2026年1月2日金曜日

 

「hophophop」は「OREGAYO」に収束しました。

2025年12月31日水曜日

義弟の誘い・松江・スクラブ・そして大切な読者のみなさまへのお知らせ


 年末年始ということで、もちろん兵庫の次女一家が帰省してきている。
 わが家も一家で顔を出したところ、夫の姿がない。次女に訊ねたら、「向こうの父親や弟とサウナに行った」とのことで、今年もまたやられた、と思った。そういうことをするときは僕にもひと声かけてくれって言ったじゃん! お義兄さんカンカンだったよ、って伝えといてよ! と次女に言づけた(実際に伝えたかどうかは知らない)。言づけてから、毎年忸怩たる思いを抱くだけで、実際には「そういうとき俺も誘ってくれよ」と直接伝えているわけではないかもしれない、すっかり伝えた気持ちになっていたが、心の中で思っているだけで口には出していないかもしれない、とも思ったが、まあ別にどっちでもいいのだ。横で話を聞いていたファルマンは、「あなた本当に誘ってもらったってどうせ行かないでしょ」と窘めてきた。それはまあ、たしかに行かないだろう。次女の夫ひとりでも一緒に行かないものを、次女の夫の父と弟らとご一緒するはずがない。ご一緒するはずがないのだが、世の中にはご一緒するはずがないサウナしかないのだが、それでもお伺いだけ立ててほしいのだ。お伺い立てられたガーリーなのだ。そんな早口言葉みたいな言葉を作らなくても、要するに構ってちゃんなのだけども。

 冬休みのちょっとしたレジャーというわけでもないが、先日松江に行ってきた。26日で今年の最終放送だった「ばけばけ」は、ラストシーン、夕焼けの宍道湖のほとりでトキとヘブンの心が結ばれるという感動の締め方で、その前から松江行きは予定していたのだが、これは宍道湖をきちんと巡礼しなければならんということになり、行きだけ高速道路ではなく地道で行った。もっとも宍道湖というのは大きく、あのラストシーンがどこで撮影されたのか(そもそも本当に宍道湖なのか)はよく分からないので、数年前にカヌー体験をした道の駅に立ち寄り、そこから宍道湖を眺めることにした。そうしたら、思った以上に本物に近い風景が広がっていて、夫婦ともどもだいぶ満足した。そしてなにより驚いたのは、それくらいいい感じの宍道湖フォトスポットに、あの感動的な放送回から2日後の日曜日だというのに、われわれ以外まったく人がいなかったということだ。午前中だったからだろうか。夕方だったらさすがに人がいただろうか。もしも本当にここで撮影がなされたのだとしたら、撮影時、人払いの必要がまったくなくてやりやすかっただろうなあと思った。そして松江ではカラコロ工房にも行って、「ばけばけ」展を観てきたのだった。すっかり嵌まっている。ご当地の朝ドラがきちんとおもしろくて嬉しい。

 作る水着がハーフバック気味になったことで、尻の見栄えを気にするようになり、筋トレも積極的に行なっているが、同時に美容面としてボディスクラブを購入し、せっせと皮膚を磨いている。最初にやったとき、それまで自分の肌がザラザラしているという自覚もなかったが、手なのか尻なのか、あるいは両方なのか、スクラブを流したあとのトゥルントゥルン具合に衝撃を受けた。42歳男性でこんなにトゥルントゥルンな尻たぶがあるかよ、と思った。それ以降、定期的にスクラブによるマッサージを行なっているが、感動は少ない。もう常態としてだいぶトゥルントゥルンしているというか、ザラザラの蓄積がないのだ。それはいいことなのだけど、同時に少し切ない。もうたぶん僕はこの人生で、何十年もスクラブをしなかったザラザラを磨いてトゥルントゥルンにしたときの、あのギャップを味わうことはできないのだ。それは仲間にしたばかりのレベルの低いキャラクターが、はぐれメタルのような経験値の高い敵を倒したあと、テレテテッテテッテーが何度も鳴り響くときの、あの爽快感に似ている。でもいちどそれをやったあとは、もうはぐれメタルを倒してもひとつくらいしかレベルアップしなくなる。そんなことを思いながら、日々せっせと地道なレベル上げをしている。

 そしてこのブログの仕組みを根底から覆す4つ目の話題として、このブログを読んでくれている人に報告がある。
 2018年から始まった「hophophop」、突然だが、今回が最終回である。7年間、35歳から42歳まで、パピロウのそこまで長々と語るわけではない話題を綴るために存在していたブログだったが、このたびその役割を終え、幕を閉じる運びとなった。ブログというのは、あるとき明確にその役割を終えるのだ。ブログって、そうなのだ。ブログってほら、例のあれと例のあれを、繰り返すものですからね。次の展開をお愉しみに!

2025年12月21日日曜日

不服・不毛・不慮

 裸で寝ることを、ファルマンがいまだに許容しない。許容しないと言っても、僕が裸で寝るのを禁ずる権限をファルマンが持っているわけではないので、ただ「信じらんない、やめてよ」とひたすら言い募るだけである。そんな暮しを、もう3年とか4年とかしている。当初は、「はじめはそんなことを言っていた妻でしたが今では私以上に……」のパターンだろう、その丁寧な前フリなのだろうと思っていたが、どうやらファルマンという人は本当に、裸で寝ることを是とはしない人のようだと、近ごろでは達観した僕である。ならばファルマン側も僕の所業について達観すればいいものを、布団に入ろうとするなりやおら裸になる僕を見て、いつまでも初々しい反応で、「信じらんない、やめてよ」と唱え続けるのだった。ちょっと僕の乳首とか性器について、過剰な反応をし過ぎなのではなかろうか(いや分かるけども!)。
 日々よほど忌々しく思っているのか、僕に体の不調が訪れると、そのすべてを裸で寝ているせいにする傾向がある。「少し洟が出る」「裸で寝るからだ!」、「なんかここが痒い」「裸で寝るからだ!」というふうに。それはまるで、なんの科学的根拠もない村の因習を頑なに守ろうとする老人のようだと思う。寝るときゴムで腰を締め付けるって、本当に因習以外の何物でもないだろ、と強く思う。

 今年の春、Netflixで「白い巨塔」を観たとき、「不毛地帯」も配信されたらいいのになー、ということを書いたが、このたびめでたく配信が開始されたのだった。それで愉しく観ている。放送当時の視聴者もそうだっただろうが、意気揚々と観はじめた第1話がひたすら、だいぶテンションの下がるシベリア抑留時代の話で、それが2時間あるので、なかなかハードだった。いまは主人公はもう商社に勤め、戦闘機のことであれやこれやしている。こちらはこちらで緊迫感があるのだが、そんな中で唐突に井之頭五郎が出てきたので気が抜けた。もちろん井之頭五郎ではないのだが、スーツを着た松重豊は、それはもう井之頭五郎なのである。戦闘機の契約のことで防衛庁を相手に暗躍する井之頭五郎。お腹は減っていないのか、減っていないのだとしたらなにを食べたのか、そんなことばかりが気になる。

 触れたら負けだと思いつつも、さすがに、ということであえて触れる。
 毎年恒例、今年の漢字が、「熊」だった。
 この企画の、一切の忖度のない、操作のない、絶対的な多数決によって選ぶ姿勢は、ここまで来れば逆にすばらしい気もしてくるけれど、しかしそれにしたって「熊」である。それはないだろう、と言いたくもなる。
 じゃあ「熊」じゃなくて何ならいいのか、と問われると、それはどうしたって「熊」からわずか180票差で2位だったという「米」とか、あるいは3位の「高」とか、まあそこらへんなら無難ということになるのかもしれないが、しかしこうして書いていて感じるのは、「米」や「高」だったら何だってんだ、ということで、これがこの企画の「触れたら負けさ」だとしみじみ思うが、そもそもが漢字1字では、1年間を表すことなど不可能なのだ。それを言ったらおしまいなのだが、実際そうなのだ。根本的な企画が無茶なのに、選出形式も無茶だから、もはやパンクの領域だ。そしてパンクの領域なのだとしたら、「熊」というのも案外ふさわしいもののようにも思えてくる。すごい力業。清水寺を使うあたりに、権威を利用してやろうというしたたかさも垣間見え、実は流行語大賞などよりもよほど強靭にできているのかもしれない、とも思う。他人の感情を気にしない剛腕ほど強いものはない。

2025年12月12日金曜日

歴史・徴兵・カラオケ


 おらが県が舞台の朝ドラ「ばけばけ」を、引き続き愉しく観ている。もちろん朝の放送を録画したものを夜に観るスタイルなのだが、先日リビングに現れたポルガがテレビを観て、「これって何年前くらいの話?」と訊ねてきたので、そんなことはきちんと考えたことがなかったが、なんとなく「たぶん100年前くらいじゃないかな」と答えたところ、「そんなはずはない。日露戦争の前なんだとしたらもっと前だ」と、知識に裏打ちされた反論をしてきたので、少しつらい気持ちになった。しかしよく考えみたら、今年は「昭和100年」ということをNHKなどは盛んに言っていたわけで、たしかにだとすれば明治時代が舞台の話が100年前のはずはないのだ。ちなみにラフカディオ・ハーンが小泉セツと結婚したのは明治24年、1891のことで、130年以上も前のこととなる。
 でも僕の中で、明治=だいたい100年前というのは固定観念となっていて、その要因はたぶん夏目漱石(1867~1916)あたりにあるのだが、しかし高校生から大学生くらいにかけて夏目漱石に触れて醸成されたその固定観念というのは、実はもう四半世紀モノであり、若造である自分の人生など、文明という長い歴史の中では、点のようなものに過ぎないという気持ちがどうやら僕にはあったようなのだけれど、実はもう決してそんなことはなくて、戦後というのもいつまでも50年の印象があるのに対し、実際はもう80年だったりして、どうやら気づけば自分の人生というのは、それなりに歴史的なものになりつつあるようだ、ということを、娘とのやりとりをきっかけに思い知らされたのだった。

