2024年6月20日木曜日

折り合い肝臓・あさきゆめみし・AIグラビア

 先週は体がやけにしんどくて、要するに暑さに体が適応できていないのだ、早く折り合いをつけたい、と大いに嘆いたけれど、今週からはだいぶ持ち直している。栄養ドリンクを飲んだり、パソコンをするときの体勢を変えてみたり(これまで姿勢の悪さをさんざんファルマンから注意されていた)という細かい改善策のほか、なにより月曜日から今日まで、酒を一滴も飲んでいない。これが大きいと思う。結局ああいうときの体の重さって、得てして肝臓に起因するものだろう。だから今週は大いに肝臓を労わっている。飲み会でもないのに、「ウコンの力」を飲んだりもした。肝臓はさぞびっくりしていると思う。
 酒って、飲んだら飲んだでもちろん満ち足りた気持ちになるけれど、その一方で酒を飲まない夜を過ごすと、その清廉さ、省エネさ、負荷のなさに、ともすれば酒を飲んだとき以上にテンションが上がったりもする。俺、このままめっちゃ上質な人間になるかもしれないぞ! と心が浮き立つのである。これは下戸の人には決して味わうことのできない喜びだ。どうだ、うらやましいだろ。うらやましがってくれないと、あまりにも切ないじゃないか。
 もちろん週末は飲む。これから飲むのは週末だけにしよう、という決意を、もう何十回もしている気がする。

 初めて行った図書館に「あさきゆめみし」(大和和紀)が全巻揃っていたので、借りて読んだ。おもしろかった。源氏物語ってこういう話だったんだ、というのを40歳にして初めてちゃんと知ったのだった。文芸学科というものは、あれは本当に、いったいなにを学ぶ場所だったんだろうな。国文学科とは違う、というのは分かるけれど、じゃあ古典の代わりになにをやっていたのかと訊かれると、答えに困ってしまう。
 それにしても「光る君へ」をやっているタイミングで「あさきゆめみし」を読むというのは、なんだかとても素直な行ないで、前に音楽のサブスクでおすすめの音楽が出てくるのを、僕は音楽に関してプライドがないからすんなり受け入れられるが、本に関してはこうはいかない、という話をしたけれど、案外そんなこともない。なくなった、のかもしれない。
 光源氏はとてつもない下半身男なのに、家柄とビジュアルの良さでなにもかもが許されているという設定で、千年前から結局ひたすらそういうことなんだな、と思った。家柄とビジュアルさえ良ければ、ありとあらゆることは認められる。過去も、現在も、未来も、それはずっとそう。この世の真理。だから千年読まれてきたし、これからも読まれ続ける。さすがだな、と思った。我ながらバカみたいな感想だな。

 AI画像の進化がすごくて、本当にエロの、セックスとかフェラとか、そういうものになると、まだちょっと本物の迫力にはだいぶ劣る感があるけれど、雑誌の水着のグラビアくらいの画像は、もう本物とあまり遜色ないというか、なにぶんAIのそれは顔も体も完璧を希求してデザインされているものだから、これはだいぶデリカシーのない表現になるけれど、そんじょそこらの本物では太刀打ちできないレベルに至っていると思う。
 そもそも水着グラビアとは、生活感のない、ともすれば被写体本人にエロの概念もない、でもなぜかビキニ姿で、やけに無邪気にはしゃいでいるという、独特の世界観のもので、いまどき水着姿でエロもなにもないというのに、なぜ水着グラビアという文化はなくならないかと言えば、それはそこに理想の平和世界があるからだと言えるが、だとすればそれというのは、実は生身の芸能事務所に所属している女の子より、画像がこの世に生まれたその瞬間に生成された、こうあってほしいと願った非実在の女の子のほうが、むしろふさわしいのだ。生身の女の子がどんなにがんばっても、水着グラビアという土俵においては、非実在の女の子には勝てない。こちらが水着グラビアの被写体として求めているのは、無機性というか、個性のない、イデアとしての水着姿の女の子だからである。
 だからもうすべてのグラビアアイドルは、すぐさま白ビキニを脱ぎ、それを白旗とし、まだAIに落とされていないエロの領土へと進軍すればいいと思う。

