2022年12月11日日曜日

箪笥体制・母娘・流行語

 衣替えで箪笥の中が冬服になって以降、引き出しの中がギッチギチである。はっきり言って成立していない。開けるのも閉めるのも渾身の力を込めてせねばならないので、なるべく最小限で済まそうとして、とても狭い範囲しか使えていない。活用していない、箪笥の使い勝手を悪くする作用しかない服なんて捨ててしまえばいいという話なのだが、冬服というのは捨てるのも夏服よりもパワーが必要で、どうもその踏ん切りも付かず、にっちもさっちもいかない状況がずっと続いている。
 そんな中で、ファルマンと僕の間で、箪笥という存在への不信感が強まってきている。我々がこうして持っている服をうまく活用できていないのは、もしかすると箪笥に原因があるのではないか、という疑念である。
 箪笥には、服を収納するという機能があり、我々はその機能に対してお金を払って箪笥を購ったわけだが、どうも箪笥はそのお金を、服の収納だけでなく、箪笥を箪笥たらしめる、箪笥自身の価値向上へもだいぶつぎ込んでいる節があると思う。それは大袈裟に言うと、体制であるとか、既得利権であるとか、そういう種類の欺瞞である。我々夫婦は日本大学という所にかつて所属していたので、その手の気配には敏感なのだ。
 家財という言葉がある。また箪笥はかつて嫁入り道具であったという。わが家の箪笥はもちろんそんな上等のものではなく、ニトリとかで買った普通のものなのだが、それであっても箪笥には、服を収納する以外の部分に振っている余力がある気がしてならない。それは真摯ではない。傲慢だと思う。箪笥が、箪笥としての矜持を保つために要するエネルギーを、我々は服を収納する道具としての存在に、求めていないし、認めていない。そこにお金を払った覚えはない。
 今こそレジスタンスの時だ。服は箪笥に収納するもの、という先入観は捨て、引っ越しや模様替えのたびに多大な苦労をもたらす、肥大化し腐敗した体制は捨て去り、具体的に言うと、服が夏なら6、7枚、冬なら3枚くらい入る大きさの、使い勝手のいい機構のプラスチックケースみたいなものを、夫婦で15個くらい持っていれば、それで十分に事は足りるのだから、そうするべきだ。そうするべきだと心の中では確信しているのだけど、なにぶん肥大化した体制というのは、肥大化しているがゆえに、簡単には排除できない。その億劫さによって、体制というのはいつまでも腐ったまま君臨し続けるのだと思う。

 いつまでも夫婦ともども友達がいなく、僕はそのことについて、おととしあたりにようやく、「それでいいんだ」という感動の結論に至ったのだけど、そこまでの道のりが壮絶を極めたのに対し、ファルマンはだいぶ早い段階から、「友達なんていらない」「人間関係なんて面倒くさいだけ」と達観していて、僕は妻のそれに対して憧れと同時におぞましさを感じていたのだが、つい先日、リビングでやかましい子どもたちから避難し、夫婦の部屋にひとりこもって過し、廊下越しに響く3人の声を聴いていたとき、ある事実に気が付いた。
 妻と娘たち、とても愉しそう。
 子どもの相手で疲れると言いながら、ファルマンは娘たちと会話で盛り上がり、よく笑っている。それはまるで、友達同士のようだと思う。母と娘という関係性には、やはりそういう感じがある。もちろんそれ自体はとてもいいことだ。いいことだけれど、「夫婦ともども友達がいない」という前提は、ちょっと様相が変わってくると思う。ファルマンには、友達がいなくても、友達以上に気安く、波長の合う娘がいる。ふたりもいる。それに対し父である僕の「友達がいない」は、それ以上でもそれ以下でもなく、とても高い純度の「友達がいない」である。僕の「友達がいない」には、「だけど……がいる」がなにもない。完全無欠の「友達がいない」だ。そうか、だからだったのか、と得心がいった。なぜ妻ばかりが早々に達観し、僕ばかりが30代後半になってもジタバタしていたのか。同じ立場だと思っていたら、ぜんぜん後ろ盾が違ったのだ。妻には、母には、自分よりも長生きしてくれる、すなわち死ぬまで寂しくなることはない、確固たる保証があったのだ。ひどい裏切りだ。

 流行語大賞に「ヤー! パワー!」が選ばれなかった。それと村神様は当確だろうと予測していたので、とてもびっくりした。なぜ「ヤー! パワー!」が選ばれると思ったのかと言えば、流行ったというより、授賞式を盛り上げられるのはそれしかないだろうと思ったからだ。ベストテンのうち、毎年ひとつはそうやってギャグ枠、芸人枠を設ければ、主催者、マスコミ、芸能界、三方にとってメリットだろうと思うのだが、毎年のことながらこの選考というのはクセが強いな。
 選外と言えば、「顔パンツ」もベストテンから漏れた。道理で僕のもとに授賞式への出席の打診が来なかったわけだ。心の準備と、体の準備はしていたのだけどな。