夏休みが終わり、平常の日々に戻っている。しかしまだ余韻に浸っている。なんの余韻か。キャッスルイン豊川の余韻である。
旅程最後の宿泊場所ということもあってか、帰省の思い出のすべてが、あの晩で上塗りされてしまった感じがある。でもそれでいい。ひとえにそのおかげで、だ。復路の宿泊先も、往路と同じようなただのビジネスホテルであったらば、今回の帰省はただ、地震と台風に怯えながら、伊勢神宮には参らず、その代わりに夏の暑さに参り(うまい!)、そして実家に妻子を連れて顔を出すという義務をこなしただけ、ということになったと思う。それがキャッスルイン豊川のおかげで、1週間経っても余韻に浸るほどの上質の思い出になった。まるでお金をもらっているかのように賛美するけれど、もちろんそうではない。読者が4人くらいしかいない屑ブログの塵ブロガーとそんな契約をして、ホテルにいったいなんの得があるというのか。
いつになるかは分からないが、次の帰省も今回と同じく車で行くことになるだろうし、そうなると宿泊場所は行きも帰りもキャッスルイン豊川を選ぶと思う。こうなってくるともはや帰省の主目的はむしろそっちのほうだ。キャッスルイン豊川に行けるから、しょうがない、帰省するか、くらいの感じ。早くも僕とファルマンは、「帰省する」という意味で、「キャッスルイン豊川に泊まる」と言い始めている。「次のキャッスルイン豊川はいつにしようかね」などと。
もしかしてあそこが実家なのかもしれない。
夏の暑さがえぐい。生きる気力の削ぎ具合が半端ない。
8月ももう下旬ということで、暑さはぼちぼち収まってくるのかしら、毎年夏っていつくらいまで暑いのかしらっけ、と少し思いを馳せたら、自分で言い出した、この世で僕しか言っていない、「夏という季節は僕の誕生日の前日でおしまい。僕の誕生日からは秋」というフレーズに思い当たった。そうか、9月20日からは秋なのか……って、まだ約1ヶ月間あるってことやないかい! と絶望した。近ごろ自慰行為のことをセルフプレジャーと呼んでいこうよ、という向きがあるけれど、僕が頭の中で、僕のオリジナルの提言によってショックを受けるのは、さしずめセルフデスペアーということになると思う。そんなことをしていったいなんの得があるというのか。
と、あまりに体がしんどいので、そんな絶望感に打ちひしがれていたのだけど、おとといくらいに判明した事実として、この体のしんどさは、夏の暑さももちろん原因のひとつではあるけれど、要するに僕はいま、風邪を引いているようで、そのせいでこんなにもつらいのだと思い至り、風邪が逆に気持ちのプラス材料になるという稀有なパターンだが、風邪が治ったらたぶんもうちょっと夏にも立ち向かえるはず、これまで実際そうだったし、ということで前向きに捉えている。偉い。パピロウのそういうところ、本当に好き。好き好き大好き。結局セルフプレジャー。
8月にファルマンから報告された、僕の寝言。2日分ある。
1日目は、いきなりこう叫んだという。
「個人差別だ!」
それはだいぶ怒気を含んだ口調であったという。まるで舌鋒鋭い論客のようだが、しかし「個人差別」というのは、違和感のない言葉のようでいて、実はあんまり聞かない表現ではないだろうか。「人種差別」「職業差別」など、「差別」の前にはなんかしらの分類項目の語が来るものだ。そこが「個人」では意味が分からない。でも実際には変なのに、なんとなくそのまま看過してしまいそうなところが、いかにも夢らしい微妙な変さだと思う。
そしてその少しあと、今度はしたたかな口ぶりでこう言ったという。
「ここに判を捺すんだよね、相手が」
なんだろう、日曜劇場半沢直樹なのだろうか。夢の中の僕は、どんなシチュエーションでなにをしているのだろう。それにしても判て。夢で、判て。すごく嫌なタイプの夢だな。
あと僕の寝言は、前回の「さなえちゃん、さむかったろう、まだまだ……」がそうであったように、倒置法というか、独特の言い回しがなんとなく薄気味悪いと思う。
2日目は一転、こう始まったという。
「いいね!」
SNSで人に付けてやることもなければ、もちろん実生活で使うこともない、誰もが知る軽やかな礼讃のセリフを、夢の中の僕は屈託なく使っているようだ。愛しい。40年分の外的要因によって心はボコボコの歪な形状になってしまったけれど、その奥底にある深層心理は、こんなにも丸く、清らかなのだ。知ってたけど。
しかしそのあと、今度は少しテンションを下げ、少し寂しげな口調でこう続けたという。
「公共の施設……」
民営だと思って企業努力を褒めたのに、よく見たら公営だったのだろうか。それでも別に寂しくなる必要はないじゃないかと思うし、なにより、夢の中でそんなことに拘らなくて別にいいよ、と思う。
また報告があったら紹介する。