想。でもそれに尽きる。ノリコが怖い、ということをファルマンに向かって言ったら、「あれはあたいだよ。あたいもああなるから覚悟しなよ」とたしなめられたのだけど、ファルマンがハマり、DVDを借りに行かされ、「お前も観ろ」と言うから観た結果、なぜ僕がたしなめられなければならないのだろうかと思った。あまりに不条理ではないか。さらに言えば、この僕は、父が不倫して外に子どもを作って崩壊した家の子どもである。不倫のつらさ、周囲に与える迷惑は、ちゃんと知っております。小2の頃から、知って、いるんですよ……。

 宇宙関係が立て続けに失敗していた。H3が打ち上げを失敗し、イーロン・マスクのロケットも大爆発し、民間企業の宇宙船の月面着陸が失敗していた。
 それらのニュースを見ていて、「ああ失敗したんだ、難しいんだなー」と、どこか他人事で受け止めていたのだけど、それは当面のところ、地球がどうにかなってしまう予定がないからで、地球が例えば5年後や10年後に住めなくなってしまうとしたら、これらのニュースの絶望感って半端ないだろうな、と思った。つまり、「発射」というから危機感が湧かない。これを「脱出」にしたら、世間の宇宙開発への関心も一気に高まる気がする。
 あとこれを口にすると途端にトンデモ論者っぽく見られてしまうリスクがあるけれど、それでもなお言いたい、言わずにおれないこととして、アポロ11号は月に行っていないと思う。行って、さらには帰ってきたという。50年以上前に。いやいやいやいや。

 ポルガが中学生になり、部活にも入り、1年生なのでまだ本格的な体制にはなっていないのだけど、それでも部の予定表など見ると、土曜だったり、あまつさえ日曜日なんかも活動日になっていたりして、衝撃を受ける。衝撃を受けるが、考えてみたら自分も中学生の頃、バスケ部で、週末に練習試合とか大会とかに行っていた(ほとんど出場しなかったくせに)。中学生になって部活に入るとはそういうことだ、とは思いつつも、これまでの、週末は基本的に家族で、気候が良ければ公園に行ってお弁当を食べる、みたいな日々は、もうこれで終わってしまったのだと思うと、とても寂しい気持ちになる。たぶん、わが家は、やけにそういうことをするほうの家族だった。両親に、外の人間関係が皆無なので、余計にそうだったのだろうと思う。
 そして中学生になったということは、じきに進路などという話題も出てくるということだ。悲しい。もはや寂しいを通り越して、僕はそれがとても悲しい。わが子が、進路とか、そういうことに向かい合う。なんだそれ、と思う。いつまでも無垢で幼いままでいればいいものを。宮崎駿の心の叫びが、ひどく胸に沁みる。
 それは「ポニョ」のセリフだが、そうだ、僕はいま「魔女の宅急便」を観るべきかもしれない。たぶんすごく泣くと思う。想像しただけで泣けてくる。

2023年4月23日日曜日

髪染め・平井・12年

 予告通り、髪の毛を染める。やはり脱色しただけだと、脱色しただけだな、という感じの金茶色でしかないので、早急に入れないわけにはいかなかった。色は店頭で大いに悩んだ挙句、緑色っぽいアッシュみたいな、なんかそんなものを選んだ。せっかく脱色をしたのだから、栗色みたいな無難なものにするのももったいないよな、ということを思ったのだった。だから緑色と最後まで迷ったのは、ピンク色だった。結果的に、緑がかった金髪というか、くすんだ黄緑というか、だいぶ表現しづらい色合いの、なかなか悪くない感じになった。もっともカラー剤というものは、これから数日間で刻々と色が変化するので、最終的にどう落ち着くのかは分からない。とりあえず、髪もだんだん伸びてきて、形が自分の中で徐々に受け入れるようになってきたこともあり、なんとか挫けずに済みそうだ。よかった。先週の散髪後は、本当に挫けそうだった。

 鳥取県の平井知事が、今話題のChatGTPを、県の機関で使用することを禁止したという話の中で、映像で実際にそれを発しているところは見つけられないのだが、「ChatGTPに頼らず、ちゃんとじーみーちーにやっていくべき」みたいなことを言ったそうで、ChatGTPというものに関しては、当座のところ自分には無関係なのでなんの感情も持っていないのだが、ChatGTPそのものには思うところがなくても、ChatGTPで遊んで調子に乗ってる輩のことはもちろん忌々しく感じていたので、平井知事のこの、奴らの盛り上がりに冷や水を浴びせるような、腰が砕けそうになるダジャレは、とてもすばらしいと思った。そもそも「チャットジーティーピー」という、扱う人のことを考えていない、作った側の事情だろう一方的な名称が気に喰わなかった。いや、気に喰わずにいたのだ、ということをこのダジャレによって気づかされた。名称のイラっと感、そして持て囃す輩へのイラっと感が、「ちゃんとじーみーちー」というダジャレによって、見事に浄化された。尊い。もっとすさまじく褒められるべきなのに、そこまでこのフレーズが世間で取り沙汰されている感じがなくて、悔しい。年末までみんなで風化させずに守り続けようよ。

 2011年に、12年後にまた記事を投稿すると宣言した「KUCHIBASHI DIARY」に、このたび記事を投稿することができたのだった。とても感慨深かった。12年は、香港割譲の99年にも通ずる、事実上の永久、みたいな感覚があった。12年したら12年後が来るのは分かっていたが、あまりにもイメージすることができなくて、来ない気もしていた。来てみれば、12年後の僕は、住んでいる場所や職業こそ変わったが、人間そのものは、当時から別段変わっていることもなくて、なるほどそれは、ブログのトップ画面に、10個の最新記事が並ぶ中で、ひとつ前の記事と最新の記事の更新日時には12年の隔たりがあるという、ただそれだけのことだな、という感じがある。記事は同じように並ぶ。年月が隔たるだけである。なんか、そういうことだな、と思った。ちょっと取り組んだことが珍しいので、あまりこの感覚は理解してもらえないかもしれない。みなさんもやってみたらいい。12年後ブログ。12年かかるけど。