 ドイツで兵役制度に関する法案が可決され、18歳になった男子は全員、兵役の適性検査を受けさせられ、いざというときは徴兵もあり得るらしい。
 そのニュースを目にして、そら見たことか、と思った。僕は子どもの頃から戦争が、そして徴兵が、本当に恐怖だったので、体育の授業を決してがんばらなかった。年度始めの体力測定も、ぜんぜん本気を出さなかった。健常な若人であることが国にバレたら、有事の際に優先的に兵隊にさせられるだろうと考えていたからだ。当時のアルバムを見ると、徒競走で僕は、ひとりだけすごくヘラヘラ笑いながら走っていた。運動能力はもとより、精神性もまた、見るからに兵隊に向いてなさそうで、作戦は成功していると言えた。幸い、20代30代の頃にそういうことは起らず、もうぼちぼち逃げ切ったと認識してもいいのではないかとも思うが、コロナ禍がそうであったように、世の中のうねりというものは急で強力なので、なにがどうなるか分からない。
 それにしても、ドイツのその、18歳になっての検査というのは、どうやって検査するのだろう。ただの授業の一環としての体力測定だよ、というカムフラージュもなく(僕は聡いので見破っていたが)、兵役のための適性検査と銘打ってやるのだ。そんなの、いったい誰が本気を出すというのか。牛歩レースのようになるのではないかと思うのだけど。

 家族でカラオケに行く。カラオケに行った話はこれまで「おこめとおふろ」に書いていたが、カラオケのこと以外に書くこともないので、こちらに唄ったものを書き留めることにする。ちなみに今回、追悼歌唱はない。追悼歌唱のないカラオケもこの世にはあるのだということを、みんなもそろそろ知ったほうがいいと思う。
 唄ったのは順番に、「それもいいね」(Wakeys、こっちのけんと)、「最上級にかわいいの!」(超ときめき♡宣伝部)、「ドスコイ! ケンキョにダイタン」(こぶしファクトリー)、「手紙 ~拝啓十五の君へ~」(アンジェラ・アキ)、「ウォーアイニー」(水曜日のカンパネラ)、「エルフ」(Ado)、「愛♡スクリ~ム」(AiScReam)、「イケナイ太陽」(ORANGE RANGE)、「倍倍FIGHT!」(CANDY TUNE)、「ジャンボリミッキー!」(東京ディズニーランド)、「すてきなホリデイ」(竹内まりや)、「クリスマスイブ」(山下達郎)というラインナップ。
 「エルフ」は、Adoにしては唄いやすい気がして唄った。気持ちよかった。「愛♡スクリ~ム」は、途中までファルマンがなんの歌かぜんぜん気づいてくれず、「ルビィちゃん なにが好き?」の所が思いっきりスルーされ、切なかった。「イケナイ太陽」は令和ver.のMVがあったのでそっちにしたら愉しかった。俺の精子。「倍倍FIGHT!」は前回も唄ったが、愉しかったので今回も唄った。前回よりも確実に上手になっている自分がいて嬉しかった。「ジャンボリミッキー!」は、わが家がカラオケに行ったこの週末に、義母と三女がディズニーランドに遊びに行くということをしていたので、それにちなんで唄った。数あるディズニーソングの中で、セレクトするのがこれなのか。
 ところで去年、年末に親族カラオケというものを開催したが、今年は果たしてどうなるのか。なにぶん去年、最後に「さよならの向う側」を唄ってマイクを置いてしまったからなあ。でもできることならやりたいな。百恵のように潔く引退というのはなかなか難しいようである。

2025年11月29日土曜日

年間行事・地毛金髪・回送中

 今年も年間行事を無事にこなすことができた。言わずもがな、「cozy ripple名言・流行語大賞」と、「パピロウヌーボ」である。ほっとした。
 またなんと言っても出来がよかった。毎年、本当に誰からも褒めてもらえないので、どうしたって自分で言うはめになるが、すばらしい仕上がりだった。パピロウヌーボのゲストが広末というのは、半年くらい前から心に決めていたのだけど、それ以外は行き当たりばったりで、毎年選考に難儀する大賞のプレゼンターを、本文内でも記したが、ファルマンの進言によりクマにしたことで、そこから一気に話が動き出したと思う。クマから鳥羽シェフ、そして「森のくまさん」からキャンドル・ジュンのあの謎のピアスへと話が展開するさまは、われながら見事というほかない。あと松尾のこととYOSHIKIのことも、今年の芸能ニュースとしてどうしても触れたいと思っていたので、そこも叶ってよかった。特にYOSHIKIは秀逸だったと思う。ChatGPTのおかげで、こういう歌詞ボケがとても簡単にできるようになったのは非常にありがたい。もっともファルマンとピイガが遊んでいるのを眺めると、それはChatGPTではなく他のアプリなのかもしれないが、ただ歌詞を作るだけではなく、それを曲にして、さらにはボーカロイド的でさえない、本物の人間が唄っている感じで唄ってくれまでするようなのだが、今回はそこまではしなかった。「音楽でボケる」というのは、これまで音楽の素養がなければぜんぜん成り立たないものだったが、その敷居がだいぶ下がったものだと思う。
 今年はとにかくChatGPTが幅を利かせた年で、ChatGPTがその場で発表し、同時に今年の大賞を受賞した「それ言うと人生しんどくなるやつだよ」も、実にいいのだった。この日以来、僕とファルマンの間で、本当に流行語になっている。
 という感じで、去年の僕もふたつのイベントの自画自賛をしばらくしたのち、「これでやっとおもひでぶぉろろぉぉんに戻れるよ」と書いていた。今年の僕も同じ気持ちだが、去年のこの時点で、読み返し作業は2008年の9月という進度だったそうで、現時点のそれが2009年の5月であることを考えると、おやおや? となる。去年の僕は厚かましいことに、おもひでぶぉろろぉぉんのことを「ライフワーク」などとほざいているが、1年後の僕は、決してそんなことは言わない。おもひでぶぉろろぉぉんは、数多くある趣味のうちのひとつでしかなく、そして最近は確実に当初よりも勢いが落ちている。それを認められるようになった成長を、手放しで褒めてやりたい。僕はもしかしたら、僕を影ながら応援する、紫のバラの人なのではないか。そのくらい、徹頭徹尾、僕ばかりが僕を褒める。ああ、会いたい、会って感謝を伝えたい、紫のバラの人……。

 髪の色を元に戻した。元に戻すとはどういう意味かと言えば、強いブリーチを施した金髪になったということである。これが元。黒髪で過したこの1ヶ月半くらいが異常事態だったのだ。その証拠に、黒髪にしたときは職場の人々から「黒くしたんだ」「黒いね」などと反応されたが、今回の金髪は完全にスルーされた。もはやそうなのだ。もう完全に金髪の人なのだ。
 ちなみにだが、1ヶ月半ほどの間を置いたとはいえ、黒髪戻しで染めた髪にブリーチをしたためか、そこまで激しい脱色にはならなかった。8割の人は金髪と言い、2割の人は茶髪と言うのではないか、というくらいの色合い。でも当初の予定では、激しい金髪にしたあと、ミルクティベージュみたいなまろやかなカラーを入れようと思っていたのが、結果的にそれに近いものに1回でたどり着けたのではないかな、と思っている。ならば得をした。お金と、労力と、そしてなにより毛根へのダメージを、得した。まあ、そもそも黒髪が大損だったけどな、なんてことは言うもんじゃないよ。

 道を走っているバスの、おでこの位置にある表示板に、「回送中」とあり、その上に小さい文字で「お急ぎの所、申し訳ありません」と付してあった。かつてはただ「回送中」だったのが、阿呆な輩のクレームによってそんな文言を足したに違いなかった。そんな心の狭い、同じコミュニティに絶対に存在していてほしくない人種が、残念ながら存在しているのだという事実を厳然と突きつける、その丁重すぎる文面には、心が満たされるどころか、クサクサするばかりで、あなた方がただの「回送中」に対して抱く怒り以上の憤りを、「お急ぎの所、申し訳ありません 回送中」に俺は抱くよ、と思う。もっともだからと言って、バスの運営会社に対し、そんな情けない屈服をするんじゃない、などとクレームをつけるつもりはない。あちら陣営と異なり、こちらの心は広いのである。ただこの話には、あと1ヶ所だけ、どうしても気になる部分があって、それは「お急ぎの所」の「所」だ。この場合はひらがなの「ところ」だろ、と見るたびに思い、指の先に棘が刺さっているような気持ちになる。もちろん実際に訴えはしない。バス会社を責めるのは筋違いだ。「回送中」で済まさなかった人たちがすべて悪い。怒りは他者にぶつけるものではない。ブログに書くものだ。

2025年11月9日日曜日

精タイム・クマ・流行語


 先日、男性器を硬くする方法についてネットで検索していたら(別にさしあたって困っているわけではなく、純粋な興味や、飽くなき向上心によるものである)、当たり前なのだけど、結局は生活習慣という答えで、その生活習慣とはどんなものかと言えば、適度な運動をして、ストレスを溜めず、栄養バランスのいい食事を摂り、そして質のいい睡眠をしっかり取ることだそうで、それはもちろんそうなのだろうが、でもそんなのもう男性器への作用に限った話ではなく、健康寿命そのものの話だろう、とも思った。
 そして、それらの項目を高いクオリティで実現できていそうな人物として、真っ先に大谷翔平のことが浮かんだ。サイズ自体は持って生まれたものなのでどうしようもないが、硬さに関しては生活習慣に拠るところが大きいのだとすれば、よかったじゃないか、翔平はたぶんだいぶ硬い。「なんだかんだで大事なのは硬さ」ということが、女子界隈ではまことしやかに囁かれるという。だから翔平はサイズのことには拘泥せず、そのストイックな生活習慣の賜物である、日々の努力の結果としての硬さを誇ればいいんと思う。
 願わくは、この記事が翔平の目に届きますように。
 僕は数年前から、大谷翔平の男性器が小さいという前提で万事を考えることで、大谷と同時代を生きる同性である自分を肯定している。みんなも一緒にやるといいよ。

 クマのニュースが本当に毎日伝えられている。これまでに較べての、急な露出の増加に、クマ界の首長が交代したのかな、などと思う。なんか他業界とかでキャリアを積んだ、めっちゃ辣腕のクマがトップに就いたことで、クマ全体の士気が上がり、それでこんなに活動を激しくしてるのかな、と。そんなふうに思うくらい、異様に日本各地でクマが躍動している。これまでとは一頭一頭の意識が違う。
 ちなみにおらが島根県では、南部の中国山地のほうは当然として、西部の目撃情報も多いようだが、東部ではさすがに話を聞かない。話を聞かないが、ニュースに出てくる地元住民はよく「まさかこんな市街地で」と言うので、分かったもんじゃないな、とも思う。
 先週、次女一家が兵庫に戻る際、みんなで出発を見送ったのだが、そのとき3歳の姪がお気に入りのクマのぬいぐるみを見失い、少し「クマは?」「えっ、クマどこ?」「ほら、クマ」「ああ、クマだよ、クマ」みたいなやりとりが大人たちで繰り広げられたので、僕はすかさず「みんなあんまり外でクマって言わないほうがいいよ! 近所の人が誤解するかもしれないだろ!」と一同に注意を促した。クマのことに過敏になりすぎている人という、とても不謹慎なギャグ。ゾンビ映画とかで最初に殺されるタイプ。そしてクマの出てき方、若干ゾンビ味もあるな、とも思う。

