2019年9月5日木曜日

ドラゴンボール・石田ゆり子・男根

 なんとなくはじめたドラゴンボール短歌がことのほか愉しいこともあり、やっぱりドラゴンボールの単行本が手元にあるといいな、という機運がにわかに高まり、ネットの古本屋でぽつぽつと集めていくことにした。それで最初の数巻を手に入れて読んだ結果、あることに気づいた。
 それは、鳥山明は「修行=重いものに耐えること」だと思っている節がある、ということだ。既に先のほうの巻を読んでいるので知っているが、悟空はこれから、重たい道着を着たり、重力の強い環境に身を置いたりする。すると、それから解放されたとき、めっちゃ強くなっているという寸法である。それらのエピソードは有名なので覚えていたが、今回はじめのほうを読んだところ、亀仙人による修行においても、重たい亀の甲羅を背負っていた。そして、修行の内容というのはほぼそれだけなのだった。そのまま天下一武道会に出場することになった悟空とクリリンは、「ほとんど修行をつけてもらってないのに……」と不安がるが、やってみたら桁違いに強くなっていたのだった。なぜか。それは重いものに耐えていたからだ。本当にそれだけなのだ。「ギャグマンガ日和」の、強さのインフレをテーマにした漫画で、主人公がどんどん化け物じみた(外見的にも)強さになっていき、その秘訣を訊かれたところ、「飲尿法」と答えるというのがあったが、あれはそのままドラゴンボールだったんだな。鳥山明は重いものを持つトレーニングに、ちょっと幻想を抱きすぎているのではないかと思った。

 石田ゆり子のインスタが炎上した一件にとても感銘を受けた。
 石田ゆり子はインタビューを受ける際、インタビュアーが彼女のインスタグラムで予習をして、その流れに乗った問答をするのが、おもしろみがなくて嫌だ、みたいなことを書いたらしい。それで炎上して、記事を削除した。ここまでならごく普通の出来事(炎上という出来事が普通であるというのは異常である)なのだけど、この一件はここからがよかった。当該記事を削除したものの、釈然としない気持ちを抱えていた石田ゆり子は、新たに自分の考えを主張するための記事を書いたのである。そこには、インタビューは人と人の出会いなので、その場その場で生まれた感情でやりとりをしたいと考えている、みたいなことが書かれていたそうで、そのことは別に、そもそも僕とは無関係なのでどうでもいいのだが、そのあと今回の炎上についても触れ、その中にあった「記者の人がかわいそう」というコメントに対して、石田ゆり子はこう言ったのだ。
 勝手に物語を作りすぎ。
 これがとてもすばらしいと思った。この切れ味。ネット界の、当事者でもなんでもないくせに、「〇〇がかわいそう」という理由でバッシングをする輩を、いったいどう懲らしめればいいのか、ずっと名案が浮かばないでいたけれど、こう言えばよかったのだ。本当にそうだ。これが「おまえ関係ないだろ」とか「余計なお世話だ」では、この場合で言うと、記者が哀しがるのは事実だとして話が進んでしまう。そうではない。哀しがっている記者なんて、別にいやしないのだ。それは彼らの心の中にだけいて、それはつまり哀しがっている記者を生んだのは彼ら自身だ、ということなのだ。
 言ったのが石田ゆり子、というのがまたいい。炎上上等だぜ、みたいなB級タレントが言ったのではない。石田ゆり子が言ったのだ。インターネットの世界に毒されていない(たぶん)石田ゆり子が、まともな頭で、彼らを見てそう思ったのだ。この透き通るようなまっとうさに、心が浄化されるような感動を覚えた。

 実社会でほとんど人と話さず、ましてや雑談などは皆無と言ってよく、それでいてインターネットではこうしてべらべらと、言いたいことを言いたいように言っているため、だんだん一般的な感覚というのがぼやけてくるのだけど、ときに「男根」という表現は、日常生活で普通に使っていいものだったっけ、よくないものだったっけ。「肉棒」はダメ、官能小説の言い回しだ、という感覚はまだ失っていないのだけど、「男根」はどうも怪しいのである。本当に判断がつかない。「男根崇拝」と、民俗学などで用いられたりする気がするので(ちゃんと学んだわけではないが)、けっこう一般的な言葉のような気もするのだけど、その一方で一般的な場面で「男根」と言っている人を見たことはない。くだけた場面では「ちんこ」とか「おちんちん」とか、あるいは『俺と涼花』では「ちんぽこ」とか、そう呼ぶとして、それでは格式張った場面ではどう呼ぶのだったっけと思い出してみると、やっぱりそれは「男根」であったような気もしてきて、「男性器」と「男根」が半々くらいの割合で使われていたんじゃないかな、と思えてくる。実際のところ、どうだったろう。