2024年10月26日土曜日

図書館遍歴・母校・41の別れ

 先日島根県立図書館に行き、カードを作ろうとしたところ、あなた方夫婦は12年前に既にカードを作っているから家でそれを探せと言われてしまい、子どもらと違って、ラミネートされない仮のカードしか発行してもらえなかった。
 仕方なく帰宅後、カードの捜索をする。たぶんすぐに出てくるだろうという予感があった。不要になったカード類をまとめて入れておくボックスケースみたいのがあり、そこにはお店のスタンプカードや、病院の受診カード、交通系ICカードなど、人生のさまざまな場面で作り、そして暮しの変化によってもう要らなくなったカードが、塊となって詰め込まれているのだった。そこ以外に考えられない。
 ところがである。最初から最後まで、すべてのカードをチェックしたが、目的のものはとうとう出てこなかった。存在をすっかり忘れていたような施設のカードがある一方で、本当に必要とするものが見つからない。得てしてそういうものだと思う。
 なにが悔しいって、島根県立図書館以外の図書館カードの充実だ。なんと所沢市立図書館の貸出カードなんてものさえあった。大学生の頃に作ったやつだ。それから練馬区があって、倉敷市があって、岡山市があって、早島町があって、玉野市があって、岡山県があった。それなのに島根県立図書館のカードだけがない。時期としては、第一次島根移住のときだから、練馬区と倉敷市の間のはずである。でもそこだけがなぜか抜け落ちているのだった。
 それにしても多い。これ以外に、横浜市でも貸出カードは作っていたし、高校のあった世田谷区でも作った(この2枚はさすがになかった)。島根においても、こちらは現役で財布の中にあるが、今回の県立のほか、3つの市でカードを作っている。以上を合計すると、僕は13の自治体で貸出カードを作っていることとなる。これはたぶんだけど、だいぶ多いほうの部類の人間だろうと思う。

 高校のあった世田谷区、というのがちょうど関連してくる話題。
 先日プロ野球のドラフト会議があって、今回は夏の大社高校のことがあり、部員の誰かがプロ志望届を出したという話もあったので、結果はどうだったのか気になって、各球団の指名一覧を眺めたのである。ちなみにだが、大社高校からは誰も選ばれておらず、それもそのはず、きちんと検索したら、誰もプロ志望届なんか出していなかったらしい。なんだよ。
 しかし大社高校が気になって目にした育成枠のところに、想像もしていなかった学校名を見つける。日本学園高校である。なにを隠そう、母校だ。中学で勉強をまったくせず、地元の公立高校のどこにも行けなかった僕が、なぜか推薦で入れた私立の男子校。ホームルームで担任が、「登下校でタバコを吸うときは、持つ位置に気を付けろよ、手を垂らして持ってたら、それは幼児の目の高さだからな」と注意するような、いま思えばとんでもない学校だった。もちろんスポーツに秀でているということも決してなく、サッカー部はそれでもそこそこだったんじゃなかったかと思うが、野球部に関してはまったく印象がなかった。そんな母校から、育成枠とは言え、プロ野球選手である。しかもソフトバンクの、育成1位と来たもんだ。なんだそれ、と衝撃を受けた。
 衝撃を受けたが、驚きを語り合う当時の同級生なんかはひとりもいないので、ひとりで粛々と、指名された子のニュースなどを読んだ。読んだところ、日本学園高校は2026年から明治大学の付属校となり、明治大学付属世田谷高校に名前が変わるという情報が出てきたので、また驚いた。母校、そんなことになっていたのか。日本学園といいつつ日本大学とはなんの関係もなく、それでいて最寄り駅は明大前であったから、近場の明治大学とくっつくことにしたのだな。ふうん、としか言いようがない。
 ちなみに26年の新体制開始のタイミングで、共学化もするとのことである。そうか……。俺の母校は、共学の世田谷高校になるのか。なんだそれ。