2023年4月18日火曜日

あまちゃん・髪・予報

 BSで「あまちゃん」の再放送が始まり、録画して観ている。おもしろい。放送が2013年だというので、ちょうど10年前ということになる。
 10年前の本放送時は第一次島根移住の頃で、3月で酒蔵の仕事を終え、4月からは洋服のお直し店に勤めていた。その勤務は午後からだったので、「あまちゃん」はちょうどその当時の生活リズムにマッチして、朝ふつうに観ることができたのだった。ドラマ自体が格別おもしろいのに加え、このドラマには個人的にそういう感慨もある。
 それにしても、10年後の今から見ると、震災のわずか2年後に、コメディタッチのこのようなドラマをやるなんてけっこう大胆だな、と思うのだが、当時はそんなことは思わなかった。丸2年は、その丸2年の当事者にとっては、大きい隔たりなのだ。しかし10年後の人間から見ると、2年なんて直後のように思えてしまう。僕の母は1954年生まれなのだが、僕は子どもの頃、母は戦後の生まれだと感じていた。しかし実は終戦から9年も経っているわけで、もちろん当時の空気感は分かりようもないが、たぶんあまり戦後という感じではない。これは大人になってからそう思うようになった。だから下手すれば1983年生まれの自分もまた、自分の子どもや、その子どもの目から見て、戦後の生まれのように思われてしまうかもしれない。なにしろ我々は、源頼朝などと同じ、1000年代生まれなのだから。

 散髪が失敗し、テンションが下がっている。救済策として脱色はしたものの、やはり形の気に入らなさは如何ともしがたく、鏡を見るたびに落ち込んでいる。何年間かにいちど、喉元を過ぎて熱さを忘れてしまうようで、短髪を求め、その似合わなさに絶望するはめになる。一生の大半を、丸っぽい、ちょいモサな髪型でやってきたのだから、僕の顔はもうその髪型に適合する仕様になっているのだ。忘れちゃダメじゃないか。
 鏡を見るたびにテンションが下がるんだ、ということをファルマンに嘆いたら、「あんたはこれまでそんなに自分のビジュアルが好きだったのか」と驚かれた。そう言われて改めて考えてみると、まあ好きなんだと思う。自己愛。ちょいモサの自分の愛しさ。
 ああ早く髪が伸びてほしい。
 そしてこの経験を通して、しみじみと思った。
 禿げたくない。

 帰省しないでいいGWに、心が躍っている。帰省しない代わりに何をするということもない。予定がないことが尊いのである。しかしずっと家や実家でダラダラというのもさすがに、ということでレジャー的な計画を立てた。予約申し込みをするタイプのレジャーである。その申し込みをするにあたり、日取りをどうするかファルマンと話し合う。タイミング的にこの日がいいだろうと決めたところ、ファルマンが天気予報を見て、「その日は雨の予報だ」と言ったのでびっくりした。GW、まだ半月後である。週間天気さえろくに当たらないのを何度も目の当たりにしてきたのに、半月後の天気予報を、見て、そしてそういうことを言ってくる。阿呆か、と思う。それでも予約は入れないといけないので、その日に入れた。もう天候は出たとこ勝負でしょうがない。しょうがないはずなのに、もしも当日が雨だった場合、半月後の、なんの信憑性もない天気予報を見て、「その日は雨らしいよ」と言った人が、たまたまの正解を振りかざして、「ほれ見たことか!」となることを思うと、すごく嫌な気持ちになる。嫌な想像を巡らせ、水を差しておく人、すなわち正常性バイアスの真逆を行く人って、卑怯だと思う。

2023年4月6日木曜日

ポルガと卒業式・甥と屈託・とんびと稲荷ずし

 帰省のどさくさできちんと書けなかったが、ポルガは小学校を卒業したのである。卒業式は、もちろん僕も出るつもりだったのだけど、あの4連休の前日の金曜日だったので、さすがに有休を取るのが気まずく、あきらめた。ちなみに卒業式のポルガの服装は、去年作った「礼服ワンピース」。読み返したらこの記事内でしっかりと予言していたが、本当に小学校の卒業式で着せることになった。「胸に華やかな飾りでもつければ」とも書いていたが、それはたぶん学校で紅白のロゼット的なものが配布されるだろうと予想し、ワンピースの上に、このために買ったライトグレーのニットカーディガンという、とてもシンプルな感じに仕上げた。当日の写真を見たら、クラスの集合写真において、女子の6割くらいが、色彩の暴力のような袴を着ていたので、うちの子の清楚さが際立っていた。それにしても小学校の卒業式は今、あんなことになっているのか。色味的に、どうもスタジオアリス界隈の気配を感じる。ハーフ成人式もいつの間にか浸透してきているし、あの業界というのはなかなか政治力があるようだと思った。僕は娘が手作りのワンピースで卒業式に出てくれて、とても嬉しかった。

 サッカーチームの合宿で前回会えなかった横浜の甥だが、実は今回もギリギリであり、われわれが帰ってすぐ、学校が春休みに入ったタイミングで、早々に合宿に出たという。前回はたしか北関東とかだったと思うが、今回の合宿先はイタリア。……へっ? という話だが、なんでも所属しているサッカーチームは、イタリアのチームの出先機関というか、あるいは提携しているんだか、詳しいことはよく知らないが、とにかく繋がりがあるため、そういうことをするらしい。ちなみに言っておくが、甥にすばらしいサッカーの才能があって見初められて、とか、そういうことでは一切ないそうである。もちろん普通にお金を払って参加するわけで、合宿というより、レクリエーションというか、子どもの人生経験&春休みの厄介払いみたいな意味合いが強そうだと感じた。
 つい先日、甥が無事に帰宅したとのことで、現地での映像が母から送られてきた。そこに映っていたのは、最終日、向こうのサッカーチームの少年たちとハグをして別れの挨拶をする甥の姿で、向こうのサッカーチームの少年たちは、白人も黒人もいて、同世代のはずなのに甥よりもはるかに身長が高く(甥は日本でも小さいほうだ)、それなのに甥はそれらとぜんぜん臆することなくやり取りをしていたので、なんだこいつマジで、と思った。
 なんで甥はこんなに屈託がないんだろう。僕の小学校5年生時代は、絶対にもっと屈託があった。屈託の塊と言ってもよかったと思う。甥の精神に、その母、すなわち姉のほう、つまりは僕を含むこちら側の一族の血は、一滴も入っていないのではないかと思う。こんなに屈託がない人間を、僕は他にひとりしか知らない。義兄だ。
 あんなにも屈託がない人間にとって、世界はどう見えるのだろう。屈託がない、人間関係で悩んだことがなさそうな人を見るたびに、初めてのセックスがさぞ早かったろうな、ということを思う。年頃になれば、狂おしいほど好きというわけでもない、それなりに仲よくしている女の子に向かって、「セックスってめっちゃ気持ちいいらしいから試してみねえ?」くらいの感じで、セックスを行なうのだろうと思う。そして50人も100人も相手にするのだろうと思う。もちろん義兄のその類の話など聞いたことはないが、そういうイメージを持っている。イメージというか、屈託を持っている。もはや屈託こそが僕のアイデンティティだ。
 甥の姿を見て、そんなことを思った、39歳の叔父であった。

