2020年5月8日金曜日

DAIGOの功罪・味噌汁・あつ森

 官製マスクについてのDAIGOのコメント、「俺にはジャストサイズ」に感銘を受けた、という話をひとつ前の記事でして、あのときは本当に、DAIGOすばらしい、と素直に思っていたのだけど、あれから日が経って、DAIGOと加藤紗里以外の芸能人のところにも官製マスクが続々と届いているようで(岡山県のわが家にはまだ来ていない)、届いたそれを着けては、その姿を撮影してブログにアップし、それを見たファンがコメントで「顔ちっちゃい!」と褒める、というのが定番の流れみたいになっている様を見て、これはよくない、と思っている。心情的にDAIGOのことを悪く言いたくはないのだが、でもやっぱりこれはDAIGOから生まれた流れと言わざるを得ないこととして、官製マスクは今や、「小顔かどうかの判定装置」みたいになってしまっている。政策に対する不満をぶつけてマスクそのもののことを悪く言ってはいけない、それを本当に必要とする人もいるのだから、その人が着けづらい雰囲気を作ってはいけない、ということを前に書いたが、実際にはそれとはまるで別の角度から、一般人が着けづらい空気が醸成されてしまったといえる。
 そもそも官製マスクは、主に子どもが着けるのを想定しているのか(世帯分としては届いていないが、実はそれに先行して別枠で子どもたちが小学校でもらってきた)、わりと小さい。でもこれはそういう意図なんだろう、大人のサイズに合わせたら子どもが着けられないから、子どもに寄せたんだろう、と思っていた。だから大人が着けた状態としては、安倍首相のあの姿こそが正しいのだ、ともいえる。ちょっと大の大人にとっては小さい感じもあるが、そこは子ども寄りのユニバーサルサイズなのだから仕方ない、それを大人はなるべくいいポジションに当たるよう調整しようぜ、大人なんだから、というスタンス。いっっっっさいの(力を込めて)説明はないが、そう解釈してやるのが良識のある大人というものだろう。そこへ、もちろんDAIGOはDAIGOで、悪評ばかりが目立つマスクの擁護として言ったわけだが、「小さいなんてことはない」という発言が出てしまった。これで本当に話がややこしくなってしまった。
 しかしこの混迷する状況には、大きな商機が隠されていると思う。ガーゼが手に入れば、という前提だけど、官製マスクの作りはそのままで、実はふた回りほど大きく作ったものを売ればいいのである。「小顔かどうかの判定装置」となっている官製マスクの、シークレットシューズみたいなバージョン。これを着ければ、別にぜんぜん小顔ではないあなたも、「#俺にはジャストサイズ」。たぶんすごく売れると思う。でも官製マスクは出品禁止か。

 昨日「ケンミンSHOW」を観ていたら、大阪特集の中で、大阪では一般的な和食の献立の際、左手前にごはん、右手前にメインおかず、そして左奥に味噌汁、というふうに配置をする、という話をしていて、とても驚いた。いわれてみたらそのほうが、「左手前にごはん、右手前に味噌汁」よりもよっぽど合理的だ。ごはんと味噌汁には、「椀を左手で持ち上げて食べる」という共通点があり、おかず皿にはそれがない。だとすれば、椀を持ち上げる必要のあるそのふたつを左に置くのは理に適っている。逆にいえば、味噌汁を右に置くのはなんの理にも適ってない。それだのに僕はこれまでの人生で、せっせせっせと味噌汁を右に置き、子どもたちにもそうしつけていた。なんと不見識だったことか。食事に関する不見識といえば、以前どこかで、「箸なんて形状の道具が、物を突き刺して食べることを想定していないはずがない」という文言を目にして、それもそうだ、と目から鱗が落ちたことがあった。日常の中に不見識は溢れている。不見識は、不見識であるがゆえに、不見識な状態のさなかにある間はそのことを認識できない。だからその蒙が啓かれるとすごく驚きがある。ファルマンにこのことを話し、「だからわが家はこれから味噌汁は左奥に置こう」といったら、「あなたってわりと影響されやすいよね」と呆れられた。柔軟といってほしい。

 外出自粛の影響もあり、「あつまれどうぶつの森」が大いに売れているという。義妹たちもやっているようで、ゲーム画面を見せてもらったのだが、僕にはどうにもあのゲームの魅力が理解できないのだった。そもそもあれをゲームといっていいのだろうか。あれは要するに、このコロナ禍で精神が参った人たちがすがる、箱庭療法みたいなものだろう。なんかあの世界に横溢する、空虚な明るさみたいなものが、傍から見ていてとても恐ろしく思える。あの世界に浸ったあと、現実のコロナのニュースを見たら、落差で余計につらくなるのではないだろうか。心配だ。ウザいおっさんだな。