 おろち湯ったり館へ行く。8月の、帰省から戻ってきた直後になぜか行って、キャッスルイン豊川に較べて見劣りするなあと感じて以来、2ヶ月ぶりの訪問である。あれは行ったタイミングがあまりにも悪かったが、そのときの思い出が薄れたいま、ふたたびおろち湯ったり館がしっかり愉しめるのではないかと期待して行った。
 しかし行く前から懸念があり、ふたつ前の記事で書いたように、なんか自分用のサウナマットを用意しなければならないシステムになったらしい。それが実際どのような感じなのかを探るという目的もあった。
 行ったのは金曜日の夜。土曜日に行こうかとも思っていたが、退勤が早く成ったので、いっそ今日のうちに済ませてしまおう、という感じで行った。サウナマットは持っていないので、受付で購入した。8つ折りの、発泡スチロールみたいなやつ。250円。タオルのように、おろち湯ったり館のロゴでも入っていたら、500円でも喜んで買うのだが、パック詰めされた無地の既製品である。色は赤と緑の2種。なんとなく赤を選んだ。
 サウナに入ると、なるほどこれまでのようなバスタオル的なマットがなくなり、各人が自分のマットの上に腰を下ろしている。寂しい、と思う。また、なんとなくこれまでよりもサウナ内の空気が乾いている感じがする。そんなことを言ったら、これまでのタオルマットが湛えていた水分はおっさんたちの出した汗だぞ、という話になってくるのだが、とにかくこれまでとは明らかにサウナの性質が変わった。さらには、使用後の座面を拭くための雑巾までが用意され、出るときはそれで座っていた部分を拭くというのがルールらしい。なんだよこれ、と思う。こんなしちめんどくさい、ちょっとなにかを疎かにしたらルール厳守勢からすかさず窘められるようなサウナ、嫌だよ。サウナっていうのは誰にも邪魔されず自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ。そもそもサウナっていうのは汗をかく場所なんだから、その汗をそんなに汚らわしいものとして排除しようとするのは、どう考えても矛盾している。そんなこと言ったらプールだって、水泳という運動をしている人のかいた汗がたっぷり含まれている。さらに言えばサウナという密室に大勢で入っている時点で、互いの口腔や肺を出入りした空気を吸い合っているのではないか。そんなことを気にし出したら、生きていけないだろう。なんなんだ、この神経質な人に合わせた仕様は。なんだかすっかり嫌な気持ちになってしまい、サウナにはそれきり入らなかった。外気浴のために上がった2階は貸し切りで、それはよかったけれど、以前のような、たった1回のサウナですかさずととのうような満足感からはほど遠く、哀しかった。僕とおろち湯ったり館の蜜月は、終わってしまったのだと思った。
 ともに過した愉しかった日々を思い出しながら、暗い雲南の夜道を、車を走らせ帰った。窓に映る僕の横顔には、涙が浮かんでいたとかいないとか。

2024年10月20日日曜日

いい趣味・韓ドラ・作業

 前に義母と義妹に会ったときに、どういう話の流れだったか、「トップバリューの鈴カステラがとてつもなくおいしい」ということを語ったのである。相手にそこまで言われれば、「それならいちど食べてみたいものだ」と相槌を打つのは、対話として当たり前のことで、しかし世の中の人はなかなかそれで本当に買って食べるということはしないものだから、そのあと自分が買ったついでに、ひと袋を実家にプレゼントしたのだった。ちょうど義妹が10月中旬に誕生日だった、というのもよかった。税抜き98円。
 それから数日して、また顔を合わせたときに、「鈴カステラは食べたか」ということを訊ね、それに対して向こうが返事をする前に、「おいしかったろう」と言葉を重ねた。結果、「うん、甘くておいしかった」という、それ以外許されないだろ、みたいな答えが返ってきたので、満足した。
 たぶんふたりは、長女の夫がひとりで上げに上げたハードルを飛び越えるほどには、トップバリューの鈴カステラに感動しなかったろうと思う。それはそうなのだ。鈴カステラを数年ぶりとかに食べた人に、簡単に感動してもらっては困る。鈴カステラってそういうもんじゃない。僕はモロッコあたりの伝統食であるクスクスを食べたことがないが、もし今後、食べる機会があったとしても、クスクスという食べ物の情趣は、いちど食べたくらいでは理解が及ばないに違いない。そういうものだ。ものの価値は、それなりの蓄積と素養がなければ、享受できないのだ。もしかしたら僕は、その蓄積と素養に裏打ちされた特権思想、自分は価値の解る人間であるということを実感したいがために、トップバリューの鈴カステラをこれでもかと賛美した上で民衆に与える、という行為をしているのかもしれない。だとすれば、なんといい趣味か。