 先日のおろち湯ったり館で、ベンチに全裸で横になるのがいつものことながら気持ちよかった、ということを書いたが、実はその際、青空に桜の花びらが舞うと同時に、とんびも旋回しており、目をつむって快楽を味わいながら、頭の片隅に、(もしもとんびが、俺のちんこを果実や小動物などと見間違えて喰いついてきたらどうしよう)という思いが去来して、少しゾクゾクした。この10日ほど前、鎌倉の由比ガ浜において昼ごはんを食べようとしたら、上空を何羽ものとんびが旋回する、という出来事があった。このときわれわれが食べようとしていたのは、奇しくも稲荷ずしであった。そうだ、稲荷ずしと見間違われるかもしれない、稲荷ずしとフランクフルトに見えてしまうかもしれないと思った。サウナ後の朦朧もあってかさらに思いは巡り、「おもひでぶぉろろぉぉん」で読んだ当時の文章に、「曾孫物語」というものがあり、これは今わの際の老人のもとに、遠方に住むはずの曾孫の少女たちが次々にやってきて、なぜか少女たちが老人の肉体に唇を寄せてくるのだが、それは実は生きながら鳥葬に処されている老人の最期に見た夢であった、というなんともいえないお話で、そのことも思い出した。そして、もしも食べ物に見間違われて外気浴中にとんびに啄まれたとしたら、それはそれでいいな、僕の最終的な将来の夢、性に関する象徴的な存在となり神社が建立されてほしい、の実現が一歩近づくかもしれないな、と思った。
 結果的に、とんびはやってこなかった。桜の花びらだけが亀頭に舞い落ちた。

2023年3月16日木曜日

花粉・娘・アーティスト

 今年は花粉がひどい、ということが叫ばれていたが、あまりピンと来ていなかった。春の花粉にはあまり影響を受けない体質だからだ。ところが昨日になって、急にガツンとした攻撃を受けた。花粉症の症状って、くしゃみと鼻水が止まらず頭がボーッとなる、というのが一般的なイメージで、もちろんそれはとてもつらいのだが、しかしなんとなく愛嬌があるというか、悲愴感はあまりないものだと思う。ところが僕のそれはそういうんじゃなく、鼻水も出るには出たがそこまでではなく、ただただ体がしんどくなり、一刻も早く眠りに就きたい……、とひたすら願うだけの感じで、アルコールで酔うのでも、笑い上戸とか泣き上戸とか、そういう賑やかな酔い方なら興があるけれど、ただ気持ち悪くなってテンションが下がるタイプのやつだとなんのメリットもないように、なんか本当に救いがなく、つらかった。夜にアレルギーの薬を服んで、8時間くらい寝たら、今日はだいぶ回復した。薬はありがたいな。薬にもたれかかり、依存して生きていきたい。

 ポルガが小学校を卒業するのだ。びっくりする。3年前くらいに、銀座にランドセルを買いに行った気がするのに。そしてそのとき、6年間もあるという小学校生活は、たぶん永遠のように長く感じられるんだろうと思ったのに。信じられない。
 このところ、ポルガの小学校の卒業、および中学の入学準備と同時に、父親である僕は僕で個人的に「おもひでぶぉろろぉぉん」をしているため、それで余計に感慨深くなっている。39歳の今の僕と、22歳の大学4年生の僕と、12歳の小学生から中学生になろうとしているポルガと、そして僕がポルガに対してたぶん一生抱き続けるのだろう5歳児くらいのイメージが、まるで「This is us」のように入り交じっているのだった。
 ポルガは今年度、集団登校の班の班長をしていたのだが、代替わりによって、これまで副班長だった子が班長になり、そして4年生となるピイガが副班長だそうだ。ピイガが副班長。なんだそれ。あの2歳児が副班長だなんて。

 音楽のサブスクのやつを契約したのだが、そのアカウント作成の際に、「好きなアーティストを3組挙げてください」と言われ、大いに悩む。これまでの人生で、そんなこと考えたこともなかった。挙げたら単にその歌手の曲を案内されるだけのことなのだが、その回答によって、人生観であるとか、人間性であるとか、心の内を見透かされるのではないかと思った。
 そして大いに悩んだ末に僕が挙げたのが、「MAX」「桜田淳子」「純烈」だった。
 いったいどんな心の内なのか。

2023年3月5日日曜日

ブッダ・豆腐・プール

 ポルガが、「図書館で本を予約したので仕事の帰りに図書館に寄って借りて帰ってほしい」というので、軽い気持ちでカウンターに赴いたら、職員が書棚から持ってきたのは愛蔵版の分厚い「ブッダ」(手塚治虫著)全8巻だったので戸惑った。
 苦労して持って帰ったから、というわけでもないが、せっかくの機会なので読んでみることにした。手塚治虫って、読み始めたらおもしろいことは分かっているのに、なぜか能動的には読もうという気持ちにならない。きっかけを与えられて、初めて読めるのだった。
 借りて帰ったのが土曜日の夜で、日曜日の夜に読み終えた。丸一日で一気にブッダの人生を駆け抜けた。そんな読み方になったのは、もちろんとてもおもしろかったからで、手塚治虫ってやっぱり半端ないな、と思った。内容的にはブッダという、仏教を作った人の伝記として読むべきなのかもしれないが、実は主人公はブッダでなくてもなんでもいいと思う。ブッダという人がどうこう、という感想は特になくて、ただひたすらに、手塚治虫がすごい、という思いばかりを抱いた。それが感想として正解なのかどうかは判らない。
 ポルガはもちろんのこと、ファルマンも読んで、しばらくわが家では「ブッダ」のワードが流行った。日常の中で「悟り開いたわ」と頻繁に悟りを開いたし、ピイガが四つん這いになったりすると、すかさず「お前はナラダッタか」などと言った。きもい家庭。