2024年6月11日火曜日

草刈・茶碗・売上

 6月なのでもう季節は終わったのだけど、2年前より1年前、1年前より今年と、島根県におけるオオキンケイギクの分布が、じわじわと広がってきているような気がする。希望的観測かもしれないけれど。岡山では群生地がたくさんあって、5月中旬あたりはそれはもう見事なものだったけれど、島根に来て以降、この地はまだあまり侵食されていないようで、寂しく思っていた。そのためこの2年の傾向は嬉しい。ただしあまり大きな声では言えない。なるべく生やしてはいけない、駆除対象の花だからだ。でも本当に鮮やか。好きな黄色。毎年うっとりする。
 岡山県と島根県の違いとして、島根県は草刈りに熱心だと思う。たまたまかもしれないが、岡山時代はあまり身近で草刈りの話は聞かなかった。島根はすごくする。町内でもするし、職場でもする。男たるもの、草刈り機の1台や2台は持っているのが当然という風土だ。なぜなのかはよく判らない。植物の繁茂は、温暖な岡山のほうが度合が激しいのではないかと思うが、反応は逆である。もしかするとJAの権威の強さが関係しているのではないか、と睨んでいる。なんとも田舎臭い話だな。
 オオキンケイギクも、もっとはびこってほしいと願う気持ちがあるが、あまりに目立ちすぎるとJAを頂点とする島根草刈り族に目をつけられて抹殺されてしまう気もして、やきもきしている。

 ふいに平日の休みがあって、家で過したのだけど、ファルマンは仕事をしていて、そうなると自然と僕が昼ごはんを作る流れとなり、暑かったのでざるラーメンにした。ちょうど2日前に作った煮豚が残っていたし、そこへ茹で野菜と茹で玉子も添えた。支度を整えてファルマンを呼んだら、テーブルに乗ったそれを見て、「なにこれ! すごい!」と驚かれる。驚くほどのものではないと思う。
「じゃあお前はいったい、普段の昼になにを食べているのだ」
 と訊ねたところ、
「茶碗」
 という答えが返ってきたのでとても驚いた。
 ずいぶん前に日記に書いたが、ファルマンに晩ごはんのメニューを訊ねた際、「豚肉」という、それはメニューではなく食材だ、という答えが返ってくることがままあるのだけれど、今回のやりとりはそれをも凌駕する衝撃であった。それはメニューではなく、食材でもなく、とうとう食器だ。とんでもない境地だ。
 意味は分かる。炊飯器に残っていたごはんを茶碗に盛り、それをなんかしらのもので食べるということだろう。そしてそれはもう、日々「なんかしらのもの」としか言いようのないものなのだろう。
 分かるよ、分かるけどもさ。
 
 初めてのことだったのでどぎまぎしたが、商品は無事に相手に届き、売り上げになった。とても嬉しかった。
 事前に説明は読んでいたけれど、本当に相手の住所も知らずに投函して、そしてそれがきちんと配達されるというのが、すごいシステムだなあと感動した。なので僕は、僕の作った水着が、日本のどこらへんに行き、どのあたりのプールで穿かれるのか、まるで分からない。ただ思いを馳せるのみである。とてもドラマチックだ。
 1回売れたことで評価もついて(星5つだ!)、さらには優良発送者です、みたいなマークまで付いた。これまで他の人の出品ページでそんなところに気にしたことがなかったが、気にする人は気にするだろう。というか実績が0の人からはなかなか買う気になるまい。まだ1じゃないかという話ではあるけれど、0と1の差は大きかろう。
 やあよかった、これから忙しくなるかもしれないな、と思って、今回の収益よりもだいぶマシマシの金額で、新しい生地を注文した。在庫を増やすぞ!

2024年6月4日火曜日

太宰・得意料理・在庫

 義両親から先日の青森旅行のおみやげを受け取る。ふたりとも太宰治にはそんなに馴染みがなかったのに、太宰ファンの長女から「ぜひ斜陽館に行きなよ」と勧められ、行ったら行ったで本人たちもそれなりに愉しんだようだが、しかしこの出来事でいちばん得をしたのは、そこでしか手に入らない太宰治グッズをせしめた策士の長女であることは間違いない。「太宰治かるた」などという面妖なアイテムをゲットし、ほくそ笑んでいた。和気あいあいとやるゲームであるかるたと、あの太宰治という取り合わせが、なんとも悪趣味で、すばらしいと思った。他に人間失格カステラサンドなるお菓子なんかもあった。それらを開陳しながら、義母から「パピロウちゃんも太宰治は好きなの?」と訊ねられたので、「いいえ。僕はぜんぜん好きじゃないです」と即答した。相変わらずぜんぜん取りつくろったりしない義理の息子。ちなみに僕へのおみやげは、それとは別の場所で買ったらしき、ねぷたがデザインされたTシャツで、普通にかっこよいものだったので、嬉しかった。おそらく斜陽館には、「生まれてすみませんTシャツ」なんかも売っていたことだろうと思う。よくぞそっちに逃げず、ちゃんといいものを選んでくれたものだ。