 ファルマンに強く勧められたので、僕も『愛の不時着』を観はじめている。キプチョゲ並みのハイペースで全話を観終えたファルマンに対し、ビギナーの市民ランナーのような速度でゆったりと観ている。そのぶん景色がよく見えるかと言えば、キプチョゲと市民ランナーがそうであるように、別にそんなこともない気がする。そもそも熱量が違うのである。
 ちなみに、いわゆる恋愛ロマンス的な韓流ドラマを観るのは、これが初めてなのだけど、たぶん『愛の不時着』というのは、大ヒットしただけあって、韓流恋愛ロマンスのエッセンスが高純度で上質に含まれているのだろうと思うが、観ていて、なるほど世の中の(元)乙女たちが韓流ドラマにハマるのは、こういう要素に拠るものか、と得心している。それはまあ、ズキューンと来ちゃうよね、と。
 しかし翻って、妻たちにこんな世界に憧れを抱かれちゃあたまらないな、とも思った。
 僕は今からどうしようもない喩えを言う。きちんと断ってから言う。「こんなことを言うとセクハラだって言われちゃうけど、」という前置きをしてから言うセクハラ発言はセーフ、という意味のよく分からないあのテクニックの応用である。
 韓流ドラマってあれ、床オナじゃないですか。
 あんなものに慣れられてしまったら、現実の刺激程度では反応できなくなると思う。これは男がAVを観るのとは違う。男は物理的な快楽しか求めていないから、床オナのような行為をしない限り、AVと現実は両立する。でも女性の場合は、「女の子のいちばんの性感帯は頭の中にある」という言葉があるように、韓流ドラマによってもたらされる精神への快感は、現実での性的な行為をした場合に注がれるのと、同一の容器に充填される感がある。そうなってくると、現実はもう手も足も出ない。床オナのもたらす強い刺激に対して、現実のそれはあまりにも締まりが悪いと思う。

 今年もはじめた。なにをって。この時期にはじめるものといったらひとつしかない。cozy ripple名言・流行語大賞のための1年間の日記読み返し作業である。
 ここ数年、今年はそこまで記事数もないし、そもそも昔のように、意識してオリジナルの言い回しを生み出そうという熱情があるわけでもないので、挙げられるような候補語がほとんどないかもしれない、と不安を抱きながら作業に取り掛かるのだけど、やりはじめたら、なんだかんだで、あるのだ。日々まじめに生き、減ったとはいえ毎月最低10記事はやろうとしているので、そういう人の所に、キラリとした言葉は、どうしたって舞い降りる。そういうものなんだと思う(もちろん本人のセンスによるところも大きい)。
 それにしても、自分の日記ばかり読んでいる。おもひでぶぉろろぉぉんでは2008年の日記を読み、大賞ではこの1年の日記を読み、さらには先日プール習慣をはじめた時期について言及した2019年あたりの日記がやけにおもしろく思えたのでその頃の日記も読んだりして、本当に僕は僕の日記ばかり読んでいる。表現とはオナニーであるならば、僕の主食は、僕の射出した精液なのかもしれない。へー、パピロウのってこんな味なんだね。

2024年10月14日月曜日

おろちよ・鬼滅・サブスク

 この3連休でほんの少しだけ、行こうかなという思いが脳裏を掠めつつも、それでも結局は行かなそうな情勢の、おろち湯ったり館なのだけど、思いを馳せた際になんとなく、公式ホームページを開いて見てみたら、サウナの利用に関して、『各自携帯用サウナマットをご持参ください お持ちでない方はご利用いただけません タオルのみでの利用不可』という告知がなされていて、驚く。よそではあまり聞いたことがないルール。おろち湯ったり館にいったいなにが起きたのだ。
 これまでは、山吹色のパイル地に焦げ茶色のパイピングがなされた、あの典型的なデザインの、バスタオルほどの大きさのマットが、座面全体に敷き詰められているというスタイルで、いや、もちろん、不特定多数の人が利用するそこに裸の尻を置くのは、考えようによっては抵抗を覚えることなのかもしれないが、しかしサウナは利用前も利用後も清潔にするのが前提であるから、僕はこれまで特に気にしていなかったし、もしも気にする向きがあるというならば、その人は個人用のサウナマットをその上に敷いて座ればいい、と思っていた。だがルールが変更になったということは、それではよろしくない、ということになったのだろうか。
 以前、第二次島根移住プレスタートのいろいろつらかった時期、体をあまり拭かないでサウナに入室したら常連の老人に叱られて心がぽっきり折れたという出来事があったが、基本的に外部の人間が著しく訪れない、雲南の地元常連客ばかりが信じられない濃度ではびこるおろち湯ったり館のこと、あの輩の訴え次第で施設のルールは簡単に捻じ曲げられそうだ、などと思う(こんなふうに書くとすごく嫌な施設のようだ)。
 だが、ルール変更後に行ってもいないし、情報は一切ないけれど、たぶん今回の件はそういうことではなくて、人件費の削減とかかな、と捉えた。タオルマットは一定時間で交換していたが、狭くないサウナの座面に敷き詰められるだけのマットを、従業員が抱えて持ってきて、その姿が出入り口に現われるのを見るや否や、サウナの中にいた客は一斉に立ち上がり、自分の周辺のマットを取り上げ、中央スペースにドサドサと積み上げ、代わりに新しいマットを受け取って皺のないように敷く、というのが暗黙のルールとなっており(また初見殺しの厭らしさが露見してしまった)、でも僕はそれ自体は、プチイベントな感じでちょっと愉しくて嫌いじゃなかったのだけど、個人用携帯マット必須ということになれば、タオルに関わる交換および、当然バッグヤードにおいて発生していたであろう洗濯の労力も省けるわけで、要するにそういうことなんだろうと思った。
 おろち湯ったり館、このご時世に値上げもしない(それこそ常連の輩の圧力かもしれない)ので、経営状況はいかがなものなのか、これまでも心配する部分はあったが、今回のことはその兆候ということなのやもしれない。それにしても、共用のマットがないのは別にいいが、各人が携帯用のマットを持ってこなければならない(持っていない人は受付で販売しております)というシステムは果たしてどうなのか。そのスタイルの場合、施設側が、あの座布団みたいな個人用のやつを用意するものではないのか。それを運用する余裕もないということなのか。心配は募る。

