2024年9月29日日曜日

不思議体験・しゃれ靴・オンデマンド

 いつものように流れるプールに入り、水泳帽を被ったら、おでこのあたりに違和感がある。なにか、棒状の硬いものがある。初めての経験に、えっなにこの現象、ここからなにが出てくるの、とドキドキしながら指を差し入れ、中身を取り出してみたら、ピイガの短くなった鉛筆だった。おそらく、取り込んだ洗濯物がリビングの一角に積み上げられたタイミングで、ちょうどピイガのほっぽったそれが入り込んだのだろう。わが家の営みのことを思えば、この現象そのものにはなんの不思議もない。しかしプールで鉛筆という取り合わせが、もちろん初めての経験で、なかなか不思議だった。
 鉛筆は早くプールサイドにある棚に持っていきたかったが、流れるプールに入ってしまったので、1周するまでは出られない。帽子の中に戻したり、ボクサー水着の中に入れることも考えたが、なんとなくそれも変に思えたので、仕方なく右手に持ったまま、1周を歩ききった。鉛筆を持ちながらスイムウォークをするのは、これが最初で最後に違いない。鉛筆という、ちょっと実用的なものというのが、絶妙なポイントを突いている、と思ったけれど、歯ブラシやしゃもじで想像しても、わりと同じような気分かもな、とも思った出来事だった。

 誕生日プレゼントの靴が届く。巨大な箱だった。なぜなら2足だからである。安かったので2足買ってもらったのだ。ちなみにレディースもので、サイズが不安だったが(それなのに一気に2足買うなんてチャレンジャーだ)、最大サイズである25cmが、特に問題なく履けたのでよかった。
 なぜレディースものかと言えば、色のかわいいやつがよかったからで、実店舗でもネットでもだが、欲しいと思う靴は大抵、レディースものなのだった。靴に限ったことではないけれど、男性用の売り場って、どうしてほぼ黒・白・紺・灰・茶の5色くらいしかないのか。こと下着に関しては、かわいい柄の生地で自作する、という解決法に至ったが、靴はさすがにそういうわけにはいかず、長年あぐねていたわけだが、41歳の誕生日祝いにして、ようやく解決へと至った。足が大きくなくてよかった(ちんこと違って)。
 かわいい色味の靴を2足買って、その日のファッションに合わせて履くのを選ぶのかと言えば、実はそういうことではなく、買ったのは同じデザインの色違いであり、これを左右それぞれ異なる色で履くのである。パリ五輪で、やり投げの北口榛花がそれをやっていて、かわいいと思ったので、真似することにしたのだ。テレビで観たオリンピック選手の真似をするだなんて、とても素直でほほえましい行為だと思う。
 それで意気揚々と職場に履いていったところ、会社の玄関で職場のおばさんたちに遭遇し、目ざとく靴のことに気付かれる。そのおばさんのひとりがこう言った。
「プロペ君、靴がちんばよ!」
 びっくりした。ものすごく久しぶりに聞いたような気がする。おしゃれです、と答えた。

 大河ドラマ「光る君へ」を愉しく観ているが、「光る君へ」と「鎌倉殿の13人」の間をつなぐものとして、「平清盛」もおすすめであるという触れ込みを聞きつけ、夫婦でその気になったのだが、「平清盛」は家からちょっと遠くのツタヤまで行かないと置いていないので、観はじめる踏ん切りがつかずにいた。そんな折、ならばいっそNHKオンデマンドに加入すればいいのではないかとファルマンがひらめき、9月の連続3連休というのも背中を後押しして、amazonプライムからボタンひとつで契約を開始したのだった。そうしたら本当に、大河ドラマをはじめとするNHKの数々の番組が簡単に見放題になったので、もはや何度目か知れない、こういうサブスクの類の、はじめる前と後の生活様式の違いについてのショックを受けた。在庫があるかどうか分からない、ちょっと遠くのツタヤまで車で行って、1週間にがんばれば観られるであろうDVD2本分ずつとかを借りて返すのを、何度も繰り返したりしなくていいんだ! という衝撃。このことに衝撃を受ける世代。
 というわけで3連休でスタートダッシュを決め、それ以外にも日々の晩酌などでもせっせと「平清盛」を観ている。2012年放送。当時は観なかったのだ。放送中、兵庫県の知事が「画面が汚い」と批判し、話題になったことは覚えている。たしかに汚い。砂埃まみれ。当時の記事を検索すると、NHKは「リアルを追求した結果です」などと説明したらしいが、それから10年あまりが経過し、やっぱりテレビドラマの絵面はきれいであるに越したことはない、という結論にNHKはしれっと転向したのではないかな、と思う。それはそれとして、ドラマは愉しく観ている。大河なのでまだ先は長い。じっくり愉しもうと思う。

