2024年8月24日土曜日

豊川・えぐ夏セルフ・寝言シリーズ

 夏休みが終わり、平常の日々に戻っている。しかしまだ余韻に浸っている。なんの余韻か。キャッスルイン豊川の余韻である。
 旅程最後の宿泊場所ということもあってか、帰省の思い出のすべてが、あの晩で上塗りされてしまった感じがある。でもそれでいい。ひとえにそのおかげで、だ。復路の宿泊先も、往路と同じようなただのビジネスホテルであったらば、今回の帰省はただ、地震と台風に怯えながら、伊勢神宮には参らず、その代わりに夏の暑さに参り(うまい!)、そして実家に妻子を連れて顔を出すという義務をこなしただけ、ということになったと思う。それがキャッスルイン豊川のおかげで、1週間経っても余韻に浸るほどの上質の思い出になった。まるでお金をもらっているかのように賛美するけれど、もちろんそうではない。読者が4人くらいしかいない屑ブログの塵ブロガーとそんな契約をして、ホテルにいったいなんの得があるというのか。
 いつになるかは分からないが、次の帰省も今回と同じく車で行くことになるだろうし、そうなると宿泊場所は行きも帰りもキャッスルイン豊川を選ぶと思う。こうなってくるともはや帰省の主目的はむしろそっちのほうだ。キャッスルイン豊川に行けるから、しょうがない、帰省するか、くらいの感じ。早くも僕とファルマンは、「帰省する」という意味で、「キャッスルイン豊川に泊まる」と言い始めている。「次のキャッスルイン豊川はいつにしようかね」などと。
 もしかしてあそこが実家なのかもしれない。

 夏の暑さがえぐい。生きる気力の削ぎ具合が半端ない。
 8月ももう下旬ということで、暑さはぼちぼち収まってくるのかしら、毎年夏っていつくらいまで暑いのかしらっけ、と少し思いを馳せたら、自分で言い出した、この世で僕しか言っていない、「夏という季節は僕の誕生日の前日でおしまい。僕の誕生日からは秋」というフレーズに思い当たった。そうか、9月20日からは秋なのか……って、まだ約1ヶ月間あるってことやないかい! と絶望した。近ごろ自慰行為のことをセルフプレジャーと呼んでいこうよ、という向きがあるけれど、僕が頭の中で、僕のオリジナルの提言によってショックを受けるのは、さしずめセルフデスペアーということになると思う。そんなことをしていったいなんの得があるというのか。
 と、あまりに体がしんどいので、そんな絶望感に打ちひしがれていたのだけど、おとといくらいに判明した事実として、この体のしんどさは、夏の暑さももちろん原因のひとつではあるけれど、要するに僕はいま、風邪を引いているようで、そのせいでこんなにもつらいのだと思い至り、風邪が逆に気持ちのプラス材料になるという稀有なパターンだが、風邪が治ったらたぶんもうちょっと夏にも立ち向かえるはず、これまで実際そうだったし、ということで前向きに捉えている。偉い。パピロウのそういうところ、本当に好き。好き好き大好き。結局セルフプレジャー。

 8月にファルマンから報告された、僕の寝言。2日分ある。
 1日目は、いきなりこう叫んだという。
「個人差別だ!」
 それはだいぶ怒気を含んだ口調であったという。まるで舌鋒鋭い論客のようだが、しかし「個人差別」というのは、違和感のない言葉のようでいて、実はあんまり聞かない表現ではないだろうか。「人種差別」「職業差別」など、「差別」の前にはなんかしらの分類項目の語が来るものだ。そこが「個人」では意味が分からない。でも実際には変なのに、なんとなくそのまま看過してしまいそうなところが、いかにも夢らしい微妙な変さだと思う。
 そしてその少しあと、今度はしたたかな口ぶりでこう言ったという。
「ここに判を捺すんだよね、相手が」
 なんだろう、日曜劇場半沢直樹なのだろうか。夢の中の僕は、どんなシチュエーションでなにをしているのだろう。それにしても判て。夢で、判て。すごく嫌なタイプの夢だな。
 あと僕の寝言は、前回の「さなえちゃん、さむかったろう、まだまだ……」がそうであったように、倒置法というか、独特の言い回しがなんとなく薄気味悪いと思う。
 2日目は一転、こう始まったという。
「いいね!」
 SNSで人に付けてやることもなければ、もちろん実生活で使うこともない、誰もが知る軽やかな礼讃のセリフを、夢の中の僕は屈託なく使っているようだ。愛しい。40年分の外的要因によって心はボコボコの歪な形状になってしまったけれど、その奥底にある深層心理は、こんなにも丸く、清らかなのだ。知ってたけど。
 しかしそのあと、今度は少しテンションを下げ、少し寂しげな口調でこう続けたという。
「公共の施設……」
 民営だと思って企業努力を褒めたのに、よく見たら公営だったのだろうか。それでも別に寂しくなる必要はないじゃないかと思うし、なにより、夢の中でそんなことに拘らなくて別にいいよ、と思う。
 また報告があったら紹介する。