 すごくおもしろい漫画に出会った。
 みなさん、『鬼滅の刃』って知ってますか。もう連載は終了してしまっているんですけど、すごくよくできた作品なので、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいと思い、ヤホーで調べてきたんで紹介していきたいと思います。
 ヤフーだよ。あとみんなもう知ってんだよ。なんならもうブーム終わってんだよ。
 という、まさにナイツの漫才みたいに周回遅れなのだけど、このたび『鬼滅の刃』にハマった。最終23巻の発行が2020年12月のこと。4年遅れ。へそ曲がりにもほどがないか、と我ながら思う。
 逆になぜこのタイミングで読みはじめたかと言えば、晩春くらいに、図書館でたまたま前半の巻が並んでいるのを見かけ、じゃあ読んでみようかと借りて読んだのである。そのあと夏の帰省の際、あの夢のようだったキャッスルイン豊川でも何冊かを読み進め、そしてこの秋、残りの巻をまた図書館で借りて読みきったという次第である。
 ファルマンは途中で脱落し、僕とポルガだけが最後まで読んで、ハマり、そしてそんなふうに保有せず不自由に読んだくせに、最後まで読んだ末に、おもしろかったから持とう、ということになってブックオフで買い揃える、というよく分からないことをした。ちなみに全巻110円だった。当時、異常なブームで異常に売れてたっぽいもんな。
 ところでこの5年ほど、生地選びの際、『鬼滅の刃』関連の、市松であったり麻の葉であったりの文様の柄のことを、わりと疎ましく感じていたわけだけど、いまさらになって、緑と黒の市松模様かっけー! 俺も炭治郎みたいになりてー! と思うようになり、生地が欲しくなった。そうか、だからあいつら(小学生男子)はコロナ禍、猫も杓子もあの柄の布マスクをしていたのか。しかしいまさら布マスクであるはずもなく、どうしたって僕の場合は水着生地ということになり、たしかに御用達の店でも『鬼滅の刃』の各種柄のプリントは販売されているのだが、これまでずっとそのページには見向きもしていなかったのだが、今回ようやくきちんと見てみたらば、緑と黒、ひとつひとつの四角が一辺5cmという大柄だったため、ちょっと水着には不向きそうで、残念だった。もう少し細かいデザインだったら、たぶん本当に買って、水着を作っていた。俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できずに買っていたと思う。