2024年9月20日金曜日

湯ったり不倫・水棲じいさん・管理会社より

 誕生日である。41歳である。ただし平日なので特にどうということもない。ふいに1年前の日記を読んだら、9月18日、同じく3連休前の金曜日、僕は退勤後におろち湯ったり館へ繰り出していた。今年もやったろうかと少し思ったが、結局よした。ブログに書かなかったが、盆休みの、帰省から戻ったあとの残りの休日で、実はいちど湯ったり館に行っていた。行っていたのだが、どうにもいつもの喜びが得られず、それはなぜかと言えば、キャッスルイン豊川の快感がまだ体に色濃く残っていたからに違いなくて、絶倫の巨根と不倫をした結果、夫のつましやかなそれでは満足できなくなってしまった若妻のような、申し訳ない気持ちになったのだった。しかしあれからひと月経って、そろそろ膣に残る感触も薄れてきたので、行ったら愉しめるのではないかとも思うし、それでもやっぱりあたしはあの最低のチンポ男のことを思い出してしまうのかもしれない、とも思う。これからいい季節になるので、2階が封鎖される前に、どこかで行こうとは思っている。誕生日に僕はいったい何を書いているのか。

 おろち湯ったり館へは行かず、退勤後はいつものホームプールへと赴いた。まだ暑さは続いているのに、どうも先週の3連休が、世間におけるプールシーズンの終了であったようで、そこからガクンと人が減った。人が減って感じたのは水のきれいさで、しかしこれについて深く考えようとすると、真夏の、人口密度の高い、透明度の低い水に関して、気付いてはいけないことに気付いてしまいそうなので、よしておく。
 プールに関して、話題をひとつ。
 行くのがいつも同じ時間帯なので、顔見知りというのがどうしたってだんだんできてくる(決して会話をしたりはしない)わけだが、狭い町だというのに、プールで見かける人を、プール以外の場所で目にするということが、これまで完全にいちどもなかった。それはなんだか不思議なことのように思え、もしかすると僕がプールで見ているあの人たちは、プールの妖精なのかもしれない、プールを出た瞬間に光の粒になって霧散するのかもしれない、などと思っていた。しかし先日、ついに近所のドラッグストアで、プールの歩くレーンによく出没するじいさんの姿を発見したのだった。この瞬間、とても驚いた。プールでしか見たことのなかった人を陸上で見かけると、「水棲生物なのに!?」という衝撃があるのだと知った。たまに、川などの水場がそんなに近くにあるとは思えないような場所に、カニがいたりすることってあるじゃないですか。あれとまったく同じ気持ち。そしてたぶん、じいさんも同じような気持ちで、僕のことを見ていた。一瞬、しっかり目が合った。

 リビングのエアコンが、10日ほど前からとぼけはじめ、音ばかりはグヮングヮンと強力そうなのに、出てくる冷気はか細くて、まあどう考えても故障なのだった。夏の間、朝から晩まで稼働しっ放しだったわけで、最後の力を振り絞って、なんとか9月中旬まで責務を全うしてくれたのだな、ただし今年の残暑のしつこさたるや計算外だったのだな、などと思った。そしてリビングのエアコンが故障しても、ぜんぜんテンションが下がらないのが、賃貸住宅のいいところで、まあリビングだけで、他の部屋のは自前ではあるのだけど、備え付けであるそれは、管理会社に連絡をすれば、修理なり交換なりを無料でやってくれるのである。今回の場合、もともとのものがずいぶんな年代物であったということで、こちらとしてもそうなればいいなと思っていた、交換となった。リビング用のエアコンと言えば、買ったらだいぶするに違いない。だいぶテンションが下がるに違いない。これだから賃貸住宅っていいよな、と改めて思った。
 しかも交換日は今日と来た。家に帰ったら、轟音と半端なぬくもりで居心地の悪かったリビングが、とても静かで清廉な冷気に包まれていた。僕がこれまでの人生でもらった最も高額な誕生日プレゼントは、管理会社からのリビング用エアコンかもしれない。