 ファルマンが実家から豆腐をもらってきて、それが翌日の味噌汁に入っていたのだけど、ちゃんとした昔ながらの豆腐屋で購った、いわゆる「いい豆腐」なのだろうそれは、普段自分がスーパーで買うようなものと違って、なんかしっかり大豆から作られている感じがあって、それが、うん、あまり口に合わなかったのだった。たぶん、たぶんではなく確実に、豆腐としては、そっちが正道であるに違いない。豆腐というのは本来ああいうもので、それに較べてスーパーの安いそれは、大豆をなんらかの経済的合理性のもとで加工したものを添加物で固めた、いわば豆腐のまがいもののようなもので、中尾彬なんかは絶対に認めないのだと思う(こういうときに思い浮かぶのはいつも中尾彬)。でももう僕は完全にそっちに染まってしまっていて、本物の豆腐は主張が強すぎて受け入れづらかった。
 だいぶ前に、道の駅で、地元の主婦が作ったというナチュラルな草餅を買って帰ったら、増粘多糖類とかが入っていない餅は硬くてパサパサしていたし、さらにはよもぎの主張も強すぎて、食べられなかったことがあった。
 それでいいのか、と少しだけ思うが、別にぜんぜんいいんじゃないの、と大部で思う。

 3月になりプールが再開して、さっそく行く。一ヶ月ぶりのプールは、それは気持ちがよかった。やっぱり泳ぐというのは、日常であの体の状態、あるいはそれに近似した状態になることが本当にないので、たまらないと思う。水中にあり、泳いでいる間、陸上の人生とは、別の世界の別の人生を生きている気がする。
 でも1ヶ月ぶりの水泳が快適にできたかと言えば実はそんなこともなく、ストレッチや筋トレなどは2月だってそれなりにしていたはずなのだけど、それでも肩回りが往時よりも強ばっていたらしく、肩を回す動作に重みがあった。これからまた頻繁に通い、心と体を整えていきたいと思う。

2023年2月27日月曜日

散髪・天文・時事

 ファルマンに髪を切ってもらう。月曜日の夜に。それなら週末に切ってもらえよという話なのだが、週末はまだ散髪の意欲が高まっていなかった。ポルガが、卒業式に向けて、人生初の美容院でのカットを行なったのが日曜日のことで、ファルマンは「ポルガも切ったし、残りはパパだけだね!」と執拗に言ってきたのだが、その時点では「まだ切んねーし!」と拒んでいた(前にも言ったが、北風と太陽効果もあったかもしれない)。しかし週が明けて出勤したところで、「切る! 絶対切る! できれば今夜切ってほしい!」というほうに針が一気に振れた。なんでかは自分でも分からない。あれほど大事にしていた長髪が、急にただの煩わしいものになった。うんこは、それまで自分の体の内側にあったのに、体の外に出した瞬間にただの汚らしいものになるが、本当にそんな感じで長い髪が急に疎ましくなった。長い長い、半年以上の排泄が終わったということなのかもしれない。
 なかなかに短く仕立ててもらい、すっきりする。短くなっての、髪を洗って乾かす作業の簡便さは、あらかじめ予想が立ったため、実はそこまでの感動はなかった。それよりも風呂上がり、バスタオルを腰に巻いただけの状態で鏡の前に立ち、頭の具合を見ようと思ったのだが、頭よりも体に目が行って、うおっ、となった。鏡の中の僕は、いい体をしていた。これまで、せっせと筋トレをしているわりにぜんぜん筋肉がつかないと思っていたが、実はそんなことはなく、しかしこの半年、筋肉がつくと同時に、髪も伸びていたので、体の成長と、頭の体積の増大が同時進行し、相対的なスケール感にいつまでも変化がなかったのだと気が付いた。それが頭の体積が一気に削減されたため、体が大きく見えるようになったのだ。ライオンの逆の作用だな、と思った。

 天体観測体験、みたいな企画に家族で参加した。さらりと書いたが、2月である。寒かったのはもちろんのこと、なにぶん山陰のことなので、雲が立ち込め、さらには途中から雨まで降り、なかなか十全には観測できなかった。もっとも観測のために山の中へ行くとか、そういう本気の催しではなかったので、そこまでの被害ではなかった。
 プラネタリウムも見せてもらい、冬の夜空の説明を受ける。オリオン座や、おおいぬ座など、ほうほうと興味深く聞いた。天体の話って、取り止めがないのでこれまであまり好きではなかったのだが、わりと愉しく聞けた。これも花鳥風月みたいなものなのか、だんだん情趣が受け入れられるようになるのかもしれない。
 冬の夜空の一等星の話を、神話も絡めて説明した後、「この6つを繋げてできる六角形が、冬のダイヤモンドです」などと言われ、思わずキュンとした。説明役は坊主で小太りの眼鏡の中年男性だったのだが、それだのに。天文話はずるいな。

 「フレーズで振り返る20年の歩み」に投稿もしたのだが、2005年の9月に僕は携帯電話を新しくしていて、それまで持っていた携帯電話について、「メモリースティックがパソコンで読み取れなくて不便だった」と書いていて、わー! となった。
 メモリースティック!
 ソニーの携帯電話を使っていたので、記憶媒体がメモリースティックだったのだ。メモリースティックという存在を、本当に久しぶりに思い出した。言葉は思い出したが、形状が画像として浮かばなかったので、わざわざ検索した。そうしたらやはり、わー! となった。
 18年前の日記、おもしろい。その少し前には、ホワイトバンドについても触れていた。時事ネタも、15年以上経つと感慨深くなるので、書いておくべきだな、と思った。