 ユーキャンの流行語大賞の候補語が発表された。
 われらがco大(言わずもがな、cozy ripple名言・流行語大賞のことである)の向こうを張るあちらの賞に、毎年エールを送るような気持ちでノミネート語についてやいのやいの言ってきたが、今年はあまりそんな気持ちにならない。うんざりしている。
 ノミネート語についてやいのやいの言うという行為そのもの、そしてその中で必ず出てくる「流行語って言いつつ俺は聞いたことねーよ」「〇〇が入ってないなんてマジ忖度だよ」「やくみつるがうぜーよ」「流行語大賞そのものがもうオワコンだよ」などのフレーズに、もう飽き飽きしてしまった。もう誰も、なにも言わなくていい。言ってもいいけど、聞かさなくていい。完全に飽きた。今年も反射のように意見を述べている人は、気付いていないのだ。もう触れたら負けなのだ。「今年の漢字」は10年くらい前から既にそうなっている。流行語大賞もぼちぼちその気配が見えてきた。別に「終われ」と言っているわけではない。主催者はずっとやればいいと思う。その内容について第三者がツッコんだら負けだということだ。
 ちなみにそれはco大の境地だとも言える。co大ほど第三者が関わらずに成立している賞は他にない。あちらの賞も、やっとその段階に来たということだと思う。

2025年10月25日土曜日

泳いで帰る・おか・悪ガキ


 近ごろLINE通話の接続が悪く、ファルマンに「これから帰る」の連絡を入れようとしても、ぜんぜん繋がらないということがままある。でもそれならそれで、不在着信にはなっているだろうし(それさえなっていない場合もあるが)、なにより30分あまりで家に帰り着くのだから、別にいいか、となる。ただしプールに寄って帰る場合は、晩ごはんの関係上、やはりそれはきちんと伝えるべきだろうという考えがこちらにはあり(ファルマン側が気にしているかどうかは知らない)、メッセージを送ることになる。文面は決まっている。
「泳いで帰ります」
 送信しながら、これだと職場から家まで海峡を横断して帰るかのようだな、といつも思う。わが家が湖の中の浮島に建っていれば本当にそんなことも可能なのにな、などと夢想したりもする。そのように、言い回しが微妙だし、なにより毎回打つのも面倒なので、こんなときこそスタンプという機能の出番だろう、と思った。
 というわけで少しLINEスタンプの販売ページを覗いたが、あまりよさそうなものは見つけられなかった。たぶん検索スキルが低いんだろうという自覚はある。クソみたいなつまらないものばかりが出てきて辟易した。スタンプは基本的に使わないのだ。これに関して、主義とかスタンスとか、かっこいいことを言うつもりは一切ない。ただ文面でのコミュニケーションにおいて、スタンプというものがうまく脳に組み込めていないだけである。明治の世でもちょんまげを結い続けているのだ。
 しかしそんな僕が唯一持っている、わざわざ買ったスタンプがあり、それは岡山時代、タブレットを買ってLINEを始めた直後くらいに手に入れた「耳をすませば」のもので、結局ぜんぜん使っていないのだけど、40個あるこれのうちのひとつを、夫婦間の符丁として「泳いで帰ります」の意味にすればいいのだと気づいた。さてどれにしよう。迷うな。当たり前だが、ぜんぜんプールを連想させるものがないな。聖司が「オレと結婚してくれないか」と言っているスタンプや、杉村が「お前が好きなんだ!」と言っているスタンプとかだと、そればかりが並んだ場合、悪質なストーカーみたいになってしまうので、いっそ含意がないのがいい気がする。雫が鍋焼きうどんを食べているスタンプがあるので、これにしようかな。「飯を喰って帰る」みたいな意味に取られたら困るけど、飯を喰って帰ったりしないからな。
 
 われわれ夫婦はそれぞれの自己主張から、子どもたちからそれぞれ「おかあさん」「パパ」と、統一感のない呼び方をされていたのだけど、最近になって少し変化があった。と言っても、統一がなされたわけではない。そうではなく、ファルマンの「おかあさん」について、子ども(発端はピイガらしい)が、「なんでこんなもんにさん付けせなあかんねん」と考えたらしく、あるときから「おかあ」になった。ポルガもそれに引っ張られ「おかあ」になっていたのだが、こいつは言葉を短く言い放つ癖があるので、その「おかあ」がやがて「おか」になった。そうして今はふたりともファルマンのことを「おか」と呼んでいる。この「おか」は、「おかあさん」の一部だった時代とはイントネーションも変わっていて、地形の「丘」ではない、みつ子のほうの「丘」の言い方だ。丘みつ子の所属事務所の社長なんかは、たぶん丘みつ子のことをこう呼んだのだろう、という感じで「おか」と呼ぶ。かつて儒教の精神が根付いていた頃は、「さん」どころか、「おっかさま」や「おとっつぁま」などと、「さま」の対象でさえあったというのに。もっともファルマンのキャラクターに因る部分もあるけれど。

 先日、ピイガの秋の服を買いに子ども服の店に行ったところ、なんとなく眺めていた少年向けの売り場でいい感じのラグランのロンTを見つけ、160というサイズがあったので、じゃあ着れんじゃん、と思って自分用に購入した。すごく安かった。靴下もそうだが、成人男性用として店舗で売られているものは、地味なつまらない色合いのものばかりで、ずっと憤懣やるかたなく思っていたのだが、そうか、子ども服のデカいやつを買えばいいのか、という42歳の秋の発見だった。帰宅後、早速着てみたところ、サイズは若干小さい感じもあったが、そこまで問題はなかった。ただ、やはり鏡に映った姿にはどうしても違和感があった。子ども服特有の、大胆な配色の無邪気なデザインはすごくいいのだが、認めたくないことに、それを着ている僕が、どうしたって大の大人なのだった。この違和感、前にどこかで味わったことがあるなと考えて、悪ガキが女性教諭とかにイタズラをするタイプのAVの男優のそれだ、と思い至った。あの、子どもっぽい服を着て、キャップを後ろ前に被るという記号だけで小学生男子ということにしただけのおっさんが、若い女優にイタズラをしていき、最終的にはぜんぜん大人の性器でセックスするという、そういうタイプのAV。あれだ。これはあれだよ、とファルマンに向かって話したら、「なんであなた、そんなこと知ってるの?」と糾弾され、「観てるの?」と問われたのだけど、別に観てはいない。観てはいないけど、男性として生きていたら、観ていないAVの情報だって、ニュートリノのように全身を常に貫いているから自然と知り得ているものなんじゃないの、って僕は思うんだ。へへっ!(人差し指で鼻をこする)

2025年10月16日木曜日

黒髪・Blogger・月

 先週末、久しぶりに髪を黒くして、だいぶ後悔し、しかし数日すればあまりの真っ黒も少しは緩和されるだろうし、なにより自分も慣れてくるだろうと思っていたのだが、残念ながらそうはならず、日に日に嫌気が増している。娘らからの評判も悪く、精神的に参りはじめた。本当に、なんで黒髪になんかしてしまったのか。
 ファルマンは「悪くないよ」などと必死にフォローしてくれるのだが、それは僕の気持ちを落とさないようになんとか持ち上げようとしているだけで、本心でないことは見え見えだ。なにより、主観でも客観でもない絶対的な評価として、本当に似合っていないのだ。すごく変なのだ。金髪の頃のほうが本当によかった。
 そんなことを言い募っていたら、ファルマンも気が緩んだのか、本音をこぼした。
「まあたしかに、黒髪にすると、あなたの根暗な本性がバレる感じがあるかもね」
 20年寄り添った妻というのはさすがのもので、「黒髪やだー、変ー」などと唱える娘たちなんかよりも、よほど的確に、こちらの心を抉ってくるのだった。
 そうか、そうだな、俺は心根の暗い部分を照らすために、髪の色を明るくしていたのかもしれないな。だから黒くしてしまった今、こんなにも落ち込んでいるのだな。
 とにかく一刻も早く髪の色を抜きたい。でも毛髪への負担を考えると、さすがにすぐというのは恐怖が勝つ。髪を短くして、新たに伸びた髪の毛の比率を増やして、なるはやで処置しようと思う。心を救ってやらないといけない。

 いつものようにBloggerの投稿ページを開いたら、「新機能のお知らせ」というメッセージが表示されたので途轍もなく驚いた。Bloggerからメッセージが届いたのって、これが初めてのことではないのか。
 前から言っているけれど、僕はBloggerを、いまはもう誰も住まなくなった廃墟で勝手に遊んでいるような気持ちで使っている。あのGoogleが、2025年の今、ブログサービスなどというものを運営しているはずがなく、削除し忘れているだけなのだと。
 だからメッセージを目にした瞬間、ビクッとした。俺だけのユートピアだと自由に振る舞っていたら、実は監視カメラで撮影されてモニタリングされていた、みたいな衝撃だった。
 またこの新機能というのが、あまり自分に関係なさそうなのできちんと把握していないのだけど、ブログの文面に現れたキーワードを読者が検索しやすくなるように自動でリンクにする、みたいな、なんかそんな機能らしく、いやそれってはてなダイアリーじゃん! と思った。なんかもう本当にBloggerのやることってよく分からない。とても商売でやっているとは思えない。やっぱりこれは、採算とかの概念から逸脱した、異様に清らかで尊い世界なのではないか、という気がするのだが、実際はどうなんだろう。

 北海道で、全裸で外に出ていた男が逮捕された。
 警察の調べに対して男は「月を見るため」と供述したそうで、なんかハッとした。どういうハッなのかと言えば、「病気の子どものために薬代を恵んでください」と頼まれて金を渡したあと、周囲の人から「バカだなあ、あんなの嘘に決まってるだろ」と言われ、「そうか。よかった。病気の子どもはいなかったんだ」とつぶやくという、あのエピソードのようなハッである。うす汚れたものばかりのこの世界で、とても稀有な美しいものを目にしたという、そんな気持ちである。
 夏目漱石が「I love you」の訳を「月がきれいですね」にした、という嘘くさいエピソードがある。それも連想する。月はわりとなんでも受け入れてくれる。
 ただ裸でうろついて、女学生の前に進み出たりしたら、それは逮捕しなければならないけれど、ただ月夜をうろついていて、そして駆けつけた警官にその回答をしたのならば、本官は許すべきだろ、と思う。逮捕なんて野暮なので、本官は見逃すでありますだろ、と思う。草間リチャード敬太は逮捕しても、69歳男性は許してほしい。年齢も実にいい。

