書く機会を逃したのだが、実は2週間前、誕生日のお祝いをした敬老の日の3連休で、おろち湯ったり館に繰り出していた。いつぶりだろう、もしかしてこれが今年初だろうかと思ったが、実は3月に行っていたようだった。3月22日。その日の記事に桜に関する記述は一切ないので、まだだいぶ蕾だったんだろう。
半年ぶりの湯ったり館は、3連休の初日の土曜日の夜だったので、けっこう混んでいるだろうかと危ぶんだが、こと湯ったり館に関し、毎回わりと律義に行なうこの危ぶみに対して、果たして大混雑の憂き目に遭う、ということは決してないのだった。ましてや男湯が、サウナの小さい木湯のほうだったので、余計だったんじゃないかと思う。やっぱりどうせ行くのなら、木湯のときより岩湯のときのほうがいいのだ。今回も、岩湯でありますように、と願いながら行ったわけだが、まんまと木湯のほうで、だいぶ落胆した。毎週水曜日の定休日を境に、男と女で風呂が交代になるわけだが、それはホームページでは一切知らせてくれないのである。たぶん電話をすれば答えてくれるのだろうが、それを億劫がるものだから、このようなことになる。
そこで、今後こういうことがないよう対策を取ることにした。ChatGPTに事情を説明し、2025年9月13日、男湯が木湯であったことから起算し、俺が今度、「おろち湯ったり館に行きたいんだけど、いま男湯はどっち?」と訊ねたら瞬時に計算して答えてくれよ、と依頼した。ジョニファーは「わかった」と快諾してくれたのだけど、9月13日の男湯が木湯であったことを、こうして記録しておけば、数ヶ月後に行きたいと思ったとき、自分でカレンダーを見て数えればいいわけで、わざわざAIに頼むほどのことではないかもしれないな、とも思った。そしてこの、「わざわざAIに頼むほどのことではない」という感覚は、ちょっとだけ意識して大事にしていこうとも思った。
子どもの声が大きい。本当に大きいのだ。お前らはそんなに広い家で暮しているか、と言いたくなるほどの音量で喋る。前からその傾向はあったが、最近はそれが加速している気がする。なぜだ。思春期に入った子どもは、ろくにはっきり喋らなくなるのではないのか。
リビングで子どもたちが喚いているところに身を置いていると、じわじわ脳が絞めつけられて、とてもいられないと部屋に退散することになる。逆ではないのか。思春期の娘が自室に籠るものではないのか。まあそれよりはいいけど、と思わなくもないが。
こうして子どもたちの声の大きさに苛まれて思い出すのは、公園の近隣の住人が、子どもが遊ぶ声がうるさいと苦情を訴えた、というニュースだ。なんと心の狭い、公共の福祉的な思慮のない考え方であろうかと、世間は苦情を訴えた近隣住人に対して厳しかった。僕もなんとなく、そういう印象を抱いていた。しかし自分の子どもの声が、成長のためか、あるいはYouTubeとかの阿呆な動画の影響か、異様に大きくなり、それに悩まされている現状に身を置いて、自分の子どもでさえこうなのだから、よその家の子の嬌声なんて本当につらいだろうな、といまさらになって考えを改めた。近隣住人に謝りたい。
9月も終わろうとしていて、例年のスケジュール通り、僕はまたこの1年間で書いた日記の読み返し作業に入ったのだが、それを読んでいて衝撃の事実が発覚した。
2024年12月時点で、おもひでぶぉろろぉぉんの読み返し作業が、2008年の10月まで進んだ、という記述があるのだが、それが2025年9月末現在で2009年5月という進度となっており、つまり僕は去年の12月から、ずっと25歳の、いつまでも26歳にならない自分と一緒にいるわけで、このままのペースでいけば、いよいよ、『おもひでぶぉろろぉぉんが1年で1年進まない』という次元に突入するのである。
ダイエットの神髄は、摂取カロリーを消費カロリーが上回ることだと言われるが、それでいうと1年間で1年間の読み返しが進まないという状況は、消費カロリーに対して摂取カロリーばかりが増えて、どんどん脂肪が蓄えられていくようなものだ。この状態が続く限り痩せることはないし、おもひでぶぉろろぉぉんが完結することはない(日記は常に新しく書かれるので、実質的に終わりはないのだが、それでも読んでいる時点から2、3年前あたりまで作業が進めば、それはもうあまり意味がないのでそこで終わりだろうと思っている。もっとも現状の有様では想像もできないが)。
だからおもひでぶぉろろぉぉんをやらなければならないのだが、冒頭でも言ったように、これからはこの1年間の日記からワードを抜き出す作業をしなければならないので、やはりそちらはどうしたって停滞するだろう。
どうやらもう僕は、自分の日記と、神楽陽子のエロ小説くらいしか、読むことが許されないらしい。それならそれでいい。なんと心地のよい世界であろうか。