2023年3月5日日曜日

ブッダ・豆腐・プール

 ポルガが、「図書館で本を予約したので仕事の帰りに図書館に寄って借りて帰ってほしい」というので、軽い気持ちでカウンターに赴いたら、職員が書棚から持ってきたのは愛蔵版の分厚い「ブッダ」(手塚治虫著)全8巻だったので戸惑った。
 苦労して持って帰ったから、というわけでもないが、せっかくの機会なので読んでみることにした。手塚治虫って、読み始めたらおもしろいことは分かっているのに、なぜか能動的には読もうという気持ちにならない。きっかけを与えられて、初めて読めるのだった。
 借りて帰ったのが土曜日の夜で、日曜日の夜に読み終えた。丸一日で一気にブッダの人生を駆け抜けた。そんな読み方になったのは、もちろんとてもおもしろかったからで、手塚治虫ってやっぱり半端ないな、と思った。内容的にはブッダという、仏教を作った人の伝記として読むべきなのかもしれないが、実は主人公はブッダでなくてもなんでもいいと思う。ブッダという人がどうこう、という感想は特になくて、ただひたすらに、手塚治虫がすごい、という思いばかりを抱いた。それが感想として正解なのかどうかは判らない。
 ポルガはもちろんのこと、ファルマンも読んで、しばらくわが家では「ブッダ」のワードが流行った。日常の中で「悟り開いたわ」と頻繁に悟りを開いたし、ピイガが四つん這いになったりすると、すかさず「お前はナラダッタか」などと言った。きもい家庭。

 ファルマンが実家から豆腐をもらってきて、それが翌日の味噌汁に入っていたのだけど、ちゃんとした昔ながらの豆腐屋で購った、いわゆる「いい豆腐」なのだろうそれは、普段自分がスーパーで買うようなものと違って、なんかしっかり大豆から作られている感じがあって、それが、うん、あまり口に合わなかったのだった。たぶん、たぶんではなく確実に、豆腐としては、そっちが正道であるに違いない。豆腐というのは本来ああいうもので、それに較べてスーパーの安いそれは、大豆をなんらかの経済的合理性のもとで加工したものを添加物で固めた、いわば豆腐のまがいもののようなもので、中尾彬なんかは絶対に認めないのだと思う(こういうときに思い浮かぶのはいつも中尾彬)。でももう僕は完全にそっちに染まってしまっていて、本物の豆腐は主張が強すぎて受け入れづらかった。
 だいぶ前に、道の駅で、地元の主婦が作ったというナチュラルな草餅を買って帰ったら、増粘多糖類とかが入っていない餅は硬くてパサパサしていたし、さらにはよもぎの主張も強すぎて、食べられなかったことがあった。
 それでいいのか、と少しだけ思うが、別にぜんぜんいいんじゃないの、と大部で思う。

 3月になりプールが再開して、さっそく行く。一ヶ月ぶりのプールは、それは気持ちがよかった。やっぱり泳ぐというのは、日常であの体の状態、あるいはそれに近似した状態になることが本当にないので、たまらないと思う。水中にあり、泳いでいる間、陸上の人生とは、別の世界の別の人生を生きている気がする。
 でも1ヶ月ぶりの水泳が快適にできたかと言えば実はそんなこともなく、ストレッチや筋トレなどは2月だってそれなりにしていたはずなのだけど、それでも肩回りが往時よりも強ばっていたらしく、肩を回す動作に重みがあった。これからまた頻繁に通い、心と体を整えていきたいと思う。