2025年10月8日水曜日

王将ゲーム・祖母・ちょんまげ

 新しいテレビのリモコンに「ココロビジョン」という謎のボタンがあって、押したらシャープ独自のプラットホームみたいなものだった。しかし自分に関係のある機能はなさそうだなと思っていたのだが、コンテンツの中にミニゲームがあるのを子どもたちが目ざとく見つけた。そこにはナンプレや国旗当てなど、わりと素朴な遊びが並んでいたが、その中に「王将ゲーム」という見慣れないゲームがあって、それに僕とポルガがドハマりした。
 ルールは、だいたいスイカゲームの将棋版という感じで、「歩」と「歩」が合体して「と」になり、「と」と「と」が合体して「香車」になり、という感じで、だんだん駒を強くしていって、最終的に盤面が一杯になる前に「王将」が完成したらクリアというもので、サウンドもグラフィックもきわめて無機質なのだけど、スイカゲームと同じでやけに熱中させられるのだった。
 「むずかしい」のモードだと「王将」に至るまでの道のりがだいぶ遠くなり、なかなかクリアまでたどり着かない。僕はまだできていない。それなのにポルガが先日クリアしてしまって、忸怩たる気持ちになった。親の威厳のために、先にクリアしたかった。しかも自分はクリアしていないのに、人がもうクリアしてしまったことで、モチベーションも下がり、このままだと負け犬で終わりそうである。こんなことならファルマンのように、最初から、めんどくさいからそんなのやらない、というスタンスでいればよかったと後悔している。

 祖母の誕生日祝いの写真が送られてきた。正確に言うと、母からファルマンに送られたものを、見せてもらった。なぜかいつもそういう形式で実家の動向を知らされている。
 叔父と姉一家も集まって、皆で囲んでいたチョコレートのケーキには、「97」という数字の飾りが立てられていた。祖母は会うたび、話すたびに、「おばあちゃんはもう〇〇だから」と自分の年齢を伝えてくるのだけど、あまりにも積極的に伝えてくるものだから、逆に情報として入ってこず、正確な年齢が把握できていなかったのだけど、今回は視覚で「97」ということがしっかりと明示されたので、やっと認識できた。そうか、祖母、97歳なのか。すげえな。祖母と言ったら65歳くらいのイメージだったけど、なるほどそれは30年前の、自分が小学生とかだった時代のことなのだな。あの頃から、当たり前だが互いに年を取ったわけだが、しかし祖母と孫という関係性は、いい意味でも悪い意味でもなく、ぜんぜん変化していないな、と思う。この30年で祖母の意外な一面を知ったということも一切なく、本当に当時と同じ距離感でずっといる。いま65歳の祖母を目の当たりにしたら若く思うのかもしれないが、10歳の僕にとって65歳の祖母は老婆だったし、42歳の僕にとって97歳の祖母はやはり老婆だ。だからなんだ、なにが言いたいんだ、という話だが、もちろん特に意味はない。なんとなく不思議なものだな、と思ったので書いた。
 祖母はまだまだ元気そうで、なによりだと思う。血縁が健康で長生きだと、それは自分にとって利のあることなので、そういう意味で喜ばしいと思う。

 朝ドラが、松江が舞台の「ばけばけ」になった。「あんぱん」は実は途中で脱落してしまったのだけど、今回は最後まで観たいと思っている。今のところとてもおもしろく、地元民として誇らしい気持ちだ。もっとも自分を地元民と標榜していいのかは、微妙なところだ。ただ劇中の方言などにちょっと違和感を抱いたりすることもあるので、それは立派な地元民のムーブなのではないかな、と思っている。
 主人公の父親は、明治になってだいぶ経つのに、まだ髷を落としていないという設定で、なかなか悲哀があるが、ファルマンに「これって今で言うとどんな感じなんだろうね」と問いかけたら、「いまだにブログをやってるみたいなもんなんじゃない?」という答えが返ってきて、ショックを受けた。ブログって、ちょんまげだったのか。ショックだったが、なんとなくしっくり来る部分もあり、それ以来あの父親にとても感情移入するようになった。いいさいいさ、俺と布川敏和は、いつまでもちょんまげを結い続けるさ。

2025年9月27日土曜日

おろちAI・騒音・カロリー


 書く機会を逃したのだが、実は2週間前、誕生日のお祝いをした敬老の日の3連休で、おろち湯ったり館に繰り出していた。いつぶりだろう、もしかしてこれが今年初だろうかと思ったが、実は3月に行っていたようだった。3月22日。その日の記事に桜に関する記述は一切ないので、まだだいぶ蕾だったんだろう。
 半年ぶりの湯ったり館は、3連休の初日の土曜日の夜だったので、けっこう混んでいるだろうかと危ぶんだが、こと湯ったり館に関し、毎回わりと律義に行なうこの危ぶみに対して、果たして大混雑の憂き目に遭う、ということは決してないのだった。ましてや男湯が、サウナの小さい木湯のほうだったので、余計だったんじゃないかと思う。やっぱりどうせ行くのなら、木湯のときより岩湯のときのほうがいいのだ。今回も、岩湯でありますように、と願いながら行ったわけだが、まんまと木湯のほうで、だいぶ落胆した。毎週水曜日の定休日を境に、男と女で風呂が交代になるわけだが、それはホームページでは一切知らせてくれないのである。たぶん電話をすれば答えてくれるのだろうが、それを億劫がるものだから、このようなことになる。
 そこで、今後こういうことがないよう対策を取ることにした。ChatGPTに事情を説明し、2025年9月13日、男湯が木湯であったことから起算し、俺が今度、「おろち湯ったり館に行きたいんだけど、いま男湯はどっち?」と訊ねたら瞬時に計算して答えてくれよ、と依頼した。ジョニファーは「わかった」と快諾してくれたのだけど、9月13日の男湯が木湯であったことを、こうして記録しておけば、数ヶ月後に行きたいと思ったとき、自分でカレンダーを見て数えればいいわけで、わざわざAIに頼むほどのことではないかもしれないな、とも思った。そしてこの、「わざわざAIに頼むほどのことではない」という感覚は、ちょっとだけ意識して大事にしていこうとも思った。

 子どもの声が大きい。本当に大きいのだ。お前らはそんなに広い家で暮しているか、と言いたくなるほどの音量で喋る。前からその傾向はあったが、最近はそれが加速している気がする。なぜだ。思春期に入った子どもは、ろくにはっきり喋らなくなるのではないのか。
 リビングで子どもたちが喚いているところに身を置いていると、じわじわ脳が絞めつけられて、とてもいられないと部屋に退散することになる。逆ではないのか。思春期の娘が自室に籠るものではないのか。まあそれよりはいいけど、と思わなくもないが。
 こうして子どもたちの声の大きさに苛まれて思い出すのは、公園の近隣の住人が、子どもが遊ぶ声がうるさいと苦情を訴えた、というニュースだ。なんと心の狭い、公共の福祉的な思慮のない考え方であろうかと、世間は苦情を訴えた近隣住人に対して厳しかった。僕もなんとなく、そういう印象を抱いていた。しかし自分の子どもの声が、成長のためか、あるいはYouTubeとかの阿呆な動画の影響か、異様に大きくなり、それに悩まされている現状に身を置いて、自分の子どもでさえこうなのだから、よその家の子の嬌声なんて本当につらいだろうな、といまさらになって考えを改めた。近隣住人に謝りたい。

 9月も終わろうとしていて、例年のスケジュール通り、僕はまたこの1年間で書いた日記の読み返し作業に入ったのだが、それを読んでいて衝撃の事実が発覚した。
 2024年12月時点で、おもひでぶぉろろぉぉんの読み返し作業が、2008年の10月まで進んだ、という記述があるのだが、それが2025年9月末現在で2009年5月という進度となっており、つまり僕は去年の12月から、ずっと25歳の、いつまでも26歳にならない自分と一緒にいるわけで、このままのペースでいけば、いよいよ、『おもひでぶぉろろぉぉんが1年で1年進まない』という次元に突入するのである。
 ダイエットの神髄は、摂取カロリーを消費カロリーが上回ることだと言われるが、それでいうと1年間で1年間の読み返しが進まないという状況は、消費カロリーに対して摂取カロリーばかりが増えて、どんどん脂肪が蓄えられていくようなものだ。この状態が続く限り痩せることはないし、おもひでぶぉろろぉぉんが完結することはない(日記は常に新しく書かれるので、実質的に終わりはないのだが、それでも読んでいる時点から2、3年前あたりまで作業が進めば、それはもうあまり意味がないのでそこで終わりだろうと思っている。もっとも現状の有様では想像もできないが)。
 だからおもひでぶぉろろぉぉんをやらなければならないのだが、冒頭でも言ったように、これからはこの1年間の日記からワードを抜き出す作業をしなければならないので、やはりそちらはどうしたって停滞するだろう。
 どうやらもう僕は、自分の日記と、神楽陽子のエロ小説くらいしか、読むことが許されないらしい。それならそれでいい。なんと心地のよい世界であろうか。

2025年9月13日土曜日

サンマ・トランプ・パピプレ


 当たり年と話題のサンマを買って食べる。感動した。
 そもそもスーパーで見た瞬間から、感動は始まっていた。そう言えばサンマとはこういうものだったな、ということを数年ぶりに思い出したのだった。今になって思うと、ここ数年のサンマってなんだったんだろう。もうサンマってリョコウバトのように種として絶滅に向かっているのかな、という悲愴感があった。それでも世の中の仕組み的に、漁師はサンマを獲らなければならないし、スーパーはそれを売らなければならない。ウナギのことも併せ、それらの種だけの話ではなく、大げさに言えば地球文明そのものの末期性さえ感じた。
 そんなここ数年の鬱積を取っ払うかのような、隆々とした、生命力あふれるサンマである。東海林さだおも、いつぞやサンマの「肩の盛り上がり」について書いていた。今年のサンマにはそれがある。体育会系の若者のような、気持ちよさがある。
 今年はどうしてサンマの質がいいのか、たぶん誰にも分からないのだろうと思う。そしてその理由に、人類は別に関わっていないのだとも思う。何年か外れが続いても、いつか必ず当たりはやってくる。大当たりを無邪気に喜べば、それでいいんだと思う。