2024年8月6日火曜日

髪染め・レモンサワー・再入会

 先週末、髪を染めた。
 当初は赤髪にしようかと思っていたが、家族から猛反発を食らったことで日和り、結局ピンクで落ち着いた。そのピンクも、はじめはどぎつい感じのピンクで考えていたのだけど、ちょうどオリンピックのニュースで、現地で応援する日本人の映像の中に、柔道着を着てハチマキをしたピンク髪の男を目にしたことで一気に気持ちが萎え、最終的には淡いピンク色というところに落ち着いた。まあまあ金髪っぽかったところに色を入れたので、それなりにピンク色が出て、独特の色合いになって満足した。しかしピンク色というのは、前々回の記事にも記したように、やはりわりとすぐに、ただの茶髪っぽくなってしまった。ファルマンなんかは、「それでも普通の茶髪とは微妙に違うよ」と言うのだけれど、それは妻であり、さらには髪染め作業をしてくれた本人だから、その微妙さを感じ取るのであって、世の中の大半の人は僕の頭を見て、「茶髪だなあ」と思うに違いないと思う。だとすれば、実際にはハイブリーチとヘアカラーという、強いダメージをふたつ頭皮へ見舞わせたというのに、その結果たどり着いた場所は、やさしめのブリーチを1回しただけで来られる場所だった、ということになりはしまいか。もしかして僕は、とんでもない愚行をしてしまったのではないか。未来の自分へ顔向けできない行為をしてしまったのではないか。しかし未来の自分が禿げているのだとすれば、それは申し訳なさとは別の理由で、そんな自分には顔を向けたくない、と思う。禿げたらウィッグを着けるよ。カツラじゃないよ、ウィッグだよ。

 レモンサワーがおいしい。EXILEじゃあるまいし、普段そこまでレモンサワーを愛好しているわけではないのだけど、近ごろはすがるようによく飲んでいる。こんなにおいしい飲み物がこの世にあるのかよ、と飲むたびに感じる。
 ビールももちろん飲み、おいしいな、と思うのだけど、今はレモンサワーが勝っている。たぶんこれは、ビールがソフトクリーム、レモンサワーがかき氷ということなのだと思う。マーケティングの話で、もちろん正確な数字は忘れたけれど、気温が30℃とかを超えるとソフトクリームよりかき氷が売れ出す、というのがあるだろう。あの現象と同じことが起っているのだと思う。あまりに暑いと、麦芽のうまみとかマジでどうでもよくて、今にも凍りつきそうな柑橘系という、ものすごく単純な快楽しか受容できなくなってしまうのだ。
 そのくらい暑い。バカかよ、と思う。年々暑くなって、年々エアコンの稼働が増える。人類はもう長く持たないのだろうとしみじみと思う。

 ようやく切れていたプール会員の再申し込みをした。
 これまでの会員期限が切れたタイミングと、1年でいちばんプールが混むタイミングと、1年でいちばん体力が減退しているタイミングが、見事にバッティングしてしまったため、かなり再入会の踏ん切りがつかずにいたのだが、先日えいやっとやってきた。
 というわけで、その日以来、平日の退勤後も含め、ちょいちょい泳いでいる。しかし半月ぶりくらいに泳いでびっくりしたのだけど、体が重いこと重いこと。日常の中でも、いまの時期は暑さでへとへとになるなあ、というのはもちろん感じるけれど、水の中に入って泳ごうとすると、その事実がとても鮮明に、如実に分かる。ふだんに較べ、俺はこんなにも低いHPで生きていたのか、ということを実感させられる。
 それでも泳ぐのはやっぱり気持ちがいいので、体力をさらに失わない程度に、リフレッシュにちょうどいいくらいの度合で、泳ぎにいこうと思う。
 ところでオリンピックの自由形のレースを見ていたら、あの人たちはもう、上半身はほぼ水中にないくらい、むさぼるように前に進んでいて、すごいなあと思った。ちょっと真似してみようと思ってやってみたが、ぜんぜん体は持ち上がらなかった。ファルマンに話したら、「あなたはウナギみたいに泳いでいればいいのよ」と言われ、なんとなく屈辱的だな、と思った。

