2024年4月11日木曜日

ファルマン41・僕と電車・ぶりんばんばん

 ファルマンが41歳になったことについて、改めて書いておく。
 日々「おもひでぶぉろろぉぉん」をやっていることもあり、あの23歳だったファルマン(ちなみに当時の呼び方は「恋人」である。恋人という呼び方!)が41歳ということに、衝撃を受ける。しかしどうしたって去年の、自分がまだ30代なのにファルマンだけ先に40代になったときほどの昂揚感はない。よく見れば41という数字には、40にはないジトっとした奥行きみたいなものがある気がするのだけど、それは顕微鏡とまでは言わないが、ルーペを使わないと視認できない程度だと思う。残念だ。あのスカッとした喜びは9年後を待つしかないのか。
 ブログを書かなくなったファルマンが近ごろどうしているのか、関係者として報告しておく。ファルマンは日々、子どものことを中心にいろいろなことを心配し、またさまざまな事柄を面倒臭がり、そしてテレビドラマに癒されながら、とりあえず健康そうに生きている。なによりだと思う。41歳という輝かしい1年を、溌溂とした猛ダッシュで大笑いしながら駆け抜けてほしい。

 先日岡山に行ったことを契機に、電車のことに思いを馳せた。ポルガがかつての最寄駅から岡山駅に行ったり、またこの日は岡山と山陰を結ぶ特急列車「やくも」の新型車両の運転開始日であったりと、なにぶん普段の生活が電車とは本当に縁遠いので、実際のところ自分は利用していないのだけど、最近の暮しの中では最も電車に近づいた日だと言えた。
 しばらく乗っていないせいか(去年の3月の帰省以来乗っていない)、僕の電車処女膜は完全に再生してしまっていて、生娘のようにいたずらに拒否する気持ちが湧いている。拒否というか、怖いのである。なにが怖いって、自分が運転していないのに進む車窓の景色が怖い。それでも完全に知らない土地の風景であれば、ディスプレイを眺める感じで無でいられるだろうが、それが地元の知っている場所であった場合、自分の意志とは関係なく勝手に進んでいることや、普段との視界の高さの違いなどから、自分の世界が、そっくりの異世界のように思えてしまって、それが怖ろしいと思う。
 なんと、なんと田舎者の発想だろうか。書いていて自分で驚いた。もはやここまで来た。毎朝満員の田園都市線で渋谷まで行き、井の頭線に乗り換えていた高校生が、とうとうこの地平までやってきた。いまでは女房子供持ち、この先どこまでゆくのやら。

 春休みということで3月末から先週まで、またファルマンの上の妹とその娘たちが実家に来ていた。1月、2月、3月、4月と、今年はここまで毎月会っている。
 ファルマンと子どもたちは、こちらももちろん春休みで暇なので、日々実家へ出向き、姉妹なり従姉妹なりと、それぞれたっぷりと交歓していた。
 僕も2度ほど顔を合わせたが、ぼちぼち満2歳となる次女は、やはり心を開いてくれることはなかった。しかし拒むは拒むのだが、完全に無碍だった長女と異なり、次女の拒み方は「あらら、人見知り時期だからしょうがないね」とほほえましい気持ちになるような、血の通った感じがあり、拒まれた側としてもあまり悲壮感は湧かないのだった。
 それでもなんとか気を引こうと奮闘し、上の妹にアドバイスを求めたら、「Creepy Nutsの『Bling‐Bang‐Bang‐Born』で踊ったりするよ」という答えが返ってきたので、それを聞いて僕はどうしたかと言えば、なんの迷いもなく「ぶりんばんばん……」と唄いながら、あの腕を左右に揺らす振り付けをしてみせたので、我ながらびっくりした。おっさん、親戚の小さい子に受け入れてもらいたくて、そんなことしちゃうのかよ! と。パピロウ変わったな! 俺の知ってるパピロウは、そんなのプライドが邪魔して絶対にしなかったよ! と。
 でも2歳児、少しだけニコッとして、一緒にちょっと腕を振ってくれたので、よかったです。もう乳幼児のそういうのが享受できれば、それでいいのです。