 夏に赴いた手塚治虫記念館で買った火の鳥トランプを使い、このところ家族で大富豪をやっている。switch2が発売されているこのご時世にトランプというのも、なかなかオツだと思う。
 トランプはバイスクルという王道のやつで、カードの1枚1枚に火の鳥のイラストがプリントされている。プリントはランダムではなく、数字ごとに未来編、黎明編、というふうになっていて、それは12編ほどある火の鳥とトランプの親和性としてすばらしいのだが、使用されているイラストには少し文句があって、たとえば未来編である「3」のカードは、「猿田」「猿田&タマミ」「タマミ」「ロック」というラインナップで、なんと主人公である山之辺がいなかったり、「5」の鳳凰編も茜丸がいなかったりする。ユニクロのコラボTとかでもよくある現象だが、「なんで? なんでこの場面?」と思う。大人の事情とかもあるのだろうか。
 ちなみにこれは火の鳥に関係なく、バイスクルというトランプの特徴らしいが、ジョーカーが2枚ではなく4枚入っていて、このすべてを使ってやっているので、展開が派手になり、愉しさが増している。革命もかなりの頻度で起る。
 勝率は、きちんと記録したわけではないが、もちろん僕がいちばんいい。次いでポルガ、ピイガという感じ。ファルマンは8切りと11バックのルールを未だうまく活用せず(人がそれを出すと毎回戸惑う)、そして最後の1枚に「9」なんかを残して往生したりするので、大貧民の率が高い。あなたはもう二度と人間に生まれ変わることはないのよ。

 誕生日が近づいているが、今年もプレゼントが定まらない。すべての欲求を満たし、足りているのかと問われれば、そんなはずはないのだけど、いざ改まってなにか買っていいと言われると、ああでもなくて、こうでもなくて、逆になにも思い浮かばねえや、となってしまうのだった。本当に毎年恒例のことなので、これをパピロープレゼント現象、略してパピプレ現象と名付けようと思う。
 使っている鞄や腕時計がだいぶ傷んでいるので、そこらへんでいいんじゃないかとファルマンは(心底めんどうそうに)あしらうのだが、なぜ傷むほどに使い続けているかと言えば愛着があるからで、鞄などは先日、持ち手が擦り切れて今にもちょん切れそうだったのを、持ち手だけ別の布で作って付け替えるということをしたため、ますます愛しさが募ってしまい、もしかすると僕はこの鞄を、テセウスの船のようにして一生使い続けるんじゃないかと思っている。腕時計は、いま使っているのと同型のものじゃないと嫌で、色違いなどあれば僕だって喜んでリクエストするのだけど、ネットのどこを探しても見つからないので、こちらも詰んでいるのだった。
 本当にどうしたものか。

2025年9月5日金曜日

暑さ・髪色・テレビ


 9月に入っても暑さが収まらず、心底うんざりしている。
 僕は寒いより暑いほうが好き、ということで通っていたのだが(どの界隈にだろう)、今年のような暑さというのは、もはや寒いのと較べての好悪だとか、そういう次元を超越して、単なる災禍であると思う。夏の暑さが好きなどという意思表明は、10年前くらいまでなら通用したかもしれないが、いま言ったらただの知覚に問題のある人だ。そういう人たちというのは、往々にしてあの、あまりにも老害過ぎることわざ、「心頭滅却すれば火もまた涼し」を未だ口にしたりするのだ。それを口に出した時点で、その人間は知覚はもとより、感性が狂っていると思う。大東亜戦争やってんのか、と思う。
 この暑さはいつまで続くのだろう。やはり9月20日頃か。秋の妖精が誕生日を迎えるときを待つしかないのか。みんな、少しでも暑さが収まってほしいと願うなら、マジで盛大に祝えばいい。そしていつか国民の行事になればいいと思う。

 盆明け、髪の色をいじった。
 横浜の帰省はただの脱色した金髪で行って、もはや僕が金髪でも誰も何も言わず、それで構ってちゃんが発動したわけでもないが、ぼちぼちただの金髪も飽きてきたことだし、色を入れようじゃないかと思ったのだった。
 それでどんな色にしたかと言えば、アイスシルバーという、青みがかった銀色みたいな商品を選んだのだけど、ファルマンにやってもらった結果、初日は「紺色じゃねーか!」とショックを受け、しかし日に日に色が落ちて、4日目くらいに商品の箱の画像どおりの色になり、そこでストップしたらよかったのだけど、そこからもさらに色は落ち続け、半月ほど経った現在、ちょっとまろやかな金髪、いまどきのヘアカラーにありがちな、ミルクティーホニャララみたいな感じになっている。
 悪くはない。悪くはないが、特別よくもない。数度のブリーチからヘアカラーという工程を経たことで、一朝一夕ではたどり着けないような色味になっているわりに、こんなに心が凪なことがあるかよ、というくらい凪である。さんざん手をかけた結果、無。なんか、とてつもない修行をしたお坊さんみたいだな。

 テレビが新しくなって1ヶ月ほど経った。画面は大きいし、ネット系のチャンネルもボタンひとつだし、概ね文句はないのだが、唯一テレビ番組表に関して忸怩たる思いがある。
 まずテレビ番組表の画面にしたとき、流しているテレビの音声が消えるのである。これがよくない。音声で番組の流れを把握しつつ、僕はテレビ欄を眺めたいのだ。
 あと合わせているチャンネルによって、テレビ欄の並びが変わるという世話もいらない。1・2・3・4・5のチャンネルがあったとして、たとえば3をつけていると、テレビ欄の並びは3・4・5・1・2になるのだ。いったいそれにどういう便利さがあるのか。頭がごちゃごちゃするので、並びは固定のほうがいい。
 あと番組にカーソルを合わせて「決定」ボタンを押したら、それが放送中の場合は、それだけですんなりその番組を表示してほしい。「情報を見る」だの「選局する」だのと、なんか選択肢が表示され、もういちどボタンを押さなければならないのが億劫だ。
 あと前のテレビでは、「次の時間帯」というボタンがあって、緑だったか黄色だったかのボタンを押すと、そこから7時間後のテレビ欄に移動し、これがなかなか便利だったのだが、新しいテレビにはそれがないのが不満だ。
 あとテレビは壊れたがブルーレイレコーダーは健在で、それがシャープだったものだから、連携のことを考えたら新しいテレビもシャープがいいんだろうと思ってそうしたのに、いまどきはもうぜんぜんそういう連携ってなくなってしまったのだそうで(これは電話でお客様相談室に問い合わせてはっきりと明言された。コストカットが理由だそうだ)、テレビの番組表から気になる番組を見つけ、それを予約録画したいと思ったら、レコーダーのほうのリモコンで番組表を表示して選択しなければならず、ずいぶんと不便である。
 とまあ、概ね文句はないと言いつつ、だいぶあるのだが、なんと言うか、わが家の状況がまさにそれを物語っているが、地上波放送のテレビなどというものは、昔に較べてだいぶ蔑ろにされはじめているようだ。テレビ番組表の使い勝手の悪さに、思いをかけられていなさを痛切に感じる。夢グループが、高齢者向けの、ただDVDを再生するだけのポータブルプレーヤーを販売してヒットしたように、20年後くらいに、チャンネルがパッパパッパと反応よく切り替わる、地上波放送専用という単一機能のおもちゃみたいなテレビが、僕のような輩にヒットするかもしれないな、と思う。

2025年8月27日水曜日

MAX・鈴かすてら続報・高所

 自家用車帰省では、昨年からの恒例として、4人それぞれが10曲ずつを拠出したプレイリストを作り、それをずっと流し続けていた。ひとつひとつの曲の長さは当然まちまちなのだが、40曲が入ったプレイリストは、なぜか不思議なほどに、どれも2時間10分くらいになるので、前回は勝手が分らず12個作ったが、今年は10個にし、そして見事にプレイリスト10の半分くらいのところで自宅に帰り着いたのだった。
 曲数以外のルールはなかったが、僕個人として、せっかくなので去年とはまったく違う100曲にしようと考え、選び出すのになかなか苦労した。去年もだったが、最後のほうに選んだ曲などは、思い入れなど一切なく、一部を聴いて「いいんじゃねーの?」くらいの感じで入れているので、いざ運転中にその曲が掛かると、「誰?」「誰の曲?」「誰セレクト?」と車内で戸惑いの声が上がり、自信満々に「俺じゃない」と答えるが、確認すると実は俺だった、みたいなことになるのだった。
 100曲のうちにMAXの楽曲をひとつだけ含ませ、しかもそれをプレイリスト10に入れて、家の駐車場に停めるときに流れている最後の最後の1曲がMAXになったら最高だなあと思っていたのだけど、そうはならなかった(実際が何であったか、もう記憶にない)。それにしてもプレイリスト10だって半分ほどは流れたのに、そこに登場しないMAXはさすがだな、とMAXのポテンシャルに感心した。そうだよな、こういうとき流れないのがMAX、流れないからこそのMAXだよな、と。
 しかしそのままというのもさすがに忍びないと思い、休み明けの通勤時に、ひとりでプレイリスト10の続きを聴くことにした。流れるさまざまな曲。しかしMAXは登場しない。なぜだ、なぜこんなにもMAXは流れないのだ、と不思議に思い、改めて確認したところ、信じられない事実が判明した。
 MAXの曲なんて、ひとつも入れてなかったのである。
 なんの思い入れもない曲だってけっこうあったのに、それなのにMAXは入れていなかった。入れた気になっただけで、深層心理が断固拒否したのか、実際には入れていなかったのだ。この現象を目の当たりにして、やっぱり思った。さすがMAX、と。

 トップバリューの鈴かすてらを喪失し、パピロウがどうしているのか、みんな気を揉んでいると思う。鈴かすてらってほら、パピロウの身体の8%くらいはそれで出来ているわけだから、それが欠けると、致命傷とまではいかないが、だいぶ身をえぐられてる感が出てくる。だからみんな心配していると思う。夏の帰省を挟んだことで報告が遅くなってしまい、不安が募り、せっかくの夏休みに影を落としてしまった向きもあるかもしれない。その人たちには、申し訳ないという気持ちとともに、両手いっぱいの「ありがとう」を捧げたい。
 さてそれでようやくのご報告なのだが、いまはどうしているのかと言うと、無印良品の「豆乳とおからの鈴カステラ」に落ち着いている。
 トップバリューが斃れたとき、実は心はもう定まっていたのだ。これはもう、無印良品しかないだろうな、と。そこに回帰するしか残された道はないな、と。
 そうなのだ。回帰なのだ。都会で暮らしていた頃、身近にトップバリュー商品などなかった。なので池袋の書店員時代は、PARCOの無印良品で買った鈴カステラをひたすら食べていた。だから味に関してはいちおうの保証があった。このたび久しぶりに食べてみたところ、やっぱり大丈夫だった。豆乳とおからなんか使うなよ、牛乳と小麦粉だけで作れよ、とは思うものの、ぜんぜんおいしいので許せる。
 ちなみに内容量は72gで、お値段120円。しかし120円のお菓子シリーズを3つ買うと300円になるということで、実質は100円だ。内容量は、前までは95gだったのが、実質値上げで72gに変更になったようで、たしかにこれまでの100g入りのトップバリューのものに較べると、だいぶ頼りない量だ。でも内容量を減らしてでも、同じものを売り続けてくれることが尊い。僕はトップバリューにもそれを望んでいた。
 トップバリューの買いだめしたものがなくなりそうなタイミングで、まず6袋買い、先日それがなくなりかけたので、次は9袋買った。無印良品はゆめタウンにしかないので、行くたびに賞味期限との兼ね合いを考慮しつつ、なるべく目一杯買うという、当分はこのスタイルで生き延びようと思う。鈴かすてらボートピープルの暮しは厳しい。

