2024年9月7日土曜日

田んぼ・米・おにぎり

 出勤で田んぼの間の道を走っていたら、車の接近によって道端にいた鳥が飛び立ったのだけど、3羽だったその鳥というのが、カラスと、サギと、トンビだったので、少し驚いた。よくあるのは、同じ種類のものが2羽でいるパターンで、あるいはカラスが何羽かいるところにトンビも1羽だけいる、みたいなときもあるけれど、今回のように別の種類の鳥が、それもきっちり1羽ずつだけいる、というのはだいぶ珍しいと思う。あまりに特異な感じがしたので、あとから、あれはそれぞれの種族の代表者会議だったのではないか、と思った。カラス族、サギ族、トンビ族のリーダーだけで集まり、今後の方針などについて語り合っていたのではないかと。あるいは「ボクらの時代」の撮影だったのかもしれない。どちらにしろ、無粋な邪魔を入れてしまったと思った。

 米の品薄が叫ばれていて、実際スーパーではあまり米を見かけない。まったく手に入らないわけではないので、いまのところなんとか食い繋げてはいる。
 ところでこの、スーパーの棚から商品がなくなるという現象について、幸か不幸か、だいぶ自分の中で耐性ができているな、ということを今回の米の件で感じた。社会人になって、自分で食料を調達するようになっての最初のそれは、東日本大震災だった。あのときは、乳飲み子を抱え、商品があっても産地を気にしなければならないという制約まであったので、格別につらかった思い出がある。その次はコロナ禍だ。終わりが見えなかったこともあり、このときもだいぶ精神に来たものだった。とは言えこうして考えると、10年にいちどくらいしかそういう思いをせずにいられている、というのはむしろだいぶ恵まれているのかもしれない。
 そしてそれらの時代に較べると、今回の米不足というのはそこまで哀しくならないな、と思う。なにぶん米だけの話だし(昨今の全般的な物価高というファクターもあるにせよ)、さらには日々の暮しの中で、立派に実った稲穂を日々めっちゃ見ている、というのも心を安心させているのだと思う。別に近所で作った米を直接入手しているわけではないけれど、こうも無事に育っている以上、実際にはそう深刻なことではあるまい、という確信が持てるのだった。これは紛れもなく田舎住まいの利点である。米が実っている情景が見られず、スーパーの棚に米がなかったら、それはだいぶ不安になるだろうとも思う。

 今夏の帰省の際、夕餉でおにぎりが出た。大人たちが酒を飲む中で、お茶碗で白米というのも間が抜けている感じがあり、おにぎりにしたのだろうと思う。このおにぎり作りを、母とともに僕もやった。本当に炊きたてのごはんだったので、やけどしそうなほどに熱かった。そして夕餉が始まり、普段からババの家に入りびたっている姉の子どもたちは、並んだおにぎりを目にすると喜んだ様子で、「ババのおにぎりはすごくおいしいんだよ」などと言ってくる。この言い方に、なんとなくカチンと来た。おにぎりのような素朴な食べ物に、おいしいもなにもないだろう、と僕はずっと思っているからだ。水を付けすぎとか、強く握りすぎとか、下手な人が作ったまずいおにぎりはあっても、特別おいしいおにぎりというものは存在しない、変なスピリチュアルなことを言うもんじゃない、と姪らを諭した。すると姪らも躍起になって、「ババの作ったおにぎりは特別おいしいから、パピロウの作ったものとは味がぜんぜん違うはずだ、食べたらすぐ判る」などと言い出す。しかしその時点で、おにぎりはだいぶ減っていたし、母と僕の作ったおにぎりはランダムに混ざっていたので、互いに主張する説の実証のしようがなかった(食べている途中で誰も「これは特別おいしい」「こっちはあまりおいしくない」と言っていないのだから僕の主張が正しいと言えるが)。そんな中で、大皿に残っていた、まだ手に取られていないおにぎりの中で、時間経過とともに形が崩れてしまっているものがひとつあって、それを指して姪が「これはきっとパピロウが作ったやつだね」と言ったのである。これにははらわたが煮えくり返った。僕は島根では、ひとりやけに食べ物にこだわりがあって、料理も上手というキャラで通っているので、このような扱いに慣れておらず、本当に心外だった。よほど僕はこのときのことが悔しかったようで、半月後くらいにこの情景をそっくり夢で見た。起きてから、怒りが静かに再燃すると同時に、さすがにおかしく、けなげな自分への愛しさも募った。この話のポイントは、母の作るおにぎりのおいしさとかを息子がぜんぜん謳わないところ。材料が同じなら誰がやっても変わるはずがないと断言するところ。