2023年2月18日土曜日

ペース・寒さ・長髪

 19年分の日記ということは、すなわち228ヶ月分の日記ということである。20周年である来年の2月6日までにそれを読み終えようと思ったら、2日で1ヶ月超を読まなければならない計算になる。
 それは無理ですよ。
 2月に入って本格的に開始したこの作業、半月が過ぎ、2004年9月(の途中)から、2005年6月までようやくたどり着いた。これでやっと9ヶ月。半月のノルマが9ヶ月から10ヶ月なので、ギリギリセーフである。しかし開始早々からギリギリセーフではよくないだろう。だって、どうせ途中でダレる。断言する。ペースは絶対に落ちるのだ。それなのに最初から平均点では、だいぶ見通しは厳しい。
 (読み返し作業をする身にとっては)幸いなことに、あまり書いていない期間というのも存在する。しかしその一方で、こいつブログしか人生の娯楽がなかったのかな、というくらい異様に書いている期間もある。そして頻度としては後者のほうがよほど多い。
 あまりにも遠い、まだ21歳の頃の日記を眺め、そのあとに起るさまざまなことを経た今の自分は、今の自分に至るまで、そこにたどり着くまでの日々に綴られた情報量の多さが実感として察せられるので、その怒涛さに、クラクラする。
 もちろんとても愉しいのだけど。「おもひでぶぉろろぉぉん特設サイト フレーズで振り返る20年の歩み」、日々更新しております。これを見れば読み返し作業の進捗状況が一目瞭然という仕組みです。

 寒さが身に沁みる。正月が終わったあと、「これからは年末年始というゴールが失われた、ただの陰鬱な山陰の冬である」というようなことを書いた。本当にそうだ。2月に入り、もう寒さのピークは過ぎたな、と自分に言い聞かせるように主張したけれど、実際のところまだまだ寒い。日は少しずつ長くなってきた感じがあるが、寒さはまだ変わらぬ威力で続いている。寒さは一定だが、心はすり減っているので、1月よりつらみが強い。
 つらみと来ればセットで付いてくるのがうらみで、前向きなのかなんなのか自分でもよく分からないが、あったかくなったらこの野郎、覚えとけよ、という、一族を抹殺された少年のような思いが、頭の中に巣食っている。春になったら、この鬱憤をとことん晴らしてやる。せいぜい覚悟しとけよと、一体なにに差し向けたものか自分でもよく分からない、並々ならぬ敵意がある。くじけず生き抜くための精神作用なのだろうが、あまり健全ではないな、とも思う。寒い国の戦争意欲を理解することに繋がってしまうから。

 髪をとことん伸ばした。具体的にいつからだったかもう定かではないが、伸ばすほうに振れた時期がよかったように思う。男にとっての長髪に移行する時期と、秋から冬への寒さが増してくる時期がうまく噛み合い、髪を切らない大義名分が得られた。去年もそんなことを言ったような気がするが、今年は、今は、人生でいちばん髪が長い。「アトムの童」の山崎賢人くらいの長さ。外出時は必ずゴムで結っている。
 しかしいつまでも伸ばすわけではない。自分の中でも潮時は感じ取っている。乾かすのも時間が掛かるので、もう少し暖かくなれば、切るのもやぶさかじゃない。やぶさかじゃないのだが、他者から、他者というかファルマンなのだが、「切れ」だの「見苦しい」だのと言われるたびに、「なにを!」となり、散髪のタイミングがどんどん後ろにずれ込むのだった。まんま「北風と太陽」である。乱暴に取っ払おうとされるたびに、僕は必死でコートを守ろうとする。そのような類の言葉を掛けられるたびに、そこまで信念のあったわけでもなかった長髪が、必ず守らなければならないもののようになる。今のこの長さは、そんなファルマンの口さがない言い様を養分にして醸成されたと言っても過言ではないと思う。
 春になれば切る。切って、今度はまた色かな。

2023年2月8日水曜日

獲得・時計・妹

 日記の読み返しが、2005年の2月6日を迎えた。すなわちcozy ripple開設1周年である。
 ちょうど節目のその日、僕は架空の生き物の生態を解説する「ikimono」という企画の50匹目として、クチバシを発表していた。なんとなく覚えているが、クチバシははじめから考えていたわけではなくて、30匹目あたりまでやったところで思いつき、これはすごいキャラクターだと瞬時に確信したので、31匹目にはせず、1周年の日の50匹目という、華やかな舞台を用意したのだった。
 この瞬間のことを、こうして18年後に読み返して、このときに僕はようやくクチバシを獲得したのだな、ということを思った。このあとヒット君も生まれるし、結婚もするし、娘たちも生まれる。いろいろ得た。大げさに言えば、自分が生きた証のようなものを。
 翻るにその以前、20歳やそこらの頃、僕は若さと自尊心以外、ほぼなにも持っていなかったのだな、と思った。渡り鳥が、身ひとつで海を越えることを、なんて無謀な行為だろうと思ったりするが、人間だって実は同じようなものかもしれないと思った。

 職場の、自分が受け持っている場所に、デジタルの置時計が置いてあるのだが、その表示時刻が狂っている。実際は10時20分なのに、表示は「07:20」。ちょうど3時間ズレている。3分とか5分とかじゃなく、3時間で、分に関しては正確なので、最初に見たときは「時差なのかな?」と思った。日本時間からマイナス3時間。サイトで確認すると、バングラデシュやブータンなどがその時差に当てはまるらしい。しかし職場にその国籍の人はいないし、以前にいたという話も聞いたことがない。でもなぜか、かの国の現在時刻を表示し続けている。毎回、目にした表示時刻に3時間を足すのが億劫なので(「11」だから、午後2時だな、などと無駄な思考をしなければならない)、時刻合わせをしようと試みたりもするのだが、なぜかぜんぜん融通が利かない。いくつかあるボタンを、同時に押したり、長押ししたり、いろいろな操作を行なったが、まるで時刻合わせを受け付けてくれないのだった。この融通の利かなさは外国製のような気がしてきた。もしかしたらバングラデシュ製なのかもしれない。仕方なく今日も頭の中で3時間を足して時刻を確認している。
 ちなみに表示画面は、5秒間隔で、その3時間遅れの時刻と、日付を交互に表示していて、日付はもうダイナミックにズレている。時計によると今は6月だ。だからそちらに関してはぜんぜん気にも留めていなかったのだが、最近になって「あっ」と発見したこととして、その日付は、15時に1日進むのだった。実際の15時、すなわち、その時計の中では「12:00」ということになるが、そこで日付が進む。ということは、この時計は3時間ズレているのはなかった。15時間ズレているのだった。なんかのトリックに使えないかな、これ。