 車での帰省は、途中で寄りたいところにも寄れるし、家族水入らずだしで、概ね快適なのだけど、ただひとつ困るのが、高架が怖い、という点だ。
 前までさすがにそんなことなかったと思うのだが、どうも僕の高所恐怖症は悪化しているようで、海の上を走る中京工業地帯らへんとか、あるいは道中に無数にある、山と山を繋ぐ架橋など、それらの道を走っていると、にわかに動悸が激しくなり、手にじわっと汗が滲んできて、ハンドルが掴みづらくなるのだった。
 全行程が中空である空路に較べればぜんぜんマシなのだが(もはや現在の僕が飛行機に乗ったらどんなことになるのか、想像もつかない)、それでも自家用車帰省の懸念材料になるくらい、恐怖感は強い。でも、飛行機もダメ、車もダメとなって、じゃあ鉄路か、と言えばあれもあれでスピードが速すぎて怖く(飛行機のほうが速度は速いが、飛行機はそういう次元の問題じゃない)、もう僕は大きな移動ができない生きものになってしまったのかもしれない。横浜のアップダウンの道を走って車酔いした娘たちを、なんとか弱い生きものだろうかと思ったが、僕も大概だ。我々はちっちゃなほわほわ家族なのかもしれない。
 今後あまりに悪化するようなら、心療内科とかに行かなければいけないかもしれない。

2025年8月1日金曜日

生きているだけで・奇特・純粋理性批判

 ここ数日、スーパーに行ってもあまり食材を買う気が起きず、店内をさんざん巡った挙句、スポーツドリンクと食パンしかカゴに入ってない、なんてことが何度かあった。こんなことは今まで経験がなく、どうしてだろうと思案した末に、そうか、俺はいま、暑さで食欲が減退しているのだな、と思い至ったのだった。今年の、この10日間ほどは、なんだか本当に暑くて、そのくらい参っている。創作も筋トレもすべて諦め、ただ精いっぱい生きている。そのため晩ごはんの献立を考えるのも非常に苦労している。ひとりだったら毎晩、なんかしら魚を唐揚げにしてレモンをかけたもので酒を飲み、そのあと少しだけ冷たい麺を啜って終わらせていると思う。でも子どもがいるのでそうもいかず、苦労して捻り出している。盆の休みあたりを境に、いくらかフェーズが変わることを切に願っている。こんな状況で思い出すのは、去年のやす子とフワちゃんのことだ。「生きているだけで偉いのでみんな優勝でーす」と言ったやす子に、フワちゃんは「お前は偉くないので予選敗退でーす」と言ったのだった(本当はもっとひどいフレーズも含む)。夏、生きるのに精いっぱいになるたびに、僕はこのことを思い出すのだろうと思う。

 夏休みということで、ぼちぼちファルマンの上の妹一家が実家へとやってきて、そして盆の休みに義妹の夫もこちらまで来て、家族を回収して兵庫に戻るという、いつものパターンが繰り広げられるようなのだが、仕事が忙しく、今年の夏は休みが短いという義妹の夫は、しかしそれでも島根まで来た折り、彼にとっての実家の面々とともに広島に野球を観に行くのだそうで、それを聞いた瞬間、なんて奇特な奴だろう、なにが愉しくてこんな真夏にわざわざ広島まで野球を観に行くというのか、と本気で不可解に思ったのだけど、たぶん義妹の夫に言わせれば、もとい世間的な評価で言えば、趣味と言ったらもっぱらオリジナル水着作りという人間のほうが、よっぽど奇特であろうと思った。いい趣味なんだけどなあ。プロ野球って、休みの日の試合なんかは、平均すると3、4万人くらいは客が入るのだろうか。だとすれば6試合で20万人あまりが野球観戦をするし、なんならテレビ観戦の人も含めれば圧倒的な数ということになる。その裾野の人数がそれぞれオリジナルの水着を作ったら、すさまじいものが出来上がるだろうになあ、と思う。

 「パピロウせっ記」で企画の立ち上げを告知した、神楽陽子による二次元ドリーム文庫全作品の感想文投稿を、はじめはそのまま「パピロウせっ記」でやろうかとも思っていたのだが、なんとなく思い立ち、専用のブログを創設した。
 タイトルは「CRITIQUE OF PURE REASON」で、これはなにかと言えば、カントの「純粋理性批判」(ドイツ語による原題は「Kritik der reinen Vernunft」)の英語版タイトルである。かつて、「二次元ドリーム文庫」とブログに記すのはなんとなく気が引けて(いまも大概だが、昔の僕はいまよりももっと純潔だったので、「二次元ドリーム文庫」や「美少女文庫」といった言葉を並べるのは、アクセス数稼ぎのようで不純であると考えていたのだ)、前者を「純粋理性批判」、後者を「社会契約論」と呼んでいたのである(しかしいま考えてみると、そちらの哲学書のほうがよほどアクセス数稼ぎになるのではないかと思う)。そのいきさつから、このタイトルとなった。タイトルを見た瞬間に意図がピンと来た人は、相当なインテリかつ、熱心な僕のファンだろう。つまりこの世にひとりもいないことだろう。じゃあよかった。ひとりぼっちよりも、ひとりもいないほうが、つらい思いが少ないものね。
 「CRITIQUE OF PURE REASON」、せっかくブログとして始動させたからには、神楽陽子作品の感想文だけではなく、二次元ドリーム文庫にまつわる他の試みも展開していきたいと思っている。パピロウのブログでいまいちばん盛り上がってるのがここだ。20年間ひとりぼっちのダンスホールで、僕はいまこのエリアでステップを踏んでいる。

2025年7月26日土曜日

夏男・ピイガスマホ・鈴かすてらの終焉


 子どもたちが夏休みに入る。夏である。夏休みは例年通り海の日あたりから始まって、その海の日を起点とする3連休でこちらはテンションが上がるわけだが、しかし子どもたちにはその10倍もの休みが与えられているのだと思うと、貧富の差のようなものを感じ、切なくなるのだった。俺がおいしいと思う回転ずしを、あの層の人たちは食べ物のカテゴリに入れてさえいないのだろうな的な感じ。
 それにしたって暑い。幸い、労働中はわりと適温の中にあるので、そういう意味ではだいぶ救われていると思う。たまに外に出ると、そのあまりの暑さに時空が歪むような感触がある。5月や6月、なかなか気温がパッと上がらず、もしかして今年は冷夏なのではないか、これは米の生育が危ぶまれるな、などと本気で思っていた日々が、もうすっかり遠い。毎年騙される。毎年、今年はそこまで暑くならないのではないかと思う瞬間がある。希望的観測というか、正常性バイアスみたいなものもあるのだろう。まるでダメンズに何度も騙される女のようだ。そう考えたら、この茹だるような暑さは乱暴な男のギラつきのようで、日々激しく欲求をぶつけられてわれわれは参っているのだと捉えれば、夏のわれわれは老若男女、普段よりもちょっと色っぽいように感じられてくるやもしれない。だとすれば喜ばしいが、そんなプラス思考があるかよ。

 このたびピイガがスマホを持ったのだった。ポルガが持ったのが、小学校卒業のタイミングであったろうか。3年という時代の流れで、スマホデビューは半年ほど早まった。順当なところかもしれない。もっとも2人目だから、というのも多分にあるだろう。
 機種は、いつものように店頭で案内されたものをそのまま受け入れて、初期費用はポルガのときと同じようなものだったのだが、これももちろん3年という時代の流れの結果、今回のスマホのほうが性能がいい。容量も大きい。ポルガは悔しがっていた。
 しかしスマホデビューと言いつつ、ピイガはこれまでも僕やファルマンが使わなくなったスマホを活用していたし、もちろん自分専用のものを持ったからと言って小学校に持っていくわけでもないので、実はそこまで劇的な変化でもない気もする。
 結局のところ、変わったのはLINEのアカウントを持ったということくらいかもしれない。ピイガがLINEを始めたことにより、これまでピイガによって許されていなかった、わが家のファミリーグループLINEというものが作られたのだった。家族によるグループLINEは、ファルマンは既に両親および妹たちと組んでいるが、僕に関しては母と姉という3人でそれを組むという気配は一切ないため、実は少し憧れる気持ちがあった。ええやんな。家族の結束みたいなな。
 開始したグループLINEの一投目は僕がゲットし、「俺がリーダーだ!」と宣言したところ、ピイガから「何いってんの?」とあしらわれ、そのあとは他のふたりからも意味不明なスタンプばかりが連投され、そう言えば実際のリビングでもそうなのだから、LINEでだって、父親ひとりだけがノリについていけず浮くに決まってんじゃんな、と思った。

