2023年1月10日火曜日

男ども・繋がり・文明

 年末年始には兵庫に住む次女一家がやってきて、実家に集った。総数で11人となる。11人中、男は3人。年末あたり、ファルマンには友達の代わりとなる母がいて姉妹がいて娘がいる! という衝撃の事実にたどり着いたが、そのことが改めて痛感させられる場であった。まあ血がまっすぐ繋がっている女性陣に対し、男3人は言わば全員が他人なので、当然と言えば当然なのだけど、それにしたって我々の連帯は希薄だな、と思った。別にそれを嘆いているわけではない。義父は息子というものに夢を持っているので、わりとぐいぐい来る。たまに僕のことを「長男」、次女の夫のことを「次男」と呼んでみたりして、それはちょっと個人的な欲望を公共の場で包み隠さず露出させすぎではないかと感じたりする。でも実際、義父は、あわよくば義理の息子たちと、本当の父と息子のように接したいと思っているのだと思う。それは、なんだかんだで僕はもう15年以上そのビームを浴び続けているので、確信している。しかし長女の夫は、自身の出自もまた思いきり女系家族で、自分以外に女はいないという環境で育ち、父親という存在と接した経験がほとんどなかったため、父性というものとどう接していいのか分からず、それどころか中年男性全般に対して嫌悪感さえ抱いているような男(今は自分が中年男性になったこともあり、そこまでではない)だったため、義父の夢はかなわなかった。次にやってきた次女の夫は、こちらは長女のそれとは正反対で、男系家族の出身だった。弟とふたり兄弟の彼は、野球にサッカー、テニスなど、ひと通りの男性の嗜みを父から教えられているような男だ。だから義父は、彼がやってくるといそいそとボールとグローブを用意して、キャッチボールをするらしい。これもまた、義父のちょっと個人的な欲望を公共の場で包み隠さず露出させすぎ事案ではないかと思う。しかしながら、次女の夫によって夢がかなったと思われた義父だったが、次女の夫は自分の実家の男たちと仲が良すぎて、父と弟と3人で年明けにサウナに行ったりするので、そのあたりのことに対する義父の心の内など聞いたことはないが、僕だったら強い疎外感を抱くと思う。俺と表面的にはキャッチボールなどして付き合ってくれるが、結局あいつの安息の場所は実家であり、同族の男たちなんだよな……、と切なくなると思う。かくしてこの男3人の仲は、いつまでも深化しない。きっと、いついつまでもしないんだと思う。

 毎年、年末にいちどだけLINEのやりとりをする関係の人がいた。毎年と言ったが、この2年ほどのことである。岡山の縫製工場時代の、2つくらい年上の女性で、2020年の6月で工場が閉鎖になり、その年末に、「いまどういう状況?」みたいな感じで向こうから連絡が来た。「いろいろあって、島根に再び帰ります」と伝えたら、驚いていた。驚いていたが、あちらも、いちど就職したがしっくり来なくて今は無職だ、みたいなことを言っていたから、やっぱりみんなしばらくゴタゴタしていたのだと思う。次に連絡が来たのはその1年後、2021年の年末で、お互いにそれなりに落ち着いた近況報告を交わした。そのため2022年の末にもメッセージが来るかと思い、少し愉しみにしていたのだが、残念ながら来なかった。この人と切れてしまうと、岡山の縫製工場時代の繋がりがほぼ途切れてしまうので、年賀状にも似たこの年中行事は、長く続けていきたいと思っていた。だったら今年は自分からメッセージを送ればいいではないか、という話なのだが、去年おととしと、年末というタイミングを守って恒例のように寄越してきた連絡をしてこなかったということは、つまりそういう意思があってのことだろう、ということを思うと、その勇気は湧かないのだった。こうして、人の住まない家が朽ちるように、僕の人間関係はさびれてゆく。やるせない。

 もしも我々がいま10代であったならば、果たしてブログをやっていたかね、という話をファルマンとする。たぶんやっていなかったんじゃないかね、とふたりとも言った。ふたりともそう言ったが、じゃあZ世代として生誕した世界線の我々は、TikTokとかをしていたというのか。そんなことあるだろうか。Z世代のあまりにもブログをやらなそうさ、ブログというもののあまりにも現代的じゃなさに、大した思慮もなく否定してしまったけれど、文章以外の表現をしている自分たちの姿もまた、あまりにも思い浮かばないのだった。結局のところ、Z世代として生誕した世界線の我々など、存在し得ないのだと思った。なぜならそれは我々ではないからだ。人格は時代によって作られる。
 インスタグラムを、思い出したように投稿しているのだけど、やればやるほど、インスタグラムに文章を書くことの無意味さを強く感じる。パソコン画面ならばまだしも、スマホで投稿を見ようとすると、文章は「続きを読む」をクリックしないと読めない。でもいったい、誰がインスタグラムで文章など読むというのか。インスタグラムを漂う人々は、別に文盲というわけではないけれど、一時的にそれに近い状態になっている。それはしょうがない。インスタグラムは文章を読むツールじゃないからだ。でも僕はどうしても、アップした画像について、言葉で説明をしないわけにはいかないのだった。この感覚は、いわゆる「古い」だと思う。時代は、ダンスとか、超絶技巧とか、言葉なしで世界中の人々に伝わる、プリミティブなものになっている。プリミティブが、最新なのだ。じゃあもしかすると、我々の世代というのは、人類の中でいちばん、ゴテゴテした文明の時代を生きたのかもしれない。僕の好きなMAXは、その象徴だとも思う。