今年もユーキャンの新語・流行語大賞のノミネート語が発表となり、じっくりと噛み締めた。しかしどんなに噛み締めても、まったくもって味が薄く、感想を求められても途方に暮てしまうような、そんなラインナップであった。
ただ、ニュース記事において、どうしても目に入ってしまうヤフコメを眺めていると、誰も彼もが偉そうに、この企画に対して批判的なことをのたまっていたので、逆に擁護したくもなった。カカロットを倒すのはこのベジータ様なんだからお前らがとやかく言うんじゃない的なムーブである。
とは言え、そういう気持ちもありつつ、しかし、しかししかし、さすがにあんまりではないかと、30語を見てやっぱり思う。ただしこれは選考委員に対する不満ではない。自分も含めた国民全員に対する思いだ。みんな今年一年、言葉作りをサボりすぎた。だから1年がこんなに早かったのだ。言葉でその瞬間に楔を打たないと、時間はどんどん流れ去ってしまうのだ。
30語のうちのひとつに、「名言が残せなかった」がある。やり投げ金メダルの北口榛花が言った言葉だそう。これはもはやとんちの世界だと思う。「名言が残せなかった」というフレーズが、新語・流行語のノミネート30語に入ったのだ。こいつは一本取られたな、じゃない。だって一本目の投擲で金メダルを確定させましたからね、じゃない。やりはまっすぐ投げたらいいだろうが、言葉はもっとひねりをきかせるべきだ。言葉作りに、投げやりになっちゃいけないよ、榛花。
ちなみにユーキャンの向こうを張るcozy ripple名言・流行語大賞は、例年どおり11月23日発表予定となっております。年の瀬ですね。
先日岡山に行ったとき、運転しながらおやつなどをパクつくわけだけれど、そのとき僕が食べていたのが、おなじみの鈴カステラと、あとチップスター(筒に入った成型ポテトチップス)で、しっとり甘い鈴カステラと、パリっとしょっぱいチップスターが、絶妙の組み合わせで、AからB、BからA、どちらの瞬間にも口の中に多幸感が生じ、感動したのだった。
その感動を、僕はこう表現した。
「おせちだ」
これは我ながら名表現ではないかと思った。延々と食べ続けられるものへの礼讃の言葉として、「おせちだ」はとてもいいと思う。
無粋な解説をするならば、おせちがイメージ的に、とても格式の高い、ハレの日の贅沢品であるとされるものであるがゆえに、今回の鈴カステラとチップスターのように、要するにそれ、砂糖の小麦粉と塩の芋じゃねえかという、安っぽいものであればあるほど、そのギャップが愉快に感じられるのだ。だから、マックシェイクとマックフライポテトであるとか、五円チョコとうまい棒であるとか、そういうものを食んで、言えばいい。
「おせちだ」
市民マラソンの大会で優勝した。そういう夢を見た。
ほとんど飛び入りのような感じで参加して、普通に走っていたら、僕よりも速く走っている人が誰もいなくて、トップの座を明け渡すことなく、いちばんにゴールしてしまったのだった。流れで参加したものだから、家族も応援になど来ていなくて、ゴールしてから電話をし、テレビを付けるよう伝えた。テレビで中継されるような規模のマラソン大会だったのだ。実際にそんな大会で僕が優勝できるはずはないのだが、さすがは夢である、こんなこともあるんだな、と受け入れていた。小賢しいなと思ったのは、今大会の解説をしていたのが瀬古さんで、瀬古さんは大会を振り返り、そのレベルの低さに苦言を呈していた。ここに、(実際はぜんぜん合っていないが)帳尻を合わそうという魂胆が透けて見える。僕が優勝するマラソン大会など実際にはあるはずがないが、瀬古さんが憂うほどに選手のレベルが低かったわけで、そうなってくると僕が優勝というのにも若干のリアリティが出てくる、という計算らしい。完全な計算ミスである。憂うどころの話ではない。この瀬古さんのいる世界線の日本マラソン界、もとい日本国そのものは、運動能力的にもう完全に終わっている。そう考えると、国として完全に終わっているのに瀬古さんが解説している、というのが逆におもしろく思えてくる。なんかそういう夢だった。人の夢の話ってね。