 先週末、ポルガが部活でがんばったので、「晩ごはんはポルガの食べたいものを作ろう」と提案したところ、「じゃあ、たこ焼きか餃子かお好み焼き」という答えが返ってきて、嬉しい気持ちになる。こちらが前のめりで作るものが、きちんと思春期の娘の嗜好に刺さっていたのだな、という喜びである。思春期の娘に自分の行ないが受け入れられたことを喜ぶって、なんか我ながらすごいな。近ごろ自分が20代半ばだった頃の日記を読んでいるので、ことさらに感慨がある。結局その日は、たこ焼きを作った。おいしかった。
 ちなみにファルマンは、僕とポルガのこのやりとりを横で聞いていて、小さくショックを受けていたらしい。ポルガの口から出たリクエストが、すべて僕の作るものであったからだ(まあ前提として週末の料理当番が僕だから、というのはある)。
 「平日はずっと私が料理を作ってきたのだ。私にだって得意料理はある」とファルマンは主張した。主張をしたが、具体的な料理名がとんと出てこなかった。仕方がないので、僕とポルガがふたりがかりで、ファルマンの得意料理を挙げることにした。「ほら、干物を焼いたやつとか」。「ほら、キャベツをざく切りしたやつをレンジで蒸したやつとか」。ファルマンの眉間の皺が、どんどん深くなってゆくのが見て取れた。

 これまでファルマンの使っていたバッグは、そもそ僕がネットで買って、いまいち気に入らなかったものだったのだけど、それがなにぶん安物なのできちんと処理されていない布端がほつれてきて、そろそろ替えないとな、という話になった。それでファルマンというのは、欲しいバッグというものがこの世に存在しない人間なので、「そう言えばあなたが売るために作って売れずに残っているバッグがたくさんあったよね」、などと言い出す。言い出すのはいいが、物言いが失礼である。
 まあある。嵩張るし、あまり目にしたくないので、クローゼットの奥にしまい込んで、意識からなるべく遠ざけていたけれど、かつてminneに出品した、トートバッグも、グラニーバッグも、需要に対して供給ばかりが過多で、たくさん在庫を持っているのだ。
 作るとき、一点を集中して作るよりも、同じものを複数、同時進行で作るのが好きだという性分があり、ひとつの柄で5つくらい作ってしまう。そしてそれがひとつも売れなかったりする。だから在庫ばかりが増える。
 バッグの山を発見したファルマンは、その中のひとつを「これいいじゃん」と言って選んでいた。ちなみにかつての売値は3800円であった。持ってけ泥棒である。
 バッグほど体積が大きくないけれど、Yahoo!フリマに出品しているボクサー水着も、在庫は既に15を超えている。こちらは親類に配ることもできないので、最後どうなるんだろう。どうなるもこうなるも、ある瞬間から売れに売れて、供給が追い付かなくなるに決まってるのだけれども。

2024年6月2日日曜日

俺ばかり・孫夫婦の下着・一茂

 5月は後半にかけ、「おもひでぶぉろろぉぉん」をよくやった。「おもひでぶぉろろぉぉん」が愉しかったのである。しかし過去を振り返る行為である「おもひでぶぉろろぉぉん」に没頭するというのは、果たして健全なのかどうなのか。
 5月の投稿の中で、いつか「おもひでぶぉろろぉぉん」が「いま」に追いついたらどうなるのか、という話があり、「いま」の僕はもちろん日々の新しい日記を書き続けるわけだが、「おもひでぶぉろろぉぉん」を経て「いま」に至った僕もまた、ふたり目の「いま」の僕として、二重らせん状態で日記を紡ぐようになるのかもしれない、と書いた。
 さらにそのあとで思ったこととして、「おもひでぶぉろろぉぉん」が「いま」に追いつくのが何年後になるのか分からないが、そのときの僕は、「おもひでぶぉろろぉぉん」を始めた39歳の僕のこともまた、振り返りたくなるのではないだろうか。「おもひでぶぉろろぉぉん」自体が、「おもひでぶぉろろぉぉん」の対象になるのだ。だとすればここに3人目の僕が誕生し、それはひとり目の僕を見る、ふたり目の僕のことを、愛しく見つめるのかもしれない。そしてそれは当然、4人目、5人目の僕が生じるということを意味する。なんと心強いのか。のび太がため込んだ宿題も、5人で掛かれば朝までに終わらせることができるはずだ。