 9月から加入したNHKオンデマンドで観ていた『平清盛』を、この夫婦は近ごろ観ないじゃんね。10日前くらいに観たとき、その日眠かった僕が、最後のほうすっかり舟を漕ぎはじめ、それにファルマンが苛ついて以来、すっかり観なくなってしまったじゃんね。
 世間の評判こそいまいちながら、ちゃんと観た人の評価はけっこう高いという触れ込みの『平清盛』だが、どうやら我々はそこまで到達せず、脱落してしまいそうである。『光る君へ』に触発されて観はじめたところがあるわけだが、そちらのきらびやかな絵面に対し、『平清盛』の泥臭さは、なるほどかつての兵庫県知事が苦言を呈したように、だいぶ観る上でのハードルを上げると思う。
 それとこれは作品自体には関係ないが、amazonプライム経由のNHKオンデマンドは字幕機能がないため、それも視聴の障害となっている。晩酌の際に観るので、そこまで大きな音量にできず、『光る君へ』でもそうだが、時代物なんかは特に、わりと字幕に頼って観ているところがある。実際、字面で把握しないと意味が掴めない固有名詞がたくさんあるじゃないか。それでも昔は字幕なんかなかったんだから頑張れよ、と言われればそれまでだが、晩酌しながら観るドラマで余計な神経を使うのはストレスだ。現代人はそんなストレス、受容できないのだ。
 そんなわけでNHKオンデマンドは、たぶん10月でおしまいにすると思う。あと、ここまでつらつらと正当な理由っぽいことを述べてきたが、『愛の不時着』観たさをいよいよ我慢できなくなったファルマンが、このタイミングでネットフリックスに加入したため、みんな大喜びで『T.Pぼん』や『らんま1/2』などを観るようになったというのが、実は身も蓋もない真相だったりもする。ちなみにいま夫婦の晩酌時間では、『イカゲーム』を観てる。わが家はどうも3年から4年ほど遅れて世の中のブームがやってくるようだ。

2024年10月9日水曜日

検索・サンマ・巡る

 前回、ファルマンが「BUNS SEIN!」Tシャツを着ていた、という話を書いた。ファルマンはもちろん家でしか着ないのだが、僕は気が向いたときは外出時にも普通に着るわけで、この人間の脳とスマホが直結した世界で、もしも文面を検索されたらよろしくないよな、とは前々から思っていた。思っていたが、実際に検索を実践したことはこれまでなかったので、今回のことをきっかけに初めてやってみた。Googleで、「BUNS SEIN!」と。そうしたら、まったく僕に関連するページが出てこなかったので、拍子抜けしたし、戸惑いもした。「Bun Sein」という人のSNSは出てきて、どうもSeinというのはミャンマーにある名字らしいのだが、「BUNS SEIN!」で検索しているのだから、ブログ「BUNS SEIN!」が表示されて然るべきではないかと思った。
 それで、にわかに気になりはじめたので、次に「おこめとおふろ」で検索をしてみた。すると、香川県にあるという、60代夫婦が営む農家民宿が出てきた。「おこめとおふろ 稲木家」という屋号らしい。うそーん、と衝撃を受けた。
 最後に、さすがにこれならばと、「パピロウせっ記」で検索をしたところ、ようやく検索結果に出てきたのでホッとした。Blogger、あまりの商売っ気のなさに、Googleはいったいどういう意図でこのサービスを継続しているのだろうと疑問に思うことがあるが、Googleで検索してもこんなに表示されないだなんて、本当になんなのだろう。なるべく人に読ませたくないと思っているのだろうか。隠れ家ブログ。取材は一切お断り。1日1組限定。ここを知ってるなんて、おたく、通だね。いつか行こうかな、稲木家。

 ここ2年くらい不漁だったサンマが、今年はわりといい感じだというニュースがあり、ほうそうかと思っていたら、後日スーパーで、なるほどまあまあ安い値段で売られていたので、これならよかろうと思い、4尾買って夕飯にした。この2年間、まるで食べなかったわけではないのだけど、あまり印象に残っていない。特に去年なんかは、1尾が300円くらいしたため、4尾で1200円と考えるとバカらしくなり、ろくに食べなかった気がする。
 それで久しぶりにきちんと食べたサンマはどうだったかと言えば、それはまあ、もちろん美味しかったのだけど、しかし食べながら、秋口の初サンマって、もっと気持ちが盛り上がるものではなかったろうか、ということを思った。このたび僕は、終始わりと淡々とした気持ちで、サンマと接したように思う。
 これはなぜかと考えて、それはやっぱりこの2年間の無沙汰のせいだろうと思った。定番の関係性が崩れ、距離ができ、よそよそしさが生れてしまった。
 そのことに気付いた次の瞬間、松本人志のことを思った。松本人志が活動休止をした直後から、僕は「数ヶ月間テレビに出ていなかった松本人志を見るのが怖い」ということを思い続けている。いつ復帰するのか判らないが、復帰直後は、たぶんどうしたって、テレビタレントっぽさが削げていることだろう。松本人志のその感じが、僕はすごく怖い。だからなるべくならトカゲのおっさんの姿とかで出てきてほしい。