2024年9月7日土曜日

田んぼ・米・おにぎり

 出勤で田んぼの間の道を走っていたら、車の接近によって道端にいた鳥が飛び立ったのだけど、3羽だったその鳥というのが、カラスと、サギと、トンビだったので、少し驚いた。よくあるのは、同じ種類のものが2羽でいるパターンで、あるいはカラスが何羽かいるところにトンビも1羽だけいる、みたいなときもあるけれど、今回のように別の種類の鳥が、それもきっちり1羽ずつだけいる、というのはだいぶ珍しいと思う。あまりに特異な感じがしたので、あとから、あれはそれぞれの種族の代表者会議だったのではないか、と思った。カラス族、サギ族、トンビ族のリーダーだけで集まり、今後の方針などについて語り合っていたのではないかと。あるいは「ボクらの時代」の撮影だったのかもしれない。どちらにしろ、無粋な邪魔を入れてしまったと思った。

 米の品薄が叫ばれていて、実際スーパーではあまり米を見かけない。まったく手に入らないわけではないので、いまのところなんとか食い繋げてはいる。
 ところでこの、スーパーの棚から商品がなくなるという現象について、幸か不幸か、だいぶ自分の中で耐性ができているな、ということを今回の米の件で感じた。社会人になって、自分で食料を調達するようになっての最初のそれは、東日本大震災だった。あのときは、乳飲み子を抱え、商品があっても産地を気にしなければならないという制約まであったので、格別につらかった思い出がある。その次はコロナ禍だ。終わりが見えなかったこともあり、このときもだいぶ精神に来たものだった。とは言えこうして考えると、10年にいちどくらいしかそういう思いをせずにいられている、というのはむしろだいぶ恵まれているのかもしれない。
 そしてそれらの時代に較べると、今回の米不足というのはそこまで哀しくならないな、と思う。なにぶん米だけの話だし(昨今の全般的な物価高というファクターもあるにせよ)、さらには日々の暮しの中で、立派に実った稲穂を日々めっちゃ見ている、というのも心を安心させているのだと思う。別に近所で作った米を直接入手しているわけではないけれど、こうも無事に育っている以上、実際にはそう深刻なことではあるまい、という確信が持てるのだった。これは紛れもなく田舎住まいの利点である。米が実っている情景が見られず、スーパーの棚に米がなかったら、それはだいぶ不安になるだろうとも思う。

 今夏の帰省の際、夕餉でおにぎりが出た。大人たちが酒を飲む中で、お茶碗で白米というのも間が抜けている感じがあり、おにぎりにしたのだろうと思う。このおにぎり作りを、母とともに僕もやった。本当に炊きたてのごはんだったので、やけどしそうなほどに熱かった。そして夕餉が始まり、普段からババの家に入りびたっている姉の子どもたちは、並んだおにぎりを目にすると喜んだ様子で、「ババのおにぎりはすごくおいしいんだよ」などと言ってくる。この言い方に、なんとなくカチンと来た。おにぎりのような素朴な食べ物に、おいしいもなにもないだろう、と僕はずっと思っているからだ。水を付けすぎとか、強く握りすぎとか、下手な人が作ったまずいおにぎりはあっても、特別おいしいおにぎりというものは存在しない、変なスピリチュアルなことを言うもんじゃない、と姪らを諭した。すると姪らも躍起になって、「ババの作ったおにぎりは特別おいしいから、パピロウの作ったものとは味がぜんぜん違うはずだ、食べたらすぐ判る」などと言い出す。しかしその時点で、おにぎりはだいぶ減っていたし、母と僕の作ったおにぎりはランダムに混ざっていたので、互いに主張する説の実証のしようがなかった(食べている途中で誰も「これは特別おいしい」「こっちはあまりおいしくない」と言っていないのだから僕の主張が正しいと言えるが)。そんな中で、大皿に残っていた、まだ手に取られていないおにぎりの中で、時間経過とともに形が崩れてしまっているものがひとつあって、それを指して姪が「これはきっとパピロウが作ったやつだね」と言ったのである。これにははらわたが煮えくり返った。僕は島根では、ひとりやけに食べ物にこだわりがあって、料理も上手というキャラで通っているので、このような扱いに慣れておらず、本当に心外だった。よほど僕はこのときのことが悔しかったようで、半月後くらいにこの情景をそっくり夢で見た。起きてから、怒りが静かに再燃すると同時に、さすがにおかしく、けなげな自分への愛しさも募った。この話のポイントは、母の作るおにぎりのおいしさとかを息子がぜんぜん謳わないところ。材料が同じなら誰がやっても変わるはずがないと断言するところ。