2020年3月14日土曜日

共学・エルドアン・パラ

 毎度おなじみコロナの話題。WHOがこのたびとうとうパンデミックを宣言したのだった。そして感染の中心はアジアから欧米へと移動したらしい。特にイタリアでは死者が千人を超えたとか。なぜイタリアか、という理由はいくつかあるようだが、その中でたぶんいちばん信憑性の低い、「イタリア人はスキンシップが多いから」という説が、心に突き刺さった。その説が成り立つのならば、もしもこの国で一斉休校の対策が取られなかったとしたら、コロナは共学高校からまず流行りはじめたことだろうなあ、と思った。そうファルマンにいったら、「あなた高校が共学じゃなかったことを引きずり過ぎ」と呆れられた。引きずり過ぎもなにも、一生背負っていく所存だ。

 世界中でスポーツの大会やリーグ戦が中止になっていて、もはや今夏の東京オリンピック開催は風前の灯状態だ。立場上「やるに決まってんじゃん!」というほかない、都知事や組織委員長の言葉が、とても哀しく聞こえる。これはもう負けが決まっている戦争の、しかし逃げることは許されない指揮官のそれだ。本当はもうみんな判ってる。こんな、ギリシャでの聖火リレーが中止になったような状況で、4ヶ月後にオリンピックができるわけがないってことくらい。それでもさすがに中止にはしないようなので、延期になるわけだ。うんざりだな。こっちはもう数ヶ月前から、もうオリンピック飽きた、本当にどうでもいい、一刻も早く終われ、と思っているというのに、ここからさらに1年とも2年ともいわれる延期。この悪夢の狂騒曲はまだまだ続くのだ。
 そんな折、コロナ対策として握手などの接触をしない代替案として、トルコのエルドアン大統領が、これまでならば相手と握手をしていた場面で、自らの胸に手を当てて、「コロナ!」と唱える、というパフォーマンスをしていた。これは、だいぶ考えた末にこういう結論に至ったのだろうということが窺え、評価したい気持ちもあるのだけど、やっぱりどうしても、結果的にコロナ教の信者みたいになってしまっているため、浸透しないだろうと思う。そこはかとなく、はしゃいでる感もある。
 そしてこのはしゃいでる感で思い出したのだけど、トルコといえば、東京とイスタンブールとで、2020年のオリンピック招致で最後まで争った国だったではないか。なんか争ってたのにやけに友好的で、東京に決まったとき一緒に喜んでくれたとか、当時そんな報道があった。それで検索してみたら、「Tokyo」が告げられた瞬間、安倍総理のもとに駆け寄って抱擁して祝福した人物こそ、当時首相であったエルドアン現大統領その人だった。それを知り、なるほど、と膝を打った。はしゃいでる感、ではない。本当にはしゃいでいるのだ、エルドアン大統領は。あのときもしもオリンピックがイスタンブールになっていたらと考えたら、そうではない今の状況が嬉しくて仕方ないはずだ。ああよかった、日本が貧乏くじ引いてくれて。

 というわけで、もう表面張力がいつ弾けてもおかしくない、今夏のオリンピックなのだけど、この事態になってからの、「オリンピックはどうなる」「オリンピックはできるのか」という話題に接して思うことは、これまで大きな問題がなく予定調和に事が進んでいる間は、「オリンピック・パラリンピック」と、絶対にふたつをセットにして呼称し、オリンピックだけが大事なんじゃなくてパラリンピックもちゃんと注目してますよ、差別しないですよ、興味ありますよ、ということをアピールしていたのに、非常事態になったらもう、化けの皮はものの見事に剥がれ、人々の口からはパラリンピックのパの字も出てこない、ということだ。いや、解ってはいたのだけど。しかしまあ、いざとなったらこうもあからさまに、パラリンピックは意識の埒外に置かれるのか、と驚く。これまでだって別に信じてなんかなかったけど、マスクの転売やトイレットペーパーの買い占めなんかも目の当たりにして、しみじみと、良識なんてものは本当に、人間社会の、それも恵まれた地域の人々の、安定した暮しの中に時おり発生する、オーロラのように希少で尊いものだったのだな、と思った。