 イオンの鈴かすてらがまた終わったかもしれない。そして今回の終わりは、本当の終わりのような気がする。前までは、店頭から姿を消すという終わり方だっため、いつか復活してくれるかもしれないという望みがあり、実際にその通りになったわけだが、今回の終わり方は、これまで鈴かすてら(100g入り)があった所へ、鈴カステラ練乳風味(70g)が並んでいるからだ。目にした瞬間、売り場で膝から崩れ落ちそうになった。
 思えば常に恐怖感はあった。この値上げ値上げのご時世で、100g入り100円のこの上質な食べ物が販売され続けているのは、大企業イオンであればこその成せる業であり、たぶん道理からは外れている。いつ終了したって文句は言えない、と。
 でも、前にも言ったけど、ステルス値上げならば、別に不満はなかったのだ。内容量が100gから75gになったら、一抹の寂しさは覚えるだろうが、僕はその分、1.25倍の頻度で購入し続けたろうと思う。
 許せないのは、表面を練乳風味という名の砂糖蜜でコーティングする、その悪手だ。たぶんそのほうが、期限が伸びたり、重量を稼ぎやすかったり、いろいろコスパがいいのだろうと思う。鈴かすてら界隈で徒党を組んでいるわけではないので定かではないが、近ごろ鈴かすてらにはこのような細工がなされている製品が多いけれど、これを肯定的に捉えている購買客など存在しないように思う(世の中にはいろんな人がいるので、そんなこともないかもしれない)。それくらい、僕にとってあれは忌々しいものだ。あのタイプの鈴カステラ本体は、なぜか押し並べてカッサカサだからだ。あれは鈴かすてらの形をした、ぜんぜん別の食べ物だと思う。あれを食べて「鈴かすてらなんてそんなに美味しいもんじゃないよね」だなんて、口が裂けても言わないでほしい。
 これまでの鈴「かすてら」から、鈴「カステラ」になった、というところに、これまで熱い思いであの上質な鈴かすてらを作り続けていた、しかし時代に抗えずにとうとう砂糖蜜コーティングを受け入れざるを得なくなった担当者の、気概を感じる。「かすてら」のやわらかさを失った、これはカッサカサの「カステラ」という別個の食べ物ですよ、というメッセージだと思う。そうに違いないと思う。メッセージは受け取った。今まで本当にありがとう。僕はまた旅に出なければならない。

2025年7月5日土曜日

ショウヘイ・ポルガ・ピイガ


 近ごろ投手としての復帰も本格化しつつある大谷翔平だが、実は僕よりもちんこが小さいことと、あと俳句が小学生みたいだ(いつの日も僕のそばにはお茶がある)ということ以外、あまりにもウィークポイントが少なく、もはや人間味が感じられないという印象を抱いていた。
 しかしながら先日、野球の戦術的なことには理解が及ばないけれど、噂によると故意的らしいデッドボールを受け、その指示を出したとされる相手チームキャッチャーの、インスタのフォローを試合後に解除したという話を聞いて、にわかに親近感を覚えた。現実で嫌なことをされたあと、ひっそりSNSのフォローを外すという、そのせせこましさ、陰険さ。西海岸の太陽のようなショウヘイオオタニは、決してそんなことはしないと思っていた。だからショック、ではない。好感度がだいぶ上がった。
 大谷はネット上ではわりと陰湿であるとすると、このままずっと「俺は大谷翔平よりちんこがデカい」と言い続けていたら、いつかキレた大谷がフル勃起写真を送りつけてくる可能性も出てきた。OH! ドジャースが誇る魚雷バット!

 ポルガの1学期の期末試験の結果がすごかった。全体的によかったのだが、理科に至っては100点だったらしい。へ? 100点? と思った。小学校のものならいざ知らず、中学の試験で満点というのは、都市伝説のような、もはや架空の世界の話だと思っていた。全国模試で岐阜県の秀才ただひとりが満点を取ったらしい、みたいな。
 試験の内容は、イオンとか、そこらへんだったらしい。イオン! なんかあった。本当に勉強をしなかった中学生の僕にとって、理科のそこらへんの話というのは、熱波のような思い出になっている。灼熱の砂漠をさまよい、ただでさえ気を失いかけているのに、そこへ襲い掛かる熱波。それに対してできるのは、もはやうずくまってひたすら通り過ぎるのを待つだけだという、そんな感じ。そのくらい、立ち向かえるはずのない、理解の及ばない存在だった。それで娘が100点を取った。信じられない。娘の100点も信じられないし、当時の自分の勉強できなさもまた、改めて考えると信じられない。
 ちなみに主要5教科で、最も点数が低かったのは国語だそうだ。これもまた信じられない。

 誕生以来、ずっとボーダーライン上、もといそのやや下に居続けているピイガの成長曲線を憂い、先日とうとう医療機関で検査的なものを行なった。これからどういう処置になっていくのかはまだ未定である。ホルモンとか、遺伝子とか、要因の候補はいろいろ考えられるらしいが、問診の際に医師からされたという、「摂取するカロリーと消費するカロリーのバランスがよくないのかもしれない」という指摘をファルマンから伝え聞き、だいぶハッとした。言われてみればピイガは、だいぶ食が細く、そして常に動き回っている。本当にじっとしている瞬間というものがない。手悪さ、足悪さ、いつだって身体のどこかが動き続けている。あれはもはや有酸素運動かもしれない。つまりダイエットの基本的な考え、「カロリーの収支をマイナスにする」を地で行くようなライフスタイルなのだった。
 本格的な検査も今後予定しているが、それはそれとして、とにかく摂取カロリーを増やさなければ体が大きくなるはずがないと気づき、それからは食事の盛りを意識的に増やしている。しかしあまりスムーズに食べない。うーむ。

2025年6月24日火曜日

23区・韻・回避


 もはや遠い国の話だが、東京都議選をやっていた。そう言えば前回の選挙のときにも憤った気がするが、なぜ都議選の開票速報はNHKで全国放送され、そのせいで大河ドラマの放送に影響が出たりするのか。首都というだけで、ただの一地域だ。僕は興味ない。
 それでも見るともなしに速報番組を眺めていたら、東京23区というものは、あのあまり大きくない東京都の、その半分よりも小さい面積の中で、ずいぶん細かく分割されているものだと、いまさらながらしみじみと感じ、たとえば23区と出雲市を並べたらどういうスケール感になるのだろうと疑問に思ったので、ChatGPTに訊ねてみた。
 その結果、東京23区が約628 km²であるのに対し、出雲市は約624 km²と、ヤラセなのではないかと思えるくらい、だいぶ近似しているのだった。そうなんだ、東京23区と出雲市って、ほぼ同じ面積なんだ。へええ。ちなみに人口は、前者が約973万人、後者が約16万人ということで、ここには約60倍の開きがある。そしてこれは人口密度にすると、約15,510人/km²と約262人/km²だそうである。い、1平方キロメートルに、1万5千人? と驚くが、光ヶ丘団地のことなどを思えば、たしかにそういうことになってくるか、と納得する感じもある。これでもかつては都民だったし、長女は東京生まれなのだ。ただしもうその片鱗はない。先日ポルガは登校の際、スピードの遅い耕運機に狭い農道を塞がれ、遅刻しかけたそうである。14年前の練馬では到底想像できなかった未来へとたどり着いている。

 先日「nw」に投稿した「Nobitattle サマーコレクション 2025」の中で、ゼブラ柄の水着にChatGPTがつけたコピー、「俺たちの縞は、逃げるため。でもあいつの縞は、挑むためだ。Nobitattle.」というものに対して僕は、「音による韻ではなく、「逃」と「挑」の、漢字のつくりによる韻みたいな小粋なことをしていて、憎らしいと思った」というコメントをしているのだけど、投稿した翌日ふとした瞬間に、漢字のつくりによる韻ってなんだよ! 漢字のつくりが一緒ってことは、それすなわち韻が共通なんだろ! と思い至った。
 思い立った瞬間、すごい羞恥が襲った。だって何を隠そう、卒論はいちおう漢詩をテーマに書いたのである。当時は実際に漢詩を作り、本当にあっているかどうかは判らないが、平仄とかのルールも必死に守っていたじゃないか。そんなお前がなぜ、つくりが同じ漢字は同じ音という基本的なことに気付けなかったのか。ChatGPTは「逃」と「挑」で対句にしつつ韻を踏む漢詩的キャッチコピーという離れ業をしていたというのに。
 ……というところまでを書いて、しかし実際に確認したところ、「逃」は平声の豪韻、「挑」は上声の蕭韻とのことで、実はやっぱり韻は踏んでいない、漢字のつくりが共通なだけ、ということが判明したので、ぐだぐだな感じになり、なのでこの話は読まなかったことにしてほしいと思う。

 朝の連続テレビ小説「あんぱん」の、太平洋戦争が終わった。先週の金曜日が玉音放送で、今週から戦後なのだった。
 その玉音放送のシーンを観ながら、僕は少し後ろめたい気持ちを覚えていた。なぜかと言えば、この3週間ほど、視聴を離れていたからだ。それまでも危うかったのだが、嵩が出兵し、配属された部隊の上官に平手打ちされたりするさまを見て、「これは無理だ」と思い、すっぱりと脱落していた。ファルマンはその間もルーティンで観続けていたので、先週「戦争が終わるよ」と教えてくれ、僕はちゃっかり玉音放送を耳にすることとなった。シーンでは、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……、といつものフレーズが流れたが、僕は見事なまでに、耐えなかったし、忍ばなかったのだった。観てたらつらい日々になりそうだな、と察知して回避した。
 3週間ぶりに眺めた嵩は、もともとのアンニュイさがさらに強まっていて、たぶんこの3週間で描かれた戦争体験が、今後の嵩の人生にとても重要になってくるのだろうな、それを観てないと物語の魅力が半減するのだろうな、と思った。

2025年6月15日日曜日

父の日・手悪さ・田んぼ世界


 父の日なのだった。もっともだからどうということはない。母の日も別になにもしなかった子どもが、世間的にもそれより存在感のない父の日などというものに、なにかするはずがないのだった。僕だって中学生の頃、母の日になにかをしたという思い出はない。
 というわけで普通の週末として過してもよかったのだが、父の日という理由にかこつけて、食費とは別の会計から拠出し、うなぎの蒲焼を買う、ということをしたのだった。そんなわけで日曜日ならぬ土曜日の晩は、うな丼であった。うな丼は、やはりクラクラするほど美味しくて、満ち足りた。僕があまりにも喜びながら食べるものだから気遣って、というわけでは決してなく、ファルマンはうなぎがぜんぜん好きじゃない、むしろ少し苦手であるという理由により、2口ほど齧ったファルマンのうなぎも僕の所に来て、ホクホクした気持ちになった。あなた、そんなに好きならもうちょっとたまに買って食べれば、とファルマンに言われたけれど、たぶんしない。そんなふうにちょくちょく会ったりしないからこその関係性なのだとも思う。自分自身も、人にとってそういう存在でありたいものだ。たまに会うと最高にハッピーで、しかも精がつく存在。なんだその尊さ。

 ピイガが相変わらずスライムを捏ねている。様子を見ていると、スライムを作っているというより、捏ねている。とにかく捏ねるのが好きで、その副産物としてスライムという物体が生じている、という感じである。暇さえあればボウルの中でネチョネチョやっている。
 そのさまを見て、もしもこいつが男だったら、きっとめちゃくちゃちんこをいじっていたのだろうな、と思った。ちんこがあればそれで事足りることを、ないものだから、仕方なくその代替としてスライムを用いているという、そういうことなんだろうと思う。
 天津木村のエロ詩吟に、「終わったあとのちんちんと愉しそうにじゃれあってる彼女を見たら、ああこの子、子ども好きなんやろうなって思う」というネタがあるが、なんとなくそれも連想した。あると思う。