 横浜の実家に帰省したときは、洗濯が祖母の手によってオートメーションでなされるのだが、その際にどうしたって下着の問題が発生する。
 ファルマンは初期の頃、恥ずかしさから下着類は洗濯に出さずにいたのだが、そうしたらあるとき祖母から、どうして下着を洗濯に出さないのか問われたという。それはわざわざ問うまでもなく、姻戚としての遠慮や羞恥だろうという話なのだが、昭和一桁生まれの祖母がそんなことを黙って察するはずもない。問われたファルマンは戸惑い、思わず「……私、使い捨ての紙のパンツを使っているので」と変な嘘をついたそうだ。ちなみに最近はもう、なんかしらの境地に至ったようで、普通に洗濯に出すことにしたようである。
 それで実家とわが家の下着洗濯問題は永久解決、ということならばよかったのだが、今度は僕のほうに問題が出てきた。2年ほど前から唐突に僕が、布面積がやけに小さかったり、そのうえフロント部分が異様に突出したりしている、自作のショーツしか穿かなくなったのである。これに関しては、姻戚だろうが血縁だろうが関係なく、洗濯に出すことはできない。ファルマンだからすべてを理解してやってくれているのだ。
 その問題の解決は簡単だろ、実家に泊まるときの数日だけ、ユニクロとかのボクサーを穿けばいいのだ、という話なのだが、それができれば苦労はない。横浜の実家に滞在するということは、大規模な移動をするということだ。そんなときにあんな布面積の大きなものを穿けるはずがないだろう。
 というわけで現時点で、次回の帰省の際のこの問題の解決として、実際に穿く自作ショーツと、洗濯に出すカムフラージュ用ボクサーの、両方を用意する、という方法を考えている。あるいはそれがどうしたってバカらしいと考えるならば、洗濯には一切出さず、そして出さないことを祖母に問い詰められたら、「使い捨ての紙のパンツだからだ」と答えようと思う。なんでこの夫婦、何年かおきにそれぞれ紙のパンツを愛好するのか。

 いまの朝の連続テレビ小説「虎に翼」を観ると同時に、BSで再放送している2000年放送の「オードリー」も観ている。毎晩、録画したそれぞれを観る30分間がある。一方では米津玄師を聴き、一方では倉木麻衣を聴いている。まさか2024年にこんなに倉木麻衣の歌声を聴くはめになるとは思っていなかった。
 「オードリー」の本放送時、僕は17歳ということになり、もちろん当時は一切観ていない。ネットがなかったためか、十代だったためか、朝の連続テレビ小説のことなんて、生きていてもぜんぜん情報が入ってこなかった。
 若き日の佐々木蔵之介や堺雅人が出る中、ヒロインの相手役を演じるのはなんと長嶋一茂で、昔はマグロのトロの部分は誰も食べずに捨てていた、みたいな強烈なもったいなさがある。一茂演じる錠島は、天涯孤独の不愛想な男という設定で、それはしずかちゃんがああも頻繁にお風呂に入る理由が、「きれい好きだから」という、とんでもない力業であるように、なぜ一茂の演技はあんなにも仁王立ちで棒読みなのか、それで許されるのか、という問いに対する、ほぼ反則のような手法であると思う。錠島は今後のストーリにおいてもたぶん、あまり人に心は開かないだろう。なぜなら演じているのが一茂だからである。ドラマには大竹しのぶも出ていて、先日は大竹しのぶ演じる滝乃と錠島が一対一で相対する場面があり、画面に映し出される両者の演技力のあまりの不均衡さに、三半規管が乱れるのを感じた。
 もう四半世紀近くも前に作られたものなので、どうしたってそういう、純粋じゃない味わい方も出てしまうが、それでも観続けているわけで、わりと愉しんでいる。そして僕が観ているということは、たぶんプロ角ねえさんも観ている。年末のパピロウヌーボで宿敵のこのドラマに関して言及があるのかどうか、いまからそれも愉しみにしている。