2021年4月26日月曜日

ビール・ファル教・ズッコケ

 この3日ほど、ビールを飲んでいない。なんか唐突に飽きたのだ。たまにこういうときがくる。ビールに限らない。僕の性分だ。急に冷めるのだ。この飲み物を、どうして僕はそんなにせっせと飲むのかと、とても不思議な気持ちになった。義理立てするかのように必ず、なぜ飲んでいたのか。どうしても飲まなければならないほどおいしいものでもないだろう。というより、飲んで得られる旨味も爽快感も、もう分かりきっているだろう。じゃあもう実際に飲む必要なんてないんじゃないか。
 飲むと運転ができなくなる、というのも飲む気を萎えさせる理由のひとつだ。夜に運転ができるとして、まさかこの僕が友達と遊ぶわけでもあるまいし、いったいどこへ行くというのか、という話ではあるのだけど、なんというか、気持ちの問題なのだ。車を運転できるということは、夜が、すなわち一日が、まだまだ展開し得るという希望になる。心底おいしいわけでもないものを飲んで、その希望をどぶに捨てるのが惜しくなった。
 これまで呪いのごとく欠かさず飲んでいたので、飲まないでいると、解放感がある。一日の疲れを解放するためのビールだったはずなのに、日課になったことで、逆に枷になっていたのかもしれない。手離してみたらとてもすっきりした。今回はビールだったが、こういうことは人生の中でたびたびある。好きなことも、高じたり重ねたりすると、いつしか囚われるようになる。そこを突破してさらに突き詰めれば、極めるということになるのかもしれないが、なかなかそこまで入れ込めるものは少ない。少なくともビールは僕にとってそれではなかったようだ。これからは飲みたいときにだけ飲もうと思う。

 ファルマンの教習所での適性検査の結果が返ってきて、おもしろかった。「注意力:C」、「判断力:C」「柔軟性:C」「緻密性:C」などと、概ね評価は低く、それはそうだろうと思ったが、その評価欄の中で燦然と輝く「A」評価もあって、なんだろうと思ったら、「自己中心性」と「虚飾性」だった。ファルマンはこれを、「Aがいちばん低くて良いということだ」と主張するのだが、そんなことは用紙のどこにも書かれていないし、悪い要素のときだけ評価(Aが「すごい度合」、Bが「普通」、Cが「皆無」であると認識した)が逆になるなんて、ややこしいだろう。それに、もう17年以上もファルマンと一緒にいる僕が、「自己中心性」と「虚飾性」がめちゃくちゃ高いという診断結果に、とても納得がいったので、やっぱり逆じゃないんだと思う。まあそんなこといったら、日芸なんかに行く人たちは、もちろん僕も含めて、だいたいこの結果になる気もするけれど。
 それにしても厳しい。言葉に容赦がない。「自己中心性」は、「ジコチュー」として言葉に馴染みがあり、まだ受け止めようがあるけれど、「虚飾性」と来たらどうだ。虚飾。なんと残酷で哀しい言葉だろうか。38歳になって教習所に通ったりしなければ、指摘されることもなかった虚飾性。言ってやんなよ、とさすがに思った。

 ポルガが「ズッコケ三人組」を図書館で借りていたので、なんとなく僕も手に取って読んだ。そうしたら殊の外おもしろかったので、むしろ親のほうが嵌まるパターンのやつで、次々に借りて読んでいる。2ヶ月ほど前には、同じくポルガの借りた「ルドルフとイッパイアッテナ」がきっかけで、斎藤洋を何冊も読んだ。仰々しいわりに大した中身のない一般小説よりも、児童向け小説のほうが文章も簡潔でよほど読むに堪えるものがあるのだなと思った。
 もっとも「ズッコケ三人組」シリーズは、さすがに今回が初邂逅ではなくて、まさに児童の頃に何冊か読んでいる。しかし中学生になってミステリに傾倒するまでは、そこまで熱心に本を読むタイプでもなかったので、本当に「何冊か」だ。
 それで今回改めて読んだ結果、まず驚いたのは、この物語の舞台が東京ではなかったという点だ。読めば普通に、「瀬戸内海に面した街……」みたいなことが書いてあるのだが、なぜか勝手に東京だと思い込んでいた。登場人物たちの言葉に方言がないことと、ハチベエの家が八百屋であることから、「ドラえもん」や「キテレツ大百科」などのイメージと重ねてしまっていたんだろうと思う。
 シリーズは2004年に完結し、そのあとスタートした、三人組が40代になったシリーズも、もはや完結しているらしい。ズッコケ三人組が40代か。まあ僕が小学生の頃に読んでいたのだもんな。それどころかシリーズ初刊の刊行は1978年だそうで、そう考えれば1960年代生まれということになる彼らが中年や熟年になるのは当然のことではある。きっとそのうち僕はそちらのシリーズにも手を伸ばすだろうが、なんとなくそれが実際に描かれたことには、グロテスクな、デストピア感もある。