2019年8月29日木曜日

内輪・かわいや・命綱なし

 オリンピックの話題にいよいよ飽きた、ということを「おこめとおふろ」に書いたが、あの世界のどの部分にクサクサしているのかと言えば、代表選考の大会などでいい結果を出した選手たちが口にする、周囲の人たちへの感謝の言葉だ。あれがすごくつまらない。それはいまどき、設備とか指導とか、大勢のプロフェッショナルに面倒を見てもらわなければ、選手個人の才能だけでは頂点に至ることは難しいんだろうと思う。でも我々はそんな部分にまで思いを馳せようとは思わない。この選手すげえ、までが精一杯だ。この選手を支えた周りの人たちすげえ、なんて思う心の余分はどこにもない。だから優勝のインタビューなどでは、選手は世間一般の人々と一対一で向き合い、そこへ向けたことしか言わないでほしい。サポートしてくれた人たちへの言葉は、優勝報告のパーティーとかでしてほしい。あれは本来そういう内輪の場で言うべきことだろう。内輪ウケする話を聞かされても、外部の一般人はぜんぜんおもしろくない。どんどん冷める。そして完全に冷めきった状態にあるのが今の僕だ。もはや来年開催されるのは五輪ではない、内輪ではないかとさえ思えてきた。うまい。

 Twitter、はじめてみたらそれなりに愉しい。Twitterの何が嫌って、自分のページのはずなのに人のツイートがおんなじように並んでぐちゃぐちゃするのが嫌だよ、と思っていたが、あれってフォローとかリツイートとか、なんかそういうことをしないと別にそうはならないのだと、やってみてはじめて知った。それならいい。
 それにしてもパピロウがTwitter。思えばタブレットを持ってLINEもはじめたし、やる前さんざん唾棄しておきながら、僕はなんだかんだでやりはじめるんじゃないか。かわいいな。受け入れるまでに時間がかかるだけで、つまり流行に敏くないだけで、世間に遅れてやりはじめるんじゃないかよ。本当にかわいいな。

 先週末は、会社の上司が地元の祭りに参加し、同僚がフェスに繰り出し、妻が映画を観にいっていて、僕の狭い人間関係の中でちょうどそんなことが重なったので、思うところがあった。僕は祭りに参加しないし、フェスに繰り出さないし、映画も観にいかない。そもそも「興味・関心のあるイベント」というものが、この世にまるでないのだ。
 いいのか、とさすがにちょっと思った。もしかして僕は、とてつもなく無気力な、つまらない人間なのではないだろうか。誰かのファンということもないし、他人と喜びを共有したい気持ちもない。果たして大丈夫なのか。
 思わず不安になってファルマンに相談したら、「あなたは自分で自分を盛り上げられるんだからそれでいいんだ。他の人はそれができないから外の世界に頼るのだ」と諭され、なんとなく納得した。続けて「それはすごいことだよ」と褒められもしたのだけど、じゃあもしもどこかで自分自身がポキリと折れてしまったらば、僕はどこにも掴まることができず、そのまま奈落の底まで落ちるほかないのか、とも思った。