2022年3月27日日曜日

岡山時代・ガソリン・眼鏡

 パソコンが新しくなるのに際して、画像データの移し替えなどをしていて、岡山時代の写真に目が留まる。そしてそこに写る家の狭さに、びっくりする。住んでいた当時、十分に余裕のある広さだとは思っていなかったにせよ、そこまで狭いとは感じていなかった。もしかすると、無意識にその事実から目を逸らしていたのかもしれない。なにぶん物が多かった。島根に越すにあたり、だいぶ物を減らしたのだ。これぞ引越しの大いなる利点であろう。そもそもこちらの住まいは岡山時代よりもそこそこ面積が大きいので、現実から目を背けているわけではなく、まあまあ余裕がある。余裕があるならある分だけ物を散らかすのが子どもだが、それでも岡山時代よりはマシだ。写真に写し出された情景に、本当にびっくりした。

 金曜日の出勤時、ガソリンが微妙に乏しくて、航続可能距離を見ると、出退勤できないことはないのだが、しかしそこまでぎりぎりの状態になるのは避けたい気持ちがあり、しかしながら給油は、いまとてもガソリン価格が高いこともあり、できることならば価格が安くなる週末、それも通勤のルート内ではない、行きつけの割安のスタンドでしたいという思いがあるため、とりあえず出勤時に1000円分だけ入れることにした。ところがセルフのスタンドで1000円分の給油をして車を出発させると、航続可能距離がまったく増えていない。話には聞いたことがあった。少量の給油では数字に反映されないことがある、ということを。それでも1000円分のガソリンは増えているのだから大丈夫だと思いつつ、しかし航続可能距離は給油前の不安感を覚える数字のままで、それが走っているうちにさらに目減りしていくものだから、なんとなく落ち着かなかった。これってなにかに似ているな、と思い、なんだろうと考えた結果、甘イキだと思い至った。思いっきりの射精をしてしまうとそこで話が終わってしまって寂しいので、繊細なコントロールによって、「射精エッセンス」とでもいうべき、射精とカウントされるような、されないような、絶妙な快楽を繰り返し得るという、あの行為。タンクがいっぱいになる、タンクが空になるという、真反対の現象ながら、車にとって給油が射精であるとするならば、1000円分だけの、入れたのに入れていないことになっている給油は、まさに甘イキのようなものだと思った。

 正月に買えなかった眼鏡を、相変わらず買えずにいる。先日ファルマンが先んじて眼鏡を新調したので、その際にお店で、「これはよそで買った眼鏡なんですけど、レンズだけ交換してもらったらいくらですか」と訊ねたところ、「5500円」という答えが返ってきて、やはり「むー……」となった。5500円かー。レンズしか新しくない眼鏡に5500円。うーむ。
 近ごろ、もはや眼鏡拭きでどうにかなるものではないレンズの汚れ(もとい傷)に悩まされているため、眼鏡というスタイルそのものに疑問が出てきて、そうなるとコンタクトレンズということになるが、しかし今さら家の外で眼鏡ないキャラになるのも抵抗感があるため、いっそ今のこのお気に入りのフレームの眼鏡の、汚れたレンズを外してしまい、フレームだけにしたところへ、視力方面はコンタクトレンズで解決という、そういう方策はどうだろうと考えもしたが、意味が分からないのでやめた。早く解決したい。