 父が死んだらどういうことになるのだろう。
 そういう話があるわけではぜんぜんないのだが、たまに思いを馳せる。
 僕は葬式に参加するのだろうか。いや、しないよな、したところでどの立場での参加になるのか、という話だ。いまどきの離婚のように、パパとママは夫婦ではなくなるけど、パパはいつまでも君たちのパパだから、みたいなことは一切なく、潔く人生からいなくなったので(結婚式に呼んでしまったことはとても後悔している)、もはや父子関係という感覚はまったくないのだった。
 ただし父の葬式が、腹違いの妹を目にする、人生で最初で最後のチャンスかもしれない、という思いはある。両親の離婚は、この腹違いの妹の受胎が決定的な要因ということでどうやら間違いなく、だとすれば離婚が僕の小学2年生の頃だったので、腹違いの妹は僕よりも10ほど年下ということになる。
 僕には、会ったことがない10ほど年下の腹違いの妹がいる、という事実は、両親の離婚の真相をなんとなく察した大学生くらいの頃からずっと頭の中にあって、今ごろ10歳くらいか、とか、今ごろ20歳くらいか、などと人生の節々で思ったりしたが、そんな彼女ももう30歳になんなんとするはずで、嘘だろ、と思う。いちども目にしたことがないけど、あの子がもう30!? と衝撃を受ける。少女という印象が強いから。見たことないけど。

2023年2月2日木曜日

続鈴カステラ・1月の報告・テーブル

 鈴カステラがないことを嘆く僕に、優しい妻が「ネットで注文すればいいじゃん。ほら、ここなら送料無料だから注文してあげるよ。いくつ買う?」と言ってくれたので、僕は「5個」と答えた。そうしたら数日後に、5袋の鈴カステラが無事に届いたので大喜びした。しかし喜んだのも束の間、その初めて目にしたメーカーの鈴カステラの、袋越しの見た目や感触が、どうも、前回の記事で言った、僕の求める鈴カステラの条件に適さないもののように感じられて、一転、暗雲に包まれた。食後、とりあえずひと袋を開けて食べてみる。果たして危惧した通り、それはさっくりタイプだった。ネットの画面でも窺えた外袋には、「しっとり!」という記述があったが、それは観念的なものだから、僕にとってはしっとりタイプじゃなくてさっくりタイプのものであっても、しっとり詐欺と訴えるわけにはいかない。さっくりタイプの鈴カステラというのは、あのいわゆるカステラの生地とは違い、どちらかと言えばブッセとか、ナボナとか、あるいは甘食のような、なんかそんな食感である。それは僕にとって鈴カステラではないし、鈴カステラではないけどこれはこれでおいしいよね、と言うにはちょっと嗜好からズレすぎてしまっている。さらには成分表を見たら、たんぱく質よりも脂質が高い。これも僕が求める鈴カステラの条件から外れる。そんなわけで、優しい妻には悪いが、失敗だった。それでも期限だけは長いので(そこがもう駄目な証拠だろう)、長いスパンで消費しようと思う。それにしても鈴カステラは店頭にない。イオンのトップバリューのものが好きだったので、店頭にないのならイオンのネットスーパーで買えばいいのではないか、と思って探るも、やはりない。どうしたって採算が合わなくなったか。これまでは100g入って90円とかだった。それはまあ、安すぎたかもしれない。75gで100円出す。どうか帰ってきてほしい。

 1月が終わった。上旬、ほとんど仕事をしないような、悠々とした日々を過したが、月間でその帳尻を合わすため、中旬下旬は土曜日も出勤の日が続いたため、結果的に仕事で疲弊した印象ばかりが強く残った月となった。
 プールはなんてったって寒いものだからあまり行けなかった、と書こうと思ったのだが、それでも8回行っている。ちなみにこれも配置のバランスが悪く、最後に行ったのは22日で、そこからあとは行っていない。さすがに寒波が来て気力が失せた。そして会員となっているプールは2月が丸々休業なので、泳ぎたい、会員だから行かないと損だ、でも寒い、という葛藤からは解放される。
 同じく射精に関しても、こう寒いとなんてったってちんこをズボンから出しづらいよ、そもそもエロい気持ちになりづらいよ、だから回数は極めて少ない、と書こうと思ったのだが、どっこいこちらは去年6月の集計開始以降、なぜか最高記録となった。本当になぜだろう。負けん気だろうか。普通に考えればそうなりそうな時候だからこそ、そうはさせるかと発奮したのかもしれない。骨みたいに硬いのに、反骨精神の塊。えらちんぽだな。

 夫婦の部屋にダイニングテーブルを設置する。おととしの年末に、リビングのテーブルを座卓に替え、テーブルは解体してずっと外の物置に入れてあったのだが、このたび、ここにテーブルがあればいいのではないかという思いが膨らみ、実行した次第である。かつてリビングにおいて、普通に家族で食事を摂るのに使っていたものなので、きちんとした大きさである。ただでさえ工業用ミシンやトレーニングベンチなどがあって狭いのに、果たして成立するだろうかと危ぶんだが、テーブルの下に、これまで部屋の隅に放置していた、布入れやショーツ入れを置けば、使用スペースはそんなに変わらないということで、なんとかなった。テーブルはなんのためかと言うと、作業台である。これまで裁断やアイロンを、僕はなんと床でやっていた。しかし長い時間やると、背中と腰が痛くなるのだった。これを解消するためには作業台があればいいのだと考え、物置のテーブルに白羽の矢を立てた。使用してみたところ、やはりいい。当然である。床よりいいに決まっている。脚の太い、頑丈なテーブルなので、裁断のローリングカッターの動きにもびくともしない。とても快適になった。去年、ショーツを130枚作る前に気づけばよかった。

