2022年2月18日金曜日

蛮行・脱衣・性癖

 ダイソーで買った、200円でも300円でもない100円の、4色(黒、赤、緑、青)ボールペン&シャーペンが、やけに書き味も抜群で、嬉しいと同時に、若干のやるせない思いも抱く。大人なので、あまりにも安く、あまりにも機能的に十全なものに接すると、経済であるとか、労働であるとか、そんな部分に思いを馳せてしまうのだ。などと言いつつ、あまりにもコスパがいいので、自宅用や職場用など、何本か買い足して使っている。
 そのペンに関して、元から入っていたシャーペンの芯がなくなったので、補充しようと思い、てっぺんにあるキャップとミニ消しゴムを外したところ、穴がないのでびっくりした。これまでこういう多色ペン&シャーペンみたいなものを持ったことがないので、この手のペンはこういうものなのか、それともここに100円商品の限界があるのか、判然としない。とにかく穴がないと芯の補充のしようがないではないか。どうすればいいのか。リビングでそう嘆いていたら、ファルマンが、「ペンの先っぽから入れればいいじゃん」と言う。「って言うか私はいっつもそうやって補充してるよ」と。その内容に驚いていたら、横にいたポルガまでが、「自分もそうしてる」と言い出したので、多大なショックを受けた。シャーペンのペン先から芯を入れるなんて発想、まるでなかった。芯は後ろから入れて前から出すものと、自分の中で明確に定まっていた。そういう流れというか、矢印というか、それが僕の中にはあった。だから出口から芯を入れるなんて、蛮行ではないかと感じた。この他に聞き取り調査をできる人がいないので、果してどちらの発想がどれだけ一般的なのか、よく分からない。たまたまふたりが、世界めんどくさがりチャンピオンと、世界めんどくさがりジュニアチャンピオンである可能性もある。あとそう思うと同時に、入口と出口、穴と棒の話なので、男と女のそれぞれの観念も無意識に作用しているのだろうか、とも思った。僕はちゃんと正道に差し入れたい。でも穴がないのならしょうがない。ペン先から挿入した。ちょっと背徳的な気持ちになった。

 「パンツを脱いで寝る即効療法」という、タイトルの通りの内容の本に出会い、非常に興味深く読んだ。医師が語る科学的な論拠パートもよかったが、ページの大部を占める、「実践者による成功体験報告」がとにかくおもしろかった。それによると、パンツを脱いで寝ると、肌荒れ、腰痛、肩こり、神経痛、ぜんそく、鬱、水虫など、ありとあらゆる体の不調が改善されるようだった。
 今が冬でなければ僕もすぐにやるんだけどなあ、ということを前に書いたが、この療法が最初に流行ったのはなんと北海道で、実は裸で寝ることと寒さはぜんぜん関係ない、むしろパジャマで余計な空気の層を作るよりも裸で直接布団にくるまれたほうが暖かいのだ、みたいな記述もあり、そこまでいうなら、ということでやってみた。というより、やってみている。隣の布団のファルマンにものすごく嫌な顔をされながらも、半裸だったり全裸だったりで寝ている。その結果、どうなったかというと、そもそも僕はさしあたっての体の不調というものがないので、劇的な効果は得られようもないのだが、まあ本当に単純な感想として、なんか気持ちがいい。眠りの質とか、寝起きとか、そういうことじゃない。ちんこが出ていることで高揚感が発生し、ひと晩中、微弱な性感を得続けながら過せているような気がする。この本は、常にゴムで締め付けられていることは害悪である、という論旨なのだが、ゴムから解放された結果、常に微弱な性感が下半身を覆うようになったわけで、こんな締め付けなら大歓迎ですね。「寝るときなにを身に着けていますか?」と訊ねられたら、僕はこう答えよう。「性感だ」と。今後も続けようと思う。

 子どもの画像の整理をしていたファルマンが、僕のパソコンに繋いだハードディスク内のそれを取り込もうとした際、「ゆめ」と名付けられた、やけに容量の大きなフォルダを見つけ、子どもの映像だろうかと思い、確認しようと開いたところ、膨大な数のエロ画像のサムネイルが表示されて、それはもう、それはもうとても、ショックを受けたという。これはとても不幸な事件であった。誰も悪い人はいない。見てしまったファルマンは不幸だし、見られてしまった僕も不幸だ。もういちど言おう。誰も悪い人はいない。
 夫にそんな習慣があったことを知らなかったファルマンは、「なぜ?」と困惑したそうだ。そういうものを、見ていることは知っている。でもなぜ、なぜ保存するの? と。帰宅後、実際にその疑問を投げつけられたが、なぜ、と問われても困る。見て、見るだけより、保存するほうが、自然だろう、としか答えられない。強いて言うなら、見ていても、見たいものだけが並んでいるわけではないから、自分の性癖に合致するものだけを保存していくことによって、とても心地よいフォルダが出来上がるって寸法である、というくらいの理由か。それが積み重なって、1枚1枚はそれほど容量の大きくない画像が、映像もかくや、というくらいの容量になった。その結果、悲劇が起きた。みたび言おう。誰も悪くない。
 気持ちが悪い、とファルマンは言った。ああいう画像そのもの、ああいう世界そのものが受け入れられないし、なによりその画像が、子どもたちの写真と同じハードディスクに入っていることが耐えられない、と。それは見解の相違だな、と思った。そのふたつが同じフォルダに入っていたら、それはもちろん異常だと思うけど、フォルダは分かれていたのだ。フォルダってそういうもんだろう。分かれているんだから、なんの問題もないだろう。
 そんな僕の主張は通らず、早晩USBメモリを購入し、そこへいくらでも保存すればいい、ということになった。しかしハードディスクも、USBメモリも、同じく僕のパソコンに繋がれるのである。じゃあそれとフォルダ分けのなにが違うの、と思うが、それでファルマンの気が済むのなら黙って従おうと思う。最後にもういちど言っておく。誰も悪くない。