2025年3月19日水曜日

老褒められ・財前くん・樹脂粘土と折り紙

 先日スーパーのパン売り場で、どれを買うか悩んで棚を眺めていたところ、「ねえ」と後ろから声を掛けられる。振り返ると80歳前後あたりの、品のいい老婦人である。もちろん知らない人だ。老婦人は僕のほうをじっと見つめ、感嘆するようにこう言ったのだった。
「とっても素敵ね。コーディネートが。すごいわ」
 去年の秋口にプールの更衣室でじいさんに腹筋を褒められて以来の、年寄りに褒められるシリーズ。裸も褒められるが、服を着ていても褒められるのだ。なんだ僕は。そしてなんで年寄りばっかりなんだ。島根県だからだろうか。
「えー、ありがとうございます」
 と、とりあえずお礼を言った。
 老婦人は、特に僕の提げているトートバッグに目をやっている様子があり、それはオリジナルのヒットくん生地トートバッグだったので、いちばん褒められがいのあるものであり、とても気分がよかった。minneでは結局いちども売れなかったけど、僕だけは何年もずっと使い続けていて、そして見るたびにたしかに「素敵」なのだった。刺さる人には刺さるのだ。
 ちなみにだが、この出来事があった翌日もまた、スーパーで買い物をしていたのだけど(毎日せっせとスーパーに行くことだ)、今度は売り場の60歳くらいの女性店員から、おもむろに「おしゃれですね」と声を掛けられ、2日連続の記録を作ったのだった。
 ファルマンにこのことを話したところ、少し反感を覚えたらしく、「普通の男の人はあなたみたいに異様に派手な色の服は着ないからね」と呆れたように言われた。知っている。大抵の大人の男は、黒、白、灰、紺、茶しか着ない。靴を左右で別の色にしない。

 Netflixに「白い巨塔」が出たので、喜んで観ている。実は放送時、観ていなかったのだ。ちなみにフジテレビの唐沢寿明ver.であり、確認したところ放送は2003年10月から2004年3月までだそう。僕は大学2年生で、ファルマンとは既に付き合っていた。そういう時期か。ファルマンは当時きちんと観ていたようで、そう言えばこれまでの人生において、伊武雅刀演じる鵜飼教授のモノマネを、ファルマンは何度か僕に向かってやっていた。しかし僕はドラマを観ていないものだから、鵜飼教授のモノマネではなく、伊武雅刀のモノマネとしてそれを受け止めていた。今回20年越しにドラマを観ることによって、初めてあのモノマネの情趣を理解することができるようになる。めでたい。
 「白い巨塔」は観なかったし、そのあとの「不毛地帯」も、途中から慌てて観はじめるという不まじめな視聴しかしていないので(ちなみにファルマンは「不毛地帯」からは遠藤憲一のモノマネを得意としている)、そのうちそちらも配信されたらいいなと思っている。
 あと、このタイミングで「白い巨塔」が配信開始したのは、フジテレビの不祥事がきっかけなのだろうか、まさかそんなことはあるまい、と頭では思いつつも、暮しに困窮して身体を売る的なイメージを思い浮かべてしまい、そうなるとどうしたって、コロナ禍のときの岡村隆史の発言なんかも思い出し、そうか、もしかしたら普段では考えられないクオリティーのものが下りてきているのかもしれないな、などと思ったりした。あの発言は本当にひどかった。たまにこうして蒸し返してやるのが道義というものだと思う。
 それはそれとして「白い巨塔」はなるほどおもしろい。2クールなので、たっぷりある。嬉しい。

 ピイガは前々からハンドメイド、もとい手仕事をよくやっているが、手芸、工作、スライムと来て、いまは樹脂粘土によるネイル製作に熱中している。こういうものである。


 こういう食品サンプルみたいなものを作って、


 なぜかこうする。もちろんこれで日常生活を送るわけではない。着けていたらなにもできない。じゃあなんなんだ、と言われるとよく分からない。たぶんYouTubeとかで観たんだろうと思う。やりすぎおもしろネイル、みたいな趣向か。
 ネイルうんぬんは別として、樹脂粘土での造形には目を瞠るものがある。すごく細かい。鮨にはネタにサシまで入っている。こんなん、めっちゃ愉しんでやってんだろうな、と思う。逆に言えば、作るのが愉しいと感じる人間でなければ絶対に作らないものなので、確実にプラスの感情で作られたものということが保証されており、そういう意味で、望まれて生まれた子的なハッピー感があるな、とも思う。
 そしてピイガのこれを眺めていて思ったのは、ピイガのこの嗜好というのは絶対に僕から来ていて、つまり僕とピイガには同じような衝動、湧き上がるものがあるわけだが、じゃあ僕はピイガの年齢の頃なにをしていたかと言えば、ひたすら、小さくカットした紙で鶴を折っていたわけで、そこになんとなく、忸怩たるもの、と言えなくもない、若干のやるせなさみたいなものがある。僕も子どもの頃、YouTubeとダイソーがあれば、同じようなことをしていたはずなのに、なかったものだから、折り紙だった。この、折り紙というのが、なんかもう、2000年代生まれの人間に対して1000年代生まれの人間というのは、源頼朝とか織田信長とかと同じ括り、みたいな、なんかそんな隔世の感がある。折り紙て。折り紙で、鶴て。そんなものがエンターテインメントだった時代が人類にはあったのです。私の幼少期はそんな時代でした。そんな頃に両親が離婚しました。