2023年1月24日火曜日

20年前・鈴カステラ・寒波

 2004年の日記を読んでいたら、17年ゼミの話を書いていて、その中に「今年羽化した17年ゼミは昭和生まれ」という記述があり、衝撃を受けた。2004年は平成16年だそうだ。こんな話ばかりで、無理やり自分が年を取ったことを言いたがっているかのようだが、でもやっぱり時の流れにクラクラせざるを得ない。当時はまだ、昭和がそんなに近かったのか。つまり当時の高校生は、昭和生まれだったということになる。昭和生まれの高校生ってなんだよ。表現矛盾じゃないのか。高校生って、いつの世も、令和の象徴みたいな感じじゃなかったのか。思えばファルマンと付き合いはじめたとき、平成元年生まれの下の妹は、中学生だった。それが今年、34歳になる。すごい。20年前の日記、すごい。やばい。

 鈴カステラが店にない。
 僕と鈴カステラの関係は、高校時代から続いていて、たぶん人生中の、鈴カステラがバッグの中にある時間と、ない時間を較べたら、ある時間のほうが多いだろうというくらい、長年愛好している。書店員時代、上司に「お前がいつも鈴カステラを食べているから、どんなにおいしいものかと買って食べてみたら、別にそんなにおいしいもんじゃねえな」と言われたことがある。それくらい僕はよく鈴カステラを食べる人間なのだ(デブキャラのようだ)。
 その鈴カステラが、店にない。あるところにはある。でも鈴カステラには3種類あって、しっとりタイプと、さっくりタイプと、あとそれ以外の、砂糖掛けであったりココア風味であったりの色物に分類できるが、僕が鈴カステラとして認めているのはしっとりタイプだけであり、それが店頭から消えている。
 兆候はあった。何ヶ月か前、ステルス値上げで、内容量が減った。鈴カステラの原料は、小麦粉、卵、砂糖、牛乳、蜂蜜あたりである。昨今の物価上昇を正面からまともに喰らっているようなラインナップであり、なかなか厳しいのだろうと察し、僕はそれを受け入れた。それがこのたび、とうとう姿を消してしまった。よほど製造コストが見合わなくなったのだろうか。鈴カステラは、基本的にスーパーの均一菓子コーナーにあるが、回転ずしなどと一緒で、値段が均一ということは、原価率が高い品と低い品があるはずで、鈴カステラというのは、もともとそれがだいぶ高いほうだったんじゃないかと思う。だってどう考えても、味も、栄養成分も、鈴カステラは飛び抜けて優れているもの。
 これまでずっと当たり前のように傍にいた鈴カステラがいなくなって、僕にとって鈴カステラは、赤ん坊のおしゃぶりや、喫煙者のたばこのような、精神安定の作用もあったのだと気づいた。鈴カステラのない世界は、寄る辺がない気分が少しする。早く戻ってきてほしい。

 強烈な寒波が来ている。参ったな、と思うと同時に、そう来なくっちゃな、という気持ちもある。1月はここまで、そこまで寒くなかった。寒いのは嫌いだけど、「寒さがそこまでじゃない1月」は、別に暑いわけでも暖かいわけでもないから、なにも嬉しくない。それよりも、年間でこなさなければならない「寒さノルマ」を、早い段階で済ませ、2月の半ばあたりからは春の陽気になればいいと思う。こういうことを言うと、すぐに「2月は1月よりももっと寒いものだ」と言ってくる輩がいて、なんとなーくそんな印象もあるのだけど、でも思い出そうとしても、2月の気候のことっておもしろいくらい思い出せない。なんでだろう。28日しかないからかな。気候の印象って、30日に満たないと認識されないという性質でもあるのかな。

2023年1月19日木曜日

健康診断・車・ゲーム

 年末に受診した健康診断の結果が来る。期待通りの結果。とても芳しいものだった。いつも懸念しているγ-GTPの値(70までが許容範囲)が、去年の63からさらに改善し、今年は49を叩き出した。素晴らしい。さすがは12月、ほとんど酒を飲まなかった果以があったというものだ。ちなみに2017年は150くらいあったようだ。不健康だなー。これにより、僕はこれからの11ヶ月間、酒を好きなように飲める免罪符を手に入れたこととなる。そしてまた12月に摂生すればよい。あと去年引っ掛かった総コレステロールの値も、238から218となり、無事にA判定をゲットした(ちなみに許容は219までなのでギリギリではある)。本当に素晴らしい。やはり日々の運動の賜物だろうか。あるいは、体に無理をさせると、ただ単に本当に生活するのがつらい年頃になったので、否が応でも体の調子を整える心掛けを持たざるを得なくなったからかもしれない。不調なく暮したい。なによりの願いである。

 今年もセンター試験の季節がやってきて、先週末に実施されていた。その直前には、試験日に電車に乗る受験生を狙う痴漢の対策について報道されていて、職場で弁当を食べながらそのニュースを眺めた。そしてそんな状況で眺めたからだろうが、たぶん田舎の人、すなわち一緒にテレビを眺めている僕以外のこの会社の誰もが、このニュースのイメージを本当には理解できていないんだろうな、ということを思った。都会は電車が混む、ということは分かるだろう。そこで体を触ったりする犯罪行為があるらしい、というのもなんとなく分かるだろう。でも、田舎の人はたぶんその次にこう考えるに違いない。「じゃあなんで試験日当日くらい、親が車で送ってやらないのか」。ここが田舎の人には絶対に理解できない。僕もだんだんイメージが覚束なくなってきている。都会の車という選択肢のなさ、その圧倒的な度合は、もうだんだんとおぼろげだ。

 子どもたちがお年玉を使って、マリオカートを買う。それに合わせ、こちらは我々が少し援助をして(高いのだ)、switchの追加のコントローラーも2個セットのものを購入した。というわけで先日から我が家では、マリオカートの4人プレイができるようになったのだった。普通に考えれば、とても幸福な家庭の風景だと思う。理想的と言ってもいい。でも実際やってみたら、switchのマリオカート、めっちゃ疲れる。目も手も頭も疲れる。ひとつのカップで4コースを走るのだが、もう2コース目の2周目から3周目に差し掛かるあたりで、心底お腹いっぱいになる。3コース目からはもう惰性でやっている。自分の知っているスーパーファミコンのそれに較べて、情報量が多すぎる。現代の子どもはこんな情報量を処理できるの、できてるの、いやそういうわけじゃないよな、ただひたすらAボタンを押し続けてるだけだよな、これってそういうゲームだよな、と思いつつ、でも現代のデジタルネイティブは生まれた頃から情報の波に晒されて、情報処理能力がムキムキなのかもしれない、とも思う。なんとか息も絶え絶えにひとつのカップを終えたあとは、ほうほうの体でリタイアし、そのあと子どもたちはふたりでプレイを続けるのだった。子どもってすごい。この子どもたちが大人になって、「最近のゲームは情報処理能力が追いつかない」と言う頃、ゲームは一体どうなっているのだろう。もう2世代上の我々には、大きすぎる音は逆に聞こえないのパターンで、なんの動きもない白い画面のように見えるのかもしれない。いやマジで。