 ファルマンの母方のおじいさんが亡くなった。
 通夜が火曜で葬式が水曜という、あまりに平日の日程だった上、ポルガの中間試験が間近ということもあり、僕と子どもたちは参列せず、ファルマンだけが岡山に行ってきた。三女の車に同乗させてもらい、葬式だけの日帰りである。
 おばあさんが亡くなったのがいつのことだったかと自分の日記で確認したところ、2019年の1月のことだった。当時は岡山在住であり、祖父母の居住エリアまで車で30分程度だったので、行きやすかった。子どもも8歳と5歳だったわけで、一家全員での行動が当たり前だった。それから5年9ヶ月後の今回、ファルマンが早朝に家を出て、僕もいつも通り、子どもたちがまだ寝ぼけ眼みたいな状態のタイミングで出勤をしたので、朝ごはんこそ用意したものの、それ以降の登校に関することは本人たちにやらせ、玄関の戸締まりも、ピイガのあとに出発するポルガに任せた。家庭によっては中学生でそんなのは当たり前だったりもするのだろうが、ファルマンが常日頃とにかく家にいるわが家の場合は今回が初めてであり、もうそういうことができるようになったんだなー、という感慨があった。
 時代は巡る。子どもは大きくなり、そしてわれわれの代の祖父母というものはいなくなりつつある(横浜に元気なのが残っている)。

2024年10月2日水曜日

オカン部屋着・たけし・We Are The World

 よく、オカンが自分の中学時代のジャージ部屋着にしてんだけど! という笑い話があるけれど、それに類する出来事なのかなんなのか判然としないが、ファルマンが先日、胸に「BUNS SEIN!」とロゴがプリントされたTシャツを着ていた。かつて僕がプリントしたやつだ。自分のTシャツが出払っていたのか、僕のタンスの引き出しから適当に選び、着たものらしい。勝手に着る分にはもちろん別に構わないのだけど、どうしたってツッコまずにはいられないのは、お前、それ、「BUNS SEIN!」だぞ、ということだ。BUNSは僕の提唱する女性器の呼び名(ソーセージを受け止めるものだから)であり、SEINはたしかドイツ語で「存在する」なので、併せることで「まんぐりがえし」を意味している。その言葉がプリントされたTシャツなのだ。もちろんファルマンも言葉の意味は知っている。知っているが、部屋着なのでなんだってよかったのだろう。だからってさすがにどうなんだ、とも思う。おもしれー女!

 宮崎空港で不発弾が爆発していた。その爆発により直径7メートルの陥没ができ、滑走路は閉鎖されたという。専門家の話によると、宮崎空港のある場所にはかつて海軍基地があり、不発弾がたくさん埋まっているのだそうだ。そして、それは普通だったら爆発することはまずないのだけど、強い衝撃や振動が加わると、今回のように爆発するケースがあるという話だった。
 宮崎空港には縁がないし、今後も利用する見通しがないので、まったくの他人事として今回の話を受け止めているのだけど、強い衝撃や振動によって作動するかもしれない不発弾がたくさん地中に埋まっている空港って、なんかあまりにもすごい話ではないだろうか。それってもはや風雲たけし城の世界観ではないのか。思わず、あの池に浮かんだ石を飛び移って進むやつを思い出した。ハズレだと沈むやつ。あの世界観だと思う。

 本日のプールは、館内BGMが80年代洋楽ヒット集で、いつものようにまず流れるプールに入ったのだが、そのとき掛かっていたのが「We Are The World」だった。
 流れるプールで歩いているときは、泳いでいるときと違い、視覚や聴覚は遊んでいるため、わりとBGMをよく聴くことになるのだが、「We Are The World」、きちんと聴いてみたら、めっちゃいい歌。いっぱいいる一流シンガーが、ひとりひとりに与えられた短いパートを、それぞれこれでもかと力を込めて歌うから、なんかずっとすごいテンションでいい歌であり続ける。そして長い。帰宅後に検索したら、7分あるらしい。流れるプールを2周くらいする間、ずっと「We Are The World」だった。
 労働後の、リフレッシュのためのプールであるわけだが、なんか望外の効用というか、まったく予想していなかった方面から、心が洗われた感があった。流れるプールなので、みんな基本的に同じ方向を向いて進んでおり、自分からは前をゆく人たちの、水面から出た後頭部だけが見えるわけだが、その画がなんか示唆的というか、水、河、人、生命、死、We Are The World……、となんだか哲学的な気持ちになった。変な教団のプールみたいだな。