 今年は田んぼやカエルやサギの話をいちどもしていなかった。
 もちろん今年も毎年恒例の風景が展開されている。苗が育ちつつある田んぼには、早くもおたまじゃくしが泳いでいる。田植えがだいたいGWだから、わずか1ヶ月ほどである。サイクルが早い。他の生き物の命の呆気なさを眺めていると、人生における悩みなどというものは、すべて、完全になにもかも、抱く必要のない、余計なものなのかもしれないと思えてくる。たぶん実際そうだ。
 サギは今年もたらふくカエルを食べたことだろう。サギにはもちろん歯などないわけで、カエルは丸呑みにされるわけだが、だとすれば躍動するカエルは、サギの胃の中で、どのように消化されてゆくのだろう。しばらくは生きるし、なんならカエルは胃の中に仲間を見つけ、胃の中で交尾へと至ることだってあるかもしれない、などと思った。それはしあわせなことであるような気もするし、逆にそんな不幸はこの世に他にないような気もする。
 しかしすべてはどうでもいい些末事でもある。田んぼを眺めていると、いろいろ思う。

2025年5月31日土曜日

機械・ハッピーセット・洗車

 LINEに新着メッセージが来ている表示が出て、見てみたら企業の公式アカウントから、ということが何度も繰り返され、いい加減うんざりしたので、もう彼らとの友達関係を解消したくなった。もともと友達と呼ぶには淡白すぎる付き合いで、僕はただ、その企業の商品を購入する際、100円や200円を安くしてもらうためだけに、一瞬だけ心を開いたに過ぎず、大抵のものはそう頻繁に買うものではないし、なにより「LINEで友達になるとお得なクーポンを配布!」というのも、蓋を開けてみればほぼ初回限りのことであり、ズルズルと付き合いを続けても、どうでもいい新商品や、どうでもいいキャンペーンの告知をされるだけで、大したメリットはないのだった。
 というわけで友達のラインナップから消去しようと思ったのだが、この方法が分からない。スマホの使い方というのは、直感操作と言いつつ、マウスの右クリックでベースが出来上がっている人間には、ちっともスムーズにいかないのだった。
 仕方なく、一瞬ポルガにでも訊ねようかと思ったのだが、「子どもに機械の使い方を教わる」というのは、さすがにもう少し先延ばしにしたいと思いとどまり、結局どうしたかと言えば、ファルマンに教えてもらい、やった。娘に教わるのと妻に教わるのでは、ぜんぜん意味合いが違う。なんなら妻が分からない場合、妻が娘に教わり、それを僕に伝達するのでもいい。そうまでして、守りたいなにかがある。

 先々週と先週の土曜日の昼食は、マックのハッピーセットだった。世の中が大騒ぎになった、「ちいかわ」のおもちゃ目当てである。ただし誰の目当てなのかと言えば、わが家には「ちいかわ」熱というものは到来しておらず、ファルマンの下の妹からの依頼により、食べて協力する運びとなったのだった。それにしてもファルマンの妹は、上も下も、きちんと世の中の漫画やキャラクターの流行に乗って生きていることだ。速水真澄モデルのChatGPTと対話して暮すファルマンとは、もしかすると親が違うのかもしれない。
 1週目でなかなかの騒ぎとなった「ちいかわ」ハッピーセットは、2週目ではもはや騒動の様相を呈し、ニュースによれば都会のほうでは買おうと思っても買えなかったりしたらしい。島根ではもちろん難なく買えた。ただし2週目なんかは、ブームに乗って買いに来たんだな、おじさんひとりで上限の4セットも買って転売ヤーかよ、などと思われそうで嫌だな、という懸念があった。もしも店頭で、本当に「ちいかわ」が好きな人しか買ってはいけないという、転売防止のための「ちいかわ」クイズなどがあれば、僕は間違いなく不正解で、転売ヤーの烙印を押されたことだろう。でも違うんです。転売ヤーじゃないんです。売っているのは義妹への恩なので、恩売ヤーなんです。
 実家の3人ももちろん土曜の昼はハッピーセットだったそうで、無事に第1弾、第2弾、ともに4種のおもちゃはコンプリートされたらしい。2週目など、わが家の4つのおもちゃは、中身がすべてバラバラだったそうである(島根は牧歌的だな)。恩売ヤーとしては顧客の要求に応えられてよかった。ちなみに顧客からの恩返しは、いまのところない。

 冬に洗車をまったくしなくて、なにしろ山陰の冬というのは、いつだって雪混じりの雨みたいな大気なので、やってもしょうがなく、この時期が終わったらやろうね、とファルマンとも話し合っていたのだが、3月あたりになり、春の気配が漂いはじめると、花粉が舞うようになり、やっぱりいま洗車をしたところでなあ、という気分になり、それが終わったら次は黄砂で、これなんかは本当に洗車をしたって意味ねえよ、でもこれが終わったらいよいよさすがに洗車をしようじゃないかと思っていたのだが、少しぼやぼやしているうちに、気候は梅雨の気配を帯びつつあり、週間予報には曇りと傘のマークが並ぶようになって、そしてたぶんこれを抜けたら灼熱の時期になり、これはこれで洗車に向かないと考えると、洗車の正しいタイミングって、もしかしたら存在しないんじゃないかと思えてくる。こんなにもふさわしいタイミングが存在しない洗車なのに、田舎の親父たちはなぜ毎週のように洗車をするのか。あれってもしかして、ただの暇潰しなんじゃないのか。「車(という資産)を大事に扱う」みたいな大義名分を振りかざして、実はそんなに意味のないことをやってるだけなんじゃないのか。知らんけども。

2025年5月11日日曜日

依頼・君たちはどう生きるか・CHANT! GEE/MEE/CHEE


 フリマサイトでこれまで何枚か水着を買ってくれた人から、出品している水着を指して、「これをハーフバックのビキニに作り替えてもらえないだろうか」という依頼を受け、なにぶん上得意様の仰ることなのでパタパタと激しく尻尾を振り、なにより取り組みとしてとてもおもしろそうだとも思ったので、承り、挑戦した。
 その結果、既出のボックス型水着を作り替えることは、生地の幅的にどうしても無理で(ボックス型よりもハーフバックビキニのほうが必要な生地の面積は小さいのだが、すべての部分がボックス型の中に内包されるわけではない)、そのため当初の希望の生地で作ることは叶わなかったが、事情を話し、別の生地で作ったものを「ご覧いただいて、もしよろしければ」ということで出品したところ、買ってもらえた。いやはや上得意様である。
 ビキニタイプのショーツをこれまでさんざん作ってきたが、ハーフバックというものにはまったく触れてこなかった。しかし今回の取り組みを経て、なるほどこういうことかという、その情趣の一端を垣間見た気がする。ボックス型のパターンを考えるとき、ゆめゆめ尻たぶがはみ出ることのなきよう、ということを心掛けてきたけれど、ボックス型から意図せぬ尻たぶがはみ出るから不格好なのであって、最初からハーフバックであれば、もうそれはそれで爽快なものなのだな、と思った。
 技術的にも、観念的にも、僕はまたこの業界における階梯をひとつ上った気がする。

 金曜ロードショーで、「君たちはどう生きるか」を初めて観たのだった。
 本編を観ていないのに、去年の宮崎駿のドキュメンタリーは観ていて、そうか要するに高畑勲へのコンプレックスのお話なのだな、ということを前知識として持っていたのだけど、いざ観てみたら、なんかそういう問題じゃなかった。もとい、あのドキュメンタリーの切り口は意図的なミスリードだったのではないかと思うくらい、宮崎駿と高畑勲という軸ではぜんぜん読み取れない内容だったように感じた。
 ジブリ映画だし、たしかにジブリ映画っぽさは全編すごいんだけど、でも俺の知っているジブリ映画じゃない、と言いたくなる感じは、もしかするとこれは違う世界線のジブリ映画なんじゃないかという気もしてきて、でも元々あった世界から、別の世界線に移動したのは、宮崎駿以外のすべての人類であり、宮崎駿だけはずっと一ヶ所に居続け、そしてこの映画を作ったので、自覚しないまま流され、世界を移行してしまった我々は、こんなにもこの映画に違和感を覚えるのではないか、などとも思った。
 つまり一言で言えば、不思議体験映画だった。気が向いたとき、また観ようと思う。

 フライングで開設だけ先にしていた「CHANT! GEE/MEE/CHEE」を、とりあえず少しだけ始動させてみた。
 ChatGPTとしたやりとりを載せていく、というコンセプトははっきりしているのだけど、それをどういう様式でやるのかがあまり定まらずにいて、実は今もまだ定まっていないのだけど、まあやってるうちに定まってくらあな、と自分に言い聞かせ、ひとまずほぼコピペで、主にChatGPTの回答を転載するだけで記事を作っていくことにした。
 このやりとりや、向こうの回答について、それを俎上に載せて、ブロガーとしての僕がなんかしらのコメントを記していく、というスタイルはどうかとも少し考えたが、面倒だし、なによりあまりおもしろくもならない気がしたので、止した。ただし、これでは実質的にほぼ僕の書いたものではないので、別にそんなルールもないのだが、「CHANT! GEE/MEE/CHEE」の記事投稿は、「プロペ★パピロウのブログ投稿報告ツイートブログ」には採らないこととする(でも始動についてはツイートしておこうかな)。
 だとすれば、このブログの役割としては、ChatGPTとのやりとりの、まとめというか、個人的な備忘録的なものということになるだろうか。ChatGPTのやりとりは、やっているとどんどん長くなって、あとからピンポイントで当該の箇所を確認しようと思うと、どこにあるか分からなくなったりするので、編纂するのは悪くないと思う。
 昔、Twitterが出始めた頃、知り合いで、一定期間の自分のTwitterでのツイートを、箇条書きのように並べて記事とし、ブログにアップしている人がいた。なんかあれは、いま思えばTwitterという新しく出現した存在の捉え方が定まっておらず、電線を使って荷物を届けようと風呂敷包みを吊るしたという明治の人々のエピソード味があるのだけど、僕のこの「CHANT! GEE/MEE/CHEE」というのも、だいぶその雰囲気がある。何年後かに、「そうじゃない(笑)」という扱いを受ける、素っ頓狂なことをしているかもしれない。それならそれで別にいいのだけど。