2023年1月10日火曜日

男ども・繋がり・文明

 年末年始には兵庫に住む次女一家がやってきて、実家に集った。総数で11人となる。11人中、男は3人。年末あたり、ファルマンには友達の代わりとなる母がいて姉妹がいて娘がいる! という衝撃の事実にたどり着いたが、そのことが改めて痛感させられる場であった。まあ血がまっすぐ繋がっている女性陣に対し、男3人は言わば全員が他人なので、当然と言えば当然なのだけど、それにしたって我々の連帯は希薄だな、と思った。別にそれを嘆いているわけではない。義父は息子というものに夢を持っているので、わりとぐいぐい来る。たまに僕のことを「長男」、次女の夫のことを「次男」と呼んでみたりして、それはちょっと個人的な欲望を公共の場で包み隠さず露出させすぎではないかと感じたりする。でも実際、義父は、あわよくば義理の息子たちと、本当の父と息子のように接したいと思っているのだと思う。それは、なんだかんだで僕はもう15年以上そのビームを浴び続けているので、確信している。しかし長女の夫は、自身の出自もまた思いきり女系家族で、自分以外に女はいないという環境で育ち、父親という存在と接した経験がほとんどなかったため、父性というものとどう接していいのか分からず、それどころか中年男性全般に対して嫌悪感さえ抱いているような男(今は自分が中年男性になったこともあり、そこまでではない)だったため、義父の夢はかなわなかった。次にやってきた次女の夫は、こちらは長女のそれとは正反対で、男系家族の出身だった。弟とふたり兄弟の彼は、野球にサッカー、テニスなど、ひと通りの男性の嗜みを父から教えられているような男だ。だから義父は、彼がやってくるといそいそとボールとグローブを用意して、キャッチボールをするらしい。これもまた、義父のちょっと個人的な欲望を公共の場で包み隠さず露出させすぎ事案ではないかと思う。しかしながら、次女の夫によって夢がかなったと思われた義父だったが、次女の夫は自分の実家の男たちと仲が良すぎて、父と弟と3人で年明けにサウナに行ったりするので、そのあたりのことに対する義父の心の内など聞いたことはないが、僕だったら強い疎外感を抱くと思う。俺と表面的にはキャッチボールなどして付き合ってくれるが、結局あいつの安息の場所は実家であり、同族の男たちなんだよな……、と切なくなると思う。かくしてこの男3人の仲は、いつまでも深化しない。きっと、いついつまでもしないんだと思う。

 毎年、年末にいちどだけLINEのやりとりをする関係の人がいた。毎年と言ったが、この2年ほどのことである。岡山の縫製工場時代の、2つくらい年上の女性で、2020年の6月で工場が閉鎖になり、その年末に、「いまどういう状況?」みたいな感じで向こうから連絡が来た。「いろいろあって、島根に再び帰ります」と伝えたら、驚いていた。驚いていたが、あちらも、いちど就職したがしっくり来なくて今は無職だ、みたいなことを言っていたから、やっぱりみんなしばらくゴタゴタしていたのだと思う。次に連絡が来たのはその1年後、2021年の年末で、お互いにそれなりに落ち着いた近況報告を交わした。そのため2022年の末にもメッセージが来るかと思い、少し愉しみにしていたのだが、残念ながら来なかった。この人と切れてしまうと、岡山の縫製工場時代の繋がりがほぼ途切れてしまうので、年賀状にも似たこの年中行事は、長く続けていきたいと思っていた。だったら今年は自分からメッセージを送ればいいではないか、という話なのだが、去年おととしと、年末というタイミングを守って恒例のように寄越してきた連絡をしてこなかったということは、つまりそういう意思があってのことだろう、ということを思うと、その勇気は湧かないのだった。こうして、人の住まない家が朽ちるように、僕の人間関係はさびれてゆく。やるせない。

 もしも我々がいま10代であったならば、果たしてブログをやっていたかね、という話をファルマンとする。たぶんやっていなかったんじゃないかね、とふたりとも言った。ふたりともそう言ったが、じゃあZ世代として生誕した世界線の我々は、TikTokとかをしていたというのか。そんなことあるだろうか。Z世代のあまりにもブログをやらなそうさ、ブログというもののあまりにも現代的じゃなさに、大した思慮もなく否定してしまったけれど、文章以外の表現をしている自分たちの姿もまた、あまりにも思い浮かばないのだった。結局のところ、Z世代として生誕した世界線の我々など、存在し得ないのだと思った。なぜならそれは我々ではないからだ。人格は時代によって作られる。
 インスタグラムを、思い出したように投稿しているのだけど、やればやるほど、インスタグラムに文章を書くことの無意味さを強く感じる。パソコン画面ならばまだしも、スマホで投稿を見ようとすると、文章は「続きを読む」をクリックしないと読めない。でもいったい、誰がインスタグラムで文章など読むというのか。インスタグラムを漂う人々は、別に文盲というわけではないけれど、一時的にそれに近い状態になっている。それはしょうがない。インスタグラムは文章を読むツールじゃないからだ。でも僕はどうしても、アップした画像について、言葉で説明をしないわけにはいかないのだった。この感覚は、いわゆる「古い」だと思う。時代は、ダンスとか、超絶技巧とか、言葉なしで世界中の人々に伝わる、プリミティブなものになっている。プリミティブが、最新なのだ。じゃあもしかすると、我々の世代というのは、人類の中でいちばん、ゴテゴテした文明の時代を生きたのかもしれない。僕の好きなMAXは、その象徴だとも思う。