2024年8月3日土曜日

タイトル・K・はたらくくるま

 戸田恵梨香が主役をやった朝ドラってなんてタイトルだったっけ、とふと気になった。なんだかんだで全編観たのに、タイトルだけがすっぽりと記憶から抜け落ちているのだった。
 2日ほど思い出そうとがんばったが、出てこない。仕方なくファルマンに相談する。林遣都が出ていたこともあり、ファルマンももちろん観ていた。ところが、「えっ、なんだっけ……」と、僕と同じように出てこない。
「なんかカタカナで、4文字か5文字くらいで、「カー」とかが入ってた気がする」というところまで、おぼろげにイメージできているのだが、ふたりともそこから先が出てこない。「「カーネーション」とか「スカーレット」とかが邪魔するんだよ!」と、次第にイライラしてくる。
 数十分悩んだ挙句、降参して、ネットに頼ることにした。
 そして正解を目にし、思わず「えっ」と声を上げた。
「スカーレット」だったのだ。
 それが出てくるせいで正解にたどり着けないと忌々しく思っていたものが、実は正解だったという、こんなパターンは初めてで、てっきり正解を目にした瞬間に、バチンッと蒙が啓けたような快感があるだろうと期待していたので、なんとも言えない気持ちになった。しかし自分たちの脳細胞への猜疑心が湧く一方で、なんかあのタイトルはあまりにもふわふわし過ぎだったのではないかな、とも思った。

 ポルガが、同じ部活動の同級生男子であるKの話ばかりする。Kとは部内での役割が同じということもあり、物理的に距離が近いことに加え、話もやけに合うらしい。そのため、「Kが……」「Kがね……」と、Kのエピソードがとても頻繁に出てくる。
 日々それを聞かされながら、もちろん内心では若干の違和感を抱いていた。なんでこいつは親に、こうも屈託なく異性の話をするのか。思わず何度か「えっ、ちなみにKのこと好きなの?」と訊ねそうになったが、どうもそれを言ったら軽蔑されそうな気配がするぞ、と察知して吞み込んだ。
 しかしポルガは実家でもKの話を披露するそうで、それを聞いた叔母、つまりファルマンの上の妹は、やはり僕と同じように、「あれってなに? Kのこと好きなの?」と気になって、ファルマンに確認してきたらしい。
 そうだよね! あんなに愉しそうに異性の話をするのって、それって絶対に好きってことじゃんね! と安心した。安心したが、やっぱり本人には確認できないし(必ずしなければならないわけでもない)、また頭のどこかで、しかしこれは古い時代の発想なのかもしれない、明石家さんま的思考かもしれない、という推察もあるので、余計に疑念を大っぴらにできず、結局「そうか」とだけ相槌を打ち、鷹揚なふりをして、ただ受け流している。
 なにしろあれらは、半ばオートメーションで個人と個人のコミュニケーションが可能なツールを得ている世代である。われわれの時代は、連絡先を知るということは、それすなわち特別な感情があるということだった。スタート地点が違う。まるで舞空術ができないのにスーパーサイヤ人になれる悟天のようだ。 
 でも簡単につながって、とりあえずダベるのが愉しかったら、なんかもう、あえてそこから先を目指す必要もないという発想になりそうで、こいつらはいったいどのタイミングで、もどかしい恋愛感情に胸を焦がすのだろう、と思った。古い。

 音楽のサブスクでポンキッキのCDを見つけ、聴いたら、感動してしまった。
 特に「はたらくくるま」がよかった。のこいのこが唄う1もよかったし、子門真人が唄う2もよかった。僕は子どもの頃から、車は別にぜんぜん好きではなかったので、テレビで視聴していた当時、特別この歌が好きだったということはなかったはずだが、それでも猛烈な懐かしさがあったし、なにより当時の、少年時代の自分を取り巻いていた世界のきらめきのようなものが象徴されているような気がして、激しく刺さったのだった。
 ポンキッキの放送は、1973年~1993年だそうだ。つまり僕が10歳までは放送されていた。奇遇にもだいたい氷河期世代あたりが、子どもだった頃にポンキッキを観ていたということになる。朝8時。それは放送時間であると同時に、長い目で見れば、われわれがポンキッキを観ていた人生の時間帯であるとも言える。人生の朝8時、1日が始まったばかりで、これからなんでもできる希望に満ち溢れた時間。そこへ、のこいのこ及び子門真人の、張りがあって伸びやかな清々しい声が、痛快に響く。たまらない。いろんな車があるんだな、いろんなお仕事あるんだな。そう信じていた氷河期世代の子どもたち。本当にたまらない。
 最近はよく通勤の車で大音量で聴いている。逆に病んでいるのかもしれない。